2023.03.30 (Thu)
第392回 76年ぶりに再演、早世の劇作家・加藤道夫が「いま」に伝えるもの

▲文学座アトリエの会『挿話〔エピソオド〕~A Tropical Fantasy~』(リンクは文末に)
劇団四季のファンならば、『思い出を売る男』をご存じだろう。
また、歌舞伎ファンだったら、『なよたけ』をご覧になっているかもしれない。竹取物語を原案とした芝居で、先代市川團十郎や、当代中村芝翫らも、若いころに演じている。坂東玉三郎演出の公演もあった。市川雷蔵が映画化を切望していた作品でもあった。
これらを書いた劇作家が、加藤道夫(1918~1953)だ。
戦前から芥川比呂志らと演劇グループを結成し、戦後、文学座に合流。夫人は、女優の加藤治子(1922~2015)である。
だが、戦争中に陸軍省の通訳官として南方に赴任し、重いマラリアに罹患する。戦後も再発し、闘病と入院を繰り返しながらの演劇活動だった。
そのため厭世的になったのか、昭和28(1953)年に自殺。35歳の若さだった。
そんな加藤道夫が、終戦後間もない昭和23(1948)年に発表した戯曲が『挿話〔エピソオド〕 A Tropical Fantasy』だ。翌年に、文学座が初演した。
だが、以後、この作品は一度も上演されることなく、一般の演劇ファンにとって加藤道夫はほぼ『思い出を売る男』『なよたけ』のみで知られる作家となって今日に至っている。
その『挿話』が「76年」ぶりに、文学座アトリエの会によって再演された(的早孝起演出/3月14~26日、文学座アトリエにて)。
なぜ、いまの時期に再演されたのだろうか。
時は「一九四五年八月二十日と推定される日」、所は「南海の果のヤペロ島と称するパプア族の住む島」
この島に残っていた、日本兵たちの物語である。
冒頭、日本軍の通訳・守山(作者の分身)の「声」がスピーカーから響く。
声(守山)「之は実際にあつたことであります。作者が実際に経験した事実の記憶から作り上げられたものであります。/それは昔々と言ふにはあまりにも真新しい記憶。――丁度、今から八年前。あの長かつた太平洋戦争が突如終焉した日のことであります。」
「これは、今次戦争の終戦が齎〔もたら〕した、ほんの小さなエピソオドであります。」
島に取り残されていた日本兵らは、米軍の伝単(宣伝謀略ビラ)で、終戦を知る。最初は本気にしない師団長だったが、先住民たちがお祭りをはじめたのを知り、敗戦の事実を受け入れる。
だが師団長は、新たな恐怖に襲われる。彼は、かつて、この島に上陸するや、先住民たちを自慢の日本刀で斬殺していたのだ。
やがて師団長は、彼らが生きていて、復讐に来るとの幻惑にとりつかれる。実際、先住民たちが亡霊となって師団長の前にあらわれる。だが復讐に来たわけでもなさそうで、なにかを訴えているようでもある。師団長は次第に衰弱し、錯乱状態に陥っていく。
終幕近く。彼方から、先住民たちの祭りの歌が聴こえてくる。
倉田(師団長)「……何の歌ぢや? あれは……」
守山「あれは、土人達が死者の霊を祝福するトラモワの祭りの歌であります。彼等は、ミタロと言ふ木彫の像を立てゝ、その廻りを踊り狂ってゐるのです。」(略)
倉田「(うはごとの様に)……む。さうぢや。……儂は行かにやならん。(略)儂は、これまでに、一度として、奴等のところに行つてやつたことがなかつた。……一度として、奴等の村を訪れてやつたことがなかつた。」(略)
藤野「閣下! 未開の土人どもの邪教であります。文明人であられる閣下が、あの様なものに心を奪はれるとは……」
師団長は、うつろな状態のまま、先住民の村へ向かって舞台から去る。
ここで幕が下りていたら、この戯曲は、戦争犯罪の愚かさを、演劇ならではの象徴性をもって表現した、反戦劇の一種で終わっていただろう。占領軍の検閲を受けているとしたら、”優良作品”として歓迎されていたかもしれない。
ところが、このあと、ふたたび守山の「声」が流れる(今回の再演では、本人が舞台上に登場した)――半年後、オランダ軍が進駐してきて、我々は帰国できることになった。師団長と参謀長は戦犯として逮捕されたが、師団長は精神異常を理由に放免された。
しかし、
※ここで思い出されるのは、竹山道夫の小説『ビルマの竪琴』だ。ちょうどこの『挿話』発表直前に連載が終了し、単行本化されている。『挿話』は、加藤の実体験が素材だが、この小説も脳裏の片隅にあったかもしれない。声(守山)「彼は我々と共に復員船に乗ることをどうしても肯〔がえ〕んじませんでした。……閣下は、ミタロの神に取り憑かれてしまつたのであります。〈土〉の神が彼の全精神を占めてしまったのであります。(略)故国は彼の脳裏から全く消え去つてしまつたのであります」
そして、ほかの日本兵たちの“現況”が述べられる。戦犯の参謀長が異国の地で強制労働に従事しているらしきほかは、みんな、商売で成功したり、労働組合で闘争活動をやっていたりと、ふつうの戦後をおくっているという。
守山は、ヤペロ島に行って、もう一度先住民たちと会い、「倉田閣下の思ひ出話に時を過してみたい」と願う(「倉田本人に会いたい」とは、言わない)。
ここにきて、物語は、副題にある“ファンタジー”であることが明確になる。わたしたち観客は、2時間弱の“まぼろし”を見せられたのである。
おそらく初演当時は、つい「8年前」の物語だけに、リアルに受け取られただろうが、さすがに76年もたつと、どこか諧謔的というか、コミカルな空気さえ漂う。だが、それでこそ、作者が目指したものは、ようやく76年目にしてファンタジーとして“完成”したともいえるのである。
作者の分身である「声」は、こう締めくくる。
声「……私は、愚かなるが故に人間を憎むものではありません。……併し、愚かなる人間達が不知不識〔しらずしらず〕の裡に犯してしまふ恐ろしい〈過誤〉〔あやまち〕だけはどうしても憎まないでは居られないのです」
今回の『挿話』再演は、2021年秋に決まったという。「グレート・リセット~危機を抱きしめて~」のテーマで、文学座内で公募され、選ばれたらしい。コロナ禍の下、東京オリンピック・パラリンピックが開催された直後だ。
このような作品を復活させる文学座の“発掘力”には感心させられる。ところが、“死者の声”に耳をかたむけるファンタジーのはずが、現実をなぞることになってしまった。
2022年2月、ロシアがウクライナ侵攻を開始した。「知らず知らずのうちに犯してしまう恐ろしい過誤」がふたたび地球上を覆いはじめる、その恐怖を、あらためて感じさせてくれた、加藤道夫の『挿話』とは、そんな“未来を見越した芝居”だったと思う。
新劇の公演期間は短い。こうやって紹介したり、口コミが広がるころには、公演は終わっていることがほとんどだ。
諸権利の関係で容易でないことはわかっているが、できれば、動画配信でもいいから、もっと多くのひとに観てもらいたい作品だった。
〈敬称略〉
※本文中の『挿話』台本は、『加藤道夫全集』全一巻(昭和30/1955年9月、新潮社刊)より引用しました(漢字は新表記にあらためました)。また、本稿執筆に際して文学座文芸編集室にご協力いただきました。御礼申し上げます。
◇文学座『挿話』サイトは、こちら。
2023.03.19 (Sun)
第389回 ついに消費者法の専門家も指摘しはじめた、「ほとんどS席」の理不尽

▲1階は端までS席の「帝国劇場」(帝劇HPより) ※本文参照
PRESIDENT Onlineに、看過できない記事が載った。
《日本特有の「名ばかりS席」を許してはいけない…消費者法の専門家がエンタメ業界の悪慣習に怒るワケ 日本人はもっと怒ったほうがいい》だ(3月7日17時配信。リンクは文末に)。
筆者は日本女子大学家政学部の細川幸一教授。消費者政策、消費者法が専門で、略歴には〈歌舞伎を中心に観劇歴40年。自ら長唄三味線、沖縄三線を嗜む〉とある。
記事の要旨は、日本の劇場は、ほとんどがS席(最高額席)で、これはおかしいとの指摘である。
あたしは、この声を待っていた。しかも、こういうことの専門家がキチンと発信してくれて、喉のつかえが下りたような気分だ。
読者諸兄もご経験がおありだろう。「最高額のS席を買ったのに、なんで、こんな端っこの席なの?」……と。いったい、日本の舞台公演における、いいかげんな席種設定「ほとんどS(最高)席」状態は、どうにかならないのだろうか。
この記事で、細川教授はいくつかの実例をあげているが、特に同感を覚えたのが、帝国劇場の席種だ。
例えば、東京・日比谷の帝国劇場で行われた「KINGDOM」2月公演。席種はS席、A席、B席の3ランクあるが、席数の半数以上が最上級グレードのS席だ。価格はS席1万5000円、A席1万円、B席5000円で最大3倍の開きがある。
そして、座席表を掲げて(冒頭の図)、
1826席中、S席の割合は61%ほどになる。(略)/帝劇はかなりの大劇場で、左右も広い。奮発してS席を購入し、いい席で音楽や演劇を楽しもうと期待しても、実際はA席と変わらないということもよくある。/例えば、2階5列目の一番端はS席であるが、6列目は中央でもA席になっている。5000円の差があるが、6列目中央のA席の方がはるかに見やすいだろう。S席を購入した客がかわいそうである。
あたしも、帝劇では、何度も似たような経験をしている。
とにかくあの劇場は、横に広く、しかも1階はフロアがフラットに近いので、S席を買っても、端や後方、ましてや2階の端だったりすると、たいへん見にくい(映画好きだったら、新宿武蔵野館のフロアがフラットで、前に大柄な客が来たらスクリーンがほとんど見えなくなった経験があるだろう。あれに近い)。舞台セットによっては、1階端だと見切れ(舞台が全部見えない)になることも多い。それでもほとんどはS席だ。
最近は、ネットで席を選べるのだから、そんな席を買わなければいいのに、と思われるかもしれない。しかし、実際には発売日にネット接続しても、まともな席は完売で、結局、S席は、端か後方しか残っていないことがほとんどである(歌舞伎や文楽は、特にそれが顕著)。
最近、芝居に行くと「前かがみになると、後方のお客様が見えにくくなるので、お控えください」とのアナウンスが流れる。あたしの知る限り、こんなことを言い出したのは、帝劇が最初だと思う。
しかし、そういう席を最高額で売っているのだから、文句を言いたくなるのは無理もない。
とにかく日本の劇場の席種設定は、あまりに雑すぎる。
先日も、Bunkamuraシアターコクーンで、宮沢りえ主演の『アンナ・カレーニナ』(Bunkamura主催)を観たが、この公演は、S席11,000円、A席9,000円の2種類しかなかった(ほかに、「特に見えづらい」コクーンシート5,500円がすこしある)。
たまたま、あたしの行ける日で、もっとも舞台に近い空席は2階LのA席しかなかったので、そこを買ったら、案の定、見切れ(舞台の下手半分近くが見えない)だった。
あの劇場に見切れ席があることはオープン時から知っていたので、それはいいのだが、だったら、A席の下のB席に設定するか、コクーンシートにするべきだ。ともにA席なのに、数席はなれたところではきちんと見えて、こちらは見切れ。これでおなじ金額とは、あんまりではないか。
見切れ席となったら、どうしたって身を乗り出しかねないのが、ひとの常だろう。
劇場側もそれをわかっていながら、しつこいほど「前かがみにならないで」とアナウンスをし、客席にまで入ってきて口頭で注意される。
見切れ席を、普通に見える席と同額で売っておいて、身を乗り出すなという。我々は、そこまで我慢して、高いカネを払って「見えない芝居」を観劇しなければならないのだろうか。
コクーンの場合、たしかにHPでも「2階A列は、手すりが視界を遮る場合がございます」などと、まるで、時々そういう事態が発生するかもしれないようなお断りを載せているが、「場合がございます」どころか、100%そういう席だとわかっているのだから、これは最初から別にしてほしい。お断りを載せればいいというものではないと思う。
たまたま帝劇やコクーンを例にあげたが、これは、ほかの劇場――歌舞伎座、新橋演舞場、国立劇場(特に小劇場の文楽!)、新国立劇場(特に中劇場の演劇!)なども同様である。
これに対し、細川教授は、記事中で、海外の劇場はいかに細かい席種に対応しているかをあげている(記事中には座席表図あり)。
(この座席レビューは一見の価値あり。日本にも似たような情報サイトはあるが、これほど本格的なレビューではない。whichseats.comのリンクは文末に)ニューヨークやロンドンの劇場では日本に比べて席種の分け方が細やかな場合が多い。/例えば、ライオンキングのロングランで知られるロンドン・ライセウム劇場(Lyceum Theatre)の席種例を見てみよう。/価格帯は15に分かれている。ステージへの近遠だけでなく、左右、また視野なども考慮してかなり細かく席種が分類されていることが分かる。/(略)座席のレビューや口コミも重視される。「whichseats.com」(London Lyceum Theatre Seating Plan and Seat Reviews)は、観劇客が自分で購入した座席の見えやすさ、快適さ、足元の広さを評価しており、レビューされている。/ロンドン劇場のすべての座席について情報を収集して公開している。料金が変動するので、平均購入価格も表示される。「お金の値打ち」をシビアに考慮する欧米人にとって座席の良しあしは重要な「選択情報」なのだ。
あたしも、細川教授ほどではないが、ロンドンやニューヨークで、演劇やオペラ、ミュージカルなどを何度か観てきた。たしかにそのたびに、いったいどう選べばいいのか迷うほど細かい席種に、驚くばかりだった。
たとえば、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)の場合、1~5階席(事実上6フロア)あって、各フロア内が、さらに細かく設定されている。金額や席種は、演目や季節、マチネによって変動するが、おおむね、1階中央が$299~$385、最上階サイド(見切れ席が多い)が$45~$49である。その中を30種近くの席種に分け、約8倍の差を付けているのだ。

▲ある公演のMET座席表。各フロア内がさらに細かく分かれている。
いまでもあるのかどうか不明だが、あたしがMETによく行っていた30年ほど前には、最上階の奥に、見切れどころかステージが完全に見えない、穴倉のようなさらに安い席があり、譜面台が設置されていた。音大生やオペラ歌手の卵が、スコアを見ながら「音」を聴いて勉強するための席である。
こういうのを「文化」というのではないか。
もう一例をあげると、これはロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスにおけるバレエ公演の席種。
この細かさをご覧あれ!

▲ロイヤル・オペラ・ハウスのバレエ公演
欧米の歌劇場と日本の劇場を比べても意味がないといわれればそれまでだが、それでも、もう少し細かくして、せめて、「見やすい席」と「見にくい席」を同額で売ることは、やめてもらえないか。
細川教授の記事中にもあるが、劇団四季はたいへん細かく席種を分けているし、明治座3月の松平健公演のように、少し安い「見切れS席」「見切れA席」などを出しているところもある。
日本のオーケストラ定期会員の席種も、実に細かい。たとえばN響の、ある月のNHKホール定期では、一般券を9800円から2800円まで6種に設定している。25歳以下の場合は、さらにその半額だ。商業演劇とオケ定期を同列には論じられないが、参考にするべき事例だと思う。
今回の記事は、消費者法の専門家による寄稿だが、本来、こういう主張は、演劇評論家のような専門家から起こるべきだと思う。もしかしたら、すでに発言している方がいるのかもしれないが、少なくとも、PRESIDENT Onlineのような、膨大な数の読者がいるメディアでは、いままで見かけたことはなかった。招待席で見ている評論家諸氏は、そんなことは感じないのだろうが、舞台公演は評論家ではなく、われわれ一般消費者、特にゴーアーたち(goer=常連)が支えているのである。
日本人は、高いカネをはらって「見せてもらっているのだから」「役者さんも一所懸命なのだから」と遠慮しているひとが、多すぎる。
あたしたちは公演を買っている「消費者」なのである。しかもその金額は、大劇場の場合、数千円どころか、1万円を超えることがほとんどだ。
スーパーで買った生鮮食料品が傷んでいたら、当然、苦情をいうだろう。「我慢して強火で炒めて食べてください」といわれて「わかりました。スーパーさんもたいへんですよね」と引き下がる消費者がいるだろうか。
見えにくい席を最高額のS席で買わされて文句をいわないのは、上記とおなじだ。こういうのを消費者不在の商法というのではないか。
細川教授が述べているように、あたしたちは、もっと怒るべきではないか。
◇PRESIDENT Online《日本特有の「名ばかりS席」を許してはいけない…消費者法の専門家がエンタメ業界の悪慣習に怒るワケ 日本人はもっと怒ったほうがいい》は、こちら。
◇ロンドンの劇場の席を徹底評価する「whichseats.com」は、こちら(これは、ノヴェッロ・シアターの席評価ページ)。
2022.09.17 (Sat)
第363回 文学座『マニラ瑞穂記』とスーザ

▲(左)文学座公演『マニラ瑞穂記』、
(右)スーザ《海を越える握手》出版譜【出典:Wikimedia Commons】
文学座公演『マニラ瑞穂記』(秋元松代作、松本祐子演出)は、老舗劇団の底力を見せられた舞台だった(9月20日まで、文学座アトリエにて)。
近年では、2014年の新国立劇場版(栗山民也演出)が最新上演だったと思うが(昨年、同劇場演劇研修所の終了公演も本作だった)、今回は、各役のイメージを若返らせ、アトリエの閉鎖的な空間に独特の躍動感を生んでいた。
たとえば女衒の秋岡などは、”お父さん”よりも”アニキ”のような雰囲気だったし、からゆきさんを演じた5人の女優陣も空前の体当たり名演だった。
チェーホフ『桜の園』を100倍辛口にしたようなラスト・シーンもふくめて、おそらく、この名作戯曲に初めて接した観客は、脳天をぶん殴られたのではないだろうか。
舞台は1898(明治31)年、スペイン植民地下のフィリピン・マニラ。
いまや米西戦争真っ盛りで、外では砲弾が飛び交っている。
米西戦争とは、カリブ海(キューバ近辺)とフィリピン・グアムのスペイン植民地をめぐって、”支配者”スペインと、”解放者”アメリカが戦った海戦である。
マニラの日本領事館に、官僚、帝国軍人、フィリピン独立闘争を支援する日本人志士、女衒のオヤジ、からゆきさんなど、様々な 日本人たちが、戦火を避けて逃げ込んでいる。
彼らには、それぞれの思惑があるのだが、ことごとくうまく運ばない。
海外での夢やぶれ、結局、アメリカの掌に乗せられてしまのだ。
初演は1964(昭和39)年。
作者秋元松代は、敗戦から19年目の日本が、東京オリンピックで世界の一等国に躍り出た(かのように見えた)年に、冷や水を浴びせたのだ。
おそらく作者には、占領が終わってもなお、安保条約の下、アメリカの言いなりになっている戦後日本が、明治時代、米西戦争下の 日本に重なって見えたのではないだろうか。
それをいま再演することは、国葬に邁進する日本政府に対する冷や水のようでもあり、なんとも痛快だった。
このフィリピン米西海戦を題材にした、マーチの名曲がある。
ジョン・フィリップ・スーザ作曲《海を越える握手》である。
この曲は、生涯にスーザが書いた100曲以上のマーチのなかでも、突出した名曲だ(わたしは、ベスト5に入ると思っている)。
なにしろ、Naxosレーベルからリリースされていた、キース・ブライオン指揮のCD『スーザ吹奏楽作品集』全23巻では、「第1巻/第1曲」収録の”栄誉”を授かっているほどである(演奏も、このCDが最高)。
聴いていると、どこか不思議なムードを感じると思う。
基調はF-Dur(ヘ長調)なのに、かすかにd-Moll(ニ短調)も漂うのだ。
これによって、単なる明るい曲ではない、陰影のある深い音楽となった。
このあたりが、スーザのマーチが”3分間の芸術”といわれる所以なのである。
ところで――フィリピンの米西戦争で、アメリカに勝利をもたらしたのは、「オリンピア号」のジョージ・デューイ提督だった(のちに大将、大元帥)。
後年、大統領候補の呼び声さえかかる、”マニラ湾海戦の英雄”だ(アメリカ側の損害は、負傷者9名のみ! 現在のアメリカ海軍の駆逐艦「デューイ」は、この提督を讃えた愛称である)。
そのデューイ艦隊がスペイン軍に追い込まれた時、イギリス艦隊が助っ人に参じてくれた――このエピソードにスーザが感動して作曲したのが、《海を越える握手》である……というのだが、いまでは、これは作り話ということになっている。
現に、出版譜(上の図版参照)の右上には「ふと思いついた。永遠の友情を誓おうではないか」と書かれているが、これはイギリスの外交官・作家、ジョン・フッカム・フレール(1769~1846)の戯曲『The Rovers or The Double Arrangement』第1幕第1場のセリフで、一種の名言なのである。
「デューイ提督に捧げる」なんて、どこにも書いてない。
要するにスーザは、フレールの「戯曲」に感銘を受けて、音楽化したのだ。
それがなぜ、米西戦争から生まれたことになったのか。
もともとデューイ提督は、スーザの大ファンで、マニラ湾に向けて香港から出港するときの送出マーチに、スーザの《エル・キャピタン》を演奏させたほどだった。
これは当時大ヒットしていた同名オペレッタのなかの旋律を抜き出して合体させた、一種の”メドレー・マーチ”である(だから、この曲は、拍子や曲想が途中でガラリと変わるのだ。それゆえ、中学高校の吹奏楽部がリズム感を身につけるのに、最適のテキスト曲でもある)。
いうまでもないが、スーザは、マーチだけを作曲したわけではない。
山ほどのオペレッタ、劇付随音楽、コンサート曲を書いている(その解説をはじめたら、全10回は必要!)。
そのなかで、《エル・キャピタン》は、最大ヒットとなった舞台作品で、スペイン統治時代のペルーを舞台にした、ドタバタ喜劇である。
スーザは、デューイ提督が、この曲のファンであることを知っていた。
一緒に食事をする仲でもあった。
だから、米西戦争に勝利の翌年、1899年のニューヨークでの凱旋パレードではスーザ・バンドが無償出演でパレードを先導し、ここでも《エル・キャピタン》を演奏した(このころ、スーザはすでに海兵隊軍楽隊を辞し、自分のバンドを持つ大スターだった)。
《海を越える握手》を作曲したのは、ちょうど、このときで、本来は、翌年のパリ万博ツアーのための曲だった。
だがおそらくスーザにとっては、親友にして自分のファンでもあるデューイ提督の、CM曲のようなつもりもあったのではないか、だから、あとづけで、米西戦争にまつわるような”感動のエピソード”を加えたのではないだろうか。
『マニラ瑞穂記』はいうまでもなく、《海を越える握手》も、「戯曲」だったのだ。
□文学座ウェブサイト
□《海を越える握手》(米海兵隊軍楽隊の来日公演)
□Naxos『スーザ吹奏楽作品集』Vol.1(非会員は冒頭30秒のみ聴取可能)
□《エル・キャピタン》(大井剛史指揮、PRO WiND 023)
◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。
2021.08.15 (Sun)
第326回 本多劇場で歌舞伎!――松也自主公演『赤胴鈴之助』

▲尾上松也自主公演 新作歌舞伎『赤胴鈴之助』
昨年8月から歌舞伎座公演が再開しているが、まだ本来の興行形態にはもどれていない。再開当初は4部制で、各部、1時間前後の一幕興行だった。その後、3部制になったが、どれも見取り(抜粋公演)ばかりだ。たまたま今月の第一部が『加賀見山再岩藤』一本で、ひさびさに通し上演かと思ったが、これとて、「岩藤怪異篇」と題した見取りである。
そんななか、とうとう、「長編スペクタクル」の「通し上演」が登場した。それは、尾上松也の「自主公演」「新作初演」で、会場はなんと、“小演劇の聖地”下北沢の「本多劇場」である。
これが、たいへん面白い内容だったので、大急ぎでご紹介しておきたい。
演目は『赤胴鈴之助』(戸部和久:脚本/尾上菊之丞:振付・演出)。往年の漫画・TV・映画で一世を風靡した作品の歌舞伎化である。松也の父・六代目尾上松助は、かつてTVで赤胴鈴之助を演じていたので、父子二代にわたる鈴之助役者となった。
ものがたりは、原作どおり、少年剣士・金野鈴之助が、ライバルで親友の竜巻雷之進とともに、千葉周作の道場で修業しながら、幕府転覆を目論む鬼面党と闘う話である。
だが今回は、魔界からよみがえった平将門が、娘の瀧夜叉姫や銀髪鬼とともに、背後から鬼面党を操っている設定になっており、いかにも伝奇歌舞伎らしくスケール・アップしていた。
途中、チャリ場や、だんまり、舞踏、立ち回りなど、歌舞伎ならではの見せ場が次々と登場する。なかったのは、宙乗りと本水くらいではないか。
なかでも、鈴之助vs将門の対決シーンは、松也の一人二役で圧巻である。定番の早替わり演出で、もうさんざん見てきた仕掛けなのだが、今回はあまりに見事で、いったいどうなっているのか、ちょっと驚いた。この演出を初めて観たひとは、何が何だか、わからなかったのではないか。
――こう書くと、澤瀉屋の芝居(いわゆる“猿之助歌舞伎”)を想像するかたもいると思う。実は、脚本の戸部和久は、近年話題となった、新作歌舞伎『風の谷のナウシカ』の脚本家のひとりで、ベテラン脚本・演出家、戸部銀作(1920~2006)の息子さんである。戸部銀作といえば、先代猿之助の「3S歌舞伎」(ストーリー、スピード、スペクタクル)を支えてきたひとだ。松也同様、脚本も父子二代の仕事だったのだ。
役者も、松也を支えているひとたちばかりで、安定していた。
市川蔦之助の瀧夜叉姫も若々しい艶と妖怪変化ぶりで、休憩時間に、(おそらく歌舞伎初心者の)女性観客がいっせいにチラシをひらいて「あれ、なんて役者なの?」と話題にしていた。
賛助出演の中村莟玉は、千葉周作の娘・さゆりを演じた(吉永小百合は、12歳の時、ラジオドラマ版のこの役で芸能界デビューした)。いつもどおりの可憐さだが、意外や、達者なコメディエンヌぶりで笑わせてくれる。できれば初登場シーンのあと、薙刀で鈴之助たちを負かすところを見せてほしかった!
鈴之助の親友、竜巻雷之進役に、生田斗真が客演している(わたしはよく知らないのだが、ジャニーズの人気俳優)。松也とは高校同級以来の親友だという。その芝居も発声も、完全に歌舞伎とは異質なのだが、なんとか見栄を切ったり、飛び六法を見せたり、懸命に演じていた。ちなみに、満席となった客席を埋めていた女性客は、大半がこのひとのファンだったと思われる。
しかしとにかく、このような本格的な新作歌舞伎を、下北沢の「本多劇場」で観るとは、夢にも思わなかった。当然ながら、舞台機構には限界があるが、それを逆手に取った、アイディア満載の舞台美術や演出も楽しかった。
たとえば、鈴之助が、奥義・真空切りを会得するシーンは、菊之丞の振り付けによる舞踏+プロジェクション・マッピング映像で迫力満点。松也最大の見せ場である。そもそも「真空切り」なんて、漫画ならではの設定なのだが、ちゃんと説得力ある表現になっていた。
下座やBGMなどは、ほとんどが録音だと思うが、クライマックスで、和太鼓の生演奏が登場したのは効果的だった。短いが、床(義太夫)の実演もある。
松也自主公演は、過去9回、ほとんどが名作芝居・名作舞踏で、このような大型新作は、今回が初めてのようだ。残念ながら自主公演は、これで最後らしいが、皮肉にも、最終回で松也は、レパートリーに定着できる芝居を生んでしまったような気がする。
この舞台を、歌舞伎座の本興行に持ってくることは、無理だろう。新橋演舞場でも難しいか。だが、明治座あたりだったら……もしや、いけるのではないか。
そのときは、ぜひ、宙乗りや本水もくわえて、新しい「3S」歌舞伎に育ててほしい。
〈敬称略〉
※尾上松也自主公演『赤胴鈴之助』は8月22日まで(詳細、こちら)。
舞台映像は、今後、Netflixで配信されるそうです。
◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。
全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。
限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(木)21時・たちかわ、毎週(土)23時・FMカオン、毎週(日)正午・調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。
パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。
最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。
2021.03.18 (Thu)
第305回 ほんとうだった「名作の誕生」~文学座公演『昭和虞美人草』

▲文学座公演『昭和虞美人草』(マキノノゾミ作、西川信廣演出)
わたしは、一応”音楽ライター”なんて名乗っているが、芝居も好きだ。だが、たいした数は観ていないし、見巧者でもないので、劇評みたいなことは、あまり書かないようにしている。
しかし、先日の文学座公演『昭和虞美人草』(マキノノゾミ作、西川信廣演出/文学座アトリエにて)は、ぜひ多くの方に知っていただきたく(29日まで、配信で鑑賞可能)、以下、ご紹介したい。
特に、現在60歳代以上の方には、たまらないものがあるはずだ。
これは、夏目漱石『虞美人草』の昭和版である。
この小説は、漱石が朝日新聞社に入社して(つまりプロ作家となって)最初に書いた連載小説だ。漢文調が混じる、いまとなっては実に読みにくい小説である。一般の本好きで、本作を最後まで読み通したひとに、わたしは会ったことがない。これ以前の最初期2作が『吾輩は猫である』『坊っちゃん』だったことを思うと、なぜこんな小説を書いたのか、不思議ですらある。やはり連載媒体が「朝日新聞」だったからか。
内容は――明治時代、漱石お得意のモラトリアム男たちと、(当時としては)異例なまでに活発な女性などが入り乱れ、グズグズいいながら恋愛関係になったり離れたりする物語である。明治維新後、旧時代を脱し、変わり始めた若者たちの姿を描いている――そんな小説だと思う。
この青春群像劇を、マキノノゾミが、1973(昭和48)年に舞台を移して翻案した。
4人の大学生がつくっているロック音楽のミニコミ誌が、書店で一般販売されることになった場面からはじまる。いうまでもなく、「rockin'on」と「ぴあ」がモデルである。
原作の舞台は、東京と京都がほぼ交互に登場するが、ここでは、東京の雑誌編集部(主宰者の自宅の書斎)のなかだけで進行する。
この4人に、気の強いお嬢様と、対照的なおとなしい娘がからみ、原作通り、結ばれたり離れたりしながら「おとな」になっていく姿が描かれる。
この「おとな」になる過程が、重要なモチーフとなる。未熟な若者は、いつ、どういう経験を経て「おとな」になるのか。マキノは、6人の若者に様々な試練を与える。それらを乗り越えたとき、彼らの前に予想外の人生が開かれていく。
こうして書くと、いかにも70年代を思わせる、泥臭い青春ドラマを連想するかもしれないが、そうならなかったところが、マキノ台本のうまさだ。
なぜなら、70年代を象徴する多くの小道具や音楽、エピソードに、物語全体があまり入れ込まないのだ。どちらかというと、冷めて接しているような印象すらある。そのため、時代設定は1973年だが、いつの時代にも通用する普遍性が生まれた。
たとえば若者のひとり・宗近(上川路啓志)が、”まちがった結婚”に進もうとしている友人を、えんえんと諭す長台詞の場面がある。ここで宗近はひたすら「まじめになれ」と説く。いまさら「まじめ」とは、いかにも70年代的で面映ゆい気もするが、実はこれが、現代の我々へのメッセージであることに気づく。
なにごとも付け焼刃的な対応でごまかすひとたち。ネットやSNSばかりに頼って人間本来の温もりをわすれてしまったひとたち。「まじめになれ」は、そんな2000年代のわたしたちに対する、1973年からのメッセージなのだ。
役者は、さすがにアンサンブル抜群の劇団だけあり、全員、素晴らしい演技を見せる。特に上述の上川路啓志は往時のロック青年を見事に再現し、忘れがたい名演技。「まじめになれ」説教の場は、近年の演劇史上にのこる名場面だと思う。
わがままお嬢様を演じた鹿野真央もすごい迫力だった。
登場人物10人、そのうち2人だけが年輩者で、あとはすべて若者である。全2幕、正味2時間半の長い芝居だが、学生演劇や、若手アマチュア劇団でもチャンレジしがいのある戯曲だと思う。
新聞の劇評に「長く上演されるべき名作の誕生を見た思いだ」(読売新聞、3月16日付夕刊)とあったが、決して大げさではない、多くのひとに観てもらいたい舞台である。
<敬称略>
※公演は、東京・信濃町の文学座アトリエにて、3月23日(火)まで。
その後、岐阜・可児市文化創造センターで27日(土)~29日(月)。
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※「ライブ映像配信」は、3月19日(金)23:59まで/20日(土)0:00~26日(金)23:59(税込3,000円+手数料/文学座支持会員の一部は無料)。
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