2023.07.24 (Mon)
第417回【新刊紹介】芥川賞『ハンチバック』にただよう、クラシックの気配

▲市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋)
本年上半期の芥川賞受賞作が発表になった。すでに春に文學界新人賞を受賞していた、市川沙央氏の『ハンチバック』(文藝春秋)だが、報道でご存じのとおり、この著者は「筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症および人工呼吸器使用・電動椅子当事者」である(「文學界」5月号~第128回文學界新人賞受賞者略歴より)。あたしは不覚にもこの病名を初めて知った。作品名の意味は、本文中にこうある。
せむし〔ハンチバック〕の怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。
※ユーゴーの小説『Notre-Dame de Paris』は何度も映画化されているが、そのほとんどは(ディズニーのアニメも含めて)『The Hunchback of Notre-Dame』と改題されている。
あたしは大学で出版関連の授業をもっているのだが、本作について、春ころに「芥川賞の可能性が高いと思う」と解説した。なぜなら、もちろん、文學界新人賞受賞作が芥川賞に連なることが多いせいもあるが、一読して、(おそらく、ほぼ)実話体験記にもかかわらず、冷静な客観性が全編を貫いており、重度障害への社会の無理解を訴えるとか(そういう要素もないでもないが)、その種のメッセージ性よりも、批評性のほうがはるかに勝っている。それこそが文学の役目のはずで、この作品は見事にそれを成就させているように感じたからだ。
たとえば本作の主人公は(おそらく、ほぼ作者自身)、重度障害を負いながらネット上にエロ記事を寄稿するライターなのだが、
このグループホームの土地建物は私が所有していて、他にも数棟のマンションから管理会社を通して家賃収入があった。親から相続した億単位の現金資産はあちこちの銀行に手付かずで残っている。私には相続人がいないため、死後はすべて国庫行きになる。
なんていう自己紹介的な文があって、なんとエロ・ライターでありながら、自ら所有する障害者施設で十分な収入を得ながら暮らしていることが、平然と描かれるのだ(主人公はこの施設を「イングルサイド」を名付けている。「赤毛のアン」シリーズの第7作『炉辺荘〔イングルサイド〕のアン』からの引用である)。
ところが、こういう文の直後に、
生産性のない障害者に社会保障を食われることが気に入らない人々もそれを知れば多少なりとも溜飲を下げてくれるのではないか?
と“締め”の一文がつづく。こういう表現が、ほかの場面(たとえば性行為の)にもあり、リアル描写と客観批評描写が交互にあらわれる。このあたりが本作の魅力のひとつのように思う。
……と、わかったようなことを書いたが、あたしは文芸評論家でもなんでもなく、一介の雑文屋である。実は、あたし自身、もっとほかの点で、本作をおもしろく読んだのだ。それは、この作者は、かなりクラシック音楽を聴きこんでいるにちがいないと睨んだからだ。この主人公は、〈某有名私大の通信課程〉に在籍している(作者も同様)。そこで、
表彰文化論ゼミのフォーラムで近々テーマ発表の順番がくる。まだ卒業研究のテーマ決めに迷っている。ワーグナー『ニーベルングの指環』の侏儒アルベリヒに見られる反ユダヤ表象について? それとも『モナ・リザ』スプレー事件の米津知子と岩間吾郎の当事者文学をフェミニスト・ディスアビリティの視点から論じるか。
と悩んでいる(ちなみに、『モナ・リザ』スプレー事件については、作中でももう少し詳しく触れられているが、いまは紙幅でカット。興味ある方は検索するか、手塚治虫『ばるぼら』第21話「大団円」をお読みください)。
彼女はワーグナーに興味があるようで、ほかにも、
フランツ・リストは185センチの長身で、その娘のコジマも大柄な女性だったと言われている。ワーグナーと妻コジマの身長差は15センチという説がある。ワーグナー自身の身長は150センチから167センチまでの幅をもって推定されているが、小柄だったのは間違いない。指環を呪う侏儒アルベリヒは同族嫌悪の産物かもしれない。/下世話なルッキズムを核とした卒業研究なんて許されるんだろうか?
と衒学スレスレのような話題も登場する。
嘘寒い長調の会話など奏でる才能のないわれわれは短調で、いや、シェーンベルクの不協和音のように枠を外して本音を語ることができる。無調的〔atonal〕に。
などという文もある。かなりクラシックを聴きこんでいるひとだと察する。
そして、読んでいると、おそらくほとんどのひとが、最終節で戸惑うと思う。いったいここは何なのか、いや、いままで読んできた部分は何だったのか? これにかんしては、文學界新人賞選考委員も全員が迷ったようだ。なかでも中村文則氏にいたっては、はっきり〈最後の*以降がよくないと感じた。(略)掲載時には何かしら直っていればいいと願っている〉とまで断じていた(しかしたぶん、修正されずに掲載されたのだと思う)。今後、月刊「文藝春秋」に載るはずの芥川賞選考委員の選評が楽しみだが、この戸惑いの最終節にも、ちゃんと、こんな一文がある。
(略)私は史上最高に感じてる女の子の声が出せた。オペラだったらコロラトゥーラ。
市川沙央さんの『ハンチバックが聴くクラシック』を、ぜひ読んでみたい。
※引用は、すべて「文學界」5月号掲載の『ハンチバック』より。
2023.06.20 (Tue)
第407回 朝ドラ『らんまん』が10倍おもしろくなる、コンパクトな2冊の本 【後編】

▲『牧野植物図鑑の謎 在野の天才と知られざる競争相手』(俵浩三著、ちくま文庫) ※リンクは文末に
(前編は、こちら)
さて、もう1冊は、「謎解き本」である。書名からして『牧野植物図鑑の謎 在野の天才と知られざる競争相手』(俵浩三著、ちくま文庫)という。まさにいま、ドラマはこの「図鑑」にまつわるエピソード編に突入しているので、ドンピシャの“副読本”である。
先月(2023年5月)の新刊だが、親本は1999年刊の平凡社新書。著者がすでに逝去しており、特に改訂や増補はされていない(植物学者・大場秀章による解説は新規)。著者・俵浩三氏(1930~2020)は、厚生省国立公園部や北海道林務部などに勤務した、林学者である。
これは、まさに凡百のミステリもかなわないおもしろさで、以前に新書で読んだときは、まさに巻を措くあたわず、あっという間に読了した記憶がある。その後、絶版になっていたようだが、こうやって文庫で復活して、まことにうれしい。一刻もはやく、多くの方々に読んでいただきたい。
牧野富太郎といえば、『日本植物図鑑』である。独力で、あらゆる植物を採集、分類、命名した成果をまとめた「図鑑」だ。この「図鑑」なるスタイルと名称も、牧野が日本で初めて生み出したものだと、あたしたちは教わってきた。
ところが著者は、あるとき、古書店で、似たような図鑑を発見する。村越三千男著『大植物図鑑』。奥付を見て驚いた。大正14(1925)年9月、「牧野図鑑」とほぼ同時に刊行されている。その後の増刷日も追いつ追われつ、この2つは競争するように並走していた。明らかにお互いを意識して〈出版競争〉を展開しているとしか思えない(「少年サンデー」と「少年マガジン」の創刊・販売合戦にそっくりだ)。
いったい、「牧野図鑑」に対抗するような植物図鑑を著した、この「村越三千男」とは、どこの誰なのか。興味をもって調べ始めた著者は(まさに、探偵なみの推察・調査力!)、4つの疑問を抱くようになる。
① 村越三千男とは何者で、なぜ「牧野図鑑」と「村越図鑑」は、同時期に出版されたのか?
② 「図鑑」は、ほんとうに牧野の発明なのか?
③ なぜ明治40(1907)年ころに、植物図鑑の大ブームが発生したのか?
④ なぜ牧野は自著図鑑に、〈インチキ本〉への苛烈な「警告」文を載せたのか?
これらを、実資料をまじえながら、ひとつずつ、見事に解明していく。その解明をいま書いたのでは興を削ぐので避けるが、一点だけ、明かしておこう。
「村越三千男」とは、明治5年生まれ、埼玉の旧制中学の、植物学と絵画の「教諭」であった。要するに学校の先生で、牧野同様、在野の植物学者だった。明治39(1906)年、村越は学校を辞し、東京に出て、自費出版で『普通植物図譜』を発行する。これは月1回発行の逐次刊行物で、いまでいうデアゴスティーニの「分冊百科」シリーズみたいなものであった。
村越は、このシリーズの「校訂」を、すでに名前の売れていた牧野富太郎に依頼する。
「植物界の泰斗牧野先生の校訂という呼声より暫次売行を増し、一時は毎月七千部以上の販路を有するに至ったことは、其の当時の書肆が驚異の目を見張ったものでありました」(村越)
かくして「牧野・村越」コンビは、その後も似たような図譜類を続々刊行し、売れに売れた。
ところが、やがてこの2人は離反していく。いったいなにがあったのか。どのような過程で、牧野単独の『日本植物図鑑』刊行に至ったのか。そして村越は、なぜそれに対抗するような植物図鑑を出したのか。
そのあたりは、実際にお読みいただきたい。上記④の、明治40年に植物図鑑ブームが発生した理由など、「へえ!」に尽きる。
とにかく牧野富太郎の超個性的な性格は、あまりにおもしろすぎる(正式に博士号を授与する1年前に、勝手に「博士」を名乗っていた)。ひとに迷惑をかけっぱなしの生涯で、偉人伝説が拡大されすぎたことも、著者はちゃんと指摘しているが、決して貶めるような書き方はされていない。
本書を読むのに、植物や理科の知識は必要ない。ほとんど、シャーロック・ホームズの名推理を聞かされる、ワトソンの気分になれる(ただし、出てくる本の書名が、ほとんど「〇〇植物図鑑」なので、読んでいてしばしば混乱する)。
朝ドラ『らんまん』は、本書を原作とした方がいいのではないか……とさえ、思った。
□『牧野植物図鑑の謎 ─在野の天才と知られざる競争相手』は、こちら。
2023.06.20 (Tue)
第406回 朝ドラ『らんまん』が10倍おもしろくなる、コンパクトな2冊の本 【前編】

▲『MAKINO ~生誕160年、牧野富太郎を旅する~』(高知新聞社編、北隆館) ※リンクは文末に。
NHKの朝ドラ『らんまん』がおもしろい。視聴率もいいようだ。
朝ドラは、ここ数年、ひどかった。人物造形も物語も破綻していた『ちむどんどん』、女性パイロットを目指す話が、いつの間にか違う話になっていた『舞いあがれ!』など、妙なドラマがつづいた。
しかし今回は、モデルとなった植物学者・牧野富太郎の個性もあって、これが実在の人物だったかと思うと(ドラマゆえの創作があるにしても)、興味が尽きない。
脚本に、劇作家・長田育江さんを起用したのも、成功の要因だと思う。井上ひさし氏に師事し、劇団「てがみ座」を主宰。あたしは、『対岸の永遠』『海越えの花たち』や、『夜想曲集』(カズオ・イシグロ原作)、『豊穣の海』(三島由紀夫原作)、『レストラン「ドイツ亭」』(アネット・ヘス原作)などが忘れられない。文芸テイストと娯楽エンタメの中間をバランスよく書けるひとだと思っていた。
また、視聴率がよい理由には、以下のような点もあると思う。実は、1965~1979年の間、小学校3、4年生の国語の教科書に、童話作家・柴野民三によるミニ伝記「牧野富太郎」が載っていた。小学校中退ながら東大の先生にまでなったという、そのインパクトは強烈だった。
この教科書で学んだ世代は1955~1970年の間に生まれており、現在53~68歳。まさにあたし自身がその世代で、確実に脳裏に焼き付いている。練馬区にある牧野富太郎記念庭園にまで行ってしまったものだ。そしていま、TVの前で、おじいちゃん、おばあちゃんになった彼らが小学生時代を懐かしみながら、「むかし、教科書で読んだなあ」と、子や孫に話している……『らんまん』人気には、そんな背景もあるのではないか。
江戸時代末期からはじまる古風なヴィジュアルも朝ドラとしては新鮮だった。高知編で祖母を演じた松坂慶子の熱演もあって、NHKはこちらを大河ドラマにするべきだったと、真剣に思ったものだ。
そんな人気にあやかって、書店には、牧野富太郎関連本があふれている。かなり大きなコーナーまで設営している書店もあった。そのなかから、抜群におもしろい、かつコンパクトな本を、2点、ご紹介したい。
1冊目は、『MAKINO ~生誕160年、牧野富太郎を旅する~』(高知新聞社編、北隆館/2022年7月刊)。2014年刊の単行本を再編集して新書化したものだ。
牧野の一生は、植物採集のための「旅」の日々でもあり、全国各地を訪れていた。その足跡を、牧野の地元、高知新聞の記者があらためてたどり、同じ行程を歩きながら彼の一生を振り返る、いわば”旅行記風・伝記ルポ”である。
面白いのは、編年体ではなく、各章が旅行先の「土地」単位になっている点。冒頭は、突然、「利尻」の章からはじまる。1903(明治36)年、41歳、健脚の牧野は高山植物を求めて利尻山に登った。現代の記者とカメラマンも、おなじ行程をたどって意気揚々と山道へ……これが、果たしてどうなるかは、読んでのお楽しみ。
その後、記者は、「屋久島」「東京」「神戸」「仙台」「晩年の東京」「佐川、そして今」と、場所と時代を自由に行ったり来たりする。この構成は、牧野の多面性を立体的に浮き立たせることに成功している。読んでいて「次は、どの時代の、どこへ行くのだろう」と、こちらもタイムトラベルをしているような気になる。しかも、新聞連載がもとになっているだけに、エピソードがコンパクトで読みやすい。新聞記者の文章なので、短くてさっぱりしている。
また、本書は、引用・参考資料が実に幅広い。牧野自身の随筆や自叙伝(これも名著として有名)はもちろん、第三者による評伝や研究文、果ては「小説」までもが続々と登場する。特に、同郷の作家、大原富枝の遺作『草を褥〔しとね〕に 小説牧野富太郎』がうまく引用されており、単調な人物ルポで終わらせない効果を生んでいる。
かように本書は、朝ドラをご覧の方なら、「おお、この部分は、先週放送された、あの話か」と、ワクワクしながら読めるだろう。実は牧野は一人っ子だったとか、最初の東京旅行(博覧会出品)では番頭の息子と会計係の「2人」を引き連れていたとか、故郷・高知の佐川にすでに「妻」がいたとか(つまり東京では重婚!)、東京に出たあとも、始終、高知・佐川と行き来していたとか、ドラマとのちがい=真実も楽しめる。
なお、本書の版元「北隆館」とは、『牧野日本植物図鑑』の正式版元である。つまり本書は、本流も本流、いわゆる”オフィシャル出版”なのである。かつて同社には”牧野担当”がいて、生活費や書籍代などの面倒を見ていたとの、古き良き時代の挿話も登場する。
写真図版も多く、巻末にはイラスト入りの「全国ゆかりの地マップ」や「年表」もある(イラストは高知県立牧野植物園の方らしい)。正味ほぼ200頁、定価は本体900円、新書なのでコンパクトだ。朝ドラの”副読本”に、ぜひ、お薦めします。
そしてもう1冊は、凡百のミステリもかなわない「謎解き本」なのだが、まず本日は、これぎり。
〈この項、つづく/後編は、こちら〉
□『MAKINO ~生誕160年、牧野富太郎を旅する~』は、こちら。
2023.05.14 (Sun)
第401回 これが、話題の映画『TAR/ター』のネタ本?

▲『指揮者は何を考えているか 解釈、テクニック、舞台裏の闘い』(ジョン・マウチェリ、松村哲哉訳/白水社刊)
映画『TAR/ター』が公開された。
ベルリン・フィルの女性首席指揮者役を、名優ケイト・ブランシェットが怪演・熱演し、米アカデミー賞で主演女優賞を含む6部門にノミネートされた注目作である。
ケイト自身が実際にオーケストラ(ドレスデン・フィルハーモニー)を指揮してマーラーの5番を演奏するほか、実在のアーティスト名やエピソードが続々登場し、いままでの音楽映画とは一線を画すド迫力である。
あたし自身、デイリー新潮の記事で解説したので、内容の詳細はそちらをご笑覧いただきたいが、トッド・フィールド監督のインタビューによれば、指揮者のジョン・マウチェリ(1945~)にブレーンとしてかかわってもらったらしい。映画スタッフとしても「music advisor to filmmakers」として、正式にクレジットされている。そして監督は「名高い指揮者であるジョン・マウチェリの本が、正しい方向へと導いてくれた」(プレス資料より)と語っている。
その「本」とは、なにか。
マウチェリは数冊の著書を上梓しているが、おそらくなかでも重要なインスピレーションを得たと思われるその本が、すでに2019年6月に、邦訳で出ている。
『指揮者は何を考えているか 解釈、テクニック、舞台裏の闘い』(ジョン・マウチェリ、松村哲哉訳/白水社刊)である。原著は2017年刊で、原題は“Maestros and Their Music: The Art and Alchemy of Conducting”(マエストロたちと彼らの音楽:指揮の芸術と錬金術)。
あたしは不覚にもこの本で著者をはじめて知ったのだが、アメリカでは古くから活躍している指揮者らしい。バーンスタインと長く仕事をしてきたようで、ほかにハリウッド・ボウルの指揮をつとめたほか、ミュージカルや映画音楽の仕事も手がけている。
で、本書に何が書いてあるかというと、はっきりいって、全編が、クラシック界の指揮者職業にまつわる〈ゴシップ〉である。いわゆる〈裏話〉によって、指揮者なる職業を半ば戯画的に描く本だ。しかしよくまあ、これほどのゴシップを集めた(見て聞いている)ものだと感心する。
たとえば、不仲といわれたカラヤンとバーンスタイン。カラヤンのザルツブルクの自宅で2人がランチを共にしたとき、どんな会話が交わされたかを、この著者はバーンスタインから聞いている。「ヘルベルトは本を読んだことがあるとは思えないね」と言っていたそうだ。
また、バーンスタインは、マーラー9番の、細かい演奏指示を書き込んだ全パート譜を持っていた。初めて(そして生涯で唯一の)ベルリン・フィルを指揮したとき、そのパート譜を使った。ところが、
バーンスタインのニューヨーク事務所は、再三にわたり電話と手紙でパート譜を送り返すようベルリン側に要請した。数か月経っても楽譜は戻ってこなかった。その後まもなく、カラヤンはマーラーの交響曲第九番をベルリン・フィルと録音して英グラモフォン賞を受賞した。やっとパート譜がベルリンから返還されたとき、バーンスタインは、カラヤンが自分の書き込みを参考にして演奏と録音を行なったに違いないと確信した。そして、このような出来事を公にすべきだと思ったのである。
この2つのベルリン・フィルによるマーラー9番は、レコード録音史を語るうえで欠かせない名盤(いや、問題盤?)として知られている。
ほかに、音楽史のゴシップも大量に登場する。
本物の指揮者とは言いがたい作曲家が指揮する場合は、自作の複雑なリズムをうまく振り分けられない事態も起こりうる。ストラヴィンスキーは『春の祭典』の終曲「生贄の踊り」をうまく指揮できたためしがなかったので、拍子を正確に刻めるよう楽譜を書き換えてしまった。一九一三年に作曲したとき、どういう音楽を書きたいかはわかっていたが、その書き方がよくわからなかったというのである。
この〈改定版〉は、のちの校訂版で、もとにもどされたという。
余談だが、あたしは、中学・高校・大学時代の約10年間、黛敏郎が企画・司会をしていたTV番組『題名のない音楽会』の公開録画の大半に通った。なかでも上記と似たような内容の回があったのが忘れられない。全編変拍子で有名な《春の祭典》の楽譜を、単純な「4分の4拍子」に書き換えてオケ団員に配り、指揮者(岩城宏之だったと思う)は、ただ4拍子を振る。それで果たして演奏できるかどうか、本来の《春の祭典》に聴こえるかどうか——こういう、前代未聞の実験がおこなわれたのだ(なんとなく演奏はできたが、やはりヨレヨレしていて、本来の《春の祭典》とはほど遠かった記憶がある)。
かように本書は、(あたしを含む)ある種のひとびとにとっては、まことに垂涎のゴシップ集なのだが、一般の音楽ファンにはどうでもいい話で全編が埋まっているのである。
しかし、先述のように、映画『TAR/ター』のバックボーンの参考になった部分があると思うと、また読み方も変わる。
生涯、マーラー《復活》のみを指揮しつづけたアマチュア指揮者のエピソード。
(略)もうひとりの人物の追悼記事は、経済誌の創刊者として巨万の富を得た実業家で、楽譜の読み方などほとんど知らないギルバート・キャプランという人物に関するものである。(略)法律を学び、ニューヨーク証券取引所で働いた。一九六五年にレオポルド・ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団は演奏するマーラーの交響曲第二番『復活』を聴き、その虜になった。
そして自分の会社を売って同楽団に多額の寄付をして理事長になり、《復活》のマーラー自筆譜と指揮棒を入手して、数人のプロについて〈指揮のしかた〉を学び、
そして一九八二年、アメリカ交響楽団を雇い、リハーサルを行なったうえで、リンカーン・センターのエイヴリー・フィッシャー・ホール(現デヴィッド・ゲフィン・ホール)に招待客を集め、その前で『復活』を指揮したのだった。
(略)コンサートを聴いた招待客はその見事な演奏に感激したが、キャプランにとって、これは始まりにすぎなかった。さまざまなオーケストラとの『復活』の演奏回数は百回を数え、ロンドン交響楽団やウィーン・フィルとは録音も行なった。
映画をご覧になった方は、もうおわかりだろう。
最初の方で、リディア・ターが、レストランで実業家らしき男と会っているシーンがある。
本書で紹介された、ギルバート・キャプランがモデルと思われる。
かように、映画『TAR/ター』は、これらマウチェリの著書を参考にし、いままでの音楽映画にはない、リアルな設定を実現したようだ。
本書は〈ゴシップ〉集ではあるが、マウチェリ自身の仕事ぶりのアピールも大量に含まれている(よって、自己宣伝本のように感じる読者も多いかもしれない)。
彼は、最近大流行の「映画音楽コンサート」指揮者の先駆けで、開拓者でもあった。スクリーンの映像にあわせてナマ演奏をピッタリ合わせるには、それなりの技術が必要で、回を重ねるごとにデジタル新技術を積み重ねてきた、その過程が語られる。
この記述が、映画『TAR/ター』の、あの〈衝撃のラスト〉の参考になったような気もする。
なお、これはすでに報道でおおやけになっている事実だが、近年、ノースカロライナ大学芸術学部の元学生たちが、長年にわたって、複数の教員から性的虐待を受けたとして、告発する騒ぎが発生している。その被告のひとりに、このジョン・マウチェリもいるようである。
映画『TAR/ター』のなかでも、教え子がらみの〈告発〉シーンがあるが、まさかこれもマウチェリが元ネタなのだろうか。
<敬称略>
◆『指揮者は何を考えているか 解釈、テクニック、舞台裏の闘い』(ジョン・マウチェリ、松村哲哉訳/白水社刊)は、こちら。
◆映画『TAR/ター』公式サイトは、こちら。
◆デイリー新潮「話題の映画『TAR/ター』を完全制覇するための5つのポイント」は、こちら。
2023.05.07 (Sun)
第399回 【新刊紹介】「どこにも売っていない」CD294タイトルを紹介する、前代未聞のガイドブック

▲『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)
※リンクは文末に。
いまや音楽は、「音盤」(CDなど)で聴くものではなくなりつつある。配信、ストリーミング、ダウンロードが主流となり、音盤を手に取る楽しみは、少なくなった。
これはクラシックも例外ではない。聖地「タワーレコード渋谷店」など、かつては7階すべてがクラシック売場だった。それがいまではジャズやクラブ音楽などに浸食されて半分弱ほどとなり、風前の灯である。
先日には、老舗専門誌「レコード芸術」が休刊するとのニュースも伝わった。
レーベル(レコード会社)も、続々と消滅した。PhilipsやEMIといった名門レーベルは、いまや存在しない。
こうなると困るのは世界各地のオーケストラだ。いままで音盤ですこしは副収入になったし、名刺代わりで名前をアピールできた。だが、レコード会社はもうないし、あってもクラシックには力を入れてくれない。売場もない。
古参のファンには、配信でベートーヴェンやマーラーを聴くことをよしとしないマニアも多い。
そこで昨今、オーケストラが独自に音盤をつくってリリースするようになった。
たとえば、いまはなきPhilipsで多くの名盤をリリースしてきたロイヤル・コンセルトヘボウは〈RCO Live〉レーベルを設立した。これはあたしも大ファンで、マリス・ヤンソンス指揮のマーラーなど、ずいぶん聴いたものだ。ジャケット・デザインも清冽だった。
ほかにもロンドン交響楽団の〈LSO Live〉、その名のとおり〈New York Philharmonic〉、イスラエル・フィルの〈helicon classics〉など、続々と登場した。ネット通販の時代になり、音盤を店頭以外で簡単に売ることができるようになった点も幸いした。
こういった音盤を、「自主制作盤」と呼ぶ。
そして、今回ご紹介する本、『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)は、そういった世界各地のオーケストラがリリースしている「自主制作盤」のガイドブックなのだが、これが尋常な内容ではない。単なる「自主制作盤」ではなく、「レア自主制作盤」なのだ。
いったい「レア自主制作盤」とは、何なのか。
本書中から、典型的な「レア自主制作盤」の紹介文をあげよう。
中身は、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルほかによる、バッハ《マタイ受難曲》(1997年ライヴ)である。
ドイツ銀行傘下のドイチェ・アセット・マネジメントが株主や投資信託購入者へのギフトとして配布した音盤だが、同じものがザルツブルク・イースター音楽祭のパトロンへのギフトや、ドイツの製薬会社シェーリングが株主や医師などのギフトとしても流通していた。ジャケットも全て同じで、企業ロゴのみ違っていた。これは、ムジコムがベルリン・フィルから音源を買い取り、多くの企業へ同一音源を提供していたことを示すものであるが、(略)
つまり、一般ファン向けではなく、スポンサーや関係者など特定顧客のために制作された音盤なのだ。ゆえに一般流通しておらず、ほぼどこにも売っていない音盤ばかりで、ゆえに「レア」なのだ。
本書は、そんな「どこにも売っていない」レア自主制作盤ばかりを紹介する前代未聞のガイドブックである。
しかし、「どこにも売っていない」ものを紹介されたって、聴くどころか、目にすることもできないわけで(だから「前代未聞」なのだが)、そんなガイドブックが面白いのか、何の役に立つのか、疑問に思う方も多いだろう。
これが、とんでもなく、すさまじく面白いのだ。なぜなら本書は、音盤ガイドの体裁をとりながら、世界のクラシック・オーケストラや指揮者たちの歴史と現状を検証・紹介し、結果として戦後の世界クラシック界を俯瞰する、貴重な記録集になっているのである。
登場する国・地域は、「ドイツ」「オーストリア」「スイス」「オランダ」「イタリア」「その他欧州/中東」「アメリカ/カナダ」「オーストラリア/ロシア/アジア諸国」の8章構成。
オーケストラ総数は、なんと「102」団体(日本も13団体ある)。
とりあげられた音盤は294タイトル(すべてジャケット画像つき)。
本文部分780頁超のボリュームである。
なかでも多いのはやはりドイツで、最多の44団体が登場する。
ベルリン・フィルやバイエルン放送響などといった有名どころはいうまでもなく、「ブラウンシュヴァイク州立管弦楽団」なんて団体が登場する。あたしが知らなかっただけかもしれないが、1587年創設で、世界最古のオーケストラの一つだという。
紹介される音盤はヨナス・アルバー指揮のシューマン交響曲全集である。はじめて聞くこの指揮者は1969年生まれで、29歳で《ニーベルングの指環》を上演して大反響を巻き起こしたという。こういった解説も、微に入り細にわたっている。
ドイツの地方オケとは思えないほど、音色は明るく、しかもアンサンブルは精妙に整えられている。(略)いずれの作品でもオーケストラの鄙びた音色が郷愁を誘う。こうした音色が失われないことを切に願うばかりだ。
そのほかドイツでは「ワイマール・フランツ・リスト音楽大学管弦楽団」「デトモルト音楽大学管弦楽団」といった大学オーケストラの音盤も登場する。
「シカゴ交響楽団」が、ショルティ指揮でニールセンの交響曲第1番を出しているのには、驚いてしまった。
カナダの「ウィニペグ交響楽団」の音盤は、1959年ライヴの歴史的録音。若きグレン・グールドが弾く、ブラームスのピアノ協奏曲第1番だ。著者は、この項のタイトルを〈ロマンティストのグールドが異端児へ転身するドキュメントを聴く〉と題している。
(略)それほどこの演奏はピアノと激しく格闘し、オーケストラの奏でる雄大な音楽と対峙しようと、もがき苦しんでいる。そして、その結果は無残である。(略)恐らく、この演奏を通してグールドは、その繊細な精神を大きく傷つけられたのではないか。それが後年のバーンスタインとの演奏(富樫注:1962年)で聴かせる、スロー・テンポで抒情性に富んだ尋常ならざる演奏へ繋がったのではないか。ウィニペグでのコンサートが、グールドの大きな転機となったように思えてならない。
このように、紹介される音盤は、すべてが名演というわけではない。
たとえば旧ソ連出身のユーリ・シモノフ指揮、スロヴェニア・フィルハーモニーによる、ベートーヴェンの《田園》だが(1994年ライヴ)、これがあまりに緩く遅いテンポの演奏で、著者は〈高揚感がほとんど感じられず、ひたすら音が拡散していくだけの「田園」。緩さの極致を示す「田園」〉と容赦ない。
しかし、そのあとで、こう結んでいる。
シモノフがここまでして描きたかったものは何なのか。もちろんベートーヴェンが感じた田園風景であるわけはない。恐らくシモノフの生まれ故郷であるロシアのサラトフの広大な光景を描き出そうとしたのではないか。しかもサラトフの地名は「黄色い山」、すなわち砂山に由来する。広大な砂地によって作られた変化に乏しい故郷の風景。緩い音楽が延々と続くのもやむを得ない。
実は本書の魅力は、こういう書きぶりにもある。この著者は、どんな音盤であろうと、どこかに存在価値や貴重性を見出し、愛情をもって紹介してくれるのだ。
だから、読んでいて、とても気持ちがいい。音盤を貶めるような記述は、一切ない。マニア特有の〈俺は知っているぞ〉的なタッチもない。〈世界のオーケストラ戦後史〉を自然と学んだような気になる。
そして、世界には、こんなにたくさんの、無名ながら実力のある指揮者とオーケストラがあり、どこも自主制作盤をつくってがんばっていることを知らされ、そのこと自体にも感動をおぼえる。
いったいこの著者は何者なのか。
略歴によると、1961年生まれの音盤蒐集家で、大学卒業後、外資系製薬会社に勤務しながら音楽を愛好、音盤を蒐集しつづけたという。あたしと、ほぼ同世代だ。いまは定年退職し、〈音盤聴き放題の悠々自適生活に突入〉しているらしい。次回作が楽しみだ。
本書の版元「DU BOOKS」とは、中古CDの買い取り・販売大手「ディスク・ユニオン」のレーベルである(いま、もっとも面白い音楽本を続々出している版元)。なぜ本書がそこから出たのかは、エピローグに記されている。あたしも、長く編集の仕事をやってきたが、なるほど、こういうことから生まれる本もあるのかと、これまた感動してしまった。
しかし、この著者は、これら大量の「売っていない音盤」をどうやって入手しつづけたのか、あまり詳しく記していない。読み落としているのかもしれないが(なにしろ大部なので!)、その苦労話にも、面白いエピソードがあるのではないか。
なお余談だが、本書の「レア自主制作盤」のなかには、中古市場に出回っている音盤もある。
たとえば先に紹介した、アバドの《マタイ受難曲》などは、本書で〈これほどの演奏がソニー・クラシカルやドイツ・グラモフォンからリリースされないことに、クラシック音楽界の抱える大きな問題が垣間見える〉とまで書かれた名盤だけあって、一時期、ヤフオクやアマゾン中古などで、よく見かけたのを覚えている。
ただし、状態がよい音盤には「20,000円」前後の値が付いていたと思う。
さすがは「レア自主制作盤」である。
◆『リアル・ライヴ・サウンズ 世界のオーケストラ レア自主制作盤完全ガイド』(篠﨑博著、DU BOOKS刊)は、こちら(目次や一部立ち読みもあり)。
※本稿は「本が好き!」にも投稿しています。