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2023.07.12 (Wed)

第413回 【追悼】偉大なる「オーソドックス」、ヤンドー・イェネ逝去


ヤンドー顔
▲珍しくジャケットに顔出しした、ヤンドー・イェネ(ブラームスのピアノ協奏曲第2番ほか)

史上もっとも多くのCDを売ったクラシック・アーティストはカラヤンだと、よくいわれる。
だが、もしかしたらこのひとのほうが上かもしれない。
ヤンドー・イェネ
この7月4日、71歳で亡くなった、ハンガリーのピアニストである。
【注】ハンガリーは日本同様「姓・名」の順で表記するので、英米風だと「イェネ・ヤンドー」となる。

といっても、「あまり聞いたことないな」と思われる方も多いだろう。その一方、訃報を知って残念に感じる方も多いと思う。あたしは後者だった。

ヤンドーは、ナクソス・レーベルへの録音で知られていた。しかも、その量と範囲が尋常ではなかった。ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンについては、ピアノ・ソナタを中心に、一般に知られるほぼすべてのピアノ曲をレコーディングしている。そのほか、母国ハンガリーのリストとバルトークについても、「ピアノ曲全集」を残している。バッハやシューマン、ブラームスもある。ピアノ曲史上、最難曲とも呼ばれる、バラキレフの《イスラメイ》まで録音している!

いったい、ナクソスだけでどれだけの枚数をリリースしたのか、数えることも容易ではない。これほど広範囲にレコーディングしたピアニストは、そうはいないだろう。
ナクソスは、いまや世界シェアNo.1のクラシック・レーベルなので、おそらくヤンドーこそが、CD最大セールス・アーティストの可能性がある。

   *****

20数年前のことだが、来日したナクソスのクラウス・ハイマン会長にインタビューしたことがある。その際、初期ナクソスの主要ピアノ曲が、ほとんどヤンドーの演奏であることについて聞いた。いまとなってはおぼろげだが、ハイマン会長は、おおむねこんな説明をしてくれた記憶がある。

「私たちが1987年にナクソスをスタートさせたとき、重要なリリースとして、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を考えていました。しかし、全曲を短期間にレコーディングできるピアニストは、そういません。そうしたところ、あるハンガリーの会社が、ヤンドー氏を推薦してきたのです。デモ・テープを聴いたところ、たいへん素晴らしいうえ、全曲を連続して演奏・録音することができるというので、さっそく起用したのです」

月光
▲ベートーヴェン《悲愴》《月光》《熱情》

たしかベートーヴェンの《悲愴》《月光》《熱情》をおさめた1枚が第一弾だったと思う(1987年録音)。品番も「8.550045」とかなり若いので、ナクソス最初期のリリースだったのではないだろうか。

ところが、ヤンドーは、ベートーヴェンどころではなかった。バッハでもモーツァルトでも、とにかく、ピアノ曲というピアノ曲は、なんでも演奏できてしまうのである。

「彼は世界中のコンクールで受賞しているピアニストですが、ハンガリーの著名な音楽大学の優秀な教授でもあります。そのため、ほとんどのレパートリーが身体に入っています。演奏は常に正確で美しく、多くのひとに聴かれるにふさわしいピアニストです。彼の演奏を世界中にリリースできることは、私たちの誇りです」(ハイマン会長)

その演奏は「オーソドックス」に尽きる。決して感情が先走ることはない。「独自の表現」や「個性的な解釈」もない。楽譜に忠実な、いわゆる「まじめな演奏」だ。

演奏家である以上、新しい曲に挑戦することは当たり前だ。その際、ふつうは徹底的に曲を集中して勉強し、身体に沁み込ませて「自分のもの」にする。すると、自然に独特な解釈が生まれる。それが演奏家の個性となり、我々リスナーは、その個性に期待して対価をはらう。

……と考える方は、かなりのクラシック・マニアである。世の中には、そこまでは求めないひとの方が多いのではないだろうか。グレン・グールドは素晴らしいピアニストだが、「クセが強すぎて苦手」「弾きながら歌うのはやめてほしい」と感じるひともいるはずだ。ただ、それを口に出すと、マニアに嗤われるような気がするので黙っているのではないか。

ナクソスは「クラシックの百科事典」を目指している。より多くのひとに、より多くの作曲家・楽曲を安価で伝えるレーベルだ(だからラインナップは、有名レパートリーと秘曲が同列に並ぶ)。そのためには、多くのひとに受け入れられる演奏でなければならない。

ヤンドーは、まさにそういうピアニストだった。ヤンドーから、難聴と闘うベートーヴェンの苦悩を読み取ることはできない。物足りないと言うひとも多い。しかし、ていねいな演奏なので、「音符」はわかる。すると、ベートーヴェンは「音符」にすべてを託していたことが感じられる。ヤンドーは「私はとにかく楽譜どおり正確に再現するので、あとは皆さんで読み取ってください」と言っているのだ。だから、おなじ曲を、まずヤンドーで聴いてから、ほかのピアニストで聴くと、どこに個性があるのか瞬時でわかった。

   *****

キチンと整理していないのだが、たぶん、あたしの自室のCDの山をひっくり返すと、ナクソスのヤンドーが20枚前後、出てくると思う。

十字架
▲ハイドン《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》

中でも忘れられないのは、ハイドンの《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》だ(2013年録音)。本来が管弦楽曲だが、ハイドン自ら編曲した弦楽四重奏版が出版される際、出版社が編纂した鍵盤用スコアがあった。ハイドンが見たら、なかなかキチンとした出来だったので、公認して同時に出版されたという、珍しいヴァージョンである。通常は「ハイドン監修によるクラヴィーア版」などと称される。

このリリースが、ナクソス側のリクエストだったのか、ヤンドー自身の希望だったのかは不明だが、これまた落ち着いた、とてもいい演奏だった。管弦楽オリジナル版、弦楽四重奏版、オラトリオ版(別人編纂)ともちがい、本来が素朴な「ソナタ集」であることを再認識させてくれて、愛聴盤になった。

ゴルトベルク
▲バッハ《ゴルトベルク変奏曲》

もうひとつが、バッハ《ゴルトベルク変奏曲》で、これもオーソドックスの極みのような演奏だった(2003年録音)。最後の第30変奏は、見せ場とばかりに力を入れる演奏が多いが、ヤンドーはあっさりとすませ、そっと最終アリアに入る。あれでいいのだと思う。

最後に残るのは正当なオーソドックスであり、それがいかに偉大なことか。ヤンドー・イェネは、そんなことを教えてくれるピアニストだった。

□ナクソス・ジャパンによるYOUTUBE/ヤンドー追悼チャンネル

◆以下は「ナクソス・ミュージック・ライブラリー」のサービスにつき、非会員は冒頭30秒、最大15分の利用となります。
□現在、ナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴けるヤンドーの全CDリスト(コンピ盤や再編集盤なども含む)
□ナクソス・ミュージック・ライブラリーのヤンドー追悼ベスト
□《悲愴》《月光》《熱情》はこちら
□《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》はこちら
□《ゴルトベルク変奏曲》はこちら 



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2023.07.05 (Wed)

第411回 「レコード芸術」最終号を飾った、「最後の1枚」とは

レコ芸最終号
▲「レコード芸術」7月最終号 ※即日完売につき入手不可(電子版はあり)

あたしの子供のころ、実家にいた伯父がたいへんなクラシック・マニアで、LPレコードと「レコード芸術」バックナンバーが山ほどあった。そのため、「レコ芸」は小学生のころから眺めていた(「読んでいた」のではなく、パラパラと「眺めていた」だけ)。
本格的に読むようになったのは、中学生になってからだった。

初めて自分の小遣いでレコードを買ったのは中1のときで、それは、ヨゼフ・カイルベルト指揮、バンベルク交響楽団のモーツァルト交響曲集だった(第38番《プラハ》を含む数曲)。新宿の「コタニ楽器」で買った。もちろん旧録音の再発売で、1,000円の廉価盤LPだった。
そういうレコードがあることも、伯父の「レコ芸」で知った。

   *****

社会人になると、「レコ芸」を自分のカネで買うようになった。あるとき、隣席の同僚が、あたしの机上にあった「レコ芸」をめくりながら、こう言った。
「この雑誌、なんでこんなに同じ人が何度も出てくるんだ?」
最初、なにを言っているのかわからなかったが、たしかに読みなれないひとには、不思議かもしれない。普通、週刊誌でも月刊誌でも、一人の筆者が一冊のあちこちに何度も登場することは、まずない。だが「レコ芸」は、さまざまな欄に、同一筆者が重複して登場するのだ。
同僚は「書き手の少ない、狭い世界みたいだなあ」と言った。あたしは「そんなもんだよ」などと答えて、あまり気にしなかった。

だが後年、自分自身がクラシックCD情報誌に携わることになったとき、この言葉の重さを思い知った。ほんとうに、書き手が少ないのだ。なかには「レコ芸で書いている以上、おたくでは無理」というひとがけっこういて、驚いた。
なるほど、老舗の威力とは、すごいものだと恐れ入った。

あまりに書き手が確保できないので、仕方なく、自分でも書きまくった。なるべくたくさんの筆者がいるように見せかけようと、3つほどのいいかげんなペンネームを使い分けた。
すると、後年、そのなかの一つの筆名に声がかかるようになり、いつの間にか、ライターもどきの仕事をするようになった。
だが案の定、その情報誌はうまくいかず、数年で終わってしまった。

   *****

結局「レコード芸術」は、もっとも長く買い続けた雑誌になった。本格的に読み始めた中学時代から数えると、50数年になる。
読者が独自にベスト10を選ぶ「リーダーズ・チョイス」に応募し、掲載されたこともあった。

いまはなき池袋のとんかつ名店「寿々屋」のカウンターで、「レコ芸」を読みながら熱燗をやっていたら、店主がのぞき込んで「お客さん、クラシック、お好きなんですか」と聞いてきたことがある。
「ええ。よくわかりますね」、「『レコ芸』読んでらっしゃるから」、「ご主人もクラシック、お好きなんですか?」、「僕の主食ですよ」
以後、ここのご主人とは、半ば公私を超えるお付き合いとなった。「レコ芸」のおかげだった。

その「レコ芸」が、7月号で休刊となった。即日完売だったが増刷はしないようで、すぐに中古市場で高値で取り引きされていた(電子書籍版はあり)。

休刊の理由はあたしごときにはなんともいえない。
最近は、タワーレコードのメルマガや、ナクソス・ミュージック・ライブラリー、あるいはいくつかの通販サイトから、ものすごい量の情報が届く。タワレコ店頭のリコメンド・カードも参考になる。
年齢を重ねるにつれ、レビュワーの評価(特選盤とか、推薦盤とか)も、どうでもよくなっていた。

だが、クラシック音盤の新発「全容」が一挙にわかるメディアは、もう他にない。いくら上記のような情報入手法があるとはいえ、もれている音盤もあるだろう。
その点では、少々不安をおぼえる。

   *****
キースジャレット
▲俵さんの記事と、最後の1枚(以下参照)

クラシック音盤通で知られる、政治ジャーナリスト・俵孝太郎さんは、「レコ芸」を創刊号(1952年3月号)から買いつづけてきた。
タワレコのフリーマガジン「intoxicate」vol.164の連載コラム《クラシックな人々》第160回で、俵さんはこう書いている。

「(略)筆者は創刊当時は大学の最終学年になるころ。それから92歳の今日まで、居場所を転々としながら欠かさず書店で買い続けてきた。創刊から廃刊まで買った雑誌は、他の分野でもたぶん他になかったのではないか」


そして俵さんは、こう嘆く。

「スマホだ、パソコンだ、ネットだ、というデジタル世界とはトンと縁のない老人にとって、どんなCDがいつ出るのか、輸入盤情報を含めて五里霧中なのは甚だ困る」



あたしが週刊誌記者時代、締め切りの日曜深夜にお電話を入れて、俵さんに辛口コメントをいただくことが何回もあった。するといつも、電話の向こうで、荘重なクラシック音楽が流れていたのを思い出す。

   *****

最終号でもっとも感動した記事は、ジャズ評論家・寺島靖国さんの連載コラム《クラシック・ファンのための音のいいJAZZ CD》だった。寺島さんは、吉祥寺にあったジャズ喫茶「meg」の元オーナーである。

その最終回は〈私の連載はここまで。最後に編集者に一言〉と題されていた。詳述は避けるが、担当編集者への感謝を、ユーモアたっぷりに綴った名文だ(あたしは、シニア向けエッセイ教室の講師を長年やっていたのだが、ぜひお手本テキストにしたい!)。

この連載で寺島さんが最後に紹介したCDが、キース・ジャレットの『ブダペスト・コンサート』(ECM)だった(上の写真)。2016年7月に、ハンガリー・ブダペストの国立バルトーク・ホールで開催したコンサートのライヴだ。

ジャレットは、クラシックとジャズの二刀流で、バッハやショスタコーヴィチなどもリリースしている。このCDは彼本流のアドリブ・ピアノ・ソロで、あたしも持っていた。ジャズは詳しくないのだが、「史上もっとも売れたピアノ・アルバム」といわれる『ケルン・コンサート』(ECM/1975年録音)が大好きなので、これもときどき聴いていた。

寺島さんは、連載終了にあたって、この盤の最後にアンコールで収録されている《It‘s A Lonesome Old Town》を担当編集者に薦めている。その反応が、どういうものだったかは、当のコラムをお読みいただきたい。休刊に際して、執筆者と編集者との間に、こんなやりとりがあったと知れて、なんだかうれしくなってしまった。

さっそくあたしも、そのCDを引っぱりだして、ひさしぶりに聴いた。当然ながらキース・ジャレットの演奏はピアノ・ソロなので、歌唱はない。だが、この曲はフランク・シナトラやナット・キング・コールによって歌われたスタンダード歌曲で、本来「歌詞」がある。おおむね、こんな内容だ。

「ここは寂しい田舎町。あなたがいないので、寂しくてたまらない。どれほど恋しかったか、いまとなってはよくわかる。お願いだから、もどってきて」

「レコード芸術」の最後を飾るCDは、この1枚に尽きる。残念ながら「クラシックCD」ではなかったが。


□「レコード芸術」最終号は、こちら
□キース・ジャレット『ブダペスト・コンサート』は、こちら。 
※《It‘s A Lonesome Old Town》をiTunesで購入、一部試聴できます。
□寺島靖国さんの「ジャズ喫茶メグ記念館」は、こちら


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2023.06.27 (Tue)

第409回 【CD/映画紹介】 200年間”封印”されていた「黒いモーツァルト」とは何者か?(前編)

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▲毛利文香(Vn)「サン=ジョルジュ:ヴァイオリン協奏曲集」(NAXOS) ※リンクは文末に

日本とドイツで活躍中のヴァイオリニスト、毛利文香がNAXOSからデビューCDをリリースした。「サン=ジョルジュ:ヴァイオリン協奏曲集」である。

この「サン=ジョルジュ」なる作曲家、ご存じない方も多いと思う。いったい、何者なのか。

ジョゼフ・サン=ジョルジュ(1745〜1799)は、18世紀後半のパリで活躍した作曲家、ヴァイオリニストで、別名「Le Mozart Noir」(黒いモーツァルト)。当時の音楽家としては珍しい、ムラート(欧州系白人とアフリカ系黒人との混血)だった。

その生涯は、不明な点が多いが、おおやけになっているいくつかの資料(文末参照)をもとに略歴をまとめると、以下のようになる。

ちょっと驚くべき人生である。

   *****

1745年に、カリブ海の仏領グアドルーブ島の製糖所で生まれた。ハイドンよりひとまわり歳下、モーツァルトよりひとまわり歳上である。父は農園主で裕福な政府高官。彼が、ナノンという名のアフリカ系黒人奴隷に産ませた子がジョゼフだった。

あるとき、この父親がトラブルをおこし(決闘?)、妻とともにフランス本国へ逃れた。そのさい、2歳のジョゼフと20歳のナノンも一緒だった(奴隷なので“所有物”だった)。

父親はジョゼフをことのほか可愛がり、財力にものをいわせて(かなり無理やりに)パリの貴族社会に出入りさせた。名剣士(フェンシング)のボエシエールに学ばせるとたちまち頭角をあらわし、「シュヴァリエ」(剣士)の爵位を授かる。フランスで黒人として初めて、フリーメーソンにも迎えられた。異例の大出世である。

その一方、ヴァイオリン、作曲でも名を成したが、いつ、どこで音楽教育を受けたのかは、正確にはわかっていないらしい。のちに、ゴセックのオーケストラを引き継ぐことになるので、おそらくゴセックに作曲を学んだと思われる。ヴァイオリンは、名教師ルクレールに習った可能性が高い。

ちなみにゴセックは、日本では、ヴァイオリン教室で習う瀟洒な《ゴセックのガボット》 ばかりで知られている。だが、彼は当時のパリにおける大作曲家だった。大量の交響曲、千人単位のレクイエム、超大編成の吹奏楽曲を書きまくった、一種の“スペクタクル作曲家”である。

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▲デオン(右)と剣の試合に挑む、サン=ジョルジュ (出典:WikimediaCommons)

名剣士として有名となり、女性にもモテモテのジョゼフだったが、あるとき、シュヴァリエ・デオンとの試合に負けて失望し、以後は、音楽家に専念する(デオンは名剣士の外交官だったが、いまでいうLGBTで、当時は「女性」として生きていた)。

このころから多くのヴァイオリン協奏曲や、オペラなどを続々発表、一躍、大人気作曲家となった。パリでは、モーツァルトより有名だったとの記述もある。パリ滞在中のモーツァルトが作曲したバレエ曲《レ・プティ・リアン》K.299bには、ジョゼフの作品が模倣引用されているという。

ちなみにハイドンの名曲群、パリ・セット(交響曲第82~87番…《めんどり》《王妃》《熊》など)は、オーケストラ「コンセール・ド・オランピック」のために書かれている。実はこの時期、同楽団の代表者はジョゼフだった。よって彼がハイドンと仲介したか、あるいは初演を指揮した可能性もある。

さらにジョゼフは王妃マリー・アントワネットにも気に入られ、専属音楽教師となった。おそらく師弟以上の関係になったのであろう、マリー・アントワネットは、ジョゼフを王立音楽院長に就任させようとする。

ところが、この瞬間、パリ社交界と音楽界のジョセフに対する態度が一変した。いままでは金持ちで政府高官の父の顔を立てて見逃してきた。だが、さすがに黒人奴隷の息子が王立機関のトップになるのは困る。あとに続こうとする黒人奴隷が出現しかねない。植民地経営もやりにくくなる。いっせいに反対運動がおき、ジョゼフは、事実上、失脚した。これが、ドレフュス事件より前におきた、フランス史上初の、おおやけな人種差別事件だったという。

これを機に、旧貴族体制に失望したジョゼフは音楽から離れて軍人となり、民衆派の共和主義者となる。フランス革命では、黒人部隊を結成して旧体制と戦った。

余談だが、この黒人部隊に「黒い将軍」と呼ばれる竜騎兵がいた。彼もフランス領ハイチで黒人奴隷女性との間に生まれたムラートで、その名をトマ=アレクサンデル・デュマといった。『モンテ・クリスト伯』を書いた大デュマの父、『椿姫』を書いた小デュマの祖父だ。「デュマ」姓は、奴隷だった母方の名である。

こうして民衆派として蜂起したジョゼフだったが、武功をあげることはできなかった。そればかりか、かつてマリー・アントワネットら旧体制と蜜月だったことを理由に逮捕され、死刑を宣告される。しかしロベスピエールが失脚したのを機に釈放。ふたたび音楽家としてのカムバックを目指すがうまくいかず、失意のうちに54歳の生涯を終えている。

その後、フランス革命で廃止された奴隷制をナポレオンが復活させた。そのためジョゼフは、以後、約200年にわたって、楽譜も存在自体も封印・抹殺され、ほぼ歴史上から消えた。1970年代になって、一部の録音もリリースされたが、一般にはほとんど注目されなかった。

それが本格的に再認識されたのは、1999年刊行、フランスのジャーナリスト、アラン・グェデによる評伝『Monsieur de Saint-George, le nègre des lumières』(ムッシュ・ド・サン=ジョルジュ、光の黒人)がきっかけだった(この評伝は、のちに舞台化された)。彼は研究団体を設立し、楽譜を続々発掘して無料公開した。これによって、ジョゼフ・サン=ジョルジュの再評価がはじまり、CDも出るようになった。

   *****

今回、毛利文香によるジョゼフ・サン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲集(Op.2、Op.7/ミヒャエル・ハラース指揮、チェコ室内管弦楽団パルドビツェ)を聴くと、鮮烈な清潔感と躍動感に満ちた音楽であることに、あらためて驚く。一説には、彼の作品は出来不出来の差が激しいという(上述のような人生では、それも当然か)。だが少なくとも、いままでNAXOSがリリースしてきた彼の作品集は、すべてハイ・レベルの曲ばかりなので、安心して聴ける。

NAXOSにおけるサン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲集は、これが第3集である。第1集は西崎崇子で2000年録音。第2集はチェン・ジュウで2003年録音。その後、リリースがなかったので、もう出ないのかと思っていたら、2020年録音で「協奏交響曲集」が、2021年録音で「弦楽四重奏曲集」が出て、ふたたびNAXOSはサン=ジョルジュに光をあてはじめた。そして、今回のリリースである。それも気鋭の日本人ヴァイオリニストのデビューCDだ。

ライナーノーツによると、毛利文香は、今回はじめて、この作曲家を知ったという。ところがサン=ジョルジュの曲は、自筆譜がほとんど残っておらず、荒っぽい写譜しか伝わっていないらしい。そのため、毛利自身が楽譜を校訂、補遺をおこない、カデンツァはすべて自作した。

「作品の中から自分のお気に入りのテーマやモチーフなどを探し出し、それを発展させてカデンツァを作ることは、時間のかかる大変な作業ではありましたが、この素晴らしい作曲家についてより深く考えることができる貴重な経験でした」(毛利文香のライナーノーツより)

まだ評価が定まっていない、しかも、誰もが知っているわけでもない作曲家を録音し、世に出すことの重責や緊張は、いかばかりだったろう。しかし、聴いていると、明らかにサン=ジョルジュに共鳴していることが伝わってくる、とてもいい演奏である。ぜひ、多くの方に聴いてほしい。

そしていま、「黒いモーツァルト」サン=ジョルジュの半生が、エンタメ映画となって公開(配信)されている。2022年製作のアメリカ映画『シュヴァリエ』(スティーブン・ウィリアムズ監督)である。
〈敬称略/この項、つづく〉

◇毛利文香:Vn.「サン=ジョルジュ:ヴァイオリン協奏曲集」 NAXOSの紹介ページ

【参考資料】
◆ニュー・グローヴ音楽大辞典
◆フランス版Wikipedia/Joseph Bologne de Saint-George
※出典が明確な資料が大量に紹介されています。
『CHEVALIER DE SAINT-GEORGE The Enlightened Violinist』(シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ/光の弓) 2021年フランス製作の映像ドキュメンタリ
※配信には日本語字幕はありません(DVDにはあり)。再発見のきっかけとなった評伝の著者、アラン・グェデ氏が出演しているほか、弦楽四重奏やアリアの演奏シーンがふんだんにあります。
19:02  |  CD  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2022.12.02 (Fri)

第369回 ユーミンの50年

ユーミン
▲大ヒットとなったCD『ユーミン万歳!  松任谷由実50周年記念ベストアルバム』

ユーミン(松任谷由実)が、デビュー50周年を迎えた。連日、メディアではたいへんな露出である。記念のベストCDは、一時品切れになるほどの売れ行きで、多くのチャートで1位を獲得した。文化功労者にも選出された。

新宿駅東口、GUCCI裏手の雑居ビル3階に、とんかつ屋「卯作」はある。
あたしは、店主と中学時代の同級生だったので、開店時から通っている。老舗とまではいえないが、開店して30年になるので、そろそろ長寿店といってもいい。
こういう食べ物は好みがあるので、うまいかどうかはひとそれぞれだが、30年もつづいているのだから、すくなくとも、多くのひとたちに愛されていることは、まちがいない。
 
店内は殺風景だが、なぜか有線放送で、ユーミンが流れている。USEN「A44」チャンネルである。開店から閉店まで、ユーミンの楽曲だけを流している。いつからこうなったのか、覚えていないが、とにかく「卯作」へ行くと、常にユーミンが流れているのである。

現在、USENにおける、日本人個人アーティストのチャンネルは、石原裕次郎、美空ひばり、サザンオールスターズ、EXILE TRIBE、そしてユーミンの5人(組)だけである。
ちなみに、海外は、ビートルズ、エリック・クラプトン、エルヴィス・プレスリー、カーペンターズ、ローリング・ストーンズ、マイケル・ジャクソンの6人(組)。
ほかに「個人」チャンネルが10局ある。バッハからラヴェルまで、クラシックの作曲家たちだ。

こんなにチャンネルがあるのに、なぜか「卯作」は、ユーミンなのである。
食事は、ヒレからロース、海老フライなど多々あるが、音楽はユーミンしか選べないのだ。美空ひばり《人生一路》を聴きながら日本酒「真澄」と角煮(中華テイストの独特な風味)を味わうとか、バッハ《マタイ受難曲》をバックに上ロースにむしゃぶりつくとか、そういうことは、「卯作」では、できないのだ。

ここでは、《真夏の夜の夢》にあわせて生ビールを流し込んだり、《青春のリグレット》を聴きながら熱燗(大関を、人肌に湯灌)とカキフライを楽しむとか、《最後の春休み》を口ずさみながら生姜焼きの甘辛いたれを愛でるとか、とにかくそういう過ごし方をするしかないのである。
だが、それが、なかなか味わい深いひとときを生むのである。

そもそも、いったい、なぜ、とんかつ屋が、ユーミンを流しているのだろうか。
店主によると「お客様の多くが、ユーミン世代だから」とのことだった。

ユーミン3枚

ユーミンと「食」といえば、《CHINESE SOUP》、あるいは「山手のドルフィンのソーダ水」が出てくる《海を見ていた午後》などが浮かぶ。
あるいは、1974年リリース、彼女のセカンド・アルバム『ミスリム』(写真左)や、シングル《12月の雨》のジャケット(写真中)に写っているピアノを見て、詳しい方だったら、飯倉のイタリアン・レストラン「キャンティ」を思い出すかもしれない。
あのピアノは、「キャンティ」のオーナーだった、川添浩史・梶子夫妻宅のものであることは有名だ。ユーミンは、芸能人のたまり場だったこの店に、中学生時代から出入りし、ザ・フィンガーズの追っかけをしていた(慶應高校の、政財界の二世たちによって結成されたバンド)。
そして、この店の常連客との交友がきっかけで、1972年、多摩美術大学1年生のときに、かまやつひろしプロデュース《返事はいらない/空と海の輝きに向けて》(写真右)でデビューするのである(ただし、作曲家としては、すでに17歳のときに、加橋かつみ《愛は突然に…》でデビューしていた)。

いまはもう紛失してしまったが、あたしは、このデビュー・シングルをもっていた(B面のレーベルが《海と空の輝きに向けて》と誤植印刷されていることで知られていた)。
デビュー後しばらくして、TBSラジオの深夜番組「パック・イン・ミュージック」で、故・林美雄が、さかんにユーミンを紹介しており、興味を覚え、かなりあとになって買ったものだ。
そのときの印象は「ロボットみたいな声の女の子だなあ」といったものだった。ノン・ヴィブラートで、情緒とか感情とかを排し、それこそ金管楽器がシンプルにメロディだけを奏でるように歌う、いままでにないタイプの歌手だと思った。
曲も、失恋の曲なのだが、「別れたあなたに手紙をおくるけど、もう、この町にはいないから、返事なんかもらっても届かない、だから返事はいらない」(要旨)と強気に突き放す内容で、これまた新鮮だった。

このなかに、「むかし、あなたから借りた本のなかの、いちばん好きな言葉を、手紙の終わりに書いておいた」(要旨)との歌詞があった。「いったい、何の本なのだろう」と、中学校時代、おなじ吹奏楽部で、やはりユーミンが好きだったある友人に聞いたら、「〈殺してちょうだい〉じゃね~の」と、笑いながら答えたのを、いまでも、覚えている。
これは、当時、クラスで大流行していた、星新一『ボッコちゃん』のなかの決めセリフなのだが、なるほど、そんなセリフが別れの手紙に書いてあったら、相手は不気味な思いに襲われるだろうなあと、彼の慧眼に感心した記憶がある。

その友人とは、現在、講談社の取締役で、いまや日本のデジタル出版事業を牽引している、吉羽治氏である。
そして、おなじく同級で、いま、とんかつ屋「卯作」でユーミンを流しているのが、清水卯一郎氏である。
みんな、ユーミンが大好きだった。
あれからもう50年がたったのだ。

酒
▲「卯作」ですが、肝心のとんかつ料理を撮り忘れました。


◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。

◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。

◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。

◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。
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2022.06.08 (Wed)

第358回 ウクライナと「左手」(2)

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▲ウクライナ出身の作曲家、セルゲイ・ボルトキエヴィチ(1877-1952)
出典:Wikimedia Commons


※更新が遅れて、申し訳ありませんでした。前項よりのつづきです。

 ボルトキエヴィチとは、どんな作曲家なのか。 
 以下、『国境を超えたウクライナ人』(オリガ・ホメンコ著、群像社)での記述を中心に紹介する。

 一般に、このひとは「セルゲイ・ボルトキエヴィチ」と綴られる。だがこれは、ドイツ時代のスペルにもとづくらしい。ウクライナ人としては「セリヒーイ・ボルトケーヴィチ」が正確だという。

 彼は、帝政ロシアの末期に近い1877年、ウクライナ北東部のハリコフで生まれた(最近は「ハルキウ」と記すようだが)。ここは、ロシア国境にも近く、ウクライナで2番目の大都市だけあって、今回の侵攻でも壮絶な戦闘が繰り広げられた。
 実家は裕福で、子どものころから音楽が好きだった。長じてからはサンクト・ペテルブルクで法律と音楽の両方を学ぶ。
 ここからの彼の人生は、まことに波乱万丈で、よくまあ、著者ホメンコ氏も、この紙幅でおさめたものだと感心する。
 とりあえず、その足跡をダイジェストでたどると……

サンクト・ペテルブルクの大学時代に徴兵。だが、身体が弱くて除隊。
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ライプツィヒ音楽大学に留学、ベルリンで作曲活動、結婚。
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第1次世界大戦の勃発でハリコフにもどるが、ロシア革命でクリミアに疎開。難民となってトルコのコンスタンティノープルを経てオーストリアへ。
(この間、周囲の援助で、なんとか音楽活動はつづけてきた)

 1923年、ボルトキエヴィチは、ウイーンで、あるピアニストと知り合う。この出会いが、彼の代表作のひとつを生むことになるのだが、それは後段に譲り、とりあえず先へ。

パリやベルリンでも活動するようになる。だが、ナチス政権の誕生により、旧ロシア帝国出身ゆえブルジョワ扱いされ、仕事を干される。
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ウイーンへもどるが、まともな収入はなし。そこで、チャイコフスキーとフォン・メック夫人の往復書簡集のドイツ語訳を出版、話題になる。
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ようやく自作演奏の機会も増えるが、1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合。楽譜出版社も空爆で焼失、収入の道を絶たれる
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友人の援助でなんとか食いつなぎ、傑作のひとつ《ピアノ・ソナタ第2番》を書き、故郷ウクライナへの思いを込める。
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終戦間際、「母国」ソ連によるウイーン空爆にあうが、命からがら逃れる。
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戦後、オーストリア国籍を取得、ウイーンで音楽大学教授に。
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1952年、没。だが遺骸はウクライナへ戻れず、ウイーン中央墓地に葬られる。

 結局、ボルトキエヴィチは、ロシア革命と2つの世界大戦に翻弄されながら、故郷ウクライナへもどることができず、異国に骨を埋めたのだった。

 そんな作曲家だが、故国ウクライナでも、近年まであまり知られていなかったらしい。
 著者ホメンコ氏が綴るには、彼の交響曲第1番《わが故郷より》がウクライナで初めて演奏されたのは、2001年のことだという。
〈この曲を聴くとウクライナの民謡、コサックダンスなどボルトケーヴィチが受けた影響の全てがわかる。(略)2020年にはアメリカ在住のウクライナのピアニスト、パウェル・ギントフがボルトケーヴィチの作品でCDを出し、アメリカ中で公演もしている。ギントフによると「ボルトケーヴィチ自身が優れたピアニストだったので、ピアニストが気持ちよく弾けるような音楽を作っている。(略)ドラマティックな作品は抒情的ですらある」〉

 彼の音楽は、チャイコフスキーやラフマニノフに漂う土俗的曲想に、ショパンのような洒落たヨーロッパ・テイストが加わっている。深淵さには欠ける部分もあるが、美しい曲が多く、ウクライナを思わせるムードが顔を出すこともある。ワーグナーそのもののような響きが登場する曲もある。

 いま、ボルトキエヴィチは、決して”知られざる作曲家”ではない。NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)で、彼の作品も含むCDを検索すると、30数点がヒットする(ただし、NMLには珍しく、ピアノ曲ばかりで、肝心のオーケストラ曲はない)。そのなかには、上述、ギントフによる単独作品集のほか、フィンランドのピアニスト、ヨウニ・ソメロによる全9枚シリーズの、ボルトキエヴィチ・ピアノ作品集もある(おそらくピアノ曲全集では)。

 ホメンコ氏は、こう結んでいる。
〈ボルトケーヴィチは暗い時代を生きたにもかかわらず、希望にあふれた明るい作品を作った。(略)故郷を失って亡命せざるを得なかった激動の人生を考えると、なんと明るい前向きの音楽かと思う。(略)彼の作品を聞くことは心の支えになるし、自分も希望を失ってはいけないと思うようになる。それは彼の生きた二十世紀から私たちへのメッセージのような気がする〉
 いうまでもないが、この文章が書かれたのは、ロシアによるウクライナ侵攻よりずっと以前である。

 実は、彼の音楽のなかで、特に”希望を失ってはいけない”と強く訴えかけてくる曲が、ある。《ピアノ協奏曲第2番》作品28や、《ピアノと管弦楽のためのロシア狂詩曲》作品45などである。
 これらは、前述、1923年にウイーンで知り合った、あるピアニストのために書かれた。
 その名を、パウル・ヴィトゲンシュタインという。
 右手を失った、”片腕(左手)のピアニスト”だった。
〈この項、つづく〉

『国境を超えたウクライナ人』(オリガ・ホメンコ著、群像社)は、こちら。
交響曲第1番《わが故郷より》 は、こちら(ウクライナ・チェルニーヒフ・アカデミー交響楽団、指揮:Mykola Sukach/YOUTUBE、約40分)。
ホメンコ氏が紹介している「ボルトキエヴィチ:ピアノ作品集」CD(パヴェル・ギントフ:ピアノ)CDは、こちら(NML)。

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