2020.02.27 (Thu)
第272回 イヤホンガイド、大好き

▲国立劇場仕様(左)と、歌舞伎座使用(株式会社イヤホンガイドのHPより)
※舞台公演中止が相次ぐ折から、的外れなコラムですが、これは2月22日に執筆されたものです。
わたしは、文楽に行くと、必ずイヤホンガイドをつかう(歌舞伎では、あまりつかわない)。
そのことを知己に話すと、意外な顔で「いまさら筋なんか、わかってるでしょう」と言われる。
だが、筋を知りたくてつかうのではない。イヤホンガイドは、筋書にも出ていない、実に面白い解説をしてくれるのだ。
たとえば、今月(2月)の国立小劇場〈野崎村〉、お染登場のシーンで、こんな解説があった(記憶で書くので、細部は正確ではない)。
「振り袖姿のお染が、背中の襟のあたりに、なにか付けております。これは通称〈襟袈裟〉などと申しまして、髪の油が垂れて、着物が汚れるのを防ぐものでございます。これを着用しているのは、良家の子女の証しでございます」
また〈勧進帳〉では、
「ここで三味線の鶴澤藤蔵にご注目ください。たいへん珍しい弾き方です。これは、三味線で琵琶の響きを模倣しております」
さらに今月は、六代目竹本錣太夫(もと津駒太夫)の襲名披露があったので、幕間に、ご本人のインタビューが流れた。大学時代にテレビで文楽を観て感動し、津太夫に入門したのだという。「テレビ」がきっかけで文楽の世界に入ったなんて、知らなかった。
株式会社イヤホンガイド(旧名・朝日解説事業株式会社)は、1975年、朝日新聞の記者だった久門郁夫によってはじまった(創設当初の興味深いエピソードがHPで紹介されている)。このとき協力したのが、古典芸能評論家の小山観翁さん(1929~2015)である。
わたしは、生前の小山さんに、そのころのお話をうかがったことがある。
「最初は国立劇場も歌舞伎座も『解説など余計だ。歌舞伎は何度も観ているうちに自然とわかってくるものだ』と、あまり乗ってくれませんでした。役者たちも『歌舞伎は役者の芸をじっくり楽しんでいただくもので、その場であれこれ解説されたくない』と否定的。ところが、成駒屋(六代目中村歌右衛門)だけが『これからは、そういうものが必要よ。ぜひ、おやんなさい』と言ってくれました。これがきっかけで、導入が決定したようなものなんです」
小山観翁さんの、あのすこしダミ声がかった口調がなつかしい。
もうひとつ、わたしがイヤホンガイドを好む理由は、解説員の「芸」を楽しめるからである。解説員は、おそらく原稿をつくって、それを読んでいるのだろうが、「原稿をそのままていねいに読む」ひとと、「原稿を咀嚼して自分のコトバにする」ひとがいる。面白いのは、なんといっても後者である。誰もが、文楽を好きでたまらない様子が口調にあふれていて楽しい。
その代表格は、わたしが大ファンである、松下かほるさんだ。もとフジテレビ/ニッポン放送のアナウンサーで、もの心つく前から芝居に通っていたという。失礼ながら、相応のご年輩と察するのだが、まことに美しい日本語で、いまの若い方々は、こんなきれいな日本語を話すおとなの女性がいることに、仰天すると思う。しかも、原稿がご自分の「コトバ」になっている。上記、〈襟袈裟〉の解説も、この松下さんだった。わたしは、文楽に行くと、舞台よりも、「松下さんはどの幕を解説するのかな」と、そっちが気になることがある。
もうひとり、高木秀樹さんも大ファンだ。著書もある専門家だが、このひとも、コトバがきれいで、ただ読んでいるのではないことは明らかだ。しかも、幕間解説がすごい。
たとえば、(演目は忘れてしまったが)かつて、珍しい演目がかかった際、物語の舞台となった関西の土地へ取材に行き、どんなところか、レポートしてくれたことがある。しかも筋が複雑で「わたくしでも筋がわからなくなる、それほど入り組んだお芝居でございます。本日は、すこしでもわかりやすくなるよう、一生懸命に解説いたしますので、どうか、よろしくお願い申し上げます」と宣言したことがあって、これには感動した。
また、引退した技芸員が亡くなると、その思い出話や、葬儀の様子を話してくれる。あるとき、ロビーの隅で、しんみりしながら聴いていたら、同じく、じっとイヤホンガイドに耳を傾けている年輩の女性がいて、「ああ、同じ気持ちなんだな」と感動した記憶がある。
鈴木多美さんは、いい意味で「あおる」のが、うまい。2月の〈勧進帳〉では、
「さあ、ここから最後まで、出遣い3人、太夫7人、三味線7人による、弁慶の舞。どうぞ、その迫力に、打ちのめされてください」
凄絶な六方で弁慶が引っ込んで幕。しかし、拍手は鳴りやまない。アンコールがありそうなほど、拍手がつづいた。その原因の一部は、鈴木多美さんの解説にあったと思う。
早く新型肺炎騒ぎがおさまって、また、彼ら解説員の話を聴きながら舞台を楽しめる日が来ることを願ってやまない。
ところで、以下は与太話。
わたしは、このイヤホンガイドを、通常のクラシック・コンサートに導入してもいいのではないかと思っている。「冗談じゃない。それじゃ、音楽を楽しめないじゃないか」とおっしゃる方は、使用しなくてけっこう。
たとえば、最近、わたしは、東京佼成ウインドオーケストラのプログラム解説に「この曲には、ビゼー《カルメン》の断片や変容がちりばめられている」と書いたが(ショスタコーヴィチの交響曲第5番)、実際に聴いて、どこにそれらが出てくるのか、わからないひとが大半だったと思う。そういうひとたちに、最低限の解説を同時に与えたい。居眠りで聴き逃すより、ずっといいと思うのだが。
中高生が多い吹奏楽コンサートでは、こんなの、いかが。
「壮大にはじまりました、冒頭の旋律。これはアルメニア民謡《あんずの木》がもとになっております。あんずは、アルメニアでは、日本の桜のように、国をあげて愛されている植物です。そんな民謡を冒頭につかうことで、この曲が、アルメニアを讃える曲であることを、示しているわけでございます」
わたしも「一生懸命」解説しますんで、どこかスポンサーになってくれませんか。
<一部敬称略>
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2019.02.23 (Sat)
第227回 仕事を「目指す」

▲『うたかた 七代目鶴澤寛治が見た文楽』(中野順哉、関西学院大学出版会)
2月の文楽公演(東京)の第3部で、《阿古屋琴責》の段(壇浦兜軍記)が上演された。
平家の残党・景清の行方を捜索中の畠山重忠は、遊君・阿古屋を逮捕する。彼女は景清の愛人なので、行方を知っているはずだ。だが、いくら取り調べても、知らぬ存ぜぬの一点張り。そこで重忠は奇策を発案する。阿古屋に、三曲(琴、三味線、胡弓)を弾かせるのだ。もし音色に乱れが生じれば、ウソをついている証しになる……まさに劇画のような「奇策」だが、こういうトンデモ設定を平然と入れ込むところが、江戸エンタメの面白さでもある。
今回は、この三曲を、鶴澤寛太郎(1987~)が見事にこなして、人形の阿古屋(桐竹勘十郎)ともども、喝采を受けていた(彼の三曲は、東京ではこれが2回目だと思う)。
幕間にロビーの売店をのぞくと、新刊書籍が山積みになっていた。『うたかた 七代目鶴澤寛治が見た文楽』(中野順哉、関西学院大学出版会)とある。昨年9月に、89歳で逝去した人間国宝、七代目鶴澤寛治(1928~2018)の、聞き書き自伝である。「阿古屋」は、寛治の若いころの得意演目でもあった。
さっそく読んでみると、戦前からいまに至る文楽界の貴重な証言が多い。だがそれらの大半は、『文楽の歴史』(倉田喜弘、岩波現代文庫)や、竹本住大夫(1924~2018)の多くの著書でも触れられている。本書の面白いところは、後半、いまの文楽界に対する“お小言”にある。
「かつての稽古」は、「内面の指導」が中心だった。「『優しい気持ちを持て』――それが三味線の内面に求める根幹である」「親に心配をかけない」「親孝行をしなければならない」「はがき一枚でいいから送るようにしろ」「ご先祖を大事にせなあかん」。
昭和29年にテープレコーダーが登場したら、父(六代目寛治)たちは「これで芸は終わった」と言ったらしい。なぜか。「テープに残してしまうと『その瞬間の師匠の手』が保存される。弟子はそれを真似る。師匠はそれを聞いて『違う!』と言うが、弟子は『しかし師匠はこのように弾いていた』と反論する。/実に馬鹿げた話だ。(略)創造とは程遠い、何の値打ちもないコピーが量産されてゆくだけだ。(略)この考えが、いかに危険であるかを、もう一度文楽の人間は意識しなければならない。残念ながら今の文楽の主流は、この量産体制にある」。
吹奏楽コンクール課題曲が発表されるたびに、参考音源と称するCDとDVDが同時に発売される。あれを思い出す。もちろん、文楽と吹奏楽を同列には論じられないが。
前段で紹介した寛太郎は、この七代目寛治の孫である。だが、本書中に、孫に対する特別の記述は皆無。ほかの弟子と同列に名前が出てくるだけだ。
文楽は世襲制ではない。歌舞伎界で人間国宝になるには、名門役者の家の出でなければダメだが、文楽はちがう。一般家庭出身でも、実力次第では、人間国宝になれる。わたしが文楽を愛する理由のひとつが、ここにある。寛太郎は、祖父を「継いでいる」のではなく、祖父の仕事を「目指している」のである。
以前、寛太郎が、豊竹嶋大夫の引退披露《関取千両幟》で、アクロバットのような曲弾きをこなしていたのを思い出す。三味線を逆さまに持って弾いたり、頭の上で弾いたり、すごかった。本書によれば、むかしは曲弾きは寄席の出し物だった。それに反発を覚えたのが六代目で、いま、次の次の代にあたる寛太郎が、文楽の本公演で引き継いでいる。これこそ録音や録画では身につかない、ほんとうの芸だと思う。
<敬称略>
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2016.05.24 (Tue)
第166回 文楽『絵本太功記』

5月の国立劇場、文楽公演『絵本太功記』を観て、いまの時代に長編狂言を抜粋上演することの難しさを感じた。
本作は「太閤記」の書き換えだが、尾田春長(織田信長)を討った武智(明智)光秀を、単純な反乱者でなく、悩める武将として描いたところに魅力がある。
特に今回の抜粋箇所は「本能寺」「妙心寺」「太十」(夕顔棚、尼ケ崎)なので、おそらく「武智光秀物語」として再構成したのだろうと察する。
なのに、「妙心寺」で初めて光秀が登場するのは、構成としてどうなのだろうか。
この狂言では、「本能寺」に光秀は登場しない。
「本能寺」は、「脇筋」である。
なのに、なぜ「本能寺」を入れたのか。
日本人にとって明智光秀といえば本能寺の変だから。
そしてもう一つ、おそらく、「本能寺」を入れないと、人形遣いのローテーションがうまくいかないから。
だが、そのために、極めて不親切な構成になってしまった。
光秀の額の刀傷の由来や、「本能寺」以前、春長と何があったのか、何の説明もない。
これでは、母皐月が光秀を罵倒する場面で、見物は、光秀に思い入れを持てない。
光秀は、単に天下を取りたくて主君春長を討ったのではない。
暴君を放置しておいては、一般庶民が苦しむとの思いに、いじめ抜かれた私憤が重なって、やむにやまれず、本能寺を攻めたのだ。
中学高校でいじめられ、社会に出ればブラック企業でいじめられ、無理解な上司にいじめられ……そんな現代人の苦悩と重ね合わせてこそ、本作を現代に上演する意味もあるのではないか。
しかし、その肝心のいじめシーン=前段がないのだ。
主催者は、「太十を観に来る以上、前段は知っていて当然」と思っているのだろうか。
あるいは、そんな基礎知識は、事前にプログラムを精読するか、イヤフォンガイドを使えというのだろうか。
これが文楽マニアのためだけの公演だったら、別にかまわない。
お仲間だけで好きなことをやっていれば、それでいい。
だが、近年の橋下徹・前大阪市長の言動などを見るにつけ、そんなことは言っていられない状況であることは、誰もが感じているはずだ。
あるいは、空席が目立つ大阪公演に比べて、東京公演は満席だから、そんなことに気を使う必要はないというのであれば、これは驕り以外のなにものでもない。
結局、この問題をプログラムやイヤフォンガイドに頼らず解決する方法は、2つしかない。
まず、発端につづく段をカットせずに上演することだが、それをやったら、3時間半ではおさまらない。
だったら、「ダイジェスト段」を作ってしまってはどうか。
光秀と春長の遺恨の場だけを凝縮してワンシーンでやってしまい、そこから「妙心寺」につなげるのだ。
おそらく「それは改ざんではないか」と眉をしかめる方が多いだろう。
だが、そんなことはいつの時代も平気で行なわれてきたはずだ。
典型的なのは、先代猿之助がやってきた「3S歌舞伎」である(ストーリー、スピード、スペクタクル)。
彼の歌舞伎は、ほぼすべて、全編がダイジェストと改変でできており、原型をとどめていない。
音羽屋が毎年正月に国立劇場でやる復活狂言も同じ姿勢でつくられている。
だが、そんなことに文句を言う見物はいない(評論家には、いるが)。
みんな大喜びで、特に猿之助歌舞伎など、いつだって満員御礼だった。
いま、甥の三代猿之助が『ワンピース』をスーパー歌舞伎でやれるのは、先代が「3S歌舞伎」を定着させてくれた、その下地があるからなのだ。
文楽だって、近年だけでも、シェイクスピア『テンペスト』『ファルスタッフ』や、三島由紀夫が書いた歌舞伎『鰯売恋曳網』を文楽にしてきた。
昨年は、時代小説家・竹田真砂子作の子供向き文楽『ふしぎな豆の木』が初演された(これは『ジャックと豆の木』の翻案)。
国立劇場の公演ではないが、キリストの生涯を描く「ゴスペル文楽」なんてのもあった。
わたしなど、『スター・ウォーズ』を文楽でやってくれないかと、心底から願っている(特に『帝国の逆襲』など、そのまま文楽になるはずだ。ルークがベイダーを父と知る場面は、義太夫そのものではないか)。
文楽には、こういう自由な精神があるはずで、本公演の古典名作だけががんじがらめで昔のまま上演される理由はないと思う。
わたしは橋下徹なる人物は好きになれないのだが、彼が文楽への補助を打ち切ると言い出したのは、単に「集客努力をしていない」からではなく、前段なしで突然「妙心寺」~「太十」をやって平気でいるような上演姿勢から、敏感に何かを感じとったのではないかと思っている。
<敬称略>
◆このコンサートのプログラム解説を書きました。5月28日です。ぜひ、ご来場ください。
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◆毎週(土)23時FMカオン、毎週(月)23時調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」案内係をやってます。5月は「さようなら、真島俊夫さん」「来日決定! ブラック・ダイク・バンドの魅力」です。詳細は、バンドパワーHPで。
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2016.04.20 (Wed)
第163回 文楽『妹背山婦女庭訓』

▲文楽ではたいへん珍しい、横位置レイアウトのチラシ
今月の国立文楽劇場は、『妹背山婦女庭訓』の抜粋通し。
ある程度の規模の通し上演は、国立劇場小劇場で、十年くらい前が最後だったと思う。
内容は「大化の改新」を舞台にした政治メロドラマで、よく『ロミオとジュリエット』にたとえられるが、二組の男女悲恋が、国家の命運にまで影響を与える壮大な仕掛けは、シェイクスピアをしのぐ作劇術といえる。
人づてに筋書きを知ったマイヤベーアが《盲目のミカド》の題でオペラ化を計画したとの有名な逸話もある。
近松半二は、もっと注目顕彰されていい作家だと思う(今の時代に生きていたら、ミステリのベストセラーを続々放っていただろう)。
今回は、第1部に久我之助・雛鳥の物語をまとめ、第2部は蘇我入鹿を追い詰める物語に再構成されていた。
いわば『ゴッドファーザーPARTⅡ』から抜粋し、「若きビトー編」「マイケル苦悩編」の2本を別々に上映するようなものである。
その上、冒頭の大内や、井戸替え、入鹿征伐などは(最近「お三輪編」として上演されたばかりのせいか)カットされている。
よって、正確には「通し上演」とは言いがたいのだが、その分、見やすくはなっている。
それでも第1部は4時間半、第2部に至っては5時間。
1日通しだと10時間を要するわけで、ワーグナーも顔負けである。
見せ場「山の段」は、雛鳥=咲甫太夫/定高=呂勢太夫、久我之助=文字久太夫/大判事=千歳太夫が、両床掛け合いでたいへんな熱演だったが、もう少し落ち着いた感じの方が、わたしは好きだった。
ヴェルディ《ドン・カルロ》の、カルロとロドリーゴの二重唱が、あまりに力を入れすぎてしらけてしまうことがあるが、あれを思い出した。
もっとも、この場面を冷静に語る太夫など聴いたことはなく、たまたまプログラムに、三味線の人間国宝、鶴澤清治のインタビューが載っていたのだが、この段は、
「床にも対抗意識が無かったら駄目ですよね。激しい気合いみたいなものが必要だと思います」
「お互いに『負けたらいかん』という感じがありますね。まさしく妹山と背山のバトルですよ(笑)」
――だそうで、「落ち着いた山の段」など、ありえないらしいことがうかがえる。
第1部の久我之助、第2部のお三輪とも、主遣いは勘十郎で、今回は、ほとんど「勘十郎奮闘公演」のようであった。
第1部の切「山の段」で、切腹した久我之助を30分以上にわたって瀕死の状態のまま遣っているのを見て、「何とかしてあげてくれ」と言いたくなったのはわたしだけではないはずだ。
だって、あのあと、第2部では、夜9時まで、お三輪が「竹に雀」でまたも刺され、えんえんと苦しむのだから。
いくら仕事とはいえ、まことにご苦労様としかいいようがなく、全盛期の先代猿之助を思い出した。
こういった語りの熱演や、勘十郎の奮闘ぶりを観ていて、いま、文楽はたいへんな時期にぶち当たっていることを痛感した。
住太夫、源太夫、嶋太夫と立て続けに引退後、現在ただ一人の切場語りとなった咲太夫は、今月、病気休演である(代演・咲甫太夫の「杉酒屋」が聴けたのは僥倖だったが)。
つまり今月は、これほどの超大作の記念碑的上演にもかかわらず、「切場語りがいない」のだ。
山の段で中堅たちが超熱演を披露したのは、それをカバーしようと命がけだったのである。
主遣いはついに文雀が引退し(特に引退興行や挨拶などはなし)、大幹部は蓑助(山の段の雛鳥)ただ一人となった。
なぜこんなことになってしまったのか。
これが宿命なのか、日本芸術文化振興会や文楽協会に責任の一端があるのか、わたしにはわからない。
いまはただ、今月の「山の段」の熱い浄瑠璃が、後世史家によって「あれが文楽新時代の突破口だった」と語られることを願うのみである。
(敬称略)
◆このコンサートのプログラム解説を書きました。4月29日です。ぜひ、ご来場ください。
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◆毎週(土)23時FMカオン、毎週(月)23時調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」案内係をやってます。4月は「震災と吹奏楽」「追悼、キース・エマーソン」です。
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2016.01.20 (Wed)
第144回 文楽『国性爺合戦』

映画『日本女侠伝 侠客芸者』(1969年、山下耕作監督)に、お座敷遊び「狐拳」[きつねけん]が登場する。
「狐」「庄屋「狩人」の仕草で勝負を決める、ジャンケンの一種だ。
藤純子扮する芸者の信次が、伴奏に乗って、ポーズを次々に披露する。

さすがは幼少時から日本舞踊を身に着けてきた大女優だけあって、惚れ惚れする見事な所作を見せてくれる。
これと似たお座敷じゃんけんに「虎拳」[とらけん]がある。
こちらは「虎」「母」「和藤内」の仕草で勝負する。
優劣は、虎(四つん這い)>母(杖を突く老婆)>和藤内(鉄砲を構えるor腰に拳をあてる)>虎……の三すくみだ。
「♪和藤内がえんやらや、捕えた獣はと~らとら」などと歌いながらのんびり展開する。
この「虎拳」の原典が、近松門左衛門の超大作浄瑠璃『国性爺合戦』二段目の切「千里が竹虎狩りの段」である。
母を連れて獅子が城を目指す和藤内は、竹林の中で虎に出会う。
なかなか退治できずに苦労していると、母の進言で、「太神宮の御祓」(伊勢神宮のお札)を示すと、たちまち大人しくなる。
この場面を、じゃんけん遊びにしたのである。
『国性爺合戦』は、それほど人口に膾炙した大ヒット作だった(初演は、竹本座で足かけ3年、17か月のロングランとなった)。
国立文楽劇場、夜の第2部『国性爺合戦』は、昨年2月の東京公演に初段と二段目前半を加えた形で、全五段の内、三段目までを、ほぼ通しで見せる。
日中ハーフの豪傑・和藤内(史実の鄭成功=国姓爺がモデル)が、海を渡って、韃靼国に乗っ取られた父の祖国・明国に出向く。
そして中国の英傑たちと連合軍を結成して韃靼国を追い出し、明国を復活させるまでの物語である。
(史実では、明国は滅亡し、清国の時代になる)
その中で、父子、母子、家族など、様々な人間模様が描かれる、壮大なスケールのノンストップ・アクション劇だ。
特に初段は32年ぶりの上演だそうで、明国に韃靼国が入り込む発端が描かれるが、たいへんスピーディ、かつドラマティックで、目と耳を奪われた。
『スター・ウォーズ』Ⅰ~Ⅲを初めて観たときと似た気分だった。
中でも、栴檀皇女が小舟で日本に送り出されるラストは、「エピソードⅢ/シスの復讐」そっくり(誕生後すぐに惑星タトゥイーンに送られるルーク・スカイウォーカー)。
ジョージ・ルーカスは、近松までをも研究していたのではあるまいか。
(山田庄一氏の補綴が素晴らしい。ただし三段目までの上演につき、後段の伏線となる、死んだ妃の腹を裂いて胎児を入れ替える場面はカットされている)
初段は、通例で、若手の技芸員たちによって演じられる。
だが、これほどの見せ場なら、特に切場、将軍の妻・柳歌君が命をかけて皇帝の妹・栴檀皇女を守るシーンなど、ぜひ一度、中堅~幹部クラスで見せてほしいと思ったほどだ。
「甘輝館」の語りは千歳大夫。
日本との連合タッグ申し入れに悩む甘輝将軍を、スケール豊かに語る名演だった。
日本の恥の精神を切々と説く和藤内の母も、見事だった。
つづく有名な「紅流し」のシーンは、私は昔から、映画『椿三十郎』(1962年、黒澤明監督)の元ネタだと信じている。

敵に捕らわれた三十郎(三船敏郎)が、「小川に流すのが赤い椿だったらここを襲撃、白い椿だったら中止の合図だ」といい加減なことを言う。
敵勢は、大慌てで白い椿を摘んで小川に流す。
(実は色は決めていなかった。とにかく何色だろうと、椿の花が流れてきたら襲撃開始)
だが『国性爺』では、黄河につながる堀に「交渉成功なら白粉を、決裂なら紅を流す」と決まっていた。
橋の上で待つ和藤内、流れてきたのは「紅」だった。
この時の名せりふ「南無三! 紅が流れた!」、文字久大と藤蔵で、骨太に聴かせてくれた。
さらに錦祥女の勘十郎、和藤内母の勘壽ともども、涙を誘うラストを見せてくれる。
ひさびさに、大スケールで荒唐無稽な冒険譚を楽しんだ。
このあとの四~五段目も、これまた『スター・ウォーズ』ばりの面白さなので(間延びする部分もあるせいか、近代では上演記録がないようだ。ならば圧縮校訂してでも!)、全五段通しで観てみたいものだ。
(1月16日所見)
【余談】
昨年11月に逝去された宇江佐真理さんの『深川恋物語』(集英社文庫)シリーズ中の一編「狐拳」に、いまでは大店の姑嫁となった元芸者の母娘が狐拳に興じ、店中で盛り上がるシーンがある。花柳界のお座敷遊びを、市井人がおおいに面白がって見ている。「虎拳」も同様だったかもしれない。

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