2023.05.28 (Sun)
第402回 日曜夜11時、バッハを愛する自閉症のアストリッドに声援を

▲右が自閉症のアストリッド。左が猪突猛進のラファエル。(NHK番組HP~「壁紙」)
昨年夏、NHK総合で日曜日夜11時から放送されていた、『アストリッドとラファエル 文書係の事件録』をはじめて観たときは、ちょっと驚いてしまった。
フランスの刑事ドラマで、主人公は2人の女性コンビである。
1人は少々ガサツで猪突猛進のパリ警視庁・刑事、ラファエル・コスト。シングルマザーだが、息子の親権は元夫にあるので、時々しか会えない。TVドラマにしては珍しい、なかなかのドスコイ体形である。
もう1人のアストリッド・ニールセンはガリガリ体形。パリ警視庁・犯罪資料局の文書係に勤務しており、犯罪調書などの整理が仕事である。
驚いたのはこのアストリッドのほうで、彼女は「自閉アスペルガー」なのである(autiste asperger…本国の番組HPより。Wikipediaでは「自閉スペクトラム症」)。日本の告知宣伝では「論理的」「几帳面」とされているが、そんな生易しい状況ではない。
この病気について、あたしに正確な知識はないのだが、このドラマで見るかぎり、「ひとの目を見て話せない」、「手つきに落ち着きがなく、指が常に動いている」「パズルが得意で、いつも手にしている」、「予定外の行動をとることが苦手」、「他人に触れられたくない」……なので、通常の社会人生活はおくれないようである。
定期的に「自閉症友の会」に通って、おなじ病気のひとたちと交流している。
彼女は、1日中、資料室の奥で1人で資料を整理している。
子供のころに自閉症と診断されて以来、一般社会での生活が困難とあって、早逝した父親(警察官)にかわり、友人の犯罪資料局長官が後見人となった。そのおかげで、いまは、ひとと接する必要のない文書係で働いている。天涯孤独で病を抱えながら。
演じている女優、サラ・モーテンセンは、異様なまでに目を見開きながら、たいへんな名演をみせる。
最初は「これを地上波の全国放送で流して大丈夫なのか?」と思ったほどだった。
だが、その一方で、記憶力・分析力は抜群で、犯罪資料を整理しているうちに、廃棄された記録まで記憶してしまう。パズルが得意なだけあって、別個の資料を組み合わせて新たな推論を提示する。
そんな彼女が独自分析をラファエルに教示しながら、2人で怪奇事件を解決に導くのである。
(なぜかこのドラマでは、『怪奇大作戦』のようなオカルトっぽい事件ばかりが起きるのである)
誰もが観ているうちに、次第にアストリッドを応援したくなるはずだ。
ラファエルと親しくなるにつれ、彼女の助けで次第に社会復帰できそうになるところも見逃せない。ちょっと同性愛っぽい感じなのも、いかにもいま風だ。
(ちなみに「ラファエル」の名は、キリスト教三大天使のひとりで、病人の守護天使の名でもある)
だが、音楽ライターのあたしが本作を紹介する理由は、他にある。
アストリッドは、バッハを愛好しているのである。
それは、昨年放映された、第1シーズン最終回「五線譜の暗号」で明確になる。
アストリッドは、なぜバッハが好きなのかをラファエルに話す(他人に自分の過去を話すこと自体、異例である)。
子供のころ、父親にバッハ《フーガの技法》を教えてもらい、好きになった。バッハには、パズル的な魅力があるので…。
そして、おなじみ怪奇事件が発生する。この最終回では、なんと、アストリッドが連続猟奇殺人犯に誘拐されてしまう。ひとに触れられることがダメな「自閉症」の、天涯孤独の女性が、拉致され、縛られて監禁されるのだ。
この回は、観るのがつらいほど、アストリッドが可哀想な目にあう。
だが、アストリッドは、ある暗号で、犯人の名を残していた。それは、バッハにまつわる暗号で、しかも《フーガの技法》とくれば、音楽ファンにはもうおわかりだろう。
だが、ここで重要なのは、彼女がバッハ好きであることを知っているのは、ラファエルだけである点だ。果たしてラファエルは、彼女のバッハ好きを思いだしてくれるだろうか(何しろ、ガサツな性格なので)。
そして、暗号を解読できるだろうか。
これが第1シーズンの最終回だった。
おそらく好評だったのだろう。5月21日から第2シーズンの放映がはじまっている。ここでは、アストリッドが後見人なしで、独立して生きていくところから物語がはじまっている。
(アストリッドの吹き替え=貫地谷しほりが、なかなかいい。「あ」と言葉が詰まるところなど、不思議な魅力がある)
本国フランスでは、平均視聴占拠率が27%に達し、第4シーズンに入っている国民番組らしい。
日曜夜11時、ぜひバッハ好きな自閉症のアストリッドに、声援をおくってあげてください。
□『アストリッドとラファエル 文書係の事件録』NHKの番組HPは、こちら。現在、シーズン2を放映中。
□第1シーズンが、アマゾン・プライム・ビデオで配信中(上記、第10話「五線譜の暗号」も見られます)。ほかにU-NEXTなどでも配信されています。
2023.05.14 (Sun)
第401回 これが、話題の映画『TAR/ター』のネタ本?

▲『指揮者は何を考えているか 解釈、テクニック、舞台裏の闘い』(ジョン・マウチェリ、松村哲哉訳/白水社刊)
映画『TAR/ター』が公開された。
ベルリン・フィルの女性首席指揮者役を、名優ケイト・ブランシェットが怪演・熱演し、米アカデミー賞で主演女優賞を含む6部門にノミネートされた注目作である。
ケイト自身が実際にオーケストラ(ドレスデン・フィルハーモニー)を指揮してマーラーの5番を演奏するほか、実在のアーティスト名やエピソードが続々登場し、いままでの音楽映画とは一線を画すド迫力である。
あたし自身、デイリー新潮の記事で解説したので、内容の詳細はそちらをご笑覧いただきたいが、トッド・フィールド監督のインタビューによれば、指揮者のジョン・マウチェリ(1945~)にブレーンとしてかかわってもらったらしい。映画スタッフとしても「music advisor to filmmakers」として、正式にクレジットされている。そして監督は「名高い指揮者であるジョン・マウチェリの本が、正しい方向へと導いてくれた」(プレス資料より)と語っている。
その「本」とは、なにか。
マウチェリは数冊の著書を上梓しているが、おそらくなかでも重要なインスピレーションを得たと思われるその本が、すでに2019年6月に、邦訳で出ている。
『指揮者は何を考えているか 解釈、テクニック、舞台裏の闘い』(ジョン・マウチェリ、松村哲哉訳/白水社刊)である。原著は2017年刊で、原題は“Maestros and Their Music: The Art and Alchemy of Conducting”(マエストロたちと彼らの音楽:指揮の芸術と錬金術)。
あたしは不覚にもこの本で著者をはじめて知ったのだが、アメリカでは古くから活躍している指揮者らしい。バーンスタインと長く仕事をしてきたようで、ほかにハリウッド・ボウルの指揮をつとめたほか、ミュージカルや映画音楽の仕事も手がけている。
で、本書に何が書いてあるかというと、はっきりいって、全編が、クラシック界の指揮者職業にまつわる〈ゴシップ〉である。いわゆる〈裏話〉によって、指揮者なる職業を半ば戯画的に描く本だ。しかしよくまあ、これほどのゴシップを集めた(見て聞いている)ものだと感心する。
たとえば、不仲といわれたカラヤンとバーンスタイン。カラヤンのザルツブルクの自宅で2人がランチを共にしたとき、どんな会話が交わされたかを、この著者はバーンスタインから聞いている。「ヘルベルトは本を読んだことがあるとは思えないね」と言っていたそうだ。
また、バーンスタインは、マーラー9番の、細かい演奏指示を書き込んだ全パート譜を持っていた。初めて(そして生涯で唯一の)ベルリン・フィルを指揮したとき、そのパート譜を使った。ところが、
バーンスタインのニューヨーク事務所は、再三にわたり電話と手紙でパート譜を送り返すようベルリン側に要請した。数か月経っても楽譜は戻ってこなかった。その後まもなく、カラヤンはマーラーの交響曲第九番をベルリン・フィルと録音して英グラモフォン賞を受賞した。やっとパート譜がベルリンから返還されたとき、バーンスタインは、カラヤンが自分の書き込みを参考にして演奏と録音を行なったに違いないと確信した。そして、このような出来事を公にすべきだと思ったのである。
この2つのベルリン・フィルによるマーラー9番は、レコード録音史を語るうえで欠かせない名盤(いや、問題盤?)として知られている。
ほかに、音楽史のゴシップも大量に登場する。
本物の指揮者とは言いがたい作曲家が指揮する場合は、自作の複雑なリズムをうまく振り分けられない事態も起こりうる。ストラヴィンスキーは『春の祭典』の終曲「生贄の踊り」をうまく指揮できたためしがなかったので、拍子を正確に刻めるよう楽譜を書き換えてしまった。一九一三年に作曲したとき、どういう音楽を書きたいかはわかっていたが、その書き方がよくわからなかったというのである。
この〈改定版〉は、のちの校訂版で、もとにもどされたという。
余談だが、あたしは、中学・高校・大学時代の約10年間、黛敏郎が企画・司会をしていたTV番組『題名のない音楽会』の公開録画の大半に通った。なかでも上記と似たような内容の回があったのが忘れられない。全編変拍子で有名な《春の祭典》の楽譜を、単純な「4分の4拍子」に書き換えてオケ団員に配り、指揮者(岩城宏之だったと思う)は、ただ4拍子を振る。それで果たして演奏できるかどうか、本来の《春の祭典》に聴こえるかどうか——こういう、前代未聞の実験がおこなわれたのだ(なんとなく演奏はできたが、やはりヨレヨレしていて、本来の《春の祭典》とはほど遠かった記憶がある)。
かように本書は、(あたしを含む)ある種のひとびとにとっては、まことに垂涎のゴシップ集なのだが、一般の音楽ファンにはどうでもいい話で全編が埋まっているのである。
しかし、先述のように、映画『TAR/ター』のバックボーンの参考になった部分があると思うと、また読み方も変わる。
生涯、マーラー《復活》のみを指揮しつづけたアマチュア指揮者のエピソード。
(略)もうひとりの人物の追悼記事は、経済誌の創刊者として巨万の富を得た実業家で、楽譜の読み方などほとんど知らないギルバート・キャプランという人物に関するものである。(略)法律を学び、ニューヨーク証券取引所で働いた。一九六五年にレオポルド・ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団は演奏するマーラーの交響曲第二番『復活』を聴き、その虜になった。
そして自分の会社を売って同楽団に多額の寄付をして理事長になり、《復活》のマーラー自筆譜と指揮棒を入手して、数人のプロについて〈指揮のしかた〉を学び、
そして一九八二年、アメリカ交響楽団を雇い、リハーサルを行なったうえで、リンカーン・センターのエイヴリー・フィッシャー・ホール(現デヴィッド・ゲフィン・ホール)に招待客を集め、その前で『復活』を指揮したのだった。
(略)コンサートを聴いた招待客はその見事な演奏に感激したが、キャプランにとって、これは始まりにすぎなかった。さまざまなオーケストラとの『復活』の演奏回数は百回を数え、ロンドン交響楽団やウィーン・フィルとは録音も行なった。
映画をご覧になった方は、もうおわかりだろう。
最初の方で、リディア・ターが、レストランで実業家らしき男と会っているシーンがある。
本書で紹介された、ギルバート・キャプランがモデルと思われる。
かように、映画『TAR/ター』は、これらマウチェリの著書を参考にし、いままでの音楽映画にはない、リアルな設定を実現したようだ。
本書は〈ゴシップ〉集ではあるが、マウチェリ自身の仕事ぶりのアピールも大量に含まれている(よって、自己宣伝本のように感じる読者も多いかもしれない)。
彼は、最近大流行の「映画音楽コンサート」指揮者の先駆けで、開拓者でもあった。スクリーンの映像にあわせてナマ演奏をピッタリ合わせるには、それなりの技術が必要で、回を重ねるごとにデジタル新技術を積み重ねてきた、その過程が語られる。
この記述が、映画『TAR/ター』の、あの〈衝撃のラスト〉の参考になったような気もする。
なお、これはすでに報道でおおやけになっている事実だが、近年、ノースカロライナ大学芸術学部の元学生たちが、長年にわたって、複数の教員から性的虐待を受けたとして、告発する騒ぎが発生している。その被告のひとりに、このジョン・マウチェリもいるようである。
映画『TAR/ター』のなかでも、教え子がらみの〈告発〉シーンがあるが、まさかこれもマウチェリが元ネタなのだろうか。
<敬称略>
◆『指揮者は何を考えているか 解釈、テクニック、舞台裏の闘い』(ジョン・マウチェリ、松村哲哉訳/白水社刊)は、こちら。
◆映画『TAR/ター』公式サイトは、こちら。
◆デイリー新潮「話題の映画『TAR/ター』を完全制覇するための5つのポイント」は、こちら。
2023.05.11 (Thu)
第400回 演劇ファン必見だった、今年のイタリア映画祭

▲イタリア映画祭の開会式に登壇した豪華ゲスト陣(5月2日、有楽町朝日ホールにて/筆者撮影。以下同)
毎年、GWに開催されているイタリア映画祭は、今年で23回目となった(5月2~7日)。
ここ数年はコロナ禍の関係もあって、変則的な開催だったが、ようやく本年は、有楽町朝日ホールでのリアル上映となってゲストも多数来日、本来のスタイルにもどった。
あたしは全14本中、7本しか観られなかったが、偶然、ノーベル文学賞受賞の劇作家、ルイジ・ピランデッロ(1867~1936)を題材とした映画が2本あった。舞台出身のゲストも多かった。演劇ファンにとっては興味津々の年だったわけで、簡単にご紹介しておきたい。
『遺灰は語る』(原題:Leonora addio/パオロ・タヴィアーニ監督)は、そのピランデッロの〈遺灰〉をめぐる物語である。
監督は、『父 パードレ・パドローネ』『サン★ロレンツォの夜』『カオス・シチリア物語』などで知られる世界的巨匠コンビ、タヴィアーニ兄弟の弟だ。2018年の兄ヴィットリオの死後、初めての単独監督作となる。冒頭に「兄ヴィットリオに捧げる」との献辞が出た。
冒頭は、ピランデッロのノーベル賞授賞式でのリアル映像。やがてピランデッロの死後、〈遺灰〉をめぐって珍妙な出来事がつづく。ムッソリーニは人気獲得のために派手な葬儀にしようとするが、作家は「遺灰は故郷シチリアへ」と遺言していた。その後も予想外のトラブルに見舞われる。大作家の遺灰は、いつになったら故郷におさまるのか。
……と綴ると、ブラック・コメディを想像するかもしれないが、これが一筋縄ではいかない、一種のアート・フィルムなのであった。
90分の尺だが、ラスト30分は、突如、ピランデッロの遺作短編『釘』のドラマ映像となる。不条理劇で知られる大作家だけあり、このドラマもまことに不条理。結局、映画全体でピランデッロの不条理世界をあらわしたような不思議な作品だった。前半がモノクロで、後半カラーに遷移するシーンは絶妙な美しさである。
上映後、パオロのネット中継インタビューがあるはずだったのだが、体調不良で中止となった。満91歳だけに仕方ないが、少々残念だった。
もう1本の『奇妙なこと』(原題:La stranezza/ロベルト・アンドー監督)は、そのピランデッロの、あの代表作がいかにして生まれたかを描く、いわば〈名作誕生秘話〉である。
ピランデッロが、師匠にあたる大作家、ジョヴァンニ・ベルガの誕生日祝いをかねて、ひさびさに故郷シチリアに帰ってくる(ちなみにこのベルガとは、マスカンニのオペラで有名な《カヴァレリア・ルスティカーナ》の原作者である)。
ところが偶然、子供時代に面倒を見てくれていた乳母の死に立ち会うこととなり、2人の墓堀人(いまでいう葬儀会社員)と知り合う。実はこの2人、町の素人劇団の主宰者で、大の芝居好き。葬儀の依頼人がピランデッロだとは夢にも思わず、自分たちの公演に招待する。ピランデッロが、そこで観たものは……。
半年後、ピランデッロは、ローマで新作を初演する。その初日に、墓堀人2人が招待された。演目は『作者を探す6人の登場人物』!
ここまで書けば、演劇好きや、カンのいい方は想像がつくだろう。あの不条理劇の傑作が、どうやって生まれたかが描かれるのだ。
むかしながらのイタリア喜劇のテイストもあり、アンドー監督お得意の、娯楽と文芸が混然となった物語が展開する……のだが、内容はまったくのフィクションだという。
だが、たしかにああいうことがあったから、こういう芝居が生まれたのだといわれると、なるほど、そういうものかと思わないでもない(何をいっているのかわからないと思うが、これを書くとネタバレになるので、お許しを)。
ちなみに、元ネタとなった『作者を探す6人の登場人物』は、知っているに越したことはないが、知らなくても楽しめるように、ちゃんとつくられているので、(もし日本公開されたときは)あまり気にせず観て大丈夫だと思う。

▲右から、ロベルト・アンドー監督、トニ・セルヴィッロさん、ジュリア・アンドーさん、そして、毎年、すばらしい通訳と進行でおなじみの本谷麻子さん。
上映後のトーク・ゲストは豪華だった。
監督・脚本のロベルト・アンドーさん、その娘で助演女優のジュリア・アンドーさん、そして主演のトニ・セルヴィッロさんの3人が登壇した。
アンドー監督によれば「イタリアでは〈ピランデッロ的な〉といった言葉がふつうに使われています」とのことだった(おそらく〈理屈に合わない〉といったニュアンスだと思う)。このような不条理劇の作家を題材とする一般映画が、当たり前のように制作公開されているイタリアは、まことに大人の国に思えた。
まさか本人を目の前で見られるとは思わなかった、ピランデッロを演じた世界的名優、トニ・セルヴィッロさん(1959~)は、もともと演劇畑のひとである。1990年代に入ってから映画にも出演するようになり、ヨーロッパで数えきれないほどの「賞」を獲得している。
開会式のあいさつでは「私たちは、小津安二郎や手塚治虫から多大な影響を受けています。その国に、初めて来られて感激しています」と語っていた(そういえば、このひと、「お茶の水博士」に似てないか)。
あたしは行けなかったのだが、短い滞在期間の間に、イタリア文化会館で、朗読劇『ダンテの声』(モンテサーノ作)を上演していた。このひとは、あたしとほぼ同年だが、そのバイタリティには頭が下がる。

▲トニ・セルヴィッロさんの朗読劇『ダンテの声』
舞台出身といえば、もうひとり、『ノスタルジア』(原題:Nostalgia/マリオ・マルトーネ監督)と、『乾いたローマ』(原題:Siccita/パオロ・ヴィルズィ監督)の2本に助演出演した、トンマーゾ・ラーニョさん(1967~)も来日登壇した。
ギリシャ悲劇やシェイクスピアなどの古典舞台に多く出演し、2000年代に入って映画やTVの仕事が増えたひとである。
『ノスタルジア』では、短い出番ながらナポリのチンピラ組織の親分を見事に演じ、イタリア最古の映画賞「シルバーリボン」で助演男優賞を受賞した。
トークによれば、その『ノスタルジア』での独特な演技は、なんと、黒澤明『蜘蛛巣城』(原案はシェイクスピア『マクベス』)における三船敏郎を参考にしたという。
サービス精神旺盛なラーニョさん、実際にその演技を見せてくれたほか(たしかに、三船はそういう演技をしていた!)、この映画における人物の動きがいかに素晴らしいかを、舞台上で再現してくれた。
あたしも『蜘蛛巣城』は何度も観てきたが、なるほど、海外の演劇人は、そういうところを観ているのかと、かえって勉強になった。

▲三船敏郎の演技を再現する、トンマーゾ・ラーニョさん。

▲『蜘蛛巣城』冒頭がいかにすごい演出かを、舞台端まで使って自ら演じながら解説。
それどころか、昨日は鎌倉まで行って、小津安二郎の墓参りをしてきたという。黒澤や小津の国に来られて、うれしくてたまらないといった様子だった。
「小津の墓石には〈無〉(nullo)とだけ彫られていました。なのに、まわりは、お酒のボトルだらけで、全然〈無〉ではありませんでした」
こういうユーモアも、イタリアにはかなわないなあと思うと同時に、イタリア人に黒澤映画のポイントを教えてもらっているようでは、あたしもまだまだだなと、反省の日々となったGWでありました。
◆イタリア映画祭2023は、こちら。
◆映画『遺灰は語る』は6月23日より日本公開が決まっています。HP/予告編は、こちら。
◆映画『奇妙なこと』予告編は、こちら。
◆映画『ノスタルジア』予告編は、こちら。
◆映画『乾いたローマ』予告編は、こちら。
2023.05.07 (Sun)
第399回 【新刊紹介】「どこにも売っていない」CD294タイトルを紹介する、前代未聞のガイドブック

▲『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)
※リンクは文末に。
いまや音楽は、「音盤」(CDなど)で聴くものではなくなりつつある。配信、ストリーミング、ダウンロードが主流となり、音盤を手に取る楽しみは、少なくなった。
これはクラシックも例外ではない。聖地「タワーレコード渋谷店」など、かつては7階すべてがクラシック売場だった。それがいまではジャズやクラブ音楽などに浸食されて半分弱ほどとなり、風前の灯である。
先日には、老舗専門誌「レコード芸術」が休刊するとのニュースも伝わった。
レーベル(レコード会社)も、続々と消滅した。PhilipsやEMIといった名門レーベルは、いまや存在しない。
こうなると困るのは世界各地のオーケストラだ。いままで音盤ですこしは副収入になったし、名刺代わりで名前をアピールできた。だが、レコード会社はもうないし、あってもクラシックには力を入れてくれない。売場もない。
古参のファンには、配信でベートーヴェンやマーラーを聴くことをよしとしないマニアも多い。
そこで昨今、オーケストラが独自に音盤をつくってリリースするようになった。
たとえば、いまはなきPhilipsで多くの名盤をリリースしてきたロイヤル・コンセルトヘボウは〈RCO Live〉レーベルを設立した。これはあたしも大ファンで、マリス・ヤンソンス指揮のマーラーなど、ずいぶん聴いたものだ。ジャケット・デザインも清冽だった。
ほかにもロンドン交響楽団の〈LSO Live〉、その名のとおり〈New York Philharmonic〉、イスラエル・フィルの〈helicon classics〉など、続々と登場した。ネット通販の時代になり、音盤を店頭以外で簡単に売ることができるようになった点も幸いした。
こういった音盤を、「自主制作盤」と呼ぶ。
そして、今回ご紹介する本、『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)は、そういった世界各地のオーケストラがリリースしている「自主制作盤」のガイドブックなのだが、これが尋常な内容ではない。単なる「自主制作盤」ではなく、「レア自主制作盤」なのだ。
いったい「レア自主制作盤」とは、何なのか。
本書中から、典型的な「レア自主制作盤」の紹介文をあげよう。
中身は、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルほかによる、バッハ《マタイ受難曲》(1997年ライヴ)である。
ドイツ銀行傘下のドイチェ・アセット・マネジメントが株主や投資信託購入者へのギフトとして配布した音盤だが、同じものがザルツブルク・イースター音楽祭のパトロンへのギフトや、ドイツの製薬会社シェーリングが株主や医師などのギフトとしても流通していた。ジャケットも全て同じで、企業ロゴのみ違っていた。これは、ムジコムがベルリン・フィルから音源を買い取り、多くの企業へ同一音源を提供していたことを示すものであるが、(略)
つまり、一般ファン向けではなく、スポンサーや関係者など特定顧客のために制作された音盤なのだ。ゆえに一般流通しておらず、ほぼどこにも売っていない音盤ばかりで、ゆえに「レア」なのだ。
本書は、そんな「どこにも売っていない」レア自主制作盤ばかりを紹介する前代未聞のガイドブックである。
しかし、「どこにも売っていない」ものを紹介されたって、聴くどころか、目にすることもできないわけで(だから「前代未聞」なのだが)、そんなガイドブックが面白いのか、何の役に立つのか、疑問に思う方も多いだろう。
これが、とんでもなく、すさまじく面白いのだ。なぜなら本書は、音盤ガイドの体裁をとりながら、世界のクラシック・オーケストラや指揮者たちの歴史と現状を検証・紹介し、結果として戦後の世界クラシック界を俯瞰する、貴重な記録集になっているのである。
登場する国・地域は、「ドイツ」「オーストリア」「スイス」「オランダ」「イタリア」「その他欧州/中東」「アメリカ/カナダ」「オーストラリア/ロシア/アジア諸国」の8章構成。
オーケストラ総数は、なんと「102」団体(日本も13団体ある)。
とりあげられた音盤は294タイトル(すべてジャケット画像つき)。
本文部分780頁超のボリュームである。
なかでも多いのはやはりドイツで、最多の44団体が登場する。
ベルリン・フィルやバイエルン放送響などといった有名どころはいうまでもなく、「ブラウンシュヴァイク州立管弦楽団」なんて団体が登場する。あたしが知らなかっただけかもしれないが、1587年創設で、世界最古のオーケストラの一つだという。
紹介される音盤はヨナス・アルバー指揮のシューマン交響曲全集である。はじめて聞くこの指揮者は1969年生まれで、29歳で《ニーベルングの指環》を上演して大反響を巻き起こしたという。こういった解説も、微に入り細にわたっている。
ドイツの地方オケとは思えないほど、音色は明るく、しかもアンサンブルは精妙に整えられている。(略)いずれの作品でもオーケストラの鄙びた音色が郷愁を誘う。こうした音色が失われないことを切に願うばかりだ。
そのほかドイツでは「ワイマール・フランツ・リスト音楽大学管弦楽団」「デトモルト音楽大学管弦楽団」といった大学オーケストラの音盤も登場する。
「シカゴ交響楽団」が、ショルティ指揮でニールセンの交響曲第1番を出しているのには、驚いてしまった。
カナダの「ウィニペグ交響楽団」の音盤は、1959年ライヴの歴史的録音。若きグレン・グールドが弾く、ブラームスのピアノ協奏曲第1番だ。著者は、この項のタイトルを〈ロマンティストのグールドが異端児へ転身するドキュメントを聴く〉と題している。
(略)それほどこの演奏はピアノと激しく格闘し、オーケストラの奏でる雄大な音楽と対峙しようと、もがき苦しんでいる。そして、その結果は無残である。(略)恐らく、この演奏を通してグールドは、その繊細な精神を大きく傷つけられたのではないか。それが後年のバーンスタインとの演奏(富樫注:1962年)で聴かせる、スロー・テンポで抒情性に富んだ尋常ならざる演奏へ繋がったのではないか。ウィニペグでのコンサートが、グールドの大きな転機となったように思えてならない。
このように、紹介される音盤は、すべてが名演というわけではない。
たとえば旧ソ連出身のユーリ・シモノフ指揮、スロヴェニア・フィルハーモニーによる、ベートーヴェンの《田園》だが(1994年ライヴ)、これがあまりに緩く遅いテンポの演奏で、著者は〈高揚感がほとんど感じられず、ひたすら音が拡散していくだけの「田園」。緩さの極致を示す「田園」〉と容赦ない。
しかし、そのあとで、こう結んでいる。
シモノフがここまでして描きたかったものは何なのか。もちろんベートーヴェンが感じた田園風景であるわけはない。恐らくシモノフの生まれ故郷であるロシアのサラトフの広大な光景を描き出そうとしたのではないか。しかもサラトフの地名は「黄色い山」、すなわち砂山に由来する。広大な砂地によって作られた変化に乏しい故郷の風景。緩い音楽が延々と続くのもやむを得ない。
実は本書の魅力は、こういう書きぶりにもある。この著者は、どんな音盤であろうと、どこかに存在価値や貴重性を見出し、愛情をもって紹介してくれるのだ。
だから、読んでいて、とても気持ちがいい。音盤を貶めるような記述は、一切ない。マニア特有の〈俺は知っているぞ〉的なタッチもない。〈世界のオーケストラ戦後史〉を自然と学んだような気になる。
そして、世界には、こんなにたくさんの、無名ながら実力のある指揮者とオーケストラがあり、どこも自主制作盤をつくってがんばっていることを知らされ、そのこと自体にも感動をおぼえる。
いったいこの著者は何者なのか。
略歴によると、1961年生まれの音盤蒐集家で、大学卒業後、外資系製薬会社に勤務しながら音楽を愛好、音盤を蒐集しつづけたという。あたしと、ほぼ同世代だ。いまは定年退職し、〈音盤聴き放題の悠々自適生活に突入〉しているらしい。次回作が楽しみだ。
本書の版元「DU BOOKS」とは、中古CDの買い取り・販売大手「ディスク・ユニオン」のレーベルである(いま、もっとも面白い音楽本を続々出している版元)。なぜ本書がそこから出たのかは、エピローグに記されている。あたしも、長く編集の仕事をやってきたが、なるほど、こういうことから生まれる本もあるのかと、これまた感動してしまった。
しかし、この著者は、これら大量の「売っていない音盤」をどうやって入手しつづけたのか、あまり詳しく記していない。読み落としているのかもしれないが(なにしろ大部なので!)、その苦労話にも、面白いエピソードがあるのではないか。
なお余談だが、本書の「レア自主制作盤」のなかには、中古市場に出回っている音盤もある。
たとえば先に紹介した、アバドの《マタイ受難曲》などは、本書で〈これほどの演奏がソニー・クラシカルやドイツ・グラモフォンからリリースされないことに、クラシック音楽界の抱える大きな問題が垣間見える〉とまで書かれた名盤だけあって、一時期、ヤフオクやアマゾン中古などで、よく見かけたのを覚えている。
ただし、状態がよい音盤には「20,000円」前後の値が付いていたと思う。
さすがは「レア自主制作盤」である。
◆『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)は、こちら(目次や一部立ち読みもあり)。
※本稿は「本が好き!」にも投稿しています。
2023.05.06 (Sat)
第398回 【新刊紹介】かつてバレエ伴奏は「ピアノ」ではなかった! 驚きのバレエ史発掘本、登場

▲永井玉藻『バレエ伴奏者の歴史 19世紀パリ・オペラ座と現代、舞台裏で働く人々』(音楽之友社刊)
※リンクは文末に。
19世紀後半に活躍したフランスの画家ドガは、パリ・オペラ座の踊り子(バレリーナ)を多く描いた。かつて、バレエ音楽名曲集のLPレコードといえば、ジャケットはドガが定番だったものである。
そんなドガの絵を見ていて、むかしから気になることがあった。
レッスン風景の片隅に、必ず黒服を着た男がいるのである。どうも振付師ではなさそうで、たいてい偉そうにふんぞり返っているか、ヴァイオリンを抱えているかのどちらかだった。
後年、解説本などで知ったのは、この男は少女のパトロン、もしくは少女たちを〈値踏み〉に来た金持ちだという。この当時、貧しい家の少女は、踊り子となって肉体の線を強調し、自分を買ってくれる男たちを探していたのだという。
では、ヴァイオリンを抱えた男は何者なのか。レッスン室の隅で、なぜヴァイオリンなど弾いているのか。これは、長いこと、よくわからなかった。
(上記、カバー絵参照)
このたび、その疑問に見事に応えてくれる本が出た。
永井玉藻『バレエ伴奏者の歴史 19世紀パリ・オペラ座と現代、舞台裏で働く人々』(音楽之友社刊)である。
著者・永井玉藻氏は、西洋音楽史の研究家。パリ第4大学博士課程修了後も、フランスで研究を重ね、主に19~20世紀のフランス音楽研究、バレエやオペラを専門としている方らしい。
本書では、上記の疑問に、早くも冒頭の「序」で、ズバリ答えてくれる。
(略)一方、このバレエ教師と同じくらい頻繁に、ドガの画面に登場する当時のオペラ座関係者たちがいる。それは、ヴァイオリンやヴィオラといった、弦楽器の演奏者である。(略)/実は彼らこそが19世紀末までのバレエの稽古の伴奏者たちなのである。この時期まで、稽古伴奏を行っていたのはピアニストではなく、ヴァイオリンやヴィオラといった弦楽器の演奏者たちだったのだ。
これこそ「目からウロコが落ちる」である。もしかしたら、バレエ愛好者にとっては周知の事実なのかもしれないが、あたしは驚いた。
では、なぜバレエの稽古が「弦楽器」で行われていたのだろうか。そして、いつ、いかなる理由で、現在のようなピアノ伴奏に代わったのだろうか。
本書は、その理由と過程を、主にパリ・オペラ座に残された史料を徹底蒐集、分析解読することで、まるでミステリを解き明かすように解説してくれる真の労作である。
実はバレエ指導者とは、ある時期まで「楽器演奏者」でもあった。その「楽器」が管楽器だと口が塞がって口頭で指導できない。鍵盤楽器だといちいち演奏を中断して生徒のそばまで行かなければならない。だが弦楽器なら、演奏しながら生徒のそばへ行って、口頭でも指導できる。
そのため、舞踏教師は弦楽器が演奏できなければダメで、逆に弦楽器奏者はダンスを踊ることができた。
(略)《コッペリア》』の振付師として知られるアルチュール・サン=レオン(1821-1870)は、パガニーニに師事したヴァイオリン奏者としても知られている。彼は、自身が振り付けたバレエ《悪魔のヴァイオリン》の初演(1849年)でも、主役の一人として踊るだけでなくヴァイオリン演奏もこなしている。
本書には、そのサン=レオンが、本番の舞台上で踊りながらヴァイオリンを弾いている図版が紹介されている。
当時のバレエ・レッスン曲集はヴァイオリン用に書かれていた。しかも演奏しながら指導するため、負担が減るよう、開放弦を生かした調性の曲が多かった。中には、《フィガロの結婚》のアリアのような、当時の「ヒット曲」もあった。これらも図版入りで紹介されている。
往時のパリ・オペラ座では、オーケストラの第2ヴァイオリン奏者かヴィオラ奏者が、バレエ伴奏者も副業で兼ねていた。その勤務・給与明細も図版入りだ。
パリ・オペラ座には弦楽器伴奏用の譜面(レペティトゥール譜)が残されていて、「2段譜」になっている。一瞬、ピアノ譜かと思うが、これはヴァイオリンとヴィオラの2挺伴奏譜だそうで、19世紀のオペラ座では、常に2人の弦楽器奏者が伴奏していたらしいのだ。これまた具体的な図版が示され、映像ドキュメンタリのようなわかりやすさである。
やがて「弦楽器伴奏」は、現在のような「ピアノ伴奏」に代わるのだが、その過程、およびパリ・オペラ座における「最後の弦楽器伴奏者」と「最初のピアノ伴奏者」を突き止める過程は圧巻のひとこと!
はるか東洋の果ての一研究者が、よくぞ異国でここまでの調査取材を敢行できたものだと、絶大な感動に襲われる。
これほど興奮しながら読んだ音楽史本は、ひさびさであった。
(この著者は、ほかの題材でも、明快に面白く書けるのではないか)
本書は、単なる音楽史発掘本では終わらない。
ピアノ伴奏者の歴史や変化が、現代のバレエ界にどのように伝わり、影響を与えているかもちゃんと検証している。そのため、現在のパリ・オペラ座や新国立劇場のピアニスト、そのほか、日仏のダンサーや教師、オーケストラ団員など、かなりの数の人たちへのインタビューも含まれている。これらも、すこぶる興趣にあふれた内容だ。
(おそらくバレエ・ファンや生徒ならおなじみ、ウィーン国立歌劇場バレエ団の専属ピアニスト、滝澤志野さんも登場する)
あたしが本書でもっとも納得できたのは、プロコフィエフのバレエ《シンデレラ》の、第1幕第7曲〈踊りのレッスン〉(第2組曲だと2曲目になる)についての著者の考察だった。
この曲は、ヴァイオリン2挺が舞台上バンダで演奏する。あたしは、この部分について、いままで深く考えたことはなかった。せいぜい、舞踊会に行けないシンデレラの思いを表現しているのだと思っていた。しかし、本書を読んで、まったく見方が変わった。
(略)この編成の意図するところは、曲に対する室内楽的な雰囲気の付与というよりも、バレエ伴奏で伝統的に用いられていた「弦楽器2挺」という編成の引用だろう。すなわち、《シンデレラ》におけるこのヴァイオリンの用いられ方は、弦楽器のバレエ伴奏者という職業が、プロコフィエフと同世代のロシアの人々にも、ありし日のバレエの稽古を特徴付ける要素として考えられていたことを示しているのである。
本書は、バレエ音楽ファン、バレエ愛好者はもちろん、いわゆる「芸術」関係の「指導職」にある人も必読の一書である。
◆永井玉藻『バレエ伴奏者の歴史 19世紀パリ・オペラ座と現代、舞台裏で働く人々』(音楽之友社刊)は、こちら(冒頭立ち読みあり。ドガの絵も確認できます)。
※本稿は「本が好き!」にも投稿しています。