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2016.08.28 (Sun)

第171回 「ブラバン」とは何か。

 昔から、インパクトのあるネーミングには「濁音」「破裂音」が必須だといわれてきた。
 「ゴジラ」「ラドン」「キングギドラ」などの怪獣から「マガジン」「サンデー」「ジャンプ」まで、確かに人気者は「濁音」だらけだった。
 そのほうが印象が強くなり、耳に残るというのだ。
 「トルストイ」よりは「ドストエフスキー」のほうが、「モーツァルト」よりは「ベートーヴェン」のほうが、より深刻さがあって人生の深淵を見せてくれる気になる、その理由は、「濁音」(ド、べ)のせいだ、なんて冗談話もあった。
 
 最近、マス・メディアで「ブラバン」が、当たり前のように使われている。

 「ブラバン」とは、「ブラスバンド」の略である(と思う)。
 吹奏楽の名称を論じ始めるときりがないのだが、「ブラスバンド」とはヨーロッパに多い編成形態で、おおむね「サクソルン属の金管楽器」を中心に構成されたバンドを、そう呼ぶ(ことが多い)。
 これに対して「吹奏楽」とは、木管・金管・打楽器で構成され、おおむね「ウインド・オーケストラ」とか「ウインド・アンサンブル」「コンサート・バンド」などと呼ばれる(ことが多い)。
 もちろん、上記の分類は、あくまで「おおむね」であり、国によって地域によって、さまざまな楽器編成があるので、決定的とは言い難いのだが、しかし、まあまあ、「ブラスバンド」と「吹奏楽」は、ちがうものだと、わたしは、思ってきた。

 だが日本では「ブラバン」は、「ブラスバンド」ではなくて、「吹奏楽」に冠せられている。
 (なぜ、日本で「吹奏楽」と「ブラスバンド」がごちゃ混ぜなのかは、わたしなりに史料を調べたこともあるのだが、あまりに煩雑な話なので、いまは省く)

 吹奏楽が「ブラバン」でいいのなら、「来週の、東京佼成のブラバン演奏会行く?」とか、「もうすぐブラバン・コンクールの支部大会だよね」なんて会話がありそうなものだが、少なくとも、わたしは聞いたことはない(吹奏楽に無縁なひとは、そういう会話をしているのかもしれないが)。

 では、当のブラスバンド、たとえば秋に来日するイギリスの「ブラック・ダイク・バンド」や、映画で有名になった「グライムソープ・コリアリー・バンド」、あるいは日本の「東京ブラスソサエティ」などが「ブラバン」と呼ばれているのかというと、それもないようだ。
 そもそも、明らかに東京佼成ウインドオーケストラは「ブラスバンド」ではないから「ブラバン」とは呼びようもないし、ましてやブラック・ダイク・バンドや東京ブラスソサエティを「ブラバン」と呼ぶのは、なんとなく「ちがう」ことを、みんな感じているからだと思う。

 では、昨今の「ブラバン」は何なのかというと、どうやら、高校野球の吹奏楽応援、さらに敷衍して、中学高校の吹奏楽部の「部活動」そのものを、総称して「ブラバン」と呼んでいるようなのである。
 そして、そう呼んでいるひとは、この4文字に「親しみ」や「明るさ」「元気いっぱい」「青春」などのイメージを感じているようなのである。

 わたしが「吹奏楽部」に入ったのは1971年、中学1年のときだった。
 その時、わたしたちのことを「ブラバン」と呼ぶ者が、かなりいた。
 4文字の中に濁音が2つもあるのだから、印象効果は「ゴジラ」なみに抜群である。
 ところが、不思議なことに「ブラバン」と呼ぶ者はほとんどが部外者で、当の吹奏楽部員で自らを「ブラバン」と呼ぶ者は、まずいなかった(いま、吹奏楽を「ブラバン」と呼ぶひとには、外部ではなく、吹奏楽界内部のひとが、かなりいる)。
 なぜなら、「ブラバン」には、明らかに侮蔑的なニュアンスが含まれていたからだ。
 校庭でボールを追う純白のユニフォーム姿のテニス部員たちは、3階の音楽室のほうを見上げ、「まったくブラバンは、ブンチャカドンチャカと、うるさいなあ」と、いつも揶揄していたものである。
 そうか、「ブ」は、「ブンチャカドンチャカ」の頭韻なのか、では「バ」は「バカ」の頭韻なんだろうな……そんな被害妄想にさえ、陥ったものである。

 あのころ、青春スポーツ小説の傑作といわれていた田中英光の『オリンポスの果実』が、まださかんに読まれており、その中に、こんな一節があった。

「森さんは、真先に、ぼくをよんで、『オイ、大坂[ダイハン]、いっしょに探してくれ。』と頼むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違え易いので、いつも身体の大きいぼくは、侮蔑的な意味も含めて、大坂[ダイハン]と呼ばれていました。」

 「大きい坂本」=大坂[ダイハン]なる呼称を、主人公(著者)は「侮蔑的」と感じていたわけで、濁音が含まれている点も含めて、どこか「ブラバン」に似ているなあと感じたことを、思い出す。

 おそらくいまの若い方々は「考えすぎ」と嗤うだろう。
 だが、わたしの世代で吹奏楽部にいた者には、「“ブラバン”は差別用語だ」と断言する者がかなりいる。

 《吹奏楽のための「木挽歌」》や、コンクール課題曲《吹奏楽のための花祭り》、交響組曲《能面》などで知られる作曲家・小山清茂(1914~2009)が、まさに、わたしが吹奏楽部に入った1971年に、こんなことを書いている。

「吹奏楽=マーチ、ファンファーレの概念。私などにとっては、高校野球の応援がすぐに浮かんでくるのだが、これはあまりにも無知なる者の皮相的観察としておこう。(略)ブラバンなどという妙な言葉が持つ変てこな雰囲気をなくして、吹奏楽関係者が堂々胸を張り闊歩するためには、まずすぐれた芸術作品が誕生し、それをりっぱに演奏しなくてはならない」(「バンドジャーナル」1971年7月号「国籍不明でない日本の曲を」より。引用は、『日本の響きをつくる―小山清茂の仕事』2004年、音楽之友社刊より)

 この文全体は、もっと上質な国産オリジナル曲が生まれないと、日本の吹奏楽界のレベルアップは望めない、との主旨を述べているものである。
 よって、ここだけを引用すると誤解を招きかねないのだが、決して高校野球の応援を揶揄したいわけではない(現にわたしは高校~大学時代、さらに大人になって吹奏楽指導らしきことをしていた時期、すいぶんと野球の応援演奏、あるいは、アメリカン・フットボールのハーフタイム・ショー、プロ野球の優勝パレードなどにかかわったが、あれらも、十分、吹奏楽の一分野だったと誇りに思っている)。
 しかし要するに、わたしが吹奏楽部に入った1971年に、「ブラバン」を、「妙な言葉」で「変てこな雰囲気」があると感じているひとがいた、その証左として読んでいただきたいのである。

 いままでCDのライナー・ノーツをずいぶん書かせていただいたが、タイトルに「ブラバン」と入っている商品がある。
 わたしは、ジャケットと共にゲラになるまで、そのCDが「ブラバン○○」であることを知らなかった。
 担当者に「ブラバン○○なら、お引き受けしなかった」と苦言を呈すると、相手は(もちろん、かなり若い方だ)「なぜですか」と驚いている。
 そこで、前記のようなことをあれこれと話し、「わたしの世代は、ブラバンと呼ばれるのは、すごく嫌だった。この40数年、“ブラバン”なる語を排除するために、ずいぶんと気を使って仕事をしてきた」と言うと、「知らなかった」と、唖然となっていた。
 その商品は、すでに「ブラバン○○」で流通関係に登録されてしまっていたので、わたしもそれ以上なにも言わなかった。
 以来、事前に「ブラバン」と冠せられることがわかっている商品や企画の仕事は、なるべくお断りするようになった。

 ときが流れ、世代が変われば、価値観や印象も変わる。
 昔、アメリカン・フットボールのことを「アメラグ」と呼ぶひとがたくさんいた。
 その響きのなかには、「ラグビーの真似事」のようなニュアンスがあった。
 その後、関係者はかなり努力して、いま「アメラグ」なる語は、ほとんど使われなくなった(と思うのだが)。
 オリンピックの卓球を見て「日本のピンポンも強くなったなあ」と言うものは、いるかもしれないが、すくなくとも、マス・メディアでは、まず使用されない。

 だが「ブラバン」は、そうではないようだ。
 2016年のいま、吹奏楽界の外にいるならいざしらず、内部の当事者にもかかわらず、侮蔑だと感じないひとがこれだけいるのだから、「ブラバン」の印象も変わったのだろう。
 だから、「ブラバン○○」なる商品があっても、何もいわずに黙っている。

 しかし、わたし個人にとっては、なんとも不快な響きであり、そのことを自分の中で、もう転換のしようもないので、音楽の仕事をする以上、「ブラバン」は絶対に使わないし、そういう企画にも近づかないようにしている。
 それだけのことである。
<敬称略>

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2016.08.03 (Wed)

第170回 劇団昴『グリークス』

グリークス画像
▲劇団昴ザ・サード・ステージ公演『グリークス』(ジョン・バートン編訳/吉田美枝・日本語訳/上村聡史・演出)


  『グリークス』(ギリシャ人たち)は、英ロイヤル・シェイクスピア劇団の演出家、ジョン・バートンが中心となり、トロイ戦争にまつわるギリシャ悲劇10本を、物語の時間軸に沿って抜粋再構成した芝居である。
 3部構成で、正味約7時間。
 その間、17年間の時間が経過する設定になっている。

第1部【戦争】
 ①プロローグ+アウリスのイピゲネイア(エウリピデス)
 ②アキレウス(ホメロス)
 ③トロイアの女たち(エウリピデス)
第2部【殺人】 
 ④へカベ(エウリピデス)
 ⑤アガメムノン(アイスキュロス)
 ⑥エレクトラ(ソポクレス)
第3部【神々】
 ⑦ヘレネ(エウリピデス)
 ⑧オレステス(エウリピデス)
 ⑨アンドロマケ(エウリピデス)
 ⑩タウリケのイピゲネイア(エウリピデス)

 英国初演は1980年。
 日本では1990年に文学座がアトリエの会40周年記念として、また2000年にはBunkamuraシアターコクーンで蜷川幸雄演出による上演があり、今回の劇団昴で3回目になるようだ。
 わたしは、3部通し上演で観たのだが、正午に開演し、途中、休憩や入れ替えを挟みながら、終演は午後9時半。
 だが、疲れなどまったく感じない、ジェットコースタのような9時間半だった(7月30日、東武東上線「大山」駅前、Pit 昴にて)。

 このように、ちがった作家が書いた芝居をつなげて1本にすると、当然ながら、いくつかの「齟齬」が発生する。
 編訳者バートンは、演出家や役者に、その解決を委ねている。
 そこが、この芝居の見どころでもある。

 紙幅もあるので、2点だけ挙げると、まず、アガメムノン(ギリシャ軍の総大将)の妻、クリュタイメストラのキャラ設定が問題となる(バートン自身が出版台本=邦訳・劇書房版の解説でも指摘している)。
 彼女は、エウリピデス作の①では、愛する娘を生贄に差しだす母親として、無垢な苦悩を見せる。
 それが、アイスキュロス作の⑤では不倫と情欲にまみれた殺人鬼に変貌している。
 ソポクレス作の⑥になると、過去の罪に苦しみ、苛まれている。

 同一人物なのにこれだけ変容するキャラを、1本の芝居で演じる場合、どう都合をつけるか。
 特に①→⑤のちがいは、現代の観客を戸惑わせるに十分だ(そこにデジタル的な面白さもあるのだが)。
 かつて蜷川版で白石加代子が演じたといえば、尋常な役ではないことが想像できよう。

 今回、見事に演じたのは、服部幸子である。
 彼女は、①で、少々ケバケバしい(港町のスナックのママのような)、勝ち気で雑駁な雰囲気の女性として登場する。
 娘イピゲネイアを引き連れ、赤ん坊のオレステスを抱いて、殊勝な母親を演じてはいるが、陰にまわれば愛人もいて、実は何を考えているかわからない女を予感させる。
 だから、⑤で血まみれとなって斧を振り回しても、説得力がある(ここはたいへんな熱演だった)。

 もう一つの大きな「齟齬」は、第3部になると、突如として「神々」が登場し、地上の人間たちと平然と言葉を交わす点である。
 それまでシリアスな「現代感覚」で物語が進行していたのに、アポロンやアテナが「降臨」し、デウス・エクス・マキナよろしく事態を収拾に導いてしまうのでは、21世紀の我々はしらけるばかりである。

 実は、第1部・第2部の原典にも、神々が登場する作品はある。
 たとえば『トロイアの女たち』では、冒頭、ポセイドンとアテナが長々と会話を交わすし、『へカベ』は「亡霊」による解説で幕が開く。
 しかしバートンは、それらをカットし、第3部のみに神々を出した。
 ということは、第3部で「齟齬」が起きることを、バートンは十分予想していたはずである。
 どうも、そのあたりをどう処理するか、バートンは楽しんでいるフシさえ、感じられる。

 蜷川版では、この神々は、ホームレス老人風だった。
 今回、演出家がとった手法は、神々を「コミック」化してしまうことだった。
 ここでの神々は、ほとんど「お笑い芸人」である。
 「お笑い」は、我々の日常に当たり前にあるものだから、変でもなんでもない。
 舞台上の英雄たちも、神々が「お笑い」であることを承知で接しているので、観客は、そういう世界観の話なのだと、瞬時に理解できる(そこが舞台劇の面白さでもある)。

 ほかに、へカベを演じた小沢寿美恵は、さすがの貫録。
 滑舌も見事で、セリフまわしも美しい。
 彼女の主演で、あらためて『トロイアの女たち』を観たいと思わされた(その際、アンドロマケは服部幸子で!)。

 歴史の目撃者として、要所にアクセントをそえるコロスの女優陣が素晴らしかった。
 黒いボロ服をまとい、荷物を抱えた彼女たちは、ラストで英雄たちの名前を呼びながら舞台上を彷徨する。
 明らかに「難民」のイメージである。
(わたしはエレニ・カラインドゥルーの劇伴CDの解説写真でしか見ていないが、2001年、ギリシャのエピダウロス遺跡劇場における、アントニス・アンティパス演出版を思わせる)
 舞台上には、難民を導く英雄も、神々も、いない。
 もうエクソダスは訪れないのだ。
 故郷を失った彼女たちは、永遠に彷徨するしかない。
 それは、ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスが生涯をかけて追ったモチーフでもあった。
 そんな重大事を、演出の上村聡史(文学座)は、板橋の商店街のはずれにある地下のミニ・シアターで、軽やかに見せてくれた。
 そのことに驚き、感動した9時間半でもあった。
<敬称略>


このCDのライナー解説を書きました。

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