2020.01.29 (Wed)
第268回 映画『キャッツ』は、そんなにひどいのか【後編】

▲「CG猫人間」で「人生が変わる」?
【前回よりつづく】
要するに、この映画は、脳内補完を拒否する、「人類が初めて観るヴィジュアル」をつくりだしてしまったのだ。よって原作舞台を知らないひとにとっては、ますます拒否感が強くなり、受け入れにくかったにちがいない。
だが原作舞台に慣れたひとは、いままでずっと脳内補完しながら観てきたので、この映画も、なんとか「新たなキャストと演出による、最新プロダクションのひとつなのだ」と思って観る余裕が、残っている。
CG合成の猫人間が気持ち悪いというが、原作舞台で、目の前で観る猫役者のメイクも、そうとう無茶なもので、初演時、ずいぶん嘲笑されていたものだ。わたしも初演時、啞然となった覚えがある。しかし、いまでは誰もが脳内補完で乗り切るワザを身に着けているので、笑うものなどいない。
だから、映画肯定派は、原作舞台を知るひとに多いはずだ。
どこが楽しかったか
かくして、わたしは、この映画を、おおいに楽しんだ。
ジェニファー・ハドソン(娼婦猫グリザベラ)が、鼻水を垂らしながら〈メモリー〉をうたう。初演時の久野綾希子の、あのエラの張った顔が浮かんだ。
おばさん猫ジェニエニドッツ。日本初演から20年間、4251回、たったひとりでこの役を演じ続け(おそらく世界最高記録!)、55歳の若さでガンで逝った服部良子のタップを思い出し、泣けてきた。
原作舞台より格上げされた子猫ヴィクトリアのバレエ。ニューヨークで観た、強烈ダイナマイト・ボディ・ダンサーの、エロティックな容姿を思い出した。
この映画は、そんなふうにして楽しむものだと思う。
ほかにも、楽しんだ点は、たくさんある。
まず、イギリス演劇界を代表する2大名優が起用されたこと。
長老猫デュートロノミーが、雌猫に変更され、大女優ジュディ・デンチが貫禄たっぷりに、しかし楽しそうに演じているのがよかった(むかし、舞台初演に出る予定が、ケガで流れたという)。
さらに劇場猫ガスを、大御所イアン・マッケランが演じた(ミルクを舐めている!)。むかしを回想しながら、シェイクスピアなど古典の重要性を説き、いまの舞台がいかにダメかを嘆く歌は、まるでイアン・マッケラン本人の心情を代弁しているようで、涙を禁じ得なかった。
この2人が登場すると、たとえ猫人間でも、一瞬にして画面が締まるから不思議なものである。
原作舞台では脇役だった、雌の子猫ヴィクトリアが、主役級の狂言回しに格上げされ、飼い主に捨てられた彼女が、ゴミ捨て場の猫コミュニティに受け入れられるまでの物語に変更された。その役を、ロイヤル・バレエのプリンシパル・ダンサーに演じさせたのも、うまいアレンジだと感心した(しかも、たいへんかわいい)。
編曲もよかった。特に鉄道猫スキンブルシャンクスを、豪快なタップダンサーにしたのは慧眼だった。アカデミー編曲賞モノだと思った。
否定派も、ここだけは絶賛せざるを得ない、ジェニファー・ハドソンの〈メモリー〉も、聴きものである。
ただ、ヴィクトリアがチラリとうたう新曲〈ビューティフル・ゴースト〉は、評判がいいようだが、わたしには、ロイド=ウェバーにしては、そう驚くほどの名曲とは思えなかった(エンド・クレジットで、テイラー・スウィフトが絶唱する。作詞もスウィフトで、〈メモリー〉のアンサー・ソングになっているようだ)。
「人生が変わる」映画?
ただ、映画としては、しんどい部分もあった。
特に前半部、あまりに細かいカット割りの連続で、目がチカチカして、頭が痛くなってきた。もう少しじっくり、歌や踊りを全体像として観たかった。
泥棒猫マンゴジェリーとランペルティーザの曲は、個人的には旧ヴァージョンでやってほしかった。
擬人化されたゴキブリを食べるシーンは、わたしもちょっとどうかと思った。
また、オリジナル・ナンバーをいくつか削除したために、流れがギクシャクしているような部分もある(たとえば、劇場猫ガスにつづく、海賊猫グロールタイガーのくだりはカットされた。彼は犯罪猫マキャヴィティの手下になっている)。
原作舞台は、全2幕で(休憩を除くと)正味140分の作品である。それを109分に圧縮したのだから、仕方ないのだが。
というわけで、この映画『キャッツ』は、原作舞台を知るひとが、新しいプロダクションなのだと思って観れば、楽しいひとときを過ごすことができる。つまり、舞台記録映像の延長線上である。だが、原作舞台を知らないひとが観ると、隔靴掻痒の109分間に終わるだろう。それを、「人生が変わる極上のエンターテイメント」なんて煽って宣伝するから、誰が観ても楽しめる映画のように誤解されてしまうのだ(もっとも、CG猫人間に衝撃をおぼえた方にとっては「人生が変わる」映画だったかもしれない)。
最後に、吹き替え版について。
英語で歌っている映像に日本語歌唱をあてるなど、かなり無理なことをやるわけで、そのうえ歌詞が劇団四季版とはちがうので、違和感は否めない(「♪メモリー、仰ぎ見て月を」は、ない)。それでも、おおむね、みんな歌唱がうまく、まあまあ好印象だった。
特に劇場猫ガスを演じた宝田明には、ちょっと泣かされた。長老猫デュートロノミーの大竹しのぶは、声が若すぎた。ここはぜひ、宝田明との名コンビ、草笛光子に演じてほしかった!
<敬称略>
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2020.01.28 (Tue)
第267回 映画『キャッツ』は、そんなにひどいのか【前編】

▲アメリカでは「2019年最悪映画」に指定された。
映画『キャッツ』の評判が、よくない。
特に海外での評価の低さは尋常ではなく、IMDbでは2.8点(10点満点)、Rotten Tomatoesの満足度も20%の低さだ(1月28日現在)。「2019年最悪映画の1本」の評価もあるらしい。
興行的にも大失敗で、製作費の回収も、とうてい覚束ないようである。
わたしも長年のファンのひとりとして、さっそく観たのだが(字幕版、吹替版ともに)、これは極端なまでに「観客を選ぶ映画」である。原作舞台にどれだけ理解があるかで、受け止め方が変わる、やっかいな映画だと感じた。
今回はすこし長くなるが、2回に分けて、書きとめておきたい。
この映画は日本でも、多くの観客が戸惑ったようだ。SNS上にあふれる疑問・不満をざっとまとめると、こうなる。
①猫が次々に出てきて歌うだけで、セリフもストーリーもなく、なにをやっているのかわからない。
②「ジェリクルキャッツ」とか、意味不明な名前や用語が続出するのに何の説明もない。
③CGの猫人間が妙にリアルで気持ち悪い。裸体ポルノのようで、子供に見せられない。
④ゴキブリやネズミまでもが擬人化されており、不気味。
⑤ラストで長老猫が突然、カメラに向かって(観客に向かって)説教し始めるのが不自然。
これらは、原作舞台を見慣れた方には、当たり前のことなのだが、そうでないひとには、たしかにわけがわからないかもしれない。現にわたしも、上映中に中座する母子やカップルを数組、目撃した。
このミュージカルはノーベル賞詩人、T.S.エリオットの詩集が原案で、ゴミ捨て場に集まった猫たちの一夜を描くものだ。年に一度、転生できる猫が選出される、その選抜戦なのである。彼らは、歌と踊りで自己をアピールする。いわばガラ・コンサートのようなもので、だから、セリフもほぼないし、ストーリーらしきものもない。
最後に長老猫が話しかけるのは、これは原案の詩集がそうなっているのであって、つまり、原作者エリオットが、読者に話しかけている詩を再現しているのである。
奇妙な用語や名前は、ノーベル賞作家ならではの造語なので、いちいち説明のしようもない。
なぜ何回も観るのか
日本は世界でもトップレベルの『キャッツ』大国で、劇団四季により、断続上演ながら37年間で10,000回を突破、いまでも上演がつづいている異様な国である(ロンドンは21年間で8,950回、ニューヨークは18年間で7,485回。どちらもとっくに終わっている。NYでは2016年からリバイバルがあったが)。
わたしは、『キャッツ』は、劇団四季による1983年の日本初演から観てきた。その後、日本で3~4回、ロンドンで1回、ニューヨークで2回観ているが、この程度では「何回も観た」うちに入らない。100回以上観ているひとなどザラにいる作品である。
なぜそんなに何回も観るのかというと、このミュージカルは、前記のように「歌と踊りを観る」ものなで、役者によって、あるいは観客の年齢や精神状態によって、さらには観る位置(座席)によって、印象がガラリとかわるのである(時折、曲や編曲、演出もかわる)。
そこは歌舞伎と同じだ。毎度のように『勧進帳』だ『道成寺』だ『鏡獅子』だと、同じ演目ばかりやっている。あれは役者がかわるとまったく別の印象になるから、舞台好きは、そのたびに観たくなる。それに似ている。
だから、今回の映画は、いままで無数の役者によって演じられてきた、その延長線上にある、新キャスト&新演出による、最新プロダクションのひとつとして観るべきなのである。原作舞台を知らないひとが、突然観て楽しめるようには、つくられていない、たいへん不親切な映画なのだ。
では、今回、原作舞台を観ている/観ていない――にどんなちがいが生じるか。
暗黙の了解
『キャッツ』日本初演は1983年のことで、まだ空き地が目立つ西新宿の高層ビル街の一角、仮設劇場での上演だった。この作品は、客席と舞台が混然一体となっており、猫が集うゴミ捨て場が舞台である(ニュー・ロンドン・シアターや、NYのウィンターガーデン・シアターは、巨額を投じて大改修され、公演終了後、本来の劇場に戻された)。
客席はゴミ捨て場を囲むように配置され、我々は、猫の深夜の集会に立ち会うとの設定である。役者(猫)も、ときには客席のなかに入り込んできて、まさに猫の仕草でゴロニャンと、観客の足下で転がったりする。だから基本的に、一般劇場では上演できない(一般劇場の場合は「シアター・イン・シアター」システムといって、劇場の中に、もうひとつの劇場をつくり、独立した仮設劇場にちかい雰囲気にする)。
よって、「観る」よりも「体験する」、アトラクションのような要素が強くなる。これは映画を観るうえでも需要なポイントとなる。
演劇やミュージカルとは不思議なもので、舞台と観客との間に「暗黙の了解」がある。『ハムレット』を観に行けば、舞台上に何もなくても、観客は「ここはデンマークのエルシノア城なのだ」と思い込む。歌舞伎で男がお姫様を演じていても「あれは女なのだ」と思い込む(宝塚歌劇は、その逆だ)。
『キャッツ』だったら、場内を「猫が集まるゴミ捨て場」と思い込む。さらに、役者がメイクや衣装、仕草で猫に扮しているが、どう見ても人間であり、かなり無理がある。しかし観客は猫だと思い込む。
つまりすべては「暗黙の了解」、要するに「脳内補完」しているのだ(時折、『カルメン』の舞台を現代のニューヨークに置き換えたなんて演出に接すると、脳内補完が追いつかず、混乱するが)。
ところがこの映画は、CGによって、人間でも猫でもない、いままで観たことのない、完璧な「猫人間」をつくりだしている。こうなると、「脳内補完」の出番がない。この時点で演劇的な楽しみ方は否定される。
【次回、後編につづく】
<敬称略>
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2020.01.25 (Sat)
第266回 年の暮れ 寅さんもフォースも完結す

▲期せずして昨年末に同時に完結した2つのシリーズ。
映画『男はつらいよ』シリーズ第1作が公開されたのは、1969年のことだった。当時、わたしは小学校5年生で、さすがに観ていない。
わたしが観るようになったのは、大学生になってからで、たしか、第17作『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(1976)が最初だったと思う。新宿松竹(いまの新宿ピカデリー)で観た。
この作品は、浅丘ルリ子の「リリー三部作」に匹敵する屈指の名作で、マドンナは、いまは亡き名女優、太地喜和子(芸者ぼたん)。ほかに宇野重吉や、ソ連から帰国直後の岡田嘉子などが出演していた。寅さんが、ぼたんの窮地を救おうと奮闘する姿は、いま思い出しても涙がにじんでくる。すごい人情喜劇だと思った。
以後、寅さんは、ほぼ全作を封切で観て、浅草名画座や新文芸坐での特集上映にも、ずいぶん通ったものだ。
寅さんに出会った翌1977年、映画『スター・ウォーズ』第1作(その後、エピソードⅣ『新たなる希望』になった)が公開された。
第一印象は、「音楽が大げさすぎる」だった。チャイコフスキーや、ホルストの《惑星》そっくりな部分もあった。ジョン・ウィリアムズは、『11人のカウボーイ』や『タワーリング・インフェルノ』『ミッドウェイ』などで大好きな作曲家だっただけに、少々、違和感があった(いまでは聴きなれたので、そんなことは感じないが)。
それでも、とにかく面白かったので、以後、すべてを封切りで観てきた。だが、話が進むうちに「実は父子だった」「実は兄妹だった」などの、後づけとしか思えない設定が続出し、無理やり感を覚えた。しかし考えてみれば、文楽などは、船宿の親父が「実ハ」死んだはずの平知盛だったとか、平敦盛の首級が「実ハ」熊谷直実の息子だったとか、やたらと「実ハ」だらけであり、この種の作劇術は世界共通なのだろうと思って観てきた(近松門左衛門の『国姓爺合戦』などには、「スター・ウォーズ」の元ネタかと思うような場面がいくつかある)。
昨年末、その「寅さん」と、「スター・ウォーズ」が、同時に完結した。「寅さん」は初公開から51年目、全50作。「スター・ウォーズ」は43年目、(正伝だけで)全9作。どちらも、ほぼ半世紀かけて完結したわけだ。
さっそく、わたしも両方観たが、正直なところ、それほどの感慨もなく、「こんなものかなあ」だった。もう少し涙がにじんだり、背筋がゾクゾクしたりするかと思ったのだが。
今回の新作『男はつらいよ お帰り寅さん』は、主人公の寅さんが行方不明(のような設定)で、甥の満男の、相変わらずのモラトリアム人生が描かれる。いい歳をして、まだウジウジとしており、「もし伯父さんがいてくれたら……」なんてぼやくと、むかしの寅さんの映像が回想風に出てくる。
だが……『男はつらいよ ぼくの伯父さん』(1989)のなかで、寅さんが、予備校生の満男に酒の呑み方を教える名場面があった(料理屋の店員が戸川純だった)。
「いいか。片手に杯を持つ。酒の香りをかぐ。酒の匂いが鼻の芯にずーんと染み通ったころ、おもむろにひとくち呑む。さあ、お酒が入っていきますよと、五臓六腑に知らせてやる」
満男の物語である以上、ここは必ず出てくると思ったが、なかった。
なのに、もうひとつの名場面は出てきた。佐賀の、ゴクミの叔父さんのもとへ、寅さんが謝りに行き、最後にこう言う。
「私のようなできそこないが、こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、私は、甥の満男は間違ったことをしていないと思います。慣れない土地へ来て、寂しい思いをしているお嬢さんをなぐさめようと、両親にも内緒で、はるばるオートバイでやってきた満男を、私はむしろ、よくやったと褒めてやりたいと思います」
ここは、さすがにジワリときた。伊丹十三の“おじさん思想”を思い出した。
だが考えてみれば、回想場面として泣かされたのではなく、映画史に残る名場面として泣いたのである。しかも、あの場に満男はいなかったわけで、満男自身は、寅さんのあのコトバを回想できないはずだ。満男が直接かかわったシーンではなく、不在のシーンが回想される。どこか、無理やり感が漂う。
結局、満男のモラトリアム人生など描かず、「寅さん名場面集」に徹したほうが、よかったのではないだろうか。ハリウッドには『ザッツ・エンターテインメント』シリーズがある。MGMのミュージカル映画のさわりを次々と見せる名場面集だ。あの要領で、現存する「とらや」のひとたちが、行方不明の寅さんの思い出を語りながら、名場面が展開する、そんなシンプルなつくりのほうが、心から泣けたと思う。
せっかく久しぶりに寅さんを観に行ったのに、相変わらずウジウジしている満男を見せられて、ちょっと期待外れだった(もっとも、今後、満男の人生を描く『甥っ子もつらいよ』が始まるというなら、話は別だが)。
そういえば、『スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け』のほうも、初期に胸躍らせたルーク・スカイウォーカーも、ハン・ソロもヨーダもオビワン・ケノービも、みんな亡くなっている。だが多くは“霊体”となって、関係者の周囲に平然と現れる(ほんとうに亡くなったレイア姫役の女優までもが、「生きて」登場する)。その無理やり感が、どうもなじめなかった。
「寅さん」も「スター・ウォーズ」も、本来いるべきひとが、いなくなっている。それでも完結編をつくらなければならず、どこかに無理が生じている、どちらもそんな映画だった。
<敬称略>
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2020.01.19 (Sun)
第265回 イングランドの”隠れ切支丹”

▲ヴォーカル・アンサンブル・カペラの定期公演(1月15日、東京カテドラル教会聖マリア大聖堂にて)
吹奏楽に長く携わっている方なら、ゴードン・ジェイコブ(1895~1984)の名をご存じだと思う。イギリスの作編曲家で、王立音楽院の教授を長くつとめた教育者でもあった。
彼の名が広まったのは、学生時代に作曲(編曲)した、《ウィリアム・バード組曲》だった。当初は管弦楽用に書かれたが、のちに吹奏楽版となり、世界中で演奏されるようになった。(うろ覚えだが、フレデリック・フェネル指揮のマーキュリー盤が初の商業録音だったのでは?)
これは、ルネサンス期のイギリスの作曲家、ウィリアム・バード(1543?~1623)がヴァージナル(当時のイングランドで流行した、小型チェンバロ)のために書いた曲を6曲抜粋し、編曲したものだ。たいへんうまくまとめられており(特に、管打楽器=吹奏楽の魅力が十二分に引き出されている)、編曲というよりは、再創造と呼ぶにふさわしい。ホルストの組曲などと並んで、教育テキスト的な楽曲としても知られている。
そしてもうひとつ、本作の功績は、ウィリアム・バードの名を、世界中に、特に吹奏楽に携わる若い人たちに知らしめたことである。
ウィリアム・バードは、“ブリタニア音楽の父”などと呼ばれた大作曲家である。
特に有名なのは、3つのカトリック・ミサ曲(ラテン語)なのだが、謎の多い曲として知られている。紙幅もあるので、要点だけ述べると、
①なぜ3曲とも題名がないのか(仕方なく、通称で《3声の/4声の/5声のミサ》と呼ばれている)。
②なぜ3曲とも、表紙がない小冊子として出版されたのか。
③どこで歌うために書かれたのか(国教会=プロテスタント全盛期、カトリック弾圧の治世に、ラテン語のカトリック・ミサ曲など書いても、演奏する場がなかったはず)。
これに関しては、さまざまな説があるのだが、先日、ある演奏会で、面白い解説を見聞した。それは「ヴォーカル・アンサンブル・カペラ」(VEC)の定期公演のことで、この日、バードの《4声のミサ》が演奏されたのだ(1月15日、東京カテドラル教会聖マリア大聖堂にて)。
このVECとは、古楽演奏家の花井哲郎が主宰する、古楽専門の声楽グループである。インターネットのクラシックFM「OTTAVA」を聴く方なら、番組の合間に、この世のものとも思われぬ、美しい声のジングル(ギョーム・デュファイ作曲《花の中の花》)が流れるのをご記憶と思う。あれを歌っているグループである。
わたしはこのVECのファンで、ここ数年、定期会員になっている。彼らの特徴は、ミサ曲を、きちんと「ミサ」の形態で演奏する点にある。たとえば今回だったら、バードの《4声のミサ》に、彼のほかの宗教曲を「入祭唱」「昇階唱」「拝領唱」として加え、さらには祈祷文の朗読も交え、“宗教行事”として再現するのである(よって、ミサ曲だけなら20分強だが、全体で倍以上の時間を要した)。
さらに、主宰・花井哲郎による開演前トーク、および、プログラム解説が、あまりに面白い。これだけにチケット代を費やしてもいいくらいだ。
今回は、上記の謎について、トークと解説文で、おおよそ、以下のような解説がなされた。
<バードの時代のイングランドは、国教会(プロテスタント)を推進するエリザベス一世によるカトリック弾圧が激しかった。バードは、王室聖歌隊で教育を受け、エリザベス一世を讃える音楽や、国教会のための英語の典礼音楽も書く、“政府公認の国教会作曲家”だった。ところが内実は、正真正銘のカトリック信者であった。そのため、こっそりカトリック貴族の保護を受け、地下活動用にカトリックのミサ曲を書いた。だから曲名も表紙もない、雑多な小冊子に見せかけて出版した。
おそらく彼のミサ曲は、反逆貴族の屋敷の隠し部屋のようなところで、こっそり演奏された。実際、わたし(花井)がかつて指揮活動をしていたオランダにも、その種の“隠れ教会”がいくつも残っていた。外側は典型的な運河沿いの住居だったが、中に入ると、3~4階はぶち抜いた壮麗なバロック様式の聖堂になっていて、立派な祭壇やパイプオルガンまであった>
こういった説は、いままでにも専門書やCDライナーノーツなどで述べられてきたが、花井哲郎の場合は、自らが演奏家であり、ヨーロッパで、当時の弾圧の痕跡に触れているだけあって、説得力があった。
要するに、バードは、筋金入りの“隠れ切支丹”、面従腹背作曲家だったのだ。
実は、この時期、バードのような“隠れ切支丹”作曲家は、ほかにもいた。彼らの曲をあつめたCDまであるほどで、そのタイトルは、『In a Strange Land/Elizabethan Composers in Exile』(異郷にて/亡命したエリザベス朝の作曲家たち)という。バードはもちろん、ジョン・ダウランドやロバート・ホワイトを中心に、数名の“隠れ切支丹”曲が収録されている(バードは亡命こそしなかったが、ロンドンを避けて田舎に移住した)。わたしの愛聴盤のひとつで、イギリスの合唱グループ「スティレ・アンティコ」の素晴らしいハーモニーがたのしめる。
ジェイコブの吹奏楽曲《ウィリアム・バード組曲》は、バードの鍵盤曲を編曲したものだが、そんなことも少し念頭に置きながら、聴いたり演奏したりするのも、また一興だと思う。
<敬称略>
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2020.01.16 (Thu)
第264回 書評『劇場建築とイス』

▲『劇場建築とイス』(ブックエンド刊、3,000円+税)
本書は、日本の劇場建築を、「イス」(客席)の視点を取り入れながら振り返るユニークな写真集で、コンサート・ゴーアーには、たまらない一冊である。
ところが、カバーにも中トビラにも、一切、著者名も監修者名もない珍しい本で、いったい、誰が書いた(まとめた)本なのかと、奥付を見ると「企画・監修/コトブキシーティング・アーカイブ」とある(著者名なしで、取次を通ったのだろうか?)。
不勉強ながら初耳の会社だったので、「コトブキシーティング」社のHPを見ると、1914(大正3)年創業の老舗で、「ホール・劇場・学校・スタジアム・映画館など、公共施設のイスやカプセルベットの製造・販売」の会社だという。要するに、日本中の劇場のイスを開発・製作納入している「イス会社」なのだ。創業100年の際に、社内の記録写真をアーカイブ化したので、それらを集めたのが、本書らしい。「その多くは、客席イスの納品時に記録として撮影されたもの」とあるので、ここに紹介された約60の劇場・ホールのイスは、すべて、同社の製品なのだろう。
収録劇場は、竣工順に4つのグループに分けて構成されている。
冒頭は1961年竣工の、東京文化会館である。設計は前川國男(改修も同事務所)。約2300席だが「この規模であれだけ見やすい劇場をつくることはとても難しく、客席が六角形になっているところに秘密がある」という。
この解説文は、伊東正示(株式会社シアターワークショップ代表取締役)によるものだが、たいへん面白い。
たとえば、「イスの幅は広すぎず、どこか身体どうしが隣の人と接触しているくらいのほうが、適している」そうで、「ほぼ同じ時期に建設が進んでいたサントリー・ホールの幅が52センチに対し、銀座セゾン劇場は49センチで、3センチ狭くなっている。しかし、この劇場が狭くて居心地が悪いという声は聞いたことがない。一体感と演劇のもつ重要な要素とイスが大きく関わっているということを、この劇場づくりのなかで初めて学んだ」という。
なるほど、演劇劇場のイスとは、そういうものなのだ。
ちなみに東京文化会館大ホールのイスは、赤地だが、所々に黄・青・緑が混じっている。これは花畑をイメージしたそうで、空席を目立たなくする効果もあるという。先日竣工した新国立競技場がこのコンセプトを取り入れて、いつでも満席のように見えるのを売り物にしているが、先例はここにあったのだ(本年のビュッフェ・クランポンのカレンダーに、故・木之下晃撮影の東京文化会館客席の写真が使用されているが、「花畑」のイメージが見事にとらえられている)。
本書では、そのあと、帝国劇場、大阪市中央公会堂、ロームシアター京都(旧京都会館)、日生劇場……とつづく。
日生劇場の客席を舞台上から俯瞰した写真は、天井に埋め込まれた美しい2万枚のアコヤ貝が圧巻だ。1963年に村野藤吾の設計、ベルリン・ドイツ・オペラ《フィデリオ》(カール・ベーム指揮)で開場した名門劇場だが、2015~16年に全面改修した。そのコンセプトは「変えないリニューアル」だったそうで、小学生のころ、劇団四季こどもミュージカル《オズの魔法使い》で初めて入った、あのときのイメージがいまでも保たれている理由は、そこにあったのだ。
そのほか、おなじみサントリー・ホールやオーチャード・ホール、東京芸術劇場、ミューザ川崎、横浜みなとみらいホールなども登場するが、後半になると、地方の劇場・ホールが続々登場する。
「由利本荘市文化交流館カダーレ」(秋田県由利本荘市)の宇宙船をイメージした客席空間や、「島根県芸術文化センター/グラントワ」(島根県益田市)の美しい客席配置など、一度は座ってみたいと思わせる劇場ばかりだ。なかには座席が可動式の劇場も多く(コトブキシーティングの得意分野らしい)、多面的な使用に耐えうる新しい劇場は、いまや地方に多いこともよくわかる。
なお、わたしもヴィジュアル本はずいぶんつくってきたが、見開き2頁で1枚の写真をドーンと見せる際、ノド(見開きの中央、綴じの部分)の処理には、何度も悩まされてきた。通常の製本では、ノド部分を完全に見開きにすることは不可能で(無理に開くと、背が割れる)、よって、写真の中央部分が、どうしてもキチンと見えない。ノドの左右に各3㎜程度の白味を入れたり、あるいは、ノドの中央部分をダブらせたりしてみたが、いずれもピッタリこなかった。
本書も同様で、特に東京文化会館や帝国劇場、日生劇場、愛知県芸術劇場などの見開きの美しい写真は、ノドに邪魔されずに見たかった(PUR製本など、特殊な製本にするしかないのだが)。
それほど、特定企業のアーカイブ(記録)にしては豪華で美しい写真が連続して登場する本である。
余談だが、わたしは、文京シビックホールの、あの不思議なイスについて、知りたくてたまらない(本書に掲載されていないので、コトブキシーティングの製品ではないようだ)。あの形状が人間工学的に優れていると聞いたこともあるのだが、それでも、日本管楽合奏コンテストで半日座っていたら、「尻」の尾てい骨のあたりがひどく痛くなった(ふつうは、長く座っていると、「腰」が痛くなるものだが)。
もし本書に続編があったら、他社製品だとしても、少しでいいから言及解説を期待したい。
<敬称略>
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2020.01.10 (Fri)
第263回 ピーター・ブレイナーの仕事

▲「ビートルズ・ゴー・バロック2」(ピーター・ブレイナー指揮)ナクソス
ビートルズをクラシック風に演奏する企画は、いままでにいくつかあった。
わたしが忘れられないのは、ベルギーのピアニスト、フランソワ・グロリュー(1932~)によるもので、1976年に出た『ビートルズ・アルバム』は、いまでもカタログ上は生きているようだ。
もうひとつ、驚いたのは1993年にNaxosから出て大ヒットした『ビートルズ・ゴー・バロック』で、ピーター・ブレイナー(1957~)なる才人が編曲・指揮したものだった。ビートルズの有名曲を、ヘンデル風、バッハ風、ヴィヴァルディ風に編曲してあるのだが、実によくできていた。なるほど、バッハやヘンデルがいま生きていて、これらの曲を編曲したら、こういうふうになるのかと、微笑ましくて楽しいアルバムだった。
あれからかなりの年月がたったが、昨秋、突如として、同じピーター・ブレイナーによる第2弾『ビートルズ・ゴー・バロック2』が出た。なぜいまごろ……と不思議な気がしたのだが、聴いてビックリ、これは「2019年最高のクラシック・アルバム」ではないのか。
その理由は、収録トラック一覧を見ればわかる。
たとえば前作では、《ビートルズ 合奏協奏曲第1番》(ヘンデル風)とあって、そのなかが、第1楽章《She Loves You》 A tempo giusto、第2楽章《Lady Madonna》Allegro……となっていた。
つまり、まずビートルズの曲ありきで、それらを、バロック大家のスタイルで編曲・演奏したアルバムというわけだった。
ところが今回はまったく逆で、まずバロック名曲があり、そのなかに、ビートルズが「埋め込まれ」ているのである。だから、「曲名」は以下のように表記されている。
バッハ/ピアノ協奏曲 ニ短調 BWV 1052
バッハ/ヴァイオリン協奏曲 イ短調 BWV 1041
バッハ/ブランデンブルク協奏曲第2番 ヘ長調 BWV 1047
ヴィヴァルディ/四季 Op. 8
バッハ/ミサ曲 ロ短調 BWV 232
(以下略)
で、1曲目、BWV1052のピアノ(チェンバロ)協奏曲などは、第1楽章《Come Together》、第2楽章《Blackbird》、第3楽章《Drive My Car》と表記されており、楽章ごと、バッハ原曲に、上記のビートルズ曲が「埋め込まれて」いるのである。
昨年は、名盤『アビイ・ロード』の発売50周年だった。冒頭が《Come Together》で始まっているのは、それを意識しての配置だと思う。
なかには、さすがに「バロックにビートルズを埋め込む」ことは困難だったのか、最初から、むき出しでビートルズが流れ出すトラックもある。たとえばブランデンブルク協奏曲第2番の第3楽章だ。最初から、あまりにも堂々と《Ob-La-Di, Ob-La-Da》が始まるのだ。ところが、すぐに原曲の響きに戻って、あの冒頭がフェイントだったことを知らされる。後半、バッハとビートルズが「合体」する様子は、実に感動的だ(ポール・マッカートニーは、この第2番に想を得て、《Penny Lane》に、ピッコロ・トランペットを起用したのである)。
なお、ラストのたった49秒のトラック(ブランデンブルク協奏曲第3番)は、『アビイ・ロード』のファンだったら、ニヤリとなること必定。
かように本ディスクは、知的な音楽遊び精神に満ちているのだが、いったい、こんなことを平然とやっているピーター・ブレイナーとは、なにものなのか。
このひとは、指揮者で作編曲家でピアニストなのだが、やはり「編曲」に抜群の才能を見せてくれる。
なにぶん膨大なアルバムをリリースしているので、わたしも全部聴いているわけではないのだが、たとえば、ムソルグスキー《展覧会の絵》などは、エンタメとしてはラヴェルもストコフスキーも上回る面白さで、これを聴いてしまうと、ほかの編曲を生ぬるく感じてしまう。ぜひ、このタッチで、吹奏楽版を編曲してくれないだろうか。
ほかに、近年では、ヤナーチェクの歌劇を、管弦楽組曲にダイジェスト編曲しているシリーズ(1、2、3)があり、これは超おすすめである。ヤナーチェクの歌劇はどれも独特の味わいがあって素晴らしいのだが、なかなかとっつきにくいと感じているひとが多いと思う。まず、このブレイナー版で主要部分をじっくり味わっておくと、DVDなどですぐに本編に入ることができる。また、歌劇原曲を知っているひとなら、オリジナルの盛り上がり部分を、ブレイナーがいかにうまくオーケストレーションしているかがわかって、ここでもニヤリとしてしまうはずだ。
(このなかのいくつかのトラックを、そのまま吹奏楽にトランスすれば、コンクール自由曲になりますよ)
こういう、ブレイナーの編曲仕事を邪道だと感じるひとが、いるかもしれない。
だが、そもそも「ダイジェスト」「変容/編曲」は、わたしたちの周囲にいくらでもある。たとえば、今月、新春浅草歌舞伎で上演されている「祇園一力茶屋」は、長編『仮名手本忠臣蔵』全十一段のなかの、途中の一話(七段目)である。この前後に、関連挿話が山ほどあるのに、一部だけ抜粋上演して、みんなちゃんと楽しんでいる。
また、同じく今月、国立劇場で上演されている『菊一座令和仇討』に至っては、題名から想像できるように、こんな芝居、もともとなかったのを、音羽屋が、鶴屋南北の別の芝居を持ってきて、自由自在に再構成した「新作」である。
あるいは、日本の古典文学を、うまくダイジェストして解説や現代語訳などを付している「角川ソフィア文庫」。樋口一葉のような、いまでは「読みにくい」古典に、改行やカギカッコ、漢字のひらきなどを大量に加えて読みやすくしている「集英社文庫」。
ブレイナーの仕事は、これらと同じ、彼こそは21世紀の山本直純である。
<敬称略>
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2020.01.04 (Sat)
第262回 ベートーヴェンと紅白歌合戦

▲ベートーヴェン弦楽四重奏曲【9曲】演奏会(12月31日、東京文化会館小ホールにて)
大晦日に、ベートーヴェン弦楽四重奏曲【9曲】演奏会に行った。今回で14年連続の名物コンサートで、以前から行きたかったのだが、毎年、紅白歌合戦のボヤキ感想を書いている身なので、どちらを選ぶか迷った末、きりがないので、思い切って行ってみた(紅白の顔ぶれと曲目を知った段階で、もうボヤく気もなくなっていたし)。
演奏団体と曲目は、以下の通り。
【古典四重奏団】第7、8、9番(ラズモフスキー1、2、3番)
【ストリング・クヮルテット ARCO】第12、13番、大フーガ
【クァルテット・エクセルシオ】第14、15、16番
東京文化会館の小ホールは、定員649席だが、見た感じ、後方に少し空席がある程度だったので、おそらく600席近くが売れたのではないか。
開演は14時。終演はほぼ22時近く。つまり8時間近くを要するコンサートだったのだが、1曲ごとに10~15分の休憩が入り、最後の休憩まで売店が営業してくれていた。また、《大フーガ》のあと(19時頃)には30分の休憩が入り、上野精養軒のカレー、ハヤシライスの出張販売があった。ロビーにも大量の簡易椅子やテーブルが置かれていた。
そもそもベートーヴェンの中~後期SQは多くが40分前後である。《大フーガ》も、第13番の中に組み入れる(アルバン・ベルクSQのような)こともなく、独立して演奏された。
よって、たしかに滞在は8時間近かったが、それほどつらいものではなかった。隣の大ホールで同時開催されていた、ベートーヴェンの交響曲9曲全曲演奏会よりは、肉体的にラクなのではないか。
しかし、精神的なしんどさ(というか、深淵さ)は、交響曲を上回るような気がする。わたしごときの筆力で、また、この程度の紙幅で表現することは無理だが、いったい、なぜ、このようなものすごい音楽が連続して生まれたのか、呆然となる。
3団体の演奏も手の内に入ったもので、全身全霊を傾けての名演だった(先日、ショスタコーヴィチのSQ全集でレコード・アカデミー賞大賞を受賞した古典四重奏団は、いうまでもなく全曲暗譜演奏である)。
ベートーヴェンの後期SQは、順を追って“自由”な曲想に支配されるようになった。(作曲順に)第12番が4楽章構成、第15番が5楽章、第13番が6楽章と1楽章ずつ増えつづけ、第14番ではついに7楽章となった(しかも切れ目なしの連続演奏)。このままいったら、どうなるのかと思いきや、次の第16番では古典的な4楽章にもどり、作曲の5か月後、ベートーヴェンは56歳の生涯を閉じる。
この最後の第16番は、楽譜に「こうあらねばならないのか?」「こうあるべし」「やっと決心がついた」などの、謎めいた走り書きがあることでも有名なのだが、構成はシンプルな4楽章で、演奏時間も25分ほどのコンパクトな曲である。
当日は、トリをつとめるクァルテット・エクセルシオの演奏で、大曲の第14、15番がつづき、大トリがこの第16番だったのだが、時刻も21時過ぎ、あと3時間で年がかわる、そんなときに、どこかホッとさせられる曲だった。第3楽章など、まるで後期ロマン派のような濃厚な響きがある。前の曲で沸点に達した熱気を冷ましてから帰宅の途につかせてくれるような、そんな気もした(終演後、舞台裏から演奏者たちの歓声が聴こえてきた。その気持ちは、よくわかる)。
帰宅し、残り1時間弱ほど紅白歌合戦を観たら、ラグビー選手が勢ぞろいし、陸上選手のウサイン・ボルトのインタビューがあり、新国立競技場の紹介があり、何人かはNHKホール以外の場所で歌い、目が疲れる合成画面があり、口パクが堂々とまかり通っていた。どう見ても「歌合戦」ではなく、コンセプト皆無のバラエティ番組だと思った。
こんなものに、何時間も付き合わないで、ほんとうによかったと安堵した。案の定、視聴率は史上最低だったという。
ベートーヴェンのSQは、ひたすら巨大化し、複雑化したが、最後は基本にかえった。初演時に「難解だ」と不評だった第13番の最終楽章など、後年、出版時に全面カットして「難解でない」楽章に書き換えたほどだった(当初の不評だった楽章が、《大フーガ》)。
余計なことをせず、音楽をキチンとこしらえて、ひとびとに伝える――たった600人のために開催されたコンサートは、国民番組に対して音楽番組のあり方を示しているようだった。
<敬称略>
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