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2022.08.04 (Thu)

第359回 ウクライナと「左手」(3)

ウィトゲンシュタイン 掲載写真書影
▲(左)中公文庫版『ウィトゲンシュタイン家の人びと』(左の少年が幼少期のパウル)、
(右)「左手のピアニスト」パウル・ウィトゲンシュタイン
(出典:Wikimedia Commons)


しばらく掲載が空いてしまいました。もしお時間あれば、前の2回から、あらためてお読みください。
第357回 ウクライナと「左手」(1)
第358回 ウクライナと「左手」(2)


 「ウィトゲンシュタイン」と聞いて、多くのひとは、哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを思い出すだろう。
 だが20世紀前半、ヨーロッパで「ウィトゲンシュタイン」といえば、哲学者ルートヴィヒではなく、その兄でピアニストの「パウル・ウィトゲンシュタイン」(1887~1961)のほうが、ずっと有名だった。

 わたしがそのことを明確に知ったのは、2010年に邦訳刊行された『ウィトゲンシュタイン家の人びと――闘う家族』(アレグザンダー・ウォー著、塩原通緒訳、中央公論新社刊→現・中公文庫/原著2008年刊) を読んでからだった。
 この本は、書名通り、ウィトゲンシュタイン家を描くノンフィクションだが、大半が、ピアニストのパウルを描いている。なにしろ書き手が、イギリスの大作家、イーヴリン・ウォーの孫で、音楽批評家・作曲家でもあるだけに、すこぶる面白い。それこそ韓流ドラマのようなエピソードが次々に展開する。近年、これほど興味深く読んだ音楽家の評伝はなかった。

 「オーストリア近代産業の父」にして大富豪のカール・ウィトゲンシュタイン(1847~1913)には、9人の子ども(4女5男)がいた。
 このうち、4女マルガレーテは、クリムトの肖像画「マルガレーテ・ストロンボロ=ウィトゲンシュタインの肖像」で有名だ。嫁入りの際に、父親がクリムトに描かせて贈ったものだが、ご当人は気に入らず、倉庫に投げ込まれ、後年、売り飛ばされている。

マルガリータ
▲(左)クリムトが描いたが売り飛ばされた、マルガレーテの肖像、
(右)そのモデルでパウルの姉マルガレーテ・ウィトゲンシュタイン
(出典:Wikimedia Commons)


 ここからわかるように、ウィトゲンシュタイン家には多くの芸術家が出入りしており、パトロンとして面倒をみていた。そのなかには、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、マーラーといった、のちの大作曲家たちもいた。
 4男パウルは、そんな環境で育った。父はパウルに事業を継がせたかったが、結局、父に背いてピアニストの道に進んだ。

 名ピアニストに師事し、たたき上げでピアノを学んだパウルは、1913年、デビュー・コンサートを自主開催する。会場はウイーン楽友協会大ホール、オスカル・ネドバル指揮、ウイーン・トーンキュンストラー管弦楽団が付き合った(なにしろ家が大富豪なので!)。
 だが、すぐに第一次世界大戦が勃発、パウルも招集され、ポーランド戦線でロシア軍と戦うことになる。ここで右ひじを撃ち抜かれ、切断手術を受ける。病院で意識を失い、気がついた時にはロシア軍の捕虜となっていた。
 このときにパウルが受けた肉体的、精神的苦痛は凄まじいものがあった。捕虜交換で帰国してから、「左手のピアニスト」として再起を決意、再デビューする過程も、たいへん感動的に描かれているのだが、詳述する紙幅がない。ぜひ実際にお読みいただきたい。

 1916年3月、パウルは、自邸の音楽室で、再デビュー演奏会を開催する。曲は、左手用に編曲した小曲が中心だった。これが大成功だったので、12月に、デビュー・コンサートとおなじ顔ぶれ、おなじ会場で、協奏曲の演奏会を開催する(何しろ、家が大富豪なので!)。
 曲は、師ヨーゼフ・ラーボア作曲の左手のための協奏曲が中心だった。これが、史上初、左手ピアノのためのオリジナル協奏曲だったという。
 これを機に、パウルは、続々と一流作曲家に、左手のためのピアノ協奏曲を委嘱する。ギャラは高額で、事前に全額、アメリカドルで支払われたらしい(なにしろ、家が大富豪なので!)。
 その結果生まれたのが、

*ヒンデミット《左手ピアノと管弦楽のための音楽》 ※演奏されず。
*コルンゴルト《左手のためのピアノ協奏曲》
*フランツ・シュミット《左手ピアノ、クラリネット、弦楽による三重奏》
*ボルトキエヴィチ《ピアノ協奏曲第2番~左手のための》、《左手ピアノと管弦楽のためのロシア狂詩曲》
*ラヴェル《左手のためのピアノ協奏曲》
*リヒャルト・シュトラウス《家庭交響曲余録~左手ピアノと管弦楽のための》
*ブリテン《左手ピアノと管弦楽のための主題と変奏》
*プロコフィエフ《ピアノ協奏曲第4番~左手のための》 ※演奏されず。

 といった名曲群だった(もちろん、これ以外にも山ほどある)。
 パウルは、はじめに、4人の作曲家にいっぺんに委嘱した。それが上記の最初の4人である。最初の3人は超有名だが、なぜ、そこに加えてボルトキエヴィチにも白羽の矢が立ったのかは、残念ながら詳述されていない。
〈一九二二年十二月から一九二三年のイースターにかけて、パウルは三人の著名な作曲家と、あまり知られていない一人の作曲家に声をかけ〉た。この〈あまり知られていない一人の作曲家〉が、ボルトキエヴィチである。
 本書でも彼については〈ウクライナのハリコフの地主階級出身で(略)、少数に熱烈なファンが必死に宣伝するのみで、一般的にはすべて忘れ去られている〉くらいしか書かれていない。
 しかし、巨額のギャラを支払って、いくつかの曲を書かせたのだから、パウルにとって、それなりに魅力ある作曲家だったのだろう。ボルトキエヴィチ自身、当時のウイーンで、相応の人気作曲家だった証左かもしれない。
 だがとにかく、わたしは、この記述で、ボルトキエヴィチなる作曲家の存在と、左手のピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの縁を、初めて知ったのだ(そのほか、ラヴェルやプロコフィエフ、ブリテンとのやりとりも詳述されており、抜群に面白い)

 1930年の夏、パウルはソ連に演奏旅行に出る。
〈モスクワ、レニングラード、バクー、キエフと、各地のコンサートホールをまわり、ハリコフ(セルゲイ・ボルトキエヴィチの出身地)ではボルトキエヴィチの協奏曲を演奏して、狂喜する聴衆から大喝采を浴びた。キエフでは聴衆のあまりの熱狂に、急遽二日後に再度同じプログラムを演奏することになった〉
 パウルは、委嘱作品について、楽譜の所有権、独占演奏権まで買い取っていた。よって聴衆は、珍しい左手ピアノ協奏曲を聴こうと思ったら、パウルのコンサートに行くしかない。かくして彼のコンサートは、ヨーロッパで大人気となっていた。
 そのおかげで、ボルトキエヴィチ作品も故郷ウクライナに錦を飾れたわけだが、いうまでもなく当時、ウクライナはソ連の構成国だった。つまりウクライナ=ロシアだったのだ。
 ところがパウルは〈ロシア人とロシア文化は大嫌いだった〉。なにしろ、ロシアによって右腕を奪われたのだから、無理もない。
〈戦争中に捕虜となって過酷な日々を過ごしてからずっと(ロシアを)憎んでいた。(略)何よりパウルは新しい共産主義政権が嫌いだった〉
 なのに、なぜパウルは、「ソ連」(ロシア)の作曲家、ボルトキエヴィチに新曲を委嘱したのだろう。しかも複数曲を!
 もしかしたら、パウルは、「ロシア」と「ウクライナ」を別に見ていたのではないだろうか。たとえば、もう一人、ロシアの作曲家、プロコフィエフにも委嘱しているが、彼も、正確にはロシア人ではなく、ウクライナ人である。

 本書では、このあと、いかにパウルがロシアを嫌っていたかが、えんえんと綴られる。特にウクライナのハリコフで宿泊したホテルの食堂は、ミルクがない、レモンがない、卵がない、バターもない……〈「近くにいた政府の役人が言うことには、彼はバターがどんな味だったか、もう覚えていないのだそうだ。農業国ウクライナの首都がこのざまだ!」〉
 このころは、スターリンがウクライナから徹底的に食糧を搾取し、壮絶なホロドモール(大飢餓)が発生しはじめていた時期である。近年、映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』でも描かれた悲劇だ(第352回参照/下記)。パウルは、もっとも悪い時期に、ウクライナを訪れてしまったのだ。
 もしいま、パウル・ウィトゲンシュタインが生きていたら、あらためてボルトキエヴィチを演奏して、「左手」で、ロシアへの怒りをぶつけていたような気がするのだ。
〈この項、おわり〉

◆ウクライナに関するほかの回
第352回 第二の「バビ・ヤール」
第354回 『動物農場』ウクライナ語版
第357回 ウクライナと「左手」(1)
第358回 ウクライナと「左手」(2)

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◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。

◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。

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