2016.04.20 (Wed)
第163回 文楽『妹背山婦女庭訓』

▲文楽ではたいへん珍しい、横位置レイアウトのチラシ
今月の国立文楽劇場は、『妹背山婦女庭訓』の抜粋通し。
ある程度の規模の通し上演は、国立劇場小劇場で、十年くらい前が最後だったと思う。
内容は「大化の改新」を舞台にした政治メロドラマで、よく『ロミオとジュリエット』にたとえられるが、二組の男女悲恋が、国家の命運にまで影響を与える壮大な仕掛けは、シェイクスピアをしのぐ作劇術といえる。
人づてに筋書きを知ったマイヤベーアが《盲目のミカド》の題でオペラ化を計画したとの有名な逸話もある。
近松半二は、もっと注目顕彰されていい作家だと思う(今の時代に生きていたら、ミステリのベストセラーを続々放っていただろう)。
今回は、第1部に久我之助・雛鳥の物語をまとめ、第2部は蘇我入鹿を追い詰める物語に再構成されていた。
いわば『ゴッドファーザーPARTⅡ』から抜粋し、「若きビトー編」「マイケル苦悩編」の2本を別々に上映するようなものである。
その上、冒頭の大内や、井戸替え、入鹿征伐などは(最近「お三輪編」として上演されたばかりのせいか)カットされている。
よって、正確には「通し上演」とは言いがたいのだが、その分、見やすくはなっている。
それでも第1部は4時間半、第2部に至っては5時間。
1日通しだと10時間を要するわけで、ワーグナーも顔負けである。
見せ場「山の段」は、雛鳥=咲甫太夫/定高=呂勢太夫、久我之助=文字久太夫/大判事=千歳太夫が、両床掛け合いでたいへんな熱演だったが、もう少し落ち着いた感じの方が、わたしは好きだった。
ヴェルディ《ドン・カルロ》の、カルロとロドリーゴの二重唱が、あまりに力を入れすぎてしらけてしまうことがあるが、あれを思い出した。
もっとも、この場面を冷静に語る太夫など聴いたことはなく、たまたまプログラムに、三味線の人間国宝、鶴澤清治のインタビューが載っていたのだが、この段は、
「床にも対抗意識が無かったら駄目ですよね。激しい気合いみたいなものが必要だと思います」
「お互いに『負けたらいかん』という感じがありますね。まさしく妹山と背山のバトルですよ(笑)」
――だそうで、「落ち着いた山の段」など、ありえないらしいことがうかがえる。
第1部の久我之助、第2部のお三輪とも、主遣いは勘十郎で、今回は、ほとんど「勘十郎奮闘公演」のようであった。
第1部の切「山の段」で、切腹した久我之助を30分以上にわたって瀕死の状態のまま遣っているのを見て、「何とかしてあげてくれ」と言いたくなったのはわたしだけではないはずだ。
だって、あのあと、第2部では、夜9時まで、お三輪が「竹に雀」でまたも刺され、えんえんと苦しむのだから。
いくら仕事とはいえ、まことにご苦労様としかいいようがなく、全盛期の先代猿之助を思い出した。
こういった語りの熱演や、勘十郎の奮闘ぶりを観ていて、いま、文楽はたいへんな時期にぶち当たっていることを痛感した。
住太夫、源太夫、嶋太夫と立て続けに引退後、現在ただ一人の切場語りとなった咲太夫は、今月、病気休演である(代演・咲甫太夫の「杉酒屋」が聴けたのは僥倖だったが)。
つまり今月は、これほどの超大作の記念碑的上演にもかかわらず、「切場語りがいない」のだ。
山の段で中堅たちが超熱演を披露したのは、それをカバーしようと命がけだったのである。
主遣いはついに文雀が引退し(特に引退興行や挨拶などはなし)、大幹部は蓑助(山の段の雛鳥)ただ一人となった。
なぜこんなことになってしまったのか。
これが宿命なのか、日本芸術文化振興会や文楽協会に責任の一端があるのか、わたしにはわからない。
いまはただ、今月の「山の段」の熱い浄瑠璃が、後世史家によって「あれが文楽新時代の突破口だった」と語られることを願うのみである。
(敬称略)
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