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2023.09.07 (Thu)

第422回 現国立劇場、最後の文楽の「伏線」

菅原徹底解説チラシ
▲現国立劇場、最後の文楽公演

現在の国立劇場における最後の文楽公演『菅原伝授手習鑑』、その「完全」通し上演を観た。

いままで、「寺子屋」のような有名な段や、抜粋による半通し上演は何度も観た。だが、さすがに初段から五段目まで、すべての段を通しで観たのは初めてであった。

もちろん、今の時代に、これほどの長尺狂言をいっぺんに上演することは不可能で、まず5月公演の第1部で〈初段〉が、第2部で〈二段目〉が上演された。

そしてこの8~9月公演の第1部で〈三段目〉~〈四段目〉前半を、第2部で〈四段目〉後半~〈五段目〉を上演。つまり4回通って、ようやく全編観劇となる、なんとも大がかりな公演であった。江戸時代は、これを明け方から1日で上演していたらしい。

前回の完全通しは1972(昭和47)年だったそうで、実に51年ぶりだという。さすがにあたしは当時、中学生だったので観ていない。まだ国立文楽劇場(大阪)の開場前であり、話題の興行だったようだ。すでに開演前から新聞記事になっている(当時の全国紙で、このような文楽に関する記事は珍しい)。

《原作全五段の完全通し上演。これは百六十年ぶりのことになる》《すでに前売りを始めているが、ふだんの倍近くも売れており、文楽公演の前売り新記録が出そうだという》(毎日新聞1972年5月8日付夕刊)

当時の国立劇場は、江戸時代同様、なんと1日で上演していた。

《昼の部と夜の部を合計したえんえん十一時間で(略)見せる》《これだけ上演時間をぜいたくに使ったので従来カットされていた端場(はば)が復活し、おかげで中堅級ないしそれ以下の人たちの持ち場が増えたのはいいことだった》(同5月24日付夕刊)

と書いたのは、大阪毎日新聞出身の劇評家で、国立劇場や文楽協会の運営委員などもつとめた、山口廣一氏(1902~1979)である。さすがに専門分野だけあり、当の中堅以下に対する評は、《語尾の音量に力が抜けるのがよくない》《声の使い方が一本調子》《もっと発声を内攻的にかすめるべき》と容赦ない。昨今の、紹介と大差ない劇評とは一線を画している。

しかしともかく、生きているうちにこんな機会はもう二度とないだろうと思い、あたしも鼻息荒く4回通った。そして、芝居(戯曲)の面白さを心底から味わうことができた。

 *****

道楽者に講釈する資格などないが、簡単に説明を。

『菅原伝授手習鑑』は、朝廷の権力争いが背景。菅原道真(菅丞相)の大宰府左遷を縦糸にし、横糸に三つ子兄弟の物語をからめて構成されている。

三つ子の長男・梅王丸は右大臣・菅丞相の部下。次男・松王丸は左大臣・藤原時平の部下。菅丞相と時平は対立関係にあるので、この兄弟も当然、不仲になる。一方、三男・桜丸は、天皇の弟君の部下なので、そのどちらにも与することができず、ある悲劇に巻き込まれていく。

全体の物語は、四段目の切〈寺子屋の段〉における空前の悲劇に向けて突き進むのだが、そこに至るまでのエピソードが、すべてクライマックスの「伏線」となっている。竹田出雲ら江戸時代の作者たちの見事な作劇術に舌を巻く。市井の一般家庭を襲う悲劇が、実は朝廷内の争いに起因していたとは! こんな芝居は、シェイクスピアもチェーホフも書いていない。

   *****

近年、SNSや新聞雑誌の映画評で、「伏線が見事に回収される」といった文言が目につく。つまり、前半の詳細不明なエピソード(伏線)が、実はクライマックスに関与していることが最後に明かされる(回収される)、それが見事だというのだ。

だが、最近の「伏線」は、いささか、ずるいよ。

たとえば、本年のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞した映画『怪物』(是枝裕和監督)が典型で、この映画は、なかなか全部を見せてくれない。前半をある特定の視点で描き、後半を別視点で描くものだから、「ええ? そういうことだったの?」と、何やら衝撃の「伏線回収」を見せられたような錯覚に陥る。

または韓国映画『告白、あるいは完璧な弁護』(ユン・ジョンソク監督)。いわゆる密室殺人ミステリだが、これまたちがった視点が伏線になるどころか、“妄想”までもが、いかにも伏線回収のように描かれる。よってたしかにハラハラするが、最後はカタルシス以前に疲労感に襲われる(本作はスペイン映画のリメイク)。

もっとすごいのが、例の宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』だ。勘弁してほしい。全編が伏線だらけで、回収されたのかどうかもよくわからないまま、それでも、どうやら大団円らしいラストになっている。そのため、いつまでも「あれは何の伏線だったのか」との論議がやまないことになる。

 *****

これらに比べると『菅原伝授手習鑑』の伏線は、潔くて美しい。劇中、菅原道真が詠んだ実在の和歌がいくつか登場する。たとえば《梅は飛び桜は枯るゝ世の中に何とて松のつれなかるらん》は、そのまま三兄弟の行く末の伏線となっている。

そのほか、〈北嵯峨の段〉で菅丞相の御台所を拉致する山伏。〈寺入りの段〉では、息子・小太郎を寺入りさせた母親が「あとで迎えに来る」といいつつ、なぜか名残り惜しそうに去る。どれも平然と描かれながら、あとですべてラストへの伏線だったことがわかる。視点を変えるなんて、一切ない。ひたすら正攻法だ。

今回は「完全」通し上演なので、最終五段目〈大内天変の段〉も上演された。先述のように51年ぶりなので、おそらく多くの見物が初観劇だったと思う。

ほとんどの狂言は四段目で物語は収束する。五段目は付け足しで、あってもなくてもいいような場面が多い(なぜ、そんな不要な場面がわざわざ付くのかは、今公演のプログラムで、大阪公立大学大学院の久堀裕朗教授が解説している)。

本作の五段目も、タイトル通り、天変地異のオカルト・ホラーで、いささか余分の感は否めない。だがそれでもなお、実は以前の段の、あの場面が伏線だったのかと気づかされる。最後の最後まで正統派の伏線回収がつづき、とことん見物を楽しませてくれる。作者たちのエンタメ精神が、270年余の時を超えて迫ってくるようであった。

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▲舞台稽古を取材した公演レポート(ステージ・ナタリー)


【余談】長年、国立劇場小劇場で文楽を楽しませてもらいました。しかし報道によれば、再開発事業の入札は6月の2回目も不落札だったとか。この調子では、2029年予定の再開場も心もとなく、いつになるか不明ですが、生きていればまた行きますので。

国立劇場は、9〜10月の大劇場、歌舞伎《妹背山婦女庭訓》通し上演が最終公演です。また、閉場中、文楽は別会場で公演されます。

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2023.06.09 (Fri)

第405回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(後編)

四つ橋文楽座絵葉書
▲四つ橋文楽座(出典:WikimediaCommons)

1930(昭和5)年、松竹は、四つ橋文楽座の開場にあたり、「桟敷」を廃止し、初めて「椅子席」(850席)の近代的な文楽専門劇場にした。

また松竹はこのときから、長時間を要する通し上演をやめ、すべて「見取り」(面白い段だけの抜粋上演)に切り替えている。
毎週日曜午前には、中学生向けの文楽鑑賞教室も開始した。

昨年逝去された文楽研究者の内山美樹子さん(内田百閒のお孫さん)は、こう書いている。

松竹が見取り方式に切りかえた主たる理由は、太夫・三味線の多くにビラのきく狂言を一段でも半段でも(場合によっては掛け合いのいい役でも)受け持たせることで、贔屓筋、いわゆる組見のお客に、まとめて切符を売ることをねらったものと考えられます(岩波セミナーブックス「文楽・歌舞伎」1996年、岩波書店刊)
※ビラのきく狂言=一般受けする演目
※組見〔くみけん〕=贔屓筋の団体鑑賞


もちろん明治大正期にも見取りはあり、「文楽は長すぎる」との声もすでにあった。だが、それでもちゃんと通し上演もやっていた。
それが見取り専門興行になったことを、内山さんはこう衝いている。

その原作が放棄され、本体も付属もない、見せ場、聴かせ場の切り売りに堕したのが昭和五年以後の松竹の上演方針であったのです。この興行方法は、組見のお客と、人形浄瑠璃を初めて観る近代人の新しい観客と、両方に当初は受け入れられたのでしょう。開場からしばらくは(略)記録的な大入りでした。しかし(略)文化遺産を食いつぶす興行方針が、真の成功をおさめるはずはなく、再び不入りをかこつようになります(前同書より)

もっとも不入りは満州事変の影響もあったようだ。

たが、これにより、物語の全容を知らずに一部だけを観て満足する新しいタイプの見物が続出した。
『平家女護嶋』でいえば、初段で俊寛女房に何があったのか、また、鬼界が島を脱出した海女・千鳥が、四段目でどんな活躍をするか——これらを知っているかいないかで、二段目「鬼界が島の段」の感動の度合いは、大きく変わるはずだ。

しかし、そんな松竹の方針転換のおかげで、『平家女護嶋』の二段目(俊寛)を、見取りで復活上演できたのだから皮肉な話である。

昭和5年、帝都は関東大震災から復興し、もう怨霊だの呪いだのの時代ではなくなった。
幸い『平家女護嶋』二段目はオカルト色がない。孤島に置き去りにされる俊寛の姿は、どこか近代日本人の姿に通じているようにも見える。
上演時間も約90分で、ちょうどいい。
文楽が見取り専門になるのだったら、今後、『平家女護嶋』はこの段だけやればいい。

『姫小松』三段目を見取りでやってもいいが、ラストで人形を同時に10体も出すのはたいへんだ。近松だったら6体ほどでいいし、ラストは俊寛1体だ。

……かくして、この昭和5年を境に〈俊寛〉ものは、近松版の見取りに代わった……ように、あたしは思うのだが。

  *****

豊竹山城少掾
▲豊竹山城少掾(昭和5年当時は、豊竹古靭太夫)

話が遠回りになったが、このときの復活上演を実現させたのが、豊竹古靭太夫、のちの“昭和の名人”豊竹山城少掾(1878~1967)である。三味線は名コンビの四世鶴澤清六。
この上演が素晴らしかったので、近松〈俊寛〉が定着したであろうことは、想像に難くない。

古靭は「古きに環す」に徹し、むかしの院本(全段通し床本)を蒐集、研究していた。その中から近松〈俊寛〉を再発見し、先達を訪ねてむかしの語りを学び、40年ぶりに床にあげたのだった。

ところが、その40年前のときは『姫小松子日の遊』の、さらに改変物『立春姫小松』としての上演だった。正式な近松作品としての上演ではなかったのだ。それでさえ、これまた40年ぶりの上演だったという。
ということは、古靭による復活は、事実上、「80年」ぶりの上演だったのだ(三宅周太郎『続文楽の研究』より、2005年、岩波文庫/原本は1941年刊)

上記『続文楽の研究』によると、古靭が先達から学んで復活した〈俊寛〉は、見事にむかしのスタイル通りだったという。それは80年前の再現でもあった(昭和5年の80年前とは嘉永年間、ペリーが来航したころである)。
古靭は「日月未だ地に落ちず」を痛感した。

著者・三宅周太郎は、上記本で「問題は実にこれである」と書いている。

私は度々義太夫なり、人形なりが、日本の演劇方面においては、歌舞伎劇よりその伝統に信用が出来るといって来た。(略)だが、一方歌舞伎劇を見ると悲しい事には歌舞伎には義太夫における『朱』のような、科学的根拠がない。(略)私が歌舞伎の演出法と伝統とに、常に疑いを持つのはこの理由によっている
※「朱」=床本や三味線譜への書き込み

いまの太夫に古靭の〈俊寛〉が伝わっているのか、あたしは知らない。しかしとにかく、「文楽」が、興行面や見物の荒波にもまれ、改変、消滅、復活を繰り返しながら生き残っていることには、まことに感嘆させられる。
そして「江戸時代のひとも、これとおなじものを観て、おなじ感動を得ていたのか」と思うと、胸が震える。
これが、文楽の魅力だと思う。

【関連回
第403回 俊寛は生きていた! まぼろしの文楽、復曲上演
第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)


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2023.06.07 (Wed)

第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)

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▲近松門左衛門『平家女護島』二段目「鬼界が島の段」西光亭芝國・春好齋北洲
(出典:WikimediaCommons)


前回、「俊寛が生きていた」との面白い文楽作品(浄瑠璃)『姫小松子日の遊』三段目「俊寛島物語の段」を紹介した。「江戸時代は、オリジナルの近松門左衛門版よりも、こちらのほうが人気があった」とも。

すると、数人の方から「そんなに面白い作品が、なぜ消えて、近松ばかりになったのか」と訊かれた。

実は、前回、それも書きかけたものの、あまりに長くなるので、省いてしまったのでした。しかし、複数の方からおなじ質問をされたので、やはり書いておくことにする。ただ、あたしは単なる道楽者で、研究者ではないので、過誤があればご容赦ください。
 
   *****

近松門左衛門、67歳時の人形浄瑠璃『平家女護嶋』〔へいけ/にょご/の/しま〕は、全五段構成(現代ではタイトル末尾は「島」が多い)。『平家物語』のなかの「足摺」や、「入道死去」などいくつかのエピソードをもとに改変された“打倒、平清盛”物語である。
牛若丸や、市川猿之助が昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で演じた怪僧・文覚も登場する。
二段目「鬼界が島の段」(いわゆる〈俊寛〉)がもっとも有名だ。

ちなみにタイトルの「女護嶋」(女ばかりの島)が、俊寛が流された鬼界が島のことだと思われがちだが、それはちがう。
三段目「朱雀〔しゅしゃか〕御所の段」で、常盤御前が次々と男を誘惑し、屋敷に拉致する場面「朱雀の御前は女護の嶋。むかしは源氏の春の園。今日は平家の秋の庭」から来ている。

実は常盤御前は、ワーグナーの《ワルキューレ》みたいに、平家打倒のための兵士を集めていたのである。
これは、夜な夜な美男子が誘惑拉致されていた「千姫御殿」伝説のパロディだ(山本富士子や京マチ子、美空ひばりなどで何度も映画化された)。

常盤御前ばかりではない。清盛に側室になれと迫られる東屋(俊寛女房)は自害する。
また、俊寛の身代わりのようにして鬼界が島を脱出した海女・千鳥は、後段で、清盛が海へ突き落した後白河法皇を救出する。怒った清盛は千鳥を殺す。
そして最後は、この2人の女(東屋、千鳥)が怨霊となって、清盛を呪い殺すのである。

要するに、この作品は平清盛を追いつめる女たちの話なのだ。
よってタイトルの『平家女護嶋』には、「女」たちが力をあわせて平清盛を抹殺するプロジェクト名のようなニュアンスがある。
ということは、二段目(俊寛)だけを観て感動するのは、木を見て森を見ないようなもので、近松先生も不本意なのではあるまいか。

初演は1719(享保4)年8月、大坂竹本座にて。
だが、全段通しで上演されたのは、このときだけ。次の再演は52年後の1772(明和9)年だった(下記・倉田本より)。その間は、前回ご紹介した『姫小松子日の遊』のような改変物が人気を独占していた。

では、なぜ近松版は消えてしまったのか。
実は、いまでこそ近松門左衛門は“日本のシェイクスピア”などと称されているが、江戸時代当時は「近松の作品は一度上演されただけで、二度、三度と繰り返して上演されたものは、ほとんどない」「作品の大半は一回限りの上演で終わっており、一部の作品のみ数十年を経てようやく復活の兆しが出てくる」、そんな存在だった(倉田喜弘『文楽の歴史』より、2013年、岩波現代文庫)。

なぜか。倉田本では「(近松の)作品のねらいは(略)いわゆる虚実皮膜の間に慰みを見出そうとする点にあった。とはいえ、人形は一人遣いで三味線の技術も未熟な時代、近松の考えはどこまで実現できただろうか」と記されている。
つまり、近松の時代、人形は一人遣いで、いまのような精妙な動きはできなかったらしいのだ。
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▲近松門左衛門『曽根崎心中』上演風景。たしかに人形は一人遣いだ。(出典:WikimediaCommons)

人形が三人遣いになったのは、1734(享保19)年、竹本座初演の『芦屋道満大内鑑』からだと、どの本にも書かれている(倉田喜弘氏はこれに異を唱え、1800年ころだとして実に面白い“論争”になったのだが、紙幅でカット)。

いずれにせよ、近松門左衛門は1725(享保9)年に亡くなっているので、人形が三人遣いになる前に世を去っているのである。再演されるのは、ほとんどが、三人遣いになってからの時代だ。

一人遣いでは、近松ならではの精妙な感情表現も難しかっただろう。作品の本質が見物に伝わらず、いくらいい狂言を出しても、すぐに忘れ去られた。
現に、演劇評論家・渡辺保氏の『近松物語 埋もれた時代物を読む』(2004年、新潮社)では近松の時代物狂言が20余、紹介されているが、このなかでいまでも知られているのはせいぜい1~2本である。

一人遣いで中途半端な近松作品よりも、荒唐無稽、波乱万丈な改変物のほうが面白いのは当然だったろう。おなじ〈俊寛〉だったら、近松よりも『姫小松』のほうが、はるかに楽しかったはずだ。

   *****

ところが、その現象が逆転する。
1930(昭和5)年1月、松竹は、大阪に四つ橋文楽座を開場した。
(当時の文楽は、現代の歌舞伎のように、松竹が経営していた)
その杮落とし興行の一演目が『平家女護嶋』二段目「鬼界が島の段」で、これが実に40年ぶりの復活上演であった。
いうまでもなくすでに三人遣いの時代だ。ついに近松が復活する日が来たのだ。

しかも、この四つ橋文楽座の開場は、文楽の歴史を語るうえで、革命的な出来事だったのである。
〈この項、つづく〉


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2023.06.03 (Sat)

第403回 俊寛は生きていた! まぼろしの文楽、復曲上演

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▲5月31日、江東区深川江戸資料館にて

〈俊寛〉といえば、島流し。平家へのクーデター容疑で逮捕され、仲間2人と共に終身刑の罪で島流しにされた僧侶である。

ところがのちの恩赦でほかの2人は釈放されたが、俊寛だけは許されなかった。絶望した俊寛は絶食して孤島で果てた……『平家物語』や能『俊寛』、近松門左衛門の文楽/歌舞伎『平家女護島』などで描かれてきた有名エピソードである。

だが、実は俊寛は、孤島を脱出して生き延びていた……そんな文楽が、竹本千歳太夫(浄瑠璃)、野澤錦糸(三味線)による「素浄瑠璃の会」で復曲上演されたので、いってみた(5月31日、江東区深川江戸資料館にて)。これがたいへん面白かったので、ご紹介したい。

ちなみに「素浄瑠璃」とは、本来、文楽が「人形」「太夫」「三味線」の三業で上演されるべきところを、「人形」なし、音のみで演奏される、いわば「コンサート」である。

で、その作品は『姫小松子日の遊』〔ひめこまつ/ねのひ/の/あそび〕~三段目「俊寛島物語の段」といった。近松半二、三好松洛、竹田小出雲ほかによる合作である。1757(宝暦7)年に初演された。松洛や小出雲らによる名作『菅原伝授手習鑑』から11年ほどのちの作品だ。江戸時代は、近松門左衛門版よりも本作の方に人気があったという。記録に残っている最後の上演は1902(明治35)年だ。
   ***
以下、ストーリーを記す(詞章は、当日配布された床本をもとに、読みやすいように一部を書き換えました)。

舞台は京都の山奥、怪しげな山賊一味の巌窟。

山賊たちが、都から、ある〈母娘〉を拉致してきた。いまこの巌窟の奥では、さる〈女性〉が出産間近なのだ。だが男しかいないので、助産婦役を誘拐してきたのである。なぜか〈娘〉もくっついてきた。

〈女性〉は、やんごとなきお方のようで、「玉のような」〈男子〉を産む(ここまでの過程が実に面白いのだが、紙幅でカット)。

山賊の首領は〈来現〉〔らいげん〕といった。「髪はおどろに生い茂り、伸びたる眉毛に、ぎろつく眼中」との容貌魁偉である。

その〈来現〉が、出産直後、「なに、男子とな。源氏の運の開け口」と口ずさんだ。それを〈母〉は聞き逃さなかった。「さきほどのおことばに、“源氏の運の開く”とおっしゃったは」、お前は何者だと迫る。

しばらく問答があって(紙幅でカット)、ついに〈来現〉は身の上を物語る。前半は、近松門左衛門版とほぼおなじである。
……去るころ平家一門の咎めを受けし三人、鬼界が島へ流されし。康頼、成経ふたりは赦免。(わしは)一人のちに捨てられし、俊寛でおじゃるわいの~!
ひえ~、あの、お前が!」(なぜかかなり過剰反応)

問題はここからの回想だ……あるとき、ひとり島に残された俊寛のもとへ、弟子の有王丸が訪ねてきた。そして平重盛からの重要なミッションが伝えられた(重盛は以前より俊寛に同情的であった)。

そのミッションとは……高倉天皇の寵姫(愛妾)・小督局〔こごうのつぼね〕が懐妊した。男子ならば次代天皇は確実である。ところが、高倉天皇の中宮(皇后=建礼門院徳子)が、実父・平清盛と一緒になって嫉妬し、出産を妨害しかねない。そこで重盛がひそかに小督局を救出し、いま巌窟に匿っている。

俊寛、早くもかの地におもむき、ご誕生の若君、守護いたせよ」……驚くべき密命である(なぜか出産前に「若君」とわかっているのはご愛嬌)。

かくして俊寛は密航帰国し、山賊の首領〈来現〉に化けて、小督局の出産をお助けしたというわけである。

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▲国芳画 (右から、俊寛、〈母〉お安、有王丸、亀王丸)/kuniyoshiprojectより

驚きは、まだ続く。助産婦をつとめた〈母〉(お安)は、俊寛の家臣・亀王丸の女房であった。さらに、連れていた〈娘〉(小弁)は、俊寛が都に残していた息子・徳寿丸であった。女子に変装させ、亀王夫妻が守ってきたのである。

のう懐かしい、とと様!」とすがりつく徳寿丸。俊寛「そうして母はなんとした」。すると守り袋を出し「かか様はこのなかに」。そこには俊寛の妻の戒名が……。

俊寛は右手に戒名、左手に我が子を抱き、「親子三人、このように、顔合わそうと思うたに、冥途へ行ったか、悲しや~」と号泣する。

その後も実にいろいろあるのだが紙幅でカット。結局、この巌窟にいる連中は、実は源氏方と平家方が化けた姿で入り乱れていたことが判明する。すごい迫力で一触即発の状況に陥るのだが、おなじみ「戦場にて再会せば。さらば」で幕となる。

ちなみに小督局が産んだ〈男子〉だが、クライマックスで「後鳥羽院と申せしは、この若君の御ことなり~」との衝撃の事実が語られる(史実では、別の寵姫の子)。
   ***
上演時間80分、唖然茫然とはこのことで、開いた口がふさがらなかった。あまりにも自由奔放な改作ぶり、ひたすら客を驚かせつづける作劇術と快テンポ、知識と教養に裏打ちされた人物設定に、圧倒されっぱなし。近松版よりこちらのほうが人気があったというのも納得の面白さであった。

もちろん、千歳太夫&錦糸の大熱演あってこそ。上演後のトークによれば、本来なら3組で演じ分ける段だそうで、錦糸師匠は「さすがに最後は腕が攣りそうになりました」と言っていた。さらに「あまりに人物が多く、しかも全員が別人に化けているので、演(や)っていて誰が誰だか、わからなくなりました」。

千歳師匠も「大人数なので、ドリフターズのイメージで、2人+2人のパターンで演じ分けました。こっちはカトちゃんとケンちゃん、あっちは仲本工事さんと高木ブーさん」と言っていた。

たしかに、最終場面は(本公演だったら)10体前後の人形が同時に登場するのではないか。30人の人形遣いが舞台上に入り乱れることになる。

三味線の譜面も残っていたが、あまり正確な書かれ方ではなく、復曲作業もたいへんだったようだ。実はお2人は、すでに数年前に内輪での上演をおこなっているほか、床本資料なども各地の研究機関に残っており、研究者の間ではそれなりに有名作品なのである。だが、それでもこうやって復曲上演を続けている。おそらく最終目標は、本公演だろう。錦糸師匠も「本公演で上演できればいちばんいいんですが……」と言っていたが、なかなか容易ではないようだ。

たしかに、これを人形つきの本舞台で観られたら、どんなに面白いだろう。それこそ署名を集めて国立文楽劇場へ直訴したくなる、そんな作品なのだが。


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2020.02.27 (Thu)

第272回 イヤホンガイド、大好き

イヤホンガイド
▲国立劇場仕様(左)と、歌舞伎座使用(株式会社イヤホンガイドのHPより)

 ※舞台公演中止が相次ぐ折から、的外れなコラムですが、これは2月22日に執筆されたものです。

 わたしは、文楽に行くと、必ずイヤホンガイドをつかう(歌舞伎では、あまりつかわない)。
 そのことを知己に話すと、意外な顔で「いまさら筋なんか、わかってるでしょう」と言われる。
 だが、筋を知りたくてつかうのではない。イヤホンガイドは、筋書にも出ていない、実に面白い解説をしてくれるのだ。

 たとえば、今月(2月)の国立小劇場〈野崎村〉、お染登場のシーンで、こんな解説があった(記憶で書くので、細部は正確ではない)。
「振り袖姿のお染が、背中の襟のあたりに、なにか付けております。これは通称〈襟袈裟〉などと申しまして、髪の油が垂れて、着物が汚れるのを防ぐものでございます。これを着用しているのは、良家の子女の証しでございます」
 
 また〈勧進帳〉では、
「ここで三味線の鶴澤藤蔵にご注目ください。たいへん珍しい弾き方です。これは、三味線で琵琶の響きを模倣しております」
 
 さらに今月は、六代目竹本錣太夫(もと津駒太夫)の襲名披露があったので、幕間に、ご本人のインタビューが流れた。大学時代にテレビで文楽を観て感動し、津太夫に入門したのだという。「テレビ」がきっかけで文楽の世界に入ったなんて、知らなかった。

 株式会社イヤホンガイド(旧名・朝日解説事業株式会社)は、1975年、朝日新聞の記者だった久門郁夫によってはじまった(創設当初の興味深いエピソードがHPで紹介されている)。このとき協力したのが、古典芸能評論家の小山観翁さん(1929~2015)である。
 わたしは、生前の小山さんに、そのころのお話をうかがったことがある。
「最初は国立劇場も歌舞伎座も『解説など余計だ。歌舞伎は何度も観ているうちに自然とわかってくるものだ』と、あまり乗ってくれませんでした。役者たちも『歌舞伎は役者の芸をじっくり楽しんでいただくもので、その場であれこれ解説されたくない』と否定的。ところが、成駒屋(六代目中村歌右衛門)だけが『これからは、そういうものが必要よ。ぜひ、おやんなさい』と言ってくれました。これがきっかけで、導入が決定したようなものなんです」
 小山観翁さんの、あのすこしダミ声がかった口調がなつかしい。

 もうひとつ、わたしがイヤホンガイドを好む理由は、解説員の「芸」を楽しめるからである。解説員は、おそらく原稿をつくって、それを読んでいるのだろうが、「原稿をそのままていねいに読む」ひとと、「原稿を咀嚼して自分のコトバにする」ひとがいる。面白いのは、なんといっても後者である。誰もが、文楽を好きでたまらない様子が口調にあふれていて楽しい。

 その代表格は、わたしが大ファンである、松下かほるさんだ。もとフジテレビ/ニッポン放送のアナウンサーで、もの心つく前から芝居に通っていたという。失礼ながら、相応のご年輩と察するのだが、まことに美しい日本語で、いまの若い方々は、こんなきれいな日本語を話すおとなの女性がいることに、仰天すると思う。しかも、原稿がご自分の「コトバ」になっている。上記、〈襟袈裟〉の解説も、この松下さんだった。わたしは、文楽に行くと、舞台よりも、「松下さんはどの幕を解説するのかな」と、そっちが気になることがある。

 もうひとり、高木秀樹さんも大ファンだ。著書もある専門家だが、このひとも、コトバがきれいで、ただ読んでいるのではないことは明らかだ。しかも、幕間解説がすごい。
 たとえば、(演目は忘れてしまったが)かつて、珍しい演目がかかった際、物語の舞台となった関西の土地へ取材に行き、どんなところか、レポートしてくれたことがある。しかも筋が複雑で「わたくしでも筋がわからなくなる、それほど入り組んだお芝居でございます。本日は、すこしでもわかりやすくなるよう、一生懸命に解説いたしますので、どうか、よろしくお願い申し上げます」と宣言したことがあって、これには感動した。
 また、引退した技芸員が亡くなると、その思い出話や、葬儀の様子を話してくれる。あるとき、ロビーの隅で、しんみりしながら聴いていたら、同じく、じっとイヤホンガイドに耳を傾けている年輩の女性がいて、「ああ、同じ気持ちなんだな」と感動した記憶がある。

 鈴木多美さんは、いい意味で「あおる」のが、うまい。2月の〈勧進帳〉では、
「さあ、ここから最後まで、出遣い3人、太夫7人、三味線7人による、弁慶の舞。どうぞ、その迫力に、打ちのめされてください」
 凄絶な六方で弁慶が引っ込んで幕。しかし、拍手は鳴りやまない。アンコールがありそうなほど、拍手がつづいた。その原因の一部は、鈴木多美さんの解説にあったと思う。
 早く新型肺炎騒ぎがおさまって、また、彼ら解説員の話を聴きながら舞台を楽しめる日が来ることを願ってやまない。

 ところで、以下は与太話。
 わたしは、このイヤホンガイドを、通常のクラシック・コンサートに導入してもいいのではないかと思っている。「冗談じゃない。それじゃ、音楽を楽しめないじゃないか」とおっしゃる方は、使用しなくてけっこう。
 たとえば、最近、わたしは、東京佼成ウインドオーケストラのプログラム解説に「この曲には、ビゼー《カルメン》の断片や変容がちりばめられている」と書いたが(ショスタコーヴィチの交響曲第5番)、実際に聴いて、どこにそれらが出てくるのか、わからないひとが大半だったと思う。そういうひとたちに、最低限の解説を同時に与えたい。居眠りで聴き逃すより、ずっといいと思うのだが。

 中高生が多い吹奏楽コンサートでは、こんなの、いかが。
「壮大にはじまりました、冒頭の旋律。これはアルメニア民謡《あんずの木》がもとになっております。あんずは、アルメニアでは、日本の桜のように、国をあげて愛されている植物です。そんな民謡を冒頭につかうことで、この曲が、アルメニアを讃える曲であることを、示しているわけでございます」
 わたしも「一生懸命」解説しますんで、どこかスポンサーになってくれませんか。
<一部敬称略>

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