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2024.02.28 (Wed)

第448回 【歌舞伎/文楽/演劇】 国立劇場以外での、国立劇場主催公演

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▲(左から)歌舞伎正月公演、文楽12月公演、文楽2月公演パンフ。表紙には「国立劇場」とあるが、会場は、国立劇場ではない。

昨年10月、国立劇場が閉場した。歌舞伎や文楽は、とりあえず、以下の別会場で公演された。

歌舞伎→新国立劇場・中劇場(今後も、ここを使用するのかは不明)
文楽→シアター1010、日本青年館ホール(今後、新国立劇場・小劇場や文京シビックなど、ほぼ毎回変わる予定)

そのほか、歌舞伎鑑賞教室はサンパール荒川などで、文楽入門公演は有楽町よみうりホールなどで開催されるようだ。まさに、国立劇場は、さまよえる流浪のシアターと化したのである。

2月で、まず3か所での初公演が、ひととおり終わった。「国立劇場以外での、国立劇場主催公演」である。簡単に感想を記しておく。

◆新国立劇場・中劇場で観た「歌舞伎」正月公演
新国立劇場

約1000席(1・2階席)なので、いままでの国立劇場・大劇場(1610席)よりは小ぶりである。江戸時代の芝居小屋を再現したといわれる「平成中村座」が約830席なので、あそこに近いキャパだ。ここは普段、大がかりな一般演劇に使用されているが、オペラやバレエも上演可能だ。かつて、小林紀子バレエ団公演に行ったら、2階最前列に、バレエ・ファンで知られる高円宮憲仁親王がおられたのをおぼえている(漂う気配が、そのあたりだけちがっていた。47歳の若さで薨去されたのは、そのすぐあとだった)。

あたしは、ここでのシェイクスピア・シリーズに通っているほか、最近ではパリ・国立オデオン劇場『ガラスの動物園』、文化庁芸術祭主催『レオポルトシュタット』などを観た。だがステージに奥行きがありすぎて、安席で後方専門のあたしとしては、いつも「遠くで何かやってるなあ」と感じていた。演出家はステージを広々使えるのでやり甲斐があるだろうが、観客は2階後方にもいることを、もう少し考えてほしいと、しばしば思わされた。

まさか、その劇場で「歌舞伎」を観るとは夢にも思わなかった。だが、その“中途半端な広さ”が、実はピッタリなのであった。普段ここは、客席の床がそのままステージにつながっているような状態での公演が多い。しかし歌舞伎ではそうはいかないので、特設舞台がつくられていた。これはかなりの手間と経費を要したのではないか。しかし、歌舞伎ならではのセットを組むので、あのだだっ広いステージが狭くなり、かえって見やすくなったのである。

正月は、恒例の菊五郎劇団。今年は、『石切梶原』『葛の葉』など。例年の復活新作ではなく、古典名作だったが、なかなかよかった(なぜ古典見取りになったのかは、記者会見=後述で、時蔵が「(国立劇場側が復活新作を)やる気がなかったのかなと思いました」と、ズバリ述べていた。おおやけの場でこんなことをいえる役者は、あまりいない)。

国立劇場・大劇場や、歌舞伎座のような横長舞台でもなく、上述のように適度な大きさだ。客席は半円形で舞台に向いており、しかも傾斜があるので、後方でもよく見える。

今回は中村梅枝が大活躍で、三幕とも、ほぼ出ずっぱりの“梅枝奮闘公演”である。6月には時蔵を襲名するそうだ。有名な『葛の葉』の曲書きシーンなど、大劇場とちがって、ほとんど目の前で観ているような迫力で感動した。なにしろ傾斜があるので、真ん中あたりの席だと、舞台と見物の視線が、ほぼおなじ高さである。よほど前方席でないかぎり、下から見上げる感じはない。歌舞伎は所作が大きいせいもあるが、「遠くで何かやってるなあ」と感じることもなかった。

唯一の問題は花道がないことで、なんとなく数メートルの仮花道っぽいスペースは用意されているのだが、とうてい大劇場にはおよばない。おそらく宙乗り設備もないだろう。小ぶりな会場なので、ツケ打ちがやたらと大きく響いて耳が痛くなったが、全体は、まさに歌舞伎にピッタリだと思った。むかしの見物は、これくらいの距離感で芝居に接していたのだろう。無理な話だが、次の国立劇場でも、このスペースで歌舞伎を観たいものだと思わされた。
 
◆シアター1010〔センジュ〕で観た「文楽」12月公演
シアター1010

ここは、北千住駅直結の商業施設(マルイ)の10階にある。いままで三宅坂へ通っていた文楽ファンの大半にとって、まったくなじみのない土地ではないかと思われる。

701席(1・2階)なので、いままでの国立劇場・小劇場(590席)よりは大きい。大阪の国立文楽劇場が、出語り床のときで731席なので、あそことほぼおなじキャパである。

北千住といえば、宮部みゆきの直木賞受賞作『理由』を思い出す。舞台のモデルとなったタワーマンションは、駅からしばらく歩いた隅田川沿いにある(国松警察庁長官が狙撃された現場だ)。

あたしは、この劇場は数えるほどしか行ったことがなく、ひさしぶりだった。平幹二朗主演で、全員男優による『アントニーとクレオパトラ』を観た帰りに、駅前で安酒を呑みすぎて悪酔いしたのが忘れられない。ほかに記憶もおぼろげだが、たしか落語会にも行った。

そんな劇場で文楽を観るとは、夢にも思わなかったが、これまた実にピッタリの劇場だと思った。いままで東京の本公演(国立劇場・小劇場)は、客席はほぼフラットだし、椅子は狭いしで、とにかく窮屈だった。字幕が見切れになる席も多かった。しかしここは、上述の新国立劇場・中劇場とおなじく適度な傾斜があり、席も半円形に近いので、たいへん見やすかった。出語り床の盆も、ちゃんと設置されていた。

あたしは、前方の席を買っていたのだが、人形が舞台奥、本手摺の上にいくと、かなり下から見上げるような感じになった。そこで休憩後は、真ん中より後方の空席に移ってみたら、これまた、ちょうどこちらの視線と人形がほぼおなじ高さになり、見やすくなった。あの視線の高さで文楽を観たのははじめてだったので、新鮮だった。

ただこの劇場には2階席がある。もしや、2階から観たら、船底や、人形遣いの足許が見えてしまうのではないか。まあ、それはそれで面白いので、いつか挑戦してみたい。

演目は『源平布引滝』~「竹生島」「実盛物語」。東京の12月は若手・中堅公演で、幹部級は出演しない。それでも織太夫、芳穂太夫が最後をつとめて、大熱演であった。

◆日本青年館ホールで観た「文楽」2月公演
日本青年館

若手・中堅公演はシアター1010で、幹部公演は、この日本青年館ホールという区分けなのだろうか。そもそも、プログラムに「初代国立劇場閉場後の初の文楽本公演は、日本青年館ホールにて開幕します」とあったが、ということは、上述・昨年12月のシアター1010公演は何だったのだろうか。あれは「本公演」ではなかったのか。もし幹部級公演が「本公演」だというなら、若手・中堅公演は何と呼べばよいのだろうか。

ここは1・2階席あり、全1249席と、3会場のなかではもっとも巨大なホールである。宝塚歌劇団東京公演の会場として、有名だ。とうてい文楽には向かないと思いきや、案の定、かなり無理があると思った。

場所は、銀座線「外苑前」駅から徒歩5分ほどで、神宮球場に隣接している。JR「千駄ヶ谷」駅か「信濃町」駅からだと、徒歩15分くらいか。あたしは千駄ヶ谷から、国立競技場を横に見ながらテクテク歩いて行った。

ここは、「青年団」運動の本拠地である。山田洋次監督の映画『同胞(はらから)』(1975)で、岩手の若者たちが、東京のミュージカル劇団を招聘しようと奮闘していたが、彼らがその「青年団」である。

この建物、以前はもうすこしJR駅寄りにあったのだが、2020年東京五輪で、国立競技場が拡大新築されるにあたって、立ち退きにあい、いまの場所に移転した。まったくあの五輪は迷惑な行事である。前の建物のとき、何度か演劇を観にいったが、移転後は、あたしは今回が初めてだった。

ここでも出語り床が設置されていたが、とにかく広すぎる。席は、舞台に向かってかすかに弧を描いているが、横一直線の感覚に近い(傾斜は十分にある)。よって端に座ると、なんだか観にくい。明らかにステージ全体を使うミュージカルのような出し物のための劇場だ。文楽のように、ほぼ横移動のみで展開する見世物には、まったく向いていない。

それより問題は、モギリが2階なので、エッチラオッチラ、階段を登らねばならないことである。そのうえ、ロビーと呼べるようなスペースが、ほぼ「ない」。外回りは狭い「廊下」があるだけで、椅子などもない(だから、おみやげ売店もない)。よって、休憩時間の居場所がない。

コインロッカー料金は驚愕の「300円」! しかも、「戻らない」。国立劇場も「戻らない」が「10円」だった。松竹だって「戻らない」が「100円」である。

1階も狭く、ここにも「ロビー」スペースは、ない。椅子などもない。カフェとコンビニはある。だがカフェは数えるほどしか席がない。しかも行列である。仕方なく、入れ替えの間は、みなさん、寒空のもと、外へ出て、周辺のベンチや花壇の端に座って軽食を食べている。あたしも、そうするしかなかった。なにが悲しくて、狂言見物に来て、こんな思いをしなければならないのだろうか。

2月は3部制である。いままでは、たとえば1部・2部通しで見物の場合、そのままロビーで座っていれば、係員がモギリに来てくれて、すぐに入れた。ここでは、そうはいかない。いちいち階段を下りて、外へ追い出される。しかも先述のように、椅子もなく居場所もないから、年輩の見物は、つらそうにコンビニ前で立ったまま入場開始を待っている。カフェは行列でとうてい入れない。

あたしは、1部・2部とつづけて、『勘平腹切』や『酒屋』などを観たのだが、周辺環境のひどさに腹が立って、なにを観たのか、よく覚えていない(シアター1010では、それほどの不便は感じなかった)。もう、あんな劇場で文楽は、二度と観たくない。

  *****

そんなことを感じながら「国立劇場以外での、国立劇場公演」を観ていたら、先日、中村時蔵や吉田玉男、井上八千代ほか、いままで国立劇場で公演してきた伝統芸能の実演家10人が、日本記者クラブで会見をひらいた。

要するに、昨年10月の国立劇場閉場以来、改築業者の落札が成立せず、新築開場の見通しがまったく立っていないことへの憂慮である。さらにこんなに長いこと、ナショナル・シアターが稼働しないことで、伝統芸能にいかに悪い影響があるかを訴えた。

よく考えると信じられない話だが、国立劇場は、いつ再開場するか、まったく見通しが立っていない状態で閉場したのである。こんな国があるだろうか。しかも、以前にも書いたが、今度は、海外観光客のための巨大ホテル施設となり、そのなかに新劇場を押し込めるという、前代未聞、世界のどこにそんなナショナル・シアターがあるのかと呆れる計画である。これにかんしては、国立劇場(日本舞台芸術振興会)の元評議員で、作家の竹田真砂子氏も、ブログで憂いていた。“身内”からも呆れられるようでは、なにをかいわんやである。

そういえば、国立劇場は閉場したが、そのなかの図書室は再開したそうである。だったら、いっそ小劇場くらいは再開してはどうですか。どうせ、工事など、そう簡単にはじまりそうもありませんから。
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2023.09.07 (Thu)

第422回 現国立劇場、最後の文楽の「伏線」

菅原徹底解説チラシ
▲現国立劇場、最後の文楽公演

現在の国立劇場における最後の文楽公演『菅原伝授手習鑑』、その「完全」通し上演を観た。

いままで、「寺子屋」のような有名な段や、抜粋による半通し上演は何度も観た。だが、さすがに初段から五段目まで、すべての段を通しで観たのは初めてであった。

もちろん、今の時代に、これほどの長尺狂言をいっぺんに上演することは不可能で、まず5月公演の第1部で〈初段〉が、第2部で〈二段目〉が上演された。

そしてこの8~9月公演の第1部で〈三段目〉~〈四段目〉前半を、第2部で〈四段目〉後半~〈五段目〉を上演。つまり4回通って、ようやく全編観劇となる、なんとも大がかりな公演であった。江戸時代は、これを明け方から1日で上演していたらしい。

前回の完全通しは1972(昭和47)年だったそうで、実に51年ぶりだという。さすがにあたしは当時、中学生だったので観ていない。まだ国立文楽劇場(大阪)の開場前であり、話題の興行だったようだ。すでに開演前から新聞記事になっている(当時の全国紙で、このような文楽に関する記事は珍しい)。

《原作全五段の完全通し上演。これは百六十年ぶりのことになる》《すでに前売りを始めているが、ふだんの倍近くも売れており、文楽公演の前売り新記録が出そうだという》(毎日新聞1972年5月8日付夕刊)

当時の国立劇場は、江戸時代同様、なんと1日で上演していた。

《昼の部と夜の部を合計したえんえん十一時間で(略)見せる》《これだけ上演時間をぜいたくに使ったので従来カットされていた端場(はば)が復活し、おかげで中堅級ないしそれ以下の人たちの持ち場が増えたのはいいことだった》(同5月24日付夕刊)

と書いたのは、大阪毎日新聞出身の劇評家で、国立劇場や文楽協会の運営委員などもつとめた、山口廣一氏(1902~1979)である。さすがに専門分野だけあり、当の中堅以下に対する評は、《語尾の音量に力が抜けるのがよくない》《声の使い方が一本調子》《もっと発声を内攻的にかすめるべき》と容赦ない。昨今の、紹介と大差ない劇評とは一線を画している。

しかしともかく、生きているうちにこんな機会はもう二度とないだろうと思い、あたしも鼻息荒く4回通った。そして、芝居(戯曲)の面白さを心底から味わうことができた。

 *****

道楽者に講釈する資格などないが、簡単に説明を。

『菅原伝授手習鑑』は、朝廷の権力争いが背景。菅原道真(菅丞相)の大宰府左遷を縦糸にし、横糸に三つ子兄弟の物語をからめて構成されている。

三つ子の長男・梅王丸は右大臣・菅丞相の部下。次男・松王丸は左大臣・藤原時平の部下。菅丞相と時平は対立関係にあるので、この兄弟も当然、不仲になる。一方、三男・桜丸は、天皇の弟君の部下なので、そのどちらにも与することができず、ある悲劇に巻き込まれていく。

全体の物語は、四段目の切〈寺子屋の段〉における空前の悲劇に向けて突き進むのだが、そこに至るまでのエピソードが、すべてクライマックスの「伏線」となっている。竹田出雲ら江戸時代の作者たちの見事な作劇術に舌を巻く。市井の一般家庭を襲う悲劇が、実は朝廷内の争いに起因していたとは! こんな芝居は、シェイクスピアもチェーホフも書いていない。

   *****

近年、SNSや新聞雑誌の映画評で、「伏線が見事に回収される」といった文言が目につく。つまり、前半の詳細不明なエピソード(伏線)が、実はクライマックスに関与していることが最後に明かされる(回収される)、それが見事だというのだ。

だが、最近の「伏線」は、いささか、ずるいよ。

たとえば、本年のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞した映画『怪物』(是枝裕和監督)が典型で、この映画は、なかなか全部を見せてくれない。前半をある特定の視点で描き、後半を別視点で描くものだから、「ええ? そういうことだったの?」と、何やら衝撃の「伏線回収」を見せられたような錯覚に陥る。

または韓国映画『告白、あるいは完璧な弁護』(ユン・ジョンソク監督)。いわゆる密室殺人ミステリだが、これまたちがった視点が伏線になるどころか、“妄想”までもが、いかにも伏線回収のように描かれる。よってたしかにハラハラするが、最後はカタルシス以前に疲労感に襲われる(本作はスペイン映画のリメイク)。

もっとすごいのが、例の宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』だ。勘弁してほしい。全編が伏線だらけで、回収されたのかどうかもよくわからないまま、それでも、どうやら大団円らしいラストになっている。そのため、いつまでも「あれは何の伏線だったのか」との論議がやまないことになる。

 *****

これらに比べると『菅原伝授手習鑑』の伏線は、潔くて美しい。劇中、菅原道真が詠んだ実在の和歌がいくつか登場する。たとえば《梅は飛び桜は枯るゝ世の中に何とて松のつれなかるらん》は、そのまま三兄弟の行く末の伏線となっている。

そのほか、〈北嵯峨の段〉で菅丞相の御台所を拉致する山伏。〈寺入りの段〉では、息子・小太郎を寺入りさせた母親が「あとで迎えに来る」といいつつ、なぜか名残り惜しそうに去る。どれも平然と描かれながら、あとですべてラストへの伏線だったことがわかる。視点を変えるなんて、一切ない。ひたすら正攻法だ。

今回は「完全」通し上演なので、最終五段目〈大内天変の段〉も上演された。先述のように51年ぶりなので、おそらく多くの見物が初観劇だったと思う。

ほとんどの狂言は四段目で物語は収束する。五段目は付け足しで、あってもなくてもいいような場面が多い(なぜ、そんな不要な場面がわざわざ付くのかは、今公演のプログラムで、大阪公立大学大学院の久堀裕朗教授が解説している)。

本作の五段目も、タイトル通り、天変地異のオカルト・ホラーで、いささか余分の感は否めない。だがそれでもなお、実は以前の段の、あの場面が伏線だったのかと気づかされる。最後の最後まで正統派の伏線回収がつづき、とことん見物を楽しませてくれる。作者たちのエンタメ精神が、270年余の時を超えて迫ってくるようであった。

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▲舞台稽古を取材した公演レポート(ステージ・ナタリー)


【余談】長年、国立劇場小劇場で文楽を楽しませてもらいました。しかし報道によれば、再開発事業の入札は6月の2回目も不落札だったとか。この調子では、2029年予定の再開場も心もとなく、いつになるか不明ですが、生きていればまた行きますので。

国立劇場は、9〜10月の大劇場、歌舞伎《妹背山婦女庭訓》通し上演が最終公演です。また、閉場中、文楽は別会場で公演されます。

13:06  |  文楽  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.06.09 (Fri)

第405回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(後編)

四つ橋文楽座絵葉書
▲四つ橋文楽座(出典:WikimediaCommons)

1930(昭和5)年、松竹は、四つ橋文楽座の開場にあたり、「桟敷」を廃止し、初めて「椅子席」(850席)の近代的な文楽専門劇場にした。

また松竹はこのときから、長時間を要する通し上演をやめ、すべて「見取り」(面白い段だけの抜粋上演)に切り替えている。
毎週日曜午前には、中学生向けの文楽鑑賞教室も開始した。

昨年逝去された文楽研究者の内山美樹子さん(内田百閒のお孫さん)は、こう書いている。

松竹が見取り方式に切りかえた主たる理由は、太夫・三味線の多くにビラのきく狂言を一段でも半段でも(場合によっては掛け合いのいい役でも)受け持たせることで、贔屓筋、いわゆる組見のお客に、まとめて切符を売ることをねらったものと考えられます(岩波セミナーブックス「文楽・歌舞伎」1996年、岩波書店刊)
※ビラのきく狂言=一般受けする演目
※組見〔くみけん〕=贔屓筋の団体鑑賞


もちろん明治大正期にも見取りはあり、「文楽は長すぎる」との声もすでにあった。だが、それでもちゃんと通し上演もやっていた。
それが見取り専門興行になったことを、内山さんはこう衝いている。

その原作が放棄され、本体も付属もない、見せ場、聴かせ場の切り売りに堕したのが昭和五年以後の松竹の上演方針であったのです。この興行方法は、組見のお客と、人形浄瑠璃を初めて観る近代人の新しい観客と、両方に当初は受け入れられたのでしょう。開場からしばらくは(略)記録的な大入りでした。しかし(略)文化遺産を食いつぶす興行方針が、真の成功をおさめるはずはなく、再び不入りをかこつようになります(前同書より)

もっとも不入りは満州事変の影響もあったようだ。

たが、これにより、物語の全容を知らずに一部だけを観て満足する新しいタイプの見物が続出した。
『平家女護嶋』でいえば、初段で俊寛女房に何があったのか、また、鬼界が島を脱出した海女・千鳥が、四段目でどんな活躍をするか——これらを知っているかいないかで、二段目「鬼界が島の段」の感動の度合いは、大きく変わるはずだ。

しかし、そんな松竹の方針転換のおかげで、『平家女護嶋』の二段目(俊寛)を、見取りで復活上演できたのだから皮肉な話である。

昭和5年、帝都は関東大震災から復興し、もう怨霊だの呪いだのの時代ではなくなった。
幸い『平家女護嶋』二段目はオカルト色がない。孤島に置き去りにされる俊寛の姿は、どこか近代日本人の姿に通じているようにも見える。
上演時間も約90分で、ちょうどいい。
文楽が見取り専門になるのだったら、今後、『平家女護嶋』はこの段だけやればいい。

『姫小松』三段目を見取りでやってもいいが、ラストで人形を同時に10体も出すのはたいへんだ。近松だったら6体ほどでいいし、ラストは俊寛1体だ。

……かくして、この昭和5年を境に〈俊寛〉ものは、近松版の見取りに代わった……ように、あたしは思うのだが。

  *****

豊竹山城少掾
▲豊竹山城少掾(昭和5年当時は、豊竹古靭太夫)

話が遠回りになったが、このときの復活上演を実現させたのが、豊竹古靭太夫、のちの“昭和の名人”豊竹山城少掾(1878~1967)である。三味線は名コンビの四世鶴澤清六。
この上演が素晴らしかったので、近松〈俊寛〉が定着したであろうことは、想像に難くない。

古靭は「古きに環す」に徹し、むかしの院本(全段通し床本)を蒐集、研究していた。その中から近松〈俊寛〉を再発見し、先達を訪ねてむかしの語りを学び、40年ぶりに床にあげたのだった。

ところが、その40年前のときは『姫小松子日の遊』の、さらに改変物『立春姫小松』としての上演だった。正式な近松作品としての上演ではなかったのだ。それでさえ、これまた40年ぶりの上演だったという。
ということは、古靭による復活は、事実上、「80年」ぶりの上演だったのだ(三宅周太郎『続文楽の研究』より、2005年、岩波文庫/原本は1941年刊)

上記『続文楽の研究』によると、古靭が先達から学んで復活した〈俊寛〉は、見事にむかしのスタイル通りだったという。それは80年前の再現でもあった(昭和5年の80年前とは嘉永年間、ペリーが来航したころである)。
古靭は「日月未だ地に落ちず」を痛感した。

著者・三宅周太郎は、上記本で「問題は実にこれである」と書いている。

私は度々義太夫なり、人形なりが、日本の演劇方面においては、歌舞伎劇よりその伝統に信用が出来るといって来た。(略)だが、一方歌舞伎劇を見ると悲しい事には歌舞伎には義太夫における『朱』のような、科学的根拠がない。(略)私が歌舞伎の演出法と伝統とに、常に疑いを持つのはこの理由によっている
※「朱」=床本や三味線譜への書き込み

いまの太夫に古靭の〈俊寛〉が伝わっているのか、あたしは知らない。しかしとにかく、「文楽」が、興行面や見物の荒波にもまれ、改変、消滅、復活を繰り返しながら生き残っていることには、まことに感嘆させられる。
そして「江戸時代のひとも、これとおなじものを観て、おなじ感動を得ていたのか」と思うと、胸が震える。
これが、文楽の魅力だと思う。

【関連回
第403回 俊寛は生きていた! まぼろしの文楽、復曲上演
第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)


15:34  |  文楽  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.06.07 (Wed)

第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)

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▲近松門左衛門『平家女護島』二段目「鬼界が島の段」西光亭芝國・春好齋北洲
(出典:WikimediaCommons)


前回、「俊寛が生きていた」との面白い文楽作品(浄瑠璃)『姫小松子日の遊』三段目「俊寛島物語の段」を紹介した。「江戸時代は、オリジナルの近松門左衛門版よりも、こちらのほうが人気があった」とも。

すると、数人の方から「そんなに面白い作品が、なぜ消えて、近松ばかりになったのか」と訊かれた。

実は、前回、それも書きかけたものの、あまりに長くなるので、省いてしまったのでした。しかし、複数の方からおなじ質問をされたので、やはり書いておくことにする。ただ、あたしは単なる道楽者で、研究者ではないので、過誤があればご容赦ください。
 
   *****

近松門左衛門、67歳時の人形浄瑠璃『平家女護嶋』〔へいけ/にょご/の/しま〕は、全五段構成(現代ではタイトル末尾は「島」が多い)。『平家物語』のなかの「足摺」や、「入道死去」などいくつかのエピソードをもとに改変された“打倒、平清盛”物語である。
牛若丸や、市川猿之助が昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で演じた怪僧・文覚も登場する。
二段目「鬼界が島の段」(いわゆる〈俊寛〉)がもっとも有名だ。

ちなみにタイトルの「女護嶋」(女ばかりの島)が、俊寛が流された鬼界が島のことだと思われがちだが、それはちがう。
三段目「朱雀〔しゅしゃか〕御所の段」で、常盤御前が次々と男を誘惑し、屋敷に拉致する場面「朱雀の御前は女護の嶋。むかしは源氏の春の園。今日は平家の秋の庭」から来ている。

実は常盤御前は、ワーグナーの《ワルキューレ》みたいに、平家打倒のための兵士を集めていたのである。
これは、夜な夜な美男子が誘惑拉致されていた「千姫御殿」伝説のパロディだ(山本富士子や京マチ子、美空ひばりなどで何度も映画化された)。

常盤御前ばかりではない。清盛に側室になれと迫られる東屋(俊寛女房)は自害する。
また、俊寛の身代わりのようにして鬼界が島を脱出した海女・千鳥は、後段で、清盛が海へ突き落した後白河法皇を救出する。怒った清盛は千鳥を殺す。
そして最後は、この2人の女(東屋、千鳥)が怨霊となって、清盛を呪い殺すのである。

要するに、この作品は平清盛を追いつめる女たちの話なのだ。
よってタイトルの『平家女護嶋』には、「女」たちが力をあわせて平清盛を抹殺するプロジェクト名のようなニュアンスがある。
ということは、二段目(俊寛)だけを観て感動するのは、木を見て森を見ないようなもので、近松先生も不本意なのではあるまいか。

初演は1719(享保4)年8月、大坂竹本座にて。
だが、全段通しで上演されたのは、このときだけ。次の再演は52年後の1772(明和9)年だった(下記・倉田本より)。その間は、前回ご紹介した『姫小松子日の遊』のような改変物が人気を独占していた。

では、なぜ近松版は消えてしまったのか。
実は、いまでこそ近松門左衛門は“日本のシェイクスピア”などと称されているが、江戸時代当時は「近松の作品は一度上演されただけで、二度、三度と繰り返して上演されたものは、ほとんどない」「作品の大半は一回限りの上演で終わっており、一部の作品のみ数十年を経てようやく復活の兆しが出てくる」、そんな存在だった(倉田喜弘『文楽の歴史』より、2013年、岩波現代文庫)。

なぜか。倉田本では「(近松の)作品のねらいは(略)いわゆる虚実皮膜の間に慰みを見出そうとする点にあった。とはいえ、人形は一人遣いで三味線の技術も未熟な時代、近松の考えはどこまで実現できただろうか」と記されている。
つまり、近松の時代、人形は一人遣いで、いまのような精妙な動きはできなかったらしいのだ。
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▲近松門左衛門『曽根崎心中』上演風景。たしかに人形は一人遣いだ。(出典:WikimediaCommons)

人形が三人遣いになったのは、1734(享保19)年、竹本座初演の『芦屋道満大内鑑』からだと、どの本にも書かれている(倉田喜弘氏はこれに異を唱え、1800年ころだとして実に面白い“論争”になったのだが、紙幅でカット)。

いずれにせよ、近松門左衛門は1725(享保9)年に亡くなっているので、人形が三人遣いになる前に世を去っているのである。再演されるのは、ほとんどが、三人遣いになってからの時代だ。

一人遣いでは、近松ならではの精妙な感情表現も難しかっただろう。作品の本質が見物に伝わらず、いくらいい狂言を出しても、すぐに忘れ去られた。
現に、演劇評論家・渡辺保氏の『近松物語 埋もれた時代物を読む』(2004年、新潮社)では近松の時代物狂言が20余、紹介されているが、このなかでいまでも知られているのはせいぜい1~2本である。

一人遣いで中途半端な近松作品よりも、荒唐無稽、波乱万丈な改変物のほうが面白いのは当然だったろう。おなじ〈俊寛〉だったら、近松よりも『姫小松』のほうが、はるかに楽しかったはずだ。

   *****

ところが、その現象が逆転する。
1930(昭和5)年1月、松竹は、大阪に四つ橋文楽座を開場した。
(当時の文楽は、現代の歌舞伎のように、松竹が経営していた)
その杮落とし興行の一演目が『平家女護嶋』二段目「鬼界が島の段」で、これが実に40年ぶりの復活上演であった。
いうまでもなくすでに三人遣いの時代だ。ついに近松が復活する日が来たのだ。

しかも、この四つ橋文楽座の開場は、文楽の歴史を語るうえで、革命的な出来事だったのである。
〈この項、つづく〉


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2023.06.03 (Sat)

第403回 俊寛は生きていた! まぼろしの文楽、復曲上演

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▲5月31日、江東区深川江戸資料館にて

〈俊寛〉といえば、島流し。平家へのクーデター容疑で逮捕され、仲間2人と共に終身刑の罪で島流しにされた僧侶である。

ところがのちの恩赦でほかの2人は釈放されたが、俊寛だけは許されなかった。絶望した俊寛は絶食して孤島で果てた……『平家物語』や能『俊寛』、近松門左衛門の文楽/歌舞伎『平家女護島』などで描かれてきた有名エピソードである。

だが、実は俊寛は、孤島を脱出して生き延びていた……そんな文楽が、竹本千歳太夫(浄瑠璃)、野澤錦糸(三味線)による「素浄瑠璃の会」で復曲上演されたので、いってみた(5月31日、江東区深川江戸資料館にて)。これがたいへん面白かったので、ご紹介したい。

ちなみに「素浄瑠璃」とは、本来、文楽が「人形」「太夫」「三味線」の三業で上演されるべきところを、「人形」なし、音のみで演奏される、いわば「コンサート」である。

で、その作品は『姫小松子日の遊』〔ひめこまつ/ねのひ/の/あそび〕~三段目「俊寛島物語の段」といった。近松半二、三好松洛、竹田小出雲ほかによる合作である。1757(宝暦7)年に初演された。松洛や小出雲らによる名作『菅原伝授手習鑑』から11年ほどのちの作品だ。江戸時代は、近松門左衛門版よりも本作の方に人気があったという。記録に残っている最後の上演は1902(明治35)年だ。
   ***
以下、ストーリーを記す(詞章は、当日配布された床本をもとに、読みやすいように一部を書き換えました)。

舞台は京都の山奥、怪しげな山賊一味の巌窟。

山賊たちが、都から、ある〈母娘〉を拉致してきた。いまこの巌窟の奥では、さる〈女性〉が出産間近なのだ。だが男しかいないので、助産婦役を誘拐してきたのである。なぜか〈娘〉もくっついてきた。

〈女性〉は、やんごとなきお方のようで、「玉のような」〈男子〉を産む(ここまでの過程が実に面白いのだが、紙幅でカット)。

山賊の首領は〈来現〉〔らいげん〕といった。「髪はおどろに生い茂り、伸びたる眉毛に、ぎろつく眼中」との容貌魁偉である。

その〈来現〉が、出産直後、「なに、男子とな。源氏の運の開け口」と口ずさんだ。それを〈母〉は聞き逃さなかった。「さきほどのおことばに、“源氏の運の開く”とおっしゃったは」、お前は何者だと迫る。

しばらく問答があって(紙幅でカット)、ついに〈来現〉は身の上を物語る。前半は、近松門左衛門版とほぼおなじである。
……去るころ平家一門の咎めを受けし三人、鬼界が島へ流されし。康頼、成経ふたりは赦免。(わしは)一人のちに捨てられし、俊寛でおじゃるわいの~!
ひえ~、あの、お前が!」(なぜかかなり過剰反応)

問題はここからの回想だ……あるとき、ひとり島に残された俊寛のもとへ、弟子の有王丸が訪ねてきた。そして平重盛からの重要なミッションが伝えられた(重盛は以前より俊寛に同情的であった)。

そのミッションとは……高倉天皇の寵姫(愛妾)・小督局〔こごうのつぼね〕が懐妊した。男子ならば次代天皇は確実である。ところが、高倉天皇の中宮(皇后=建礼門院徳子)が、実父・平清盛と一緒になって嫉妬し、出産を妨害しかねない。そこで重盛がひそかに小督局を救出し、いま巌窟に匿っている。

俊寛、早くもかの地におもむき、ご誕生の若君、守護いたせよ」……驚くべき密命である(なぜか出産前に「若君」とわかっているのはご愛嬌)。

かくして俊寛は密航帰国し、山賊の首領〈来現〉に化けて、小督局の出産をお助けしたというわけである。

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▲国芳画 (右から、俊寛、〈母〉お安、有王丸、亀王丸)/kuniyoshiprojectより

驚きは、まだ続く。助産婦をつとめた〈母〉(お安)は、俊寛の家臣・亀王丸の女房であった。さらに、連れていた〈娘〉(小弁)は、俊寛が都に残していた息子・徳寿丸であった。女子に変装させ、亀王夫妻が守ってきたのである。

のう懐かしい、とと様!」とすがりつく徳寿丸。俊寛「そうして母はなんとした」。すると守り袋を出し「かか様はこのなかに」。そこには俊寛の妻の戒名が……。

俊寛は右手に戒名、左手に我が子を抱き、「親子三人、このように、顔合わそうと思うたに、冥途へ行ったか、悲しや~」と号泣する。

その後も実にいろいろあるのだが紙幅でカット。結局、この巌窟にいる連中は、実は源氏方と平家方が化けた姿で入り乱れていたことが判明する。すごい迫力で一触即発の状況に陥るのだが、おなじみ「戦場にて再会せば。さらば」で幕となる。

ちなみに小督局が産んだ〈男子〉だが、クライマックスで「後鳥羽院と申せしは、この若君の御ことなり~」との衝撃の事実が語られる(史実では、別の寵姫の子)。
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上演時間80分、唖然茫然とはこのことで、開いた口がふさがらなかった。あまりにも自由奔放な改作ぶり、ひたすら客を驚かせつづける作劇術と快テンポ、知識と教養に裏打ちされた人物設定に、圧倒されっぱなし。近松版よりこちらのほうが人気があったというのも納得の面白さであった。

もちろん、千歳太夫&錦糸の大熱演あってこそ。上演後のトークによれば、本来なら3組で演じ分ける段だそうで、錦糸師匠は「さすがに最後は腕が攣りそうになりました」と言っていた。さらに「あまりに人物が多く、しかも全員が別人に化けているので、演(や)っていて誰が誰だか、わからなくなりました」。

千歳師匠も「大人数なので、ドリフターズのイメージで、2人+2人のパターンで演じ分けました。こっちはカトちゃんとケンちゃん、あっちは仲本工事さんと高木ブーさん」と言っていた。

たしかに、最終場面は(本公演だったら)10体前後の人形が同時に登場するのではないか。30人の人形遣いが舞台上に入り乱れることになる。

三味線の譜面も残っていたが、あまり正確な書かれ方ではなく、復曲作業もたいへんだったようだ。実はお2人は、すでに数年前に内輪での上演をおこなっているほか、床本資料なども各地の研究機関に残っており、研究者の間ではそれなりに有名作品なのである。だが、それでもこうやって復曲上演を続けている。おそらく最終目標は、本公演だろう。錦糸師匠も「本公演で上演できればいちばんいいんですが……」と言っていたが、なかなか容易ではないようだ。

たしかに、これを人形つきの本舞台で観られたら、どんなに面白いだろう。それこそ署名を集めて国立文楽劇場へ直訴したくなる、そんな作品なのだが。


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