2023.03.24 (Fri)
第391回 名曲喫茶で聴く《レニングラード》(下)

▲1942年7月19日のライヴ(CD化は数種類あるが、これはもっとも音質がいいといわれている「オーパス蔵」盤)。
(前回からのつづき)
ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》は、誰もが、クーセヴィツキーがアメリカ初演をすると思っていた。
しかし、実はNBC放送局が、昨年1月、クイビシェフにおける初演時、リハーサルでも一音も耳にせず、どんな曲かもわからないうちに、モスクワ支局を通じて、西半球初演権の交渉を始めていたのだ。そして、すでに4月に、NBCは、アメリカ初演権を手中にしていたのである。
だが、問題は「誰に指揮をさせるか」だった。
NBC交響楽団といえば、トスカニーニのラジオ放送用に設立されたオーケストラだから、当然ながらトスカニーニが指揮するのがふつうである。ところがこの時期、トスカニーニは、NBC側と意見が合わず、同団を一時辞任し、離れていた(そもそも、もうトスカニーニは「定期演奏会」活動は引退していたのである。それを、NBCは、新しい交響楽団をつくって、「ラジオ放送だけですから」と、老体をむりやり引っ張り出させていたのだ)。
もう一人、ストコフスキーもNBC響と縁が深いとあって候補にあがったが、彼もトスカニーニも、ともに、来シーズンから、W常任指揮者としてカムバックすることになっており、この時期は、NBC響とは“無縁”状態だったのだ。
NBCは、交響曲第7番そのものと、演奏するオーケストラは手中にしたが、指揮者については、確定できなかった。トスカニーニもストコフスキーも、NBCとの共演は来年の契約であり、まだ先である。しかし、マエストロ・トスカニーニだったら、このスコアを見て気に入れば、この夏、指揮すると言い出すかもしれない(4年前に、彼はショスタコーヴィチ第5番の初演をオファーされ、断っていたのだが)。そこで、スコアがトスカニーニのもとへ届けられた。NBC側は息を呑んで反応を見守った。スコアを見るや、彼はこう言った。「非常に興味深い、これは効果抜群だ」。彼はもう一度スコアを見て、こう言った。「Magnificent!」(素晴らしいぞ!)。
このときトスカニーニは、15歳年下で還暦のストコフスキーに「わたしのような反ファシズムの老人が指揮してこそ、効果がある。キミはまだ若いのだから、ショスタコーヴィチを初演する機会は、いくらでもある」との手紙をおくったそうだ。
かくして、クーセヴィツキーもストコフスキーも、
※トスカニーニは、基本的に暗譜で指揮した。極度の近眼で、スコアが見えにくかったためといわれている。実際は、ライバルである75歳のトスカニーニに先を越されていたのである。トスカニーニは、クーセヴィツキーより1カ月前の7月19日に第7番を指揮すると発表した。/(略)ストコフスキーはがっかりして西海岸に戻り、ロジンスキーは見向きもしなかった。NBCは、オーケストラの奏者を、この曲が必要とする大型編成に増員した。近視のマエストロ、トスカニーニは、毎晩、スコアに鼻を突っ込むようにして暗譜に励んでいた。
このころのクラシック指揮者たちの動向は、よくいえば“個性的”、悪くいえば“エゴのかたまり”で、昨今とのあまりにちがうド迫力に、驚くばかりである。
しかしとにかく、1942年7月19日、ニューヨークのNBCスタジオで、トスカニーニ指揮、NBC交響楽団によるアメリカ初演がおこなわれ、全米にナマ中継された(録音を聴くと、拍手が入っているので、スタジオ内に聴衆を入れたようだ)。
後年、この録音を聴いたショスタコーヴィチは「腹が立った。すべて間違っている。やっつけ仕事である」と語ったそうだ(ただし、偽書といわれているヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』内の記述)。たしかに、特に弦楽器の奏法が、現在とはちがっていたりして、違和感をおぼえるひとがいるだろう。
それにしたって、「初演」で、1時間強、ぶっつづけで圧倒的な演奏を繰り広げるトスカニーニは、まことに恐るべき老人だとしかいいようがない(何度も述べるが、このとき「75歳」である)。
この時期、問題のレニングラード包囲戦はまだつづいていた。そんな、いま現在起きている戦火のなかから生まれた抵抗の音楽を、同時進行のように演奏したのだから、熱が入ったことだろう。
そのラジオ放送録音を、約80年後の2023年2月、渋谷の名曲喫茶「ライオン」で聴いたわけだが、考えてみれば、《レニングラード》が初演された日も、「ライオン」は渋谷で営業していたはずである。
その日は、すでに太平洋戦争に入っており、1か月前のミッドウェイ海戦で、日本海軍の空母機動部隊は全滅していた。
また、ほぼ同じ日には、フランスで、ナチスドイツによる「ヴェル・ディヴ事件」が発生している。一挙に1万人以上のユダヤ人が検挙され、絶滅収容所へ送られたホロコーストだ。アラン・ドロン主演の映画『パリの灯は遠く』(1976)で描かれた事件である。
そして「ライオン」は、1945(昭和20)年の東京大空襲で、全焼する。戦後、1950(昭和25)年、往時とおなじ形で再建復活し、いまに至る。
ショスタコーヴィチは、この曲で、ナチスドイツへの抵抗だけでなく、ソ連当局の全体主義も批判しているとの解釈もあるらしい。
そんな音楽に、ウクライナ侵攻がつづく2023年2月、名曲喫茶「ライオン」でじっと耳を傾けているひとたちがいた。
ビリビリ震える「ライオン」のスピーカーに向かいながら、薄暗い店内で、あたしは、「名曲喫茶に消えないでほしい」と、心から願っていた。
【余談①】
前回冒頭で述べた中野の名曲喫茶「クラシック」は、創業店主の美作七朗氏が1989年に逝去、以後は娘さんが継いでいましたが、2005年に逝去され、閉店となりました。
しかし、”遺伝子”は残っています。阿佐ヶ谷「ヴィオロン」、高円寺「ルネッサンス」、国分寺「でんえん」の3店は、いずれも、中野「クラシック」の流れを汲む、正統派「名曲喫茶」です。
【余談②】
3月18日、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期で、本曲が演奏されました(高関健・指揮)。真摯で素晴らしい演奏でした。
4月15日にも、神奈川フィルハーモニー管弦楽団が演奏します(沼尻竜典・指揮)。
2023.03.22 (Wed)
第390回 名曲喫茶で聴く《レニングラード》(上)

▲1926(昭和元)年創業、渋谷の名曲喫茶「ライオン」(筆者撮影)
あたしは中央線・中野駅のすぐそばで生まれ育ったので、中学・高校・大学の10年間、中野駅北口にあった名曲喫茶「クラシック」に入り浸っていた。この店について述べ出すと終わらないので省くが、かつては、都内のあちこちに「名曲喫茶」があったものだ。多くは閉店したが、当時のまま営業をつづけている店もある。
そのひとつが、渋谷の名曲喫茶「ライオン」だ。創業は1926(昭和元)年だという。渋谷の百軒店、ラブホテル街に隣接する一角にある(中学高校のころは、このあたりはちょっと怖くて、気軽に歩けなかった)。
あたしは、大学生時代によく行ったが、いまでも、すぐそばの映画館キノハウス(ユーロスペースや、シネマヴェーラ渋谷)に行くと、その前後によく寄る。
店内には大量のLPレコードがあり、巨大な「帝都随一を誇る」「立体再生装置」から、一日中、音楽が流れている。「聴く」ことが目的の店なので、店内で会話はできない。客の全員が黙ってスピーカーに向かって座っている光景は、いまの若い方々には異様に映るだろうが、これが名曲喫茶の常態なのである。
この「ライオン」では、毎日、15時と19時に、店主お気に入りのレコードをかける「ライオン・コンサート」が開催されている。ジョスカンの《ロム・アルメ》とか、カラヤンの1955年ルツェルン音楽祭ライヴとか、マニア泣かせの選盤である。レコードをかけるだけとはいえ、キチンと日程・曲目・演奏者を印刷したプログラムが事前に配布されるので、「コンサート」のムード満点である。
その「ライオン・コンサート」、2月26日(日)は、「トスカニーニ アメリカ初演時のレニングラード」と題して、ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》(トスカニーニ指揮、NBC交響楽団/1942年放送ライヴ)がかかった。
あたしも行って、ひさびさに聴いたが、パチパチ針音のする古いモノラル音源ながら、巨大なスピーカーをビリビリ震わせて轟きわたる《レニングラード》は、凄絶な迫力である。この「アメリカ初演」(ラジオ放送)を、戦時中のアメリカ市民は、どう聴いただろう。トスカニーニの棒は荒れ狂う一歩直前だ。地響きさえ伝わってくる。もし一般のマンションだったら、苦情どころか、警察に通報されるであろう。落ち着いたピアノ曲もいいが、こういう楽しみも、名曲喫茶の醍醐味なのだ。
この、ショスタコーヴィチ作曲、交響曲第7番《レニングラード》は、1942年初演。彼の交響曲のなかでは、第5番に次ぐ有名人気作品だ。
この曲の誕生と現地初演の経緯は、音楽作家、ひのまどか氏によるノンフィクション『戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実』(新潮社、2014年刊/リンクは文末に)に、詳しい(余談だが、不肖あたしの担当編集で、42年間の編集者生活のなかでも、特に思い出深い一書だった)。
第2次世界大戦で、ドイツ軍に包囲されたレニングラードは、すべてのライフラインを絶たれ、900日間にわたって極限の封鎖状況に置かれた。砲弾・爆撃の嵐、強奪、凍死、餓死、人肉食………地獄絵図が展開し、正式発表で63万人、実際には100万人以上の一般市民が命を失った。
この900日間を耐え抜き、ドイツ軍を退けたレニングラード市民の戦いを素材にした音楽が、ショスタコーヴィチの交響曲第7番である。初演は1942年3月に、当時の臨時首都クイビシェフでおこなわれたが、同年8月、包囲され餓死が続出するレニングラード市内で演奏しようとするひとたちがいて、凄絶な現地初演が実現する(上記・ひの本は、その過程を、現地取材で再現した労作である)。
この曲が西側社会に与えた衝撃は大きかった。特に、迫りくるドイツ軍の軍靴の響きと、これに抗う一般市民の哀しみを思わせる第1楽章は、およそ人類が聴いてきたあらゆる音楽のなかで、これほど激しい表現はあるまいとさえ思われる迫力だった。
ソ連政府は、この曲こそは「ファシズムに対する戦いと勝利の象徴である」と、世界中に発信した。初演から3か月後の6月には、ロンドンで国外初演され、これまた、たいへんな反響を巻き起こした。
この曲を、「世界を主導する民主主義国家」アメリカが見逃すはずはなかった。敵対国ドイツに対する最大の意思表示にもなる。
すぐに、壮絶なアメリカ初演の争奪戦が展開した。
その過程を、週刊誌「TIME」1942年7月20日号が、「ショスタコーヴィチと銃」と題して、レポートしている。この記事は、「TIME」ウェブサイトが無料でネット公開しているので、主要部分を抄訳してみよう(全文リンクは文末に)。

▲「TIME」1942年7月20日号の表紙(消防隊姿のショスタコーヴィチ)
※ショスタコーヴィチは1906年生まれなので、このころ35~36歳だったはず。「25歳」は誤記と思われる。今週の日曜日、NBC交響楽団の特別番組が放送される(東部標準時間:午後4時15分~6時)。
いま25歳のマルクス主義のミューズ(音楽の女神)、ショスタコーヴィチが、レニングラード郊外での塹壕掘りと、音楽院屋上での消防隊勤務の合間に書き上げた、もっとも野心的で巨大な第7交響曲が西半球で聴ける、最初のチャンスである。
1903年の《パルジファル》マンハッタン初演以来、ひとつの音楽に、これほどアメリカ中が期待を寄せたことはない。
先月、アメリカに届いた5インチほどの小さなブリキ缶の中には、交響曲第7番の楽譜が、100フィートのマイクロ・フィルムにおさめられて入っていた。初演地クイビシェフからテヘランまでは飛行機で、そこからカイロまでは自動車で、さらにニューヨークまでは飛行機で、運ばれてきたものだ。専門家たちは、そのフィルムをプリントする作業に取りかかった。10日間で4冊、252頁もの大型スコアが出現した。
この当時、戦火のソ連からアメリカまで、(ドイツにとっては面白くない)マイクロ・フィルムを安全に運ぶのはたいへんなことだった。実は、この過程も、まるで「スパイ大作戦」のような興趣あふれるエピソードが多く伝わっているのだが、ここでは省く。
問題は、このマイクロ・フィルムが届くまでに、アメリカ国内で展開していた、ある大乱戦(Battle Royal)である。
アメリカを代表する3人の指揮者が、栄光あるアメリカ初演の獲得をめぐってBattle Royalを繰り広げていた。銀髪のストコフスキー、クリーブランド管弦楽団のロジンスキー、ボストン交響楽団のクーセヴィツキーである。
誰もがクーセヴィツキーの勝利を確信していた。彼は交響曲第7番の楽譜を見てもいないのに、アメリカにおけるソ連音楽の代理店「the Am-Rus Music Corp.」に掛け合って、いちはやく西半球での初演権を獲得していたのだ。そして、8月14日にバークシャー・ミュージック・センターの学生オーケストラが初演すると発表した。
ところが、そうは問屋が卸さなかった。
事態は、おどろくべき方向に展開していたのである。
(この項、つづく)
◇名曲喫茶「ライオン」は、こちら。
◇『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』(ひのまどか/新潮社)電子書籍版は、こちら。中古本であれば、Amazonなどでも入手容易です。
◇「TIME」1942年7月20日号「Music: Shostakovich & the Guns」原文記事全文は、こちら。
2022.09.02 (Fri)
第362回 50年目の《ゴルトベルク変奏曲》

▲中止となった昨年12月公演の、代替公演。
日本を代表する鍵盤奏者、小林道夫氏(89)は、毎年12月に、チェンバロで、バッハ《ゴルトベルク変奏曲》を演奏するコンサートを、1972年からつづけている。
昨年末が、記念すべき、50年連続/第50回となるはずだったが、体調を崩されて、直前に中止となってしまった。
その代替公演が、8月29日、東京・上野の東京文化会館小ホールで開催された。
残念ながら、ぴったり「50年連続」とはならなかったが、90歳になろうかというひとが、半世紀かけて、あのような複雑極まりない大曲を弾きつづけてきたわけで、まさに偉業としかいいようがない。
なぜ、もっとメディアが注目しないのか、不思議でならない。
(わたしは、せいぜい2000年代に入ってから2回ほど行ったことがあるにすぎない。よって今回が3回目)
2回のアリアと、全30曲におよぶ変奏は、ささやきかけるような、実に温かな響きだった。
会場では、昨年に配布されるはずだった解説プログラムが、あらためて配布された。
これが実に面白い内容で、50年間分のプログラムから、小林氏本人の解説や、寄稿エッセイなどを抜粋再録した、一種の”50周年記念誌”となっていた。
そこで驚いたのは、第1回=1972年のプログラムに寄せた、小林氏自身による解説である。
たとえば、こんな具合だ。
〈アリア:8’、繰返しのときに8”。鍵盤の指定はないが、声部が左手と右手にまたがって動くことがあり、主旋律を下鍵盤で、伴奏声部を上鍵盤でという風に割りふることができない。(略)〉
〈第十三変奏(二段):右手8’、左手8”L。本来一段でひいても何の不都合なく書かれていながら二段の指定があるので、旋律とバスの音色の対比が重要なのであろう。(略)〉
〈第三十変奏(一段):16 8’ 8” 4。繰返しは16’8”4。にぎやかなクォドリベトは、やはり大きな音がほしい。〉
何が書いてあるか、おわかりになるだろうか。
チェンバロ奏者にとっては、当たり前の記述なのだが、この数字は、どのストップ(レジスター)を使うかをあらわしている。
チェンバロは、ピアノとちがって、音の強弱や、音色や響きの変化をほとんど出せない(そもそも、いまのようなコンサートホールが登場する以前の、室内用の楽器なので)。
そこで、2段の鍵盤を使い、左右両端に付いているストップ(キーのようなもの)を操作することで、音量や音色を微妙に変えるのだが、どの部分でどのストップを使い、どんな音色にするつもりなのかを、小林氏自身が明かしているのである。

▲2段鍵盤チェンバロ。よく見ると、上段鍵盤の左右横に、ボタンのようなものが付いている。
これが「ストップ」(レジスター)。【出典:WikimediaCommons】
いま、《ゴルトベルク変奏曲》は、ピアノで演奏されることが多いが、本来は、2段鍵盤チェンバロのために書かれた曲だ。
上記にある(一段)(二段)とは、バッハが楽譜に書き込んだ指定で、「この曲は1段で弾け」「ここは2段で弾け」との指示である(どちらでもいい、あるいは指示なしの曲もある)。
そもそもこの曲は、原題からして、《2段の鍵盤をもつチェンバロのためのアリアとさまざまな変奏》という。
《ゴルトベルク変奏曲》とは、後世に第三者が勝手に呼んだ、通称題である(第315回参照)。
「2段鍵盤」のために書かれた曲を、「1段鍵盤」のピアノで弾いたら、当然ながら無理が生じる(上下鍵盤を同時に弾く部分で、両手が交差して同音が重なる。これはピアノでは演奏不可能だ)。
よって、現在のピアノ版は、すべて、一種の「編曲」演奏なのである。
ところが、1956年、グレン・グールドが、超個性的なピアノ演奏のレコードをリリースし、一大センセーションを巻き起こした。
その結果、一挙に、ピアノ曲の人気レパートリーとなったのだ。
(小林氏自身も、昭和20年代の終わり、学生時代に一部を弾いたがあまり印象に残らず、グールドを聴いて「意識するようになった」と書いている)
小林氏はピアノ奏者でもあるが、この演奏会では、1972年の第1回からずっと、原曲どおり、チェンバロで弾いてきた。
その第1回のプログラムに、とうていチェンバロを知っているひとでなければ理解できないような、しかも、演奏上の秘密を、あっけらかんと載せていた。
わたしも、コンサートやCDの解説を書いているが、いま、ここまで本格的な解説がまかり通るとは思えない。
だがわたしは、これを読んで、1970年代の日本人の知的教養レベルは、相当高かったような気がした。
この解説の冒頭で、小林氏は、
〈全曲を8フィート・ストップ2個の組合せでひきたいと思う位なのであるけれども、与えられた条件、つまり定員七百名ばかりのホールと、16、8、8、4という4つのストップを持ち、革の爪を持ったノイペルトのバッハ・モデルという楽器をつかうという条件を前提にした時に、この曲をどんな風に作っていくかという手のうちを、主に使うストップをならべあげていくことでお目にかけ、この長大な曲を御一緒に体験するひとつの手がかりにしたいと思う〉
と書いている。
この記述も決して親切な書き方ではないが、しかしとにかく、”チェンバロはなにかを操作することで音量や音色が変わる楽器らしい”ことがわかる。
そして、”今日は、曲ごとに、いちいち、その操作をおこなうらしい”こともわかる。
1972年12月23日、東京文化会館小ホールでこれを読んだ聴衆は、目と耳で、2段鍵盤をどうつかうのか、ストップの操作でどう音色が変化するのかを、懸命に追いかけただろう(奏者の手許が見えない席の聴衆は、残念に感じたはずだ)。
そして、この曲が、実は、とてつもない、宇宙の大伽藍であることを感じ取っただろう(だが、この日から50年もつづくとは、想像もしなかっただろう)。
小林道夫氏は、すばらしい演奏家であると同時に、見事な”解説者”でもあった。
□渡邊順生氏による《ゴルトベルク変奏曲》全曲演奏の映像
手許のアップが多く、2段鍵盤やストップの使用状況が、よくわかります。
◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。
2022.01.11 (Tue)
第342回 『サンダーバード』の55年

▲(左)シネマ・コンサート、(右)最新の映画版
イギリスのTV人形劇『サンダーバード』の、日本での放送開始55周年を記念して、コンサートや映画など、いくつかのイベントがつづいている。
先日(1月9日)には、シネマ・コンサートが開催された(西村友:編曲・指揮、東京佼成ウインドオーケストラ/東京オペラシティ・コンサートホールにて)。最近流行の、映像とオーケストラ演奏が合体したコンサートだ。
わたしは、「シネマ・コンサート」が、あまり好きではない。
やはり映画のサウンドは、映画館の真っ暗な密閉空間で、スピーカーの大音響に身を任せてこそ迫力あるものだ。それが、明るいコンサートホールで、はるか遠くの小さなスクリーンを見上げながら、ステージ上でのオーケストラ演奏を聴いても、まったく迫力がない。重要なのは、ナマ演奏だとか、プロの素晴らしい演奏とかではなく、座席や空気を通じてビリビリ音が伝わってくる感覚なのだ。それが、シネマ・コンサートでは皆無である(『2001年宇宙の旅』のときなど、空しくなって前半で帰ってしまった)。
よって、今回の「サンダーバード55周年 シネマ・コンサート」も、わたし自身、音楽解説コラム(作曲者バリー・グレイにまつわる)をネット連載したが(下段参照)、正直なところ、あまり期待していなかった。
ところが、これが、なかなかよかったのである。
わたしは、古くからの『サンダーバード』ファンだが(1966年のNHK初回放送から観ている)、それを割り引いても、いままで体験したシネマ・コンサートで、いちばんよかった。
その理由は、主に3つある。
①オーケストラが「管弦楽」でなく「吹奏楽」だった。
本作の音楽は基本的にマーチ系なので、管楽器と打楽器が活躍する。よって吹奏楽にピッタリだった。しかも演奏は、日本を代表するトップ・プロ吹奏楽団である。管弦楽では、あれほどの迫力は出なかったのではないか。また、西村友による編曲も見事で、ファン心理のツボを突くスコア、演奏だった(演奏するほうはたいへんだったと思うが)。
最後には、コーラス・グループ「フォレスタ」が加わって日本語版主題歌も演奏され、懐かしかった。
②映像が曲に合わせて細かく編集された、良質な「イメージ映像」だった。
曲ごとにその回の映像が流れるのだが、おおよそのストーリーがわかるように編集されていた。特に《ペネロープのテーマ》は、第9話「ペネロープの危機」の音楽だが、ほかの回の場面も次々と登場し、ほとんど彼女のファッション・ショーのような楽しさだった(実際、ペネロープは、国際救助隊の仕事がないときは、ファッション・モデルもつとめている)。この編集も、手間がかかっていた。
ダイジェストのイメージ映像だと、音楽を聴きながら、物語やキャラクター設定などを想像しながら聴くことになるのだが、意外と楽しかった。これが、特定の回をまるごと上映する(一般的なシネマ・コンサートのような)スタイルだったら、疲れてしまっただろう。
ただし、2本の劇場用映画からの映像は、権利関係のせいか、使用されず残念だった。特に《ZERO-X号のテーマ》は、あの「合体シーン」があるとないとでは、感動の度合いがまったく異なる。《サンダーバード6号のテーマ》も、あのラストの映像が使えたら……と残念でならない。
③会場が適度な大きさで、残響がたっぷりあるホールだった。
シネマ・コンサートといえば、東京国際フォーラム・ホールAでの開催が多い。5000席の巨大ホールだ。ステージははるか彼方にあり、その奥に小さくスクリーンが下がっており、その前でオーケストラがなにかやっている……そんな印象を覚えた方も多いと思う。
しかし、今回の東京オペラ・シティは約1500席、残響1.9秒(満席時)のホールである(2・3階のLR席はほとんど使用せず)。そこで、フル編成の吹奏楽団が演奏するのだから、すごい迫力だ。PAも使用していたようだが、音圧がビリビリと伝わってきた。
パイプ・オルガン前に下がったスクリーンは小ぶりだったが、あのキャパにちょうどよかったと思う。
というわけで、興行的にはたいへんだろうが、「シネマ・コンサート」は、適度なキャパの会場で、イメージ映像中心のほうがいいように思った。たとえば、伊福部昭《SF交響ファンタジー》第1番~第3番なども、吹奏楽版で、東宝怪獣映画のダイジェスト映像を上映しながら聴いたら、どんなに楽しいだろう(もう行われているかもしれないが)。
なお、「55周年」にあわせて、映画『サンダーバード55/GOGO』も劇場公開されている(配信やBlu-ray販売も)。これは、むかし製作されたラジオ・ドラマ版の”ペネロープ三部作”(レコード化された)の音声とストーリーをもとに製作された新作である。
ただし、新作といっても、当時のスタイルのままでつくられたので、現代風の感覚は皆無。まるで、半世紀前につくられてオクラ入りになっていた未公開編を観ているような気になった。よくあそこまで、むかしのままにつくれたものだと感動した。
今回の日本語版では、かつて黒柳徹子が演じたペネロープの声が、満島ひかりに替わったが、これがなかなか合っていた。どこの誰がこんなキャステイングを考えたのかしらないが、まことに慧眼だと恐れ入った。
半世紀たっても、これだけ話題がつづく『サンダーバード』は、おそるべきコンテンツである。
〈敬称略〉
□「サンダーバード シネマ・コンサート」
□映画『サンダーバード55/GOGO』公式サイト
□わたしの連載コラム(全4回) 「サンダーバード音楽の秘密」
◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。
全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。
限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(木)21時・たちかわ、毎週(土)23時・FMカオン、毎週(日)正午・調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。
パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。
最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。
2021.01.13 (Wed)
第294回 のた打ち回る《大フーガ》

▲毎年、大晦日に開催されている。
ベートーヴェンは、最後の交響曲が第9番なので、なんとなく、あの《第九》が死の直前の作品のように思われがちだ。だが《第九》の初演は1824年5月で(53歳)、彼が56歳で亡くなったのは1827年3月。つまり《第九》後、3年近く生きたのである(しかもスケッチらしきものがあるだけだが、交響曲第10番も視野に入っていた)。
ピアノ・ソナタはもっと前に“打ち止め”していて、最後の第32番は1822年(51歳)の作曲である。(ただし、翌年に《ディアベッリ変奏曲》を書いている)。大作《ミサ・ソレムニス》が完成したのも同年だ。
では、これらウルトラ級の名作を書き上げたあと、ベートーヴェンは、何をやっていたのか。たしかに体調はボロボロだったし、耳も聴こえなくなっていた。だが、決して寝たきりだったわけではない。
彼は、人生最後の3年間を、弦楽四重奏曲に打ち込んだのである。
弦楽四重奏曲は、1811年の第11番《セリオーソ》Op.95以後、書いていないので、《第九》初演の時点で、すでに14年間の空白があった。おそらく周囲は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲も“打ち止め”になったものと思っていたのではないか。
ところが、ここから彼は、怒涛の勢いで5曲+αの弦楽四重奏曲を書きあげるのである。
1825年(54歳)1月/第12番Op.127 完成。
7月/第15番Op.132 完成。
12月/第13番Op.130(第6楽章=大フーガ) 完成。
1826年(55歳)8月/第14番Op.131 完成。
(甥カールの拳銃自殺未遂)
10月/第16番Op.135 完成。
11月/第13番の第6楽章〈アレグロ〉を新規作曲。
(12月頃から、さらに体調悪化)
1827年(56歳)3月26日/逝去。
【注】作曲順と番号順(出版順)は一致していない。
どれも人類の宝ともいうべき名曲なのだが、第13番は、初演時、物議を醸した。第1~5楽章までは、美しく深遠な音楽が展開する。特に第5楽章〈カヴァティーナ〉は、抜粋アンコールされたほどだった。ところが、最終第6楽章《大フーガ》になると、突然、これだけがあまりに長く、難解で、重苦しく、全体のバランスを著しく崩しているように聴こえた。評判もよくなかった。
楽譜出版者アリタリアは、「これでは楽譜が売れない」と頭を抱えてしまい、改稿を申し入れる。すると頑固なベートーヴェンにしては珍しく、その意向を聞き入れ、翌年、新たな、わかりやすく美しい、しかし、いかにもベートーヴェンらしい、新・第6楽章〈アレグロ〉を書き上げ、差し換えるのである。《大フーガ》は、独立した弦楽四重奏曲Op.133となった。
いったいなぜ、ベートーヴェンは、このような音楽を書いたのだろうか。
現在、第13番の演奏は、下記のような、いくつかのパターンがある。
【A】第6楽章は改稿版〈アレグロ〉を演奏。《大フーガ》は別の独立曲として演奏する。
【B】第5楽章のあと、《大フーガ》を演奏。つづけて第6楽章の改稿版〈アレグロ〉を演奏する。
【C】ベートーヴェンの初演時の構想通り、第6楽章は《大フーガ》を演奏し、改稿版〈アレグロ〉はなかったものとして演奏しない。
わたしは、あまり弦楽四重奏のコンサートには行かないので、この第13番を実演で聴いたことは数回しかないのだが、すべて【A】タイプだった。【B】タイプは、アルバン・ベルク四重奏団などの録音で有名になったものだが、【C】タイプには、触れたことがなかった。
それが、昨年の大晦日、毎年恒例の「ベートーヴェン 弦楽四重奏曲【8曲】演奏会」で、ついに、この【C】タイプの実演に出会ったのだ。しかもそれが空前絶後の名演だったので、すっかり、第13番や《大フーガ》の印象が、変わってしまった。
この演奏会では、毎年、主に中期~後期の弦楽四重奏曲を、古典四重奏団、クァルテット・エクセルシオ、ストリング・クヮルテットARCOの3団体が、2~3曲ずつ演奏する。14時開演で、終演は21時半ころになる。そして、問題の第13番を、今年は、古典四重奏団が、いつもの彼らのスタイル通り、【C】タイプで演奏した。
古典四重奏団は、すべての曲を「暗譜」で演奏する。そのせいか、曲前や楽章間の“調整”に、かなり時間をかける。
この日の第13番も同様で、第5楽章開始までは、楽章間で長々と調整をしていた。しかし、第5楽章の美しいカヴァティーナが終わって、いよいよ《大フーガ》に入る時だけは、ほとんどアタッカ(切れ目なし)でつなげたのである。
《大フーガ》がはじまるとき、ほとんどの聴き手は、これから襲い来る重厚な時間に立ち向かうべく、心のなかで準備するはずだ。ところが彼らは、一瞬アイ・コンタクトを交わすや、息継ぐ間もなく《大フーガ》をはじめたのだ。聴き手に、身構える時間を与えなかった。その強烈な演奏は明らかに「いままでの響きはもうやめよう」と、それまでの音楽を否定する「宣言」だった。
それで思い出されるのが、《第九》の第4楽章である。《第九》では、はっきりと歌詞で「おお友よ、このような旋律ではなく、もっと心地よい歌を」と「宣言」する、あれに、どこか似たものを感じた。
だが、《第九》と《大フーガ》では、同じ「宣言」でも、意味合いがちがう。
ベートーヴェンは、一度は《第九》で、人間社会に期待を寄せた。しかし、やはりそれは、あまりに理想に過ぎた……と、考えが変わったような気がする。全聾となり、全身が“病気のデパート”と化す一方だったから、精神的に弱っていたかもしれない(しかしそれにしては《大フーガ》は、力強さにあふれた音楽だ)。甥カールの素行にも、悩まされていた。
さらに、《大フーガ》を書いているころ、ロシアでは「デカプリストの乱」が発生していた。貴族将校たちが、皇帝専横に反旗を翻し、農奴解放を目指したが、あえなく鎮圧されている。理想社会を期待し、革命に憧れていたベートーヴェンは、きっと、がっかりしたことだろう。いくら《第九》のような理想を謳っても、現実はどうにもならない、もはや、その冷たさを音楽にするしかない……そんな思いが《大フーガ》として結実したのではないだろうか。
実は、《大フーガ》について、上記のような“情緒的”な見方は、いまでは、あまり流行らないようだ。
たとえば、経済学者で音楽評論家、井上和雄の著書『ベートーヴェン 闘いの軌跡/弦楽四重奏が語るその生涯』(音楽之友社)では、
「ベートーヴェンよ怒れ! お前は運命によってボロボロにされたではないか、どうしてこれを耐え忍ばねばならないのか! こんな馬鹿な話があってよいのか」
「怒りと力を歌い切ることこそ、彼の生命なのだ。『大フーガ』はその壮絶な記念碑なのだ」
と、作曲者以上にのたうち回っている。この本が上梓されたのは1988年。30年以上前の文章である。
これに対し、2015年刊行、中村孝義(現・大阪音楽大学理事長)の『ベートーヴェン 器楽・室内楽の小宇宙』(春秋社)では、
「その綿密に考え抜かれた構成には、ベートーヴェンがこれまで培ってきた様々な作曲技法が渾然一体と集約されているのである」
「崇高な情感と圧倒的なエネルギー感が見事に融和した精神世界は、まるで大伽藍を仰ぎ見るような壮大さを感じさせずにはおかない。まさにベートーヴェン畢生の傑作の一つである」
と、たいへん冷静に書かれている。
上記2つは、熱心なファンと、音楽学者によるちがいはあるが、時代の差も感じさせる。わたしは、前者のような“熱い”感慨を、すっかり忘れていた。
だが、古典四重奏団による“初演版”を目の前で聴いて、見て、やはり、ベートーヴェンはのたうち回っているのだと、あらためて思った。あまり冷静に聴けなかった。
昨年の春先から今日まで、日本が、どういう状況だったか。混迷し、後手にまわりつづける感染症対策や、平然と五輪開催を口にする連中を見ていると、もう理想を求めても、どうしようもないような気がする。ベートーヴェンは、人生の最後に、《大フーガ》で似たようなことを言いたかったのではないだろうか。
<敬称略>
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「BandPower」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(土)23時・FMカオン、毎週(日)正午・調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。
パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。
最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。