2021.06.30 (Wed)
第317回 小林亜星さん、逝く。

▲CD「小林亜星CMソング・アンソロジー」(テイチク)
ほかにアニメ集、TVサントラ集もあり。
ちなみにブリヂストンのCM曲《どこまでも行こう》は、岩井直溥によって、
ブリヂストン吹奏楽団久留米のために、吹奏楽編曲されている。
作曲家の小林亜星さんが亡くなった(享年88)。
わたしは、亜星さんとは、数回、すれちがうようにしてお会いしただけだが、たいへん印象に残っていることがある。
たしか、2010年ころのことだったと思う。
西荻窪の小さなスナックで、河辺浩市さんを囲む会が開かれた。
河辺浩市さん(1927~2014)は、日本を代表するジャズ・トロンボーン奏者だ。東京藝大の卒業で、一時、N響のサブ団員(研究員)だったこともある。
藝大時代の同級生・黛敏郎とは長年の親友関係で、黛のほとんどの映画音楽に演奏参加している。たとえば、小津安二郎監督『お早よう』(1959)の、子どもたちのオナラの音なども河辺さんの”演奏”である。
映画『嵐を呼ぶ男』(1957)では、ドラムスの石原裕次郎と”共演”した(編曲も河辺さん)。
越路吹雪リサイタルの、事実上の音楽監督としても、長年、活躍した。
だが、吹奏楽にかかわっている方にとっては、コンクール課題曲《高度な技術への指標》(1974年度)や《シンフォニック・ポップスへの指標》(1975年度)の作曲者としておなじみだろう。
特に前者などは、佐渡裕&シエナ・ウインド・オーケストラによってリバイバル・ヒットし、近年ではTVやラジオのバラエティ番組のBGMとしてよく流れている。
”吹奏楽ポップスの父”岩井直溥さんは藝大の1年先輩で、戦後、アーニー・パイル楽団で一緒だった時期もある。
そんな河辺さんに、むかしの音楽界の思い出を語ってもらう、小さな会だった。
十数人の参加者だったと思う。
ひととおりの話が終わり、雑談もすんで閉会となるころ、ドアを開けて、大柄な男性が、入ってきた。
一見して、小林亜星さんだとわかった。明らかに常連のような雰囲気で、気軽に入ってくる。
なぜ亜星さんほどの大作曲家が、このような(失礼!)西荻窪の奥まった店にやってきたのか、不思議だった(あとで知ったのだが、ポピュラー音楽関係者の間では知られたお店だった)。
亜星さんは、奥に座っている河辺さんを見つけるや、
「あれ? 河辺さんじゃないですか!」
と声をかけ、直立不動とまではいかないが、突然、シャンとなって、
「おひさしぶりです。お元気そうですね」
と頭を下げて挨拶している。
わたしは亜星さんとは初対面ではなかったが、あんなに畏まった姿を見るとは思わなかった。
亜星さんは、あの体格そのものの、剛毅な性格でも知られていた。
1994年、日本音楽著作権協会(JASRAC)で、不正融資事件が発覚した。古賀政男の財団に巨額の無利子融資をおこなっていたのだ。このとき、亜星さんは、記者会見を開き(ご自身も理事だった)、ものすごい剣幕でJASRACを糾弾した。
わたしもその記者会見に行ったのだが、”作曲家”のイメージを覆す凄まじい形相に驚いた記憶がある。これがほんとうに、《この木なんの木》や、ニッセイのおばちゃんの歌を作曲したひとなのかと、震え上がったものだ。
たしか、あの後、JASRACを監視する組織も立ち上げたはずだ。
その後、同業の服部克久氏に対し、自作《どこまでも行こう》(ブリヂストンCMソング)を剽窃したと訴え、最終的に最高裁まで争い、勝訴を勝ち取っている(ちなみに一審では亜星さん側の請求は棄却されていた)。
まさに、亜星さんとは、TVドラマ「寺内貫太郎一家」で演じていた、あのままのカミナリ親父ではないかと思われるほどだった。
それだけに、河辺浩市さんの前で畏まっている亜星さんの姿が、意外だったのだ。
さっそく亜星さんに、
「河辺さんとはお親しいんですか?」
と聞いてみた。
すると亜星さんは、おおむね、このようなことを語った。
「河辺さんは、たいへんな方なんだよ。このひとがいなかったら、オレたちの仕事は、ほとんどできない。日本で最高のトロンボーン奏者。ジャズもすごいけど、スタジオ仕事がすごい。CMでも映画音楽でも歌謡曲でも、スタジオに入って、その場で突然、譜面を渡されて、リハもなく、せ~の、って始めて、イッパツでOKだもん。いったい、オレのCMを、何曲吹いてくれましたかねえ」
(このとき、河辺さんが演奏参加した亜星作品を、聞いておけばよかった!)
亜星さんに絶賛されながら、河辺さんは照れた表情をされていた。
同時に、決して表に名前の出ないスタジオ・ミュージシャンに対し、畏まってキチンと挨拶をしている亜星さんを見て、すてきなメロディを次々に生み出せるひとは、やはりどこかちがうんだなあと、気持ちがあらたまったものだ。
亜星さん、あちらで河辺浩市さんが待ってるはずですから、また一緒に楽しくスタジオ仕事をしてください。
〈一部敬称略〉
◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。
全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。
限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(土)23時・FMカオン、毎週(日)正午・調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。
パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。
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2021.06.22 (Tue)
第316回 新刊紹介『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』

▲『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(新潮社図書編集室・刊)
『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(新潮社図書編集室:発行)が4月に刊行された。
正式には、昨年が創立60周年だったので、2020年中の刊行を目指していたのだが、新型コロナ禍により、昨年は長期にわたって活動休止となってしまった。その関係で、約1年遅れでの刊行となった。
東京佼成ウインドオーケストラの歴史で特に欠かせないのは、同団の桂冠指揮者、フレデリック・フェネル(1914~2004)の存在だが、彼に関しては、すでに多く語られている。
わたしは、同書のドキュメント部分を取材・執筆するなど、すこしばかり関わってきた。そこで、TKWOをあまりご存じない方のために、中身をご紹介がてら、創設当初の余談を綴ってみたい。
東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)は、その名のとおり、宗教法人・立正佼成会が擁するプロ吹奏楽団である。
宗教団体が創設したのだから、当然ながら、宗教との縁がある。それは、あるひとりの会員(信者)から、はじまっている。元・陸軍軍楽隊(戸山学校)のクラリネット奏者、河野貢造(1909~1996)である。
河野は、陸軍戸山学校の卒業時、首席にあたる「銀時計」を授与された”優等生”であった。敗戦時は准尉だった。
敗戦後は、禁衛府(敗戦直後の短期間だけ存在した皇族警護組織)音楽隊やNHK、占領軍キャンプなどで演奏していたが、持病の肺結核が悪化。音楽どころではなくなった。
そこで河野は、そのころに大きくなりはじめていた宗教団体、立正交成会(当時の名称)に入会し、仏教(法華経)を信心するようになる。すると、持病が治ってしまった。
感激した河野は、教団内の楽器経験者を集め、陸軍時代の仲間にも加わってもらって、いまでいうサークル活動のような形で楽団を結成する。雑多な楽器を集めた即席楽団だったが、これが大好評で、引っ張りだことなった。
そのうち、また持病が再発。今度は長期の闘病生活になった。
そこへ、開祖・庭野日敬(1906~1999)が、お見舞いにきてくれた。またまた大感激した河野は、いっぺんに回復する。
二度までも命を救われた河野は、教団への感謝もかね、仏教精神を音楽で広めたいと考えるようになる。そのためには、今度は本格的な吹奏楽団を結成したい。しかし、病弱な自分ひとりでは、とてもできない。
そこで、陸軍時代の上司で中尉(副楽長級)だった、水島数雄に声をかけた。
当時、水島は、千葉方面でアマチュア吹奏楽の指導や連盟役員をやっていたほか、船橋ヘルスセンター少女音楽隊(詳述する紙幅がないが、本格的なコンサート・バンド)の指揮者もつとめていた。
河野の要請を受け入れた水島は、決意を固め、元陸軍軍楽隊のふたりで、「佼成吹奏楽団」の結成に奔走。1960(昭和35)年5月3日、正式発足する。
演奏全体は、楽長・水島数雄が指導。基本教育や運営面は河野があたることになった。
だが、教団内に呼びかけて集まったメンバーは、たった「15名」。しかも、楽器経験者は「1人」しかいなかった――。

▲創設当初(1964年)の地方公演の様子~『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』より
(C)東京佼成ウインドオーケストラ【禁転載】

▲地方公演。ホールのない土地では、映画館で開催した。~『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』より
(C)東京佼成ウインドオーケストラ【禁転載】
この創設から数年間の詳細な活動記録が、数十の段ボール函に詰められ、TKWO事務局の倉庫の奥に眠っていた。
それまで誰も触れたことがなかったのだが、「60年史」作成の資料を収集していた事務局スタッフが「もしや」と思って開けてみたら、”宝の山”だった。
わたしも、知らせを受けてすぐに飛んで行ったが、たしかに驚くべき資料だった。一瞬、どこかの吹奏楽部の”部活日誌”かと見紛う。実に細かく、連日の活動内容や、出席・欠席・遅刻者、来訪者などが書き込まれていた(毎朝8時半に集合し、午後4時過ぎまで、練習や楽典講座、楽器メンテナンスなどに徹している)。
それらの詳細は「60年史」の記述に譲るとして、わたしが意外だったのは、かなり早い時期から、教団外部での活動を本格的にこなしていることだった。もちろん、教団行事での演奏も大量にある。立正佼成会の宣伝や会員獲得の目的もあっただろう。だが、その一方で、地元(杉並)のイベントや、銀行の運動会、美術展での開会式などでの”外部演奏”もかなりの数だ。
また、地方公演に行くと、現地の教団支部がトラックや宿泊などで協力しているが、演奏会そのものは完全にオープンで、いわゆる”宗教色”は、まったく感じられない(団員自ら楽器運搬をおこない、ホールがない土地では、映画館で演奏した)。
終演後のアンケートも保存されていたが、用紙の最後に「会員/非会員」のどちらかに〇を付ける欄があり、「非会員」も多い。総括報告書などを見ても「非会員の聴衆が多かったことは、本来の目的に適っていてよかった」などと書かれている。
地方の公立中学校でも、さかんに演奏会(鑑賞教室)が開催されており、生徒たちの感想文が保存されていた。どれを読んでも、ナマの音楽に触れた喜びが素直に書かれていた。
つまりTKWOは、宗教団体によって創設されたが、少なくとも外部に対して宗教を強制しなかった。河野も、「無理に布教活動をせずとも、音楽の感動が自然と仏教精神につながる」と考えていたフシがある。
TKWOは、立正佼成会にまつわるオリジナル曲も、委嘱初演している。
たとえば、ロバート・ジェイガー作曲、交響曲第2番《三法印》(1976年初演、開祖・庭野日敬の古希記念)。
あるいは、アルフレッド・リード作曲《法華経からの3つの啓示》(1983年初演、庭野日敬の喜寿記念)や、《サリューテイションズ!》(1988年初演、立正佼成会創立50周年記念)など。
なかでも、上記《法華経からの3つの啓示》は、全3楽章の大曲だが、たいへんな名曲で、吹奏楽コンクールでも演奏されている。
これを聴くと、リードは「The Lotus Sutra」(法華経)から仏教特有のインスピレーションを感知したのかもしれないが、結局わたしたちの前に屹立しているのは”素晴らしい音楽”でしかないことに気づく。
わたしは不勉強につき、法華経でそのような精神がうたわれているのかどうか、まったく知らない。ただ、15人ではじまり、60年後のいま、世界最高レベルにまで育った吹奏楽団が、立正佼成会に存在したことは、たいへんな僥倖だったと思う。
それが、たったひとりの信者・河野貢造の熱意によってはじまったことも、いまとなっては僥倖どころか、奇跡だったような気もするのである。
『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』には、そんな奇跡も綴られている。
〈敬称略〉
■『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)は、全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。
限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
◆毎週(土)23時・FMカオン、毎週(日)正午・調布FMにて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。
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2021.06.01 (Tue)
第315回 1705年12月、リューベックにて(終)

▲ブクステフーデ《ラ・カプリッチョ―サ変奏曲》+バッハ《ゴルトベルク変奏曲》
(クリスティーネ・ショルンスハイム/チェンバロ) Capriccio
※ナクソス・ミュージック・ライブラリーは、こちら。
◆《ゴルトベルク変奏曲》の出自
バッハは、《クラヴィ―ア練習曲集》と題する楽譜集を、全部で4巻、刊行している。どの巻も複数曲が収録されているが、第4巻(1741年10月刊行)は長大な1曲のみ。曲名は《2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏より成る~愛好家の心の慰楽のために》という。現在、通称《ゴルトベルク変奏曲》BWV988と呼ばれている曲だ。
「アリア」とは、《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィ―ア小曲集》(1725年版)に記された小曲の旋律を指す。
ドレスデンに赴任していた前ロシア大使、ヘルマン・カール・カイザーリンク伯爵は、お抱えのチェンバロ奏者、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727~1756)を連れ、しばしばライプツィヒを訪れ、バッハのレッスンを受けさせていた。
あるとき、不眠に悩む伯爵は、バッハに、「穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィ―ア曲を、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申し出た」(フォルケル『バッハ小伝』、角倉一朗訳、白水Uブックス)。
そこで書かれたのが、この《アリアと様々な変奏》である(と、いわれている)。
この逸話は、しばしば不眠症の伯爵が「眠れる音楽を書いてくれと要求した」かのようにつたわっているが、そうではない(グレン・グールドの名録音が、この逸話に拍車をかけたかもしれない)。上記のように、伯爵は「気分が晴れるような」曲を望んだのである。
この逸話は、例のフォルケルの記録で有名になったものだが、いまではマユツバものと見る向きも多い。
というのも、この当時、ゴルトベルクは13~14歳の少年である(伯爵の稚児さんだったか)。たしかに、ヴィルトゥオーゾではあったようだが、それにしても、このような難曲を、その若さで弾けただろうか、というのだ(楽譜通りにリピートすると1時間以上かかる)。
だがとにかく伯爵はこの曲を気に入って「私の変奏曲」と呼び、「聴いて飽きることがなく、そして眠れぬ夜がやってくると永年のあいだ、『ゴルトベルク君、私の変奏曲をひとつ弾いておくれ』といいつけるのだった」と、これまた見てきたようなことを書いている(同上、フォルケルの記録より)。
そもそもゴルトベルクは1745年ころにカイザーリンク伯爵のお抱えを解かれたといわれている。だとすれば彼が弾いたのはせいぜい4~5年のことで、「永年のあいだ」弾いたとの記述はおおげさなようにも思える。
だがフォルケルは、ここで当事者でなければ知り得ない事実を2つ、書いている。
ひとつは報酬だ。
「バッハはおそらく、自分の作品にこのときほど多くの報酬を得たことはなかったであろう。伯爵はルイ金貨が百枚詰まった金杯をバッハに贈ったのである」(同上)
もうひとつは、出版について。
「この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者が私蔵版においてそれらを注意深く訂正した」(同上)
この「バッハが訂正した私蔵版」は1975年にストラスブールで発見された。たしかにバッハ自身の筆跡で、多くの訂正が書き込まれていた(現在、パリ国立図書館蔵)。フォルケルの記述は正しかったのである。
前述のように、フォルケルがこの記録を書いたころ、バッハを直接知るひとは多くが存命中だったし、なによりも、次男のC.P.E.バッハと往復書簡を交わして最新情報を仕入れていた。あながちマユツバとは、言い切れないかもしれない。
◆驚愕の〈第30変奏〉
で、その《アリアと様々な変奏》だが、冒頭に32小節の〈アリア〉(主題)が奏でられ、次から〈第1変奏〉~〈第30変奏〉がつづく。そして最後に〈アリア〉がリピートされて終わる。いまふうにいうと、全部で「32トラック」で構成されていることになる。途中、調性がかわる変奏もあるが、基本は「ト長調」である。そのほか、本曲の構成要素はあまりに面白すぎるのだが、曲の分析が目的ではないので、略す。
問題は、大トリの〈第30変奏〉である。
ここで突然、〈アリア〉の変容ではない、まったく別の旋律、それも「戯れ歌」が2曲も登場してカノンを構成し、度肝を抜かされる(それでいて、ちゃんと〈アリア〉変奏もからんでいるのが、バッハのすごいところ)。
この部分について、ピアニストのイリーナ・メジューエワが、自著でうまく解説している。
「第29変奏を流れ的にうまく弾いたとしても、その流れに乗ってしまったら、大体失敗します。ここでまた突然、厳しい世界に戻る。全体的に考えると、一番大事な曲ですね。最後の変奏曲。ガイド役、先生の役をやってきたバッハが、ようやくリラックスするところです。バッハが笑いながら、二つのテーマを使ったカノンを組み合わせている。しかも素材となったのは、すごく軽い、ある意味ばかばかしい内容の、当時のみんながよく知っていたポピュラーソングです」(イリーナ・メジューエワ『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』講談社現代新書)
その2曲とは《ひさしぶりだね、おいでおいで》と、《キャベツとカブがおいらを追い出した。母さんが肉料理にしてくれれば、家にいたのに》である。
これらは民謡のようなものだが、「ベルガマスカ」とも呼ばれた。「ベルガモ風の戯れ歌」だ。むかしから、イタリア北部のベルガモは「田舎くさい土地」として、からかいの対象だった。いまでいうと「ダサイタマ」みたいなものか。シェイクスピア『夏の夜の夢』第5幕第1場で、素人劇団が「ベルガモ踊り」を舞う(訳によっては「バカ踊り」とも)。要するに不器用の象徴である。有名なメンデルゾーンの劇付随音楽《夏の夜の夢》のなかの、〈道化師の踊り〉(ベルガマスク舞曲)が、その場面の音楽だ。
で、その2曲のベルガマスカのうち、ちょっと日本の唱歌を思わせるようなシンプルな旋律が《キャベツとカブ》である。
なぜバッハは、この旋律を使ったのか。
バッハ一族は、年に一度集まって、パーティーを開催していた。その際に歌ったらしい。こういう席での歌を「クォドリベット」という。ラテン語で「好きなものをご自由に」といった意味だ(よって、この〈第30変奏〉は〈クォドリベット〉と称されることもある)。バッハ自身にも、乱痴気騒ぎを音楽化した《クォドリベット》BWV524なる珍曲がある。
晩年のバッハは、一族の記録つくりに熱心だった。当時としては長命で65歳で亡くなったが、作曲時すでに56歳。この旋律は、バッハが一族の繁栄を祈願、回顧するテーマソングだったのだろうか。
わたしは、そうではないと思う。
バッハは、この曲で、かつて若き日に、ブクステフーデを聴くためにリューベックで過ごした実質3か月の日々を振り返っているように思えてならない。
◆ブクステフーデとの共通項
というのも、これも有名な曲だが、ブクステフーデに《アリア〈ラ・カプリッチョーサ〉と32の変奏》なるチェンバロ曲がある。この曲のアリア(カプリッチョーサ=気まぐれ)が、ベスガマスカ、《キャベツとカブ》なのだ。
専門家の解説では、「当時、この旋律は広く知られていた有名曲」だったので、バッハが採用したこと自体に深い意味はないようなニュアンスが多い。
たしかに《キャベツとカブ》で曲を書いた作曲家は、ほかにもいる。
もっとも有名なのは、フレスコバルディ(1583〜1643)のオルガン曲集《音楽の花束》(1635年)のなかの〈ベルガマスカ〉だろう。《キャベツとカブ》が、高尚な“教会音楽”となって鳴り響く。バッハ自身、若いころにフレスコバルディを研究していたから、この曲集で《キャベツとカブ》を知った可能性もある。
ハインリヒ・ビーバー(1644~1704)の《バッターリャ(戦闘)》(1673年)にも、酔っ払いを描く曲で、この旋律が使われている。
だが、バッハ《アリアと様々な変奏》と、ブクステフーデ《ラ・カプリッチョ―サ》には、同一旋律の使用以上に、共通点が多い。
*どちらもチェンバロ独奏用の変奏曲である。
*どちらも全「32トラック」で構成されている(当時としては異様な長さ)。
*どちらもト長調が基調となっている。
この「共通項」を意識して製作されたCDがある。
冒頭に掲げた、クリスティーネ・ショルンスハイム(チェンバロ)による、ドイツ「Capriccio」レーベルの新譜だ(2016年録音)。ここでは、ブクステフーデ曲とバッハ曲が、2曲ならんで収録されているのである。ショルンスハイムにとっては二度目の《ゴルトベルク変奏曲》収録だが、今回は、ブクステフーデ曲とのカプリングにしたのだ(品格と迫力が見事に同居した名演。お薦めします)。
彼女はライナーノーツで、バッハ曲は「ほかの作曲家よりも、ブクステフーデの影響が大きい」とはっきり書いている。いくつか共通点を掲げているのだが、そのなかのひとつに、「どちらも変奏が進むごとに、難度が規則的に上がっていく」構成をあげている。
たとえば「ブクステフーデ曲は第24パルティータで24/16拍子になり、バッハ曲は第26変奏で18/16拍子になる」。そのほか、「ブクステフーデ曲の第31パルティータと、バッハ曲の第28変奏におけるトリル風奏法の類似」、「ブクステフーデ曲の第18パルティータにおけるバグパイプを思わせるオスティナートの低音と、バッハ曲の第30変奏〈クォドリベット〉における民俗性」等々・・・。
◆リューベック回想記
バッハは、カイザーリンク伯爵から委嘱を受けた際、まず、自分の56年の人生を振り返ったような気がする。山あり谷ありの人生を、次々に展開する変奏曲に託そう、と。
そして、20歳の頃、1705年12月(から2月ころまでの間)に、リューベックで聴いた、大先輩ブクステフーデのチェンバロ変奏曲《ラ・カプリッチョ―サ》を思い出した。そうだ、あの手法でいこう。シンプルなアリアが、次々に変容し、いつまでたっても終わらない、長いけど素晴らしい曲だった。あのころは若かった。よくまあ、10日間も歩き通せたものだ。リューベック、聖マリエン教会の隅で、こっそり、オラトリオやカンタータやオルガン曲を聴いては、メモした。時折は、町内の屋敷で、チェンバロの気さくなコンサートもあり、何回も潜り込んだ。そのとき聴いた、あの《キャベツとカブ》変奏曲の楽しかったこと!
バッハの筆は進んだ。紙幅があるので詳述しないが、ある「規則」に従って変奏は整然と進み、ついに最終〈第30変奏〉にたどりつく。ここでバッハは、青春時代の思い出を、そのまま曲にした。ブクステフーデが変奏曲の主題にしていた《キャベツとカブ》である。ちょうどアルンシュタットで、最初の妻、マリア・バルバラと知り合ったころだ。その後、彼女は若くして急死した。死因は不明だった。
ふたたびメジューエワの解説。
「それまではカノンは一つのテーマだったのが、ここでは二つのテーマを扱っていて、技術的、構造的にも、あるいは聴く能力も、演奏する能力も含めて難しい。結論というか、ある意味ここが頂点と言ってもいい。バッハらしいなと思うのは、一番難しいことをやるために、あえて軽い内容の歌を使うという、そのギャップです」(同上)
歌は軽いが、青春の思い出は消えずに、バッハの胸奥に深々と刻まれていた。
《ゴルトベルク変奏曲》こそは、1705年12月、リューベックでの日々をよみがえらせる青春回想記だったと、わたしは信じている。
〈敬称略/この項、終わり〉
※長々と失礼しました。
◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。
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