2016.04.05 (Tue)
第161回 映画『木靴の樹』

こういう素晴らしい作品を紹介できるとき、拙いながらライターをやっていて、ほんとうによかったと思う。
現在、岩波ホールで公開されている映画『木靴の樹』(オルマンノ・エルミ監督、1978年、イタリア)は、1979年に封切公開されて以来、37年ぶりの同ホールでのリバイバル公開である(岩波ホールのあと、日劇文化でもロングランとなり、90年には日比谷のシャンテシネ=現TOHOシネマズシャンテでもリバイバル公開された)。
わたしは、当時、岩波ホール近くの大学に通う学生だった。
確か、あのころ(他の作品を挟みながら)『惑星ソラリス』『家族の肖像』を観て、そのあとがこの『木靴の樹』、さらにそのあとが、たいへんな騒ぎとなった『旅芸人の記録』だったと思う(4時間近い難解な映画が連日満席で、なかなか観られなかった)。
思えば、当時の岩波ホールは、すごい作品を上映していたものだ。
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『木靴の樹』は、19世紀末、イタリア北部・ロンバルディア州ベルガモの寒村が舞台である。
この村の、貧しい4軒の小作農の日常を淡々と描写する、半ばドキュメンタリのような映画だ。
出演者は、すべて、現地の農民たちだという。
ラストで思いがけない出来事に見舞われる以外は、たいしたドラマは発生しない。
小作農たちは、収穫の三分の二を地主に納めなければならず、極貧生活だ。
それでも、文句もいわず、一揆も起こさず、神に祈りを捧げながら、黙々と農作業に従事している。
子供たちも、当たり前のように大人を手伝っている。
4家族は長屋で暮らしており、ほとんどは共同作業だ。
夜になると全員が納屋に集まり、小話を披露しあって過ごす(この場面で、ヨーロッパで『デカメロン』や『カンタベリー物語』、さらにイサク・ディーネセンにまでつながる「語り集」が成立した理由が、よくわかる)。
3時間強の長尺作品で、最初はあまりにも何も起きないので、少々、戸惑う。
しかし、やがて、これが人間本来の生活リズムであり、わたしたちの体内にも、それが宿っていることに気づくと、もうスクリーンから目が離せない。
つい数世代前の、自分たちの御先祖の姿を見ているような気になる。
すでに指摘されていることだが、農作業風景は、確かにミレーの絵画のようである。
後半、若い新婚夫妻が、そっと手を取り合い、川下りの船でミラノへ向かう、あまりに美しいシーンがある。
ここで、とんでもない映画を観ていることを知るだろう。
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37年前、初めてこの映画を観たとき、たまたま島崎藤村『夜明け前』を読んでいたことを、いまでも覚えている。
ほぼ同じ時代の日本とイタリアで、庶民が似たような目にあっていた、その偶然に驚いた記憶があるからだ。
19世紀後半は、イタリアが統一され、王国が成立した時代だ。
ローマ遷都、エチオピア侵攻などがあり、急速に近代化が進んだ。
だが、ベルガモの貧農たちには、はるか彼方の出来事だ。
遠くで黒煙が上がっていても「警官とストの衝突では」「いや枯れ草が燃えているだけだろう」で終わってしまう。
ミラノのストライキを制圧する官軍を見ても、村からやってきた素朴な新婚夫妻には、何が起きているか、よく理解できない。
そもそも、4軒の全員が文盲である。
だから冒頭で、一人の男の子が小学校へ通うことになった、それ自体が、両親にとっては「衝撃」以外のなにものでもなかったのだ(この件がラストの伏線となっている)。
これに対し、『夜明け前』は、幕末から明治維新にかけての、木曽山中・馬籠宿に生きるひとびとを描いている。
彼らにとっても江戸で起きていることは、遠い出来事だった。
ところが明治新政府の「近代化」政策は、木曽山中の素朴な庶民までを、情け容赦なく攻め立てる。
彼らが守ってきた森林は国有林となって使用が制限され、生活は、ますます苦しくなる。
「御維新」「文明開化」は、一般庶民を苦しめるものでしかなかった。
このあと、『夜明け前』の主人公たちは、ベルガモの農民よりは、ずっと反抗的な態度に出るのだが、結局は敗れ去る。
権力者による近代化の下で庶民が犠牲になる姿は、『木靴の樹』とそっくりだった。
あれから37年。
今回、ラスト・シーンに、原発事故で故郷を追われたひとたちの姿を見出さないわけにはいかなかった。
オルミ監督は、昔のベルガモの寒村を舞台に、近代化の相克とその普遍性を、見事に描いていたのだった。
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もう一つ、この映画で重要なのは、全編に流れるバッハである。
オープニング曲は《小フーガ》ト短調だが、大半は、その場面を具体的に象徴する曲が流れる(ほとんどはオルガン演奏。一部、無伴奏チェロ組曲もあった)。
たとえば何度となく流れる主要テーマは、《片足は墓穴にありてわれは立つ》BWV 156である(チェンバロ/ピアノ協奏曲ヘ短調BWV1056の第2楽章としても有名。映画『スローターハウス5』で、グレン・グールドの演奏で流れていた曲)。
このタイトル「片足は墓穴にありて」が物語全体を象徴していることは想像できよう。
そのほか、寡婦のおかみさんが、地主から預かっている牛が病気になってしまい、神に助けを求めるシーンは《われを憐れみたまえ、おお主なる神よ》BWV 721。
息子の木靴が割れてしまい、父親が、こっそり地主のポプラの木を斬って、夜なべで新品を作ってやるシーンは、《甘き死よ来たれ》BWV478(地主の所有物を掠め取るとどうなるか、父親の覚悟を音楽が表現している)。
新婚夫妻とその一行が教会に向かうシーンは《最愛のイエス、われらここに集いて》BWV731。
……と、この調子で、すべてのシーンと曲名が、ピッタリ合っているのだ。
これほど直截なクラシック曲の使い方をしている映画も、珍しいだろう。
その意味で、本作は本格的な「音楽映画」でもある。
ぜひ、音楽にも耳を傾けてほしい。
なお、この映画はすでにDVDやブルーレイにもなっているが、一点だけ、注意を喚起しておきたい。
オルミ監督は、ほとんどのシーンを自然光で撮影した(だから全体的に薄暗いが、太陽光のシーンは実に柔らかくて流麗だ)。
こういう映画は、「プリント」を映写機の「光線」が通過し、完全な暗闇の中で「投影」されて、初めて画面として成立するのである。
それを一般家庭の室内で、しかもデジタル液晶画面で観ることは、フェルメールやカラヴァッジョを印刷画集で見て本物を鑑賞した気になっているのと同じである。
さらに、今回のプログラム(500円)は、配給会社が編集制作したもので、岩波ホール製ではないので、これも注意されたい。
岩波ホールの編集制作だと、採録シナリオや、文化背景の本格解説があるが(今回だったら、音楽解説など)、その類の記事は皆無で、「感想文」が3本載っているだけである。
今回の上映は、4月23日(土)から、オルミ監督の新作『緑はよみがえる』が公開される、その露払いである。
わたしは、この新作を、昨年のイタリア映画祭で鑑賞した。
なるほどオルミ監督らしい素朴で美しい作品だとは思ったが、やはり『木靴の樹』は別格の、奇跡の映画だとあらためて思った。
ぜひ岩波ホールで、多くの方々に観ていただきたい。
※岩波ホールでの上映は4月22日(金)まで。その後、全国で上映予定。詳細はこちらで。
【★★★】
【★★★】 嗜好に関係なく、お金と時間を費やす価値がある。
【★★☆】 嗜好が一致するのなら、お金と時間を費やす価値がある。
【★☆☆】 嗜好の範囲を広げる気があるなら、お金と時間を費やす価値がある。
【☆☆☆】 お金も時間も費やす価値はない。
◆このコンサートのプログラム解説を書きました。4月29日です。ぜひ、ご来場ください。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「BandPower」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
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