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2023.07.26 (Wed)

第418回 【映画紹介】「限界突破」した、METの新演出《魔笛》

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▲METの新演出版《魔笛》 (METライブビューイングHPより) ※予告編やリハーサル映像のリンクは文末に。

残念ながら7月27日で上映終了なのだが、今後、アンコール上映があるはずなので、いまのうちにご紹介しておきたい。METライブビューイング(NYメトロポリタン歌劇場の舞台映像)の、新演出版《魔笛》である。特に「舞台」「演出」に興味のある方は、必見の映像だ。
(指揮:ナタリー・シュトゥッツマン、演出:サイモン・マクバーニー/6月3日上演)

はじめに身も蓋もないことをいう。観慣れている方には釈迦に説法だろうが、時折、モーツァルトのこの《魔笛》を「オペラ」だと思っているひとがいる。だが正確には《魔笛》はジングシュピール(セリフ入りの歌芝居)、当時の「歌謡ショー」である。

しかも初演会場が一般大衆劇場だったので、いまふうにいうと、「フライハウス劇場特別興行/シカネーダー奮闘公演! 歌謡ショー《ふしぎな笛》」といったところか。

だから、《フィガロの結婚》のようなドタバタ喜劇や、ヴェルディやプッチーニのような激情ドラマを期待しても無駄なのである。ましてや、(物語がファンタジーなので)オペラ入門に最適のような解説があるが、これまたとんでもない話で、人生初のオペラ体験にこんな支離滅裂な「歌謡ショー」を選んでは、絶対にいけません。

この歌謡ショーは、興行師・劇場主・台本作家・俳優・歌手のエマヌエル・シカネーダーなる男が、ひと山当てようと目論んで、自ら台本を書いてモーツァルトに作曲させた歌芝居である。しかも自分は準主役の「鳥刺し男・パパゲーノ」役を演じ、ヒット曲を独り占めした。だからストーリーはあまり重要ではない。前半と後半で、善悪が入れ替わるドンデン返し設定にもかかわらず、まったくスリリングでもないし、驚きもない。それどころかラストは、フリーメイスンがいかにすばらしい団体であるかを自画自賛して突如終わるので、観客は呆気にとられてしまう。

ゆえにおそらく、人生初のオペラ体験が《魔笛》だった方は、まちがいなく「いい曲もいくつかあったけど、なんだか妙なお話でしたね」が一般的な感想のはずなのだ。

   *****

今回の演出はサイモン・マクバーニー。イギリスの俳優で、近年だと、映画『裏切りのサーカス』(2011)や、『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(2015)などに出演していた。その一方、舞台演出も手がけており、《魔笛》もすでに欧州の音楽祭で経験すみだ。

で、今回のMET新演出は、現代的な解釈がどうしたとか、本来のファンタジーに帰するとか、そういう精神は皆無。1791年(初演時)の「歌謡ショー」を21世紀に再現したらどうなるかに挑んだ、(むかしのタモリが好きだった)「無思想歌謡」大会なのであった。幕間のインタビューでマクバーニーが語るには、「初演当時の劇場は、舞台と客席がもっと近かった。オーケストラもほとんど舞台上だった。そんな雰囲気を再現した」とのことだった。

よって、たとえば舞台下手袖に「黒板アーティスト」がいて、小さな黒板にチョークで、ちょっとしたキイワードやシンボルを次々と即興で落書きしては消していく。それがカメラで舞台上にデカデカと投影される(予告編映像参照)。また上手袖には「効果音ウーマン」がいて、廃材や生活用品で、鳥の羽音や水音、雷鳴などを同時に出す。むかしながらのアナログ演出である。

さらにオーケストラは、本来のピットよりずっと高い位置にあって、手前にエプロンステージ(宝塚歌劇でいう「銀橋」)が設置され、歌手とオケが混然一体となる(特にフルート奏者と鈴=グロッケンシュピール奏者は、芝居に「参加」する→リハーサル映像④参照、ラスト抱腹絶倒!)。

そのほか、舞台上には巨大な「可動板」が第2ステージのように設置され、歌手はそのうえで走ったり転んだり、たいへんな運動をさせられている。スーパー歌舞伎よろしく宙づりまで登場する(リハーサル映像⑤参照)。

あたしも《魔笛》は、映像も含めればずいぶんいろいろ観てきたが、こんなヴィジュアルは初めてだった。特にMETの場合は、《ライオン・キング》の演出でおなじみ、ジュリー・テイモア版が、長く定番だった(そもそもMETライブビューイングの第1弾が、彼女の演出による英語短縮版《魔笛》だった。2006年大晦日、歌舞伎座と南座で上映された。その後、テイモアはドイツ語完全版も手がけている)。テイモア版は絵本がそのまま動き出したような、なんでもありの楽しい演出で、どこか東洋的な雰囲気があった(原典版では、タミーノは日本から来た王子様との設定である。タミーノ=民野?)。

だがおなじ「なんでもあり」でも、今回は、さらに上をいく万能演出で、ナマ舞台の演出アイディアとしては、まさに「限界突破」したような感じである。

歌手もさすがMETで、特に「夜の女王」を、杖をつき、車椅子に乗る醜悪老女として演じたキャスリン・ルイックの歌唱・演技は、背筋をなにかが走る壮絶さ(リハーサル映像②参照)。今後、これ以上の「夜の女王」に出会えるとはとても思えなかった。巨漢スティーヴン・ミリングの「ザラストロ」も、こんな男が教祖だったらたちまち信者倍増だろうと納得させられた(リハーサル映像③参照)。

指揮は、コントラルト歌手として頂点を極めたナタリー・シュトゥッツマン。かつて彼女の《冬の旅》など、実に新鮮な思いで聴いたものだ。いまは指揮者としても成功しており、今夏、バイロイト祝祭で「史上2人目の女性歌手」として《タンホイザー》を指揮するはずである。今回の指揮はもう自家薬籠中のもので、舞台上の複雑な動きや演出とのからませ方も見事だった。

というわけで、今年度の「METライブビューイング2022~23」の10本はすべて上映終了した。あたしは7本しか観られなかったが、この最終作《魔笛》は、観ておいてほんとうによかったと思った。今後、アンコール上映があったら、何が何でも観ていただきたい、傑作映像である。

◇METライブビューイング、新演出《魔笛》の紹介は、こちら
舞台写真や予告編、リハーサル映像①~⑤が見られます(本番収録とは細部がちがいます)。

◇MET《魔笛》の旧演出(ジュリー・テイモア演出)予告編は、こちら

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2023.07.16 (Sun)

第414回 【映画紹介】ジブリの新作『君たちはどう生きるか』

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スタジオジブリの新作『君たちはどう生きるか』(14日公開)を、さっそく観てきた。

1)なぜ、この作品を、事前秘匿しなければならなかったのか、まったくわからない。
2)これは『千と千尋の神隠し』の少年版で、まったく新鮮味がない。
3)いったいこれのどこが『君たちはどう生きるのか』なのか、よくわからない(新潮社の日本少国民文庫版が出てくる)。
4)一切宣伝をしなかったのだから、宣伝費ゼロなわけで、なのに、なぜその分、安くならないのか。これは消費者利益に反しており、公取委あたりに訴え出ていい案件ではないのか。
5)劇場公開しているのに、プログラムが後日販売という、これまた一般消費者無視の商法。

これを称賛しているひとたちの気が知れない。
あたしたちはカネを払っている「消費者」である。なぜ、内容不明の商品を買わされ、こんな不利益を被らなければならないのか。
ジブリと東宝には猛省を促したい。
史上最低の映画興行だと思う。
01:02  |  映画  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.07.10 (Mon)

第412回 【映画紹介】国立西洋美術館は、なぜ1年半も閉館していたのか? 興味津々のドキュメント

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▲15日より公開 ※リンクは文末に

現在公開中の映画『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』は、冒頭、ナチス・ドイツが、略奪した大量の美術品や文化財を移送するシーンからはじまる。
このナチスによる美術品略奪は戦時中から大問題となっており、近年も『ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ』(クラウディオ・ポリ監督、イタリア他、2018)と題するドキュメンタリ映画が製作されている。
これに対し、アメリカ軍は美術品救出部隊、通称「モニュメンツ・メン」を組織し、ナチスと略奪攻防戦を繰り広げた。その活躍を描いた映画が『ミケランジェロ・プロジェクト』(ジョージ・クルーニー監督、アメリカ、2014)だった。

かように「戦争」では、しばしば美術品をめぐる略奪・争奪戦が発生する。
敗戦国・日本も、似たような大問題に遭遇した。だがその結果、私たち日本人は、素晴らしい美術館に恵まれた。「国立西洋美術館」(通称〈西美〉)である。

15日より公開される映画『わたしたちの国立西洋美術館 奇跡のコレクションの舞台裏』は、その〈西美〉内部を描く「美術館ドキュメント」である。

映画紹介の前に、ご存じの方も多いと思うが、〈西美〉の歴史について簡単に説明しておこう。というのも、この映画は、〈西美〉成立史が前提になっている部分があり、それを知っているかいないかで、面白さが少々変わってくるからだ(映画内では、それほど細かく説明されていない)。

   *****
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▲松方幸次郎 (出典:Wikimedia Commons)

明治期の総理大臣・松方正義の息子で、川崎造船社長・松方幸次郎(1866~1950)は稀代の美術コレクターだった。第一次世界大戦の前後、何度か渡欧し、大量の美術品を買い集めていた。その数、約1万点! パリ中の画廊から近代絵画が消えたと噂されるほどの勢いだった。特にクロード・モネには個人的な信頼を得て、「睡蓮」などの名品を多数購入している。

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▲松方が購入し、フランスに接収されたモネ「睡蓮」(その後、返還されて現在は〈西美〉に) (出典:Wikimedia Commons)

松方は、それらコレクションを私蔵することなく、日本で初の「西洋美術館」を設立し、ひろく公開するつもりだった。すでに麻布に土地まで確保、建物の構想も出来あがり、名称も「共楽美術館」(誰もが共に楽しめる)と決まっていた。

だが、関東大震災や昭和初期の経済恐慌で川崎造船が破綻。膨大なコレクションは売立会に出されて散逸する。つづく第二次世界大戦で、ロンドンのパンテクニカン倉庫に保管していた約950点の美術品が空襲で焼失。さらに、パリにあった約400点は「敵国人資産」として接収され、「フランスの国有財産」となってしまう。
松方の夢はやぶれた。戦後は公職追放となり、占領中の昭和25年、脳溢血で死去する(享年84)。

だが、その松方の夢を実現させようとするひとがいた。ときの総理大臣、吉田茂である。松方の死後、連合国と日本政府との間で、講和(日本独立)の交渉が本格化した。日本国全権大使となった吉田は、フランス政府に対し、「松方コレクション」の全面返還を主張した。交渉は難航したが、吉田は一歩も引かなかった。

やがてフランス政府は折れ、多くの条件付きながら返還されることになった(ただしフランスにとっては「寄贈」)。その条件のひとつが、「“フランス美術館”を設立し、寄贈美術品を保管・公開せよ」だった。
かくして約370点の美術品が返還(寄贈)されることになった。

1953(昭和28)年、日本政府は「フランス美術館準備協議会」を設置する。だが、予算はない、土地はないで、実現は困難を極めた。
前年の昭和27年には、ブリヂストン美術館が、日本初の西洋美術館として先にオープンしていた(現アーティゾン美術館)。
フランス側からは「お望み通り寄贈したのだから、早くせよ」とせっつかれる。建築設計はフランス側に配慮したのか、ル・コルビュジエに依頼した(フランス側が推挙したとの説もある)。
よく「敗戦国日本は、アメリカの言いなりだった」といわれるが、西洋美術にかんしては、フランスに主導されていたのである。

結局、政財界と美術界が一致団結して大口寄付運動が起こり、なんとか建築費は確保された。敷地は、上野寛永寺の土地を東京都が購入し、国に無償貸与する形で、上野駅公園口に確保された。

こうして1959(昭和34)年1月、悲願の“フランス美術館”が誕生した。松方コレクションを中心に、今後、西洋美術全般をカバーすることを目標に「国立西洋美術館」と名付けられた。

   *****

2016年、〈西美〉の建物と敷地全体が、ユネスコ世界文化遺産に登録された。その際、前庭がル・コルビュジエの当初デザインどおりではないことが指摘された。そこで2020年10月から約1年半をかけて、前庭を原案どおりにする改修工事がおこなわれた。
その間、〈西美〉が全館休館となり、白い工事壁で覆われていたのをご記憶の方も多いだろう。この映画は、その間に、館内にカメラを入れて長期撮影されたドキュメントである。

しかし、前庭の改修で、なぜ「全館休館」しなければならなかったのだろうか。
映画は、その説明から始まる。
そしてカメラは、〈西美〉の内部を、実にいろいろと見せてくれる。その多くは、関係者には当たり前のことだろうが、一般の我々には新鮮な話ばかりである。

*あの巨大な美術館に、職員が何人いるか。
*なぜ、美術展の主催には、必ず新聞社や放送局が入っているのか(これについては、かなり突っ込んだ歴史解説が登場する)。
*美術品の梱包・輸送は、どこがやっているか。
*展示していない絵画は、どうやって保管されているか。
*美術品の購入にあたっては、どういう会議があるか。

こういった解説が、次々と「映像」で登場する。その背景にあるのは、上述、松方コレクションにまつわる歴史ドラマである。〈西美〉も、よくここまで晒したものだと感心した(馬渕明子前館長の英断・全面協力が大きかったと思われる)。

監督は『春画と日本人』で、永青文庫「春画展」の内幕を描いた大墻 敦〔おおがき/あつし〕。前作同様、本作も見事な編集で、「静」の美術界を「動」にかえて見せてくれる(映画の勉強をしている方には、編集のお手本になるのでは)。
美術ファン、美術展ゴーアー必見の映画だ。

ル・コルビュジエは、美術館には「劇場ホール」を設置するべきだと考えていた。だが、当初計画ではそこまでは不可能だった。その案は、のちに「東京文化会館」となって、〈西美〉の真向かいに実現する。設計は、ル・コルビュジエの弟子、前川國男だった。前川は〈西美〉設計にも協力していた。いま、上野駅公園口に向かい合って建つふたつの文化施設は、“師弟競作”なのだ。
この映画に登場する〈西美〉前庭の俯瞰映像は、その東京文化会館の階上から撮影されたものである。

□映画『わたしたちの国立西洋美術館~奇跡のコレクションの舞台裏~』公式サイトは、こちら(予告編あり)
※東京では、15日より、渋谷「シアター・イメージフォーラム」で上映。


【参考資料】
松方図録
「松方コレクション展:国立西洋美術館開館60周年記念」図録(2019年6~9月開催)
※〈西美〉の礎となった「松方コレクション」の美術展図録。通常の美術展図録は、作品・作者解説ですが、これは、作品ごとに、松方幸次郎が、いつ、どの画廊から購入し、その後どうなっていまに至ったのか、そしていかにして〈西美〉開館に至ったかに焦点をあてた、異色の解説です。〈西美〉や松方コレクションに興味のある方は必見。現在でも、〈西美〉ショップや通販で購入できます。


※そのほか、原田マハの小説『美しき愚かものたちのタブロー』(文春文庫)が、〈西美〉成立過程を描いています。


16:26  |  映画  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.06.30 (Fri)

第410回 【CD/映画紹介】 200年間”封印”されていた「黒いモーツァルト」とは何者か?(後編)

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▲映画『シュヴァリエ』~知られざる真実の物語にもとづく ※リンクは文末に

前編のつづき)
映画『シュヴァリエ』(スティーヴン・ウィリアムズ監督、2021年、アメリカ)は、ジョゼフ・サン=ジョルジュの、音楽家としての最盛期を描いている。

冒頭は、ジョゼフが、パリを訪れたモーツァルトとヴァイオリン合戦を演じ、見事に〈勝利〉するトンデモ場面からはじまる。
ジョゼフは、かなり傲慢な自信家で、気が強い設定になっている。「シュヴァリエ」(剣士)の爵位を授けるマリー・アントワネットも、彼の重要な擁護者として登場する。

その後、前半は、パリ・オペラ座芸術監督の座を、ウィーンから招かれた「オペラ改革者」グルックと争って負ける話を中心に進む。

後半では、ジョゼフが貴族体制と人種差別に失望し、共和主義に心を寄せるようになる。そして民衆のための慈善演奏会を強行しようとする。演奏会場に詰めかける民衆と、阻止しようとする軍隊が、一触即発の状態に…。

かように細部は創作だが、「あってもおかしくない」場面の連続で、その意味では、たいへんよくできたフィクションといえる。
ジョゼフは女性に大人気で、男娼的な扱われ方に、まんざらではなさそうな場面もある。
衣裳や美術、セット、ロケ(プラハでおこなわれた)、時代考証なども本格的である。ジョゼフの曲もふんだんに登場する。失敗作といわれている彼のオペラ《エルネスティーヌ》のアリアなど、なかなかの佳曲だ。
演奏には『TAR/ター』のスコア演奏に参加していた、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラの名もある。本格的歴史音楽映画といっていいと思う。

Rotten Tomatoesでは批評家の76%が「positive」(肯定的)、平均評価は 6.5/10 となっている。一般観客評はもっと高くて、97%、4.6/5だ。

だが日本では、この映画は劇場で観ることはできない。製作はサーチライト・ピクチャーズだが、同社は昨年、4本の作品をトロント国際映画祭に出品した。そのうちの3本はとっくに日本でも劇場公開されたのに、本作だけがディズニープラスほかでの「配信」公開となった。諸事情はあるだろうが、少なくとも配給元は、日本での劇場公開を見おくったのである。
※日本で劇場公開されたほかの3本とは、『ザ・メニュー』『エンパイア・オブ・ライト』『イニシェリン島の精霊』。

   *****

映画アマデウス
▲映画『アマデウス』ディレクターズ・カット版

ここで思い出される映画は、やはり『アマデウス』(ミロシュ・フォアマン監督、1984年、アメリカ)だ。
製作陣は多かれ少なかれ、このアカデミー賞8部門独占の名作を意識したはずだ(冒頭など、まるで『アマデウス』への“宣戦布告”である)。

ウィーン音楽界を描いた『アマデウス』に対し、『シュヴァリエ』は、ほぼ同時代のパリ音楽界が舞台だ。主人公も“本家”モーツァルトに対し、こちらは“黒い”モーツァルト。どちらも野心満々の自信家だ。

だが、決定的にちがう点がある。おなじフィクションでも、『シュヴァリエ』が「あってもおかしくない」話なのに対し、『アマデウス』は「絶対にありえない」話なのだ。
なのに、前者は劇場公開されず、「絶対にありえない」後者は映画史に残る傑作となった。
なぜか。

少し脱線する。
『アマデウス』のフィクション度は尋常ではなかった。モーツァルト《レクイエム》の絶筆部分をサリエリが聞き書きしたなど、どう転んでも「似たようなことがあった」わけがない。よくまあ、こんなインチキ話を思いついたものだと頭が下がった。
だが、そのインチキ話を、サラリーマン社会における報われない一般人のように描いているところがうまかった。
原作は、劇作家ピーター・シェファーによる「舞台劇」だ(映画脚本も彼が書いている)。

舞台劇には、観客と演者の間に〈暗黙の了解〉がある。だから、ありえないことが平然と進行する。
『ハムレット』で父親の亡霊が舞台上にあらわれて「復讐してくれ」と懇願する。三島由紀夫『サド侯爵夫人』で全員が日本語で会話している。歌舞伎で、高齢の男優が生娘を演じている。これらを観て「ありえないだろう」と嗤う観客はいない。なぜなら〈暗黙の了解〉があるからだ(嗤うひとは、芝居は無理)。
シェファーはその点をうまく利用して、話をでっち上げた。

   *****

ふたたび脱線する。
この戯曲『アマデウス』に、日本で最初に目を付けたのが文学座の江守徹さんだった。1979年のロンドン初演の評判を聞きつけた江守さんは、関係者から台本を入手して読んだ。そして、あまりの面白さに魅せられて文学座で上演しようと考える。それには劇団の会議を通さなければならない。粗くても翻訳してみんなに読んでもらう必要がある。

アマデウス日生劇場
▲日本初演は1982年(左:モーツァルト役の江守徹さん)

英語が達者な江守さん、さっそく翻訳をはじめた。だが、その間に松竹が日本での上演権を獲得してしまう。ただし江守さんにも声がかかり、九代目松本幸四郎〔現二代目松本白鸚〕(サリエリ)、江守徹(モーツァルト)のコンビで初演。大ヒットして再演がつづいた。

この戯曲で江守さんが注目した点が、〈暗黙の了解〉だった。
「いまにも死にそうなサリエリ老人が、サッと被り物をとると、若き日のサリエリになるでしょう。それを観て、バカバカしいと思う観客はひとりもいない。この芝居は、全編が、舞台でしかできないウソで構成されている。そこが面白いんです」
と語っていたのを思い出す。
だから、サリエリがモーツァルトの臨終の場にいても、嗤う観客はいない。
映画版は、その仕掛けをさらに拡大して面白く見せていた。

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▲2016年のロンドン版。サリエリ役のルシアン・サマルディ。

2016~18年にかけて、ロンドン・ナショナル・シアターが『アマデウス』を新演出で再演した(舞台上にナマ・オーケストラが登場して芝居に参加する)。日本では「ナショナル・シアター・ライブ」で上映された。
このときサリエリを演じたのはタンザニア系の黒人、ルシアン・サマルディだった。いうまでもなく〈暗黙の了解〉のキャスティングだ。「サリエリが黒人のわけないだろう」なんて、誰もいわなかった。
しかもこの再演では、凡人としての苦悩だけでなく、人種差別を生んだ神を呪うような姿も感じられ、新たな感動を生み出していた。

   *****

話が遠回りになったが、『シュヴァリエ』には、その〈暗黙の了解〉がない。
よくできた映画や芝居は不思議なもので、作者や演者が、こっそり自分だけに話しかけてくれているような気になる。
〈これから、ありえない話をお見せしますが、あなただったら、わかってくれますよね〉と。
そのとき、私たちは感動と満足感をおぼえるのだ。

『アマデウス』には、それが明確にあった。冒頭から、サリエリが「聞いてください、私とモーツァルトの間に何があったのかを…」と語りかける。その瞬間、舞台(スクリーン)と観客の間に〈暗黙の了解〉が成立した。以後、延々とインチキ話がつづいた。

だが『シュヴァリエ』は、それをすっ飛ばして、勝手に話を進めている。話しかけてくれない。よって私たちは、彼の苦悩にいまひとつ心を寄せにくい。
冒頭、モーツァルトにヴァイオリンで勝つ場面は一見面白いが、実は単なる曲芸を見せられているだけだ。もしここを、第三者の衝撃の目撃談として〈暗黙の了解〉ではじめていたらどうだろう。たとえばマリー・アントワネットの回想告白だったら…。

エンド・ロールに流れる、ジョゼフ・サン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲Op.8~No.2など見事な曲で、これぞ〈隠れた名曲〉だと感動した。たしかにモーツァルトに通じるものがあるが、決して模倣に終わっていない。こんな作曲家をいままで知らなかったなんて!

この感動を、本編のなかで〈暗黙の了解〉で描いてほしかった。劇場公開しにくかった理由は、このあたりにもあったのではないだろうか。

□映画『シュヴァリエ』予告編は、こちら
□映画『シュヴァリエ』の動画検索は、こちら。AppleTV+、U-NEXT、Huluなどでも配信されています。

19:17  |  映画  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.06.21 (Wed)

第408回 【映画紹介】タジキスタンの内田百閒? よみがえるフドイナザーロフ

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▲渋谷のユーロスペースで上映中 ※リンクは文末に

渋谷のユーロスペースで、特集上映「再発見! フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」がつづいている(6月30日まで。以後、他劇場でも)。

おそらく、かなりの映画ファンでなければ、フドイナザーロフはご存じないと思う。しかしこれが、実に楽しくておもしろい映画世界なので、簡単にご紹介しておきたい。

バフティヤル・フドイナザーロフ(1965~2015)は、中央アジア、タジキスタンの映画監督である。ソ連が崩壊した1991年に本格デビューし、6本の長編劇映画を発表、国際的に高い評価を得ながら、49歳の若さで急逝した。

その後は、半ば忘れられていたが、昨年のヴェネツィア国際映画祭で、デビュー作『少年、機関車に乗る』2Kレストア版が上映されたら、一挙に再評価がはじまり、今回の日本での特集上映が実現した。

その作風について、今回のパンフレットではこう説明されている――「日常の小さな冒険やちょっとした驚きをユーモアですくいとり、中央アジアのおおらかな大地にファンタジックな世界を生み出した」。

以下、今回上映された5作品をご紹介する(ポスターはどれも以前の公開時のもの)。

少年、機関車に
◆『少年、機関車に乗る』(1991)
マンハイム国際映画祭、トリノ国際映画祭でグランプリ。
フドイナザーロフのデビュー作。17歳と7歳の兄弟が、貨物機関車の隅に便乗して遠方に住む父に会いにゆく……それだけの話である。一種のロード・ムービーだ。
ところが、その途中で遭遇する出来事が、兄弟には新鮮で驚くことばかり。トラックとの競争、ポットを大量に持つふしぎなオジサン、美人の乗車(運転士の愛人らしい)、なぜか大量の投石で襲ってくる悪ガキども……兄弟が感じた驚愕と感動を、そのまま観客の私たちも体験できる、そんな映画だ。
一見、アドリブっぽくカメラをまわしているように感じるが、よく観ると、機関車上での撮影など、おそろしく手間と時間をかけて複数のカットをつなぎ合わせていることがわかる。
機関車の疾走シーンも、とても壮快だ。『指導物語』(熊谷久虎監督、丸山定夫・原節子主演、1941)にならぶ、機関車映画の傑作だと思う。

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◆コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って(1993)
ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞監督賞。
機関車の次は「ロープウェイ」である。ここまでの2作で、フドイナザーロフはかなりの「乗り物フェチ」であることがわかってくる。
タジキスタンの首都ドゥシャンベの、山上と平地を結ぶロープウェイ(というよりは、簡易ゴンドラ)の運転係の青年が、ロシア帰りの娘を追っかけまわす、一種のドタバタ・ラブコメである。
出てくる男どもが、みんなバクチ好きで、娘は父親に借金のカタにされる。これがもとで騒動が起こる。
「ロープウェイ」にまつわる、これまたユニークな映像が続出する。特にゴンドラに大量の干し草を詰め込んで運搬するシーンには驚く。また、ゴンドラで下山する娘をカメラが接写し、その下を青年が山の斜面を転がりながら追うシーンや、ラストで車で町を出る娘を青年が自転車でひたすら追うシーンは圧巻である。
撮影中、独立直後のタジキスタンは内戦状態に陥ったそうで、常に爆音が鳴り響く不穏な雰囲気も描かれている。
タイトルの「コシュ・バ・コシュ」は、バクチにおける「勝ち負けなし」(おあいこ)の意味だそうだ。
なお、本作と次の2作は、ユーロスペース代表・堀越謙三氏が製作に参加しているので、タジキスタンと日本の合作ということになる。

タイトルなし
◆ルナ・パパ(1999)
東京国際映画祭最優秀芸術貢献賞、ナント三大陸映画祭グランプリ。
一般に、フドイナザーロフの最高傑作とも称される作品。
キルギス、タジキスタン、ウズベスキタンの3国境が交わる砂漠、湖沿いの架空の町が舞台(巨大オープンセットが建造された)。
この町に住む女優志願の17歳の少女が、ある月の晩、謎の男の子を宿す(レイプされたような、想像妊娠のような、実に不思議な、そして素晴らしいカット)。そのお腹の子の独白で物語は進行する。少女は、父親と知恵遅れの兄とともに、お腹の子の父親探しに出かける。
徹底的なファンタジーで、その自由奔放な荒唐無稽ぶりに、110分間、呆気にとられっぱなし。
主演女優はカザフスタン出身、モスクワの舞台女優だそう。可愛いくて美しくて面白い、絶妙のキャスティングだ。
なお、今作は「飛行機」である。だが、それ以上に驚くべきは、ラストに登場する、ある「乗り物」。エミール・クストリッツァの名作『アンダーグラウンド』へのオマージュのような気がするが、よくまあ、こんなシーンを思いついたものだと、拍手喝采をおくりたくなる。

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◆スーツ(2003)
東京国際映画祭審査員特別賞・優秀芸術貢献賞。
当初、今回の特集上映から外れていたが、好評につき、緊急追加上映となった。今回が劇場初公開で、あたしも初めて観た。だがこれが、『ルナ・パパ』にならぶ傑作だった。いまでも興奮気味である。
富裕層がリゾートに訪れる、ウクライナの港町セヴァストポリの隣町でくすぶっている3人の若者の話(高校生くらいか)。あるとき、高級店でGUCCIのスーツを見て憧れ、半ば「奪い取る」形で入手する。3人は交代でGUCCIを着て、それぞれの目的を遂げるのだが、そのたびにとんでもない騒動となり、最後は想像を絶する事態に突入する。
全編、圧倒的なスピード演出とユーモアで突っ走る、一種のジェットコースター・ムービーだ。
本作の乗り物は「サイドカー付きバイク」と「船」。乗り合いフェリーから豪華客船までが登場する。明らかに『フェリーニのアマルコルド』へのオマージュである。
ラスト、大人になる若者たちが、船で町を出る。ここは、リヒャルト・シュトラウスの楽劇《ばらの騎士》終幕を、ポンコツ改変ヴァージョンしたような味わいで、あたしは涙が止まらなかった。

海を待ちながら
◆海を待ちながら(2012)
フドイナザーロフの遺作。
アラル海で大嵐に遭遇し、妻や船員、船を失い、自分だけが生き残った船長。その後、海が干上がったあとの砂漠で、自分の船を見つけた船長は、自力で船を動かして妻を探す旅に出る。
砂漠を船が行くシーンはヴェルナー・ヘルツォークの『フィッツカラルド』を、干上がった砂漠にふたたび水が流れ込むシーンはテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』を思わせる。
いままでの作品に比して、ユーモアの要素が少なく、意外と深刻な作風だが、その根底には、実際のウラル海干ばつ問題への思いがあるという(半世紀で十分の一まで干上がったらしい)。
だが、そうはいっても、砂漠の砂上をラクダが船を引くシーンや、おなじみサイドカー付きバイクの疾走シーンなどは、やはり、この監督ならではの味わいに満ちている。

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こうしてフドイナザーロフを、ひさしぶりに観ているうちに、あたしは「どこかで、このテイストを経験したことがあるような……」気になってきた。
そして思い出したのは、内田百閒である。
百鬼園先生の作品も、どこかとぼけたユーモアと、深刻なシリアスと、幻想ファンタジーの3つが同居していた。しかも乗り物(鉄道)ファン。
もちろん、フドイナザーロフには、神楽坂の虎とか、日比谷のお濠から数寄屋橋交差点に至る巨大ウナギとか、その種の化け物は登場しない。
だが、たとえば『サラサーテの盤』で、レコードを返してくれといってくる、少々奇妙な中砂の後妻が、今回の5本のどこかにいたような気がするのである。また『少年、機関車に乗る』の運転士は、「阿房列車」のヒマラヤ山系氏に通じるものがあるような気もした。

今回のユーロスペースでの特集上映は6月30日までだが、その後、HP掲載以外の劇場での上映もあるはずなので、ぜひ機会を見つけて、フドイナザーロフを楽しんでください。

フドイナザーロフ作品は、初公開時、プロ評論家たちが妙にむずかしい解釈で評価した。当時の政治状況との関連からはじまり、乗り物の並走がなにを表現しているとか、それらは鉄の塊で人間との対照だとか……。そのため、フドイナザーロフとは、なにか高等芸術映画であるかのような印象をもったひとも多かった(あたしも、そう)。
それはとんでもない話で、おとなのためのファンタジー絵本だと思って観れば、それで十分。
理屈やテーマやストーリーではなく、「映像」でひとを楽しませることに徹した……フドイナザーロフとは、そういうひとだったと思う。

◇「再発見! フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」公式HPは、こちら



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