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2018.06.27 (Wed)

第200回 〈古本書評〉『おじさん・おばさん論』

おじさんおばさん論
▲海野弘『おじさん・おばさん論』(幻戯書房) 2011年4月刊


 第195回で、普門館のカラヤン公演に「クラシック好きの伯父に連れて行かれた」と書いたら、2人の方から「わたしも、おじ(おば)に影響を受けました」と聞かされた。1人は、やはりおじさんの影響で、音楽の道に進んだ男性。もう1人は着付けの先生をやっているおばさんに憧れて日本舞踊を学ぶようになった女性。
 専門分野に進むものは、育った家の環境(父母の影響)が大きいものだが、父母のきょうだい=おじ/おばの存在が大きかったひとも、けっこういるようだ。
 わたしの場合も、本と音楽は、伯父からの影響である。もしも伯父に出会わなかったら、いま、こんな仕事はやっていなかったと思う。
 ふだん一緒に住んでいるわけでもなく、時々しか会わないので、顔をあわせると濃密な時間が生まれる。血のつながりもあるので、けっこう言いたいことも口に出せる。父母だと、関係が近すぎて、細かい思いを察してくれないことが多いが、おじ/おばは、ちゃんと聞いてくれる。いろんなところへ連れて行ってくれて、モノも買ってくれる。
 人間社会は、意外と、おじ/おばのおかげで面白く(あるいは、かえって複雑に)なっているのではないか?
 そんなことを考えさせてくれる本が、『おじさん・おばさん論』である。2011年刊行なので「古本」と呼ぶには新しすぎるのだが、そろそろ新刊書店では入手しにくくなっているので、取り上げることにした(版元在庫は、まだあるようだ)。

 著者は、元「太陽」編集長の海野弘(1939~)。世紀末美術(アール・ヌーボー)の専門家だが、博覧強記の評論家・読書家でもある。本書は、前半がミニ人物評伝集で、後半が主として読書・映画案内だ。そのすべてが「おじさん・おばさん」の視点で紹介される。とにかくすごい数だ。後半など、全部で100人のおじさん・おばさんが紹介される。
 本稿は一応、音楽コラムなので、本書中から、音楽にまつわる項を紹介しよう。

◆ストラヴィンスキーのおじさん
 イーゴリ・ストラヴィンスキーは11歳のときにオペラ歌手の父が出演している舞台を観に行き、ロビーでチャイコフスキーを見てしまう。その瞬間から、音楽家になりたいと願うようになったという。
 ところが父は、息子を音楽家にするつもりはなく、法律大学に行かせる。そんな彼を応援してくれたのが、イエラチッチおじ(母の義兄=つまり母の姉の夫なので、血はつながっていない)だった。このおじさんはたいへんな音楽マニアで、大学で鬱々としていたイーゴリを、さまざまな音楽に触れさせてくれた。2人でピアノ連弾も楽しんだらしい。ワーグナーの《ニーベルングの指環》4部作を教えてくれたのも、このおじだった。父が死んだあとは、おじ宅に居候した。
 このおじの励ましで、イーゴリは、リムスキー=コルサコフやグラズノフを知り、やがて20世紀を代表する音楽家に育って行くのだった。後年の、爬虫類のような顔つき(実際、彼はあまりに作風を次々変えるので、「カメレオン」と呼ばれていた)を見るにつけ、そんなおじさんがいたのかと思うと、なんとなく微笑ましく感じてしまう。

◆ベートーヴェンの甥 
 これは有名な話なので、ご存知のかたも多いだろう。ただし、「ベートーヴェンが、おじさんに影響を受けた」のではなく、「“ベートーヴェン伯父”に翻弄された甥」の話である。
 ベートーヴェンには、2人の弟がいた。そのうち、下の弟カルルを溺愛した。自分が家族・人間関係に恵まれなかったので、その不足分を弟にそそぐことで、満たそうとしたらいい。
 この弟カルルが亡くなると、ベートーヴェンは、溺愛の注ぎ先を、その息子、同名の甥カルルに変更する。ところがベートーヴェンは、未亡人となった母(弟カルルの妻)が大嫌いで、甥カルルをわがものにするべく、法廷がらみの奪い合い騒ぎになる。なんとか親権を手に入れ、一緒に暮らすようになるが、この過激な伯父は、音楽的才能もない甥に、やたらと過剰な期待ばかりかける。やがて甥カルルはノイローゼになって自殺未遂をはかる。回復後、カルルは軍隊に入り、ついに“伯父離れ”を果たす。そのころ、ベートーヴェンは死の床に……。
 なんとも迷惑な伯父さんだが、本書で紹介される最晩年のエピソードを知ると、心底からカルルを愛していたことがわかり、ちょっとベートーヴェンが気の毒に思えてくる。

◆ラモーの甥
 フランスの哲学者、ドゥニ・ディドロ(1713~1784)の『ラモーの甥』は、「私」(ディドロ自身)が、パリのカフェで、大作曲家ラモーの不肖の甥(弟の長男)と会話する作品だそうである。
「あれは冷酷な人だよ。残忍でね。人情というものがなく、けちんぼうで悪い父親だし、悪い夫だし、悪い伯父だな。しかも、あれが天才であるとか(略)、そうはっきり判定されているわけじゃないしね」
 こうして“自分さえよければいい”との振る舞いをつづける大ラモーをめぐって、天才=悪人か否か、にまつわる議論が展開する話だそうである。

◆マイルスの伯父さん
 ジャズの巨人、マイルス・デイビスは、伯父フェルディナンド(父の兄)が大好きだった。
「おやじよりもインテリで、女にもてていた。博打もやっていたし、『カラー』という雑誌の編集までやっていた」「いつも彼にひっついて、旅や女の話を聞くのが楽しみだった。恰好もめちゃくちゃ良かった」
 これは明らかに、“ちょいワル伯父さん”である。マイルスの、あのスタイリッシュな音楽の原点のどこかに、この伯父さんのことがあるのかもしれない。

 こんな具合に、次から次へと、おじさん・おばさんにまつわる本や映画や人物伝が紹介される。正統本筋(父母)からちょっとずれた視点(おじ/おば)が、新たなものを生み出す、そんな面白さをたっぷりと教えてくれる本である。
 先述のように、店頭での新刊入手は困難かもしれないが、版元在庫はあるようなので、注文すれば入手できるはずだ。

 なお、本書で紹介されていない、わたしの好きな「おじ・おば」ものを、2点、ご紹介しておく。

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▲北杜夫『ぼくのおじさん』(新潮文庫)

 北杜夫(1927~2011)の『ぼくのおじさん』は、旺文社の学年誌「中二時代」昭和37年5月号~「中三時代」昭和38年4月号まで、1年間にわたって連載されたジュニア小説である(学年をまたがって連載されているところが、いまはなき「学年誌」特有で懐かしい)。
 このおじさんは、父の弟=叔父さんである。哲学者で、大学の非常勤講師で、独身で、「ぼく」の家に居候している。たいへんだらしないどころか、逆に「ぼく」に小遣いをせびるような、はた迷惑な叔父さんである。あるとき、「ぼく」の作文が懸賞に入選し、いっしょにハワイに行くことになったのだが……。全編に和田誠のイラストが載っており、これがまた、実に楽しい。昔なつかしい「絵物語」のようなユーモア小説である。
 あとがきによれば、北杜夫には、何人かのおじさんがいたが(父・斎藤茂吉のきょうだい?)、そのうちの1人に、動植物のことをあれこれ教わったという。だが、本作に登場するのは、このおじさんではなく、北杜夫自身がモデルである。北は本来が医師だが、慶応大学病院で無給の助手をつとめていたころ、兄(精神科医でエッセイストの斎藤茂太)の家に居候していた、そのころの思い出を素材にしたという。
 ラスト、ある事情で、おじさんと別れることになるのだが、そのときの、やれやれとホッする気持ちと、それでいてどこか寂しさを覚える描写は、初期作ながら、さすがに大作家の筆であることを彷彿とさせる。

自分たちよ
▲伊丹十三『自分たちよ!』(文春文庫/絶版)

 エッセイストで俳優・映画監督の伊丹十三(1933~97)は、1981年、朝日出版社から創刊された雑誌「モノンクル」の編集長をつとめた。精神分析をモチーフにした、ちょっと変わったカルチャー・マガジンであった。
 この誌名「モノンクル」は、フランス語で「ぼくのおじさん」である(ジャック・タチの同名映画も意識しただろう。もちろん、『おじさん・おばさん論』でも紹介されている)。なんでこんな誌名になったかについては、一種の創刊宣言みたいな文章がある(「ぼくのおじさん」つるとはな刊『ぼくの伯父さん』より。初出は「文藝春秋」1981年7月号)。そこでは、読者を、親が押しつける価値観で閉塞的になっている少年にたとえて、
「そんなところに、ある日ふらっとやってきて、親の価値観に風穴をあけてくれる存在、それがおじさんなんですね」
「おじさんは遊び人で、やや無責任な感じだけど、本を沢山読んでいて、若い僕の心をわかろうとしてくれ、僕と親が喧嘩したら必ず僕の側に立ってくれるだろうな、そういう存在ですね。おじさんと話したあとは、なんだか世界が違ったふうに見えるようになっちゃったト(略)」
「でね、そういうおじさんの役割を果たすような雑誌を作ろう、と僕は思いたったのであった」

 と書いている。だが「モノンクル」は、6号で休刊に至る。
 その6号分の掲載記事を中心に再録したのが、この『自分たちよ!』である。
 この中に、「黒澤明、あるいは旗への偏愛」と題する鼎談があり(蓮見重彦、野上照代、伊丹十三/初出は1981年7、8月号)、これがまさに「おじさん」の(斜めの)視点なのである。黒澤映画には、いかに旗がパタパタと翻るシーンが多いか、そのことだけで黒澤映画を分析していくのである。これがなかなか面白く、時折、こじつけとも思えるような分析も登場するのだが、その強引さがまた愉快で、たしかに「無責任」だけど、読んだあとは「なんだか世界が違ったふうに見える」ような気にさせられる、特異な「おじさん」視点の映画評論である。

 わたしの伯父は、亡くなって20年近くがたつ。
 よく「親孝行、したいときには親はなし」なんていうが、おじ/おばも、同様である。ただ、親に抱くような思い(もっと、いろいろ話を聴いたり、世話してやればよかった)は、おじ/おばには、あまりない。あの想い出だけで十分、感謝している。みなさんは、どうだろうか。そのあたりの距離感も、ちょっと不思議な感じがする。
<敬称略>

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2018.06.11 (Mon)

第199回 日本大学フェニックス

 1976年7月、新宿にあった東京厚生年金会館大ホールで開催された、日本大学吹奏楽研究会の定期演奏会には度肝を抜かれた。
 ステージ・マーチング・ショーに、日本大学フェニックス(アメリカンフットボール部)が賛助出演したのだ。「アメフトのハーフタイム・ショーに吹奏楽が登場」するのならわかるが、「吹奏楽のコンサートにアメフトが登場」したのである。
 ステージ上では、ガクラン姿の男子学生がズラリと直立し、ド派手な音楽を奏でている(当時、女子部員はパレードやマーチングには出演できなかった)。その前で、上手下手双方から、ヘルメットやショルダー・パッドなどで完全武装した選手たちが物凄いスピードで登場し、何やら不思議な動きを見せながら、中央でぶつかり合う。
 わたしはスポーツ音痴なので、あれをタックルというのかタッチダウンというのかトライというのか、何が何だかわからなかったが、とにかくフェニックスの巨大な男どもが、ステージ上に、次々とすごい音を立てながら走り込んできて、衝突し、ときにはひっくり返ったり、相手の上に乗って崩れたりするのだ(床が傷んだのではないか。ホール側が、よく許可したと思う)。
 要するに、コンサートのステージ上で、アメフトの模擬フォーメーションが展開したのである。
 あのころ、日大吹研のマーチング・ショーは大人気で、ただでさえ客席から歓声が絶えないのに、あの日の会場は、さらに異常な熱気に包まれていた。わたしも、いままでにずいぶんいろんなコンサートに行ったが、あんなものを観たのは、後にも先にもただ一度のことだ。

 当時、日本大学フェニックスは破竹の進撃を開始した時期で、監督は篠竹幹夫氏(1932~2006)だった。監督在任44年の間にフェニックスを17回、学生王座に導いた名監督である。
 作家・大下英治氏の著作に、『小説 日本大学』(1988年、角川書店刊)がある。「スポーツ・ニッポン」紙の長期連載をまとめた連作読み物だ。その中の《気迫以外に途なし――篠竹幹夫》の章に、こんな挿話がある。
 昭和61年、アメリカン・フットボール関東大学選手権の決勝戦で、日本大学フェニックスは、明治大学と対戦していた。フェニックスは、前年、17年ぶりに敗れ、王座を明治大学に奪われていた。
 同書によれば、試合前、篠竹監督は、こう言って選手にゲキを飛ばしたという。
「去年の恥辱を忘れるな。二年連続で明治に負けることは、許せない。負けたら、明日から全員大学をやめて、解散だ。おまえたち、死んでこい。明治を殺せ!」

 すでに知られているように、篠竹監督は、スパルタや鉄拳指導が当たり前の、おっかない鬼監督だった。
 ところが、このひとのすごいところは、人生をフェニックスのみに捧げたことだった。
 酒もやらず、独身を貫き、学生と一緒に寮に住み、一緒に風呂に入って麻雀をした(平気で学生からまきあげていたというが)。

 わたしは、後年、ある席で篠竹監督にお会いしたことがあるが、いただいた名刺を見て、びっくりした。金ピカの、なにやら金属みたいな特殊な用紙で、しかも自分の顔写真がデカデカと刷り込んである(いまでこそ、顔写真入りの名刺はあるが、まだ当時は珍しかった)。さらに、プ~ンと高雅な香りが漂ってくる。どうも、名刺に香水がふりかけてあるようだった。
「監督、なにやら、いい匂いがする名刺ですね」
 すると篠竹監督はニコニコ笑いながら、ダミ声で、
「フランスの○○香水をインクに混ぜて印刷したんだよ。特殊技術なんだ。この名刺のスポンサーだよ。(アメフトは)カネかかるから、少しでも広告料を集めないと」
 確かに名刺の裏には、その香水の宣伝が印刷されていた。「広告入りの名刺」なんて、生まれて初めて見た。面白いひとだなあと思った。世間でいう「鬼監督」とは、ちょっとちがう印象を抱いた。

 もちろん当時もいまも、篠竹監督を悪くいうひとは、いる。いま、フェニックスがあんなことになったのも、ルーツは篠竹体制にある、今回問題を起こした監督は、篠竹監督の直系であり、篠竹こそが諸悪の根源だ――と。
 先の大下著作によれば、昭和40年代の日大闘争(裏口入学発覚を契機に、20億円の使途不明金が判明)で、篠竹監督は大学側に立って、日大全共闘の学生たちと対立した。そのため、闘争終息後、フェニックス内で篠竹ボイコットの機運が一挙に高まった。
「部員は、グラウンドにくれば練習はした。が、監督である篠竹には、あいさつをしなかった。篠竹の指示も、一切無視した」「それどころか、合宿所では、部の規則で禁止となっている酒を、篠竹の目の前で飲んでみせた」
 篠竹監督は、感情を押し殺し、ひたすら耐えていたという。
 さらに、昭和47年には、体調を崩していた部員が夏の合宿で急死した。「ひと殺し!」「この野郎、涙も流さねえのか!」などと責め立てられた。このときも、篠竹は、じっと耐えた。ただひとり、関西でおこなわれた葬儀に出向き、後日、彼をしのぶ石碑を建て、関西に行くたびに、墓参りを重ねた。「なんとか、この退廃集団を、再建しなければならない。このままでは、死んでも死にきれない」
 ここから篠竹監督はひたすら部の立て直しに身を投じ、やがて黄金時代を迎える。冒頭に記した吹研の定演に出演していたのは、その時期のことである。

 どこで読んだか忘れたが、篠竹監督は、こんな主旨のこともいっていた。
「たかがスポーツだ。長い人生のうちには、もっとつらいことがいくらでもある」――だから、やるときは死にもの狂いでやって、終ったら忘れろ、といったような主旨だったと思う。
 先日、作家・曽野綾子さんが、「日大アメフットの悪質反則」と題して、似たことを綴っていたのを読んで驚いた(産経新聞、5月23日付)。
「自分の存在、やっている仕事をすべて『たかが』と思えるかどうかが大切なのだ」「私は一人の小説家としてはあくまで『たかが小説』に生涯を捧げる職業についていると思えばいいのだ。こちらは一生懸命だろうと、その影響は大してないのだ、と自覚することである」だから、あの試合も「その勝ち負けは、『たかが』といえたのだ」
 つまり「たかが」アマチュア・スポーツに、反則をしてでも相手をつぶせと指示するなど、いかがなものか――と、曽野さんは言いたかったのだと思う。
 いうまでもないが篠竹監督が「明治を殺せ!」と叫んだのは、「たかが」精神のうえでのことのはずだ。だが、今回辞任した監督やコーチにとっては、「たかが」ではなかったようだ。篠竹体制に、もし、悪い面があったとしたら、その表層部分だけを、あのひとたちは引き継いでしまったように思う(背後には、さらに深刻な組織的問題があるようだが、それを記すのは本稿の役目ではない)。

 曽野さんは、先の文中で、こうも書いている。「小説家が偉大な仕事をしているなどと思い始めたら、その瞬間からその人の文章は異臭を放つだろう」
 冒頭で紹介した、コンサートに登場したフェニックスの選手たちは、なんだか楽しそうに見えた。「いつも試合の応援で吹研にお世話になってるから、今日はお礼に来たぞ!」とでもいうような、明るい雰囲気があった。そこには、いい意味での「たかが」精神が満ち溢れていた。
 だが、あの監督やコーチたちには、それが感じられなかった。曽野さん流にいえば「異臭を放」っていた。それも、かなり強烈な。
<一部敬称略>

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