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2020.05.20 (Wed)

第286回 書評『教養として学んでおきたい能・狂言』

能狂言

 仕事柄、エンタメ系の入門書やガイドブックには興味があるほうだが、なかなか、これといった本には、お目にかかれない。
 特に代わり映えしないのが、歌舞伎、文楽、能・狂言といった邦楽舞台に関する入門書で、ヴィジュアルが写真かイラストか漫画かのちがい程度で、内容は、ほとんど同じだ。
 ……と思っていたところ、コンパクトながら、まことにユニークな能・狂言のガイドブックが出た。『教養として学んでおきたい能・狂言』(葛西聖司著、マイナビ新書)である。

 著者は元NHKアナウンサーで、現役時代から邦楽番組の名司会者として知られていた。定年退職後は、大学やカルチャーセンターで教鞭をとる「古典芸能解説者」として大活躍だ。わたしも、国立劇場などのトークに何度か接しているが、たいへんな詳しさとわかりやすさに加え、さすがの美しい滑舌・口跡で、これほど聴いて心地よい解説者は、まずいない。

 そんな葛西さんだが、すでに歌舞伎や文楽、能・狂言の解説書は何冊か上梓している。だが今回は「教養として学んでおきたい」と付いているところがミソである。読者層は社会に出て活躍している“大人”だ。若者や初心者に媚びるような筆致は一切ない。「本書を手に取る方なら、ある程度の基礎教養はおありでしょう」と言いたげである。しかし、その筆致に品格があるので、読んでいて嫌味を感じない。こういう文章で入門書を書けるひとは少ない。さすがに、全国放送で不特定多数の視聴者を相手にしてきただけのことはある。

 本書は、まず冒頭で、一般人が触れやすいと思われている「薪能」や「ホール能」(一般ホール公演)にダメ出しする。とにかく「能楽堂へ行け」と説く。
 いまの能楽堂は、室内にあるが、どこも木の香りであふれている。これについては、
<毎日の手入れ、掃除に水や油は厳禁、化学雑巾も使わない。からぶきや糠袋(ぬかぶくろ)などが原則で、日々使い込まれた美しさを保っている>
 わたしが知らなかっただけだと思うが、これには感動した。

 そして<第二章 能が始まります>は、驚くべき文章ではじまる。
<通常の入門書は第二章が「能の歴史」だったり「能の専門用語」だろうが、本書はいきなり鑑賞に入る>
 しかも、
<専門用語の説明は注釈をつけず、本文の中で軽く触れ、それを時折、繰り返すので、まずは実際の舞台や見どころを文字で味わっていただきたい>
 なんと、いきなり、具体的な演目をあげて解説するというのである。
 なるほど、するとおそらく、初心者向きの名作《安宅》《葵上》《道成寺》《土蜘蛛》、あるいは《鞍馬天狗》あたりが挙げられるのだろう……と思いきや、なんと、葛西さんが挙げたのは《国栖》(くず)である。しかも、ほかの演目はナシ。第二章は、《国栖》一本で行くのである。
 わたしは、60余年の人生で、能・狂言は、せいぜい十数回しか観たことがない。歌舞伎と文楽は、すでに生活の一部といっても過言ではないが、能・狂言は、そこまではいかない。よって《国栖》といわれても、なんとなく、そんな演目があったなあと感じる程度で、もちろん観たことはない。

 国立劇場(日本芸術文化振興会)のデータベースで検索してみると、2000年代に入ってから、国立能楽堂での《国栖》の上演回数は「5回」である。ほぼ4年に1回だ(もちろん、民間能楽堂での上演も入れればもっとあるだろうが)。
 著者自身も、こう書いている。
<《国栖》は、どの能楽入門書にも必ず載っているような有名曲ではない。なぜ解説する最初の作品に、あえてこの作品を選んだのか。この作品には能を楽しむ要素が満載だと思うからだ>
 こういうところが、並みの入門書とはちがい、あえて基礎教養のある“大人”を対象にしている所以だろう。わたしが編集者だったら「葛西さん、《国栖》なんて、めったに観られないでしょう。もっとポピュラーな作品にしてくださいよ」と文句をつけたと思う。だが、そうしなかった著者もすごいし、これを通した編集者もえらいと思う。
 もちろん、後段で、《国栖》以外の名作も、ちゃんと紹介される。ただし、その紹介の仕方が、これまた尋常ではない。特に《安宅》と《道成寺》の項を読んで、いますぐ観に行きたくならないひとは、まずいないだろう。いままでの入門書は、なんだったのかと、呆然となる。

 そのほか、本書の魅力を挙げだすときりがないが、もう一点だけ。
 この種の本には、「他人の言に頼らず、自分の目と耳でいいと感じることが重要だ」みたいなことが、よく書かれている。だが葛西さんは、ある意味で逆の主張を述べる。人間国宝、文化功労者、文化勲章などの「栄誉報道」に関心を持つことを薦めるのだ。そして記事中の「贈賞理由」に注意せよと説く。そのほか、評論家による能評を読むことも薦めている。
<なぜ、この人を能楽評論家や識者が褒めるのかを、みなさんは自分の目で、耳で確かめられる幸いを、味わってほしい>
 「自分の目と耳」の意味が、いままでの解説書とは、ちがうのである。


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