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2018.07.19 (Thu)

第202回 7月のBPラジオから

 遅ればせながら、7月放送分の『BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ』にまつわる雑談を。

大栗裕
▲大栗裕作品集(ヴァイオリン協奏曲、大阪俗謡による幻想曲ほか) 
 高木和弘Vn、下野竜也指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団 (Naxos)


◆生誕100年、大栗裕
 大栗裕(1918~1982)の名は、吹奏楽やマンドリンをやっている方にとっては周知の作曲家だろうが、それ以外の、特に日本作曲家ファンでない方にとっては、なじみが薄いかもしれない。吹奏楽界では、コンクール課題曲などのほか、特に《大阪俗謡による幻想曲》で知られている。
 この曲は、本来が、1956年に朝比奈隆がヨーロッパ公演で指揮するために委嘱された管弦楽曲で、まず日本で初演後、ベルリン・フィルや、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(現在、佐渡裕が首席指揮者)で演奏された。その際、肉筆譜をベルリン・フィルに献呈してしまったので、大栗は、のちに記憶やスケッチをもとに曲を「復元」した。1970年、それを改訂して最終ヴァージョンとし、さらに1974年に吹奏楽版となり、主に、大阪府立淀川工科高校吹奏楽部がコンクールでテーマ曲のように繰り返し演奏し、人気曲となった。

 この曲の中間緩徐部に、オーボエの寂しげなソロがある。わたしは最初に吹奏楽版で聴いたのだが、バックで奏でられる、ザイロフォン(木琴)による雨だれのような音型が、カランコロンと鳴る下駄の音に聴こえ、「ああ、これ、『夫婦善哉』じゃないか」と思った記憶がある。というのも、そのころ(高校時代)、池袋の、いまはなき文芸地下劇場で、映画『夫婦善哉』(1955年、豊田四郎監督)を観て、原作を読んだばかりだったので、同じ大阪を題材にした作品とあって、妙に重なってしまったのだ。
 その後、この曲(吹奏楽版)を聴くたびに、あの「下駄の音」は、道頓堀を歩く柳吉と蝶子なのだと思って聴いてきた。

 ところが、その後、原典となった管弦楽版(1970年復元改訂版)を聴いてみたら、ここは、ザイロフォンではなくて、弦のピッツィカートであることを知った(主旋律は、コール・アングレだった)。音型が同じとはいえ、打楽器と弦楽器では、ずいぶんちがう。どう聴いても、「下駄の音」ではない。これは「三味線の爪弾き」だった。『夫婦善哉』のラストは、柳吉が義太夫に凝り始め、蝶子が太棹で支えて「太十」(『絵本大功記』十段目)を語るのだが、そのあたりが連想された(「太十」の三味線は、もっとド迫力の響きなのだが)。
 もちろん《大阪俗謡~》は、『夫婦善哉』を音楽化したものではないが、高校時代のわたしは、勝手に、この2つをイコールのようにして聴いたり読んだりしていた。
 そうしたら、あとになって、大栗裕が『夫婦善哉』を「オペラ」にしていることを知った(1957年初演、指揮・朝比奈隆、演出・武智鉄二)。いったい、あのような込み入ったグズグズ話が「オペラ」になるのだろうか。
 どうもこのオペラは正式音源化されていないようだが(もうひとつ、大栗の出世作、歌劇『赤い陣羽織』は、EMIからLPが出たことがある)、以前、さる筋で抜粋音源の一部を聴かせてもらったことがある(コンサート上演の録音だったような気がする)。関西弁が西洋音階の上に乗って展開するのはユーモラスでもあり、不思議な味わいだった。
 実は『夫婦善哉』は、文楽にもなっている(1956年初演)。国立劇場の記録を見る限り、平成になってからだけでも3回上演されているが、すべて大阪で、東京での上演は、ないようだ。文楽(義太夫)ならば当然関西弁の芸能なわけで、ピッタリにちがいない。オペラとあわせて、いつか観たいと願っているのだが。

<放送>生誕100年、なにわのバルトーク・大栗裕の世界
7月21日(土)23:00 FMカオン
7月22日(日)正午 調布FM
※PC、スマホなどで聴けます。聴き方は、こちらで。


◆東京カテドラル聖マリア大聖堂
森田童子
▲森田童子「東京カテドラル教会聖マリア大聖堂録音盤」(ユニバーサル)

聖マリア大聖堂
▲カトリック関口教会東京カテドラル聖マリア大聖堂(東京・文京区関口)

 シンガーソングライターの森田童子が、4月に亡くなっていたことが報じられた。6月に発行されたJASRAC会報に訃報が載っていたことで明らかになった。享年65の若さだった。
 彼女が活躍したのは、1970年代半ばから80年代にかけての、10年にも満たない期間だった。モジャモジャのカーリー・ヘアにサングラス、本名も素顔も、履歴もプライベートも一切明かさず、閉塞感に襲われた当時の若者の気持ちをうたった。それは、いまでいう「ひきこもり」、あるいは、60~70年代の政治運動に挫折した世代の代弁だったかもしれない。

 そんな彼女の唯一のライヴ・アルバムが、『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』(1978年)である。会場は、1964年に落成した、丹下健三のデザインによる、カトリック関口教会東京カテドラル聖マリア大聖堂だ。戦後モダン建築の名作といわれている。1967年に、吉田茂元総理の葬儀がおこなわれた教会としても有名だ(後日、日本武道館で国葬)。
そんな教会で、フォークともポップスとも歌謡曲ともいいがたい、暗い音楽のライヴが決行されていたのだ(当時「ニューミュージック」なる名称が流布しはじめていたが、森田童子には、ふさわしくなかった)。
 このライヴ録音、なんと冒頭が、開演を告げる「鐘」の音から始まるのだ。さすがは「聖マリア大聖堂」である。そして「本日は手話通訳が入ります」といったアナウンスが流れると、突如、SE効果音で雷鳴が轟き、拍手の中、彼女が登場し、1曲目《地平線》をうたいだすのである。
〈地平線の向こうには/おかあさんと/おなじやさしさがある/だからぼくはいつも/地平線の向こうで/死にたいと思います〉
 なんともすさまじい歌詞ではないか。現代詩手帖の新人賞作品といわれたら、つい信じてしまいそうだ。

 だが、このアルバムの魅力は、曲間のトークにもある。
「わたしが高校生のころ、親しかった、教育大の松本さんという先輩がいました……学園闘争が激しくて中退してしまいました。しかしお父さんが教育者だったので郷里にも帰れず……久我山のアパートで、男のひとと一緒に生活を始めたわけです。そこへ遊びに行くと……男のひとは恥ずかしかったのか、泉谷しげるの《春夏秋冬》のレコードをかけるわけです。……1年前に国電の駅で松本さんに会ったことがあります。いまは図書館に勤めて、ひとりで生活しているそうです。松本さんを思い出すと、つい《春夏秋冬》を口ずさんでしまいます……」
 とボソボソと語り、まさか森田童子が《春夏秋冬》をうたうのか……と思いきや、
「つぎの歌は《君は変わっちゃったネ》です」

 名曲《友よ泣かないのか》のあとは、
「自称アナーキストだという、カストロ帽に黒メガネの、ドモン(土門?)という友人がいます。ドモンは一度も働いたことがありません……そんなドモンと同棲していた、絵描き志望のモンちゃんは、着物の柄を描いて生活していたわけです。去年の夏……ドモンが1週間以上も部屋を空けて帰らないうちに、モンちゃんは持病の腎臓病が悪化してしまい……亡くなってしまったわけです。ドモンはいまも、モンちゃんと暮らしていた阿佐ヶ谷のアパートにいます。ドモンのカストロ帽の下は、ツルツルの坊主頭です。モンちゃんが保険をかけていて、残したお金が400万円近くあるそうです。ドモンは毎晩、新宿のゴールデン街で、安酒を呑んでいます……モンちゃんが残した400万円を使い果たしたら、坊さんになると言っています」
 そしてふいに歌い出すのが《海を見たいと思った》である。
 かように、彼女のトークは、もし創作でないとしたら、こんな話をライヴで明かし、しかもレコードで(その後CD化もされた)残して大丈夫なのかと、ちょっと心配になってしまうほど、具体的なのである。しかも、その内容が、前後の演奏曲目と関係があるようなないような、なんとも微妙なバランスの上で進行するのだ。

 その後、わたしは、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、親戚の結婚式、先輩の葬儀を経験し、ユーミンの《翳りゆく部屋》を聴き(冒頭のオルガンが、ここで録音された)、いまでは主に古楽コンサートで、年に2~3回は通っている。
 だが、行くたびに、久我山の松本さんや、阿佐ヶ谷のドモン、亡くなったモンちゃんのことなどが思い出され、ジョスカン・デ・プレやギョーム・デファイの肖像と重なってしまうのである。

<放送>カテドラル、その豊かな響き
7月28日(土)23:00 FMカオン
7月29日(日)正午 調布FM
※PC、スマホなどで聴けます。 聴き方はこちらで。


<敬称略>

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2018.07.11 (Wed)

第201回 橋幸夫と「つけそば」

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▲昭和26年創業「中野大正軒」

 記憶に残っているかぎり、わたしが生まれて初めて食べたラーメンは、「中野大勝軒」の、「つけそば」だった。昭和30年代後半のことである。よく、父に連れられていった。
 太い麺と、堅めの短冊チャーシューが特徴で、こども心にも、うまい食べ物があるもんだなあ、と思った(いまのチャーシューはかなり柔らかくなっている)。
 当時の名称は「もりそば」だったような気がするが、とにかく初めて食べたラーメンが「つけそば」だったから、わたしは、しばらく、「ラーメン」とは、ああいう食べ物なのだと思っていた。
 いまでも月に1~2回は食べているが、ここのつけそばを食べるたびに、橋幸夫を思い出す。

 昭和26年に開店した「中野大勝軒」は、かつては、現在地(中野駅南口)ではなく、さらに南の橋場町(いまの中央5丁目あたり。劇画のさいとう・プロダクションの近く)にあった。
 わたしは、歴史的なことは詳しくないのだが、とにかく、この「中野大勝軒」が、つけそば発祥の店ということになっている。当初は従業員の賄い食だったらしい。ここから独立したのが、有名な「東池袋大勝軒」の山岸一雄さん(1934~2015)だという。
 カウンターで5~6人も座れば満席になってしまうような、木造バラックの、小さな店だった。『仁義なき戦い』や『飢餓海峡』といった、終戦直後の闇市が登場する映画に、よく、カウンターで数人しか座れない、小屋みたいな呑み屋が出てくるが、まさに、ああいう雰囲気の店だった。しかも、いつも店の前に数人の客がならんでいた。

 当時、中野公会堂(現「なかのZERO」)がすぐそばにあって、ここで、宝くじの抽選会がよく開催されていた。おそらく、東京都が発売する、小規模なブロック宝くじだったと思う。この抽選会がまことに豪華で、後半は、芸能人のワンマン・ショーなのである。それも、必ず地元「中野」に縁のある芸能人が登場した。たとえば、三波春夫(江古田に豪邸があった)、北島三郎(新井町「北島音楽事務所」ビル。八王子に豪邸を建てる前はここが自宅だった。転居の際、税収減を恐れた区長が引きとめたとの伝説がある)など。無料の入場券が、近隣の銭湯の番台に置いてあったので、小学校時代、いつも何枚かもらって、友人と行っていた。
 中でも忘れられないのが、橋幸夫のショーだった。彼の実家は、中野の新井薬師近くの呉服店だった(長兄が池袋で経営していた洋品店を中野に移転し、呉服屋に転業した)。
 当時の橋幸夫は、すでに《いつでも夢を》《霧氷》で2回、日本レコード大賞を受賞している大スターだった。そんな芸能人を目の前で見られるとあって、わたしは、鳥肉屋の青木クン、塗装屋の池田クンの3人で、興奮気味で出かけて行った。小学校4~5年生のころだった。
 橋幸夫は実に気さくなひとで、登場するや「中野のみなさん、○○呉服店がお世話になっております!」とあいさつし、客席を大笑いと拍手の渦に巻き込んだ。そして、《潮来笠》をはじめとするヒット曲を次々うたった。カッコよかった。わたしたちは、うっとりして聴き惚れていた。

 そして、曲間のおしゃべりである。
 橋幸夫が「ボクもそろそろ結婚したいんですけど、中野に、いいひといませんかねえ」と言った。すると、わたしの隣りのオバサンが大声で「金(きん)の草鞋(わらじ)履いて探すの~?」と返し、またまた客席は大爆笑になった。橋幸夫は「まったく、そうだといいんですけどねえ」と笑っていた。
 わたしは(もちろん、青木クンも池田クンも)、意味がわからなかった。
 客席のたったひとりのオバサンと、ステージ上の橋幸夫が「会話」しているのも驚いたが、なぜ、みんな大笑いしたのか、それにも驚かされた。
 金(きん)の草鞋を履いて嫁さんを探す……とは、どういうことなのだろう。

 わたしたちは、終演後、すぐそばの「中野大勝軒」へ行った。
 子どもだけで入ったのは、このときが初めてだった。もちろん、おなじみの「つけそば」を注文した(と思う)。
 橋幸夫をナマで見て聴いた、その興奮もさめやらず、「あのオバサンが言っていた“金(きん)の草鞋を履いて探す”って、どういう意味なんだろうな」とブツブツ話していた。
 すると、カウンター内で調理していたオヤジさんが、それを聞きつけ、教えてくれた。
「“きん”じゃねえよ、“かね”。“年上の女房は金(かね)の草鞋を履いて探せ”ってことわざだよ。年上の女は物知りだから頼りになる、だから、すぐに擦り減らない金属製の草鞋を履いて、時間をかけて探せ、って意味だよ」
 もちろん、こんなにスラスラとしゃべったわけではないが、要するに、そういう意味のことを教えてくれたのである。
 わたしは、びっくりしてしまった。
 まず第一に、ヨレヨレの調理白衣を着てラーメンをつくっている「中野大勝軒」のオヤジさんが、なかなかの物知りだったこと(しかも、漢字の読み間違いまで指摘!)。
 次に、そんな深い意味があることわざを用いて、客席とステージ上で、まるで大喜利みたいな掛け合いが平然と行われていたこと(おとなになってみれば、どうってことないのだが、当時は、実に含蓄あることわざだと思っていた)。
 こういうのを「教養」と呼ぶのは大げさかもしれないが、むかしは、この程度の教養は、町中に当たり前のようにあふれていたのである。

 中野駅南口のビルの1階に移転した「中野大勝軒」は、一日中ほぼ満席の活気あふれる店である。ここで、50年以上食べている「つけそば」をすすると、あの橋幸夫とオバサンのやりとりを思い出す。ことわざを教えてくれた、あのオヤジさんのことも……(たぶん、初代の坂口正安さんだと思う)。
 いま、カウンターの向こうには、揃いのTシャツを着た数人の店員さんがいるが、何人かは中国人のようである。
 ちなみに、橋幸夫は、その後すぐ、スチュワーデスの女性と結婚した。年上ではなかったと思うが、おしどり夫婦として有名だった。一時は『別れなかった理由~夫婦の絆を求めて』なんて本も共著で上梓していたが、昨年、熟年離婚していたことが報じられた。
<一部敬称略>

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