2021.05.20 (Thu)
第313回 1705年12月、リューベックにて(3)

▲1~2回で終わるかと思いきや、そうはいきませんでした。
もう少し、このCDから広がる話がつづきます。
ナクソス・ミュージック・ライブラリーは、こちら。
(前回より)
◆ブクステフーデとバッハは「会っていない」?
CD『1705年12月』のオルガニスト、マヌエル・トマディンがライナーノーツで綴っている、「このとき、バッハとブクステフーデが、お互いに自己紹介しあった可能性は低い」「2人が出会うことはなかったと思われる」には、それなりの根拠もあるようだ。
トマディンによると、バッハの次男、C.P.E.(カール・フィリップ・エマヌエル・)バッハが、後年に父から直接に聞いた話として、リューベックでのバッハは「active listener」(熱心な聴き手)だったと書いているというのだ。
トマディンはこの表現を「不思議な定義」だとし、ゆえに2人は直接には知り合わなかったと推測している。
そしてトマディンは、「バッハは、ブクステフーデが嫉妬して外部に漏らさなかったアドリブ技術や細かいパッセージ演奏、音域や音列などを身につけるため、自己紹介することなく、こっそり聖歌隊のなかに潜り込んだり、教会の隅でその演奏を聴くことを好んだ」と、見てきたようなことを書いている。
だが、これも荒唐無稽な話とはいえないのだ。
まず、トマディンがいう”エマヌエルが父から聞いた話”とは、バッハの死後、エマヌエルと、バッハの弟子アグリコーラによってまとめられた『故人略伝』の記述を指していると思われる。初出が1754年なので、バッハの没後4年目、史上最初のバッハ伝である。
このころは、父バッハよりも、次男エマヌエルのほうが有名で、“大バッハ”の敬称も、次男に冠せられていた。それだけに、当時としては注目の記録だった。
そこには、たしかに、こんなふうに書かれている。
「このアルンシュタット時代のある日、彼はできるだけ多くのすぐれたオルガニストの演奏を聴きたいといういつにない強烈な衝動に突き動かされて、リューベック目指して、しかも徒歩で、旅立った。同地のマリア教会のオルガニストとして名の高かったディートリヒ・ブクステフーデの演奏を盗み聴きするためである。彼はこの地にほとんど三カ月近くも滞在して、それなりの成果をあげ、そしてふたたびアルンシュタットへ戻ったのである」(『バッハ叢書10 バッハ資料集』より、白水社刊、酒田健一訳)
この「盗み聴き」の部分が、「active listener」(熱心な聴き手)なのだろう。
そして、この『故人略伝』をもとに、さらに追加取材や新資料を加えて、第三者によって書かれた最初の本格評伝が、ヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749~1880)による『バッハの生涯、芸術、および芸術作品について』である(1802年初出)。
フォルケルはオルガニストで、音楽研究家でもあった。バッハ逝去の前年に生まれたので、長じても周囲にはバッハを直接知るひとが、まだたくさんいた。また、次男エマヌエルには往復書簡による”直接取材”を敢行している。
そのフォルケルも、同書でこう綴っている。
「ほとんど三カ月のあいだ、彼(バッハ)は当時きわめて高名で事実練達なこのオルガニスト(ブクステフーデ)を熱心に聴き、大いに知識をふやしてからアルンシュタットに帰っていった」(白水Uブックス『バッハ小伝』、角倉一朗訳)
この部分は、岩波文庫版では、こう訳されている。
「そのころ非常に有名で、実際に熟練したこのオルガニストの演奏を、彼はまる三カ月近くも、ひそかに傾聴しつづけ、いろいろと知見を拡めて、アルンシュタットへ帰った」(岩波文庫『バッハの生涯と芸術』、柴田治三郎訳)
ただし、この岩波文庫版には訳者の訳注が付いていて、「(バッハは)この大家と個人的にも接触して、いろいろと啓発されたものと考えられる」と、記されている。
しかしエマヌエルもフォルケルも、「盗み聴き」「熱心に聴き」「ひそかに傾聴」と書くだけで、「指導を受けた」とか「交流をもった」とは、書いていない。
特にエマヌエルは、父をたいへん尊敬し、崇めていた。父バッハが”音楽の父”とまで称され、世界中で演奏され、教科書に載り、300年以上も愛されつづけているのは、ひとえに、この次男のおかげといっても過言ではない。よって、ほかの箇所の記述を見ても、いかに父が、多くの先達から学び、勉強していたかを、はっきり書いている(リューベック以前に、ブクステフーデも、すでに勉強の対象だった)。
それだけに、もしブクステフーデほどの巨匠と直接交流があれば、当然ながら父からその思い出話を聞き、『故人略伝』にも、はっきりそう書いていたと思う。
この当時、教会の”音楽監督”(オルガニスト)は、世襲制、もしくは血族で占めるのが通常だった。バッハ一族も、故郷アイゼナハでは多くが教会オルガニスト、宮廷楽師、町楽師(父)などを占めていた。そういえば、オペラで有名なプッチーニも、先祖は、代々、ルッカの教会オルガニストだった。モーツァルトもベートーヴェンも親は宮廷楽師だった。かつて音楽とは”家業”だったのである。
このあたり、日本の歌舞伎界に似ていると思えば、当たらずとも遠からずだろう。
そうなると、作曲法やオルガン演奏法、その管理システム、鑑定法などは、必然的に”専売特許”の様相を呈し、血族内の守秘事項のようになる。
よって、トマディンが綴ったように、バッハが求めていたもの(作曲や演奏技法など)を、ブクステフーデは「嫉妬して外部に漏らさなかった」可能性は十分にある。バッハ自身も同じ音楽一族の出身だから、そのことはわかっていただろう。突然、自分のようなよそ者の若造が巨匠に指導を求めても、そう簡単に応じてくれるはずがないことも、理解していたはずだ。
よって、エマヌエルやトマディンの記述も、それなりに納得がいくのである。
だが、もしそうなら、多くのバッハ伝は書き換えられなければならない。
たとえば、前々回で紹介した『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(磯山雅著、講談社学術文庫/初出は1985年)には、こう書かれている。
「ブクステフーデもこの遠来の若者に注目し、この地にとどまって自分の後継者になってくれないかと、申し出たといわれる。バッハはこの提案にさぞ心を動かされたにちがいないが、その申し出に付随する、自分の三十歳の娘と結婚するようにという条件は、のむことができなかった」
これは、バッハ伝によく登場する有名な挿話だ。
先述のようにオルガニストは世襲制が多かった。ブクステフーデも、先代フランツ・トゥンダー(1614~1667)の娘と結婚し、義理の息子となって聖マリエン教会オルガニストを継いだのだ。
ところがブクステフーデにも男子は生まれなかったようだ。
そこで、バッハを娘のマリア・マルグレータの婿に迎え、あとを継がせようとした――多くのバッハ伝はそう綴っている。
婚期を逃した娘のために、バッハを追いかけまわす老父の姿が目に浮かぶようだ。
しかし、「2人が出会うことはなかった」のなら、これらの記述もなかったことになる。
では、実際にはどうだったのか。
実は、ブクステフーデには、娘の婿として、バッハ以前に白羽の矢を立てた相手がいた。それは、あのヘンデルと、彼の親友の作曲家、ヨハン・マッテゾンだった。
2人は定職にありつけるかもしれないとの野心を抱いて(?)、1703年にリューベックを訪れた。このとき、やはり老巨匠は、おなじ条件を出した(どちらかといえばマッテゾンのほうが狙われていた)。
だが当時、マッテゾンは22歳、ヘンデルに至っては18歳。さすがに無理だった。もしこのときヘンデルが結婚してリューベックに住み着いていたら、ハノーファーやロンドンに行くこともなく、音楽史は変わっていただろう。
バッハがリューベックを訪れたのは、その2年後である。同業者だけに、おそらく聖マリエン教会の就職条件を、バッハは知っていただろう。ヘンデルの件も、噂で聞いていたのではないか。よって、リューベックで、へたにブクステフーデに接触すると、無茶な縁談を持ち出され、身動きがとりにくくなる。ブクステフーデには直接会わず、教会の隅で、「熱心な聴き手」に徹して「盗み聴き」していたほうがいい、アルンシュタットには意中のひと、マリア・バルバラが待っているのだから――慎重にことを運ぶ彼の姿が目に浮かばないだろうか。
そして、そのほうが、いかにもバッハらしいと、わたしは思うのだが。
ただ、会っていなかったとしても、4カ月近くも同地にいたわけだから、少なくとも、「夕べの音楽」や礼拝などで、ブクステフーデの曲や演奏は、嫌というほど聴いたにちがいない。では、CD『1705年12月』のオルガン曲以外に、バッハは、どんな音楽を聴いたのだろう。
これも、”おそらくこんな曲が演奏されただろう”とのコンセプトによる「Abendmusik夕べの音楽」の再現アルバムが何枚か出ている。
ただし、グローヴ音楽大事典によれば、「夕べの音楽」で「ブクステフーデの現存作品のいずれかが用いられた可能性はあるが、その確証のある作品は一曲もない」と、またまた身も蓋もないことが書かれているのだが・・・・・・。
〈敬称略/この項つづく〉
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