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2021.01.29 (Fri)

第298回 柳の下のガイドブックたち(2)

100語写真
▲『100語でわかるクラシック音楽』(ティエリー・ジュフロタン著、岡田朋子訳/文庫クセジュ、白水社)


 前回とりあげた、『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』(デイヴィッド・S・キダーほか著、小林朋則訳/文響社)の「音楽」欄について、「視点がシニカルというか皮肉たっぷりで、その突き放したような筆致に、時折含み笑いを禁じ得ない」と述べた。
 ああいうタッチを、「エスプリ」(軽妙洒脱)と呼ぶのかもしれない。「esprit」と、特にフランス語で流布しているところを見ると、フランス人お得意の分野なのだろう。
 そこで――「フランス」の、「エスプリ」ある「ガイドブック」といえば、やはり、〈文庫クセジュ〉だろう。

 原著は、戦時中にPUF(フランス大学出版局)によってスタートしたコンパクトな教養入門書で、いわば”フランス版岩波新書”である。シリーズ名〈クセジュ〉は、モンテーニュが『エセー』で述べた「Que sais-je?」 (私は何を知っているというのか?)から来ている(カバーにデザインされている)。
 邦訳版は、1951(昭和26)年より白水社から刊行されはじめた。2021年1月の新刊『ジュネ―ヴ史』(アルフレッド・デュフール著、大川四郎訳)で、通し番号が「Q1041」となっているので、もう1,000点を突破しているようだ(ただし目録上は、欠番=絶版や品切れが多い)。原著のほうは2018年の時点で4,000点を突破しているという。

 このシリーズに、音楽や美術など、芸術の解説書やガイドブックがある。初期のものは、吉田秀和や串田孫一といったひとたちが翻訳しており、たいへん「まじめ」な内容が多いのだが、近年、それこそ「エスプリ」たっぷりというか、ユーモアのあるものが増えている。
 それが「100語でわかる」シリーズで、『100語でわかるガストロノミ』にはじまり、『100語でわかるセクシュアリティ』『100語でわかるマルクス主義』『100語でわかるBOBO(ブルジョワ・ボヘミアン)』など、現在10点ほど刊行されているようだ(「BOBO」なんて語、これで初めて知った)。
 どれも一種の用語解説集で、『悪魔の辞典』ほどではないが、どこかユーモアがあり、単なる雑学コラム集から、少しばかりはみ出しているところが特徴だ。

 そのなかに、『100語でわかるクラシック音楽』(ティエリー・ジュフロタン著、岡田朋子訳/原著2011年、邦訳2015年初刊)がある。
 用語は、邦訳の五十音順に並んでいて、たとえば「ア」行の〈アンコール〉は、
「アンコール(仏語で「ビス」)は、コンサートのプログラムを終えた後で、演奏家が聴衆の暖かい拍手に感謝する意味で演奏する作品のことである」
 とはじまるので、当たり前の解説じゃないかと思って読んでいると、
「ダニエル・バレンボイムは、七歳で初めて公開演奏を行なったとき、なんと七曲ものアンコールを演奏した。これは当時の彼が、ピアノリサイタルで演奏できる曲のすべてだったという」
 たしか、以前に来日した時も、彼は、それくらい大量のアンコールを演奏したと聞いたことがあるが、子どもの時からそうだったのだ。そして、
「最も長いアンコールは、ピアニストのルドルフ・ゼルキンが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『ゴールドベルグ変奏曲』(一七四〇年)全曲を演奏したという例であろう。これだけでなんと一時間かかる」
 そのほか、1792年、チマローザのオペラ《奥様女中》初演では、皇帝がアンコールを所望したので、もう一度、全曲が上演されたのだという(ただしミニ・オペラなので上演時間は45分)。
 こういったエピソードが坦々と、やはり、突き放したような筆致で綴られる。

 〈オペラ〉の項。1607年に、トスカーナ地方のある人物が出した手紙に、
「明日の夜、大公閣下は、すべての俳優が音楽で台詞を朗読するという、奇妙なコメディを上演されます」
 と書かれていた。モンテヴェルディの音楽朗読劇《オルフェオ》のことで、結果として、これがオペラ第1号となった。

 〈音楽批評(評論)〉なる項もある。著者は、
「時間がたって後世がすでに判断を下したことについて、当時の批評を読むのは面白い」
 と、少々意地悪なことを述べる。
「たとえば、バッハと同時代に生きたヨハン・アドルフ・シャイベは、バッハについて次のように断言している。『この大人物は、もっと楽しい音楽を書いて、(略)大仰な芸術で音楽の美しさを陰気なものにしないのであれば、我が国全体の賞賛を浴びていただろうに。』」
 
 フランスの本だけに、フランス贔屓の例が多いのは、やむを得ない。
 〈傑作〉の項。
「ベートーヴェンの『第九交響曲』(一八二四年)やバッハの『マタイ受難曲』(一七二七年)、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』(一九〇二年)が傑作であるのは、誰もが認めるところだ。この三作品に共通するのは、音楽の記念碑的大作ということである」
 たしかに《ペレアス》は傑作だが、《第九》《マタイ》と並べて、「三作品」と呼ぶのは・・・・・・。
 ほかに、〈鳥〉〈盲目〉といった項もあり、クラシック音楽ファンなら何が書かれているか、ピンとくるだろう。〈ビニウー〉なる珍しい項もある(わたしはこんな語、初めて知った)。
 どの解説も、ユーモア・タッチと紙一重だ。実は著者もわかっていて、ニヤツキながら原稿を書いているような気がする。あるいは、著者はひたすらまじめに書いているのだが、翻訳者が、眼光紙背に徹して「エスプリ」を嗅ぎ出しているのかもしれない。

 訳者の岡田朋子さんは、パリ在住の音楽ライター。ソルボンヌ大学で音楽博士号を取得した碩学だが、出版界では、日本マンガの仏語訳者「岡田Victria朋子」さんとしてのほうが有名かもしれない。手塚治虫、石ノ森章太郎、横山光輝、水木しげるなどの仏語訳は、多くが彼女の仕事である。フランスが”日本マンガ大国”となった、その一端を担ってきたのだ。辰巳ヨシヒロ(1935~2015)の晩年の名作『劇画漂流』が、フランスのアングレーム国際漫画祭で特別賞を受賞して話題となったが、これも彼女の仏語訳である。
 こういう幅の広い翻訳者あってこそ、〈文庫クセジュ〉の「エスプリ」は日本語で伝わるのだろう。そのほか同シリーズでは『オーケストラ』『弦楽四重奏』『西洋音楽史年表』などもお薦めだ。

 なお、今回は「フランス」のユーモアをご紹介したが、ドイツ・オーストリア圏にも面白いガイドブックがあるので、次回はそれを。
【この項つづく】
〈一部敬称略〉


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2021.01.26 (Tue)

第297回 柳の下のガイドブックたち(1)

365 366
▲(左)『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』(文響社)
 (右)『1日1ページでわかるクラシック音楽の魅力 366日の西洋音楽』(三才ブックス)


 仕事柄、本や音楽のガイドブックにはよく目を通す。最近気になったガイドブックに関するあれこれを、何回かにわたって綴る。

 近年、もっとも売れたのは、『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』(デイヴィッド・S・キダーほか著、小林朋則訳/文響社)だろう。原著シリーズは累計100万部、邦訳シリーズも累計60万部を突破しているらしい。
 これは、月曜日から順に、各曜日ごと「歴史」「文学」「視覚芸術」「科学」「音楽」「哲学」「宗教」の7分野を、1項目1ぺージに割り振って構成された、「教養」というよりは「雑学」コラム集である。
 ジャンルごとに書き手がちがうせいか、統一性はあまりなくて、たとえば「文学」などは、突然、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)からはじまるので驚く。2週目がヘミングウェイ。シェイクスピアは37週目に登場し、47週目には彼の「ソネット18番」だけが独立して解説されるなど、かなり書き手の嗜好が反映されている。ちなみに、最終第52週が、ジョン・キーツの『ギリシアの壺に寄す頌歌』(1819年)なのも、なんともいえない構成だ。

 その点、金曜日の「音楽」は、きれいに年代順で構成されており、1週目が「音楽の基礎」、2週目が「旋律」、3週目が「和声」と、キチンとした「音楽史解説」になっている。よって、ストラヴィンスキーが48週目、最終第52週は「20世紀音楽」(ヴァレーズ、ケージ、ライヒなど)で終わっている。
 バッハは第12週に登場するので、全52週のうち、最初の約4分の1はバッハ以前にあてられていることになり、これも通史としては、適度なバランスだと思う。
 ところが、この「音楽」は、見た目こそきれいに並んでいるのだが、内容は一筋縄ではいかない。

 たとえば、チャイコフスキー。
「とにかく派手で、やたらにセンチメンタルだが、形式をほとんど理解していない三文作曲家だという意見もあれば、心の中の思いをそのまま曲で表現し、自分の直感に従うだけの勇気を持った民族主義者だという声もある」

 リストは「ピアノのパガニーニ」を目指して2年間、自宅にこもって猛練習を積み、
「ついにリストが目標を達成して演奏を始めると、彼が生まれつき芝居気の多いことが明らかになった。演奏の最後にしばしばヒステリーの発作を装い、それによって自分は音楽にすっかりのめり込んで我を忘れているのだという印象を強めようとした。このリストの作戦は女性に効いた」

 マーラーは、「聴衆をあっと言わせるため演奏中に安っぽい仕掛けを使う点も批判された」、そればかりか彼は、
「指揮者としてはじめてスーパースターになった人物のひとりで、彼は人気を利用して、オーケストラの指揮者に名誉と敬意を捧げる習慣を確立させた」

 各ページの下段には「豆知識」と題する小文コーナーがあって、たとえば、モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》の場合は、
「ダ・ポンテは『ドン・ジョヴァンニ』の台本を書いている最中、後援者の家の一室に缶詰めになった。隣の部屋には、テーブルの上に常に食事とワインが用意してあり、さらにその隣の部屋には娼婦が待機していて、気分転換が必要なときにベルを鳴らして来てもらっていた」

 かように、本書の「音楽」は、視点がシニカルというか皮肉たっぷりで、その突き放したような筆致に、時折含み笑いを禁じ得ない。執筆はロビー・ウィーラン、監修がメリッサ・コックス(博士)とある。どういうひとたちなのか、わたしはまったく知らないのだが、どうやら本書が売れる理由のひとつは、広範なジャンルをコンパクトにまとめた点のほかに、こういう独特な筆致にもあるのかもしれない。

 ところで、最近、本書にあまりにそっくりすぎるガイドブックが出た。
 『366日の西洋音楽 1日1ページでわかるクラシック音楽の魅力』(久保田慶一監修/三才ブックス) である。
 こちらは楽曲を、「音楽史」「主題」「ジャンル」「逸話」「作曲・演奏」「周辺」「謎」の7ジャンルのどれかに分類し、やはり、1日1ページで解説するものだが、色刷りになっている点を除けば、判型や本文構成、下段の豆知識など、『世界の教養365』そのままではないかと言いたくなるほどのそっくりぶりである。

 ところがこの本には、誤記や、あいまいな表記が多い。
 たとえば、ショスタコーヴィチのオペラ《カテリーナ・イズマイロヴァ》は、《カテリーナ・イズマイヴァ》となっている。おそらく、Wikipediaの、原典《ムツェンスク郡のマクベス夫人》内の誤記(1月26日現在)を、そのままコピペか転記したものと思われる。
 また、ハイドンの《神よ、皇帝フランツを守りたまえ》(ドイツ国歌)が取り上げられているのはいいのだが、この旋律が、有名な弦楽四重奏曲第77(62)番ハ長調《皇帝》の第2楽章に使用されていることには、ひとことも触れられていない。《皇帝》の項では、《神よ》が原曲であると書かれているのだが……(かつて、中学の音楽の教科書にも載っていた)。
 ヘンデルのオラトリオ《イェフタ》が、本文で「オペラではなく、オラトリオ」とはっきり断っているのに、項目名で大きく「オペラ『イェフタ』」となっているのも統一性がないように感じた。

 ほかにも誤記やあいまいな表記は多く、監修者のチェックや校閲が十分でなかったのかもしれない。それでも、『世界の教養365』が、「音楽」以外のジャンルも網羅しているのに対し、こちらは366項目すべてが「楽曲」である。よくこれだけの曲を集めて、(半ば強引でもあるが)7ジャンルに分類したものだと思う。そのなかにはオルフの歌劇《犠牲》や、エネスクの(存在しない)ピアノ・ソナタ第2番といった凝った曲があるかと思えば、フォスター《おおスザンナ》や、バダジェフスカ《乙女の祈り》などもちゃんと入っており、誤記さえなければ、小中学校の音楽の副読本としても十分通用したのではないか。
【この項、つづく】

※本稿で参照した『世界の教養365』は2020年3月刊の第19刷、『366日の西洋音楽』は2020年11月刊の初版です。


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2021.01.22 (Fri)

第296回 ありがとう、山下国俊さん

ニイガタ
▲おそらくこれが、唯一の、「山下国俊・指揮」による商業CD『ウインズ・フォー・ニイガタ』

 編曲家の山下国俊さんが亡くなった。
 所属する音楽出版社「ミュージックエイト」社(以後「M8社」)のサイトによれば、昨年12月31日に、胃がんのため逝去されたという。享年76。
 おそらく、吹奏楽に携わっていて、「山下国俊編曲」と記された楽譜を演奏したことのないひとは、少ないのではないか。
 ご本人は謙虚な方で、めったに表に出なかった。しかも、キャリアが長く、むかしからいまに至るまで、常に名前を見るので「実在する人物なのか」「複数アレンジャーの合体ペンネームでは」なんて、都市伝説まがいの冗談まで飛び交っていた。

 M8社は、1963年創業、吹奏楽の楽譜を中心とする音楽出版社の老舗である。
 青森の八戸高校でトランペットを吹いていた山下国俊さんは、1960年に上京、働きながら音楽を勉強するため、当時二部のあった国立音楽大学へ進む(最終的に中退したらしい)。
 在学中に、M8創業者の助安由吉氏(元・陸上自衛隊東部方面音楽隊員)と知り合い、同社の吹奏楽アレンジを担当するようになる。
 当初、M8社の編曲譜は、演奏の難度が高く、なかなか学校吹奏楽部の現場で受け入れられなかったという。そこで助安氏は、ある時期から、徹底的に易しいアレンジに方向転換する。その姿勢を、助安氏は、こう綴っている。
「練習時間をあまりとれないバンドでも、個人練習を繰り返さなくても、あるいは音楽の才能がまるでなくても、少し練習を重ねれば合奏できる楽譜を提供する。より多くの子どもたちに、ハモるという感動の一瞬を体験してもらいたい」(「ミュージックエイト創業50周年を迎えて」より)

 だが、山下さんは、当初、この考え方に同意できなかったようだ。
「最初は他のアレンジャーと同様『編曲者のプライドはどうなるんだ』と私の意見を聞き入れなかった彼(山下さん)が、ようやく私の考えを理解し、易しいアレンジをしてくれるようになったときから、楽譜の売り上げが急速に伸び始めました。私の思いに間違いはなかったと、少し安心いたしました」(前同)
 こうして、M8社は、楽しくて適度なグレードの編曲譜を、続々と発売するようになる。クラシック、マーチ、映画音楽、歌謡曲、ロック、ポップス、ジャズ、演歌、アニメ、民謡、なつメロ……そこに「メロディ」があるかぎり、同社は、速攻でスコア化してきた。
 いまでは多くのアレンジャーを抱える同社だが、その端緒は、山下さんが切り開いたのである。

 わたしも、数え切れないほどの“山下アレンジ”を演奏してきた。
 特に、学生時代に演奏した《鬼警部アイアンサイド》のテーマは忘れられない。冒頭、原曲におけるパトカーのサイレン音をクラリネットの超高音で吹くのだが、擬音効果のようなカッコいい響きで、実に気持ちよかった。
 たしか、映画《大いなる西部》のテーマも山下アレンジだったと思う。こちらは、長い前奏で、木管群が、えんえんと16分音符のオブリガートのような音型を吹かねばならず、まったくブレス(息継ぎ)の場所がないので死にそうになった(原曲はヴァイオリン)。
 たぶん、山下アレンジでもっとも売れ、いまでも演奏されているのは、《ルパン三世》のテーマではないだろうか。

 わたしが山下さんと初めて会話したのは、30年近く前のことになる。
 当時、わたしは、ある高校吹奏楽部の音楽監督のようなことをしていた。文化祭ともなれば、当然、M8社の楽譜にお世話になる。
 ある年、曲は忘れてしまったが、トランペットの生徒が、山下アレンジのパート譜を持ってきて「この音、印刷ミスじゃないでしょうか」と言ってきた。シャープが付いており、合奏してみると確かに不協和音である。だが、いかにもジャズっぽい、しゃれた響きだったので、「これでいいんだよ」とすませていた。
 だが、その後、どうも気になったので、M8社に(当時、定着し始めたばかりのEメールで)問い合わせてみた。
 すると、翌日、わたしのケータイに、山下さんご本人が電話をかけてきてくれた。
「お訊ねいただき、ありがとうございます。その生徒さんの耳は、かなり鋭いです。実はこの部分は、わざと不協和音になってるんです。印刷ミスではありません。ただ、正確なピッチで吹かないと、汚い音に聴こえてしまう微妙な和音なんです。ぜひ、ピッチの練習だと思って、このまま演奏してください」
 実にていねいな口調で、和音の名称(ナントカメジャーセブンス?)もあげて、細かく説明してくれた。東北弁の響きが感じられたのを覚えている。
 このとき、M8社や、山下さんのことが、よくわかったような気がした。

 その後、わたしは、M8社のCDや、関連コンサートなどで、音楽ライターとして仕事をさせていただくようになった。
 当然ながら、山下さんともお会いすることになる。
 大柄でジーンズ姿、白髪に、白い口髭、登山帽を被り、おだやかな東北弁の語り口……好々爺そのものだった(いまから思うと、あれでまだ50歳代だったのだ)。
 三軒茶屋近くにあるM8社にうかがうと、昼どき、よく将棋を指しておられた。
 M8スコアを、齊藤一郎指揮/東京佼成ウインドオーケストラが演奏するCD『M8スタイル』全3巻が発売になったときは「うちの楽譜が佼成さんの演奏でCDになるなんて、ありがたいもんだねぇ」と、半ば照れたような笑みを浮かべていた。

 2005年4月、M8社が、前年10月の新潟中越地震で被災した学校吹奏楽部を支援するためのプロジェクト「Winds for Niigata」を立ち上げ、わたしもお手伝いをすることになった。
 その一つが、M8スコアによる少人数吹奏楽曲集のCD制作だった。演奏は、シエナ・ウインド・オーケストラのメンバーを中心とする臨時編成アンサンブル。指揮を、山下国俊さん自身がつとめた。
 山下さんは、レコーディング初日、
「このCDは、子供たちが聴いて参考にするものなので、テンポを正確にお願いいたします」
 と言って、譜面台に小型の電子メトロノームを置き、テンポを「ピー、ピー、ピー」と音出しし、それに合わせて指揮棒を振りはじめていた。端正で正確な指揮だった。
 2日間のレコーディング終了後、居酒屋で簡単な打ち上げがあった。演奏者の多くが、「山下さんを初めて見ました」「子どもの時から楽譜でしか知らなかった方と共演できるなんて」と、感激していた。
 最後に山下さんが挨拶した。ひとしきり、スタッフや演奏者に対する感謝と労いの言葉を述べてくれたあと、こんな話でしめくくった。
「よく“一期一会”といいますね。今回の、みなさんとの出会いも、まさに一期一会だと思います。おそらく、もうお会いすることは、ないでしょう。でも、人間の一生は、一期一会の繰り返しです。そのことを忘れずに、これからもいい演奏をしてください」
 おそらくこれが、山下さんが指揮した唯一の商業CDではないかと思う。

 山下国俊さん、たくさんの、楽しい楽譜を、ありがとうございました。
 こんなコロナ禍の非常時に逝かれること、心残りも多かったことでしょう。
 ゆっくり、お休みください。
〈一部敬称略〉

※このコラムを、コミュニティFMで番組化しました。
 ネットでどこでも聴けます。

■BPラジオ:吹奏楽の世界へようこそ
第163回 追悼 ありがとう、山下国俊さん
2月6日(土)23:00/FMカオン 【再放送】2月20日(土)23:00
2月7日(日)正午/調布FM 【再放送】2月21日(日)正午
聴き方などは、こちらで。

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2021.01.18 (Mon)

第295回 睡魔に襲われる映画

ルーブルの夜
▲映画『ルーブル美術館の夜 ダ・ヴィンチ生誕500年展』


ルーシェNHK
▲《パッサカリア》が収録された、ジャック・ルーシェの『プレイ・バッハ5』(左)
  エンニオ・モリコーネの「使いまわし」音楽で構成された『NHK特集/ルーブル美術館』サントラCD(右)



 第293回で、ヴィヴァルディが効果的に使われている映画を紹介した。
 だが、クラシックさえ流せば映画に格が生まれるわけではなく、かえって逆効果になりかねないこともある。今回は、そんな映画をご紹介する(映画そのものがダメなわけではないので、ご了承を)。

 2019年に、ルーヴル美術館で「レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年展」が開催された。準備に10年を費やした空前絶後の美術展で、日時指定のチケットは早くから完売、最終的に107万人の大記録を達成した。わたしの知己の美術ジャーナリストも、チケットが入手できず、地団駄を踏んでいた。
 その美術展を、閉館後の深夜、接写撮影でじっくりカメラにおさめ、2人の学芸員が解説してくれる、美術ファン垂涎のドキュメント映画が『ルーブル美術館の夜/ダ・ヴィンチ没後500年展』である。下絵なども一緒に見せてくれるので、ダ・ヴィンチが、どのような考え方で作品に取り組んだのか、とてもよくわかった。「モナリザ」はもちろん、「聖アンナと聖母子」なども圧巻だった。

 しかし……一瞬たりと睡魔に襲われることなく、この映画を最後まで観通したひとは、少ないのではないか。マスクで少々息苦しくなっている観客は、あちこちからかすかな寝息を立てていた。SNS上でも「寝てしまった」との感想が多い。おそらく近年、もっとも「居眠り率」の高い劇場映画だと思う。
 理由はさまざまあろう。ひと気のない深夜の静謐なルーヴル館内、大きくは動かないカメラの長回し、作品を見上げながら半ば自分に向かって酔うように語る学芸員……だがわたしは「音楽」の責任も大きいと感じた。
 ほぼ全編、クラシックやバロックの、BGM風に換骨奪胎となった、いわゆる「通俗名曲」が流れっぱなしで、あれでは「寝てくれ」と言わんばかりである。名作美術には、クラシック名曲を流しておけばいいとの、あまりにも工夫のない選曲だ。

 ところが、エンド・クレジットで驚いた。ジャック・ルーシェ・トリオによる、バッハの《パッサカリア》ハ短調BWV582が流れたのだ。
 いまの若い方はご存じないかもしれないが、ジャック・ルーシェ(1934~2019)とは、1960年代に、バッハをジャズで演奏し、一世を風靡したフランスのジャズ・ピアニストである。その活動は晩年近くまで衰えることなく、題材はヴィヴァルディやサティ、ドビュッシーなどにまで及んだ。品のある、落ち着いた演奏で、“おとなのジャズ”と呼ぶにふさわしかった(わたしは、いまでもウォークマンに入れて、よく聴いている)。
 そのジャック・ルーシェが、ラストで流れたのである。これで一挙に、映画の雰囲気が変わった……のだが、すでにダ・ヴィンチは映っていない。スタッフ・ロールの文字ばかりである。もったいない。ジャック・ルーシェを使えるなら、なぜ、全編を彼の音源で通さなかったのか。「聖アンナと聖母子」には平均律、「ほつれ髪の女」にはソナタ&パルティータ、「モナリザ」にはゴルトベルク……緩急織り交ぜた、さまざまなジャズ・バッハを流せば、まちがいなく、画面と音楽が対話しているような効果が生まれ、少なくとも睡魔は減衰したはずである。

 わたしは、1986~87年に放映された「NHK特集/ルーブル美術館」(全13回)を忘れることができない。NHKとフランスの民間TV局との共同制作で、案内役がジャンヌ・モローやダーク・ボガート、デボラ・カー、シャーロット・ランプリングといったヨーロッパの名優たち。
 しかも、「音楽」がすごかった。全編がエンニオ・モリコーネ(1928~2020)だったのだ! ところが驚くなかれ、曲はすべて、過去の映画音楽の使いまわしなのだ。なのに、テーマ曲といい、各回のテーマにピッタリ合った雰囲気といい、あれが「使いまわし」とはとうてい思えない、明らかに、音楽が画面に寄り添い、一緒に歩んでいるような感動だった(この音楽は、一度だけ、いまはなきサントラ専門レーベル「SLC」からCD 化されたことがある。それほど価値のある音楽だった)。

 既成音楽を映画に使用する際は、「BGM」感覚ではダメだと思う。画面と音楽を「対話」「併走」、場合によっては「対立」させるくらいの覚悟がほしい。
<敬称略>

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2021.01.13 (Wed)

第294回 のた打ち回る《大フーガ》

大フーガ
▲毎年、大晦日に開催されている。

 ベートーヴェンは、最後の交響曲が第9番なので、なんとなく、あの《第九》が死の直前の作品のように思われがちだ。だが《第九》の初演は1824年5月で(53歳)、彼が56歳で亡くなったのは1827年3月。つまり《第九》後、3年近く生きたのである(しかもスケッチらしきものがあるだけだが、交響曲第10番も視野に入っていた)。
 ピアノ・ソナタはもっと前に“打ち止め”していて、最後の第32番は1822年(51歳)の作曲である。(ただし、翌年に《ディアベッリ変奏曲》を書いている)。大作《ミサ・ソレムニス》が完成したのも同年だ。

 では、これらウルトラ級の名作を書き上げたあと、ベートーヴェンは、何をやっていたのか。たしかに体調はボロボロだったし、耳も聴こえなくなっていた。だが、決して寝たきりだったわけではない。
 彼は、人生最後の3年間を、弦楽四重奏曲に打ち込んだのである。
 弦楽四重奏曲は、1811年の第11番《セリオーソ》Op.95以後、書いていないので、《第九》初演の時点で、すでに14年間の空白があった。おそらく周囲は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲も“打ち止め”になったものと思っていたのではないか。
 ところが、ここから彼は、怒涛の勢いで5曲+αの弦楽四重奏曲を書きあげるのである。

1825年(54歳)1月/第12番Op.127 完成。
           7月/第15番Op.132 完成。
           12月/第13番Op.130(第6楽章=大フーガ) 完成。
1826年(55歳)8月/第14番Op.131 完成。
           (甥カールの拳銃自殺未遂)
           10月/第16番Op.135 完成。
           11月/第13番の第6楽章〈アレグロ〉を新規作曲。
           (12月頃から、さらに体調悪化)
1827年(56歳)3月26日/逝去。
【注】作曲順と番号順(出版順)は一致していない。

 どれも人類の宝ともいうべき名曲なのだが、第13番は、初演時、物議を醸した。第1~5楽章までは、美しく深遠な音楽が展開する。特に第5楽章〈カヴァティーナ〉は、抜粋アンコールされたほどだった。ところが、最終第6楽章《大フーガ》になると、突然、これだけがあまりに長く、難解で、重苦しく、全体のバランスを著しく崩しているように聴こえた。評判もよくなかった。
 楽譜出版者アリタリアは、「これでは楽譜が売れない」と頭を抱えてしまい、改稿を申し入れる。すると頑固なベートーヴェンにしては珍しく、その意向を聞き入れ、翌年、新たな、わかりやすく美しい、しかし、いかにもベートーヴェンらしい、新・第6楽章〈アレグロ〉を書き上げ、差し換えるのである。《大フーガ》は、独立した弦楽四重奏曲Op.133となった。
 いったいなぜ、ベートーヴェンは、このような音楽を書いたのだろうか。

 現在、第13番の演奏は、下記のような、いくつかのパターンがある。

【A】第6楽章は改稿版〈アレグロ〉を演奏。《大フーガ》は別の独立曲として演奏する。
【B】第5楽章のあと、《大フーガ》を演奏。つづけて第6楽章の改稿版〈アレグロ〉を演奏する。
【C】ベートーヴェンの初演時の構想通り、第6楽章は《大フーガ》を演奏し、改稿版〈アレグロ〉はなかったものとして演奏しない。

 わたしは、あまり弦楽四重奏のコンサートには行かないので、この第13番を実演で聴いたことは数回しかないのだが、すべて【A】タイプだった。【B】タイプは、アルバン・ベルク四重奏団などの録音で有名になったものだが、【C】タイプには、触れたことがなかった。
 それが、昨年の大晦日、毎年恒例の「ベートーヴェン 弦楽四重奏曲【8曲】演奏会」で、ついに、この【C】タイプの実演に出会ったのだ。しかもそれが空前絶後の名演だったので、すっかり、第13番や《大フーガ》の印象が、変わってしまった。

 この演奏会では、毎年、主に中期~後期の弦楽四重奏曲を、古典四重奏団、クァルテット・エクセルシオ、ストリング・クヮルテットARCOの3団体が、2~3曲ずつ演奏する。14時開演で、終演は21時半ころになる。そして、問題の第13番を、今年は、古典四重奏団が、いつもの彼らのスタイル通り、【C】タイプで演奏した。
 古典四重奏団は、すべての曲を「暗譜」で演奏する。そのせいか、曲前や楽章間の“調整”に、かなり時間をかける。
 この日の第13番も同様で、第5楽章開始までは、楽章間で長々と調整をしていた。しかし、第5楽章の美しいカヴァティーナが終わって、いよいよ《大フーガ》に入る時だけは、ほとんどアタッカ(切れ目なし)でつなげたのである。
 《大フーガ》がはじまるとき、ほとんどの聴き手は、これから襲い来る重厚な時間に立ち向かうべく、心のなかで準備するはずだ。ところが彼らは、一瞬アイ・コンタクトを交わすや、息継ぐ間もなく《大フーガ》をはじめたのだ。聴き手に、身構える時間を与えなかった。その強烈な演奏は明らかに「いままでの響きはもうやめよう」と、それまでの音楽を否定する「宣言」だった。
 
 それで思い出されるのが、《第九》の第4楽章である。《第九》では、はっきりと歌詞で「おお友よ、このような旋律ではなく、もっと心地よい歌を」と「宣言」する、あれに、どこか似たものを感じた。
 だが、《第九》と《大フーガ》では、同じ「宣言」でも、意味合いがちがう。
 ベートーヴェンは、一度は《第九》で、人間社会に期待を寄せた。しかし、やはりそれは、あまりに理想に過ぎた……と、考えが変わったような気がする。全聾となり、全身が“病気のデパート”と化す一方だったから、精神的に弱っていたかもしれない(しかしそれにしては《大フーガ》は、力強さにあふれた音楽だ)。甥カールの素行にも、悩まされていた。

 さらに、《大フーガ》を書いているころ、ロシアでは「デカプリストの乱」が発生していた。貴族将校たちが、皇帝専横に反旗を翻し、農奴解放を目指したが、あえなく鎮圧されている。理想社会を期待し、革命に憧れていたベートーヴェンは、きっと、がっかりしたことだろう。いくら《第九》のような理想を謳っても、現実はどうにもならない、もはや、その冷たさを音楽にするしかない……そんな思いが《大フーガ》として結実したのではないだろうか。

 実は、《大フーガ》について、上記のような“情緒的”な見方は、いまでは、あまり流行らないようだ。
 たとえば、経済学者で音楽評論家、井上和雄の著書『ベートーヴェン 闘いの軌跡/弦楽四重奏が語るその生涯』(音楽之友社)では、
「ベートーヴェンよ怒れ! お前は運命によってボロボロにされたではないか、どうしてこれを耐え忍ばねばならないのか! こんな馬鹿な話があってよいのか」
「怒りと力を歌い切ることこそ、彼の生命なのだ。『大フーガ』はその壮絶な記念碑なのだ」
 と、作曲者以上にのたうち回っている。この本が上梓されたのは1988年。30年以上前の文章である。

 これに対し、2015年刊行、中村孝義(現・大阪音楽大学理事長)の『ベートーヴェン 器楽・室内楽の小宇宙』(春秋社)では、
「その綿密に考え抜かれた構成には、ベートーヴェンがこれまで培ってきた様々な作曲技法が渾然一体と集約されているのである」
「崇高な情感と圧倒的なエネルギー感が見事に融和した精神世界は、まるで大伽藍を仰ぎ見るような壮大さを感じさせずにはおかない。まさにベートーヴェン畢生の傑作の一つである」
 と、たいへん冷静に書かれている。

 上記2つは、熱心なファンと、音楽学者によるちがいはあるが、時代の差も感じさせる。わたしは、前者のような“熱い”感慨を、すっかり忘れていた。
 だが、古典四重奏団による“初演版”を目の前で聴いて、見て、やはり、ベートーヴェンはのたうち回っているのだと、あらためて思った。あまり冷静に聴けなかった。
 昨年の春先から今日まで、日本が、どういう状況だったか。混迷し、後手にまわりつづける感染症対策や、平然と五輪開催を口にする連中を見ていると、もう理想を求めても、どうしようもないような気がする。ベートーヴェンは、人生の最後に、《大フーガ》で似たようなことを言いたかったのではないだろうか。
<敬称略>

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2021.01.04 (Mon)

第293回 ヴィヴァルディを聴く映画

燃ゆる 四季
▲(左)映画『燃ゆる女の肖像』、(右)チャンドラー指揮・Vn、ラ・セレニッシマの《四季》


 1979年、ヴィヴァルディの音楽を使用したアメリカ映画が3本公開された。しかも、どれもたいへんな名作だった。

『リトル・ロマンス』(ジョージ・ロイ・ヒル監督/1979/米) 
 名優ローレンス・オリヴィエが出演。ダイアン・レインの映画デビュー作でもある(撮影時13歳、かわいい!←いま55歳)。音楽担当はジョルジュ・ドルリューで(本作で、アカデミー作曲賞受賞)、《室内協奏曲》ニ長調RV93をアレンジして流していた。

『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン監督/1979/米)  
 アカデミー賞5部門受賞の名作。妻に家出されたダスティン・ホフマンが、男手ひとつで5歳の息子を育てる奮闘記。《マンドリン協奏曲》ハ長調RV425が上品に、うまく使われていた。

『オール・ザット・ジャズ』(ボブ・フォッシー監督/1979/米) 
 カンヌ映画祭最高賞受賞。ブロードウェイの名振付師による自伝的作品。毎朝、シャワーを浴びながら《協奏曲》ト長調〈アラ・ルスティカ〉RV 151を流しては、「さあみなさん、ショータイムです!」と疲れきった自らを鼓舞する(わたしは、この曲を大学のオンデマンド授業のテーマ曲に使用した)。

 ほかにも、たとえば『八月の狂詩曲』(黒澤明監督/1991/日本)では、《スターバト・マーテル》RV 621が流れた。さほど有名な曲ではなかったのだが、この映画が契機で注目を浴びた。使用された音源は、クリストファー・ホグウッド指揮/エンシェント室内管弦楽団/ジェイムズ・ボウマン(カウンター・テナー)のDecca盤(1975年録音)で、いまでも名盤として知られている。

 かようにヴィヴァルディが流れる映画は多いのだが、ひさびさに決定打が登場したのでご紹介したい。
 『燃ゆる女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督/2019/仏)だ。
 18世紀フランス、孤島の屋敷を舞台に、貴族の娘と、彼女の肖像画制作を依頼された(当時としては珍しかった)女性画家との同性愛を描くものだ。昨年のカンヌ映画祭で脚本賞などを受賞したという。
 全編、女性監督ならではの繊細でかつ堅牢な画面構成でできており、演出もたいへん品がある。どこか、往年のヴィスコンティやベルイマンを彷彿とさせる映画だった。前半はあまりに泰然とした展開で睡魔に襲われかけるが、後半になると一挙に展開が進み、クライマックスはまるで、ジェットコースタのようである。 

 実はこの映画に、音楽は2か所でしか流れない。
 1曲は、島の小さな祭祀の場面に流れる、不思議な民族音楽のような声楽曲だ(ジャン=バティスト・デ・ラウビエのオリジナル)。
 そしてもう1曲がヴィヴァルディで、《四季》の一部が、ある場面で流れる……のだが、具体的な場面や、曲名までを述べると、物語の核心にかかわってくるので、あえて伏せる。だが、これは映画史に刻まれる名場面だと思った。
 同時に、演奏が強烈というか個性的で、おそらく、一般の音楽ファンは、こんなヴィヴァルディは初めてと感じる方が多いのではないだろうか。メリハリが強烈で、まるで、この映画の、あの場面のために演奏されたような迫力なのだ。

 これは、エイドリアン・チャンドラーが主宰する古楽アンサンブル「ラ・セレニッシマ」の演奏。2015年に録音された、Avie RecordsレーベルのCDで、約3分弱、音楽はノーカット、画面もワンカットで疾走する。
 エイドリアン・チャンドラー(1974~)はイギリスのヴァイオリニスト。バロック・ヴァイオリンの専門家で(モダンも弾くらしい)、1994年にピリオド・アンサンブル「ラ・セレニッシマ」(ヴェネツィア共和国の別称で「澄み切った青空」の意味)を結成した。主にヴィヴァルディと同時代の作品を中心に、イタリア・バロックの秘曲を続々と録音、グラモフォン賞も2回受賞している。

 ヴィヴァルディは、なんといっても、戦後、フェリックス・アーヨ率いる「イ・ムジチ」によるPhilips盤の《四季》が大ベストセラーになって、一挙にポピュラー作曲家になった(それまでは、いまほど有名ではなかった)。
 その後、ピリオド楽器が盛んとなり、「イ・ムジチ」風の「きれいな演奏」よりも、荒々しい現代解釈による(いや、かえって初演時風の?)、いままでに聴いたことのないアクセントやアゴーギクの演奏が好まれるようになった。アーノンクールビオンディ(エウローパ・ガランテ)にはじまり、アントニーニ(イル・ジャルディーノ・アルモニコ)に至っては、弓と弦、楽器本体がガリガリとこすれ合う音までが平然と収録される超過激演奏だった。
 この映画に流れるチャンドラーの強烈演奏も、その延長線にある。

 昨年12月4日に封切以来、都内では年が明けても公開がつづいているので、おそらく、ロング・ヒットになっているのだと思う。
 このコロナ禍で映画やコンサートを控えている方も多いと思うが、劇場では会話や飲み食いをする必要はないのだから、たまには、こういう映画を観て、音楽とドラマの双方をを楽しんでみてはいかがだろうか。

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