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2021.09.29 (Wed)

第333回 マリヤ・ユージナとスターリン(5/終)

CD2枚
 ▲(左)ヴァインベルクの室内楽曲集(ギドン・クレーメルの演奏)
   (右)マリヤ・ユージナによるキエフ・ライヴ(1954年4月4日)


 映画『スターリンの葬送狂詩曲』で、音楽のクリストファー・ウィリスがネタ元の一つにしたらしき作曲家、ミェチスワフ・ヴァインベルク(1919~1996/ソ連では「モイセイ・ヴァインベルク」)は、ポーランド生まれのユダヤ人である。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を逃れてソ連に亡命したが、そこでもまた、スターリンによる迫害に苦しんだ悲劇の作曲家だ。
 かなり最近まで、知る人ぞ知る作曲家だった。だが、22曲の交響曲、17曲の弦楽四重奏曲などを残しており、ある時期のソ連音楽界を語るうえで、たいへん重要なひとである。
 近年は、ラトビア出身のヴァイオリニスト・指揮者のギドン・クレーメルが積極的に取り上げているほか、Naxosレーベルを中心に、秘曲が次々に音源化されている。

 1953年2月、そのヴァインベルクが逮捕される。すでに1948年のジダーノフ批判で、ショスタコーヴィチらとともに「形式主義的作曲家」に指定されており、演奏禁止となっていた。仕方なく、サーカスや劇場の三文音楽で食いつないでいた。
 実は、ジダーノフ批判の最中に、ユダヤ人の名優にして、国立ユダヤ人劇場の創設者、ソロモン・ミホエルス(1890~1948)が、事故を装って「暗殺」されている。ヴァインベルクは、このミホエルスの娘婿である。よって彼自身、自分の生命も風前の灯であることを予感していたフシがある。
 このとき、ショスタコーヴィチは、スターリンに次ぐ№2の大臣、ラヴレンチー・ベリヤ(ユーロマンガ/映画では主役格)にあててヴァインベルク救命の嘆願書をおくっている。

 ショスタコーヴィチはヴァインベルクと親友関係にあった。ショスタコーヴィチのユダヤ風音楽は、ヴァインベルクの影響である。ヴァインベルク夫妻は、もし自分たちになにかあった際は、子どもの養育をショスタコーヴィチに託していたほどだ。
 ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲第10番をヴァインベルクに献呈している(2人は、弦楽四重奏曲の数を競い合っていた)。また、ヴァインベルクは、ショスタコーヴィチの死の翌年(1976年)に、交響曲第13番《ショスタコーヴィチの思い出に》を書いている。

 ところが、ヴァインベルク逮捕直後にスターリンは倒れ、3月9日に死去した(持病からくる心臓発作が原因だが、何度も書いているように、ユーロマンガ/映画では、マリヤ・ユージナの手紙が原因となっている)。
 これによってヴァインベルクは奇跡的に恩赦釈放される。ユーロマンガ/映画にヴァインベルクは登場しないが、もし出ていたら、ユージナに感謝する場面が描かれていたことだろう。

 そんな荒波をものともせず、おなじユダヤ人のユージナは、(おそらく)悠然と、演奏活動をつづけていた。
 スターリンが亡くなった翌年、1954年4月に、キエフで開催したリサイタルのライヴ音源が残っている(上掲右のCD)。ユージナ55歳、油の乗った時期の演奏で、すでに何回か商品化されている有名なライヴだ。本稿(1)で紹介したBOXセットにも収録されている。
 内容は、ベートーヴェン《創作主題による変奏曲》、ピアノ・ソナタ第14番、第17番、バッハ《前奏曲とフーガ》BWV543など、重量級のプログラムだが、最後にアンコールで、モーツァルトの絶筆《レクイエム》~〈ラクリモーサ〉(涙の日)が収録されている。通常のピアノ・リサイタルでは考えられない選曲だ。クレジットによれば「編曲:キリル・サルティコフ」とある。

 このひとは、モスクワ音楽院におけるユージナの生徒で、15歳年下の「婚約者」だった。だが、1939年、山岳事故で25歳の若さで亡くなっている。
 ユージナはこれを契機に尼僧のような生活に入り、サルティコフの母親の面倒を見ながら、独身を貫いた。前回までに紹介した、ユージナの独特な服装や態度は、この婚約者の死が原因のひとつだったと思われる。
 そして、サルティコフが編曲した〈ラクリモーサ〉を、生涯、演奏しつづけた。ミサ曲のピアノ独奏編曲だが、まるでリストのような深刻な響きで満たされている。

 このころ、スターリン死後のソ連を、ユージナは、どんな思いで生きていたのだろう。このライヴからは、すくなくとも歓喜や解放感を感じ取ることはできない。スターリンがいなくなったからといって、そう簡単に平和が訪れるとは信じていなかったにちがいない。
現に、すぐに後任のフルシチョフによる粛清がはじまり、KGBが発足、ベリヤは逮捕・銃殺処刑。さらに数年後、ソ連は「キューバ危機」で世界を“核戦争”の入口に立たせるのである。
 スターリン以後も決して安堵できない、ソ連国家に対する虚しさや怒りのようなものが、この〈ラクリモーサ〉からは、感じられる。

 晩年のユージナは不遇だった。ピアニストでモスクワ音楽院教授だったヴェーラ・ゴルノスターエヴァ(1929~2015)は、回想記『コンサートのあとの二時間 モスクワ音楽院・ペレストロイカ以前の音楽家群像』(岡本祥子訳、ヤマハ・ミュージック・メディア/1994年邦訳刊)のなかで、ユージナの最期を綴っている(このひとは、1990年代にNHK教育TVのピアノ教室番組の講師としておなじみだった)。

 体調を崩し、入院したユージナだったが、付添婦を雇うカネがなかった。教え子のひとりが関係者に連絡して寄付を集めることになった。
〈音楽院の音楽家たちは、ことがユージナに関することだとわかると出し惜しみしなかった。私には、彼らの行動の中に、何かしら彼女への罪の意識のようなものがあるように感じられた。(略)そうして、約束の時間に必要な額が手渡されたのだった〉
 誰もが口にできなかったこと、特にスターリンに対する思いを、ユージナひとりが代弁し、行動で示してくれた。そのことに、誰もが感謝すると同時に、彼女ひとりに背負わせてしまったことへの贖罪のような意識があったのだろう。

 数か月後、ユージナ死去の知らせが届く(1970年11月9日没、享年71)。
〈ニーナ・リヴォーヴナ・ドルリアク(ソプラノ歌手、リヒテル夫人)から、無宗教告別式で「音楽の部」を組織してほしいとの依頼があり、私は、この悲しい務め、もっと正確に言うなら、自分とそして彼女の記憶に対する義務にとりかかった。(略)モスクワ市のホールは一つとしてユージナの告別式をさせてくれなかった。音楽院大ホールのロビー許可をもらうのでさえD・D・ショスタコーヴィチの介入が必要だった。(略)私は告別式で最初に演奏することになった〉
 そのほかに、ナセートキン、グリンベルグ、ネイガウス、リュビーモフ、ヴィルサラーゼ、リヒテルなどが追悼演奏した。
 リヒテルは、ほんとうは、ブラームスの《バラード》ニ短調(作品10-1)を弾きたかったらしい。だが、
〈亡くなったユージナの前では決心がつかなかった。フォルテがやたらに多い曲だからだ。こういう場では音楽はよく聞こえる。(略)でもそんなことをしたら霊柩車から飛び出してくるよ。(略)ユージナの葬儀では、彼女が大嫌いだったラフマニノフを弾いた。ロ短調の前奏曲(作品三二第一〇)をね。彼女は喜ばなかったかもしれない〉(ユーリー・ボリソフ『リヒテルは語る』宮澤淳一訳、ちくま学芸文庫)

 以下、ふたたびヴェーラ・ゴルノスターエヴァの回想記から。
 葬儀の日の朝、モスクワ音楽院大ホールでリハーサル中だった同院オーケストラは、自主的に、ベートーヴェンの交響曲第7番を追悼演奏した(おそらく第2楽章を)。
 葬儀のあと、棺を墓のなかに降ろそうとすると、穴の底に大きな石が見つかった。
〈棺がぶつかってしまうので、長い間地面を掘り続けなければならなかった。石がじゃまをしつづけたのだ。ユージナの告別にやってきた人々は皆立ったまま辛抱強く待った〉
 やがて日は沈み、ろうそくを灯して、誰もがじっと、掘り終わるのを待った。

 そしてヴェーラは、ユージナの回想を、こう結んでいる。
〈ついに石が掘り出されて持ち上げられたとき、埋葬は終わった。/この、最後のまったく「ユージナらしい」状況にも、彼女の性格が現れているようだった。(略)それは、頑固でわがままで、いつも困難な生涯を克服しようとしていた人生。その生き方を通して、受難者、聖人の面影がほの見えてくる〉
 山野楽器・西武池袋店の閉店セールで見つけた、マリヤ・ユージナのBOXセットも、わたしの机上の端で、頑固に居座っている。
〈この稿、おわり〉

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2021.09.09 (Thu)

第330回 マリヤ・ユージナとスターリン(2)

ユージナCD2
▲(左)モスクワ音楽院レーベルのCD、(右)ドクロを愛したユージナ


 ユージナがスターリンのために弾いたモーツァルトの協奏曲第23番は、CD26枚組ボックス・セット『The Art of Maria Yudina』(SCRIBENDUM)のCD4に収録されていた。アレクサンドル・ガウク指揮、モスクワ放送交響楽団の演奏で、「1948年」収録とクレジットされている。
 「あれ?」と思った。
 いままでのレコードやCD、ネット上の記述では、「1943年」「1944年」など、さまざまに書かれてきた。ユージナは、そうたくさんのレコードを残したひとではない。おなじ顔ぶれで、おなじ曲を、そう何回も録音はしなかっただろう。

 わたしが持っている、2019年にリリースされた「モスクワ音楽院」レーベル(Moscow Conservatory Records)のCD(上掲左)も、おなじ顔ぶれで、音源としてもおなじだと思うのだが、こちらは「1947年6月9日、モスクワにてスタジオ録音」と細かくクレジットされている。このレーベルは、モスクワ音楽院の自主製作盤で、同院ホールでのライヴや、同院に縁のあったアーティストの音源を発掘リリースしている(ユージナは同院の教授だった)。
 よって、情報も信頼できるはずなのだが、ライナーノーツではなぜかこの音源についてだけ、詳しく触れられていない。単に「CD2の最後は、ユージナの代表作、ピアノ協奏曲第23番イ長調KV488の伝説的な録音である」としか書かれていない。
 まあ「代表作」「伝説的録音」とあるのだから、たぶん、「事件」の該当音源なのだろうが。

 指揮のアレクサンドル・ガウク(1893~1963)は、ムラヴィンスキーらとともにソ連楽壇の指導的役割を果たしたひとで、戦前にはレニングラード・フィルの常任指揮者もつとめていた。ショスタコーヴィチの交響曲第3番《メーデー》の初演指揮者でもある。ラフマニノフの交響曲第1番の楽譜を発見して蘇演したのも、このひとだ。
 そんな重鎮が、深夜に「三人目の指揮者」としてスタジオに呼び出されて、無理やり指揮させられたなんて話も、どうも妙な気がする(いや、「スターリンの指示」だったら、それくらい、ありうるか)。

 この演奏は、いかにもユージナらしい「質実剛健」な響きである。とにかく彼女の演奏はメリハリがはっきりしていて、パワフルなのだ。
 ロシア・ピアノ音楽の研究家でもあった佐藤泰一は、『ロシアピアニズム』(ヤングトゥリー・プレス、2006年初版→2012年新装第一刷)のなかで、こう書いている。
〈ユーディナは不思議なくらい聴衆の人気を保ち続けたアーティストだった。その秘密はまず、当時においては空前の、速くて確実で、十本のいずれの指もが鳴らす音色を独立に、かつ自在にコントロールできた、という彼女の技巧にあるに違いない〉
 23番の第2楽章のように、ゆっくりとしたテンポで、まるで敬虔な祈りを捧げるように弾いたかと思うと、第3楽章では(ピアノが先に演奏をはじめる)スピード感あふれる演奏で、オーケストラを引き連れて凱旋している軍楽隊のような迫力もある。
 このあたりが面白く感じられると、もう、おなじ曲をユージナ以外で聴いてもつまらなく感じてしまうのだ。

 スヴャトスラフ・リヒテルも、こう語っている。
〈モーツァルトの協奏曲イ長調(第二三番)とシューベルトの即興曲変ロ長調は、ユージナが弾いている。彼女のあとに弾く気にはなれない。ブラームスの間奏曲イ長調(作品一一八第二)もそうだ。弾いたらみっともないことになる〉(ユーリー・ボリソフ『リヒテルは語る』宮澤淳一訳、ちくま学芸文庫)
 ほかにも、リヒテルが回想するユージナ像はまことに面白い。ショスタコーヴィチの『証言』同様、この回想記でも、とにかくユージナの思い出話ばかりが出てくる。どちらも、時折「ユージナの評伝」を読んでいるような錯覚を覚えるほどだ。よほど強烈な女性だったのだろう。
 たとえば、バッハの《平均律クラヴィ―ア曲集》第2巻、第22番について。
〈この前奏曲は、マリヤ・ユージナが前代未聞の速さで弾いたのを覚えている。それもマルカートで、あらゆる規則に逆らってね。あれに較べたら、グールドなんてかわいいものだよ〉
 そして、
〈いちばん印象的だったのは、リストが書いたバッハの主題による変奏曲だ。カンタータ第一二番の《泣き、嘆き、悲しみ、おののき》から主題が取られている巨大な作品で、天才的な演奏だった。とどろきわたるのではなく、心に染みいるような演奏で、ピアノ曲というよりは、ミサ曲を聴いているようだった。ユージナは、まるで儀式を執り行なっているようにピアノを弾いた。祝福するように作品を弾くのだ>
 この曲は、BOXセットにも収録されている。たしかに名演で、なるほど、リヒテルはうまいことを言うなあと、感心する。

 だが、この回想には誰もがおどろくだろう。
〈髑髏をかたわらに置いて、ハムレットのようなポーズを取っているユージナの姿が目に浮かぶ。そういう写真が残っている〉
 実際、ユージナは、ドクロが好きだったらしい。まあ、ドクロを愛好したピアニストなんて、彼女ただひとりだろう。
 冒頭に掲げたCDジャケットの写真(右)が、それだ。

 そんなユージナの、「モーツァルトのレコード事件」を題材とするバンドデシネ(フランス・ベルギーを中心とするユーロマンガ)が2014年にフランスで刊行され、すぐに映画化された。 ご覧になったかたも多いだろう、『スターリンの葬送狂騒曲』である。
 なんとこのバンドデシネ/映画では、スターリンの死因が、あの、ユージナが書いた「手紙」のせいになっているのだ。
〈この項、つづく/敬称略〉

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2021.09.07 (Tue)

第329回 マリヤ・ユージナとスターリン(1)

ユージナCD1
▲マリヤ・ユージナのCD26枚組BOX-SET


 銀座の山野楽器本店は、現在、3階以上のみにスペース縮小され、表通りからは店の様子がわからなくなってしまった。そして今度は、西武池袋店も、8月いっぱいで閉店した。
 寂しくなるなと思って、閉店前のワゴンセールを覗いていたら、マリヤ・ユージナのCD26枚組ボックス・セット『The Art of Maria Yudina』(SCRIBENDUM)が6,000円で売られていた。以前から欲しかったのだが、店によっては10,000円近かったので(ヤフオクでは、一時、なぜか27,000円!)、迷っていたのだ。もちろん、思い切って買ってしまった。

 マリヤ・ユージナ(1899~1970)は、ソ連の大ピアニストである(表記によっては「ユーディナ」もあり)。「女傑」とか「反体制ピアニスト」などと呼ばれたが、いちばん知られているのは「スターリンのお気に入りピアニスト」だろう。終生、ほとんどソ連を出なかったため、西側社会で認識されたのは、ずいぶんあとになってからだった。

 彼女の名を一躍有名にしたのが、のちに偽書とされた、ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(英訳原著=1979年刊、邦訳=中央公論社1980年刊→中公文庫/絶版)だった。
 ユージナとショスタコーヴィチは、ペトログラード音楽院での同級生だった。そのユージナが、この本では準主役級の存在感で登場するのだ。
 読んでいると、ショスタコーヴィチは、ユージナに対し、ピアニストとしては尊敬していたものの、人間的には複雑な印象を抱いていたようだ。しかしとにかく、あまりにも強烈なエピソードがえんえんとつづくので、一躍、音楽ファン以外にも知られる存在となった。

 いちばん有名なのは「モーツァルトのレコード事件」だが、上記『証言』がインチキ本だとの説も強いので、同じエピソードを、あえて、ほかの本からの引用で紹介しよう。『ミハイール・バフチーンの世界』(カテリーナ・クラークほか著、川端香男里ほか訳/せりか書房、原著1984年、邦訳1990年刊)のなかの一節だ(ユージナは、哲学者バフチーンと親しく、一種の”文学仲間”だった)。
 あるとき、スターリンがラジオを聴いていると、ユージナのピアノ独奏による、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番K.488が流れていた。もともとユージナのファンだったスターリンは、
〈すっかり気に入って放送局に電話し、そのレコードを送ってくれと頼んだ。放送局では上を下への大騒ぎとなった。というのも、それはレコードではなく生演奏だったのだ。即刻スターリンのために一枚制作することになった。ユージナとオーケストラの団員全員がスタジオに召集された。指揮者はすっかりあがってしまい、降されたが、交替した指揮者も似たようなもので、三人目の指揮者でようやく録音することができた。その間じゅう、ユージナは落ち着き払っていた〉

 翌日、徹夜で制作された、たった1組のSPレコードがスターリンのもとへ届けられ、ユージナは多額の謝礼をもらった。するとユージナは、スターリンに、こんな礼状をおくった。
〈「お金は私が所属している教会に寄付してしまいました。私は昼も夜も貴方のために祈り、貴方がこの国と国民にたいして犯した大いなる罪を許して下さるよう神に乞いましょう」と書いた。すぐに逮捕されるに違いないと誰もが思ったが、スターリンは、神学校時代からの名残りで教会関係者には弱かったからであろう、ユージナには手出しをしなかった〉(『ミハイール・バフチーンの世界』より)

 ユージナはユダヤ人だったが、はやくからロシア正教に改宗し、熱心な信者だった。いうまでもなく、スターリンの時代、宗教は弾圧され、教会は財産没収されたり、破壊されたりしていた。それだけに、ユージナの態度は本来ならば即逮捕、銃殺のはずだが、スターリンは無視していたという。
 あまりにおもしろおかしい作り話に思えるが、どうも、真実らしい。ロシア文学の大家、武藤洋二の『天職の運命 スターリンの夜を生きた芸術家たち』(みすず書房、2011年刊)のなかに、こんな一節があるのだ。
〈ユージナの甥ヤーコフ・ナザーロフは、手紙の内容についてマリーヤおばさんから直接きいている。彼の証言では、ユージナは、心くばりと音楽への関心に感謝したうえで、スターリンが国民にもたらした全ての悪の赦しを神に祈ってもらうために謝礼の一部を修道院に送った、と書いたのである〉
 
 もっとも、たとえば、ショスタコ―ヴィチも『証言』のなかで、
〈ユージナは立派な人で、善良な人ではあったが、その善良さにはこれ見よがしなところがあり、そのヒステリー症は宗教的なヒステリーであった〉
 と書いているし(もちろん、この部分も編者の創作かもしれないが)、前出『バフチーンの世界』でも、
〈ちゃんとした身なりをしないことも、周囲の人びとの怒りを買った。一九二〇年代のある演奏会の折、いつも家で履いている大きな毛皮の室内履きのまま会場に来てしまった。切符売場の係員がコンサート用の靴を貸してくれたのだが、あまりに履き心地が悪いので、ピアノの下に放り出してしまった。聴衆は、ユージナが裸足でペダルを踏むのを見て仰天した。(略)父親譲りの古いレインコートを着てベレー帽をかぶり、テニス靴を履いていた。いつでも何か考えごとをしていたので、誰かの家を訪れるとかならず身につけていた物を何かひとつ忘れるのだった〉
 などと書かれている。

 前出『天職の運命』でも、
〈後年ライプツィヒを訪れたさい、バッハがオルガン奏者として働いていた聖トーマス教会の入口で、彼女は、バッハへの深い敬意から靴をぬぎ裸足で中に入った〉
 とある。どうも裸足がお好きだったらしいが、おそらく周囲は、ユージナを「奇人変人」と見ていただろう。そういう点を、スターリンも承知していて、「どうせ変人だから」と、すこしくらい逆らっても、気にしなかったのかもしれない。
 それどころか、こんな話まであるのだ。
〈噂では、スターリンが死んだとき、彼の別荘にあった電蓄のターンテーブルにはユージナが録音したモーツァルトのレコードが載っていたという。この話が実話かどうかはかなり怪しいが、少なくとも、ユージナが当時のインテリゲンツィアの想像力の中でどのような地位を占めていたかを雄弁に物語ってはいる〉(『ミハイール・バフチーンの世界』より)

 スターリンは筋金入りのユージナ・ファンだった。
 そのモーツァルトの23番が、冒頭で紹介したBOXセットのCD4に収録されているのだが……。
〈この項、つづく/敬称略〉

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2021.06.01 (Tue)

第315回 1705年12月、リューベックにて(終)

ショルンスハイム
▲ブクステフーデ《ラ・カプリッチョ―サ変奏曲》+バッハ《ゴルトベルク変奏曲》
 (クリスティーネ・ショルンスハイム/チェンバロ) Capriccio

※ナクソス・ミュージック・ライブラリーは、こちら。



◆《ゴルトベルク変奏曲》の出自
 バッハは、《クラヴィ―ア練習曲集》と題する楽譜集を、全部で4巻、刊行している。どの巻も複数曲が収録されているが、第4巻(1741年10月刊行)は長大な1曲のみ。曲名は《2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏より成る~愛好家の心の慰楽のために》という。現在、通称《ゴルトベルク変奏曲》BWV988と呼ばれている曲だ。
 「アリア」とは、《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィ―ア小曲集》(1725年版)に記された小曲の旋律を指す。

 ドレスデンに赴任していた前ロシア大使、ヘルマン・カール・カイザーリンク伯爵は、お抱えのチェンバロ奏者、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727~1756)を連れ、しばしばライプツィヒを訪れ、バッハのレッスンを受けさせていた。
 あるとき、不眠に悩む伯爵は、バッハに、「穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィ―ア曲を、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申し出た」(フォルケル『バッハ小伝』、角倉一朗訳、白水Uブックス)
 そこで書かれたのが、この《アリアと様々な変奏》である(と、いわれている)。
 この逸話は、しばしば不眠症の伯爵が「眠れる音楽を書いてくれと要求した」かのようにつたわっているが、そうではない(グレン・グールドの名録音が、この逸話に拍車をかけたかもしれない)。上記のように、伯爵は「気分が晴れるような」曲を望んだのである。

 この逸話は、例のフォルケルの記録で有名になったものだが、いまではマユツバものと見る向きも多い。
 というのも、この当時、ゴルトベルクは13~14歳の少年である(伯爵の稚児さんだったか)。たしかに、ヴィルトゥオーゾではあったようだが、それにしても、このような難曲を、その若さで弾けただろうか、というのだ(楽譜通りにリピートすると1時間以上かかる)。

 だがとにかく伯爵はこの曲を気に入って「私の変奏曲」と呼び、「聴いて飽きることがなく、そして眠れぬ夜がやってくると永年のあいだ、『ゴルトベルク君、私の変奏曲をひとつ弾いておくれ』といいつけるのだった」と、これまた見てきたようなことを書いている(同上、フォルケルの記録より)
 そもそもゴルトベルクは1745年ころにカイザーリンク伯爵のお抱えを解かれたといわれている。だとすれば彼が弾いたのはせいぜい4~5年のことで、「永年のあいだ」弾いたとの記述はおおげさなようにも思える。
 だがフォルケルは、ここで当事者でなければ知り得ない事実を2つ、書いている。
 ひとつは報酬だ。
「バッハはおそらく、自分の作品にこのときほど多くの報酬を得たことはなかったであろう。伯爵はルイ金貨が百枚詰まった金杯をバッハに贈ったのである」(同上)
 もうひとつは、出版について。
「この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者が私蔵版においてそれらを注意深く訂正した」(同上)
 この「バッハが訂正した私蔵版」は1975年にストラスブールで発見された。たしかにバッハ自身の筆跡で、多くの訂正が書き込まれていた(現在、パリ国立図書館蔵)。フォルケルの記述は正しかったのである。
 前述のように、フォルケルがこの記録を書いたころ、バッハを直接知るひとは多くが存命中だったし、なによりも、次男のC.P.E.バッハと往復書簡を交わして最新情報を仕入れていた。あながちマユツバとは、言い切れないかもしれない。

◆驚愕の〈第30変奏〉
 で、その《アリアと様々な変奏》だが、冒頭に32小節の〈アリア〉(主題)が奏でられ、次から〈第1変奏〉~〈第30変奏〉がつづく。そして最後に〈アリア〉がリピートされて終わる。いまふうにいうと、全部で「32トラック」で構成されていることになる。途中、調性がかわる変奏もあるが、基本は「ト長調」である。そのほか、本曲の構成要素はあまりに面白すぎるのだが、曲の分析が目的ではないので、略す。 
 問題は、大トリの〈第30変奏〉である。
 ここで突然、〈アリア〉の変容ではない、まったく別の旋律、それも「戯れ歌」が2曲も登場してカノンを構成し、度肝を抜かされる(それでいて、ちゃんと〈アリア〉変奏もからんでいるのが、バッハのすごいところ)。

 この部分について、ピアニストのイリーナ・メジューエワが、自著でうまく解説している。
「第29変奏を流れ的にうまく弾いたとしても、その流れに乗ってしまったら、大体失敗します。ここでまた突然、厳しい世界に戻る。全体的に考えると、一番大事な曲ですね。最後の変奏曲。ガイド役、先生の役をやってきたバッハが、ようやくリラックスするところです。バッハが笑いながら、二つのテーマを使ったカノンを組み合わせている。しかも素材となったのは、すごく軽い、ある意味ばかばかしい内容の、当時のみんながよく知っていたポピュラーソングです」(イリーナ・メジューエワ『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』講談社現代新書)

 その2曲とは《ひさしぶりだね、おいでおいで》と、《キャベツとカブがおいらを追い出した。母さんが肉料理にしてくれれば、家にいたのに》である。
 これらは民謡のようなものだが、「ベルガマスカ」とも呼ばれた。「ベルガモ風の戯れ歌」だ。むかしから、イタリア北部のベルガモは「田舎くさい土地」として、からかいの対象だった。いまでいうと「ダサイタマ」みたいなものか。シェイクスピア『夏の夜の夢』第5幕第1場で、素人劇団が「ベルガモ踊り」を舞う(訳によっては「バカ踊り」とも)。要するに不器用の象徴である。有名なメンデルゾーンの劇付随音楽《夏の夜の夢》のなかの、〈道化師の踊り〉(ベルガマスク舞曲)が、その場面の音楽だ。

 で、その2曲のベルガマスカのうち、ちょっと日本の唱歌を思わせるようなシンプルな旋律が《キャベツとカブ》である。
 なぜバッハは、この旋律を使ったのか。
 バッハ一族は、年に一度集まって、パーティーを開催していた。その際に歌ったらしい。こういう席での歌を「クォドリベット」という。ラテン語で「好きなものをご自由に」といった意味だ(よって、この〈第30変奏〉は〈クォドリベット〉と称されることもある)。バッハ自身にも、乱痴気騒ぎを音楽化した《クォドリベット》BWV524なる珍曲がある。
 晩年のバッハは、一族の記録つくりに熱心だった。当時としては長命で65歳で亡くなったが、作曲時すでに56歳。この旋律は、バッハが一族の繁栄を祈願、回顧するテーマソングだったのだろうか。
 わたしは、そうではないと思う。
 バッハは、この曲で、かつて若き日に、ブクステフーデを聴くためにリューベックで過ごした実質3か月の日々を振り返っているように思えてならない。

◆ブクステフーデとの共通項
 というのも、これも有名な曲だが、ブクステフーデに《アリア〈ラ・カプリッチョーサ〉と32の変奏》なるチェンバロ曲がある。この曲のアリア(カプリッチョーサ=気まぐれ)が、ベスガマスカ、《キャベツとカブ》なのだ。
 専門家の解説では、「当時、この旋律は広く知られていた有名曲」だったので、バッハが採用したこと自体に深い意味はないようなニュアンスが多い。

 たしかに《キャベツとカブ》で曲を書いた作曲家は、ほかにもいる。
 もっとも有名なのは、フレスコバルディ(1583〜1643)のオルガン曲集《音楽の花束》(1635年)のなかの〈ベルガマスカ〉だろう。《キャベツとカブ》が、高尚な“教会音楽”となって鳴り響く。バッハ自身、若いころにフレスコバルディを研究していたから、この曲集で《キャベツとカブ》を知った可能性もある。
 ハインリヒ・ビーバー(1644~1704)の《バッターリャ(戦闘)》(1673年)にも、酔っ払いを描く曲で、この旋律が使われている。

 だが、バッハ《アリアと様々な変奏》と、ブクステフーデ《ラ・カプリッチョ―サ》には、同一旋律の使用以上に、共通点が多い。
*どちらもチェンバロ独奏用の変奏曲である。
*どちらも全「32トラック」で構成されている(当時としては異様な長さ)。
*どちらもト長調が基調となっている。

 この「共通項」を意識して製作されたCDがある。
 冒頭に掲げた、クリスティーネ・ショルンスハイム(チェンバロ)による、ドイツ「Capriccio」レーベルの新譜だ(2016年録音)。ここでは、ブクステフーデ曲とバッハ曲が、2曲ならんで収録されているのである。ショルンスハイムにとっては二度目の《ゴルトベルク変奏曲》収録だが、今回は、ブクステフーデ曲とのカプリングにしたのだ(品格と迫力が見事に同居した名演。お薦めします)。
 彼女はライナーノーツで、バッハ曲は「ほかの作曲家よりも、ブクステフーデの影響が大きい」とはっきり書いている。いくつか共通点を掲げているのだが、そのなかのひとつに、「どちらも変奏が進むごとに、難度が規則的に上がっていく」構成をあげている。
 たとえば「ブクステフーデ曲は第24パルティータで24/16拍子になり、バッハ曲は第26変奏で18/16拍子になる」。そのほか、「ブクステフーデ曲の第31パルティータと、バッハ曲の第28変奏におけるトリル風奏法の類似」「ブクステフーデ曲の第18パルティータにおけるバグパイプを思わせるオスティナートの低音と、バッハ曲の第30変奏〈クォドリベット〉における民俗性」等々・・・。

◆リューベック回想記
 バッハは、カイザーリンク伯爵から委嘱を受けた際、まず、自分の56年の人生を振り返ったような気がする。山あり谷ありの人生を、次々に展開する変奏曲に託そう、と。
 そして、20歳の頃、1705年12月(から2月ころまでの間)に、リューベックで聴いた、大先輩ブクステフーデのチェンバロ変奏曲《ラ・カプリッチョ―サ》を思い出した。そうだ、あの手法でいこう。シンプルなアリアが、次々に変容し、いつまでたっても終わらない、長いけど素晴らしい曲だった。あのころは若かった。よくまあ、10日間も歩き通せたものだ。リューベック、聖マリエン教会の隅で、こっそり、オラトリオやカンタータやオルガン曲を聴いては、メモした。時折は、町内の屋敷で、チェンバロの気さくなコンサートもあり、何回も潜り込んだ。そのとき聴いた、あの《キャベツとカブ》変奏曲の楽しかったこと!

 バッハの筆は進んだ。紙幅があるので詳述しないが、ある「規則」に従って変奏は整然と進み、ついに最終〈第30変奏〉にたどりつく。ここでバッハは、青春時代の思い出を、そのまま曲にした。ブクステフーデが変奏曲の主題にしていた《キャベツとカブ》である。ちょうどアルンシュタットで、最初の妻、マリア・バルバラと知り合ったころだ。その後、彼女は若くして急死した。死因は不明だった。
 ふたたびメジューエワの解説。
「それまではカノンは一つのテーマだったのが、ここでは二つのテーマを扱っていて、技術的、構造的にも、あるいは聴く能力も、演奏する能力も含めて難しい。結論というか、ある意味ここが頂点と言ってもいい。バッハらしいなと思うのは、一番難しいことをやるために、あえて軽い内容の歌を使うという、そのギャップです」(同上)
 歌は軽いが、青春の思い出は消えずに、バッハの胸奥に深々と刻まれていた。
 《ゴルトベルク変奏曲》こそは、1705年12月、リューベックでの日々をよみがえらせる青春回想記だったと、わたしは信じている。
〈敬称略/この項、終わり〉
※長々と失礼しました。


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2021.05.27 (Thu)

第314回 1705年12月、リューベックにて(4)

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 ▲「夕べの音楽」再現CDのひとつ(ヴォクス・ルミニス+アンサンブル・マスク)Alpha Classics
 ※ナクソス・ミュージック・ライブラリーはこちら。

 現在、「Abendmusiken」=夕べの音楽(会)といえば、教会での演奏会の代名詞だが、本来は、リューベックの聖マリエン教会での催しを指す固有名詞だった。
 前述のように、創始者は、ブクステフーデの前任者、フランツ・トゥンダー(1614~1667)である。

 リューベックでは、毎週木曜日の正午、証券取引所の開場を待つ商人たちが、聖マリエン教会で時間をつぶす習慣があった。社交場のようなものだったのだろう。
 当時のリューベックは北ドイツ最大の経済都市で、ハンザ同盟の盟主”ハンザの女王”と呼ばれていた。町は、岩塩や塩漬けニシンで大儲けした商人たちであふれていた。
 そんな彼らのために、トゥンダーはオルガンを弾いて聴かせた。これが「夕べの音楽」で、商人組合も教会に寄付する形でギャラを支払っていた。
 やがて一般市民も無料入場できる催しとなる。「コンサート」のはしりである。

 1667年11月5日、トゥンダーが逝去した。後任に多くの候補が挙げられたが、なかなか決まらず、半年近くが経過した。
 そのころブクステフーデは、デンマーク、ヘルシンゲルにある聖オライ教会のオルガニストをつとめていた(ここは、シェイクスピア『ハムレット』の舞台である。ヘルシンゲルの英語読みが「エルシノア」)。

 経過は不明だが、1668年4月11日、ブクステフーデがトゥンダーの後任に就任した。7月には正式にリューベック市民に認定され、8月3日にトゥンダーの下の娘、アンナ・マルガレーテと結婚する。この結婚が就任の条件だったかどうかは定かではないが、当時の慣習からいって、おそらく世襲を求められ、了解したものと思われる。
 ブクステフーデの仕事は、朝の礼拝、日曜祝日の午後の礼拝、その前日の夕べの祈りなどでのオルガン演奏だった。そのほか、前奏や聖餐式でも、器楽や歌手を加えた曲を演奏した。

 やがて彼は、「夕べの音楽」をスケールアップして復活させた(そのために、教会内の演奏者バルコニーを増設しなければならないほどだった)。
 開催日は、毎週木曜日ではなく、「教会暦」にちなんだ年に5回の日曜日に絞った。
 それは、「三位一体節の最後の2回の日曜日」と、「待降節の第2、3、4日曜日」である。

 三位一体節は、「聖霊降臨祭」(復活祭から50日目)の次の日曜日からはじまる期間をいう。その間の日曜日が「三位一体主日」で、年によって期間は変わるが、23回~27回の日曜日がつづく。たとえば第1主日が5月ころになるとすれば、最後の2回の日曜日は11月ころになる。
 待降節とは、クリスマス(イエス生誕)直前の時期で、教会暦における1年のはじまりにあたる。
 つまりブクステフーデが主宰した「夕べの音楽」は、毎年、秋からクリスマスにかけて、新しい暦のはじまりを待つ祝祭行事のような、たいへん華やかなものだったと思われる。

 いまでこそ、わたしたちは、コンサートで、時季に関係なく、カンタータや受難曲を当たり前のように聴いているが、本来は教会暦にあわせて、特定の祝日に演奏するために作曲されていた。だから、たとえばバッハの《マタイ受難曲》などは、バッハ存命中は、おそらく4~5回しか演奏されなかったといわれている。それを、後年、メンデルスゾーンが発掘し(14歳の時に、祖母からクリスマス・プレゼントに写譜をもらった)、「コンサート鑑賞曲」として復活させたことで、一般的な名曲として再認識されたのだった。
 もしかしたらブクステフーデは、教会における音楽の姿を、本来のあり方にもどしたのかもしれない。

 この項の第1回目で述べたように、1705年12月、バッハがリューベックを訪れたその最大の理由は、待降節の「夕べの音楽」で、ブクステフーデ作曲、レオポルド一世追悼カンタータ《悲しみの城砦》BuxWV134と、新皇帝ヨーゼフ一世即位記念カンタータ《栄誉の神殿》BuxWV135を聴くことが最大目的だった。
 この”特別コンサート”は、12月2、3日の2日間にわたって開催されたという。

 ここで気になることがある。
 バッハは「4週間の休暇」を申請して旅立った。出立は10月18日ごろだったと見られている。
 もし本気で「4週間」で帰ってくるつもりだったら、11月中旬には戻っていなければならない。
 アルンシュタット~リューベック間は、道のりにもよるが、約400キロある。ほぼ、東京~大阪間に匹敵する。ここを、バッハは、徒歩で旅したという。
 1705年といえば、日本では、赤穂浪士討ち入り(1703年)の2年後。当時、日本橋~京が、徒歩で約2週間の旅といわれた。
 バッハは大柄で健脚だったそうだが、それでも、江戸~京よりも長い距離を歩いたのだから、やはり、10~14日はかかったであろう。往復で20~28日。「4週間の休暇」(28日間)では、行って帰ってくるだけでギリギリのはずだ。「夕べの音楽」どころではない。
 つまりバッハは、最初から4週間以上、リューベックに居座るつもりだったのだ。
 おそらく、上記”特別コンサート”以外に、いろんな音楽を聴いたにちがいない。

 では、具体的に、どんな曲を聴いたのか。
 教会内の音楽なのだから、オルガン曲やカンタータ(当時、教会音楽には、この名称はなかったが)だろう。
 そこで話をもどせば、想像による「夕べの音楽」再現CDが多く出ているので、これらが頼りになる。
 たとえば、冒頭に掲げた、フランスの古楽レーベル「Alpha Classics」からリリースされている『Abendmusiken ~BUXTEHUDE:Choral and Chamber Music』。文字通り「夕べの音楽(会)」と題されている。ヴォクス・ルミニス(声楽アンサンブル)と、アンサンブル・マスク(古楽器アンサンブル)の演奏で、古楽器によるソナタと、カンタータが交互に、計8曲収録されている。もちろんすべてブクステフーデ作曲で、最後は、名曲《イエスよ、わが命の命》BuxWV62で締め括られている。

 ほかにも同じ「夕べの音楽」と題する”再現CD”はいくつも出ていて、おおむね、声楽曲が中心だ。間にオルガン曲が入っているものもある。
 もちろん、これらは、正確な記録が残っているわけではないので、どれも”おそらく、ブクステフーデのこんな曲が演奏されたであろう”との想像で選曲されているのだ。

 ところが、前回の最後に綴ったように、ニュー・グローヴ音楽大事典によれば「こうした演奏会で、ブクステフーデの現存作品のいずれかが用いられた可能性はあるが、その確証のある作品は一曲もない」とはっきり書かれている。
 筆者のKerala Johnson Snyderは、イーストマン音楽院の教授で、古楽やオルガンの権威。特にブクステフーデについては本格的な研究評伝を上梓しており、ブクステフーデについて、世界でもっとも詳しい研究家である。
 そんな専門家がいうのだから、間違いはないだろうが、いったい「夕べの音楽」では、なにが演奏されていたのか――実は、「オラトリオ」が多かったらしいのだ。

 しかし、彼女の解説によると、オラトリオ《仔羊の結婚》BuxWV128は演奏されたようだが、台本しか残っていない。新聞広告で予告された「夕べの音楽」用のカンタータやオラトリオも何曲かあるようだが、これらも、なにも残っていない。前述のように、バッハがリューベック訪問の目的とした2つのカンタータも、台本しか残っていない。
 よって、多くの”再現CD”の収録曲は、教会の礼拝などで演奏された可能性はあるが、「夕べの音楽」で演奏されたかどうかは、まったく不明なのだ。
 教会のバルコニーを増設して演奏されたオラトリオともなれば、スケールの大きな音楽だったろう。
 だが、巷間の”再現CD”は、すべて、小ぢんまりとした声楽曲ばかりである。
 野暮なことをいうようだが、どうも、”再現CD”は、「夕べの音楽」の実態とは、かけ離れた内容のような気がしてくる。

 では、あらためて――バッハは、リューベックに正味3か月いた間、なにを聴いたのだろう。「夕べの音楽」はクリスマス直前で終了している。そのあと、ブクステフーデのどんな曲を聴いたのだろう。
 ここから先はわたしの推測だが、バッハの名曲《ゴルトベルク変奏曲》のルーツが、このときのリューベックにあったと信じている。
 次回、素人の戯言で、この旅を終わりにしたい。
〈敬称略/次回、最終回〉

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