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2022.03.18 (Fri)

第351回 YAMAHA育ち(下)

中島みゆきあいそはるひ
▲(左)中島みゆきの新譜『2020 結果オーライ』、
 (右)相曽晴日のファースト・アルバム(1982、CD化あり)

 わたしは、高校時代、毎晩、ラジオにかじりついて、ニッポン放送の「コッキーポップ」を聴いていた(24:30~25:00)。ヤマハ音楽振興会が主催する「ヤマハポピュラーソングコンテスト」(通称「ポプコン」)の楽曲を紹介する番組だった。
 ここから生まれ、いまでも人気を保っているスターといえば、中島みゆきにとどめを刺す。

 1975年5月、第9回ポプコンつま恋本選会に入賞した中島みゆきの《傷ついた翼》を、「コッキーポップ」で聴いたときの感動は、いまでも覚えている。強烈なヴィブラートで、当時としては珍しいゆったりしたバラードだった。そして、後半で転調して曲想が拡大する見事な構成。「すごいシンガー・ソング・ライターがあらわれた」と、心底から思った。

(余談だが、第9回ポプコンは、このほか、柴田容子《ミスターロンサム》、八神純子《幸せの国へ》、PIA=のちの渡辺真知子《オルゴールの恋唄》、松崎しげる《君の住んでいた街》など、ウルトラ級の名曲がそろっていた)

 ところが、それはほんの序章だった。
 9月に、独特のワルツ《アザミ嬢のララバイ》でシングル・デビュー。そして10月の第10回ポプコンに《時代》で再出場してグランプリ。翌月の世界歌謡祭に同曲で日本代表として出場し、またもグランプリ。中島みゆきは、怒涛の進撃を開始した。
 まさに「YAMAHA」から生まれた、ポップスの大スターだった。

 以後、彼女は、いまに至るまで、ずっとヤマハをベースに活動している。
 所属事務所は「ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス」、レコード会社も「ヤマハミュージックコミュニケーションズ」である(しかも、現在、同社取締役)。
 ちなみに、初期のレコード会社は、キャニオン・レコード/ポニー・キャニオンである。だが、実際は同社の社内レーベル「アードバーク」からのリリースだった。ここは、ヤマハ原盤の楽曲が多く、事実上、”ヤマハ・レコード”だったのである。

 ファンだったらご存じだろうが、彼女のディスクや映像などには、「DAD 川上源一」などの献辞が必ずクレジットされている。
 これは、ヤマハ・グループの総帥として君臨した川上源一(1912~2002)のことで、ポプコンで彼女を発掘した“育ての親”ということになっている。《時代》が世界歌謡祭でグランプリを獲得したとき、彼女はオーケストラ伴奏を断ってギター1本でうたい注目を浴びたが、これも川上源一の進言といわれている(そのことを題材に、川上をモデルにした曲が、《ピアニシモ》だという)。
 このあたりも、前回で綴ったヴェルディとバレッツィの関係を思い出させる。

 中島みゆきを聴くと、ホッとさせられることがある。
 レコーディングやコンサート、音楽劇「夜会」の、ゲストやバック・ミュージシャンに、”ポプコン出身者”を、よく招いているのだ。
 たとえば、谷山浩子……《お早うございますの帽子屋さん》、《ネコの森には帰れない》などでポプコン出場。2000年の「夜会」に出演した。彼女も、事務所・レコード会社ともにヤマハで、楽曲は、ヤマハ音楽教室の教材になっていた。
 坪倉唯子……《繞いつく想い》《Easy Going》などでポプコンに出場。中島みゆきのレコーディング、コンサートに多く参加しており、ファンには馴染みのある名前だろう。B.B.クィーンズを結成し、《おどるポンポコリン》の大ヒットも飛ばしている。
 2014年の「夜会」に出演した中村中も、”もう一つのポプコン”といわれた「ヤマハ・ミュージック・クエスト」の出身である。
 2019年の「夜会」には、渡辺真知子が、中島みゆきの姉妹役で出演した。ポプコン同期生の共演とあって、わたしのようなオールド・ファンは、拍手喝采をおくったものだ。
 
 2020年1月からはじまった、〈中島みゆき 2020 ラスト・ツアー「結果オーライ」〉は、コロナ禍の影響で、途中で中止となってしまったが(ライヴCDあり)、このバック・コーラスに、ポプコン・ファン感涙のミュージシャンが参加している。
 相曽晴日である。
 1980年代初頭のポプコンに、《トワイライト》《コーヒーハウスにて》《舞》などで出場、その清廉な歌声が話題となったが、なにより驚いたのは、当時、まだ彼女が「高校生」だったことだ。名門、浜松海の星高校(現・浜松聖星高校)の在学生だったのだ。
(もっとも、ポプコン初出場当時の八神純子も、まだ高校生だったのだが)
 たしか、「コッキーポップ」における、司会・大石吾郎の紹介によれば「小学生のころからすでに作詞作曲を手がけていた天才少女」とのことだった。彼女も、子供のころから、ヤマハ音楽教室か、ミュージック・コースに通っていたのではなかったか。
 《コーヒーハウスにて》は、大竹敏雄の詞に彼女が作曲したものだが、そのたたみかけるようなメロディラインを、女子高生がつくったと聞いたら、誰もが驚くはずだ。わたしは、いまでも彼女のファースト・アルバム『トワイライトの風』(1982リリース、CD化あり)をウォークマンに入れて、よく聴いている。
 そんな彼女が、中島みゆきのコンサート・ツアーに参加していたのだ。

 こういったポプコン出身者を、中島みゆきサイドが、どういう考えで起用しているのか、わたしは知らない。もちろん、全員、歌唱力も含め、突出した才能の持ち主にして現役バリバリなので、ポプコンだとかヤマハだとか、そんなことは無関係かもしれない。
 しかし、上原彩子や、エロイーズ・ベッラ・コーンや、中島みゆきのようなアーティストを知ると、彼女たちのなかで、「ヤマハ」が、一時期の居場所ではなかったことが、よくわかる。彼らの間には、同じ音楽学校で勉強した“同窓生”とはちがう、もっと独特の、見えない絆があるような気がするのだ。
 そして、そういう関係が、とてもうらやましいようにも思えるのである。
〈敬称略/この項おわり〉
 
□中島みゆき、オフィシャル・サイトは、こちら
□相曽晴日、オフィシャル・サイトは、こちら

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2018.08.02 (Thu)

第203回 8月のBPラジオ余話

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▲主催「朝日新聞社」も、増刊号で「甲子園第100回」を盛り上げる。


◆甲子園第100回
 今年の甲子園、西東京代表は、おなじみ日大三高となった。以下の話は、数年前に書いたことなのだが、ちょうどいいタイミングなので、あらためて綴る。
 ご存知の方も多いだろうが、「甲子園の応援演奏で、初めて女性指揮者が振った」吹奏楽部が、日大三高である。
 1952(昭和27)年の甲子園、東京代表は日大三高だった。
 この「昭和27年」とは、日本が主権を回復した年である。前年にサンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27年4月に発効した。これによってアメリカによる占領は終わり、ようやく日本は自立し始めた、そんな年であった。

 日大三高は、戦前に2回、夏の甲子園に出場していたが、戦後は、この年が初出場だった。しかも主権回復の直後とあって、おそらく、たいへんな盛り上がりだったろう。
 そんな年の夏を、さらに盛り上げたのが、このとき、吹奏楽部を率いていた女性顧問の若林文先生だった。
 後年の若林先生の回想によれば、
「周囲がガヤガヤしてきましてね。なんだと思ったら、先生、新聞記者が来てるっていうんですよ」
 女性が甲子園の応援スタンドで指揮している姿は、実に珍しかったらしい。
「名前を聞かれたり、どうして来たんだとか、いろいろ聞かれました。その上、梅田の阪神かなにかの大きなデパートに等身大の写真が出たらしいんです。(甲子園での女性指揮者は)わたしがはじめてといわれてます」
 とのことだった(全日本吹奏楽連盟会報「すいそうがく」第27号=1988年11月発行、「てい談 復興! そして発展へ」より)

 今年は、夏の高校野球が第100回だそうである。殺人的酷暑の下、まったくご苦労様としかいいようがない。ふだん、熱中症への注意を喚起する一方、この炎天下で未成年に野球をやらせる主催者の気もしれないが、暑いからとやめるわけにもいかないだろう。選手はもちろん、応援席の吹奏楽部員の生命の安全を願ってやまない。

 BPラジオでは、いくつか、高校野球を中心に、野球ゆかりの曲を流すが、ぜひお聴きいただきたいのが、《全国中等学校優勝野球大会行進歌》、通称「大会行進曲」である(富田砕花作詞、山田耕筰作曲編曲/内木実、コロムビア合唱団、コロムビア交響楽団、山田耕筰指揮)。これは、むかしの大会歌で、現在の《栄冠は君に輝く》が制定されてからは、入場行進曲となって現在でも演奏されている。本来、どんな曲だったのか、お聴きいただきたい(流行歌が演奏されるのは、春の甲子園)。
 作曲した山田耕筰についてはいうまでもないだろう。作詞の富田砕花(1890~1984)は詩人・歌人で、ホイットマン『草の花』を、かなりはやい時期に(日本で最初?)翻訳したひとである(『草の花』邦訳は数種類あるが、わたしは、この富田訳がいちばん好きだ)。

 昭和27年に若林先生が指揮したころは、すでに《栄冠は君に輝く》の時代になっていたが、まだ制定されて数年だった(昭和23年制定)。もしかしたら、若林先生たちにとっては、まだ、以前の「大会行進曲」のほうがなじみがあったかもしれない。
 そんなことに思いを馳せながら、むかしの響きをお聴きいただきたい。

◆祝第100回! 吹奏楽で聴く夏の高校野球
<FMカオン>8/4(土)23時、8/18(土)23時
<調布FM>8/5(日)正午、8/19(日)正午


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▲東海林修さん全曲アレンジのアルバム『JULIEⅡ』(わざと薄ぼんやりしたデザインになっていた)。

◆東海林修のブラス・アレンジ
 毎年8月は、管打楽器が活躍するむかしのヒット曲、通称「昭和ブラス歌謡」(わたしが勝手にそう呼んでいるだけだが)を特集している。
 毎年変り映えのない選曲なのだが、今回、沢田研二の《許されない愛》をかけたときは、少々、感慨深いものがあった。
 これは、1972年3月に発売された、ジュリーのソロ・デビュー2枚目のシングル曲だが(山上路夫作詞、加瀬邦彦作曲)、編曲が、この4月に亡くなった、《ディスコ・キッド》の東海林修さんなのである。

 この時期、東海林さんとジュリーは、すばらしい仕事を次々と生み出している。
 ジュリーのソロ・デビューは、1971年11月の《君をのせて》だった(岩谷時子作詞、宮川泰作曲、青木望編曲)。さすがは宮川泰、美しいバラード風の曲調で「君をのせて夜の海を渡る舟になろう」とうたう。実際、天知真理主演の映画『虹をわたって』(1972年、前田陽一監督)の中で、ジュリーがヨットで放浪する青年役で登場し、この曲をうたう場面があった。
 
 ところが、これが中ヒット(オリコン23位)で終わってしまった。そこで2曲目から方向転換し、もっとド派手な曲で行くことになった。それを具現化させたのが、東海林修さんだった。《許されない愛》を含むセカンド・アルバム『JULIE II』は、ロンドンでレコーディングされたが、全曲、編曲は東海林さんが担当した(ファースト・アルバム『JULIE』も、全曲、東海林編曲だがこれはザ・タイガース在籍中に発売されたもの。よって、『JULIEⅡ』が事実上のソロ・デビュー後の初アルバムである)。
 これは驚くべき内容で、全体を通して「港」をコンセプトとした、まるで叙事詩《オデュッセイア》のような構成になっているのである。全曲、山上路夫が作詞し、編曲を東海林さんが担当した。
 以下、曲名と作曲者を見るだけでも、目がくらむようなアルバムであることが予想できよう。

1:霧笛(山上路夫作詞、東海林修作編曲)
2:港の日々(山上路夫作詞、:かまやつひろし作曲、東海林修編曲)
3:おれたちは船乗りだ(山上路夫作詞、:クニ河内作曲、東海林修編曲)
4:男の友情(山上路夫作詞、クニ河内作曲、東海林修編曲)
5:美しい予感(山上路夫作詞、井上堯之作曲、東海林修編曲)
6:揺れるこころ(山上路夫作詞、大野克夫作曲、東海林修編曲)
7:純白の夜明け(山上路夫作詞、加瀬邦彦作曲、東海林修編曲)
8:二人の生活(山上路夫作詞、筒美京平作曲、東海林修編曲)
9:愛に死す(山上路夫作詞、東海林修作編曲)
10:許されない愛(山上路夫作詞、加瀬邦彦作曲、東海林修編曲)
11:嘆きの人生(山上路夫作詞、すぎやまこういち作曲、東海林修編曲)
12:船出の朝(山上路夫作詞、大野克夫作曲、東海林修編曲)

 BPラジオの中では、ブラス全開バリバリの《許されない愛》しか放送できなかったが、できれば、全曲を通して、天才的な東海林プロデュース色を味わっていただきたい。

 《許されない愛》は、オリコン4位の大ヒットとなり、紅白歌合戦にも初出場。曲の後半、まるでブラス群とジュリーが掛け合いを演じるような、見事なアレンジが展開する。
 この曲をきっかけに、ジュリーは、日本ポップス史に燦然と輝く存在となるのである。その陰には、東海林修さんの見事なプロデュース、アレンジがあったのだ。

◆暑苦しいけど元気が出る! 昭和ブラス歌謡大行進!
<FMカオン>8/11(土祝)23時、8/25(土)23時
<調布FM>8/12日)正午、8/26(日)正午

<一部敬称略>

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2018.07.19 (Thu)

第202回 7月のBPラジオから

 遅ればせながら、7月放送分の『BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ』にまつわる雑談を。

大栗裕
▲大栗裕作品集(ヴァイオリン協奏曲、大阪俗謡による幻想曲ほか) 
 高木和弘Vn、下野竜也指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団 (Naxos)


◆生誕100年、大栗裕
 大栗裕(1918~1982)の名は、吹奏楽やマンドリンをやっている方にとっては周知の作曲家だろうが、それ以外の、特に日本作曲家ファンでない方にとっては、なじみが薄いかもしれない。吹奏楽界では、コンクール課題曲などのほか、特に《大阪俗謡による幻想曲》で知られている。
 この曲は、本来が、1956年に朝比奈隆がヨーロッパ公演で指揮するために委嘱された管弦楽曲で、まず日本で初演後、ベルリン・フィルや、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(現在、佐渡裕が首席指揮者)で演奏された。その際、肉筆譜をベルリン・フィルに献呈してしまったので、大栗は、のちに記憶やスケッチをもとに曲を「復元」した。1970年、それを改訂して最終ヴァージョンとし、さらに1974年に吹奏楽版となり、主に、大阪府立淀川工科高校吹奏楽部がコンクールでテーマ曲のように繰り返し演奏し、人気曲となった。

 この曲の中間緩徐部に、オーボエの寂しげなソロがある。わたしは最初に吹奏楽版で聴いたのだが、バックで奏でられる、ザイロフォン(木琴)による雨だれのような音型が、カランコロンと鳴る下駄の音に聴こえ、「ああ、これ、『夫婦善哉』じゃないか」と思った記憶がある。というのも、そのころ(高校時代)、池袋の、いまはなき文芸地下劇場で、映画『夫婦善哉』(1955年、豊田四郎監督)を観て、原作を読んだばかりだったので、同じ大阪を題材にした作品とあって、妙に重なってしまったのだ。
 その後、この曲(吹奏楽版)を聴くたびに、あの「下駄の音」は、道頓堀を歩く柳吉と蝶子なのだと思って聴いてきた。

 ところが、その後、原典となった管弦楽版(1970年復元改訂版)を聴いてみたら、ここは、ザイロフォンではなくて、弦のピッツィカートであることを知った(主旋律は、コール・アングレだった)。音型が同じとはいえ、打楽器と弦楽器では、ずいぶんちがう。どう聴いても、「下駄の音」ではない。これは「三味線の爪弾き」だった。『夫婦善哉』のラストは、柳吉が義太夫に凝り始め、蝶子が太棹で支えて「太十」(『絵本大功記』十段目)を語るのだが、そのあたりが連想された(「太十」の三味線は、もっとド迫力の響きなのだが)。
 もちろん《大阪俗謡~》は、『夫婦善哉』を音楽化したものではないが、高校時代のわたしは、勝手に、この2つをイコールのようにして聴いたり読んだりしていた。
 そうしたら、あとになって、大栗裕が『夫婦善哉』を「オペラ」にしていることを知った(1957年初演、指揮・朝比奈隆、演出・武智鉄二)。いったい、あのような込み入ったグズグズ話が「オペラ」になるのだろうか。
 どうもこのオペラは正式音源化されていないようだが(もうひとつ、大栗の出世作、歌劇『赤い陣羽織』は、EMIからLPが出たことがある)、以前、さる筋で抜粋音源の一部を聴かせてもらったことがある(コンサート上演の録音だったような気がする)。関西弁が西洋音階の上に乗って展開するのはユーモラスでもあり、不思議な味わいだった。
 実は『夫婦善哉』は、文楽にもなっている(1956年初演)。国立劇場の記録を見る限り、平成になってからだけでも3回上演されているが、すべて大阪で、東京での上演は、ないようだ。文楽(義太夫)ならば当然関西弁の芸能なわけで、ピッタリにちがいない。オペラとあわせて、いつか観たいと願っているのだが。

<放送>生誕100年、なにわのバルトーク・大栗裕の世界
7月21日(土)23:00 FMカオン
7月22日(日)正午 調布FM
※PC、スマホなどで聴けます。聴き方は、こちらで。


◆東京カテドラル聖マリア大聖堂
森田童子
▲森田童子「東京カテドラル教会聖マリア大聖堂録音盤」(ユニバーサル)

聖マリア大聖堂
▲カトリック関口教会東京カテドラル聖マリア大聖堂(東京・文京区関口)

 シンガーソングライターの森田童子が、4月に亡くなっていたことが報じられた。6月に発行されたJASRAC会報に訃報が載っていたことで明らかになった。享年65の若さだった。
 彼女が活躍したのは、1970年代半ばから80年代にかけての、10年にも満たない期間だった。モジャモジャのカーリー・ヘアにサングラス、本名も素顔も、履歴もプライベートも一切明かさず、閉塞感に襲われた当時の若者の気持ちをうたった。それは、いまでいう「ひきこもり」、あるいは、60~70年代の政治運動に挫折した世代の代弁だったかもしれない。

 そんな彼女の唯一のライヴ・アルバムが、『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』(1978年)である。会場は、1964年に落成した、丹下健三のデザインによる、カトリック関口教会東京カテドラル聖マリア大聖堂だ。戦後モダン建築の名作といわれている。1967年に、吉田茂元総理の葬儀がおこなわれた教会としても有名だ(後日、日本武道館で国葬)。
そんな教会で、フォークともポップスとも歌謡曲ともいいがたい、暗い音楽のライヴが決行されていたのだ(当時「ニューミュージック」なる名称が流布しはじめていたが、森田童子には、ふさわしくなかった)。
 このライヴ録音、なんと冒頭が、開演を告げる「鐘」の音から始まるのだ。さすがは「聖マリア大聖堂」である。そして「本日は手話通訳が入ります」といったアナウンスが流れると、突如、SE効果音で雷鳴が轟き、拍手の中、彼女が登場し、1曲目《地平線》をうたいだすのである。
〈地平線の向こうには/おかあさんと/おなじやさしさがある/だからぼくはいつも/地平線の向こうで/死にたいと思います〉
 なんともすさまじい歌詞ではないか。現代詩手帖の新人賞作品といわれたら、つい信じてしまいそうだ。

 だが、このアルバムの魅力は、曲間のトークにもある。
「わたしが高校生のころ、親しかった、教育大の松本さんという先輩がいました……学園闘争が激しくて中退してしまいました。しかしお父さんが教育者だったので郷里にも帰れず……久我山のアパートで、男のひとと一緒に生活を始めたわけです。そこへ遊びに行くと……男のひとは恥ずかしかったのか、泉谷しげるの《春夏秋冬》のレコードをかけるわけです。……1年前に国電の駅で松本さんに会ったことがあります。いまは図書館に勤めて、ひとりで生活しているそうです。松本さんを思い出すと、つい《春夏秋冬》を口ずさんでしまいます……」
 とボソボソと語り、まさか森田童子が《春夏秋冬》をうたうのか……と思いきや、
「つぎの歌は《君は変わっちゃったネ》です」

 名曲《友よ泣かないのか》のあとは、
「自称アナーキストだという、カストロ帽に黒メガネの、ドモン(土門?)という友人がいます。ドモンは一度も働いたことがありません……そんなドモンと同棲していた、絵描き志望のモンちゃんは、着物の柄を描いて生活していたわけです。去年の夏……ドモンが1週間以上も部屋を空けて帰らないうちに、モンちゃんは持病の腎臓病が悪化してしまい……亡くなってしまったわけです。ドモンはいまも、モンちゃんと暮らしていた阿佐ヶ谷のアパートにいます。ドモンのカストロ帽の下は、ツルツルの坊主頭です。モンちゃんが保険をかけていて、残したお金が400万円近くあるそうです。ドモンは毎晩、新宿のゴールデン街で、安酒を呑んでいます……モンちゃんが残した400万円を使い果たしたら、坊さんになると言っています」
 そしてふいに歌い出すのが《海を見たいと思った》である。
 かように、彼女のトークは、もし創作でないとしたら、こんな話をライヴで明かし、しかもレコードで(その後CD化もされた)残して大丈夫なのかと、ちょっと心配になってしまうほど、具体的なのである。しかも、その内容が、前後の演奏曲目と関係があるようなないような、なんとも微妙なバランスの上で進行するのだ。

 その後、わたしは、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、親戚の結婚式、先輩の葬儀を経験し、ユーミンの《翳りゆく部屋》を聴き(冒頭のオルガンが、ここで録音された)、いまでは主に古楽コンサートで、年に2~3回は通っている。
 だが、行くたびに、久我山の松本さんや、阿佐ヶ谷のドモン、亡くなったモンちゃんのことなどが思い出され、ジョスカン・デ・プレやギョーム・デファイの肖像と重なってしまうのである。

<放送>カテドラル、その豊かな響き
7月28日(土)23:00 FMカオン
7月29日(日)正午 調布FM
※PC、スマホなどで聴けます。 聴き方はこちらで。


<敬称略>

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2016.04.12 (Tue)

第162回 『大沢悠里のゆうゆうワイド』終了

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▲番組終了を報じた、1月18日付の毎日新聞夕刊。

 わたしは、以前、NHK-FMで『今日は一日、吹奏楽三昧』なる、12時間生放送の特別番組の一部に出演したことがある。
 進行役は、音楽通のフリー・アナウンサー、朝岡聡さんだった。
 朝岡さんは、水筒やサンドイッチ、飴などを持ち込み、昼12時から深夜零時まで、一歩もスタジオから出ないで、見事にこなされていた。

 その時「たいへんですねえ、疲れませんか」とうかがったら、「まあ、今日1日だけですから、何とか大丈夫ですよ。これが毎日だったら、とても無理ですけど」と笑っておられた。
 そして私が「毎日、4時間半もやっている大沢悠里さんなんか、たいへんでしょうねえ」と言ったら「大沢さんはすごいです。我々の世界の星ですよ」みたいな意味のことを言っておられた。

 TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』が4月8日(金)で終了した。
 30年続いた番組で、ご本人は今年74歳。
(ただし、毎週土曜日15:00~16:50『大沢悠里のゆうゆうワイド 土曜日版』として、小規模に再スタートした)

 この番組は、それ以前に大人気だった『こんちワ近石真介です』のあとを受けて(1年間の別番組をはさんで)、1986年4月から始まった。
 以前からの人気コーナー「お色気大賞」「東食ミュージックプレゼント」(現「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」を包括していた。

 大沢さんは、終了を発表した際、「毎日、4時間半の生放送は疲れる。家族のためにも、元気なうちに降板しようと考えた」とコメントしていた。
 わたしは、長年のリスナーとして、その真意が、なんとなくわかるような気がする。
 いくらなんでも、70歳半ばにもなって、週5日、毎朝4時間半、生放送で喋り続けることなど、できるわけがない。
 途中でトイレにも行かねばならないし、一息入れたくもなるだろう。

 その点をカバーするのが、番組内番組、いわゆる「コーナー番組」だったと思う。
 「ズバリ快答! テレフォン身の上相談」(美輪明宏の「70歳? まあ、お若いのね」が忘れられない)
 「秋山ちえ子の談話室」(毎年、終戦記念日に「かわいそうなぞう」を朗読した)
 「永六輔の誰かとどこかで」
 「味の素 ハート・オブ・ポップス」(森山良子)
 「浜美枝のいい人みつけた」
 「小沢昭一の小沢昭一的こころ」(以前は夕方放送だった)
 ……等々、個性的なコーナー番組がたくさんあり、大沢さんは、それらをうまくつなぎながら、4時間半をこなしていた。
 おそらく、これらの放送中に、一息入れたり、トイレに行ったり、次のトークの準備をしていたのだと思う。

 しかし、ある時期から、これらコーナー番組は、どんどんなくなっていった。
 理由は様々で、スポンサーの撤退もあれば、パーソナリティの健康問題や逝去など、様々だった。
 ところが、そのあと、代替の新コーナー番組は、皆無だった。
 その分は、すべて大沢さんがカバーしなければならなくなった。
 これでは、一息入れるどころではなかったはずだ。
 大沢さんは、4時間半、ほとんど、出ずっぱりになってしまったのだ。
 これでは「疲れる」のも無理はない。

 終了を発表した直後の大沢さんの口調には「毎日4時間半、何から何まで一人でやるなんて、もう勘弁してよ」とでもいうようなニュアンスが、かすかに滲んでいたような気がした。

 なぜ、代替番組が成立しなかったのか、わたしは知らない。
 この不景気で、営業力の高さで有名なTBSラジオでも、さすがに新スポンサーを獲得できなかったのか。
 あるいは、長寿人気コーナーを引き継げるほどの人材がいなかったのか。

 4月9日(月)から、この時間帯は、いくつかの新番組に分割された。
 (月)~(木)8時半~11時『伊集院光とらじおと』
 (月)~(金)11時~13時『ジェーン・スー 生活は踊る』
 (金)8時半~11時『有馬隼人とらじおと山瀬まみと』
 これだけのことを、大沢さんは(アシスタントとともに)、30年間、1人でこなしていたのである。
 局が、いかに大沢さんにおんぶにだっこだったかが、わかるだろう。

 ちなみに、45年続く名物コーナー番組「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」は継続し(その毒蝮氏も、もう80歳だ!)、約1時間ずれて、上記『ジェーン・スー 生活は踊る』内に包括され、11時20分頃からの放送となった。
 テーマ音楽は、おなじみ、エドムンド・ロスのラテン・ナンバー《ホイップド・クリーム》のままである。
 ただし放送は(月)~(木)のみとなり、(金)は、「高橋芳朗のミュージックプレゼント」となった。

 後継番組を受け持つ伊集院光氏は、(月)深夜25時『JUNK/伊集院光 深夜の馬鹿力』で絶大な人気をほこるラジオ・パーソナリティだが、いうまでもなく、その個性は、大沢さんとはまったくちがう。

 わたしは、大沢さんは「学校の先生」だったと思っている。
 教室で、教壇に立ち、生徒の方を向いて、全員が理解できるように、幅広い話題を、ゆっくりと、キチンと説明してくれた。
 マイクの向こうに「教室」があり、何万人もの「生徒」がいることを、大沢さんは意識していたと思う。

 これに対し伊集院氏は「居酒屋の人気者」である。
 居酒屋の隅で、親しい1人か2人の友人に向かって「今日、こんなことがあってさあ」と、大声でしゃべっている。
 その内容が個人的なことなのに、あまりに話しぶりが面白いので、店中の客が、そっちを向いて聴き入ってしまう。
 彼のラジオ・トークには、そんな雰囲気がある。

 このちがいは、あまりに大きい。
 いままでクラス担任が主役だったのが、ガキ大将が主役になるようなものである。
 《第九》で人類の団結を歌ったベートーヴェンにかわって、保険会社に務めながらアマチュア作曲家を通したチャールズ・アイヴズが登場し、「興味があったらでいいから、俺の音楽も聴いてみてよ」と言っているような感じだ。

 新番組になって、まだ最初の2日を聴いただけだが、わたし個人は、もしかしたら、TBSラジオを離れる日が来るのでは……と予想している(その理由や、新番組に関する意見は様々あるのだが、もう少し聴きこんでから綴りたい)。 

 とにかく、30年聴いてきた『~ゆうゆうワイド』テーマ曲、ポール・モーリア《はてしなき願い》が流れない朝は、あまりに寂しい。


このコンサートのプログラム解説を書きました。4月29日です。ぜひ、ご来場ください。

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毎週(土)23時FMカオン、毎週(月)23時調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」案内係をやってます。4月は「震災と吹奏楽」「追悼、キース・エマーソン」です。

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2016.03.15 (Tue)

第157回 さようなら、女川さいがいFM

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▲かつて、ここは住宅街だった。宮城県名取市閖上地区(2011年4月末、筆者撮影)
 


 私は、子どものころからのラジオ好きが高じて、いまではコミュニティFMの音楽番組にかかわっている。
 それだけに、「ラジオ局」がなくなるとのニュースには、身を切られるような思いがする。

 この3月末、東北から、いくつかのFMラジオ局が消えようとしている。
      ◆ ◆ ◆
 2011年3月11日の東日本大震災後、岩手・宮城・福島の3県を中心に、多くの「臨時災害放送局」(通称「災害FM」)が開局した。
 地元密着の、被災・復興・安否情報などを放送するミニFM局である。

 1995年の阪神淡路大震災を機に、放送法が改正され、大災害時、「臨時かつ一時」で、「被害の軽減に役立つ放送」であれば、「災害対策が進展し、被災者の日常生活が安定する」までの限定で、ミニFMを開局できることになった。

 手続きは、災害時に口頭申請すると(電話でも可)、その場で周波数が割り当てられ、即日開局できる(ただし、後日、正式手続きが必要だが、電波利用料や音楽著作権使用料は、一定期間、免除される)。
 出力も、コミュニティFMが20W上限なのに対し、「他局の放送に支障を及ぼさない範囲内」であれば、制限はない(実際は20~50W前後が多いようだ)。
 そんな「災害FM」が、東日本大震災では「26局」に達した。

 災害FMの放送免許は、市町村などの「自治体」に対して交付される。
 交付後、局を直営する自治体もあれば、地元有志やNPO法人などに運営を委託する自治体もある。
(既存のコミュニティFMが、自治体と組み、出力をアップして一時的に災害FMに移行するケースも多かった)。

(ちなみに、「コミュニティFM」は、民間企業のほか、第三セクターやNPO法人による運営が多く、細かい審査が必要。要するに小規模な「民放ラジオ局」である。現在、北海道から沖縄まで、約300局が開局している)
     ◆ ◆ ◆
 災害FMの運営には、自治体の補助、地元企業のスポンサー提供などのほか、日本財団、赤い羽根共同募金、大手民間企業(資生堂、パナソニックなど)の支援があった。
 たとえば日本財団からは、開局から4か月限定ではあったが、新規開局に50万円、月上限150万円までの運営補助があった。

 このほかに大きかったのは、政府による「緊急雇用創出事業」補助金である。
 政府は、震災後5年間を「集中復興期間」と定め、上記補助金を交付してきた。
 その一部を、災害FMの運営補助にあてる自治体が多かった。
 しかし、その補助金も、この3月末で終了する。
 つまり、震災後5年目となる2016年3月末は、災害FMにとって、大きな節目なのだ。
 補助金がストップする4月以降、十分な運営資金が確保できていない局は、実質、運営不可能だ。

 実は、震災で開局した26局のうち、すでに多くが閉局となっている。
 中には、以前のコミュニティFMに戻った局もあれば、「役割を終えた」とする局もあった。
 新聞報道や、サイマル・ラジオのウェブサイト(コミュニティ・サイマル・ラジオ・アライアンス運営)などによれば、現在開局しているのは、おおむね下記の「10局」のようである(サイマル・ラジオに参加していない局もあるようなので、正確ではない)。

かまいしさいがいFM(岩手県釜石市)
陸前高田災害FM(岩手県陸前高田市)
おおつちさいがいFM(岩手県大槌町)★
けせんぬまさいがいFM(宮城県気仙沼市)
けせんぬまもとよしさいがいFM(宮城県気仙沼市本吉地区)
女川さいがいFM(宮城県女川町)★
FMあおぞら(宮城県亘理町)★
りんごラジオ(宮城県山元町)
南相馬ひばりFM(福島県南相馬市)
おだがいさまFM(福島県富岡町)

 上記のうち、私が見聞きしている限りでは、★印の3局が、3月末で閉局が決定しているようだ。
(ほかの局も、あくまで一時的な「暫定延長」がほとんど)
 中には、コミュニティFMへの移行を模索した局もあったようだが、運営資金不足で、ほとんどが不可能だったようである。

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▲2011年4月末、気仙沼港(筆者撮影)

     ◆ ◆ ◆
 災害FMやコミュニティFMの多くは、地域外でもネットで聴ける。
 私は、この中では「女川(おながわ)さいがいFM」をよく聴いている。
 私自身、震災後1か月目に、取材で東北3県を回ったが、特に女川町には行っていない。
 なのに、なぜ、この局を聴いてきたのかというと、番組づくりや、FM局としてのたたずまいが、とても好きだったからだ。

 災害FMは、朝から夜までの、いわゆる通常生活時間内に、合間に音楽などを流しながら、自治体の広報をシンプルに伝えるスタイルが多い。
 ところが「女川さいがいFM」は、週7日24時間放送で(もちろん、再放送が多い)、J-WAVEやNACK5といった、メジャーFM局に近い聴きごたえがあった。
 地元情報「おながわ☆なう」や、元女川中学教員による「佐藤敏郎の大人のたまり場~牡鹿半島フォークジャンボリー」、地元の水産加工業者たちによる「産地直送!女川かこうけんラジオ」などはとても楽しかったし、音楽番組「MUSIC STREAM」はセンス抜群の選曲だった。
 他局(コミュニティFM)の番組も、ラジオ3(仙台市青葉区)制作の「川柳575便」、ラジオ石巻制作の「民謡列島めぐりIN石巻」など、面白くてためになる番組が多く放送されていた。

 もちろん「災害FM」の性質上、バラエティ系番組でも、必ず被災・復興情報がある。
 音楽も、癒しや励ましにまつわる曲が多い。
 そのバランス感覚が見事だった。
 一度も行ったことのない女川町だが、私は、ここ数年、ラジオを通じて、たいへん身近に感じていた。
     ◆ ◆ ◆
 「女川さいがいFM」は、どのようにして始まり、運営されてきたのだろうか。
 すでに、多くのメディアで紹介されているほか、2013年にはNHKで「ラジオ」と題してドラマ化されたので、ご存じの方も多いと思う。

 宮城県牡鹿郡女川町は、石巻市の隣りにある、人口約1万人(震災前)の、漁業の町だ。
 NHKの復興支援ソング《花は咲く》の冒頭フレーズを歌っている中村雅俊の出身地である。
 震災では、高さ20メートルの大津波に襲われ、宅地・商業地の8割がさらわれた。
 死者・行方不明者は1,000人近くにおよび、震災後、3,000人が町を離れた。
 東北電力の女川原子力発電所は高台にあったので、最悪の事態は免れたが、JR石巻線「女川駅」が再開したのは、昨年3月である。

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▲2011年4月末、福島県浪江町(筆者撮影)

 当時、東京で勤務していた女川町出身の松木達徳氏は、自らも実家を流失した。
 被災した故郷で、情報不足を痛感した松木氏は、災害FMの存在を知り、放送作家トトロ大嶋氏らの協力を得て、女川町と相談の上、開局に至った。
 運営や番組制作は、松木氏らが募集した地元スタッフによってまかなわれた。

 当初は2か月程度で閉局する予定だったらしい。
 しかし、ほぼ全町民が仮設住宅へ移り、町内コミュニティが分断されたため、いつしかラジオ局が、それらを補う、重要な存在となっていた。
 さらに多くのメディアで紹介されたこともあり、同局は、災害FMの象徴のような存在になった。
 そこで、放送延長を決定し、町の広報のほか、復興・生活情報、小学校の運動会やイベントの中継、さらに、音楽番組やバラエティ番組を放送するようになった。
(NHKのドラマ「ラジオ」では、局自体が高校生によって運営されているような印象の描かれ方だったが)
     ◆ ◆ ◆
 この3月上旬、マスコミは、一斉に震災5周年にちなんだ企画を連発した。
 特に全国放送のテレビは、海岸で涙する人々や、仮設住宅生活での苦労ぶりを流し、「忘れてはいけない」「復興はまだこれからだ」「いつまでも語り継ごう」と、センチメネタルに訴え続けた。
 だが、普段、災害FMを聴いていた私は、ずいぶんちがう印象を覚えた。

 確かに復興はまだまだだ。
 先月、日本大学法学部新聞学研究所が「東日本大震災が地域メディアに問いかけたもの」と題するシンポジウムを開催した。
 そこで、「石巻日日新聞」常務の武内宏之氏は「ようやく今年が復興元年という感じがする」と発言されていた。

 また、私は、福島県南相馬市が主宰するジュニア吹奏楽団「ゆめはっとジュニア・ウインド・オーケストラ」を、創設からの数年、ほんの少し、お手伝いしたのだが、最寄駅の常磐線はまだ復旧していない(2016年3月現在)。
 よって5年たったいまも、現地へ電車でストレートに行くことは、できない。

 かように、「復興」は、まだまだなのである。
 しかし、言うまでもなく、地元の人たちは、すべてが涙に暮れているわけでも、「5周年」だからといって何か特別な日を送ったわけでもないはずだ。

 私が「女川さいがいFM」で知った曲に《虹を架けよう》がある。
 小柴大造が作詞作曲した復興支援ソングで、アップテンポの、1970年代フォークソングを思わせる曲調だ。
 東北出身のアーティスト(さとう宗幸や遊佐未森など)が参加するBikkisが歌っている。
 「女川から自転車飛ばして/君が住む石巻へ/ピーナツバターのサンドイッチを鞄に詰め込んだなら/そこはもう青春の街」と歌いだされる。

 私は、浮世離れしているせいか、それまで、復興支援ソングといえば、《花は咲く》や、《あすという日が》くらいしか知らなかった。

 だが《虹を架けよう》も、とてもいい曲で、聴いていると元気が出る。
 震災に関係なく、ひとびとを励ましてくれる、素直な曲だ。
 全国区レベルの人気曲ではないかもしれないが、災害FMでは、毎日のように流れていた。
 あの曲のムードが、いまの東北をもっともあらわしていると信じたい。

 ところが、そういうムードを全国放送のテレビや、大マスコミは、あまり伝えない。
 どうしても、お涙頂戴が多くなる。
 しかし災害FMには、お涙頂戴をやってる暇はないようだ。
 「花は咲く」のを待つのではなく、いますぐ「虹をかけよう」と呼びかけている。

 今月に入ってからの「女川さいがいFM」は、最終日に向けて、なんとも言いがたい内容の番組が続いている(ただし、どの番組も実に明るい)。
 4月以降、残った7局は、いつまで存続するのだろう。
 東日本大震災を「忘れてはいけない」と思う方は、ぜひ、残り少ない災害FMを聴いてほしい。
 そして、「女川さいがいFM」をはじめ、災害FMを運営してきた(これからも運営する)東北の方々には、ラジオ界の片隅にいる人間として、心からのお礼とねぎらいを送りたい。
 どうもありがとう。
(一部敬称略)


※災害FMやコミュニティFMは、サイマル・ラジオ経由で、パソコンやスマホで聴けます。

※上記で紹介した佐藤敏郎氏の番組は、4月から東北放送(TBC)で放送が継続することになったようです。


このCDのライナーノート(解説)を書きました。とてもいいCDだと思います。

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