2021.05.27 (Thu)
第314回 1705年12月、リューベックにて(4)

▲「夕べの音楽」再現CDのひとつ(ヴォクス・ルミニス+アンサンブル・マスク)Alpha Classics
※ナクソス・ミュージック・ライブラリーはこちら。
現在、「Abendmusiken」=夕べの音楽(会)といえば、教会での演奏会の代名詞だが、本来は、リューベックの聖マリエン教会での催しを指す固有名詞だった。
前述のように、創始者は、ブクステフーデの前任者、フランツ・トゥンダー(1614~1667)である。
リューベックでは、毎週木曜日の正午、証券取引所の開場を待つ商人たちが、聖マリエン教会で時間をつぶす習慣があった。社交場のようなものだったのだろう。
当時のリューベックは北ドイツ最大の経済都市で、ハンザ同盟の盟主”ハンザの女王”と呼ばれていた。町は、岩塩や塩漬けニシンで大儲けした商人たちであふれていた。
そんな彼らのために、トゥンダーはオルガンを弾いて聴かせた。これが「夕べの音楽」で、商人組合も教会に寄付する形でギャラを支払っていた。
やがて一般市民も無料入場できる催しとなる。「コンサート」のはしりである。
1667年11月5日、トゥンダーが逝去した。後任に多くの候補が挙げられたが、なかなか決まらず、半年近くが経過した。
そのころブクステフーデは、デンマーク、ヘルシンゲルにある聖オライ教会のオルガニストをつとめていた(ここは、シェイクスピア『ハムレット』の舞台である。ヘルシンゲルの英語読みが「エルシノア」)。
経過は不明だが、1668年4月11日、ブクステフーデがトゥンダーの後任に就任した。7月には正式にリューベック市民に認定され、8月3日にトゥンダーの下の娘、アンナ・マルガレーテと結婚する。この結婚が就任の条件だったかどうかは定かではないが、当時の慣習からいって、おそらく世襲を求められ、了解したものと思われる。
ブクステフーデの仕事は、朝の礼拝、日曜祝日の午後の礼拝、その前日の夕べの祈りなどでのオルガン演奏だった。そのほか、前奏や聖餐式でも、器楽や歌手を加えた曲を演奏した。
やがて彼は、「夕べの音楽」をスケールアップして復活させた(そのために、教会内の演奏者バルコニーを増設しなければならないほどだった)。
開催日は、毎週木曜日ではなく、「教会暦」にちなんだ年に5回の日曜日に絞った。
それは、「三位一体節の最後の2回の日曜日」と、「待降節の第2、3、4日曜日」である。
三位一体節は、「聖霊降臨祭」(復活祭から50日目)の次の日曜日からはじまる期間をいう。その間の日曜日が「三位一体主日」で、年によって期間は変わるが、23回~27回の日曜日がつづく。たとえば第1主日が5月ころになるとすれば、最後の2回の日曜日は11月ころになる。
待降節とは、クリスマス(イエス生誕)直前の時期で、教会暦における1年のはじまりにあたる。
つまりブクステフーデが主宰した「夕べの音楽」は、毎年、秋からクリスマスにかけて、新しい暦のはじまりを待つ祝祭行事のような、たいへん華やかなものだったと思われる。
いまでこそ、わたしたちは、コンサートで、時季に関係なく、カンタータや受難曲を当たり前のように聴いているが、本来は教会暦にあわせて、特定の祝日に演奏するために作曲されていた。だから、たとえばバッハの《マタイ受難曲》などは、バッハ存命中は、おそらく4~5回しか演奏されなかったといわれている。それを、後年、メンデルスゾーンが発掘し(14歳の時に、祖母からクリスマス・プレゼントに写譜をもらった)、「コンサート鑑賞曲」として復活させたことで、一般的な名曲として再認識されたのだった。
もしかしたらブクステフーデは、教会における音楽の姿を、本来のあり方にもどしたのかもしれない。
この項の第1回目で述べたように、1705年12月、バッハがリューベックを訪れたその最大の理由は、待降節の「夕べの音楽」で、ブクステフーデ作曲、レオポルド一世追悼カンタータ《悲しみの城砦》BuxWV134と、新皇帝ヨーゼフ一世即位記念カンタータ《栄誉の神殿》BuxWV135を聴くことが最大目的だった。
この”特別コンサート”は、12月2、3日の2日間にわたって開催されたという。
ここで気になることがある。
バッハは「4週間の休暇」を申請して旅立った。出立は10月18日ごろだったと見られている。
もし本気で「4週間」で帰ってくるつもりだったら、11月中旬には戻っていなければならない。
アルンシュタット~リューベック間は、道のりにもよるが、約400キロある。ほぼ、東京~大阪間に匹敵する。ここを、バッハは、徒歩で旅したという。
1705年といえば、日本では、赤穂浪士討ち入り(1703年)の2年後。当時、日本橋~京が、徒歩で約2週間の旅といわれた。
バッハは大柄で健脚だったそうだが、それでも、江戸~京よりも長い距離を歩いたのだから、やはり、10~14日はかかったであろう。往復で20~28日。「4週間の休暇」(28日間)では、行って帰ってくるだけでギリギリのはずだ。「夕べの音楽」どころではない。
つまりバッハは、最初から4週間以上、リューベックに居座るつもりだったのだ。
おそらく、上記”特別コンサート”以外に、いろんな音楽を聴いたにちがいない。
では、具体的に、どんな曲を聴いたのか。
教会内の音楽なのだから、オルガン曲やカンタータ(当時、教会音楽には、この名称はなかったが)だろう。
そこで話をもどせば、想像による「夕べの音楽」再現CDが多く出ているので、これらが頼りになる。
たとえば、冒頭に掲げた、フランスの古楽レーベル「Alpha Classics」からリリースされている『Abendmusiken ~BUXTEHUDE:Choral and Chamber Music』。文字通り「夕べの音楽(会)」と題されている。ヴォクス・ルミニス(声楽アンサンブル)と、アンサンブル・マスク(古楽器アンサンブル)の演奏で、古楽器によるソナタと、カンタータが交互に、計8曲収録されている。もちろんすべてブクステフーデ作曲で、最後は、名曲《イエスよ、わが命の命》BuxWV62で締め括られている。
ほかにも同じ「夕べの音楽」と題する”再現CD”はいくつも出ていて、おおむね、声楽曲が中心だ。間にオルガン曲が入っているものもある。
もちろん、これらは、正確な記録が残っているわけではないので、どれも”おそらく、ブクステフーデのこんな曲が演奏されたであろう”との想像で選曲されているのだ。
ところが、前回の最後に綴ったように、ニュー・グローヴ音楽大事典によれば「こうした演奏会で、ブクステフーデの現存作品のいずれかが用いられた可能性はあるが、その確証のある作品は一曲もない」とはっきり書かれている。
筆者のKerala Johnson Snyderは、イーストマン音楽院の教授で、古楽やオルガンの権威。特にブクステフーデについては本格的な研究評伝を上梓しており、ブクステフーデについて、世界でもっとも詳しい研究家である。
そんな専門家がいうのだから、間違いはないだろうが、いったい「夕べの音楽」では、なにが演奏されていたのか――実は、「オラトリオ」が多かったらしいのだ。
しかし、彼女の解説によると、オラトリオ《仔羊の結婚》BuxWV128は演奏されたようだが、台本しか残っていない。新聞広告で予告された「夕べの音楽」用のカンタータやオラトリオも何曲かあるようだが、これらも、なにも残っていない。前述のように、バッハがリューベック訪問の目的とした2つのカンタータも、台本しか残っていない。
よって、多くの”再現CD”の収録曲は、教会の礼拝などで演奏された可能性はあるが、「夕べの音楽」で演奏されたかどうかは、まったく不明なのだ。
教会のバルコニーを増設して演奏されたオラトリオともなれば、スケールの大きな音楽だったろう。
だが、巷間の”再現CD”は、すべて、小ぢんまりとした声楽曲ばかりである。
野暮なことをいうようだが、どうも、”再現CD”は、「夕べの音楽」の実態とは、かけ離れた内容のような気がしてくる。
では、あらためて――バッハは、リューベックに正味3か月いた間、なにを聴いたのだろう。「夕べの音楽」はクリスマス直前で終了している。そのあと、ブクステフーデのどんな曲を聴いたのだろう。
ここから先はわたしの推測だが、バッハの名曲《ゴルトベルク変奏曲》のルーツが、このときのリューベックにあったと信じている。
次回、素人の戯言で、この旅を終わりにしたい。
〈敬称略/次回、最終回〉
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2021.05.20 (Thu)
第313回 1705年12月、リューベックにて(3)

▲1~2回で終わるかと思いきや、そうはいきませんでした。
もう少し、このCDから広がる話がつづきます。
ナクソス・ミュージック・ライブラリーは、こちら。
(前回より)
◆ブクステフーデとバッハは「会っていない」?
CD『1705年12月』のオルガニスト、マヌエル・トマディンがライナーノーツで綴っている、「このとき、バッハとブクステフーデが、お互いに自己紹介しあった可能性は低い」「2人が出会うことはなかったと思われる」には、それなりの根拠もあるようだ。
トマディンによると、バッハの次男、C.P.E.(カール・フィリップ・エマヌエル・)バッハが、後年に父から直接に聞いた話として、リューベックでのバッハは「active listener」(熱心な聴き手)だったと書いているというのだ。
トマディンはこの表現を「不思議な定義」だとし、ゆえに2人は直接には知り合わなかったと推測している。
そしてトマディンは、「バッハは、ブクステフーデが嫉妬して外部に漏らさなかったアドリブ技術や細かいパッセージ演奏、音域や音列などを身につけるため、自己紹介することなく、こっそり聖歌隊のなかに潜り込んだり、教会の隅でその演奏を聴くことを好んだ」と、見てきたようなことを書いている。
だが、これも荒唐無稽な話とはいえないのだ。
まず、トマディンがいう”エマヌエルが父から聞いた話”とは、バッハの死後、エマヌエルと、バッハの弟子アグリコーラによってまとめられた『故人略伝』の記述を指していると思われる。初出が1754年なので、バッハの没後4年目、史上最初のバッハ伝である。
このころは、父バッハよりも、次男エマヌエルのほうが有名で、“大バッハ”の敬称も、次男に冠せられていた。それだけに、当時としては注目の記録だった。
そこには、たしかに、こんなふうに書かれている。
「このアルンシュタット時代のある日、彼はできるだけ多くのすぐれたオルガニストの演奏を聴きたいといういつにない強烈な衝動に突き動かされて、リューベック目指して、しかも徒歩で、旅立った。同地のマリア教会のオルガニストとして名の高かったディートリヒ・ブクステフーデの演奏を盗み聴きするためである。彼はこの地にほとんど三カ月近くも滞在して、それなりの成果をあげ、そしてふたたびアルンシュタットへ戻ったのである」(『バッハ叢書10 バッハ資料集』より、白水社刊、酒田健一訳)
この「盗み聴き」の部分が、「active listener」(熱心な聴き手)なのだろう。
そして、この『故人略伝』をもとに、さらに追加取材や新資料を加えて、第三者によって書かれた最初の本格評伝が、ヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749~1880)による『バッハの生涯、芸術、および芸術作品について』である(1802年初出)。
フォルケルはオルガニストで、音楽研究家でもあった。バッハ逝去の前年に生まれたので、長じても周囲にはバッハを直接知るひとが、まだたくさんいた。また、次男エマヌエルには往復書簡による”直接取材”を敢行している。
そのフォルケルも、同書でこう綴っている。
「ほとんど三カ月のあいだ、彼(バッハ)は当時きわめて高名で事実練達なこのオルガニスト(ブクステフーデ)を熱心に聴き、大いに知識をふやしてからアルンシュタットに帰っていった」(白水Uブックス『バッハ小伝』、角倉一朗訳)
この部分は、岩波文庫版では、こう訳されている。
「そのころ非常に有名で、実際に熟練したこのオルガニストの演奏を、彼はまる三カ月近くも、ひそかに傾聴しつづけ、いろいろと知見を拡めて、アルンシュタットへ帰った」(岩波文庫『バッハの生涯と芸術』、柴田治三郎訳)
ただし、この岩波文庫版には訳者の訳注が付いていて、「(バッハは)この大家と個人的にも接触して、いろいろと啓発されたものと考えられる」と、記されている。
しかしエマヌエルもフォルケルも、「盗み聴き」「熱心に聴き」「ひそかに傾聴」と書くだけで、「指導を受けた」とか「交流をもった」とは、書いていない。
特にエマヌエルは、父をたいへん尊敬し、崇めていた。父バッハが”音楽の父”とまで称され、世界中で演奏され、教科書に載り、300年以上も愛されつづけているのは、ひとえに、この次男のおかげといっても過言ではない。よって、ほかの箇所の記述を見ても、いかに父が、多くの先達から学び、勉強していたかを、はっきり書いている(リューベック以前に、ブクステフーデも、すでに勉強の対象だった)。
それだけに、もしブクステフーデほどの巨匠と直接交流があれば、当然ながら父からその思い出話を聞き、『故人略伝』にも、はっきりそう書いていたと思う。
この当時、教会の”音楽監督”(オルガニスト)は、世襲制、もしくは血族で占めるのが通常だった。バッハ一族も、故郷アイゼナハでは多くが教会オルガニスト、宮廷楽師、町楽師(父)などを占めていた。そういえば、オペラで有名なプッチーニも、先祖は、代々、ルッカの教会オルガニストだった。モーツァルトもベートーヴェンも親は宮廷楽師だった。かつて音楽とは”家業”だったのである。
このあたり、日本の歌舞伎界に似ていると思えば、当たらずとも遠からずだろう。
そうなると、作曲法やオルガン演奏法、その管理システム、鑑定法などは、必然的に”専売特許”の様相を呈し、血族内の守秘事項のようになる。
よって、トマディンが綴ったように、バッハが求めていたもの(作曲や演奏技法など)を、ブクステフーデは「嫉妬して外部に漏らさなかった」可能性は十分にある。バッハ自身も同じ音楽一族の出身だから、そのことはわかっていただろう。突然、自分のようなよそ者の若造が巨匠に指導を求めても、そう簡単に応じてくれるはずがないことも、理解していたはずだ。
よって、エマヌエルやトマディンの記述も、それなりに納得がいくのである。
だが、もしそうなら、多くのバッハ伝は書き換えられなければならない。
たとえば、前々回で紹介した『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(磯山雅著、講談社学術文庫/初出は1985年)には、こう書かれている。
「ブクステフーデもこの遠来の若者に注目し、この地にとどまって自分の後継者になってくれないかと、申し出たといわれる。バッハはこの提案にさぞ心を動かされたにちがいないが、その申し出に付随する、自分の三十歳の娘と結婚するようにという条件は、のむことができなかった」
これは、バッハ伝によく登場する有名な挿話だ。
先述のようにオルガニストは世襲制が多かった。ブクステフーデも、先代フランツ・トゥンダー(1614~1667)の娘と結婚し、義理の息子となって聖マリエン教会オルガニストを継いだのだ。
ところがブクステフーデにも男子は生まれなかったようだ。
そこで、バッハを娘のマリア・マルグレータの婿に迎え、あとを継がせようとした――多くのバッハ伝はそう綴っている。
婚期を逃した娘のために、バッハを追いかけまわす老父の姿が目に浮かぶようだ。
しかし、「2人が出会うことはなかった」のなら、これらの記述もなかったことになる。
では、実際にはどうだったのか。
実は、ブクステフーデには、娘の婿として、バッハ以前に白羽の矢を立てた相手がいた。それは、あのヘンデルと、彼の親友の作曲家、ヨハン・マッテゾンだった。
2人は定職にありつけるかもしれないとの野心を抱いて(?)、1703年にリューベックを訪れた。このとき、やはり老巨匠は、おなじ条件を出した(どちらかといえばマッテゾンのほうが狙われていた)。
だが当時、マッテゾンは22歳、ヘンデルに至っては18歳。さすがに無理だった。もしこのときヘンデルが結婚してリューベックに住み着いていたら、ハノーファーやロンドンに行くこともなく、音楽史は変わっていただろう。
バッハがリューベックを訪れたのは、その2年後である。同業者だけに、おそらく聖マリエン教会の就職条件を、バッハは知っていただろう。ヘンデルの件も、噂で聞いていたのではないか。よって、リューベックで、へたにブクステフーデに接触すると、無茶な縁談を持ち出され、身動きがとりにくくなる。ブクステフーデには直接会わず、教会の隅で、「熱心な聴き手」に徹して「盗み聴き」していたほうがいい、アルンシュタットには意中のひと、マリア・バルバラが待っているのだから――慎重にことを運ぶ彼の姿が目に浮かばないだろうか。
そして、そのほうが、いかにもバッハらしいと、わたしは思うのだが。
ただ、会っていなかったとしても、4カ月近くも同地にいたわけだから、少なくとも、「夕べの音楽」や礼拝などで、ブクステフーデの曲や演奏は、嫌というほど聴いたにちがいない。では、CD『1705年12月』のオルガン曲以外に、バッハは、どんな音楽を聴いたのだろう。
これも、”おそらくこんな曲が演奏されただろう”とのコンセプトによる「Abendmusik夕べの音楽」の再現アルバムが何枚か出ている。
ただし、グローヴ音楽大事典によれば、「夕べの音楽」で「ブクステフーデの現存作品のいずれかが用いられた可能性はあるが、その確証のある作品は一曲もない」と、またまた身も蓋もないことが書かれているのだが・・・・・・。
〈敬称略/この項つづく〉
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2021.05.16 (Sun)
第312回 1705年12月、リューベックにて(2)

▲前回につづき、このディスクにまつわる話です。
ナクソス・ミュージック・ライブラリーにも収録されています。
(前回より)
《トッカータとフーガ ニ短調》BWV565は、おそらくバッハのなかでもトップクラスの有名作品だろう。
ところが、これほど有名なわりに、いつ、どこで、何のために作曲されたのか、まったくわかっていない。それどころか、自筆譜が残っていないせいもあって(かなり後年になってからの「写譜」しかない)、バッハの真筆ではないとの説も根強い。
しかし、いまでは音楽の教科書に載り、ディズニー映画にまでなっているし、嘉門達夫も「タラリ~、鼻から牛乳~」とうたっているほどなので、いまさらバッハの作ではないとするわけにもいかないだろう。
前回紹介した”磯山説”のように、バッハは、ブクステフーデの曲から「自由に演奏して(書いて)いいのだ」との姿勢を学んだ。たしかにブクステフーデの曲は自由奔放で幻想的だった。カタブツのバッハにとっては目からウロコが落ちる思いだった。
そのせいか、アルンシュタットに帰ってからのバッハのオルガン演奏は、一挙に派手で前衛的なものになったという。ただでさえ、4週間の休暇を無断で4か月に伸ばし、お目玉を喰らったばかりである。なのに、今度はわけのわからないオルガン曲を弾いたり、挙句の果て、女性を教会内でうたわせたりしたものだから、またも教会上層部からお咎めを受けた(当時、女性が教会内でうたう=声を出すことは許されなかった。この女性が、最初の妻、マリア・バルバラではないかといわれている)。
そんなエピソードがあるものだから、いかにも幻想曲っぽい前半部を持つBWV565が、ブクステフーデの影響下に書かれたと思いたくなるのも無理はない。
だが、専門家によれば、後半のフーガ部分など、バッハにしてはたいへん“軽い譜面”なんだそうだ(わたしのような道楽者には、なかなか重厚に聴こえるのだが)。この曲はリューベック滞在以前に書かれたとの説もあるという。
しかし、明らかにブクステフーデの影響が見てとれる作品もあるようだ。
たとえば磯山が挙げているのは、《プレリュードとフーガ ホ短調》BWV533、コラール《キリストは死の縄目につながれた》BWV718などがそうではいかという。
また前回ご紹介した加藤浩子も、同じくBWV533、2008年に新発見されたコラール・ファンタジー《主なる神、我らの側にいまさずして(我らがもとにあらずば)》BWV1128、さらに、祝典カンタータ第71番《神はわが王なり》BWV71なども、リューベック体験から生まれたのではないかと推測している。
ほかには、これは有名な例だが、BWV565のフーガ部分は、ブクステフーデの《プレリュードとフーガ ニ短調》BuxWV140の後半部分とよく似ている。
いま風の言い方を借りれば“オマージュ”と信じたくなる。
そこで、(すっかり回り道してしまったが)今回の話題のきっかけとなったCD『December 1705』である。これは、文字通り、1705年12月に、バッハがリューベックで聴いたであろう、ブクステフーデのオルガン曲が前半に、そして、おそらくその影響下に生まれたと思われるバッハの曲を後半に配した、かなりコンセプチュアルなアルバムである。
ここには、ブクステフーデとバッハのオルガン曲が、各6曲ずつ収録されている。
なるほど、そういわれて聴くと、”影響を与えた/受けた”ように思える雰囲気が、たしかにある。
たとえばブクステフーデの《プレリュード、フーガとシャコンヌ ハ長調 》BuxWV137はバッハの《プレリュードとフーガ イ短調》BWV551に、また、ブクステフーデの十八番である”コラール・ファンタジー”《イエス・キリストよ、賛美をうけたまえ》BuxWV188はバッハの《天にいますわれらの父よ》BWV762に、それぞれどこかつながっているように聴こえる。
有名なバッハの《フーガ ト長調》BWV577における、あの踊って跳ねるようなジーグのリズミカルな楽しさも、ブクステフーデ体験の賜物らしい。前述、加藤浩子が挙げた新発見BWV1128も収録されている。
ほかに、影響を与えたかどうかを別にしても、このディスクで聴く、ブクステフーデの《パッサカリア ニ短調》BuxWV161や、前記BuxWV137など、ほんとうに素晴らしい曲で、これを聖マリエン教会の巨大なパイプ・オルガンで、本人の演奏で聴いた20歳のバッハ青年の興奮と感動は、とてつもないものだったにちがいない。
1705年12月、リューベックでの2人の出会いと交流は、どんな様子だったのか、興味は尽きない。
ところが――このディスクでオルガンを弾いているマヌエル・トマディンのライナーノーツを読むと、「このとき、バッハとブクステフーデが、お互いに自己紹介しあった可能性は低い」「2人が出会うことはなかったと思われる」なんて身も蓋もないことが書かれているのだ。
もちろん、バッハは、教会でオルガンを弾いている老人がブクステフーデであることは、わかっていたはずだ。
だがバッハは、巨匠を前にして自己紹介のあいさつをしなかったという。
ということは、ブクステフーデも、4カ月間も教会に入り浸って自分の音楽を聴いている、明らかにこの町の住人ではない若者が、どこの誰だか、まったく知らなかったのだろうか。
もしそれがほんとうなら、リューベックにおけるいくつかの逸話は否定され、バッハ評伝の一部は書き換えられることになるのだが。
〈敬称略/この項続く〉
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(土)23時・FMカオン、毎週(日)正午・調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。
パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。
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2021.05.12 (Wed)
第311回 1705年12月、リューベックにて(1)

▲CD『1705年12月 ブクステフーデ&バッハ』(オルガン:Manuel Tomadin)
最近、たいへん興味深いタイトルのCDが、オランダのBrilliant Classicsから出た。
『December 1705/Buxtehude&Bach Organ Music』(Manuel Tomadin:オルガン)である。
バッハに詳しい方だったら、タイトルの「1705年12月」に、ピンと来ただろう。
1705年、20歳の若きバッハは、ドイツ中部の町アルンシュタットで、教会オルガニストをつとめていた。ところが、あることから教会聖歌隊の生徒とトラブルになり、乱闘事件を起こしてしまう。教会上層部からこってり絞られたバッハは、不貞腐れ、同年11月、4週間の休暇を申請し、ドイツ北部の町リューベックへ旅に出てしまう。
アルンシュタットからリューベックまでは、400㎞近くある。ほぼ東京~大阪間と同じ距離だ。
いったい、バッハは、何のためにそんな遠方へ出かけたのか。
音楽作家、ひのまどかによるジュニア向け評伝『バッハ/音楽家の伝記 はじめに読む1冊』(ヤマハ・ミュージック・メディア)では、このように生き生きと記されている。後年のバッハが、息子に若いころの思い出を語る場面だ。
「お父さんはね、若いころには、こんな街道をよく旅して歩いたんだよ。馬車の旅よりよほど面白いよ」(略)
「歩いてって・・・・・・、どのくらいの距離をですか?」
「そうさなあ、ずいぶん何度も旅したからなあ。(略)もっと歩いた時で三百七十キロはあった。お父さんがちょうど二十歳の時だ。アルンシュタットというここよりずっと南の町から、ドイツのいちばん北にあるリューベックという都まで歩いて旅したんだよ。リューベックには、ブクステフーデさまというえらいオルガニストがおられてね、お父さんは、その方の演奏なさる『夕べの音楽』をききに行ったんだ。歩いて歩いて、行きと帰りに十日ずつはかかったなあ」
「十日も歩いて! 足が痛くならなかったの、お父さん?」
このころ、ドイツのオルガニストといえば、リューベック、聖マリエン教会の巨匠、ディートリヒ・ブクステフーデ(1637?~1707)が代表格であった。彼は、「夕べの音楽」と題する催しを主催していた。
これは、もともと、前任者が毎週木曜日に、ミサなどとは別に教会で開催していた「オルガン+声楽演奏会」で、市民は無料で入場できた。もしかしたら、これが、音楽史上最初の、(宗教行事ではなく)純粋に音楽を楽しむ「コンサート」のはしりだったかもしれない。
ブクステフーデは、これをさらに拡大し、年に5回、日曜日の礼拝につづけて開催される、大規模なコンサートに格上げした。
これが大評判となり、遠方から駆け付けるひとも多かった。
当然、バッハもその評判を聞いており、一度、その目と耳で、ブクステフーデのオルガンと、有名な「夕べの音楽」に接してみたかったにちがいない。このころ、ブクステフーデは70歳近く(逝去の2年前)。当時としては超高齢者である。バッハも、これが最後のチャンスと感じていたはずだ。
これに関しては、”音楽物書き”の加藤浩子が『バッハ 「音楽の父」の素顔と生涯』(平凡社新書)で、うまく説明してくれている。
「夕べの音楽」のもっとも需要な開催日は、クリスマス前の待降節、第二、第三、第四日曜日だったので、バッハが11月に休暇をとったのも当然だった。とくにこの1705年の待降節には、神聖ローマ皇帝が代替わりしたため、前任者のレオポルド一世の追悼カンタータと新皇帝ヨーゼフ一世の即位を祝うカンタータの上演が予定されていたのである。バッハは、飛び立たんばかりの勢いでリューネブルクに向かったことだろう。
この2つのカンタータとは、《悲しみの城砦》BuxWV134と、《栄誉の神殿》BuxWV135を指すが、どちらも台本しか残っておらず、残念ながらどんな曲だったかは、いまではわからない。しかし、かなり大規模な声楽曲だったようだ(正確には、当時まだ「カンタータ」なる呼称はなかった)。
聖マリエン教会は第2次世界大戦時、連合軍の爆撃で破壊され、「建物もオルガンも戦後の再建だが、いずれも啞然とさせられる規模だ」そうで、「5段鍵盤とペダル、101のストップ、8512本のパイプを持つ巨大なもの」、位置も「再建とはいえ、ブクステフーデの頃と変わらない」らしい(前出、加藤著書より)。
20歳のバッハが感動しながら聴いている姿が目に浮かぶようだ。
ところで、バッハが許可を得た休暇期間は4週間だったが、実際には4か月もリューベックに滞在することになった。
ということは、前記の”皇帝の追悼/即位記念”だけでなく、ほかの「夕べの音楽」も聴いただろうし、礼拝などでブクステフーデのオルガン演奏も何度も聴いたはずだ。おそらく、直接に指導も得ただろう。一説にはバッハ自身も「夕べの音楽」にゲスト参加したのではないかといわれている。
そこで気になるのは、以下の2点だ。
①バッハはリューベックに滞在中、具体的にブクステフーデのどの曲を聴いたのか?
②それらの音楽が、バッハにどんな影響を与えたのか?
これについて、バッハ研究の泰斗、磯山雅(1946~2018)が、こう書いている。
「バッハがブクステフーデから学んだのは、様式や技法もさることながら、ファンタジーを抑圧せず大胆に解放してゆくという、表現への積極性であった」「私は、初期の作品のうちでもきわ立って有名な《トッカータとフーガ ニ短調》BWV565を、ブクステフーデ体験のさめやらぬ興奮のしるしと考えたい気持ちに駆られる」(『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』より、講談社学術文庫)
なんと、あの名曲は、ブクステフーデの影響下に書かれたのか?
〈敬称略/この項、つづく〉
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2021.05.01 (Sat)
第310回 リヒャルト・シュトラウスの思い出

▲(左)「ヘア解禁オペラ」となったユーイングの《サロメ》DVD(現在、新品入手困難)
(右)シュヴァルツコップ&カラヤンの映画『ばらの騎士』ポスター
東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)の第153回定期演奏会が中止となった(4月29日)。3回目の「緊急事態宣言」で、会場の東京芸術劇場が休館となったのだ。昨年の4月と6月につづく3回目の中止だ。今回の指揮者、飯森範親(来日不能となったユベール・スダーンの代役)は、昨年4月も登壇予定だった。
この〈金魚の糞〉のようにダラダラとつづく宣言やら措置については、いいたいことが山ほどあるのだが、それはまた別の機会に。
今回中止になった演奏会は、リヒャルト・シュトラウス特集だった。
わたしはプログラム解説を書いたのだが、昨年に引き続き、これまたボツとなってしまった(ただ、今回は、すでにデザイン版下も完成しており、TKWO事務局がサイトにアップしてくれているので、興味のある方は、ご覧ください)。
せっかくなので、リヒャルト・シュトラウスに関する思い出を少々。
リヒャルトの曲は、中学のころから交響詩などをLPで聴いていたが、初めてナマで聴いたのは「吹奏楽」だった。1979年度の全日本吹奏楽コンクール(全国大会)、千葉県立銚子商業高等学校(小澤俊朗・指揮)の演奏である。曲は、楽劇《サロメ》~〈7つのヴェールの踊り〉。会場は、いまはなき普門館。当時、わたしは大学生だった。
このときの衝撃、感動、驚愕は、いまでも忘れない。
こんな音楽を平然と演奏している銚子商業とは、なにものなのか、開いた口がふさがらなかった(もちろん金賞。たしか、《サロメ》の全国大会初演だったはず)。
これは一種の〈ストリップ音楽〉である。ヘロデ王の娘が、預言者ヨカナーンの「首」欲しさに、父王(血はつながっていない)の前で、7枚のヴェールを1枚ずつ脱いで身体を見せて機嫌をとり、最終的に全裸になる、そんな場面の音楽だ。
このオペラを初めてナマで観たのが、1987年4月のベルリン国立歌劇場来日公演だった。
これは異色の演出だった(ハリー・クプファー演出)。舞台上にビル3階建てくらいの鉄骨の建造物が組まれ、人物は階段を使って「上下」に移動する。なかなかSFチックなヴィジュアルだった。
問題の〈7つのヴェールの踊り〉は、エヴァ=マリア・ブントシューが妖艶に舞いながら歌い、少々ダイナマイト体型だったが、それでも最後は全裸になった(ただし肌色の全身ストッキング着用)。
肉襦袢姿とはいえ、たいへんなオペラもあったもんだと驚いた。
だが、《サロメ》といえば、ビデオ映像だが、英国ロイヤル・オペラのマリア・ユーイングが忘れられない。1992年の舞台収録で、彼女の踊りはかなり本格的。7枚のヴェールの下は、なにも付けていない完璧全裸となる。日本版でもボカシはなく、「ヘア解禁オペラ」などと呼ばれた。こればかりは、いくらコンクール前の予備学習とはいえ、学校吹奏楽部で見せることはできない。しかしユーイングはなかなかの美形スタイルで、オペラ歌手=ドスコイ体型との先入観を払拭した。もちろん歌唱も強烈なまでに素晴らしい。
それにしてもTV放映不可の姿をさらさなければならないとは、オペラもたいへんな時代になったもんだと驚いた。
ほかに映像では、テレサ・ストラータス主演のオペラ映画版も長く人気があった。
その後、さまざまなリヒャルトに接してきたが、最高の演奏は、1994年のウィーン国立歌劇場来日公演の《ばらの騎士》だった。実は、冒頭で記した東京佼成ウインドオーケストラのプログラム解説で、この公演についてチラリと触れたら、「行ってもいないくせに、見てきたように書いている」との声があったようなのだが、清水の舞台から飛び降りて、6万5000円(!)を自費で払って、ちゃんと行っているのだ。
このときの指揮はカルロス・クライバー。彼の生涯最後のオペラ指揮となった、伝説の舞台である。フェリシティ・ロット(元帥夫人)、アンネ・ソフィー・フォン・オッター(オクタヴィアン)、バーバラ・ボニー(ソフィー)の3役も筆舌に尽くしがたい名演・名唱で、最後の三重唱などは、「胸をかきむしられる」とはこのことではないかと、座席上で悶絶したものだ。これは、心底、観ておいてよかったと思える、高額切符も納得の舞台だった。
なお、《ばらの騎士》の映像も各種あるが(クライバーでは、ウィーンとバイエルンの2種類の舞台映像が商品化されている)、やはりお薦めは、カラヤン指揮の「映画」版。1960年のザルツブルク祝祭劇場のこけら落としで上演された際のメンバーでスタジオ録音し、それに歌手の演技映像を重ねた、垂涎のオペラ映画だ。3役は、エリーザベト・シュヴァルツコップ(元帥夫人)、セナ・ユリナッチ(オクタヴィアン)、アンネリーゼ・ローテンベルガー(ソフィー)。当時45歳のシュヴァルツコップは、声も容姿も美しく、品があり、史上最高の元帥夫人といって過言ではない。
作曲者リヒャルト・シュトラウスは、自分の葬式で、このオペラの三重唱を流してくれと言い残した。実際、ショルティの指揮で演奏されたのだが、もしこのオペラ映画を知っていたら、「あのメンバーで演奏してくれ」と、まちがいなく遺言したと思う。
〈敬称略〉
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