2018.03.29 (Thu)
第195回 普門館、1977年11月

▲東京佼成吹奏楽団、第12回定期演奏会(1970年11月20日)のプログラムより。
これが、普門館で開催された、最初の「吹奏楽コンサート」だった。
<資料協力:東京佼成ウインドオーケストラ事務局>
わたしは、東京・中野の鍋屋横町~中野新橋あたりで生まれ育ったので、近隣の立正佼成会一帯(杉並・和田)は、子どものころから身近だった。よく自転車でいって、半ば遊び場にしていたし、佼成病院(当時は、中野・弥生町にあった)にも何度もお世話になった(妹、およびわたしの娘は、佼成病院でとりあげていただいた)。
よって、同地で普門館の建設がはじまり、出来ていく様子は、如実に覚えている。落成は1970年4月。わたしは小学校6年生。日本中が、前月に開会した大阪万博で沸き返っていた。
最初は、なにやら「丸い」「巨大な」建物ができるのだと思って見ていた。だが、次第に形になってくると、「丸い」のではなく、「8」の字を太らせたような形状で、しかも外壁は、いくつかの大きな「板」で囲まれているようだった(この「外壁」が全部で28枚あり、それが法華経の経典28品[ぼん]に由来することは、おとなになってから知った)。
その普門館に初めて入ったのは、1977年11月。しかも、4日(金)と16日(水)の2回、いっている。
11月4日(金)は、第25回全日本吹奏楽コンクール(全国大会)の初日で、夜、大学の部を聴きにいった(17時ころから開会式で、表彰式終了が21時過ぎだった)。あの《ディスコ・キッド》が課題曲だった年である。わたしは大学1年生になっていた。
どうやって入場券を入手したのかもおぼろげだが、当時は、早めに並べば当日券で十分入れたし、東京都大学吹奏楽連盟経由で、大学の吹奏楽部で購入していたような気もする。
客席に初めて入った印象は、とにかく「寒かった」。すでに晩秋で、会場内が広すぎて、エアコンが十分効かないような印象があった。
その日は、妙に興奮して、ロビーをうろついたり、2階席を見にいったりして、落ち着かない時間を過ごした(普門館は、1972年に一度だけ全国大会=全部門の会場に使用され、以後は地方開催。この1977年が、毎年使用の初年だった。1980年からは中学・高校の部のみで使用)。
この年の大学の部は7団体だったが、最初に出場した亜細亜大学がタイムオーバーで失格になる、驚くべき結果に遭遇した。大学の部の《ディスコ・キッド》は駒澤大学が名演として知られているが、この亜細亜大学も実に力強い演奏だった。わたしはいまでも、同曲の模範演奏だと思っており、以前に上梓した『全日本吹奏楽コンクール名曲名演50』のなかで紹介したことがある。

▲わたしが聴いた、カラヤンの《田園》《運命》のライヴCD(TOKYO FM)。
1977年11月16日、普門館。
それから12日後の11月16日(水)、また普門館にいった。カラヤン&ベルリン・フィルによる、ベートーヴェン交響曲の全曲ツィクルスである。クラシック好きの伯父に連れられていった。
この年の彼らの来日公演は凄まじいスケジュールで、まず、11月6~10日の5夜連続で、大阪・フェスティバルホールでブラームス。その後、移動などで2日空けて、13~18日の6夜連続で、普門館でベートーヴェン全曲(時折、ワイセンベルクでピアノ協奏曲が入る)。この年、カラヤンは満69歳。すごい老人だと思った。
わたしがいった16日は、第6番《田園》+第5番《運命》だった。席は、1階後方の上手側。今回は「寒かった」記憶は、ない。「はるか彼方で、なにかやっている」といった感じだった(コンクールのときは1階前方席だった)。
このとき、響きの悪さにカラヤンが失望して、次の来日(1979年)では、反響板を設置させたとの話がある。確かに響きはデッドだったが、この広さなら、こんなもんじゃないかと、わたしは思っていた。カラヤン自身は、日ごろ、残響たっぷりのベルリン・フィルハーモニーのホールで演奏しているのだろうが、当時の日本には、サントリーホールも東京芸術劇場も東京オペラシティもまだなかったのだ。だから、残響シャワーを浴びながら音楽を聴いたことのある聴衆は、まだ少なかったはずなのだ。わたしだって、コンサートといえば、東京文化会館か中野公会堂くらいしか知らなかった。だから、こんなものだろうと思って聴いていた。
ところが、この公演を録音していたFM東京の当時のプロデューサーで、現在は音楽評論家の東条碩夫氏によれば――当時、主催者側は大がかりな残響調整装置を準備していた。そして本番前日、早稲田大学交響楽団に舞台上で演奏させ、カラヤンは客席内を移動しながら響きを確認した。その結果、このままで十分と判断、装置も使用しなかったというのである(上記CDのライナー解説より)。
そもそも、普門館は音楽専用ではない、多目的ホールである(たとえば、落成した1970年には、ヴィダル・サスーンが来日して、美容講習・講演会が開催されている)。音響についてあまり神経質に語っても仕方ないように思う。
2011年3月、東日本大震災が発生。翌2012年5月、ホール内の天井部分の耐震強度不足が判明し、以後、普門館の大ホールは「使用不可」となった。コンクール全国大会は、2012年から、名古屋国際会議場センチュリーホールに移った。
その後、関係者が、なんとか「吹奏楽の聖地」として普門館をよみがえらせようと奔走する姿を、わたしは何度か見てきた。しかし、関係法令が変わってしまっており、改修も建て替えも容易でないことが判明した。先般、「解体」が正式に報じられたが、関係各位の無念を思うと、なんともいたたまれない。
結局、普門館で最後に「吹奏楽」が響いたのは、2012年4月14日。丸谷明夫先生が指揮した、東京佼成ウインドオーケストラの特別演奏会ということになってしまった(エイベックスから『マルタニズム』と題してライヴCD化されている)。たまたま、コンサートもCDも、わたしが解説を書かせていただいたが、これが、やはり普門館のために書いた、最後の文章になってしまった。
普門館の解体を聞いて、井伏鱒二の短篇『普門院の和尚さん』を思い出した(1949年に『普門院さん』の題で発表後、数度の改訂を経て、1988年に改題、最終稿)。
江戸幕府末期の幹部として近代化に尽力した小栗上野介は、薩長との対決を唱えたが罷免され、のちに逮捕。取調べもなく、河原で無残に斬首される。正確な罪状は、いまだによくわからないらしい。
埼玉・大宮の「普門院」は、小栗一族の菩提寺である。昭和初期になって、この寺の住職が、小栗を斬首した役人が高齢で生きていることを知り、会いにいく。住職は、小栗の汚名を晴らしたくて、「どうしてあれだけの国家の功労者を斬ったのか」「あんた、悪いことをしたとは思わんか」と老人に問い詰めるのだが、とにかく命令に従ったまで、「はやく斬らないと、こちらの方が賊軍になる」「一度、上野介の御墓に、御香をあげたいと思っていた」と語る。やがて住職も落ち着いてきて、最後は、対立していた2人がともに仏前に並び、弔いのお経を唱える。寺名同様、「普門」(あまねく開かれた門)の境地に至ったということか。老人はぽたぽたと涙を流す。
立正佼成会の信者でもないわたしが普通に出入りし、吹奏楽コンクールからヴィダル・サスーン、そしてカラヤンまで――あの建物はほんとうに「普門」だった。

<一部敬称略>
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2018.03.15 (Thu)
第194回 東京アニメアワードフェスティバル2018

東京アニメアワードフェスティバル(3月9~12日)が、昨年から池袋の複数会場で開催されるようになった。共催には東京都が加わっている(最終日の授賞式には、小池百合子都知事も出席したらしい)。わたしは、若いころ、アニメ関係の仕事に少々携わっており、短編アニメや、ヨーロッパ作品が好きなので、海外作品のコンペ部門があるこういう映画祭はありがたい。
まず、3スロットにわかれた短編コンペティションの35本を観た。
ほとんどが3~10分前後の作品で、もっとも長いものでも20分だ。ただ、短編とはいえ1本の映画であることに変わりはなく、しかも音楽がべったり付いているので、目と耳がフル回転でクタクタになった(日本の「アニメ神」、90歳のクリヨウジさんは、かねてから「アニメは音楽で決まる」と断言している。だからクリ作品には、武満徹や一柳慧、オノ・ヨーコなど、錚々たるひとが音楽を付けていた)。
そのなかでは、日本の映像作家・大谷たらふが、エレクトロニカのSerph(さーふ)の曲《Feather》に寄せたミュージック・ビデオ(5分10秒)が、美しくて楽しかった。音楽にあわせて「線」が縦横無尽に動く、アニメ本来の姿を思い出させてくれた。
認知症を題材にした作品が2本あった。『頭が消えていく』(フランス+カナダ/9分28秒)と、『メモ』(フランス/4分40秒)である。ほかに広義の意味で「老い」を題材にした作品がいくつかあり、認知症が世界的な問題であることをうかがわせた。
素晴らしかったのは、マックス・ポーター&桑畑かほる夫妻の『ネガティブ・スペース』(フランス/5分30秒)だった。これは、2016年の米アカデミー短編アニメ賞にもノミネートされた、人形ストップモーション作品。出張が多い父と息子の関係を、「荷づくり」(小さなカバンに多くの荷を要領よく詰める)の観点で描いたものだ。おそらく「荷づくり」で結ばれた親子関係なんて、そうはないはずなのに、観ていると、自分もそうだったと思うようになる、文学的で不思議な5分30秒であった。ラストでは目頭をおさえている観客もいた。
案の定、この作品が、短編コンペ部門のグランプリを受賞した。
短編作品の多くは、アニメ学校の卒業制作や、同期生らによるグループ制作だが、それなりにスポンサーを確保しているらしき作品もあった。商売にならないアート短編アニメに投資する、海外の企業文化の懐の深さを知らされた。
また、エンディング・クレジットで、スタッフが、自らの電話番号とメールアドレスをはっきり表記する作品があり、これには驚いた。個人情報がどうとかいっている場合ではない、「とにかく仕事をくれ」というわけだ。小林秀雄の名言「プライヴァシーなんぞ侵されたって、人間の個性は侵されはしない」を思い出す。この貪欲さが、静謐で叙情的なアニメの背後に潜んでいるかと思うと、やはり彼岸の差をおぼえる。

長編コンペ部門は4本が出品され、そのうちの2本を観た。
これはもう、なんといっても(ほかの2本を観ていないとはいえ)、『オン・ハピネス・ロード』(台湾/1時間51分)の圧巻、ひとり勝ちであった。もちろん、グランプリを受賞した。これをしのぐ映画に、今年出会えるかどうか。『シェイプ・オブ・ウォーター』も『スリー・ビルボード』も、わたしの中では吹っ飛んでしまった。
これは、手描きを基本にCG処理を加えた、昔ながらの味わいをもつ2Dアニメである。監督のSung Hsin Yin女史が上映後に登壇したが、本来は実写映画の監督で、アニメは初めてだという(京都大学に留学経験があるそうで、少々たどたどしかったが、日本語であいさつしてくれた)。
主人公のLin Shu Chiは、蒋介石が死んだ日(1975年4月5日)に生まれた。ノスタルジックな作風で話題となった台湾の小説『歩道橋の魔術師』の時代である。ちなみに、彼女の生まれる少し前に発生した事件をモデルにした映画が、最近レストア版の公開でロングヒットとなった映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』だ。
彼女の人生は、台湾新時代の歩みと軌を一にする。小学生時代は、国民政府の時期で、次第に民主化運動がおこる。李登輝総統の就任を経て、高校大学時代になると、民進党・陳水扁総統の時代(台湾史上初の政権交代)に重なる。1999年の「921大地震」ではともに「ガッチャマンの歌」をうたった幼馴染みを失なう。
そんな彼女の人生が、台湾現代史とのかかわりで描かれる……のかと思いきや、それほどでもないところが、この映画のうまいところである。Hsin Yin Sung監督は、今村昌平の『にっぽん昆虫記』をやろうとしたわけではないのだ。だから、同じ女性の半生記でも、『ワイルド・スワン』のような凄まじい人生になりもしないし、むずかしい論争が登場するわけでもない。せいぜい、民主化デモに、ファッションとして参加する場面があったり、彼女の勤務する新聞社にデモが押し寄せる程度で、基本的に彼女はノンポリなのである。
そしてChiは、アメリカにわたり、白人男性と結婚し、平凡な主婦生活をおくっている。実はいま、妊娠中である。だが、どこか満たされない。大好きだったおばあちゃんの葬式で、ひさしぶりに幸福町にもどった。昔の面影の残る町を歩きながら、子供時代を回想する(この回想場面が日本の昭和30~40年代を思わせ、アニメならではの表現が次々登場して楽しい)。またアメリカに帰って、同じ生活がつづくのか……。
誰もが、子供のころは、将来の夢を抱いている。親も、こどもに期待し、成功を信じている。だが、まず、かなわない。平凡な大人になり、平凡な人生をおくり、その間、結婚がうまくいって平和な家庭が築ければまだいいほうで、病気や離婚など、アクシデントに見舞われることのほうが多いのである。おそらくこの映画を観るすべてのひとが、おなじことを考え、異国の女性なのに、Chiの姿に自分を重ねあわせるはずだ。そんな「普遍」をアニメで見事に表現できたことが、この映画の最大の価値といえる。そして、自分の平凡な人生を振り返るとき、どこに、心の置き所を見出せばいいのかを、やさしく教えてくれる。
いままでの説明で、『思ひ出ぽろぽろ』と『ちびまる子ちゃん』を思い浮かべたひとも多いと思う。だが、まったくちがう感動が待っているので、安心されたい。台湾の大人気歌手・蔡依林(安室奈美恵とも共演しているらしい)のうたうエンディング・テーマを聴いて涙がにじまないひとは、いないはずだ。
このような作品を見出し、グランプリを授与した東京アニメアワードの主催者、一次選考委員、最終審査委員に最大級の敬意と賛辞をおくりたい(広報・宣伝が貧弱だったのは残念だったが)。そして、本作が日本で正式公開されることを願ってやまない。
<敬称略>
【余録】
このフェスティバルは、ほかにも部門賞が山ほどある。上記、長編・短編コンペ部門は、そのなかの一部にすぎない。もっとも注目されるのは、前年の作品に与えられる「アニメ・オブ・ザ・イヤー部門」で、今回は劇場映画部門が『この世界の片隅に』、TV部門が『けものフレンズ』であった。
あと、台湾のアニメ作家に、ぜひ『歩道橋の魔術師』(上述)を、人形ストップモーションでアニメ化してほしいのだが。10分くらいでまとまると思う。あれほど「人形アニメ」向きの短編小説は、ないのではないか。
『feather』全編視聴可能
『頭が消えていく』予告編
『メモ』全編視聴可能
『ネガティブ・スペース』予告編
『ネガティブ・スペース』マックス・ポーター&桑畑かほる夫妻へのインタビュー&メイキング映像 ←必見!
『オン・ハピネス・ロード』予告編
『オン・ハピネス・ロード』主題歌ミュージックビデオ
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2018.03.01 (Thu)
第193回 〈古本書評〉 後藤明生「マーラーの夜」

▲「マーラーの夜」が収録された、『しんとく問答』(1995年、講談社刊)
マーラーの交響曲のなかで、唯一、ナマ演奏で接したことがなかった、第7番(夜の歌)を、N響定期で聴いた(パーヴォ・ヤルヴィ指揮、2月11日、NHKホールにて)。これはとにかく分かりにくい曲で、若いころから何度となくフルスコアを眺め、いろんな音源を聴いてきたが、どうにも全体像がつめないまま、この歳になってしまった。それだけに、この機会を逃したら、もうチャンスはないかもしれないと思い、ええいままよ、と思い切って出かけてみた。
そうしたら、プログラム(月刊「フィルハーモニー」)に、以下のようなヤルヴィの言葉が載っていた。
「私自身、当初《第7番》を分かりにくいと感じていました。しかし、風変わりで意外性に満ちたこの曲に整合性を求めることをやめ、音楽そのものに耳を傾けた途端、作品が自然と語りかけてくれるようになりました」(大橋マリ氏によるインタビュー記事より)
そうか、N響の首席指揮者が「分からなくていい」といっているのだから、わたしごときが分からないのも当然なのだ。
確かにヤルヴィの演奏は、「整合性を求めることをやめ」たような、ベルトコンベアに乗って目の前に流れて来た音符を、いじくることなく、次々と処理して製品にしていく、そんな指揮ぶりだったが、まあ、それでいいのではないかと思った。これが「どこかに整合性があるはずだ」と理想を摸索しながら指揮していたら、本来80分前後(CD1枚分)におさまるはずの本曲が、あのクレンペラーのような超スロー演奏(100分超=2枚組!)になり、悶え苦しみ、のたうちまわるような演奏になっていただろう。
ところが、そんな「整合性を求めない」ヤルヴィのおかげで、15時開演の演奏会は、早々と16時20分にお開きとなった。N響の定期は、序曲+協奏曲~(休憩)~交響曲のパターンが多く、15時開演の日曜定期は、おおむね17時近くまでかかるものだが、なにしろ「整合性を求めない」1曲のみのプログラムだったので、いつもより早い時間に外に出る身となった。
その日、わたしは、夜の用事があったのだが、中途半端な時間の空き具合となってしまった。仕方ないので、ときどき行くブックカフェで本でも読みながら時間をつぶすことにした。日本中の馬鹿者をすべて集めて全国大会をやっているような渋谷の雑踏のなかを、「どうか馬鹿が伝染しませんように」と、映画『遠すぎた橋』のロバート・レッドフォードのように祈りながら駆け抜け、さるビルに入る。すると、その店は「本日貸切」であった。この瞬間、脳裏に、ある短篇読み物が浮かんだ。
「まるで、後藤明生の『マーラーの夜』じゃないか」
「マーラーの夜」は、「新潮」1992年1月号に発表され、単行本『しんとく問答』(1995年、講談社刊)に収録された。20頁強、エッセイとも小説ともつかない、不思議な掌篇である。
当時、「私」(後藤明生自身)は、近畿大学で教鞭をとっており、大阪に単身赴任していた。マンション住まいで、月に2~3度、東京に帰る生活だった。
あるとき、TVで、KBS交響楽団(韓国)の来日公演があり、曲がマーラーであることを知り、行く決意をする。「私」は、それほどのマニアではないが、マーラーの第1番が好きで、ショルティ指揮のカセットをデッキに入れっぱなしにしている(ここから、後藤明生お得意の「アミダクジ」的記述になり、自分とマーラーのかかわりが、マニアではないといいながら、実に詳しくつづられ、あらぬ方向に記述が進む)。
そして、第3楽章に、歌詞をつけて歌うようになった。その「歌詞」とは、
ダートー ベーイエイ(打倒米英)/ダートー ベーイエイ
ハーレーター ソーラーニー(晴れた空に)
ターカク ヒクーク(高く低く)/ユーメノ ヨーオーニ(夢のように)
キン コン カーン/キン コン カーン
というもので、確かにピッタリ合う(この旋律は、フランス民謡《フレール・シャック》=《グーチョキパーでなにつくろう》がもとになっている)。
わたしの中学生時代、吹奏楽部でホルンを吹いていたK君は、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章に「俺は~バ~カだ。お前も~バ~カだ。みんな~バ~カだ~、バ~カだ~……」とデカダンな歌詞をつけてよく歌っていたが、あれに匹敵する名歌詞だと思う(ちなみにK君は、いま、某有名大学でマーケティング論の教授となっている)。
で、この短篇は、そんな他愛ないマーラー雑談で終わるのかと思いきや、あちこちに脱線しながら、ようやく話は戻って、いよいよ、演奏会当日になるのである。
開演は19時、会場は大阪厚生年金会館大ホールだ。「私」は、どのような交通手段と経路を使うか、あれこれと思案する。プレイガイドの女性に訊ねたり、地図を広げたりして、たいへんな騒ぎだ。いくら長く住んでいないとはいえ、大都会の、それなりに有名な会場へ行くのに、なぜ、大のおとなが、こんなチマチマした騒ぎを冗舌に演じるのか理解に苦しむが、この作家は、原稿だけでなく、生き方までもが「アミダクジ」式だったことがわかり、微笑ましくなってくる。ここを面白く感じられないひとは、後藤明生を楽しむことはできない。
やがて「アミダクジ」の選択肢は、さらに妙な方向に進み、会場の手前にあるレストランで、かつて、(芥川龍之介の)「『芋粥』の五位の某のように」、無性にエビフライが食べたくなったことがあり、入店したものの、肝心のエビフライが売り切れで、がっかりした経験を思い出す。
そこで、今回こそは、あの店でエビフライを食べようと決意し、演奏会の前に、早めに出かけるのである。その時間配分を決定するまでが、これまた大騒ぎで、どこからどの地下鉄に乗って、レストランまで徒歩で何分、食事に1時間……などと、徹底的に考え抜き、ついに16時半にマンションを出る。
その結果がどうなったか……は、わたしの渋谷での経験譚から、おおよそ想像がつくであろう。
後藤明生(1932~99)は、早稲田大学の第二文学部露文科を卒業後、博報堂や平凡出版(現マガジンハウス)に勤務しながら、小説を書いた。芥川賞候補に4回挙げられたが、受賞には至らず。だが、平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞、芸術選奨文部大臣賞など錚々たる受賞歴を誇る、玄人好みの作家である。
特に、あちこちに脱線しながら、失った外套を探す1日を描く『挟み撃ち』(1973)は、数社の文庫を小説同様に転々とし、1998年に講談社文芸文庫に入り、カタログ上は絶版ながら、まだ一部店頭で生きているロングセラーである。
近年、後藤明生は人気再燃の傾向があり、最近も、怪作『壁の中』が、普及版と愛蔵版で復刊した(つかだま書房)。昨年には『後藤明生コレクション』全5巻(国書刊行会)が完結。「マーラーの夜」は、その第4巻に収録されている。ほかに電子書籍版もあり、冒頭部を試し読みできる。
(敬称略)
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◆毎週(土)23時・FMカオン、毎週(日)正午・調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。
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