2016.11.25 (Fri)
第174回 《イギリス民謡組曲》
その中で、ヴォーン・ウィリアムズの《イギリス民謡組曲》の第2楽章について、こう書いた。
第2楽章 間奏曲<私の素敵な人> 表題曲と<グリーン・ブッシュ>の2曲で構成されている。前半のソロは、スコアでは「コルネットかオーボエで」と記されており、自由に選択できるようになっている(フェネルはオーボエを使用した。本日は?)。
これについて、「選択ではなく、2本のユニゾンではないのか」とのご指摘をいただいた。
なぜこんな解説を書いたかというと、フレデリック・フェネルの著書『ベーシック・バンド・レパートリー フレデリック・フェネルの実践的アナリューゼ』(フレデリック・フェネル著、秋山紀夫訳/佼成出版社、1985年9月初版)の中に、こういう記述があったからだ。
そして、[2](小節目)のところで指揮者は、ソロをオーボエにするかコルネットにするか選択しなくてはならない。おそらくどちらか安定して、卓越した技術をもっていて、美しい音色を出す、音楽的に優れた奏者が選ばれることになるだろう。こういうふうに選べないときには、私だったら、たいていオーボエの哀調を帯びた表現豊かな特性を生かすだろう。コルネットは、モチーフが大々的にはじまるのに備えて休ませるほうがよいと思う([16]および[17]の最初の音は除く)。ここのオーボエの音色は、暗い感じの調に合っているはずで、愛の別離を描いている表情豊かな歌詩のこころを浮きぼりにするのに向いている。(後略)
この本は、ホルストの第1・第2組曲、《ハンマースミス》、ヴォーン・ウィリアムズ《イギリス民謡組曲》《トッカータ・マルツィアーレ》、ジェイコブ《ウィリアム・バード組曲》の6曲について、かなり細かく分析した、指揮者・演奏者向けの解説本である。
原著は1980年刊行で(初出は1970年代の雑誌連載)、1985年の邦訳初刊以来、約30年、わたしが参考にしてきたものだ。
その中で、フェネルは「コルネットを休ませてオーボエ・ソロにしたほうがいい」と言っているのだ。
確かにわたしが若いころに聴いた演奏・録音は、どれもオーボエ・ソロだった(それが、本書による、あるいはフェネルの演奏・録音による影響かどうかは、わからない)。
かつて、ある高校吹奏楽部のお手伝いをしていたころ、本曲にかかわったことがある。
その際にフルスコアを見ているのだが、上記フェネルの記述が記憶にこびりついていたので、最初から「選択」するものだと思い込んでしまい、気にせずにいた(今回、あらためて、昔のブージー&ホークスのフルスコアを引っ張り出して見直したが、「選択」指定など、ない)
フェネルは、ヴォーン・ウィリアムズに直接会って、本曲について、いろいろ聞いているようだ。
私は光栄なことに、1954年11月、コーネル大学で、ボーン・ウィリアムズが講義していたとき、そのほとんどに出席していた。そしてあるとき、私はこのスコアをもっていって、一緒に議論したことがある。私がこの解釈はどうでしょうか、と尋ねたところ、彼は「気に入ったよ、使ったらどうだね」といってくれた。この『イギリス民謡組曲』は、「バンド奏者にとって願ってもない、ためになる経験」を与えてくれたし、指揮者にも与えてくれた。
(前掲同書より。ただしここでフェネルがいう「議論」「解釈」とは、第3楽章エンディングについてのことと思われる)
こんな記述まであったものだから、フェネルは作曲者本人から第2楽章についても「選択」のアドバイスを受けたのでは……そんな気にさえ、なっていた。
しかしもちろん、以上はわたしの思い込みで、ここはコルネットとオーボエのユニゾンでなければいけないのである(実際、今回の東京佼成ウインドオーケストラもユニゾンで、素晴らしい演奏を聴かせてくれた)。
今回、もしかしたら、昔の何かの資料か、作曲者の手稿譜に「選択」指定があるのではとも考えたが、どうも、その可能性もなさそうだ(本書によれば、この曲は1950年代半ばまではフル・スコアはなく、コンデンス・スコアだった。フル・スコアは、のちにパート譜からつくられたという。そのせいか、楽譜には転記・校正ミスが多かったようで、フェネルは本書で、それらを細かく調べて「訂正」を記載している。だが、第2楽章については、特に書かれていなかった)。
というわけで、結果として、間違った解説を書いてしまったわけで、関係各位、プログラムをお読みくださったすべての方々に、衷心よりおわびを申し上げます。
古い資料を参考にする場合は再検討しなければならないことも、あらためて痛感しました。
その一方で、いったい、フェネルは、何を根拠に、あれほどはっきりと「選択しなければならない」と言い切ったのか、それもたいへん気になります。
もし、「単なる好み」以外の、資料的な手がかりをご存知の方がおられたら、ご教示ください。
<敬称略>
2016.11.17 (Thu)
第173回 書評『クレージーマンガ』(クリ・ヨウジ)

▲『クレージーマンガ』(クリ・ヨウジ) ユジク阿佐ヶ谷/ふゅーじょんぷろだくと 2800円+税
(以下の書評は、産経新聞10月30日付書評欄に掲載されたものに、若干の加筆を施したものです)
驚くべき「漫画」本が出た。88歳のアニメーター、久里洋二(本書では「クリ・ヨウジ」)が、500頁を描き下ろしたのだ。
久里といえば、たった十数枚の原画による『人間動物園』が海外の映画祭で11冠を獲得している、日本の「アニメ神」である(いま見ても、これが昭和37年の作とは信じられない!)。
久里の全盛期の作品には、武満徹、一柳慧、林光、冨田勲、オノ・ヨーコなど、錚々たる顔ぶれが音楽を寄せている。
冨田などは、名盤『月の光』発表の2年前に、すでに久里のアニメにシンセサイザー音楽を付けている。
そのほか、TV「ひょっこりひょうたん島」オープニングや、NHK「みんなのうた」でも大量の音楽アニメを発表しており、「アニメは音楽で決まる」と早くから公言していた。
森高千里≪ザ・ミーハー≫のPVアニメも、久里である。
深夜のTV番組「11PM」内で放映された「ミニミニ・アニメーション」の、毒のある艶笑タッチも忘れられない。
18年間、毎週1本、たった1人で製作しつづけた伝説のシリーズだ。
そんな久里が、1年間漫画だけに集中し、描き上げたのが本書である。
久里は「人間の本性」を露悪的なまでにむき出しにする。
だから題材には「食」「性」「殺傷」「糞尿」が多い。
ほとんどは一枚絵のナンセンスだ。
おなじみ無人島ギャグ、老人向けのエロ漫画、糞尿譚、原発や災害にまつわるブラック・ユーモアなどが次から次へと登場する。
コラムなど息抜きのページは一切ない。
漫画のみが500頁を爆走するのだ。
中には乱れている線もあるし、手書きの誤字もある。
それらが修正もされず、校閲無用とばかりにそのまま掲載されており、異様な迫力だ。
こんな出版物、いままでにあっただろうか。
その一方、シンプルな線で描かれた犬や猫の愛らしさはどうだろう。
久里が文春漫画賞を受賞している「漫画家」だったことを再認識させられた。
なぜ88歳の老人にこんな仕事が可能なのか、頭の中はどうなっているのか、臨床研究の対象にしてほしい。
出版界の暴走老人は、蓮實重彦だけではなかったのだ。
<敬称略>
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2016.11.15 (Tue)
第172回 ボブ・ディランの「詩」

▲ボブ・ディラン『テンペスト』(2012)
ボブ・ディランがノーベル「文学」賞を受賞したが、一部には「違和感」の声もあった。
わたしも、できれば「本」を出している「作家」に贈賞してほしかったような気がした。
それでもボブ・ディランは若いころから大好きだったし、ここ数年、候補に挙がっているらしい様子を見て「まずありえないだろうけど、受賞したら快挙だなあ」と思っていたので、素直にうれしい。
しかし、日本のメディアの反応がステレオタイプなのは残念だった。
ほとんどが≪風に吹かれて≫の歌詞をあげ、「反戦歌の代表作」であると決めつけ、まるで「反体制派だから受賞した」といわんばかりだった。
確かにノーベル文学賞には昔からその傾向があり、特に昨年の受賞者、スべトラーナ・アレクシエービッチなども、戦争や原発事故を告発するジャーナリストだったから、その構図で解説したくなる気持ちもわかる。
ボブ・ディランは「反体制派」(というより「体制」に興味がない)かもしれないが、「文学」賞を受賞したのは、やはり「詩人」としてすぐれているからだと思う。
わたしは西洋詩にはまったくの素人なのだが、ボブ・ディランの詩が、西洋の伝統的な詩の形式を踏まえたものであることくらいはわかる。
たとえば、2012年に発表した楽曲≪テンペスト≫(同名アルバムに収録)は、タイタニック号の悲劇を叙事詩のように詠う15分近い大曲だが、見事なクォートレイン(1連4行)で、どこかホイットマンを思わせる。
全部で45連構成の長編詩で、第1連はこうなっている(著作権があるので、各行頭・行末の2語のみ掲げる)。
The pale ……its glory
Out on……Western town
She told……sad story
Of the……went down
1行目末【glory】と3行目末【story】がライム(韻)を形成している。
そして2行目末【town】と4行目末【down】がライムとなっている。
いわゆる「abab」形式のライムである。
ためしに無作為で別の連を抜き出してみても、
The ship……going under
The universe……opened wide
The roll……up yonder
The angels……urned aside
と、見事に「abab」のライムとなっている。
45連、すべてがこの形式のライムで出来上がっているのである。
芝居好きだったら、すぐにシェイクスピアを思い出すだろう。彼の「詩」はいうまでもなく、芝居でも、重要なセリフや劇中歌は、すべてライムで構成されている。
たとえばほとんどミュージカルのような芝居『十二夜』で、フェステがラストでこんな歌をうたう。
When that I was and a little tiny boy,(おいらがガキンチョだったころ)
With hey, ho, the wind and the rain, (ヘイホー、風と雨ばかり)
A foolish thing was but a toy, (バカをやっても許してくれた)
For the rain it raineth every day. (毎日雨降りつづきだから)
みごとな「abab」のライムだ(これが『ルークリース凌辱』のような大作物語詩になると、1連7行で「ababbcc」となる)。
このようなライムで作詞しているポップス・ミュージシャンが、いま、ボブ・ディランのほかにどれほどいるのか、わたしは知らない。
先に挙げた≪テンペスト≫などを聴くと、「うたっている」というよりは、「少しフシをつけて朗読している」ようである。
しかも、決してきれいとはいえない、ガラガラ声で。
彼の姿勢は、昔の吟遊詩人、日本でいえば「平家物語」を語った琵琶法師を思わせる。
21世紀に、シェイクスピアのような「ライム」で詩を創作し、CDやライヴで「朗読」する吟遊詩人がいる、そのことが、北欧の文学者たちを感動させ、今回の贈賞に至ったような、そんな気がした。
(敬称略)
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