2018.02.21 (Wed)
第192回 耳嚢(みみぶくろ) 2018年2月
◆『アンチゴーヌ』2題

ジャン・アヌイ『アンチゴーヌ』の舞台を、たまたま、2つ、つづけて観た。
まず、日本大学芸術学部演劇学科の実習発表(2017年12月22日、日本大学芸術学部・北棟・中ホール)。ただし、演出はプロ(桐山知也)。スタッフ陣も学生だが、これらにもプロの指導が入った、学生演劇としてはかなりハイレベルの舞台である。
つぎが、PARCO制作による公演。主演:青井優、演出:栗山民也(1月16日、新国立劇場小劇場)。
翻訳が、前者は芥川也寸志、後者は岩切正一郎(新訳)で、セリフ回しはかなりちがう(芥川訳は1949年初演だが、全然古くない。いまでも十分、通用する)。
学生演劇とプロ公演を比べても意味がないのだが、それでもわたしは、前者の学生演劇のほうをずっと面白く観た。なぜなら、PARCO版は、舞台の半分近くが「見えなかった」のである。
PARCO版は、十字の花道舞台(ランウェイというのか?)の上で演じられた。最近は、こういう特設舞台の芝居が多い。2011年に同劇場で、ベケット『ゴドーを待ちながら』(演出:森信太郎)が上演されたが、あれも1本道舞台で、両側に客席が設営された。文学座アトリエ公演でもしばしば登場する。昨年の『青べか物語』(演出:所奏)や、2010年『トロイアの女たち』(演出・松本祐子)も、同じような1本道舞台だった。
これら1本道舞台を縦軸とすれば、そこに、横軸を加えて十字にしたのが、今回の公演である。観客は、十字の外側で区切られた4つのスペースの、どこかで観る。
この各スペースの最前列ならまだしも、わたしのように後列になると、すぐ脇の短い花道舞台は、完全に見えない。役者がいるのか、いないのか。いても何をやっているのか、まったくわからないのだ。
さらに、長い花道舞台も、向こう側のほうになると、あまりに遠くで、しかも背を向けて芝居をされた日にゃあ、これまた、何をやっているのか、どんな表情なのか、まったくわからない。東京オペラシティ・コンサートホールの、3階LやRの2列目は、ステージが半分見えない驚愕構造だが、あの状態で芝居を見せられたと思えば、当たらずとも遠からず。
こんな芝居に「役者が目の前で迫力があった」なんて感想を投稿しているひとたちの気がしれない。「見えなかった分、カネを返してくれ」と言いたかった。
これに対し、日芸の方は、昔ながらのステージ芝居で(舞台上の左右両端にも客席を設置)、少なくとも「見えない」なんてことはなく、落ち着いて鑑賞できた。バカバカしい道理だが、よほど特殊な設定でない限り、芝居は「見える」ことが最低条件だと思う。
日芸は、なにぶん役者が学生なので、もちろん、PARCO版に比して、拙い。だが、なにがなんでも自らの生き方を変えないアンチゴーヌと、なんとかして彼女を翻意させようとするクレオン王の、ともに切羽詰った感じは、学生演劇のほうが切実感があった。
また、日芸版は、ラストでトランプに興じる衛兵たちを、(さっきまで小姓だった)子供の「人形」がじっと見つめる場面で終わっていた。これはなかなか示唆に富んだ演出で、おそらく、アンチゴーヌは潰えたが、彼女の遺志は次の世代が引き継ぐであろうことをあらわしているように見えた。1970年代末に、パトリス・シェロー(1944~2013)が、バイロイト祝祭の《ニーベルングの指環》の大詰め〈神々の黄昏〉ラストでやった演出を思い出させた(滅び行く神々を見つめる群衆の中に、ひとりだけ子供がいて、客席を向く)。
アヌイは、この戯曲を、ナチス占領時代のパリで発表した。最後まで自分の考えを曲げず、そのために命を落とすアンチゴーヌに、どんなメタファーを託したのかは、いうまでもない。日芸版は、その点をうまく強調しているように、わたしは観た。そして、先日亡くなった、作家・石牟礼道子の生涯を、いつしか重ねあわせていた。
◆マクドナー2題

いま話題の映画『スリー・ビルボード』を観に行き、どうも監督脚本の名前に記憶があるなと思ったら、アイルランドの人気劇作家、マーティン・マクドナー(1970~)だった。昨年暮れに、彼の戯曲『ビューティ・クィーン・オブ・リーナン』を、シアター風姿花伝で観たばかりだった(俳優・中嶋しゅう がプロデュースしていたが、急逝したので、仲間が引き継いで上演した)。どおりで、どちらも、主人公が、社会から隔絶したような生き方をしているクセのある女性だったわけだ。
この映画の中で、登場人物のひとりが、フラナリー・オコナーの短編集『善人はなかなかいない』を読んでいるシーンがある。そういえば、マクドナーのつくる物語も、どこかオコナー的な「イヤミス」風で、もしかしたら、影響を受けているのかもしれない。
ちなみに、この映画のせいかどうか知らないが、最近、ちくま文庫の『フラナリー・オコナー全短篇』上下が、復刊した。『善人はなかなかいない』は、上巻に収録されている。
◆六代目竹本織太夫襲名披露

中堅の太夫、豊竹咲甫太夫(1975~)が、六代目竹本織太夫を襲名した。彼の師匠は、現在、最高格の切場語り、豊竹咲太夫(1944~)だが、その咲太夫の父が八代目竹本綱大夫(1904~69)で、前名が「竹本織太夫」だった。つまり咲甫は、師匠の父の前名を継いだのである。ちなみに、今年は綱太夫の五十回忌だそうで、その追善もかねていた(文楽の世界は襲名のたびに、「姓」までが変わるので、ややこしい)。
その新・織太夫が後を語った「合邦住家」は、ほんとうに素晴らしくて、涙が出た(2月15日、国立小劇場にて)。わたしは咲甫時代からのファンで、その美声と大音声、見事な感情の入れ込み方が好きだった。それが、今回は襲名披露でもあり、さらに力が入って「オイヤイヤイ」など、背筋を何かが走って仕方なかった。
4~5月は、吉田幸助改め五代目吉田玉助の襲名披露もある。最近は、歌舞伎の襲名披露で大騒ぎだが、文楽も負けていられないとの、国立劇場・文楽協会の意気込みを感じた。文楽がんばれ、松竹に負けるな。橋下徹がやったことが愚行だったことを証明してくれ。
それにしても、東京公演は毎回、ほぼ即日完売で、切符の入手がますます困難になっている。きついだろうが、もう少し公演回数を増やすとか、関係者の確保席を少なくするとか、なんとか工夫してくれないだろうか。
◆東京佼成ウインドオーケストラの課題曲コンサート

昨年にひきつづき、東京佼成ウインドオーケストラが、全日本吹奏楽コンクールの課題曲だけで構成されたコンサートを開催した(2月16日、東京オペラシティ・コンサートホールにて)。指揮と語りは、大井剛史。昨年同様、前半が新年度の5曲で、後半が過去の名曲。今年は、アンケートの投票結果を10年単位で区切って、トップの曲が選ばれたのだという。
今回も、課題曲だけで十分魅力的なコンサートが成立することを証明した、画期的な公演だったが、なんといっても成功のカギは、大井氏の、的確にしてユーモアあふれる解説にある。彼の語りなくして曲だけ演奏していたら、これほど面白いコンサートにはならなかったであろう。東京佼成WOも、品のある、美しくて見事な演奏。個人的には、今年生誕100年を迎えた大栗裕の《吹奏楽のための小狂詩曲》(1966年)を初めてナマ演奏で聴き、たいへん面白く感じた。
それにしても、ほぼ満席の客席は、吹奏楽部員と思しき中高生と、吹奏楽界の関係者ばかり。もう少し、昔の名課題曲を楽しみにくる一般聴衆がいてくれたらなあ、と思った。そして、彼らのうち少しでも、普段の定期演奏会に来てくれたら……。なお、中高生の演奏会マナーのひどさには、辟易した。
〈一部敬称略〉
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2016.04.01 (Fri)
第160回 耳嚢(2016年3月、続)

◆最近は、漫画の展覧会が大流行である。
美術館どころか文学館までもが漫画家を取り上げている。
しかし、そのほとんどは有名作品の原画やスケッチを見せるばかりで、あまり工夫がない。
それでもどこも大入りらしいので、しばらくは漫画展がつづくのだろう。
「ますむらひろしの北斎展」(2月6日~3月27日、八王子市夢美術館)は、そんな流行を嗤うかのような、すごい漫画展であった。
これは、漫画家ますむらひろしが、パチンコ店のフリー・マガジンに描き続けた「アタゴオル×北斎」のイラスト原画と、その自解文、もとになった北斎の浮世絵(複製)の3つセットを、計50数点、展示するものだった。
「アタゴオル」とは、ますむらひろしが描き続けている、猫と人間が自然と共生しているファンタジー世界のことで(宮沢賢治のイーハトーブにあたる)、その世界観で北斎の浮世絵を描きなおしたものだ。
一見、図中の人間を猫に置き換えただけの「パロディ」かと思うが、よく見ると、まったくちがう。
様々な細かい部分が「アタゴオル」的に変容を遂げている。
そして、横の自解文パネルで、なぜこうなったのか、いかに北斎と格闘したかが、えんえんと綴られる。
そのうち、北斎のどこが素晴らしいのか、あるいは、どこが奇妙なのか、がだんだんとわかってくる。
まるでミステリ小説の謎解きを体験しているようだった。
あの自解文をすべてを集めたら、おそらく新書一冊分にはなるだろう。
これほど本人が「語る」展覧会は、めったにあるまい。
とても1時間や2時間でまわれるものではなかった。
しかし、北斎の原典と、ますむらのイラストを見比べ、横の長大な自解文をじっくり読んでいるうちに、どんな専門家による解説や画集よりも、はるかに北斎のすごさがわかった。
これは「漫画」の粋を超えた、近年最高の「浮世絵展」といっていいのではないか。
ぜひ、ほかの会場にも巡回してほしいと思った。
なお、自解文も含め、展示内容をすべておさめた図録画集が販売されていたが(アマゾンでも一時売られていた)、印刷レベルが低く、イラスト原画の鮮やかさが失われており、残念だった。
展示【★★★】
図録【☆☆☆】

◆「WOMEN: New Portraits」展(江東区東雲「TOLOT/heuristic SHINONOME」、2月20日~3月13日)は、ポートレイト写真家、アニー・リーボヴィッツの新作展。
スイスの金融会社UBSがスポンサーとなった世界巡回展で、会場は東雲の倉庫ギャラリー、入場無料であった(簡単な図録パンフも無償配布されていた)。
アニー・リーボヴィッツは、「ローリング・ストーン」や「ヴァニティ・フェア」で活躍した写真家で、特に、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが抱き合う写真(この撮影直後、ジョンは射殺された)や、デミ・ムーアの妊婦肖像写真で話題になった。
最近は、美術館のショップや書店で売られているポストカードで有名かもしれない。
今回は、そんな彼女の名作写真集『WOMEN』の続編である。
アウン・サン・スーチー、アデル、マララ、テイラー・スイフトといった有名人の写真も迫力があったが、わたしは、年輩女性のほうに魅力を感じた。
たとえば、霊長類学者のジェーン・グドールの顔の「しわ」の深さなど、たいへん美しかった。
ただ、わたしがこの種の写真展に慣れていないせいかもしれないが、展示作品が、あまりに小さなプリントで、たいへん見にくかった。
その一方、会場には巨大なモニターが設置され、アニーの過去作品が続々とデジタル投影されており、このほうが印象に残った。
【★★☆】

◆「新潮」4月号に300枚一挙掲載された、蓮實重彦の『伯爵夫人』は、その凄まじいポルノグラフィ描写が話題となっている。
わたしは、蓮實重彦氏についてあれこれと語れるほどの知見はないのだが、それでも、もうすぐ80歳になろうとする元東大学長の仏文学者にして映画評論家に、こんなパワーがあること自体、驚異以外のなにものでもなかった。
正直なところ、いったい、なぜ、突如、このようなものが書かれたのか、かなり戸惑いながら(しかも、一人で黙読しているにもかかわらず、赤面しながら)読んだ。
太平洋戦争の直前、東京帝大受験を目指す「活動写真狂い」の高等学校生・二朗と、「伯爵夫人」が町中で会い、「せっかくですからご一緒にホテルへまいりましょう」となる。
そこから先は、批評家の佐々木敦氏が「徹底的にはしたなく、いやらしい、つまりは助平そのもの」で「どこを引用しても公器たる新聞にはふさわしからざる字句が含まれてしまう」と称する描写がつづく(東京新聞、3月31日付夕刊)。
主人公が活動好きなので、映画の話題もふんだんに出てくるのだが、読んでいて、それどころではない。
今後、単行本化されるものと思われるが、そのとき、どのような受け止められ方をするのか、楽しみである。
【???】
(一部敬称略)
【★★★】 嗜好に関係なく、お金と時間を費やす価値がある。
【★★☆】 嗜好が一致するのなら、お金と時間を費やす価値がある。
【★☆☆】 嗜好の範囲を広げる気があるなら、お金と時間を費やす価値がある。
【☆☆☆】 お金も時間も費やす価値はない。
◆このコンサートのプログラム解説を書きました。4月29日です。ぜひ、ご来場ください。
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◆毎週(土)23時FMカオン、毎週(月)23時調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」案内係をやってます。4月は「震災と吹奏楽」「追悼、キース・エマーソン」です。
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2016.03.29 (Tue)
第159回 耳嚢(2016年3月)

▲根岸鎮衛『耳嚢』全三巻(岩波文庫)
江戸時代後期、南町奉行の根岸鎮衛(ねぎし・しずもり)が、あちこちで見聞した珍談奇談怪談を、30余年にわたってミニ随筆に綴った。
その数1,000編におよび、『耳嚢(みみぶくろ)』と題された。
とても根岸には及ばないが、私なりの珍談を、時折、書きつけておくことにした。

◆文学座の本公演『春疾風(はやて)』(川﨑照代作、藤原新平演出、3月12~21日、紀伊國屋ホール)は、十数年前に母親の介護で帰省したっきり、なぜか母の死後も帰ってこないオデッセウスみたいな夫をめぐる、家族の物語。
いったい、何が原因だったのか、夫の「衝撃的告白」を期待したのだが、あまりに拍子抜けの展開に、唖然呆然。
客席の9割を占める超シニアの観客には、あれくらいがいいのか。
文学座は、本公演とアトリエ公演のちがいが、あまりに大きすぎないか。
【★☆☆】

◆てがみ座公演『対岸の永遠』(長田育恵作、上村聡史演出、3月4~30日、シアター風姿花伝)は、ソ連崩壊後、混乱するサンクトぺテルブルクで生きる女性が、かつて家族を捨て、アメリカに亡命した父(詩人)の死を知り、彼の足跡と精神を受け入れるまでを、井上ひさし『父と暮せば』のような手法で描く意欲作。
詩人のモデルが、ノーベル文学賞作家、ヨシフ・ブロツキーだというので期待して観に行ったが、およそブロツキーとは思えぬ、『リア王』の道化を思わせるコミカルな雰囲気で、私としてはがっかりした。
だが、全編に翻訳劇のような迫力がみなぎっていて、見ごたえはあった。
【★★☆】

◆「原田直次郎展~西洋画は益々奨励すべし」(2月11日~3月27日、埼玉県立近代美術館)は、森鷗外『うたかたの記』の主人公・巨勢のモデル、原田直次郎の作品展。
「森鷗外が明治42年に開催した遺作展以来、およそ100年ぶり」となる画期的な催しだというのに、なんと彼の代表作『騎龍観音』が展示されていない、あんまりな内容。
北浦和まで行ったのに(もっとも、『騎龍観音』は、最近、東京国立近代美術館で観たばかりだが)。
ところが、神奈川県立近代美術館<葉山>での巡回展(4月8日~5月15日)では、ちゃんと展示されるという。
これは、国指定重用文化財の規定で、ある日数以上は貸し出せないからなのだが、最初から知っていれば、埼玉でなく、葉山に行っていただろう。
会場では、約20分のドキュメント映像が放映されており、これがなかなか面白かった。
たぶん、<葉山>でも放映されると思うので、これから行かれる方は、ぜひご覧いただきたい。
なお<葉山>は確かに都心からは遠出となるが、半日を費やすだけの価値のある、風光明媚な立地なので、天気のよい日を選んで、気軽な観光気分で行かれることをお奨めする。
埼玉【☆☆☆】
葉山【★★★】

◆「わが青春の『同棲時代』~上村一夫×美女解体新書展」(1月3日~3月27日、弥生美術館)は、『同棲時代』『修羅雪姫』『関東平野』などの劇画家・イラストレーター、上村一夫の原画を中心とした回顧展。
私がかつてコミック編集者だったころ、上村作品を復刻刊行したことがあり、その原画も展示されていて懐かしかった(私が書き込んだノンブル指定が残っていた)。
上村劇画は、ひとコマひとコマが、一幅のイラスト絵画として完成されており、観ていて飽きない。
しかし、『修羅雪姫』原作者名を、何か所も「小池一雄」と誤記するなど、「美術館」の名が泣く、ずさんな解説文。
会期最終近くに行ったのだが、3か月間、あれほどの大きな誤記がそのままになっていたのかと思うと、ぞっとした。
【★★☆】
◆第157回でご紹介した「女川さいがいFM」が、3月29日(月)正午で停波(閉局)した。
私は子供の頃からラジオ・マニアなのだが、「閉局」「停波」は初めて体験した。
ラジオって、こうやって「停波」するのか……なんともいえない瞬間だった。
その前、26日(土)夜、宮城県女川町現地からの生放送に、突如、桑田佳祐が登場し、約1時間にわたってライヴを聴かせてくれた。ちょうど、彼のFM-TOKYOの番組との提携で、全国の系列FMでも放送されたようだが、これには驚いた。
会場にいた観客もびっくり仰天したようだ。
さっそく知人の芸能ジャーナリストに知らせたら、「いま、会場にいます」とのメッセージが返ってきた。
ちなみに「女川さいがいFM」が、停波直前に流した最後の曲は、サザンオールスターズ《TSUNAMI》だった。

◆3月に観た映画でもっともよかったのは、新文芸坐の内田吐夢監督特集における『暴れん坊街道』(昭和32年、東映京都)。
近松の義太夫『丹波与作待夜小室節(たんばよさく・まつよのこむろぶし)』(いわゆる「重の井子別れ」)を依田義賢が脚色した。
主演は佐野周二、千原しのぶ、山田五十鈴。
主役級の子役が植木基晴(片岡千恵蔵の長男。日本航空の社長は三男)。
実は今回で3回目の鑑賞なのだが、またも泣かされた。
芸達者な山田五十鈴もさることながら、お姫様役が多い千原しのぶが、伝法な飯盛女で、なかなかいい味だった。
悪役専門の薄田研二が、真面目ゆえに偏狭に過ぎ、事態を悲劇に導いてしまう善良な家老を見事に演じていた。
【★★★】

◆3月に観た映画で、もっともがっかりしたのは、スペインの新作『マジカル・ガール』で、こんなに後味の悪い映画は、ひさびさだった。
ところが、これが「新感覚」で、「実に面白い」そうで、けっこうヒットしているらしい。
「重の井子別れ」に泣く私のような人間には、とても無理だった。
【★☆☆】
◆この「グル新」のネタのきっかけは、大半を全国紙の夕刊から仕入れている。
最近の夕刊は、ほとんど、文化芸能情報紙である。
音楽、美術、映画、演劇、古典芸能などの記事が満載で、昔の「ぴあ」みたいな内容だ。
ところが、いま、夕刊を「買う」ことは、たいへん難しい。
コンビニには朝刊しかない(読売新聞のみ、一部コンビニに夕刊を置いている)。
夕刊は、駅構内の売店でしか買えない(しかも、部数が絞られているのか、早々と売り切れている売店が多い)。
最近の駅売店のつくりは、コンビニと区別がつかない。
1部50円の夕刊を数紙買うのに、わざわざ行列に並ばなくてはならない。
たまに外国人店員にあたると、たいへんである。
新聞は、バーコードにPOS読み取り機を当てて「ピ」で済ますわけにはいかないので(最近、産経新聞はバーコードを付けているようだが)、いちいち、レジ画面を開いて、紙名をタッチしなければならない。
外国人店員だと、これにたいへんな時間を要するばかりか、中には、読めない者もいて、その際は、日本人店員に来てもらわなければならない。
昔、スタンド形式のKIOSKでは、千手観音と聖徳太子が合体したような女性店員がいくらでもいて、四方八方から押し寄せる客を、同時に平然とさばいていたものだ。
神保町交差点にある「廣文館書店・東京店」は、新聞を、しかも夕刊をそろえて売っている、素晴らしい書店である。
入口に雑貨や食品を並べて「書店」と名乗っているどこかの店も、新聞くらい売ればいいのに。
廣文館書店【★★★】
(敬称略)
【★★★】 嗜好に関係なく、お金と時間を費やす価値がある。
【★★☆】 嗜好が一致するのなら、お金と時間を費やす価値がある。
【★☆☆】 嗜好の範囲を広げる気があるなら、お金と時間を費やす価値がある。
【☆☆☆】 お金も時間も費やす価値はない。
◆このCDのライナーノート(解説)を書きました。とてもいいCDだと思います。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「BandPower」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(土)23時FMカオン、毎週(月)23時調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」案内係をやってます。4月は「震災と吹奏楽」「追悼、キース・エマーソン」です。
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