2022.12.02 (Fri)
第369回 ユーミンの50年

▲大ヒットとなったCD『ユーミン万歳! 松任谷由実50周年記念ベストアルバム』
ユーミン(松任谷由実)が、デビュー50周年を迎えた。連日、メディアではたいへんな露出である。記念のベストCDは、一時品切れになるほどの売れ行きで、多くのチャートで1位を獲得した。文化功労者にも選出された。
新宿駅東口、GUCCI裏手の雑居ビル3階に、とんかつ屋「卯作」はある。
あたしは、店主と中学時代の同級生だったので、開店時から通っている。老舗とまではいえないが、開店して30年になるので、そろそろ長寿店といってもいい。
こういう食べ物は好みがあるので、うまいかどうかはひとそれぞれだが、30年もつづいているのだから、すくなくとも、多くのひとたちに愛されていることは、まちがいない。
店内は殺風景だが、なぜか有線放送で、ユーミンが流れている。USEN「A44」チャンネルである。開店から閉店まで、ユーミンの楽曲だけを流している。いつからこうなったのか、覚えていないが、とにかく「卯作」へ行くと、常にユーミンが流れているのである。
現在、USENにおける、日本人個人アーティストのチャンネルは、石原裕次郎、美空ひばり、サザンオールスターズ、EXILE TRIBE、そしてユーミンの5人(組)だけである。
ちなみに、海外は、ビートルズ、エリック・クラプトン、エルヴィス・プレスリー、カーペンターズ、ローリング・ストーンズ、マイケル・ジャクソンの6人(組)。
ほかに「個人」チャンネルが10局ある。バッハからラヴェルまで、クラシックの作曲家たちだ。
こんなにチャンネルがあるのに、なぜか「卯作」は、ユーミンなのである。
食事は、ヒレからロース、海老フライなど多々あるが、音楽はユーミンしか選べないのだ。美空ひばり《人生一路》を聴きながら日本酒「真澄」と角煮(中華テイストの独特な風味)を味わうとか、バッハ《マタイ受難曲》をバックに上ロースにむしゃぶりつくとか、そういうことは、「卯作」では、できないのだ。
ここでは、《真夏の夜の夢》にあわせて生ビールを流し込んだり、《青春のリグレット》を聴きながら熱燗(大関を、人肌に湯灌)とカキフライを楽しむとか、《最後の春休み》を口ずさみながら生姜焼きの甘辛いたれを愛でるとか、とにかくそういう過ごし方をするしかないのである。
だが、それが、なかなか味わい深いひとときを生むのである。
そもそも、いったい、なぜ、とんかつ屋が、ユーミンを流しているのだろうか。
店主によると「お客様の多くが、ユーミン世代だから」とのことだった。

ユーミンと「食」といえば、《CHINESE SOUP》、あるいは「山手のドルフィンのソーダ水」が出てくる《海を見ていた午後》などが浮かぶ。
あるいは、1974年リリース、彼女のセカンド・アルバム『ミスリム』(写真左)や、シングル《12月の雨》のジャケット(写真中)に写っているピアノを見て、詳しい方だったら、飯倉のイタリアン・レストラン「キャンティ」を思い出すかもしれない。
あのピアノは、「キャンティ」のオーナーだった、川添浩史・梶子夫妻宅のものであることは有名だ。ユーミンは、芸能人のたまり場だったこの店に、中学生時代から出入りし、ザ・フィンガーズの追っかけをしていた(慶應高校の、政財界の二世たちによって結成されたバンド)。
そして、この店の常連客との交友がきっかけで、1972年、多摩美術大学1年生のときに、かまやつひろしプロデュース《返事はいらない/空と海の輝きに向けて》(写真右)でデビューするのである(ただし、作曲家としては、すでに17歳のときに、加橋かつみ《愛は突然に…》でデビューしていた)。
いまはもう紛失してしまったが、あたしは、このデビュー・シングルをもっていた(B面のレーベルが《海と空の輝きに向けて》と誤植印刷されていることで知られていた)。
デビュー後しばらくして、TBSラジオの深夜番組「パック・イン・ミュージック」で、故・林美雄が、さかんにユーミンを紹介しており、興味を覚え、かなりあとになって買ったものだ。
そのときの印象は「ロボットみたいな声の女の子だなあ」といったものだった。ノン・ヴィブラートで、情緒とか感情とかを排し、それこそ金管楽器がシンプルにメロディだけを奏でるように歌う、いままでにないタイプの歌手だと思った。
曲も、失恋の曲なのだが、「別れたあなたに手紙をおくるけど、もう、この町にはいないから、返事なんかもらっても届かない、だから返事はいらない」(要旨)と強気に突き放す内容で、これまた新鮮だった。
このなかに、「むかし、あなたから借りた本のなかの、いちばん好きな言葉を、手紙の終わりに書いておいた」(要旨)との歌詞があった。「いったい、何の本なのだろう」と、中学校時代、おなじ吹奏楽部で、やはりユーミンが好きだったある友人に聞いたら、「〈殺してちょうだい〉じゃね~の」と、笑いながら答えたのを、いまでも、覚えている。
これは、当時、クラスで大流行していた、星新一『ボッコちゃん』のなかの決めセリフなのだが、なるほど、そんなセリフが別れの手紙に書いてあったら、相手は不気味な思いに襲われるだろうなあと、彼の慧眼に感心した記憶がある。
その友人とは、現在、講談社の取締役で、いまや日本のデジタル出版事業を牽引している、吉羽治氏である。
そして、おなじく同級で、いま、とんかつ屋「卯作」でユーミンを流しているのが、清水卯一郎氏である。
みんな、ユーミンが大好きだった。
あれからもう50年がたったのだ。

▲「卯作」ですが、肝心のとんかつ料理を撮り忘れました。
◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
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2022.06.08 (Wed)
第358回 ウクライナと「左手」(2)

▲ウクライナ出身の作曲家、セルゲイ・ボルトキエヴィチ(1877-1952)
出典:Wikimedia Commons
※更新が遅れて、申し訳ありませんでした。前項よりのつづきです。
ボルトキエヴィチとは、どんな作曲家なのか。
以下、『国境を超えたウクライナ人』(オリガ・ホメンコ著、群像社)での記述を中心に紹介する。
一般に、このひとは「セルゲイ・ボルトキエヴィチ」と綴られる。だがこれは、ドイツ時代のスペルにもとづくらしい。ウクライナ人としては「セリヒーイ・ボルトケーヴィチ」が正確だという。
彼は、帝政ロシアの末期に近い1877年、ウクライナ北東部のハリコフで生まれた(最近は「ハルキウ」と記すようだが)。ここは、ロシア国境にも近く、ウクライナで2番目の大都市だけあって、今回の侵攻でも壮絶な戦闘が繰り広げられた。
実家は裕福で、子どものころから音楽が好きだった。長じてからはサンクト・ペテルブルクで法律と音楽の両方を学ぶ。
ここからの彼の人生は、まことに波乱万丈で、よくまあ、著者ホメンコ氏も、この紙幅でおさめたものだと感心する。
とりあえず、その足跡をダイジェストでたどると……
サンクト・ペテルブルクの大学時代に徴兵。だが、身体が弱くて除隊。
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ライプツィヒ音楽大学に留学、ベルリンで作曲活動、結婚。
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第1次世界大戦の勃発でハリコフにもどるが、ロシア革命でクリミアに疎開。難民となってトルコのコンスタンティノープルを経てオーストリアへ。
(この間、周囲の援助で、なんとか音楽活動はつづけてきた)
1923年、ボルトキエヴィチは、ウイーンで、あるピアニストと知り合う。この出会いが、彼の代表作のひとつを生むことになるのだが、それは後段に譲り、とりあえず先へ。
パリやベルリンでも活動するようになる。だが、ナチス政権の誕生により、旧ロシア帝国出身ゆえブルジョワ扱いされ、仕事を干される。
↓
ウイーンへもどるが、まともな収入はなし。そこで、チャイコフスキーとフォン・メック夫人の往復書簡集のドイツ語訳を出版、話題になる。
↓
ようやく自作演奏の機会も増えるが、1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合。楽譜出版社も空爆で焼失、収入の道を絶たれる
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友人の援助でなんとか食いつなぎ、傑作のひとつ《ピアノ・ソナタ第2番》を書き、故郷ウクライナへの思いを込める。
↓
終戦間際、「母国」ソ連によるウイーン空爆にあうが、命からがら逃れる。
↓
戦後、オーストリア国籍を取得、ウイーンで音楽大学教授に。
↓
1952年、没。だが遺骸はウクライナへ戻れず、ウイーン中央墓地に葬られる。
結局、ボルトキエヴィチは、ロシア革命と2つの世界大戦に翻弄されながら、故郷ウクライナへもどることができず、異国に骨を埋めたのだった。
そんな作曲家だが、故国ウクライナでも、近年まであまり知られていなかったらしい。
著者ホメンコ氏が綴るには、彼の交響曲第1番《わが故郷より》がウクライナで初めて演奏されたのは、2001年のことだという。
〈この曲を聴くとウクライナの民謡、コサックダンスなどボルトケーヴィチが受けた影響の全てがわかる。(略)2020年にはアメリカ在住のウクライナのピアニスト、パウェル・ギントフがボルトケーヴィチの作品でCDを出し、アメリカ中で公演もしている。ギントフによると「ボルトケーヴィチ自身が優れたピアニストだったので、ピアニストが気持ちよく弾けるような音楽を作っている。(略)ドラマティックな作品は抒情的ですらある」〉
彼の音楽は、チャイコフスキーやラフマニノフに漂う土俗的曲想に、ショパンのような洒落たヨーロッパ・テイストが加わっている。深淵さには欠ける部分もあるが、美しい曲が多く、ウクライナを思わせるムードが顔を出すこともある。ワーグナーそのもののような響きが登場する曲もある。
いま、ボルトキエヴィチは、決して”知られざる作曲家”ではない。NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)で、彼の作品も含むCDを検索すると、30数点がヒットする(ただし、NMLには珍しく、ピアノ曲ばかりで、肝心のオーケストラ曲はない)。そのなかには、上述、ギントフによる単独作品集のほか、フィンランドのピアニスト、ヨウニ・ソメロによる全9枚シリーズの、ボルトキエヴィチ・ピアノ作品集もある(おそらくピアノ曲全集では)。
ホメンコ氏は、こう結んでいる。
〈ボルトケーヴィチは暗い時代を生きたにもかかわらず、希望にあふれた明るい作品を作った。(略)故郷を失って亡命せざるを得なかった激動の人生を考えると、なんと明るい前向きの音楽かと思う。(略)彼の作品を聞くことは心の支えになるし、自分も希望を失ってはいけないと思うようになる。それは彼の生きた二十世紀から私たちへのメッセージのような気がする〉
いうまでもないが、この文章が書かれたのは、ロシアによるウクライナ侵攻よりずっと以前である。
実は、彼の音楽のなかで、特に”希望を失ってはいけない”と強く訴えかけてくる曲が、ある。《ピアノ協奏曲第2番》作品28や、《ピアノと管弦楽のためのロシア狂詩曲》作品45などである。
これらは、前述、1923年にウイーンで知り合った、あるピアニストのために書かれた。
その名を、パウル・ヴィトゲンシュタインという。
右手を失った、”片腕(左手)のピアニスト”だった。
〈この項、つづく〉
□『国境を超えたウクライナ人』(オリガ・ホメンコ著、群像社)は、こちら。
□交響曲第1番《わが故郷より》 は、こちら(ウクライナ・チェルニーヒフ・アカデミー交響楽団、指揮:Mykola Sukach/YOUTUBE、約40分)。
□ホメンコ氏が紹介している「ボルトキエヴィチ:ピアノ作品集」CD(パヴェル・ギントフ:ピアノ)CDは、こちら(NML)。
【お知らせ】
ニッポン放送のPodcast番組「東京佼成ウインドオーケストラ presents It’s A Wonderful Wind」の第1回に、ゲスト出演しました。スマホでもPCでもすぐに聴けます(約20分)。
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2022.03.24 (Thu)
第352回 第二の「バビ・ヤール」

▲(左)交響曲第13番《バビ・ヤール》、初演指揮者コンドラシン。
(右)映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』 ※ともに文末にリンクあり。
ショスタコーヴィチの交響曲第13番には、副題として《バビ・ヤール》と付されている。
これは、ウクライナ、キエフ近郊にある渓谷の名前で、1941年9月29・30日の2日間にわたって、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺がおこなわれた地である。
この年、ソ連・ウクライナに侵攻したナチス・ドイツは45日間にわたってキエフを包囲。だが徹底抗戦もむなしく、キエフは占領される。
ナチスはキエフの全ユダヤ人に出頭を命じ、バビ・ヤール渓谷に移送した。てっきり、そこから収容所に移されるものと思いきや、その場で次々と射殺。渓谷は遺体の山で埋まった。その数、2日間で約3万4000人。一か所で同時におこなわれた民族虐殺としては、最大数の犠牲者となった。
その後も虐殺はつづき、最終的にキエフ周辺で10万人のユダヤ人が虐殺されたともいわれている。
この悲劇を連作詩集『バビ・ヤール』(1961)として描いたのが、ソ連の詩人、エフトゥシェンコ(1933~2017)である。「バビ・ヤールに墓碑銘はない」ではじまる有名な詩だ。ショスタコーヴィチは、この詩集をもとに、男声バス独唱+男声バス合唱+管弦楽で悲劇を音楽化した。
この編成から想像できるように、なんとも異様で壮絶な音楽である。
初演は1962年。すでにスターリン書記長は亡くなってフルシチョフの時代になっていたが、ソ連当局は徹底的に初演を妨害した。これは現代音楽史上、まれに見る混乱初演だった。指揮者や独唱者が直前になって何度もかわり、最終的に警官隊が包囲監視するなかで初演されたのだ(もちろん、客席からは大喝采がおくられた)。
しかし、たしかにエフトゥシェンコは反体制派詩人だったが、それにしたって、「バビ・ヤールの悲劇」を引き起こしたのは、ナチス・ドイツである。そのことを描いた音楽を、なぜ、”被害者”のはずのソ連当局が妨害しなければならなかったのか。
実は、この交響曲(詩)は、単にナチスの蛮行を非難しているのではなく、人間の誰にも反ユダヤ的な感情があることの恐ろしさや、無知を描いていたのだ。
それどころか、帝政ロシア時代、自国にも反ユダヤ人組織があった事実を盛り込んでいた。いわば、自分たちソ連(ロシア)人にも、ナチス・ドイツとおなじような精神が流れていることを描いていたのである。
現に、スターリン書記長は、ナチス・ドイツほど露骨ではなかったものの、明らかに反ユダヤ主義だった。映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(2019)で描かれたように、スターリンは、1930年代に、ユダヤ人が多いウクライナから食糧を徹底的に搾取し、壮絶な飢餓をもたらしている。この映画を観ると、ソ連当局=スターリンは、ウクライナを、まるで奴隷か属国のようにしか思っていなかったことがわかる。
もし1953年にスターリンが死去せず、政権がつづいていたら、ユダヤ民族の東方強制移住が実施されていたとの説さえある。
つづくフルシチョフも大同小異で、たしかにスターリン批判や、雪どけをもたらしたりはした。だが、たとえば、『ドクトル・ジバゴ』で知られるユダヤ系作家・詩人のパステルナークが迫害され、当局がノーベル文学賞の受賞を妨害したのは、まさしくフルシチョフ時代のことである。
よって、この曲の初演は、フルシチョフ政権にとっては、自らの行為を暴かれているような気がしたにちがいない。
いま、おなじウクライナ、キエフの地で、またも悲劇が繰り返されようとしている。
これが、ユダヤ人迫害であるとは、表立っては、いわれていない。
だが、ショスタコーヴィチの交響曲第13番《バビ・ヤール》を聴き、エフトゥシェンコの詩を知ると、ほんとうにそうなのか、疑問を抱くのは、わたしだけではないはずだ。
〈敬称略〉
□初演指揮者、キリル・コンドラシンによる交響曲第13番《バビ・ヤール》・・・ナクソス・ミュージック・ライブラリー(非会員は冒頭30秒のみ聴取できます)。
□映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』公式サイトは、こちら。
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2022.03.14 (Mon)
第350回 YAMAHA育ち(中)

▲エロイーズ・ベッラ・コーン(ピアノ)、バッハ『フーガの技法』
(エスケシュ補筆完全版) ※リンクは文末に。
最近、気になっているピアニストに、フランスのエロイーズ・ベッラ・コーン(1991~)がいる。
彼女が昨秋、Hanssler Classicからリリースした、バッハ《フーガの技法》(エスケシュ補筆完全版)は、たいへん興味深いディスクだ。フランスの”鬼才オルガニスト”で作曲家のチエリ・エスケシュ(1965~)が補筆完成させた《フーガの技法》を、ピアノで演奏したアルバムなのだ(そもそも原曲は未完のうえ、スコアに楽器指定がない”謎の音楽”である)。
本題とは関係ないので、いま、このアルバムの内容には踏み込まないが、こういう面白いプロジェクトに挑むとは、どういうピアニストなのだろうと気になった。
さっそく彼女のウェブサイトでプロフィールを見ると、「パリに生まれ、4歳からヤマハ音楽教室で音楽を学び……」とある。
その後は、名門、CNSMDP(パリ国立高等音楽・舞踊学校)を卒業したようなので、上原彩子のように、ヤマハ一筋ではないようだ。
しかし、芸術の都パリにもヤマハ音楽教室があり、《フーガの技法》補筆完全版に挑むフランス人ピアニストを生んでいるとは、不勉強とはいえ、ちょっと意外だった(検索すると、教室はパリ以外にもいくつかあるようだ)。
そういえば、前回紹介した上原彩子の著書『指先から、世界とつながる』に、チャイコフスキー・コンクールで優勝する前、20歳のときから、パリで一人暮らしをはじめるエピソードがある。一種の”武者修行”である。
だが、なにぶん初めての海外一人暮らしとあって、苦労が絶えない(フランス語もカタコトのうえ、それまで料理も買い物も、一人でしたことがなかった)。
ところが、
「パリのヤマハ支店の方が家族ぐるみで私を助けて下さり、ピアノのある部屋を探して下さったり、電話や銀行の契約を手伝って下さったり、レンガの床に防音と防寒を兼ねた分厚いシートを敷いて下さったり、はじめの一年間は本当にお世話になりました」
とある。
もちろん本書はヤマハの刊行だし、彼女自身、ヤマハ音楽教室のスターなのだから、こういう記述が出てくるのは当然かもしれない。
しかし、もし彼女が通常の音楽大学生としてパリに住んだら、大学は、ここまでしてくれるものだろうか。せいぜい、指導教授が個人的な伝手で、誰か相談役を紹介してくれるくらいでは、なかろうか。
ここを読んだとき、ジュゼッペ・ヴェルディを思い出した。
わたしは、若いころ、取材でイタリア国内の彼の足跡を、ゆりかごから墓場まで、ほとんどまわったことがある。生まれはイタリア北部に近いレ・ロンコレ村。実家は小さな旅籠屋兼よろず屋だった(生まれた藁小屋がそのまま残っていた)。幼少期より音楽に興味を示すが、なにぶん、専門教育を受けるようなカネはない。
すると、町の大手商人バレッツィがスポンサーを買って出てくれ、ヴェルディ少年はその家に住み込みながら、町の学校へ通わせてもらい、やがてミラノ留学を目指すのだ。
その後、この、ヴェルディとバレッツィの関係は、義理と人情がからみ合う、一種の感動物語に発展するのだが、紙幅がない。要するに、上原彩子にとって、パリのヤマハは、現代のバレッツィ……とまではいわないが、ちょっと、それに近いものを感じたのだ。
エロイーズのCD《フーガの技法》ライナー解説を見ると、使用楽器に「Yamaha CFX」とある。ヤマハが戦後初のコンサート・グランド・ピアノとして開発したCFシリーズの最高級クラスだ(最新版で2,000万円以上する)。おそらくいまに至っても、彼女は、ヤマハとの関係を保ちながら、音楽活動をつづけているのだろう。
どうもヤマハ音楽教室は、単に「音楽好きの子どもを育てる」のではなく、企業としてひとりのアーティストを育てる、なにか壮大なシステムを世界中で構築しているようなイメージを抱いた。
幼少期にヤマハ音楽教室で音楽に親しみ、その後、プロの音楽家になったひとは多い。
いまざっと思いつくだけでも、反田恭平(ピアニスト、ショパンコンクール2位)、上原ひろみ(ジャズ・ピアニスト)、挾間美帆(ジャズ作曲家)、大島ミチル(作曲家)、西村由紀江(作曲家、ピアニスト)、加羽沢美濃(作曲家、ピアニスト)などがいる。
ただし、どのひとも、最終的に音楽学校を出ている。
こうしてみると、上原彩子の場合は、突出した才能と努力があり、それをヤマハ音楽教室が徹底的に引き延ばしたらしきことがうかがえる。
そして、企業としてのヤマハとアーティストの関係を考えるとき、忘れてはならないビッグ・ネームがいる。
〈敬称略/この項つづく〉
□エロイーズ・ベッラ・コーン『バッハ:フーガの技法』エスケシュ補筆完全版(Hanssler Classic)は、こちら(一部試聴あり)。
□上原彩子『指先から、世界とつながる~ピアノと私、これまでの歩み』は、こちら(試し読みあり)。
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2021.10.05 (Tue)
第334回 《汽車は8時に出る》

▲(左)ミキス・テオドラキス唯一の邦訳著書(1975年、河出書房新社刊)
(中)CD『わが故郷の歌~バルツァ、ギリシャを歌う』(アグネス・バルツァ)
(右)CD『平成和讃 こころの雫』(森進一)
ギリシャの作曲家、ミキス・テオドラキス(1925~2021)が9月2日に亡くなった(享年96)。
日本では新聞訃報欄の隅に小さく出ただけだが、ヨーロッパでは大ニュースで、ギリシャのカテリナ・サケラロプル大統領や文化大臣は「私たちはギリシャの魂の一部を失った」との追悼声明を発表、3日間の服喪(半旗)となった。
彼のすごさは、極東にいるわれわれには、理解しにくい。
ひとことでいってしまえば、ミキスは「闘う作曲家」である。第二次世界大戦時、レジスタンスに参加し、ファシズムと闘った。戦後、ギリシャ内戦や軍事独裁政権時代も、徹底的に対抗した。何度逮捕されても転向せず、パリに逃れて民主化運動を支えながら、音楽活動をつづけた。社会主義政権となってからは、国会議員や文化大臣もつとめた。
自分を枉げず道を貫くひとに、太古より激動に翻弄されてきたヨーロッパのひとびとは、心から敬意を表する。
そんなひとだから、ややこしい音楽を書いたのかというと、そうではない。
有名なのは映画音楽で、『その男ゾルバ』『Z』『戒厳令』『セルピコ』『魚が出てきた日』などの社会派ドラマ、『エレクトラ』『トロイアの女』『イフゲニア』などのギリシャ悲劇映画などに名スコアを提供している。
そのほか、7つの交響曲や、管弦楽曲、歌劇《メデア》《エレクトラ》《アンティゴネー》、バレエやカンタータ、歌曲……現代音楽の作曲家で、これほど、一般人に聴かれる音楽を、幅広いジャンルで書いたひとは、いない。
ニュースでは、映画『その男ゾルバ』の作曲者であることばかりが報じられていた。
だが、ミキスの真骨頂は、「うた」にあると思う。
ギリシャは「詩の国」である(ミキス自身もたくさんの“抵抗詩”を書いて、自らうたっている)。
なかでも、チリのノーベル文学賞作家、パブロ・ネルーダの名作詩集にもとづくオラトリオ《大いなる詩》、1992年バルセロナ五輪開会式のためのカンタータ《カント・オリンピコ》などは、聴くたびに背筋が伸びる。
ギリシャ音楽の特徴でもある「リフレイン」(繰り返し)で反骨や歓喜をうたうとき、ミキスの筆は冴える。現代音楽の“武器”「ミニマル・ミュージック」(パターン音型の反復)は、ギリシャ音楽が原典のような気にさえなる。
それら大合唱を擁する大作もいいが、素朴な「歌曲」も魅力的だ。
なにしろ大量の曲を書いているので、わたしも全部を聴いているわけではないのだが、活動家詩人、マリナ(本名:レナ・ハジダキス/1943~2003)の長編詩3部作による《戒厳令》(獄中で書かれたため、原題は《アベロフ女性監房》)や、ディミトラ・マンダの詩に曲をつけ、アンジェリク・イオナトスが歌った、まるで日本の唱歌のように美しい歌曲集などを、わたしは愛聴してきた(イオナトスも、本年7月7日に67歳で亡くなったばかりだ)。
そして――おそらく日本で、もっとも愛されたミキスの歌曲は、《汽車は8時に出る》だろう。
ミキス自身によれば、
〈独裁樹立のほんの少しまえから、私は若い詩人マノス・エレフテリウと協同作業をはじめていた。その最初の収穫は六つの民衆歌謡だった。私はここブラカティで、それに他の六つの歌をつけ加えて、連作歌集を完成することになった〉(ミキス・テオドラキス『抵抗の日記』西村徹・杉村昌昭訳、河出書房新社/原著1971年、邦訳1975年刊)
それが《十二の民衆歌謡》で、なかの1曲が、この《汽車》である(後年、《汽車は8時に発つ/出る》と題されるようになった)。
《汽車》
汽車は八時に出発だ
目的地はカテリーニ
十一月になったら
おまえはいつも思い出すだろう
――八時出発
守備隊行きの汽車
(略)
時は霧の中に過ぎてゆき、
胸は悲しみの刃に切り裂かれ
おまえはカテリーニで歩哨に立つ。
(前掲書より)
第二次世界大戦中、ギリシャ北部はナチス・ドイツに占領されていた。そのため、北部にはパルチザンが育ち、戦後も共産党の支援を受けた人民解放軍が根強く居座っていた。
ところが、戦後、米英を後ろ盾とする中道右派政権が南部に成立したため、ギリシャは朝鮮やベトナムのような“南北対立”の内戦状態となった(この時代を素材のひとつにした映画が、テオ・アンゲロプロス監督による、1975年の名作『旅芸人の記録』)。
カテリーニは、その中間で左派と右派がにらみ合う、まさに“バルカンの38度線”ともいえる町だ。
この詩の男は兵士で、おそらく南部アテネから8時の汽車で発ち、カテリーニで監視任務に就くのだろう。戦争は終わっても真の平和が訪れない失望感と内戦の虚しさをうたっている。
1986年、ギリシャ出身のオペラ歌手、アグネス・バルツァが、アルバム『わが故郷の歌~バルツァ、ギリシャを歌う』をリリースした。このなかに、《汽車は8時に発つ》が収録され、ひときわ強い印象を残した(日本盤ライナーノーツの三浦淳史訳では、「もうあなたは夜こっそり来ることもないのね。汽車は8時に発つ」と、女性の一人称による別れの歌として訳されている)。
これを聴いて感動した作家の五木寛之が自ら日本語詞をつけ、《汽車は8時に出る》と改題して、ファド歌手の月田秀子(1951~2017)が歌った。詞は、「髪を短く切り」「黒い服を着るわ こころ閉ざして」「二度と還らぬひと 汽車は八時に出る」と、なにやら“死”にまつわるような男女の別れの歌となっていた。どこか、ちあきなおみの《喝采》や《冬隣》を思わせた。
月田は、このギリシャの“抵抗歌謡”を、ファド(ポルトガルの民族歌謡)にかえて見事に歌い上げ、人気レパートリーとなった。
だが月田は、2017年、66歳で病死する。
その間、この五木寛之版を、もう一人の大歌手が歌っていた。
森進一である。
森は、2000年前後に、芸能生活35周年記念のアルバムを何点かリリースしているが、そのうちの1枚が、五木寛之プロデュース(全作詞)の『こころの雫 平成和讃(へいせいのうた)』(ビクター)である。
この1曲目に収録されたのが、《汽車は八時に出る》だ。
これには驚かされた。まさか森進一がミキス・テオドラキスを歌うとは夢にも思わなかった(ほかはすべて日本人による曲)。月田の“ファド版”も素晴らしかったが、森進一による“演歌版”は、まるで最初から彼のためにつくられたかのような迫力だった。なぜこれをシングルとして仕掛けなかったのか、残念にさえ思った。
よく「演歌」を「怨歌」などと称するが、森のうたうミキスは、十分に「怨」を感じさせた。
おそらくこれからも、ミキスは《その男ゾルバ》の作曲者としてもっとも知られ、名を残すだろう。しかし、日本を代表する演歌歌手が歌うような、それほど幅の広い才能を持つひとだったことも、ぜひ忘れないでほしい。
その背後に、ギリシャの複雑な政治背景があったことも。
〈敬称略〉
□映画『その男ゾルバ』~有名なラスト・シーンは、こちら。
□月田秀子のうたう《汽車は8時に出る》は、こちら。
□森進一のうたう《汽車は8時に出る》は、こちら(映像では「発つ」。アルバムでは「出る」)。
□以下はナクソス・ミュージック・ライブラリーから。非会員は冒頭30秒のみ試聴可。
オラトリオ《大いなる詩》
アンジェリク・イオナトスがうたう歌曲集
歌曲《戒厳令》
カンタータ《カント・オリンピコ》
アグネス・バルツァがうたう《汽車は8時に発つ》
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