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2019.04.03 (Wed)

第234回 【古本書評】 岩城宏之『オーケストラの職人たち』ほか

岩城写真
▲岩城宏之『楽譜の風景』と『オーケストラの職人たち』(ともに絶版)


 自宅のそばに、おいしい創作風のイタリア料理店があり、ときどき行く。
 しばらく前のことになるが、店長から、「今度入った、新人のスタッフです」と、小柄で美しいお嬢さんを紹介された。なんと、「彼女、岩城宏之さんの、お孫さんなんですよ」。

 わたしは、岩城宏之さん(1932~2006)のコンサートは中学生時代から行っていた。1970~80年代には「題名のない音楽会」の公開録画に10年ほど通い、その間、ゲストとして登場したのを、何度も見聴きした。だから、とても親しみをおぼえる指揮者だ。

 岩城さんが、東京佼成ウインドオーケストラの定期公演を初めて指揮したのは、1998年のことだった。曲目は、《トーンプレロマス55》を中心とする、盟友・黛敏郎の吹奏楽曲(管打アンサンブル曲)集だった。CD録音も行なわれ、翌年の文化庁芸術祭で、レコード部門優秀賞を受賞した。その間、インタビューや、受賞記念パーティーで何度か話をうかがった。
 このとき、岩城さんはTKWOのアンサンブル力の高さに感動し、「このような世界一の演奏団体が存在していたのを知らなかった不明を、恥ずかしいと思った」とまで書いた。わたしとの会話でも「せひ、また指揮したいですよ。今度は武満さんなんか、どうかなあ」とうれしそうに話していた(それは、2004年に実現する)。

 ところで――むかしから、文章家の音楽家は多い。シューマンやドビュッシーは音楽評論家だったし、ワーグナーは自分で台本(詩)を書いた。マーチ王スーザも、小説を書いている。
 いまだったら、やはり池辺晋一郎さんだろうか。軽妙洒脱なエッセイで知られる。月に一回の読売新聞夕刊のエッセイを楽しみにしているひとも多いのではないか。
 だが、岩城さんも、たいへんな文章家だった。1991年には日本エッセイストクラブ賞を受賞した。著書も多く、国会図書館のデータベースで検索すると「59」点がヒットする。このうち、単行本の文庫化もあるから、おそらく、30~40点くらいが、オリジナル書籍なのではないか。わたしは、8~9割を読んでいると思うのだが、いまでも『楽譜の風景』(岩波新書、1983年初刊)や、『オーケストラの職人たち』(文春文庫、2005年初刊/単行本2002年)などを時々ひらいては、楽しんでいる。

 『楽譜の風景』のなかに、デクレシェンド(>の横長)と、アクセント(>の普通サイズ)が、入れ替わって浄書(楽譜作成~印刷)されていた話が出てくる。シューベルト《未完成》や、ベートーヴェン《第九》などには、本来、「アクセント」(その音を強く)で演奏するとしか思えない部分で、ある楽器にだけ「デクレシェンド」(次第に弱く)が印刷されている楽譜があった。どうやら、作曲家の筆跡があまりに汚いため、写譜屋さんに、この二つの記号の区別がつかなかったらしい。

 ここから先が、岩城さんの「文章家」たるところで、音楽界には「写譜屋」なる商売があることを、まずは面白い実例で紹介し、そこから話題が次々と転がっていくのである。
 この本では、教会でミサ曲を指揮していた不思議な牧師さんの話題につながっていく。若いころ、教会でアルバイト演奏した岩城さんは、この牧師さんが「写譜屋」であることを知る。教会指揮者の賀川純基さん(1922~2004)である。その後、美しい手書き楽譜を書く写譜屋さんとして、業界でもトップの存在になった。
 「教会」「賀川」で気づいた方もいるだろう、ガンジーやシュヴァイツァーと並び称されたキリスト教活動家・賀川豊彦(1888~1960)の息子さんである(その後、賀川豊彦記念館館長)。
 かように、まるでアミダクジの枝分かれのように、話題が広がっていく(後藤明正の小説みたい)。岩城さんは、文章を「変奏曲」のように展開する名エッセイストだった。

 賀川さんの話は、『オーケストラの職人たち』にも、出てくる。岩城さんは著書が多いので、同じ話題が、あちこちの本でダブって登場する。ご本人が、それを堂々と謝ったりしているのも楽しい。

 『オーケストラの職人たち』でわたしが好きなのは、“日本ハープ界の父”ヨセフ・モルナールの話だ。
 戦後すぐのころ、N響に招かれ、参宮橋に家を借りた。たまたま近くに運送業者があったので、ハープの運送をたのんだ。これがきっかけで、その運送業者「田中陸運」は、日本を代表する楽器運送のプロ集団に成長する。
 むかしは、オート三輪に積んだハープを抱えて抑えながら運んだ。和田誠さんによるカバー表紙絵は、当時の素朴な楽器運送の姿を見事にとらえていて、ちょっとジーンとくる。

 ヨセフ・モルナールは、昨年11月、89歳で亡くなった。だが、その弟子、孫弟子、曾孫弟子は、日本中にあふれている。
 岩城さんもすでにこの世にないが、著書は、古本ながら、ちゃんと残っている。
 そして、美しいお孫さんがいる。
<一部敬称略>


【ご案内】
 3月23日(土)19:00~19:55、文化放送の特別番組「普門館からありがとう~東京佼成ウインドオーケストラとコンクール課題曲」に、解説ゲストとして出演しました。
 現在、アーカイブで聴けます。※4月30日(火)23:59まで
 お時間あれば、お聴きください。
(富樫鉄火)

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2018.06.27 (Wed)

第200回 〈古本書評〉『おじさん・おばさん論』

おじさんおばさん論
▲海野弘『おじさん・おばさん論』(幻戯書房) 2011年4月刊


 第195回で、普門館のカラヤン公演に「クラシック好きの伯父に連れて行かれた」と書いたら、2人の方から「わたしも、おじ(おば)に影響を受けました」と聞かされた。1人は、やはりおじさんの影響で、音楽の道に進んだ男性。もう1人は着付けの先生をやっているおばさんに憧れて日本舞踊を学ぶようになった女性。
 専門分野に進むものは、育った家の環境(父母の影響)が大きいものだが、父母のきょうだい=おじ/おばの存在が大きかったひとも、けっこういるようだ。
 わたしの場合も、本と音楽は、伯父からの影響である。もしも伯父に出会わなかったら、いま、こんな仕事はやっていなかったと思う。
 ふだん一緒に住んでいるわけでもなく、時々しか会わないので、顔をあわせると濃密な時間が生まれる。血のつながりもあるので、けっこう言いたいことも口に出せる。父母だと、関係が近すぎて、細かい思いを察してくれないことが多いが、おじ/おばは、ちゃんと聞いてくれる。いろんなところへ連れて行ってくれて、モノも買ってくれる。
 人間社会は、意外と、おじ/おばのおかげで面白く(あるいは、かえって複雑に)なっているのではないか?
 そんなことを考えさせてくれる本が、『おじさん・おばさん論』である。2011年刊行なので「古本」と呼ぶには新しすぎるのだが、そろそろ新刊書店では入手しにくくなっているので、取り上げることにした(版元在庫は、まだあるようだ)。

 著者は、元「太陽」編集長の海野弘(1939~)。世紀末美術(アール・ヌーボー)の専門家だが、博覧強記の評論家・読書家でもある。本書は、前半がミニ人物評伝集で、後半が主として読書・映画案内だ。そのすべてが「おじさん・おばさん」の視点で紹介される。とにかくすごい数だ。後半など、全部で100人のおじさん・おばさんが紹介される。
 本稿は一応、音楽コラムなので、本書中から、音楽にまつわる項を紹介しよう。

◆ストラヴィンスキーのおじさん
 イーゴリ・ストラヴィンスキーは11歳のときにオペラ歌手の父が出演している舞台を観に行き、ロビーでチャイコフスキーを見てしまう。その瞬間から、音楽家になりたいと願うようになったという。
 ところが父は、息子を音楽家にするつもりはなく、法律大学に行かせる。そんな彼を応援してくれたのが、イエラチッチおじ(母の義兄=つまり母の姉の夫なので、血はつながっていない)だった。このおじさんはたいへんな音楽マニアで、大学で鬱々としていたイーゴリを、さまざまな音楽に触れさせてくれた。2人でピアノ連弾も楽しんだらしい。ワーグナーの《ニーベルングの指環》4部作を教えてくれたのも、このおじだった。父が死んだあとは、おじ宅に居候した。
 このおじの励ましで、イーゴリは、リムスキー=コルサコフやグラズノフを知り、やがて20世紀を代表する音楽家に育って行くのだった。後年の、爬虫類のような顔つき(実際、彼はあまりに作風を次々変えるので、「カメレオン」と呼ばれていた)を見るにつけ、そんなおじさんがいたのかと思うと、なんとなく微笑ましく感じてしまう。

◆ベートーヴェンの甥 
 これは有名な話なので、ご存知のかたも多いだろう。ただし、「ベートーヴェンが、おじさんに影響を受けた」のではなく、「“ベートーヴェン伯父”に翻弄された甥」の話である。
 ベートーヴェンには、2人の弟がいた。そのうち、下の弟カルルを溺愛した。自分が家族・人間関係に恵まれなかったので、その不足分を弟にそそぐことで、満たそうとしたらいい。
 この弟カルルが亡くなると、ベートーヴェンは、溺愛の注ぎ先を、その息子、同名の甥カルルに変更する。ところがベートーヴェンは、未亡人となった母(弟カルルの妻)が大嫌いで、甥カルルをわがものにするべく、法廷がらみの奪い合い騒ぎになる。なんとか親権を手に入れ、一緒に暮らすようになるが、この過激な伯父は、音楽的才能もない甥に、やたらと過剰な期待ばかりかける。やがて甥カルルはノイローゼになって自殺未遂をはかる。回復後、カルルは軍隊に入り、ついに“伯父離れ”を果たす。そのころ、ベートーヴェンは死の床に……。
 なんとも迷惑な伯父さんだが、本書で紹介される最晩年のエピソードを知ると、心底からカルルを愛していたことがわかり、ちょっとベートーヴェンが気の毒に思えてくる。

◆ラモーの甥
 フランスの哲学者、ドゥニ・ディドロ(1713~1784)の『ラモーの甥』は、「私」(ディドロ自身)が、パリのカフェで、大作曲家ラモーの不肖の甥(弟の長男)と会話する作品だそうである。
「あれは冷酷な人だよ。残忍でね。人情というものがなく、けちんぼうで悪い父親だし、悪い夫だし、悪い伯父だな。しかも、あれが天才であるとか(略)、そうはっきり判定されているわけじゃないしね」
 こうして“自分さえよければいい”との振る舞いをつづける大ラモーをめぐって、天才=悪人か否か、にまつわる議論が展開する話だそうである。

◆マイルスの伯父さん
 ジャズの巨人、マイルス・デイビスは、伯父フェルディナンド(父の兄)が大好きだった。
「おやじよりもインテリで、女にもてていた。博打もやっていたし、『カラー』という雑誌の編集までやっていた」「いつも彼にひっついて、旅や女の話を聞くのが楽しみだった。恰好もめちゃくちゃ良かった」
 これは明らかに、“ちょいワル伯父さん”である。マイルスの、あのスタイリッシュな音楽の原点のどこかに、この伯父さんのことがあるのかもしれない。

 こんな具合に、次から次へと、おじさん・おばさんにまつわる本や映画や人物伝が紹介される。正統本筋(父母)からちょっとずれた視点(おじ/おば)が、新たなものを生み出す、そんな面白さをたっぷりと教えてくれる本である。
 先述のように、店頭での新刊入手は困難かもしれないが、版元在庫はあるようなので、注文すれば入手できるはずだ。

 なお、本書で紹介されていない、わたしの好きな「おじ・おば」ものを、2点、ご紹介しておく。

bokunoojisan.jpg
▲北杜夫『ぼくのおじさん』(新潮文庫)

 北杜夫(1927~2011)の『ぼくのおじさん』は、旺文社の学年誌「中二時代」昭和37年5月号~「中三時代」昭和38年4月号まで、1年間にわたって連載されたジュニア小説である(学年をまたがって連載されているところが、いまはなき「学年誌」特有で懐かしい)。
 このおじさんは、父の弟=叔父さんである。哲学者で、大学の非常勤講師で、独身で、「ぼく」の家に居候している。たいへんだらしないどころか、逆に「ぼく」に小遣いをせびるような、はた迷惑な叔父さんである。あるとき、「ぼく」の作文が懸賞に入選し、いっしょにハワイに行くことになったのだが……。全編に和田誠のイラストが載っており、これがまた、実に楽しい。昔なつかしい「絵物語」のようなユーモア小説である。
 あとがきによれば、北杜夫には、何人かのおじさんがいたが(父・斎藤茂吉のきょうだい?)、そのうちの1人に、動植物のことをあれこれ教わったという。だが、本作に登場するのは、このおじさんではなく、北杜夫自身がモデルである。北は本来が医師だが、慶応大学病院で無給の助手をつとめていたころ、兄(精神科医でエッセイストの斎藤茂太)の家に居候していた、そのころの思い出を素材にしたという。
 ラスト、ある事情で、おじさんと別れることになるのだが、そのときの、やれやれとホッする気持ちと、それでいてどこか寂しさを覚える描写は、初期作ながら、さすがに大作家の筆であることを彷彿とさせる。

自分たちよ
▲伊丹十三『自分たちよ!』(文春文庫/絶版)

 エッセイストで俳優・映画監督の伊丹十三(1933~97)は、1981年、朝日出版社から創刊された雑誌「モノンクル」の編集長をつとめた。精神分析をモチーフにした、ちょっと変わったカルチャー・マガジンであった。
 この誌名「モノンクル」は、フランス語で「ぼくのおじさん」である(ジャック・タチの同名映画も意識しただろう。もちろん、『おじさん・おばさん論』でも紹介されている)。なんでこんな誌名になったかについては、一種の創刊宣言みたいな文章がある(「ぼくのおじさん」つるとはな刊『ぼくの伯父さん』より。初出は「文藝春秋」1981年7月号)。そこでは、読者を、親が押しつける価値観で閉塞的になっている少年にたとえて、
「そんなところに、ある日ふらっとやってきて、親の価値観に風穴をあけてくれる存在、それがおじさんなんですね」
「おじさんは遊び人で、やや無責任な感じだけど、本を沢山読んでいて、若い僕の心をわかろうとしてくれ、僕と親が喧嘩したら必ず僕の側に立ってくれるだろうな、そういう存在ですね。おじさんと話したあとは、なんだか世界が違ったふうに見えるようになっちゃったト(略)」
「でね、そういうおじさんの役割を果たすような雑誌を作ろう、と僕は思いたったのであった」

 と書いている。だが「モノンクル」は、6号で休刊に至る。
 その6号分の掲載記事を中心に再録したのが、この『自分たちよ!』である。
 この中に、「黒澤明、あるいは旗への偏愛」と題する鼎談があり(蓮見重彦、野上照代、伊丹十三/初出は1981年7、8月号)、これがまさに「おじさん」の(斜めの)視点なのである。黒澤映画には、いかに旗がパタパタと翻るシーンが多いか、そのことだけで黒澤映画を分析していくのである。これがなかなか面白く、時折、こじつけとも思えるような分析も登場するのだが、その強引さがまた愉快で、たしかに「無責任」だけど、読んだあとは「なんだか世界が違ったふうに見える」ような気にさせられる、特異な「おじさん」視点の映画評論である。

 わたしの伯父は、亡くなって20年近くがたつ。
 よく「親孝行、したいときには親はなし」なんていうが、おじ/おばも、同様である。ただ、親に抱くような思い(もっと、いろいろ話を聴いたり、世話してやればよかった)は、おじ/おばには、あまりない。あの想い出だけで十分、感謝している。みなさんは、どうだろうか。そのあたりの距離感も、ちょっと不思議な感じがする。
<敬称略>

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2018.03.01 (Thu)

第193回 〈古本書評〉 後藤明生「マーラーの夜」

しんとく問答
▲「マーラーの夜」が収録された、『しんとく問答』(1995年、講談社刊)


 マーラーの交響曲のなかで、唯一、ナマ演奏で接したことがなかった、第7番(夜の歌)を、N響定期で聴いた(パーヴォ・ヤルヴィ指揮、2月11日、NHKホールにて)。これはとにかく分かりにくい曲で、若いころから何度となくフルスコアを眺め、いろんな音源を聴いてきたが、どうにも全体像がつめないまま、この歳になってしまった。それだけに、この機会を逃したら、もうチャンスはないかもしれないと思い、ええいままよ、と思い切って出かけてみた。
 そうしたら、プログラム(月刊「フィルハーモニー」)に、以下のようなヤルヴィの言葉が載っていた。
「私自身、当初《第7番》を分かりにくいと感じていました。しかし、風変わりで意外性に満ちたこの曲に整合性を求めることをやめ、音楽そのものに耳を傾けた途端、作品が自然と語りかけてくれるようになりました」(大橋マリ氏によるインタビュー記事より)
 そうか、N響の首席指揮者が「分からなくていい」といっているのだから、わたしごときが分からないのも当然なのだ。
 確かにヤルヴィの演奏は、「整合性を求めることをやめ」たような、ベルトコンベアに乗って目の前に流れて来た音符を、いじくることなく、次々と処理して製品にしていく、そんな指揮ぶりだったが、まあ、それでいいのではないかと思った。これが「どこかに整合性があるはずだ」と理想を摸索しながら指揮していたら、本来80分前後(CD1枚分)におさまるはずの本曲が、あのクレンペラーのような超スロー演奏(100分超=2枚組!)になり、悶え苦しみ、のたうちまわるような演奏になっていただろう。

 ところが、そんな「整合性を求めない」ヤルヴィのおかげで、15時開演の演奏会は、早々と16時20分にお開きとなった。N響の定期は、序曲+協奏曲~(休憩)~交響曲のパターンが多く、15時開演の日曜定期は、おおむね17時近くまでかかるものだが、なにしろ「整合性を求めない」1曲のみのプログラムだったので、いつもより早い時間に外に出る身となった。
 その日、わたしは、夜の用事があったのだが、中途半端な時間の空き具合となってしまった。仕方ないので、ときどき行くブックカフェで本でも読みながら時間をつぶすことにした。日本中の馬鹿者をすべて集めて全国大会をやっているような渋谷の雑踏のなかを、「どうか馬鹿が伝染しませんように」と、映画『遠すぎた橋』のロバート・レッドフォードのように祈りながら駆け抜け、さるビルに入る。すると、その店は「本日貸切」であった。この瞬間、脳裏に、ある短篇読み物が浮かんだ。
「まるで、後藤明生の『マーラーの夜』じゃないか」

 「マーラーの夜」は、「新潮」1992年1月号に発表され、単行本『しんとく問答』(1995年、講談社刊)に収録された。20頁強、エッセイとも小説ともつかない、不思議な掌篇である。
 当時、「私」(後藤明生自身)は、近畿大学で教鞭をとっており、大阪に単身赴任していた。マンション住まいで、月に2~3度、東京に帰る生活だった。
 あるとき、TVで、KBS交響楽団(韓国)の来日公演があり、曲がマーラーであることを知り、行く決意をする。「私」は、それほどのマニアではないが、マーラーの第1番が好きで、ショルティ指揮のカセットをデッキに入れっぱなしにしている(ここから、後藤明生お得意の「アミダクジ」的記述になり、自分とマーラーのかかわりが、マニアではないといいながら、実に詳しくつづられ、あらぬ方向に記述が進む)。
 そして、第3楽章に、歌詞をつけて歌うようになった。その「歌詞」とは、

 ダートー ベーイエイ(打倒米英)/ダートー ベーイエイ
 ハーレーター ソーラーニー(晴れた空に)
 ターカク ヒクーク(高く低く)/ユーメノ ヨーオーニ(夢のように)
 キン コン カーン/キン コン カーン


 というもので、確かにピッタリ合う(この旋律は、フランス民謡《フレール・シャック》=《グーチョキパーでなにつくろう》がもとになっている)。
 わたしの中学生時代、吹奏楽部でホルンを吹いていたK君は、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章に「俺は~バ~カだ。お前も~バ~カだ。みんな~バ~カだ~、バ~カだ~……」とデカダンな歌詞をつけてよく歌っていたが、あれに匹敵する名歌詞だと思う(ちなみにK君は、いま、某有名大学でマーケティング論の教授となっている)。

 で、この短篇は、そんな他愛ないマーラー雑談で終わるのかと思いきや、あちこちに脱線しながら、ようやく話は戻って、いよいよ、演奏会当日になるのである。
 開演は19時、会場は大阪厚生年金会館大ホールだ。「私」は、どのような交通手段と経路を使うか、あれこれと思案する。プレイガイドの女性に訊ねたり、地図を広げたりして、たいへんな騒ぎだ。いくら長く住んでいないとはいえ、大都会の、それなりに有名な会場へ行くのに、なぜ、大のおとなが、こんなチマチマした騒ぎを冗舌に演じるのか理解に苦しむが、この作家は、原稿だけでなく、生き方までもが「アミダクジ」式だったことがわかり、微笑ましくなってくる。ここを面白く感じられないひとは、後藤明生を楽しむことはできない。
 やがて「アミダクジ」の選択肢は、さらに妙な方向に進み、会場の手前にあるレストランで、かつて、(芥川龍之介の)「『芋粥』の五位の某のように」、無性にエビフライが食べたくなったことがあり、入店したものの、肝心のエビフライが売り切れで、がっかりした経験を思い出す。
 そこで、今回こそは、あの店でエビフライを食べようと決意し、演奏会の前に、早めに出かけるのである。その時間配分を決定するまでが、これまた大騒ぎで、どこからどの地下鉄に乗って、レストランまで徒歩で何分、食事に1時間……などと、徹底的に考え抜き、ついに16時半にマンションを出る。
 その結果がどうなったか……は、わたしの渋谷での経験譚から、おおよそ想像がつくであろう。

 後藤明生(1932~99)は、早稲田大学の第二文学部露文科を卒業後、博報堂や平凡出版(現マガジンハウス)に勤務しながら、小説を書いた。芥川賞候補に4回挙げられたが、受賞には至らず。だが、平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、芸術選奨文部大臣賞など錚々たる受賞歴を誇る、玄人好みの作家である。
 特に、あちこちに脱線しながら、失った外套を探す1日を描く『挟み撃ち』(1973)は、数社の文庫を小説同様に転々とし、1998年に講談社文芸文庫に入り、カタログ上は絶版ながら、まだ一部店頭で生きているロングセラーである。
 近年、後藤明生は人気再燃の傾向があり、最近も、怪作『壁の中』が、普及版と愛蔵版で復刊した(つかだま書房)。昨年には『後藤明生コレクション』全5巻(国書刊行会)が完結。「マーラーの夜」は、その第4巻に収録されている。ほかに電子書籍版もあり、冒頭部を試し読みできる。
(敬称略)

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2017.03.05 (Sun)

第181回 <古本書評②>『悉皆屋康吉』舟橋聖一

悉皆屋康吉 表紙
▲『悉皆屋康吉』舟橋聖一(創元社)
 (左)戦前初版/昭和20年5月初版、(右)戦後初版/昭和20年12月初版
 古書価:ともに3000円前後(かなり以前の購入)
 ※(右)の戦後初版の装幀は、(左)の戦前初版を複写したものと思われ、かすかに印刷が太めになっているように見える。


 書評といえば普通は新刊が対象で、古書の書評なんて、あまり聞いたことがない。
 だが、初めて読むのであれば、絶版古書だって、読み手にとっては新刊である。
 近年、「アマゾン・マーケットプレイス」や「日本の古本屋」の充実で、目的の古書を入手しやすくなった。
 だったら、古書の書評があってもいいのではないか。



 まず、内容よりも、本書の成り立ちからご紹介したい。

 これは8章構成の連作小説である。
 舟橋聖一(1904~1976)は、昭和16(1941)年から、ほぼ1年に1章ずつ、複数の文芸誌を舞台に本シリーズを書き継いできた。
 だが昭和16年といえば太平洋戦争が始まった年である。
 次第に「文芸」どころではなくなり、昭和19年1月、前半部(「巻の四」まで)を発表したところで一時中断、残りは「書下ろし」で単行本化の際に加えることにした。
 (このあたり、『細雪』の成立過程に似ている)

 全編は昭和20年初頭に完成し、統制団体に申請して3,000部分の用紙を配給された。
 さっそくゲラになり、著者校も終え、5月下旬、印刷・製本が始まった。
 ところが、5月24~25日、東京は、山の手大空襲に見舞われる。
 版元の創元社も、印刷所も製本所も全焼した。
 しかし、最初に製本を終えていた1,000部が、取次の日本出版配給(現在の日版)に運び込まれていて、無事だった。
 これが店頭に並んだ――はずなのだが、なにしろたった1,000部だし、時期が時期だけに、まともにひとの目に触れることはなかったようだ。

 そして8月15日、終戦。
 舟橋聖一と創元社は、もう一度『悉皆屋康吉』を世に出すため、初版をつくり直すことにした。
 といっても紙型も消失しているから、ゼロから組み直しである。
 佐野繁次郎による装幀は、5月初版を複写した(と思われる)ので、外見は同じだったが、字詰め、行立て、総頁数などは5月初版とはちがうものになった(本文テキストは同一)。 
 
 こうして「2回目の初版」10,000部が、終戦4か月後の12月に出た。
 よって『悉皆屋康吉』は、たった7か月の間に、戦前版(昭和20年5月初版)と、戦後版(昭和20年12月初版)の2種類の初版が出た、珍しい本となった。
 舟橋は、なぜ、そこまでして本書を復活させたのだろうか。 

悉皆や康吉 奥付
▲ (左)戦前初版の奥付、(右)戦後初版の奥付

 物語の舞台は大正時代。
 主人公・康吉は、下町の小さな悉皆屋「稲川」の手代だったが、ひょんなことから、最大手「梅川」で働くこととなる。
 「悉皆屋」(しっかいや)とは、着物のデザインや洗い張りなどを「悉」(ことごと)く、「皆」(みな)請け負う、和装の総合プロデュース業である。
 そこへ関東大震災が発生し、店は壊滅する。
 康吉は、主人・市兵衛と、密かに憧れていた主人の娘・お喜多を連れ、水戸へ避難し、悉皆屋を再開させる。
 やがて昭和となり、康吉も自分の店を持つようになり、主人の娘・お喜多と結婚し……。
 ここまでが雑誌に発表された前半部である。

 この間、様々な事態が康吉を襲うが、持ち前の真面目な性格で、ひとつひとつ、乗り越えて行く。
 当時30歳代半ばの舟橋の筆致は、すでに熟達の域に入っており、読み出すととまらない。
 まるでNHKの朝ドラだ。

 ところが、書下ろしになる後半部では、ニュアンスが少々変わってくる。
 昭和に入り、軍部が台頭してくると、あの素朴な康吉が、こんなことを言い出すのだ。
「ほんとの技巧は、あれじゃアない。どうしたら自分の真実が、世の中の人の胸に伝わっていくかということで、散々悩んだあげ句に、作り出していくのが、お前、ほんとの技巧だよ。自分というものが何もなくって、ただ、世の中に阿っていくのに必要なのは、技巧というより、遊泳術だ」
 時代が変わっても、康吉は、昔ながらの、ていねいで真摯な染物に対する情熱を失わない。
 近代化してゆく業界に背を向け、昔ながらの商売を貫こうとする。
 また、以前に世話になったひとへの恩も決して忘れない。
 かつて自分を裏切った主人の行く末を案じて京都まで会いに行くばかりか、正気を失った番頭を自宅に引き取って面倒を見ようとさえ、する。

 舟橋は、戦後初版のあとがきで、こう書いている。
「巻の七と巻の八を書く頃は、B29の攻撃力は増大し、執筆中、屢々、燈火管制をうけて、折角、のつてきた筆を擱いた。そのうちに、来襲の声に戦きつつ、書きかけの原稿紙をかゝへて、待避豪に急ぐやうな始末も演じた」
「人の家を覗くやうにして、電気を消せと怒鳴つて歩いた馬鹿らしい警防団や隣組の人達の督戦振りにも、腹が立つて仕様がなかつた」
「いよいよ東京にゐたたまれなくなつてからは、熱海に逃げ出して、そこで書いた。然し、そこでも、警防団には虐められた。(略)私が警報下に物を書いたりしてゐることが、非常に気に入らぬのであるらしかつた」

 これが、後半部で康吉が変わった原因だった。
 時代の波に抗う康吉の姿は、舟橋自身の投影だったのだ。

「戦時色は、ただ一色のカーキ色に染上げられ、どこを見ても、戦闘帽にゲートル巻の没趣味には、つくづく気が滅入つた。私は、せめての負け惜しみに、自ら戦闘帽を冠らず、国民服を着けないのを以て、辛じて残された自由を守ろうとするほかはなかつた。そして私は、この作中に於て、しきりに、緞子や市楽や、結城や縮緬について語り、或は写し、ひそかに、全体主義風俗に対する鬱憤をはらしたのであつたかも知れぬ」
 舟橋が書きたかったのは、これだった。
 一見、昔の呉服屋ものがたりに見せかけて、時流(軍国主義)に対抗して生きる男を描いていたのだった。
 そんな本が、戦争真っ盛りの昭和20年5月に堂々と出ていた、それを証明するために、舟橋は、戦後、復刊を(いや、2回目の初版を)行なったのではないだろうか。
 現に、舟橋は、戦後初版のあとがきで、こう書いている。
「頃日、シカゴ・トリビューンの従軍記者と会談した時、空襲中に出たものが、戦後一字の修正もなく再版できるだのと、云つたら、それは特別の不思議であり、何かの間違ひではないかと、首を傾げていた。/然し、絶対に間違ひではない。戦時下の日本にも、かういふ小説を支持してくれる善意の人々は、黙々として存在しつゞけてゐたのである」


悉皆や康吉 文庫
▲(左から)角川文庫(1954年)、新潮文庫(1957年)、文春文庫(1998年)、講談社文芸文庫(2008年)

 本作は、その後、わたしが知る限り、角川文庫(1954年)、新潮文庫(1957年)、新潮社版「舟橋聖一選集」所収(1969年)、文春文庫(1998年)、講談社文芸文庫(2008年)と、計5回復刊されている。
 だが、上記「戦後版あとがき」は、最初の文庫版(角川文庫)に収録されただけで、その後はすべて削除されている。
 こればかりは、最初期の古書でしか読めないのだ。
<敬称略>


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2017.02.21 (Tue)

第180回 <古本書評>『神話をつくる人たち』共同通信社編

神話表1
▲『神話をつくる人たち ―名演奏家の素顔と芸術―』共同通信社編
  (FM選書、1980年10月初版、1200円/古書価200円)


 書評といえば普通は新刊が対象で、古書の書評なんて、あまり聞いたことがない。
 だが、初めて読むのであれば、絶版古書だって、読み手にとっては新刊である。
 近年、「アマゾン・マーケットプレイス」や「日本の古本屋」の充実で、目的の古書を入手しやすくなった。
 だったら、古書の書評があってもいいのではないか。



 1970年代から90年代にかけて、FM情報誌は4誌が競っていた。
 ポップスに強かった「週刊FM」(音楽之友社)。
 オーディオ情報と音楽家伝記マンガが売りだった「FMレコパル」(小学館)。
 鈴木英人のイラストによるカセット・ラベルが付いていた「FM STATION」(ダイヤモンド社)。

 そしてわたしが好きだったのは、クラシック情報が多い「FM fan」(共同通信社)だった。
 同誌は「読み物」が充実しており、特に志鳥栄八郎の「わたしのレコード・ライブラリー」は、毎号、舌なめずりしながら読んだものである。
 同誌の連載は「FM選書」と題して、共同通信社から次々と単行本化された。
 朱色で統一されたカバー・デザインにビニールがかかった、印象的な造本・装幀だった(このビニールのおかげで、現在、古書店頭でも、比較的きれいな状態で並んでいる)。
 上記「わたしの~」も、『私の~』と改題され、ロングセラーとなった。

 本書も「FM fan」連載で、初出は1977~79年である。
 このころ、筆者は大学生だったが、この連載が単行本化されていたとは知らなかった(1回あたり、ざっと計算すると400字詰めで12~13枚はある。雑誌記事としてはかなりの分量だ)。

神話表4
▲取り上げられた演奏家たちと、筆者(オビ裏側)

 内容は、1回ごと読み切りで、巨匠と呼ばれた演奏家の、素顔や思い出話をつづるエッセイである。
 ほとんどは当時活躍中の演奏家だが、カザルスやコルトー、セル、ストコフスキーといった故人も含まれており、その場合は、一種の追悼文になっている。
 この書き手の選定が見事で、すべて、演奏家本人と親交のあったひとたちである(ほとんどの項に、演奏家と書き手が、親しげにしているワンショット写真が載っている)。
 ジャーナリストやオーケストラ・スタッフが書いている項もあるが、多くは弟子筋にあたる演奏家で、忙しい中、よくこれだけの原稿を書かせたものだと感心する。
 海の向こうの巨匠たちと親しく付き合っていた日本人がこんなにいたことにも、驚く。

 中でも、やはり、宇野功芳が読ませる。
 若いころからリリー・クラウスのファンだった宇野は、昭和42(1967)年の来日公演の際、誰の紹介もなくホテル・ニューオータニの彼女の部屋を訪ね、「起こさないでください」の札がかかっているにもかかわらず、ドアを開けさせ、「ぼくはファンですが、五分ばかりお邪魔できないでしょうか」と頼み込む。
 もちろんそんな不作法な訪問は拒絶されるのだが、結局、これをきっかけに、宇野とクラウスは、長く親交を得るのである。

 そして昭和46(1971)年の来日では、宇野が指導し、「十年間にわたって丹精をこめた団体」、KTU女声合唱団の歌声を、クラウスに聴かせる機会が訪れる(以前にテープを送って、興味をもたれていた)。
 30名の団員が、東京文化会館のリハーサル室で、クラウスを前にして歌った。
 最後の《ハレルヤ》でクラウスは大感激し、涙ぐみながら「みなさんの歌には苦しみと情熱があふれ、生と死そのものを感じさせます」とあいさつしたという。
 そして彼女は返礼に、シューベルトとバルトークを弾いてくれた。

 わたしはこの部分を読んで、クラウスが口にした「みなさんの歌には苦しみと情熱があふれ……」を、ずいぶん大げさな物言いだな、と感じた。
 しかし、これにつづく宇野の結びの文を読んで、なるほどと思った。
 「貧しい家庭に生まれ、恵まれない少女時代を過ごしたKTUのメンバーたちにとって、その日は初めて幸せの女神にほほ笑まれた無上の一日だったのではあるまいか」
 実はKTU女声合唱団は、下町の定時制高校の卒業生によって結成されていた。
 あのころ、わたしの中学の同級生にも、卒業後、昼に働きながら、夜、定時制高校に通うものがいた。
 クラウスは、宇野から、そのことを説明されていたのだろう。
 そんな女性たちと世界的なピアニストが、このような時間を共有していたことを知り、読んでいるこちらが涙が出そうになった。

 本書の大半は、ウィーンやニューヨークなど、大都市の一流劇場を舞台にした、華やかなエピソードで埋まっている。
 だが中には、このような、昭和40年代の素朴な日本の姿も記録されていた。
 古書だからこそ出会えたエピソードであった。
<敬称略>
 

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