2018.12.30 (Sun)
第220回 驚愕の映画『私は、マリア・カラス』

▲映画『私は、マリア・カラス』(2017年、フランス、監督:トム・ヴォルフ)
20数年前、オペラCDブック全集の編集に携っていたことがある。付属CDのかなりが、マリア・カラス全盛期のライヴ音源だった。音質は悪かったが、どれも劇的な歌唱で、まさに「うたう大女優」といったイメージだった。
その際、監修者のオペラ研究家・永竹由幸さん(1938~2012)がよく口にしていた話が、忘れられない。
「カラスのライヴ音源や映像は、ほぼ出尽くしてるんだけど、☓☓歌劇場や、△△座あたりには、記録用のテープや映像フィルムが、まだあるはずなんだよね」
永竹さんは、奥様がイタリア人で、ミラノやサルデニア島にも自宅や事務所を持っておられた。
イタリア各地の歌劇場関係者や、カラス全盛期のコンビ、ジュゼッペ・ディ・ステーファノ(1921~2008)とも親しく、アングラ・レベルまで含めて、かなりの情報を持っていた。
それだけに、相応の信憑性を感じさせる話だった。
現在公開中のドキュメント映画『私は、マリア・カラス』は、そんな“永竹情報”を裏打ちする、驚愕の映像集である。
何に驚くといって、冒頭、いきなり、「蝶々さん」を演じているカラスの映像が登場するのである(1955年、シカゴでのゲネプロ? おそらく舞台袖から撮影した8ミリ映像)。
わたしは、心臓が止まりそうになった。
いうまでもないが、カラスの《蝶々夫人》は、カラヤン指揮、ミラノ・スカラ座の音源はあるが、「舞台映像」など、観たことない。
あの大柄な身体を折るようにして、似合いもしない振袖姿、日本髪のカツラで、懸命に少女を演じている。
そのほか、1958年、有名なリスボンでの《椿姫》の映像(おそらく客席から8ミリ隠し撮り)。
愛人・オナシスとギリシャの小島を訪れ、村祭りに飛び入りで舞台に上がり、《カヴァレリア・ルスティカーナ》のアリアをうたう映像。
とにかく「動いているカラス」が観られる、驚天動地の初出映像オン・パレードである。
実はこの映画は、全編が、カラス本人の映像、および、彼女のメモや手紙の朗読だけで構成されており、第三者の証言や解説は(彼女の師ヒダルゴの生前インタビューを除いて)、一切、登場しない。
人物説明や背景説明も、ほとんどない。
よって、スカラ座で彼女に演技指導をしているのが名監督ルキノ・ヴィスコンティであるとか、前半で彼女の横にいつもいる中年男性が、最初の亭主でレンガ工場社長のメネギーニであるとか、世界ツアーで彼女をエスコートしているのがジュゼッペ・ディ・ステーファノであるとか、パゾリーニの映画『王女メディア』に出演して濃密な関係になったが映画は大コケしたとか、そういった解説や字幕は、一切、出ない。
かなりカラスのことを知っていないと、隅々までは楽しめない、ある意味、たいへん不親切な映画である。
知識の少ない方は、できれば、上映前にプログラムを買って、年譜ぐらいはざっと目を通しておいた方が、いいと思う。
では、この映画の監督は、なぜ、そんな不親切なドキュメンタリをつくったのか。
何年もかけて世界中で収集した彼女の「映像」が、あまりにすごいからに、ほかならない。
これは、彼女の生涯をたどったり、検証したりする映画ではないのだ。
言葉は悪いが、噂ばかりが先行して現物の姿が知られていなかった絶滅種の、生前の映像が大量に発見されたので、みんなで観ようじゃないかと盛り上がる、そんなフィルム集なのである。
そこには、天才が、興味本位な視線と戦いながら、次第に疲弊し、ついに破れて絶滅する過程が刻まれていた。
つまりカラスは、死後もなお、スクリーンの中で、わたしたちの「視線」を浴び、晒されつづけているのである。
だから、哀れなのである。
しかし、その責任は、わたしたちにもある、そんな鏡あわせのような、残酷な映画でもある。
永竹さんが生きていたら、果たして、どんな感想を述べただろうか。
あまりの迫力とリアルさに、「できれば見たくなかったよ」と言ったような気がする。
<一部敬称略>
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2018.12.30 (Sun)
第219回 松平頼曉のオペラ

▲松平頼曉作曲・台本《The Provocators~挑発者たち》初演(12月21日、イタリア文化会館アニエッリホールにて)
松平頼曉(1931~)のオペラ《The Provocators~挑発者たち》初演を観た。すでにかなりの部分が2008年にはできていたものの、なかなか初演の機会がなかったのを、音楽批評・プロデューサーの石塚潤一氏をはじめとする企画グループ「TRANSIENT」が舞台に乗せた。
歌手は5人(女声2、男声3。指揮:杉山洋一)。ただし、ピアノ・リダクション版(本来は、小管弦楽版。編曲:小内將人)、コンサート形式である。それでも、舞台上にはイメージ静止画と字幕が投影され、歌手は簡単な動きを伴って小道具も使用する。英語歌詞、台本も作曲者自身。
わたしは、松平頼曉作品は、数えるほどしか聴いたことがないので、このオペラが、松平作品の系譜のなかで、どのような位置をしめるのか、また、どのような意義があるのか、たいしたことはいえない。なのに、なぜ行ったのかというと、拙い経験ながら、松平音楽は、なにかを「表現」しているとか、「あらわしている」とか、そういうこととは無縁の、無機質な、「様式」が先行する、孤高の音世界だと思っており(そもそもご本人は生物物理学者、理学博士である)、そういう音楽を書いてきたひとが、情感や物語表現が基盤になるはずの「オペラ」を書くとは夢にも思わず、いったいどうなるのか、たいへん興味があったからである。
物語は、架空の独裁管理国家。軍事政権を維持するために、実は、反政府ゲリラ組織が、政府によって極秘裏に維持されている。そんな管理下で起きる裏切りや離反……。典型的なディストピア物語である。オーウェル『一九八四年』、アトウッド『侍女の物語』、P・D・ジェイムズ『トゥモロー・ワールド』(人類の子供たち)などの世界に近い。
約1時間の作品中、長めのアリアが3曲あり、それらは、オペラとは無関係に、もともとあった曲なんだそうである。それらをつなぎ合わせ、1本のオペラに仕立てたという。さすがに、どのアリアもずば抜けて個性的な音楽である。
終演後、製作スタッフたちのトークがあり、木下正道氏(作曲家)が「物語は、正直、よくわからない」と笑いながら言っていたが、確かにそうで、これが、衣裳や舞台セットもある完全上演だったらちがうのかもしれないが、どうも隔靴掻痒な印象が残った。ラストで、すべての登場人物が相撃ちになり、そこへスマホを持つ不思議な老人(?)が登場し、いままでの物語がすべてデジタル・ゲームだったかのような終わらせ方をするのも驚きだった。一種の「デウス・エクス・マキナ」ともいえそうである。
では、つまらなかったのかというと、別の意味で、これはたいへん面白いオペラであった。先述のように、本来、松平作品は、なにかを表現する音楽ではない。なのに、物語や感情を表現するオペラを書いてしまった。そのため、作品そのものが、感興と無機質の挾間で、微妙に揺れているのである。情緒におぼれかけると無感情に引き戻され、無感情に過ぎた瞬間、時折、感情がよみがえる、そんな微妙なシーソー感覚を味わった。いわば「オペラ」なる手段で「反オペラ」を描くような、スリリングな1時間ともいえた。
5人の歌手、ピアノも十分、作品を手の内に入れた演奏で見事だった。
2年後には、演出をともなう、正式舞台上演があるのだという。楽しみに待ちたい。
<一部敬称略>
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