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2023.08.27 (Sun)

第421回 文楽とバレエが同居した、前代未聞の合同公演

舞台芸術のあしたへ
▲国立劇場6館研修終了者合同公演

独立行政法人日本芸術文化振興会は、6館の国立劇場を運営し、それぞれが研修事業を実施している。歌舞伎、大衆芸能(太神楽、寄席囃子)、組踊(琉球音楽劇)、能楽、文楽、オペラ、バレエ、演劇……と多岐にわたっている。

あたしが国立劇場の研修制度を強く認識したのは、1986年、スーパー歌舞伎の第1弾、『ヤマトタケル』初演だった。かなり重要な脇役「みやず姫」を、名題下の市川笑也が見事に演じたのだ。三代目猿之助の門下で、それまで澤瀉屋一座では腰元などを演じていただけに、異例の大抜擢だった。

このとき笑也が一般家庭の出身で、国立劇場研修所の修了生(第5期)であることが話題となった。このあと、笑也は同演目の再演で兄橘姫役などに“昇進”、澤瀉屋の人気女形に成長する。同時に門閥を重視しない三代目猿之助の方針も明白になった。市川春猿(現・河合雪之丞)、市川段治郎(現・喜多村緑郎)といった研修所修了生が続々起用された。

そんな国立劇場研修所の修了生による合同公演『舞台芸術のあしたへ』に行ってみた(8月20日、国立劇場大劇場にて/昼夜2回公演のうち、夜の部を鑑賞)。初代国立劇場が10月で閉場されるにあたっての「さよなら特別公演」だという。

チラシを見ると(上写真)、歌舞伎からはじまって演劇、能楽、大衆芸能、組踊、バレエ、文楽、オペラ……など計9演目が上演されるようだ。いままで、こんな催しがあったのか寡聞にして知らなかったが、あたしは初めての見物である。

しかし、これだけのものをやるのだから、3~4時間を要すると思いきや、上演時間は休憩なしで1時間45分となっている。ということは、おそらく1演目10~15分程度。吹奏楽コンクールの規定演奏時間とおなじだ。いったい、こんな短時間で、歌舞伎から文楽、バレエ、オペラまでを、どうやって見せるというのか……。たぶん、演目ごとに幕を上げ下げし、なにもない舞台上でシンプルに、それこそ学校の体育館における合唱コンクールのように展開するものだと思っていた。

ところが、そうではなかった。最初、たしかに緞帳は下りていた。しかし開演して上がったら、最後まで緞帳は下りず、幕も引かれなかった。シンプルながら、ちゃんと舞台美術もある。あたしたちは9つの演目を観たのではなく、105分間の一幕出し物を見せられたのである。

ではどうやって舞台転換をしたのか。ほとんどの演目は、廻り舞台を使っていた。たとえば冒頭は中村又之助(第8期)、市川新十郎(第10期)による歌舞伎舞踊『二人三番叟』だった。正面に、人間国宝・竹本葵太夫(第3期)を中心に、三味線・鳴物。後方に松羽目板。終わると暗転して羽目板が上がり、舞台が廻り始める。

すると後方から廻ってきたのは、沖縄「ひめゆり学園」の女生徒たちである。新国立劇場の演劇ファンにはおなじみ、朗読劇『ひめゆり』だ(脚本:瀬戸口郁、演出:西川信廣)。全部で10数名、半分はつい1週間ほど前に本公演を演じた第17期の現役生たちである。もちろんダイジェストだが、さっきまで歌舞伎舞踊が展開していたおなじ板の上で、真っ赤な照明を浴びながら沖縄戦を題材にした現代劇が展開することに、まったく不自然さを感じなかった。

このようにして、次々と舞台を廻しながら、狂言『盆山』(昼の部は居囃子『高砂』)、太神楽(いわゆる曲芸)、そして国立劇場おきなわの組踊『手水の縁』と間断なくつづく。あたしは組踊を見たのは初めてで、それまで琉球芸能といえば民謡くらいしか知らなかったのだが、歌三味線による地謡がこんなに美しいとは思わなかった。

唯一、セットも道具もない舞台上で、むき身の肉体のみで展開した演目が、バレエ『ロマンス』である。新国立劇場バレエ団の貝川鐵夫が振り付け、ショパンのP協第1番の第2楽章で、5人の女性ダンサー(第15、17期)が踊った。2016年初演の人気演目だそうで、静謐で美しい舞台だった。

つづく文楽は、吉田勘彌(第2期)、吉田蓑二郎(第3期)の人形を中心にした『万才』。文楽特有の舞台機構「船底」「手摺」なども即席で設けられていた。さすがに「床」は設置できないので、太夫・三味線は舞台正面、長唄風の山台上で演奏された。

ちなみに文楽の研修所は、今年度、入所者がゼロだったことが話題となった。あたしは、その件で吉田勘彌さんに取材して「デイリー新潮」に寄稿したばかりだったので、他人事とは思えずに見入ってしまった(準備の都合上困難だったろうが、文楽を知らないひとにアピールするいい機会だったので、できれば八百屋お七の「火の見櫓」か「金閣寺」の木登りシーンなどを演ってほしかった)。

オペラは《椿姫》~〈乾杯の歌〉の場。ピアノ伴奏と簡素なセットだが、ちゃんとヴィオレッタ邸の大宴会を、衣裳・小道具付きで見せてくれる。しかも第1幕冒頭部から〈乾杯の歌〉終了までを字幕付きで全部聴かせてくれた。

最後に歌舞伎の景事《元禄花見踊》がにぎやかに演じられ、出演者全員が舞台上に並ぶフィナーレで終了。当日は両花道が付いており、歌舞伎陣は下手花道から、バレエやオペラ陣は上手花道から登場した。来月が『妹背山女庭訓』の通しなので、すでに両花道が設置されていたのだろう。おなじ舞台上に文楽の人形遣いとバレリーナが一緒にならぶ、前代未聞のヴィジュアルが展開したのであった。

これは、中学高校の芸術鑑賞会にぴったりの公演だと思った。一演目がせいぜい十数分。次から次へと瞬きする間もなく、まったくちがうタイプの演目が飛び出してくる。おそらく生徒たちは、終演後「どれが一番よかったか」で盛り上がるだろう。

仕込みや演者の確保で、そう簡単にはできないことは十二分にわかる。だが、これほど広範な舞台芸術があり、それを国が維持している姿を若いひとに見せることはとても重要だと思う。そして、これらの演目すべてに(ほぼ無償、もしくは奨励金まで出る)「研修制度」があり、安定企業への就職ばかりが未来ではないことを知ってもらう、いい機会だとも思うのだが。
(敬称略)

国立劇場タクシー突っ込んだあと
▲8月11日に、タクシーが突っ込んだ跡(国立劇場)

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2023.07.19 (Wed)

第416回 【追悼】「拍手をしないでください」と”説教”した、外山雄三さん

外山雄三パシフィル
▲これが外山雄三さん、最後のステージだった

作曲家・指揮者の外山雄三さん(1931〜2023)が、7月11日に亡くなられた。享年92。いうまでもなく、日本で現役最長老のマエストロだった。

最後のステージは、5月27日、パシフィックフィルハーモニア東京(PPT)の第156回定期演奏会だった(東京芸術劇場)。プログラムはシューベルトの交響曲第5番と第9番《ザ・グレイト》。

あたしは、最近、縁あってPPTの定期に行っているのだが、この日は都合でどうしても行けなかった。そこで、知人(60歳代、男性)が行っていたので話を聞いたら、ある意味、壮絶なステージだったようだ。

「開演前に楽団長のあいさつがあり、“外山さんがゲネプロで体調を崩した、よって前半の5番は指揮者なしで演奏し、後半の9番で登壇していただく”——とのことでした。

5番は小編成で、コンサート・マスターを中心に、とてもきれいな演奏でした。後半の9番になり、いよいよ外山さんが登壇しました。しかし、スタッフに支えられてようやく指揮台に上がったような感じで、ほんとうに大丈夫かなと不安を覚えました。

演奏は始まりましたが、後ろ姿を見ているかぎり、なんとなくつらそうで、私は音楽にあまり集中できませんでした。

それでもなんとか第3楽章が終わり、最終楽章に入る直前、なにやらコンサート・マスターに話しかけていました。『(自分は)これから何をやればいいのか』と訊ねているような感じでした。

いよいよ最終楽章がはじまりましたが、しばらくすると、嘔吐されたのか、あるいは咽〔むせ〕たのか、口をおさえて指揮できなくなりました。すぐにスタッフが車椅子で外山さんを下がらせました。たいへん素早い対応で、おそらく舞台裏では、この事態を想定していたような気がします。

その間、演奏は、コンサート・マスターを中心にストップすることなく、つづいていました。ひとの生死にかかわる事態が起きているのに、それでも演奏しなければならないのか……と少々複雑な思いでした。仮に途中終演になっても、誰も払い戻しせよなんて、いわなかったと思います。

しかし、これもきっと想定内だったのでしょう。おそらく外山さんの希望でもあったと思います。ボロボロになっても指揮台に立った外山さんと、あんな状態でも最後まで見事に演奏をつづけたPPTの姿に、演奏家の宿命みたいなものを感じ、最後には感動を覚えました」

終演後、鳴りやまぬ拍手のなか、車椅子で外山さんがカーテン・コールに登場し、客席に頭を下げたという。ちゃんと意識もあって、意外としっかりした様子に、みんな安堵していたそうだ。

伝聞なので正確ではないかもしれないが、以上が外山雄三さんの生涯最後のステージ姿である。引退を口にすることもなく、最後まで現役だったのだ。

   *****

あたしの高校時代、親がNHK交響楽団の定期会員だという同級生がいた。2席持っているのだが、しばしば親が行けなくなると誘ってくれて、よく2人でオープン間もないNHKホールへ行った。するとかなりの確率で、指揮が外山雄三さんだった(定期だけでなく、いわゆる名曲コンサートも多かった)。

その外山さんが指揮すると、これまたかなりの確率で、アンコールが《管弦楽のためのラプソディ》だった(聴衆は、そっちを期待しているフシが感じられた)。

この曲は、1960年、N響世界一周ツアーのアンコール用に外山さんが作曲した、約7分の小品だ。本来、20分ほどの曲だったが、リハーサルで岩城宏之さんが「長すぎる」とカットした。ところが、それが吉と出てアンコール・ピースとして定着した。《あんたがたどこさ》《ソーラン節》《炭坑節》《串本節》《信濃追分》《八木節》などが次々登場する、熱狂の狂詩曲(ラプソディ)である(もしかしたら、この数年前に朝比奈隆がウィーン・トーンキュンストラーとベルリン・フィルで初演した、大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》が脳裏にあったかもしれない)。

N響世界一周
▲聴くたびに、感動で涙が出る。

このときの世界ツアーのライヴ録音がCD8枚組セットになっている。《ラプソディ》は、ワルシャワ、ローマ、ロンドンでの演奏が収録されている。指揮の岩城さんは当時28歳。ローマでは当時29歳の外山さん自身が指揮しており、聴衆が熱狂興奮している様子がおさめられている。

この世界ツアーには18歳の堤剛vc、16歳(高校生!)の中村紘子pも同行した。最年長が32歳の園田高弘p、31歳の松浦豊明pである。

戦後15年、復興なった敗戦国日本の姿を世界に発信するべく、外山さんと岩城さんをはじめとする青年たちと少年少女が、かつて自分たちを「イエロー・モンキー」と嘲笑した国へ乗り込み、全身全霊で演奏している。若き日の外山さんの大仕事だ。この感動的な録音を聴くたびに、あたしは涙を禁じえない。

ちなみに《ラプソディ》は、のちに藤田玄播氏の編曲で吹奏楽版になっており、いまでは《吹奏楽のためのラプソディ》として、日本吹奏楽界の重要レパートリーになっている。

   *****

あたしは、外山さんとは、何度か立ち話で雑談した程度の面識だが、なんとなく、町内会長の江戸っ子オヤジのような印象があった。その印象を生前の岩城宏之さんに話したら、「そりゃそうですよ、あのひとは指揮者としては、徹底的な現場たたき上げだもん」といっていた。

外山さんは東京藝術大学の作曲科を卒業後、1952年にNHK交響楽団に「打楽器練習員」として入団する。それから「指揮研究員」となり、現場でアシスタントや副指揮者として、実地で勉強しながら指揮を身につけていったのだ。岩城さんが「現場たたき上げ」と称した所以である。

   *****

外山さんでは、わすれられない“説教”がある。外山さんは、歴史ある東京国際音楽コンクール〈指揮〉の審査委員長を長くつとめていた(3年ごと開催)。その第18回(2018年)の「入賞者デビュー・コンサート」(2019年5月、東京オペラシティ)で、外山さんが、開演前にあいさつに立った。てっきり、選評を話されるのかと思ったら、意外なことをいい出した。録音していたわけではないので、正確ではないが、おおむね、こんなスピーチだった。

「海外のコンクールの聴衆は、日本よりずっと厳しい。聴いてよくなければ、平気で席を立ち、出て行ってしまいます。本日、これから、上位入賞した若者たちが指揮をします。しかしどうかみなさん、お聴きになって、よくなければ、無理に拍手などしないでください。気に入らなかったら、音を立てて出て行ってかまいません。それがかえって、彼らを育てることになるのです」

客席からは笑いがもれたが、いかにも外山さんらしい、ユーモアと厳しさが同居したスピーチだった。おそらく外山さんは、何でも拍手してほめる日本の聴衆のアマちゃんぶりに、イライラしていたのではないだろうか(岩城宏之さんも、むかし、本番中に似たようなことを客席に向かって話して物議を醸したことがある)。

なお、このとき外山さんが「無理に拍手をしないでください」とまでいった入賞者は誰だったか、みなさんご存知ですか。1位が、いまや日本クラシック界で人気絶頂の、沖浦のどかさん。2位が、この4月に東京佼成ウインドオーケストラ定期で《コッツウォルド・シンフォニー》の名演を披露した、横山奏さんですよ。

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▲ロストロポーヴィチ(チェロ)と共演する外山さん。おそらく、彼の委嘱で作曲した《チェロ協奏曲 第1番》の演奏風景。
(出典:WikimediaCommons)

□パシフィックフィルハーモニア東京のお悔やみメッセージ
外山さん指揮、N響による《管弦楽のためのラプソディ》(1983年の映像)
※オールドファンにはたまらない、懐かしい顔ぶれが勢ぞろいしています。

□《管弦楽のためのラプソディ》1960年N響世界ツアー、ワルシャワでの録音(岩城宏之指揮)は、こちら
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(非会員は冒頭30秒のみ)

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2023.03.24 (Fri)

第391回 名曲喫茶で聴く《レニングラード》(下)

NBC.jpg
▲1942年7月19日のライヴ(CD化は数種類あるが、これはもっとも音質がいいといわれている「オーパス蔵」盤)。

前回からのつづき)

ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》は、誰もが、クーセヴィツキーがアメリカ初演をすると思っていた。

しかし、実はNBC放送局が、昨年1月、クイビシェフにおける初演時、リハーサルでも一音も耳にせず、どんな曲かもわからないうちに、モスクワ支局を通じて、西半球初演権の交渉を始めていたのだ。そして、すでに4月に、NBCは、アメリカ初演権を手中にしていたのである。


だが、問題は「誰に指揮をさせるか」だった。
NBC交響楽団といえば、トスカニーニのラジオ放送用に設立されたオーケストラだから、当然ながらトスカニーニが指揮するのがふつうである。ところがこの時期、トスカニーニは、NBC側と意見が合わず、同団を一時辞任し、離れていた(そもそも、もうトスカニーニは「定期演奏会」活動は引退していたのである。それを、NBCは、新しい交響楽団をつくって、「ラジオ放送だけですから」と、老体をむりやり引っ張り出させていたのだ)。
もう一人、ストコフスキーもNBC響と縁が深いとあって候補にあがったが、彼もトスカニーニも、ともに、来シーズンから、W常任指揮者としてカムバックすることになっており、この時期は、NBC響とは“無縁”状態だったのだ。

NBCは、交響曲第7番そのものと、演奏するオーケストラは手中にしたが、指揮者については、確定できなかった。トスカニーニもストコフスキーも、NBCとの共演は来年の契約であり、まだ先である。しかし、マエストロ・トスカニーニだったら、このスコアを見て気に入れば、この夏、指揮すると言い出すかもしれない(4年前に、彼はショスタコーヴィチ第5番の初演をオファーされ、断っていたのだが)。そこで、スコアがトスカニーニのもとへ届けられた。NBC側は息を呑んで反応を見守った。スコアを見るや、彼はこう言った。「非常に興味深い、これは効果抜群だ」。彼はもう一度スコアを見て、こう言った。「Magnificent!」(素晴らしいぞ!)。


このときトスカニーニは、15歳年下で還暦のストコフスキーに「わたしのような反ファシズムの老人が指揮してこそ、効果がある。キミはまだ若いのだから、ショスタコーヴィチを初演する機会は、いくらでもある」との手紙をおくったそうだ。
かくして、クーセヴィツキーもストコフスキーも、

実際は、ライバルである75歳のトスカニーニに先を越されていたのである。トスカニーニは、クーセヴィツキーより1カ月前の7月19日に第7番を指揮すると発表した。/(略)ストコフスキーはがっかりして西海岸に戻り、ロジンスキーは見向きもしなかった。NBCは、オーケストラの奏者を、この曲が必要とする大型編成に増員した。近視のマエストロ、トスカニーニは、毎晩、スコアに鼻を突っ込むようにして暗譜に励んでいた。

※トスカニーニは、基本的に暗譜で指揮した。極度の近眼で、スコアが見えにくかったためといわれている。

このころのクラシック指揮者たちの動向は、よくいえば“個性的”、悪くいえば“エゴのかたまり”で、昨今とのあまりにちがうド迫力に、驚くばかりである。

しかしとにかく、1942年7月19日、ニューヨークのNBCスタジオで、トスカニーニ指揮、NBC交響楽団によるアメリカ初演がおこなわれ、全米にナマ中継された(録音を聴くと、拍手が入っているので、スタジオ内に聴衆を入れたようだ)。

後年、この録音を聴いたショスタコーヴィチは「腹が立った。すべて間違っている。やっつけ仕事である」と語ったそうだ(ただし、偽書といわれているヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』内の記述)。たしかに、特に弦楽器の奏法が、現在とはちがっていたりして、違和感をおぼえるひとがいるだろう。
それにしたって、「初演」で、1時間強、ぶっつづけで圧倒的な演奏を繰り広げるトスカニーニは、まことに恐るべき老人だとしかいいようがない(何度も述べるが、このとき「75歳」である)。
この時期、問題のレニングラード包囲戦はまだつづいていた。そんな、いま現在起きている戦火のなかから生まれた抵抗の音楽を、同時進行のように演奏したのだから、熱が入ったことだろう。

そのラジオ放送録音を、約80年後の2023年2月、渋谷の名曲喫茶「ライオン」で聴いたわけだが、考えてみれば、《レニングラード》が初演された日も、「ライオン」は渋谷で営業していたはずである。
その日は、すでに太平洋戦争に入っており、1か月前のミッドウェイ海戦で、日本海軍の空母機動部隊は全滅していた。
また、ほぼ同じ日には、フランスで、ナチスドイツによる「ヴェル・ディヴ事件」が発生している。一挙に1万人以上のユダヤ人が検挙され、絶滅収容所へ送られたホロコーストだ。アラン・ドロン主演の映画『パリの灯は遠く』(1976)で描かれた事件である。
そして「ライオン」は、1945(昭和20)年の東京大空襲で、全焼する。戦後、1950(昭和25)年、往時とおなじ形で再建復活し、いまに至る。

ショスタコーヴィチは、この曲で、ナチスドイツへの抵抗だけでなく、ソ連当局の全体主義も批判しているとの解釈もあるらしい。
そんな音楽に、ウクライナ侵攻がつづく2023年2月、名曲喫茶「ライオン」でじっと耳を傾けているひとたちがいた。
ビリビリ震える「ライオン」のスピーカーに向かいながら、薄暗い店内で、あたしは、「名曲喫茶に消えないでほしい」と、心から願っていた。


【余談①】
前回冒頭で述べた中野の名曲喫茶「クラシック」は、創業店主の美作七朗氏が1989年に逝去、以後は娘さんが継いでいましたが、2005年に逝去され、閉店となりました。
しかし、”遺伝子”は残っています。阿佐ヶ谷「ヴィオロン」、高円寺「ルネッサンス」、国分寺「でんえん」の3店は、いずれも、中野「クラシック」の流れを汲む、正統派「名曲喫茶」です。

【余談②】
3月18日、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期で、本曲が演奏されました(高関健・指揮)。真摯で素晴らしい演奏でした。
4月15日にも、神奈川フィルハーモニー管弦楽団が演奏します(沼尻竜典・指揮)。

16:35  |  コンサート  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.03.22 (Wed)

第390回 名曲喫茶で聴く《レニングラード》(上)

ライオン
▲1926(昭和元)年創業、渋谷の名曲喫茶「ライオン」(筆者撮影)

あたしは中央線・中野駅のすぐそばで生まれ育ったので、中学・高校・大学の10年間、中野駅北口にあった名曲喫茶「クラシック」に入り浸っていた。この店について述べ出すと終わらないので省くが、かつては、都内のあちこちに「名曲喫茶」があったものだ。多くは閉店したが、当時のまま営業をつづけている店もある。

そのひとつが、渋谷の名曲喫茶「ライオン」だ。創業は1926(昭和元)年だという。渋谷の百軒店、ラブホテル街に隣接する一角にある(中学高校のころは、このあたりはちょっと怖くて、気軽に歩けなかった)。
あたしは、大学生時代によく行ったが、いまでも、すぐそばの映画館キノハウス(ユーロスペースや、シネマヴェーラ渋谷)に行くと、その前後によく寄る。

店内には大量のLPレコードがあり、巨大な「帝都随一を誇る」「立体再生装置」から、一日中、音楽が流れている。「聴く」ことが目的の店なので、店内で会話はできない。客の全員が黙ってスピーカーに向かって座っている光景は、いまの若い方々には異様に映るだろうが、これが名曲喫茶の常態なのである。

この「ライオン」では、毎日、15時と19時に、店主お気に入りのレコードをかける「ライオン・コンサート」が開催されている。ジョスカンの《ロム・アルメ》とか、カラヤンの1955年ルツェルン音楽祭ライヴとか、マニア泣かせの選盤である。レコードをかけるだけとはいえ、キチンと日程・曲目・演奏者を印刷したプログラムが事前に配布されるので、「コンサート」のムード満点である。

その「ライオン・コンサート」、2月26日(日)は、「トスカニーニ アメリカ初演時のレニングラード」と題して、ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》(トスカニーニ指揮、NBC交響楽団/1942年放送ライヴ)がかかった。
あたしも行って、ひさびさに聴いたが、パチパチ針音のする古いモノラル音源ながら、巨大なスピーカーをビリビリ震わせて轟きわたる《レニングラード》は、凄絶な迫力である。この「アメリカ初演」(ラジオ放送)を、戦時中のアメリカ市民は、どう聴いただろう。トスカニーニの棒は荒れ狂う一歩直前だ。地響きさえ伝わってくる。もし一般のマンションだったら、苦情どころか、警察に通報されるであろう。落ち着いたピアノ曲もいいが、こういう楽しみも、名曲喫茶の醍醐味なのだ。

この、ショスタコーヴィチ作曲、交響曲第7番《レニングラード》は、1942年初演。彼の交響曲のなかでは、第5番に次ぐ有名人気作品だ。
この曲の誕生と現地初演の経緯は、音楽作家、ひのまどか氏によるノンフィクション『戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実』(新潮社、2014年刊/リンクは文末に)に、詳しい(余談だが、不肖あたしの担当編集で、42年間の編集者生活のなかでも、特に思い出深い一書だった)。

第2次世界大戦で、ドイツ軍に包囲されたレニングラードは、すべてのライフラインを絶たれ、900日間にわたって極限の封鎖状況に置かれた。砲弾・爆撃の嵐、強奪、凍死、餓死、人肉食………地獄絵図が展開し、正式発表で63万人、実際には100万人以上の一般市民が命を失った。
この900日間を耐え抜き、ドイツ軍を退けたレニングラード市民の戦いを素材にした音楽が、ショスタコーヴィチの交響曲第7番である。初演は1942年3月に、当時の臨時首都クイビシェフでおこなわれたが、同年8月、包囲され餓死が続出するレニングラード市内で演奏しようとするひとたちがいて、凄絶な現地初演が実現する(上記・ひの本は、その過程を、現地取材で再現した労作である)。

この曲が西側社会に与えた衝撃は大きかった。特に、迫りくるドイツ軍の軍靴の響きと、これに抗う一般市民の哀しみを思わせる第1楽章は、およそ人類が聴いてきたあらゆる音楽のなかで、これほど激しい表現はあるまいとさえ思われる迫力だった。
ソ連政府は、この曲こそは「ファシズムに対する戦いと勝利の象徴である」と、世界中に発信した。初演から3か月後の6月には、ロンドンで国外初演され、これまた、たいへんな反響を巻き起こした。

この曲を、「世界を主導する民主主義国家」アメリカが見逃すはずはなかった。敵対国ドイツに対する最大の意思表示にもなる。
すぐに、壮絶なアメリカ初演の争奪戦が展開した。
その過程を、週刊誌「TIME」1942年7月20日号が、「ショスタコーヴィチと銃」と題して、レポートしている。この記事は、「TIME」ウェブサイトが無料でネット公開しているので、主要部分を抄訳してみよう(全文リンクは文末に)。

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「TIME」1942年7月20日号の表紙(消防隊姿のショスタコーヴィチ)

今週の日曜日、NBC交響楽団の特別番組が放送される(東部標準時間:午後4時15分~6時)。
いま25歳のマルクス主義のミューズ(音楽の女神)、ショスタコーヴィチが、レニングラード郊外での塹壕掘りと、音楽院屋上での消防隊勤務の合間に書き上げた、もっとも野心的で巨大な第7交響曲が西半球で聴ける、最初のチャンスである。
1903年の《パルジファル》マンハッタン初演以来、ひとつの音楽に、これほどアメリカ中が期待を寄せたことはない。

※ショスタコーヴィチは1906年生まれなので、このころ35~36歳だったはず。「25歳」は誤記と思われる。

先月、アメリカに届いた5インチほどの小さなブリキ缶の中には、交響曲第7番の楽譜が、100フィートのマイクロ・フィルムにおさめられて入っていた。初演地クイビシェフからテヘランまでは飛行機で、そこからカイロまでは自動車で、さらにニューヨークまでは飛行機で、運ばれてきたものだ。専門家たちは、そのフィルムをプリントする作業に取りかかった。10日間で4冊、252頁もの大型スコアが出現した。


この当時、戦火のソ連からアメリカまで、(ドイツにとっては面白くない)マイクロ・フィルムを安全に運ぶのはたいへんなことだった。実は、この過程も、まるで「スパイ大作戦」のような興趣あふれるエピソードが多く伝わっているのだが、ここでは省く。
問題は、このマイクロ・フィルムが届くまでに、アメリカ国内で展開していた、ある大乱戦(Battle Royal)である。

アメリカを代表する3人の指揮者が、栄光あるアメリカ初演の獲得をめぐってBattle Royalを繰り広げていた。銀髪のストコフスキー、クリーブランド管弦楽団のロジンスキー、ボストン交響楽団のクーセヴィツキーである。
誰もがクーセヴィツキーの勝利を確信していた。彼は交響曲第7番の楽譜を見てもいないのに、アメリカにおけるソ連音楽の代理店「the Am-Rus Music Corp.」に掛け合って、いちはやく西半球での初演権を獲得していたのだ。そして、8月14日にバークシャー・ミュージック・センターの学生オーケストラが初演すると発表した。


ところが、そうは問屋が卸さなかった。
事態は、おどろくべき方向に展開していたのである。
(この項、つづく)

◇名曲喫茶「ライオン」は、こちら

◇『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』(ひのまどか/新潮社)電子書籍版は、こちら。中古本であれば、Amazonなどでも入手容易です。

◇「TIME」1942年7月20日号「Music: Shostakovich & the Guns」原文記事全文は、こちら

17:06  |  コンサート  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2022.09.02 (Fri)

第362回 50年目の《ゴルトベルク変奏曲》

小林道夫 第50回
▲中止となった昨年12月公演の、代替公演。


 日本を代表する鍵盤奏者、小林道夫氏(89)は、毎年12月に、チェンバロで、バッハ《ゴルトベルク変奏曲》を演奏するコンサートを、1972年からつづけている。
 昨年末が、記念すべき、50年連続/第50回となるはずだったが、体調を崩されて、直前に中止となってしまった。
 その代替公演が、8月29日、東京・上野の東京文化会館小ホールで開催された。

 残念ながら、ぴったり「50年連続」とはならなかったが、90歳になろうかというひとが、半世紀かけて、あのような複雑極まりない大曲を弾きつづけてきたわけで、まさに偉業としかいいようがない。
 なぜ、もっとメディアが注目しないのか、不思議でならない。
(わたしは、せいぜい2000年代に入ってから2回ほど行ったことがあるにすぎない。よって今回が3回目)
 2回のアリアと、全30曲におよぶ変奏は、ささやきかけるような、実に温かな響きだった。

 会場では、昨年に配布されるはずだった解説プログラムが、あらためて配布された。
 これが実に面白い内容で、50年間分のプログラムから、小林氏本人の解説や、寄稿エッセイなどを抜粋再録した、一種の”50周年記念誌”となっていた。
 そこで驚いたのは、第1回=1972年のプログラムに寄せた、小林氏自身による解説である。
 たとえば、こんな具合だ。

〈アリア:8’、繰返しのときに8”。鍵盤の指定はないが、声部が左手と右手にまたがって動くことがあり、主旋律を下鍵盤で、伴奏声部を上鍵盤でという風に割りふることができない。(略)〉

〈第十三変奏(二段):右手8’、左手8”L。本来一段でひいても何の不都合なく書かれていながら二段の指定があるので、旋律とバスの音色の対比が重要なのであろう。(略)〉

〈第三十変奏(一段):16 8’ 8” 4。繰返しは16’8”4。にぎやかなクォドリベトは、やはり大きな音がほしい。〉

 何が書いてあるか、おわかりになるだろうか。
 チェンバロ奏者にとっては、当たり前の記述なのだが、この数字は、どのストップ(レジスター)を使うかをあらわしている。
 チェンバロは、ピアノとちがって、音の強弱や、音色や響きの変化をほとんど出せない(そもそも、いまのようなコンサートホールが登場する以前の、室内用の楽器なので)。
 そこで、2段の鍵盤を使い、左右両端に付いているストップ(キーのようなもの)を操作することで、音量や音色を微妙に変えるのだが、どの部分でどのストップを使い、どんな音色にするつもりなのかを、小林氏自身が明かしているのである。

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▲2段鍵盤チェンバロ。よく見ると、上段鍵盤の左右横に、ボタンのようなものが付いている。
これが「ストップ」(レジスター)。【出典:WikimediaCommons】


 いま、《ゴルトベルク変奏曲》は、ピアノで演奏されることが多いが、本来は、2段鍵盤チェンバロのために書かれた曲だ。
 上記にある(一段)(二段)とは、バッハが楽譜に書き込んだ指定で、「この曲は1段で弾け」「ここは2段で弾け」との指示である(どちらでもいい、あるいは指示なしの曲もある)。
 そもそもこの曲は、原題からして、《2段の鍵盤をもつチェンバロのためのアリアとさまざまな変奏》という。
《ゴルトベルク変奏曲》とは、後世に第三者が勝手に呼んだ、通称題である(第315回参照)。
 「2段鍵盤」のために書かれた曲を、「1段鍵盤」のピアノで弾いたら、当然ながら無理が生じる(上下鍵盤を同時に弾く部分で、両手が交差して同音が重なる。これはピアノでは演奏不可能だ)。
 よって、現在のピアノ版は、すべて、一種の「編曲」演奏なのである。
 ところが、1956年、グレン・グールドが、超個性的なピアノ演奏のレコードをリリースし、一大センセーションを巻き起こした。
 その結果、一挙に、ピアノ曲の人気レパートリーとなったのだ。
(小林氏自身も、昭和20年代の終わり、学生時代に一部を弾いたがあまり印象に残らず、グールドを聴いて「意識するようになった」と書いている)

 小林氏はピアノ奏者でもあるが、この演奏会では、1972年の第1回からずっと、原曲どおり、チェンバロで弾いてきた。
 その第1回のプログラムに、とうていチェンバロを知っているひとでなければ理解できないような、しかも、演奏上の秘密を、あっけらかんと載せていた。
 わたしも、コンサートやCDの解説を書いているが、いま、ここまで本格的な解説がまかり通るとは思えない。
 だがわたしは、これを読んで、1970年代の日本人の知的教養レベルは、相当高かったような気がした。
 この解説の冒頭で、小林氏は、

〈全曲を8フィート・ストップ2個の組合せでひきたいと思う位なのであるけれども、与えられた条件、つまり定員七百名ばかりのホールと、16、8、8、4という4つのストップを持ち、革の爪を持ったノイペルトのバッハ・モデルという楽器をつかうという条件を前提にした時に、この曲をどんな風に作っていくかという手のうちを、主に使うストップをならべあげていくことでお目にかけ、この長大な曲を御一緒に体験するひとつの手がかりにしたいと思う〉

 と書いている。
 この記述も決して親切な書き方ではないが、しかしとにかく、”チェンバロはなにかを操作することで音量や音色が変わる楽器らしい”ことがわかる。
 そして、”今日は、曲ごとに、いちいち、その操作をおこなうらしい”こともわかる。
 1972年12月23日、東京文化会館小ホールでこれを読んだ聴衆は、目と耳で、2段鍵盤をどうつかうのか、ストップの操作でどう音色が変化するのかを、懸命に追いかけただろう(奏者の手許が見えない席の聴衆は、残念に感じたはずだ)。
 そして、この曲が、実は、とてつもない、宇宙の大伽藍であることを感じ取っただろう(だが、この日から50年もつづくとは、想像もしなかっただろう)。
 小林道夫氏は、すばらしい演奏家であると同時に、見事な”解説者”でもあった。


渡邊順生氏による《ゴルトベルク変奏曲》全曲演奏の映像
手許のアップが多く、2段鍵盤やストップの使用状況が、よくわかります。

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