2019.07.31 (Wed)
第249回 映画『天気の子』

▲『天気の子』の舞台のひとつ、田端駅南口改札。
(近藤富枝『田端文士村』中公文庫)
明治生まれのわたしの祖母は、人気絶頂のピンクレディーやキャンディーズをTVで観ては、「みんな同じに見えて、どれがどの子だか、わからないよ」と、よく苦笑していた。
当時、中高生だったわたしは、さすがに顔と名前の区別がついたが、先日、話題のアニメ映画『天気の子』(新海誠監督)を観て、祖母の戸惑いがわかるような気がした。わたしは、あのアニメの登場人物たちを見ていて、時折、区別がつかなくなった。みんなひょろ長い手足で、目が大きく、ジャコメッティの人物彫刻が薄皮をまとって動いているような、画一化されたキャラクターばかりである。
わたしは、この監督の作品は、前作『君の名は。』を含めて2~3本しか観ていないのだが、すべて観てきた知人にいわせると、もともと新海誠作品にはキャラクター設定がゆるいというか、あまり入れ込まない傾向があり、今回は、それがさらに顕著なのだそうだ。
ところが、それに反して、周囲の風景や設定は驚くほど具体的なのだ。
たとえば、ヒロインの少女が住んでいるアパートは、田端駅南口から不動坂に至る先にある。この周辺は、文学散歩の名コースで、わたしも歩いたことがある。大正初期、近所に芥川龍之介が引っ越してきたのをきっかけに、室生犀星、野上弥生子、平塚らいちょう、竹久夢二、菊池寛、堀辰雄、萩原朔太郎、岩田専太郎、佐多稲子、川口松太郎など、錚々たる文化人が住むようになり、「田端文士村」を形成したのだ(田端駅北口前には、区が運営する「田端文士村記念館」がある。入場無料にしては立派な文学館だ)。
映画に登場する南口改札は、素朴な「無人改札」である。周囲は住宅のみ、商店や会社などは皆無なので、利用客のほとんどは、近隣住民だ。そのため、都心とは思えない静けさに包まれている。上掲、風間完が描いた『田端文士村』(近藤富枝著/中公文庫)のカバー装画が、まさしく田端駅南口改札の風景である。むかしから「名所」だったのだ。
また、クライマックスの舞台は、「代々木会館」である。代々木駅そばの古い雑居ビルだ。TV「傷だらけの天使」で、ショーケンが、ここの屋上のペントハウスに住んでいた。なお、このビルは、8月から解体されるそうである。実にうまいタイミングで映画に登場したものだ。
そのほか、わたしが日常に接している場所が次々と出てきた。
主人公の家出少年が関わりをもつ編集プロダクション「K&Aプランニング」は、神楽坂、赤城神社裏手の坂道の途中にある。実は、ほぼこのあたりに、わたしがかつてお世話になったデザイン事務所があって、よく通った。だから、すぐにわかった。
物語の後半、主人公は、池袋警察署を脱出し、代々木まで、バイク(カブ?)を駆使しながら疾走する。途中、目白駅横の階段を下って(うなぎ屋「ぞろ芽」~赤堀製菓専門学校の前を通って)、山手線沿いに走るが、この道は、わたしの通勤路で、いまでも毎朝、歩いている道である。
かように、この映画は、全場面が、その地を知っているものなら、すぐにわかる、具体的な場所ばかりが登場する。あらためていうまでもないが、この映画はアニメーションである。実写ではない。アニメなら、いくらでも架空の町並みを描けるのに、なぜ、これほどまでに現実を描写するのだろうか。
ここまで書いて気がついた。うっかり、映画の梗概を説明していなかった。なぜなら、その必要を感じなかったからだ。
というのも、この映画は、人間ではなくて、風景が重要のような気がしていたからだ。東京が異常気象の連続降雨で水没する、その風景を描くこと自体が目的で、登場人物は、全員がジャコメッティでよかったのではないか。
たとえば、クライマックスで主人公の乗るバイクが、目白駅先で道路が完全水没しており、それ以上進めなくなるシーンがある。確かに、あの道は下りで、その先は神田川なので、洪水になったら、まちがいなく、あのあたりで完全水没するだろう。実によくロケハン、研究されている。いわば「仕掛け」が主人公なのだ。
この傾向は、映画や小説など、「ものがたり」を必要とするメディアで、今後、ますます強まっていくだろう。読者・観客は、登場人物の心の動きに寄り添うことよりも、風景や、時間軸や、視点、設定などの「仕掛け」ばかりを、気にするようになるだろう。あえて詳述しないが、近年、賞を得て話題になっている小説の多くも、「仕掛け」で読まれているように思う。
その意味で、祖母がピンクレディーやキャンディーズを「みんな同じに見える」と言っていたのは、「仕掛け」重視時代を予見していたのではないか、そんな気さえ、するのである。
<敬称略>
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2019.07.23 (Tue)
第248回 昭和の神三神[かみがみ] (1)三崎神社通り

▲三崎神社通り(左が三崎稲荷神社。右手奥に「三崎座」があった)
わたしは中野の生まれ育ちだが、すでに、神保町・三崎町・神楽坂で過ごした期間のほうが、長くなってしまった。そこでの思い出を話すと、時折、たいへん興味をもってくれるひとがいる。果たして、面白いのかどうか、わたしには何ともいえないが、昭和が“ふたむかし前”になったいま、こういう雑話も、たまには、いいかもしれない。
この三か所を、頭文字をとって、わたしは勝手に「神三神」(かみがみ)と呼んでいる。
現在、水道橋駅東口からすぐ、「三崎神社通り」にある、その名も「三崎稲荷神社」の並びに、現代的な東京歯科大学の水道橋校舎新館が建っている(先日、この病院で、最後のオヤシラズを抜いてもらった)。
その向かいに、わたしの母校である日本大学法学部のコート(フットサル場?)がある。ビル街のど真ん中に、なんとぜいたくな空間かと一瞬驚くが、ここは数年前まで日本大学法学部の3号館だった。おそらくオリンピックが終わったら、新しい校舎を建てるのかもしれない。いま建てたら、工事ラッシュで高くつく。日本大学だったら、それくらいのことは考えるだろう。
ここは、戦前まで、芝居小屋「三崎座」だった。明治からあった老舗劇場で、東京で初めての女優専用、いわゆる“女芝居”小屋として知られていた。神楽坂あたりから流れてくる客が多かったが、戦時中の空襲で焼失した。
近くには、川上音二郎が出る「川上座」や、歌舞伎小屋「東京座」もあり、あわせて「三崎三座」と呼ばれていた。このあたりは、明治時代、陸軍用地の払い下げを受けた三菱財閥が、“東洋のパリ”を目指して、再開発をおこなった(外濠や内堀が近かったので、水の都のつもりだったのか)。その結果、三崎町は、芝居の街になったのだ。いまでも、よく歴史探訪街歩きツアーが、このあたりでレクチャーをやっている。
この三崎神社通りに、かつて、にぎやかな大衆割烹があった。仮に《K》としておく。1階がテーブルや小上がりで、2階が畳敷きの大広間だった。広くて安かったから、私の学生時代、ゼミのコンパや忘年会で、よく使っていた。まさに三崎神社通りの“顔”のような店だった。
わたしの学生時代、もう40年ほど前の話だ。メイン料理が寄せ鍋だったから、たぶん忘年会だったのだろう。ゼミの宴会が、2階の大広間で開催されていた。わたしの所属するゼミは、先生の影響か、とにかくよく呑む連中ばかりで、その晩も40名ほどの学生で、大騒ぎだった。
いよいよ鍋になった。1階の調理場でつくって煮立たせた鍋を、店員さんが次々と2階へ運んできてくれる。テーブル上のガス台で、もうひと煮立ちさせれば、すぐに食べられるのだ。
小柄な男性の店員さんが、煮立った鍋を手拭いごしに両手でつかんで、運んできた。そして、部屋に入る際、敷居につまづいて、鍋ごと畳のうえにひっくりかえった。その鍋の中身を、たまたまそこに座っていたゼミ生のNくんが、下半身に浴びてしまった。Nくんは「ぐああああ!」とすごい声をあげて、その場でのた打ち回った。そばにいたわたしの同期生で、普段は男のような低い声のM嬢(現在、大手出版社の取締役)が、珍しく甲高い声で「きゃああ!」と声をあげたのを、いまでも覚えている。
すぐに救急車が呼ばれ、飯田橋の東京警察病院(現在は中野に移転)へ運ばれた。幸い、同病院は皮膚科が優秀なことで知られており、N君は応急処置を受けて大事には至らなかった。ただし、その後も通院がつづいて、完治するまでは時間がかかったようだ。
このときのお店の対応は素早かった。もちろん、治療費や交通費は、すべてお店がもってくれた。その意味で、キチンと対応してくれたのだが、しかし、どうも「Nくんが鍋を浴びた店」とのイメージばかりが残り、なんとなく行きにくくなってしまった。社会人になってからも、この通りはひんぱんに歩いているが、その後、《K》に行った記憶がない。
それでも、いまから10年ほど前、閉店が決まったというので、ひさしぶりに知人を誘って、《K》に行ってみた。1階に座り、最初のイッパイを呑んで、上述“鍋事件”の思い出を話しだしたとたん、ケータイが鳴った。家族からだった。まだ3歳くらいの姪が救急車で運ばれたらしいが、どうも事情がよくわからない、すぐ行ってやってほしい、という。「また救急車か」と、妙な因縁をおぼえ、中座して、姪が担ぎ込まれたという病院へタクシーを飛ばした。
詳述は省くが、姪は、命はとりとめたものの、このときの病気がきっかけで障害を負う身となってしまった。
そういえば、鍋を浴びたNくんは……卒業後、大手新聞社に営業マンとして入社し、バリバリ働いていたが、ある日、クモ膜下出血で倒れ、半身不随となった。懸命のリハビリで、なんとか、ほぼ通常生活が送れるまでに回復はしたが、今度は心筋梗塞で、40歳代の若さで急死してしまった。
もちろん、Nくんの死も、姪の病気も、《K》のせいではない。だが、お店とお客には“相性”みたいなものがある。わたしと《K》は、その“相性”がよくなかったのだと思う。
三崎神社通りを歩くたびに、そんなことを思い出して、少しばかり苦い気分になる。
<敬称略>
※「むかしの神三神」は、随時掲載します。
【お知らせ】
6月24日(月)にラジオ福島で放送された特別番組「こころひとつに…普門館からありがとう」が、7月24日まで、同局サイトのアーカイブで聴取可能です。今年度課題曲のほか、5月に白河で開催された演奏会でのスミス《華麗なる舞曲》ライヴも聴けます(指揮:飯森範親)。ほかに、田中靖人さん、わたし(富樫鉄火)のインタビューもあります。
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2019.07.14 (Sun)
第247回 エレニ・カラインドルーを聴く

▲エレニの最新作『TOUS DES OISEAUX』(ECM)
わたしが好きな現代作曲家のひとりに、エレニ・カラインドルー(1939~、ギリシャ)がいる。
彼女は、長年、テオ・アンゲロプロス監督の映画に音楽を寄せていた。ギリシャや中東の響きをベースに、人生の酸いも甘いもすべて呑み込んで慰撫するような、独特な曲想は、あの長回しの画面にピッタリだった。
だが、2012年1月、アンゲロプロスは交通事故で不慮の死を遂げる。以来、このコンビの新たな「映像+音楽」を観られなくなったのが、残念でならない。
エレニは、劇音楽も多く書いている。もちろん、ギリシャやヨーロッパの舞台なので、わたしは、観たことがない。しかし、そのいくつかがCD化されている(舞台カンタータ《ダヴィデ王》などもある)。それらを聴きながら、どんな舞台だったのだろうと、想像するのは楽しい。
たとえばギリシャ悲劇『メデア』や『トロイアの女たち』(これは傑作! ぜひ交響詩にまとめてほしい)、『セールスマンの死』、『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』……そして、テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』。
エレニが『ガラスの動物園』のために書いた曲のうち、〈トムのテーマ〉と〈ローラのワルツ〉の2曲がCD化(コンサート・ライヴ)されている。演奏には、ノルウェー出身の著名なサクソフォン奏者、ヤン・ガルバレクと、ヴィオラ奏者のキム・カシュカシヤンが参加している。
曲想は、作者がいう「追憶の劇」を思わせるもので、南部へのノスタルジアが感じられる(この物語の舞台はセントルイスだが、母アマンダは南部出身の設定)。エレニにしてはポップス・テイストが強く、そのまま『欲望という名の電車』でも通用しそうである。
最近、文学座が29年ぶりに『ガラスの動物園』を上演した(6/28~7/7、東京芸術劇場 シアターウエストにて)。小田島恒志の新訳、高橋正徳の演出である。これは見事な舞台で、訳、演出、役者の演技など、どれも素晴らしかった。ひさびさに、いい芝居を観た。
また、やはりテネシー・ウィリアムズはすごい劇作家だと、再認識もした。
そして、この舞台の音楽は、(特にクライマックス部で)ドイツの人気作曲家マックス・リヒターの《オン・ザ・ネイチャー・オブ・デイライト》が使用されており、効果を上げていた。映画『メッセージ』にも使用されていたミニマル風の曲である。これは、劇中の家族や出来事を、少し離れたところから冷静に見ているタイプの音楽。
『ガラスの動物園』をめぐる音楽といえば、もうひとつ、ヘンリー・マンシーニによる映画音楽がある。ポール・ニューマン監督、1987年の映画である。こちらは、さすがにアメリカン・ポピュラーの大御所だけあり、良質なホームドラマを思わせる名曲だ。劇中の家族に寄り添い、同情をもって見つめるタイプ。
ところで――エレニの最新作は、『TOUS DES OISEAUX』〈すべての鳥〉の劇音楽(本年初頭にCD発売)。ワジディ・ムアワッド作・演出で、2017年11月、パリのコリーヌ国立劇場で初演された(その後、再演も)。ムアワッドはレバノン→カナダの亡命家族の一員で、同劇場の芸術監督。静岡芸術劇場などの演劇祭にも来日したことがあるらしい。
芝居の内容は、ネット上の記述やトレーラー映像から想像するしかないのだが、若きイスラエル出身のドイツ人科学者と、パレスチナ出身のアメリカ人女子学生が恋に落ちる“ロミオとジュリエット”風の物語らしい。ここに様々な文化、宗教、民族などの対立要素がからまり、ドイツ語、ヘブライ語、英語、アラビア語の4言語が飛び交う4時間の超大作だという。音楽は、女性ヴォカリーズを中心とした、まさに“エレニ節”といいたくなる、おなじみの渋さで、古代ギリシャを源泉とするヨーロッパ文明の、さまざまな要素をごった煮にしたような味わい。
このCDには、最新の映画音楽も収録されている(LP時代だったら、A面/B面だったろう)。『BOMB, A LOVE STORY』〈爆弾~ある愛の物語〉(ペイマン・モアディ監督、イラン、2018)だ。2011年に第84回米アカデミー外国語映画賞を受賞した『別離』の主演俳優による監督作品である(主演男女も『別離』と同じ)。1988年、イラン・イラク戦争が舞台らしい。
こちらの音楽は、“アンゲロプロス節”の再来。コンスタンチノープル・リラ(別名“ヴィザンチン・リラ”)や、カノナキ(琴のようなギリシャの古楽器)と思われる響きが、胸を締めつける。もし予備知識なしで、「新発見、アンゲロプロスの幻のフィルム」の音楽だといわれたら、信じてしまいそうだ。はやく映画を観たい。
<敬称略>
※エレニのCDは、すべてECMレーベルから発売されています。
そのうちのいくつかは、ナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴くことができます。
【お知らせ】
6月24日(月)にラジオ福島で放送された特別番組「こころひとつに…普門館からありがとう」が、7月24日まで、同局サイトのアーカイブで聴取可能です。今年度課題曲のほか、5月に白河で開催された演奏会でのスミス《華麗なる舞曲》ライヴも聴けます(指揮:飯森範親)。ほかに、田中靖人さん、わたし(富樫鉄火)のインタビューもあります。
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2019.07.09 (Tue)
第246回 ”音楽映画”『COLD WAR あの歌、2つの心』

▲映画『COLD WAR あの歌、2つの心』公開中
2013年、渋谷イメージ・フォーラムでの「ポーランド映画祭」で『イーダ』(パヴェウ・パヴリコフスキ監督、2013年)を観た。あまりに素晴らしかったので、映画祭中、2回観た。翌2014年に日本で一般公開され、また2回観た。2015年には米アカデミー賞で最優秀外国語映画賞を受賞した。
これはポーランドの戦後史というか精神史のようなものを、ひとりの少女(見習い修道女)を軸に描く映画なのだが、その素材のひとつに、ジャズが使われていた。戦後、ソ連の支配下にあったポーランドでは、ジャズは禁止されていた。そんな“敵性音楽”に出会うことで少女におきる変化を、モノクロの静謐な映像で美しく描いていた。
ラストで、バッハの《われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ》BWV 639(ピアノ版。たぶんブゾーニ編曲)が流れるのも見事な音楽演出だった。これほどバッハが効果的に流れる映画は、『木靴の樹』(エルマンノ・オルミ監督、1978年)以来ではないかと思われた。
この監督の新作『COLD WAR あの歌、2つの心』が公開されている。再びポーランド戦後史が題材なのだが、『イーダ』以上に、音楽要素が強くなっており、事実上の“音楽映画”となっていた。
1949年、ポーランドの伝統的な民俗音楽や舞踏を守るために、国営の合唱舞踏楽団が結成される。この楽団のピアニストの男が主人公である。楽団のオーディションを受けにきた歌手の少女と恋に落ちる。
男は物静かな性格だが、実はジャズを愛好している。楽団は成功するが、次第にソ連の支配が強まり、スターリン讃歌を歌わされたりする。男は我慢できなくなり、1952年、東ベルリン公演の際、女を誘って亡命を画策する(まだベルリンの壁は、できていない)。だが、女は、約束の場所にあらわれない。男はひとりでパリにわたり、ジャズ・ミュージシャンとして生きていく。
それから男と女は、数年ごとに、さまざまな場所で出会い、音楽活動をともにするのだが、長続きせず、会ったり別れたりを繰り返す。女の自由奔放な性格のせいだが、もちろん、当時の政治状況も大きく影響している。
映画は、その間のエピソードを、最低限の説明で、テンポよく描いていく。ラストは、1964年(東京オリンピックの年だ)。出会いから15年の月日が流れている。
劇中、特に重要な曲は、民謡《2つの心》である。当初は伝統音楽のように歌われる。後半、2人がパリで出会うと、スローなジャズ・ナンバーに変貌して歌われる。同じ曲が、これほどちがう顔を見せることに、音楽の面白さと奥深さを感じる。
だが、音楽は自由に変化できるが、人間は、そうはいかない。やっかいな政治状況に翻弄され、しがらみをまとって、身動きがとれない。だから、軽快なはずのジャズ演奏のシーンも、どこか重苦しく、不安げだ。
前作『イーダ』同様、モノクロ、スタンダード画面。人物の顔が画面の下にくる独特な構図も継承されている。今回は、エンド・クレジットのバックに、バッハ《ゴルトベルク変奏曲》冒頭アリア(グレン・グールドによる2度目の録音)が流れる。
すでに指摘されているように、この映画は、成瀬巳喜男監督の名作『浮雲』(1955年)を思わせる。戦後の混乱期のなか、腐れ縁となった男女が、ついたり離れたりのダラダラ関係をつづける。むかし、この男女(森雅之と高峰秀子)を、戦後の日米関係と解釈する評論を読んだ記憶がある。ちょっと考え過ぎのような気もするが、脚本の水木洋子は「身体の相性がよかったから」と、あまりにリアルすぎる“解説”を述べているらしい。
『COLD WAR~』の男女の場合、もちろん「身体の相性」もあっただろうが、それよりも「音楽の相性」がよかった。戦後ヨーロッパの冷酷な政治環境が舞台だが、その点だけは、少しばかりホッとするような、おとなの“音楽映画”だった。
<敬称略>
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2019.07.04 (Thu)
第245回 映画『新聞記者』

▲映画『新聞記者』
話題の映画『新聞記者』(藤井道人監督)を観た。
東京新聞の望月衣塑子記者の同名著書(角川新書)が原案。これに、「伊藤詩織さん“準強姦”訴訟」「前川喜平氏“出会い系バー”騒動」らしき出来事をからませながら、「森友・加計学園問題」を思わせる事件に迫る女性新聞記者(日韓ハーフの帰国子女)と、彼女に協力する内閣調査室員(外務省からの出向)を描く、政治サスペンスである。
脚本がよくできている。一介の社会部記者と内調室員がいかにして出会い、共同歩調に至るのか、映画ならではの展開で、それなりに説得力がある。
それでも、わたしは、観終わった後、あと味の悪さを感ぜずにはいられなかった。
国家に対抗する新聞記者が主人公なのだから、当然、政権は「悪」に描かれている。それどころか、この映画によれば、内閣は陰謀の巣窟で、まるでナチスの再来である。
だが、そういう点が不満だったのではない(そもそも、わたしは、安倍政権があまり好きではない)。
製作側に、どこか、腰が引けた姿勢が見受けられるのだ。
確かにSNS上は「よくぞここまで描いた」といった主旨の投稿だらけで、絶賛の嵐である。
だが、考えてみれば、この映画に登場する「事件」は、すべて脚色されている。レイプされたという女性ジャーナリストの記者会見場はなぜか真っ暗で、ホラー映画のようである。内閣調査室も薄暗く、ロボットのような職員が何十人も無言でPCに向かい「情報操作」を行なっている(わたしは内調室内を見たことないが、ほんとうに、あんな職場なのだろうか)。文科省官僚は、出会い系バーではなく、野党女性議員と通じていたことになっている。首相の知人が新設を申請する大学は、実は生物兵器の研究機関で、第二の「ダグウェイ羊事件」をほのめかせている。
なぜ、こんな改変をしなければならないのだろう。ほんとうに政治の危機・腐敗を訴えたいのなら、いま起きている出来事を堂々とストレートに描けばいいのに。
「ストレートに描いたのでは、エンタメ映画にならない」との声もあろう。
では、過去にあった、新聞記者が国家や体制と戦う、以下のような映画は、どうだろう。
黒い潮(1954、山村聡監督)
大統領の陰謀(1976、アラン・J・パクラ監督)
日本の熱い日々/謀殺・下山事件(1981、熊井啓監督)
誘拐報道(1982、伊藤俊也監督)
キリング・フィールド(1984、ローランド・ジョフィ監督)
スポットライト/世紀のスクープ(2015、トム・マッカーシー監督)
ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(2017、スティーヴン・スピルバーグ監督)
タクシー運転手/約束は海を越えて(2017、チャン・フン監督)
記者たち/衝撃と畏怖の真実(2018、ロブ・ライナー監督)
これすべて、実在の事件とジャーナリストがモデルで、大半は実名そのままで登場する。少なくとも、新設大学=生物兵器研究所のような大改変はない。ほとんど、ストレートに映像化されており、脚本・演出・役者の力で、迫力満点のエンタメになっている。
望月記者の著書が原案だというが、だったら、もっと堂々と望月色を出して、主演のシム・ウンギョンに、記者会見での厳しい質問風景を再現させてほしかった(日本語が堪能ではないため、“おとなしい”記者役になったのか)。
望月本は、新聞記者の自伝ノンフィクションとして、なかなか面白い。これをそのままドラマ化したほうが、よかったのではないかとさえ、思う。
なのに、なぜ、このような改変をしなければならなかったのか。
理由は「実在事件のままエンタメに昇華させる力量が製作側になかった」か、「実在事件そのままでは、映画のネタになるほどの迫力がなかった」のどちらかのような気がする。
まさか現政権に“忖度”したとは、思いたくないが。
実は、わたしがこの映画を観ようと思ったきっかけは、ある全国紙に載った、映画評論家氏の寄稿だった。「日本社会に斬り込む映画」と題して、『空母いぶき』とともに賞賛されており、「両作とも(略)今後起こるかもしれない事態を真剣に考えさせるに十分なリアリティーを持っている。(略)参議院選挙も近い今、ぜひ、映画館でこの2本の映画と向き合ってほしい」と結ばれていた(このひとは、他誌にも同様主旨で寄稿している)。
なるほど、それほどの映画なのかと、期待して劇場へ行ったわけだが、エンド・クレジットで驚いてしまった。その寄稿者が「企画協力」で、スタッフに名前を連ねていた。彼は、「製作者」側だったのである。
そんなことはひとことも言わず、おおやけの紙面で映画を賞賛している。なんだか劇中で内調がやっていたことと似たような空気を感じ、これもまた、あと味が悪かった理由のひとつでもあった。
<敬称略>
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