2022.04.25 (Mon)
第357回 ウクライナと「左手」(1)

▲2月新刊『国境を超えたウクライナ人』 ※リンクは文末に。
『国境を超えたウクライナ人』(オリガ・ホメンコ著/群像社刊)は、本年2月に刊行された。
さっそく読みはじめたら、すぐにロシアによるウクライナ侵攻がはじまった。まるで、この日を予期していたかのような刊行タイミングに、驚いてしまった。
なぜ、わたしが本書に興味をもったのかというと、ウクライナの作曲家、セルゲイ・ボルキエーヴィチ(1877~1952)について書かれていたからなのだが、その前に、本書のご紹介を。
著者、オリガ・ホメンコ氏は、日本近現代史および経済史の研究者、ジャーナリストだ。キエフに生まれ、キエフ国立大学文学部を卒業。東京大学大学院地域文化研究科で博士号を取得した。キエフ経済大学などで教壇に立ち、現在はキエフ・モヒラ・ビジネススクール助教授でもある。
2014年刊『ウクライナから愛をこめて』(群像社刊)が、「ウクライナ人が日本語で書いた」エッセイとして、話題になったので、ご記憶のかたもいるだろう(とてもいい本なので、強力推薦!)。
本書は、母国を飛び出し、国際的に活躍したウクライナ人9人+1人(なにものかは、読んでのお楽しみ)を紹介したミニ評伝集である。1人あたり10頁前後でコンパクトにまとめられているので、たいへん読みやすい(訳者名がないので、これも日本語で書かれたようだ)。
乳酸菌の効用を発見し、長寿研究の先駆けとなったイリヤ・メーチニコフ(1845~1916)。
1964年に、現役女性画家として初めてルーヴル美術館で個展を開催した、ソニア・ドローネー(1885~1979)。
ヘリコプターの生みの親、イーゴル・シコールスキイ(1889~1972)。
終生、日本に憧れ、パリ日本館に暮らしながら著述に明け暮れた、ステパン・レヴィンスキイ(1897~1946)等々……。
記述はとてもていねいで、エピソードもうまくまとめられている。
たとえば、前掲、シコールスキイがひたすら空を飛ぶ夢を追いつづける姿など、微笑ましくさえ感じる。ところが、アメリカにわたり、航空機開発会社を設立するが、資金繰りがうまくいかない。落ち込む気分を、趣味のチャイコフスキーなどの故国の音楽を聴いて慰めていた。
あるとき、母国の大作曲家・ピアニスト、ラフマニノフの訪米公演があると知り、大枚をはたいて出かけた。終演後、楽屋に挨拶に行き、資金難の状況をぼやくと、なんとラフマニノフは、その場で、当日の収入全額「5,000ドル」を貸してくれたという。後刻、会社が黒字になったとき、利子をつけて返済したそうだが、これなど、日本の落語か講談に出てきそうな話だ。
そういえば、彼が開発した「シコールスキイS61」を原型とする対潜ヘリコプター「シーキング」は、日本の自衛隊で採用されているそうである。
著者自身があとがきで綴っているように、ウクライナは海で囲まれていない内陸地で、古くから〈遊牧民がうろうろしていた地〉だった。それゆえ、〈時の政権の影響力の及ばない「国境」の端、あるいは「国境」というはっきりした線の引けないステップに移動して自由に生活していたコサックの人びともいた〉。
そういう土地で長く生きてきたウクライナ人は、よく〈わたしの家は一番端っこ〉と言うらしい。その背後には、〈自由に暮らしたいからほっといてほしい〉との思いがこめられている。〈集団としてではなく、個人や家族で生き延びたい〉のだと。
もう、この数行だけで、今回の戦争の遠因がわかろうというものだ。「自由に暮らしたいからほっといて。集団は嫌い」と、ねがう草原の民のくにに、ロシアは侵攻したのである。
ところで、わたしが本書に興味をもった理由――作曲家、ボルキエーヴィチだが、クラシック音楽ファンでも、この名前を知るひとは少ないかもしれない。
だが、そもそもウクライナは、たいへんな”音楽家名産地”なのだ。
もっとも有名なのは、バレエ《シンデレラ》《ロミオとジュリエット》、音楽物語《ピーターと狼》でおなじみ、プロコフィエフ(1891~1953)だろう。
彼は、帝政ロシア時代末期に、ウクライナ東部、ドネツィクで生まれた。現在、親ロシア武装勢力によって「ドネツィク人民共和国」の樹立を宣言している地域だ。ちなみに、ドネツィク国際空港は、通称「セルゲイ・プロコフィエフ国際空港」と称されている。
また、そのプロコフィエフの少年時代に、作曲を指導したグリエール(1875~1956)も、ウクライナの出身である。キエフ大公国時代の口承叙事詩を題材にした交響曲第3番《イリヤ・ムーロメツ》や、バレエ《赤いけしの花》《青銅の騎士》などで知られる(日本では、吹奏楽コンクールでの人気曲なので、中高生のほうが詳しいかもしれない)。
現代で知られるウクライナの作曲家といえば、なんといっても、シルヴェストロフ(1937~)だろう。当初は先鋭的な前衛音楽を書いていたが、1970年代にソ連作曲家同盟を除名されると、西側に活動の場を移し(現在はドイツ在住)、一転、ロマンティックな、ときにはムード音楽と紙一重のような、素朴で美しい音楽を書くようになった。先日、東京都交響楽団が、彼の《ウクライナの祈り》を演奏したとのニュースもあった。
ちなみに、ゼレンスキー大統領が米議会でオンライン演説した際、最後に戦火のニュース映像が流れた。このバックで流れていた音楽が、やはりウクライナ出身の作曲家、スコリク(1938~2020)の名曲、《メロディ》(映画『ハイ・パス』より)である。
そのほか、世界的ピアニストのリヒテル、ホロヴィッツ、ギレリスといった巨匠たちも、ウクライナ生まれだ。
余談だが、チャイコフスキーはロシア人だが、父方の先祖はウクライナ・コサックである。彼の交響曲第2番ハ短調は、全編がウクライナ民謡(もしくはウクライナ風の旋律)で構成されており、そのため、〈小ロシア〉との”愛称”が付けられた。ところが、この「小ロシア」はウクライナの「蔑称」であると、オリガ・ホメンコ氏が本書のなかで、はっきり書いている。
というわけで、回り道ばかりしてきたが、本書で取り上げられたウクライナの作曲家、ボルキエーヴィチだが、彼は、なぜか、《ピアノ協奏曲第2番~左手のための》や、《左手のピアノと管弦楽のためのロシア狂詩曲》など、「左手のピアノ曲」を多く書いているのである。
〈この項、つづく〉
□『国境を超えたウクライナ人』は、こちら。
◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。
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2022.04.14 (Thu)
第356回 高昌帥〔コウ・チャンス〕、そして洪蘭坡〔ホン・ナンパ〕

▲(左)シオン、(右)シエナ ともに高昌帥の”個展”
※リンクは文末に。
高昌帥〔コウ・チャンス〕(1970~)のコンサートが、大阪と東京でつづけて開催される。
高昌帥は、いうまでもなく、主として吹奏楽の分野で活躍している大人気作編曲家、指揮者だ。大阪音楽大学教授もつとめている。全日本吹奏楽コンクール課題曲も、《吹奏楽のためのラメント》(2001年度/公募)、《吹奏楽のための「ワルツ」》(2018年度/委嘱)の2曲を書いている。
コンサートは、まずは4月24日(日)に大阪で、Osaka Shion Wind Orchestraの第142回定期演奏会。
1週間後の5月1日(日)に東京で、シエナ・ウインド・オーケストラの第52回定期演奏会。
どちらも、当人の指揮で、曲目も自作が中心なので、一種の“個展”といってもいい。まったくの偶然らしいが、このようなコンサートが、東西で連続して開催されるのは、きわめて珍しい。高昌帥は主に関西で活躍しているひとなので、特に東京でのコンサートは、貴重な機会である。
近年、全国の吹奏楽コンクールだけで600回以上も演奏されている大ヒット曲《吹奏楽のためのマインドスケープ》や、全5楽章の超大作《吹奏楽のための協奏曲》なども、東西双方で演奏される(もちろん原曲ノーカットで)。
曲目の詳細は各楽団のサイト(文末にリンクあり)でご確認いただきたいが、ちょっと目を引く曲が、東京(シエナWO)の曲目にある。
それが、《故郷(ふるさと)の春》(高昌帥編曲)である。韓国を代表する童謡で、”第二の国歌”と呼ぶひともいる。北朝鮮でも歌われているらしいので、”朝鮮半島を代表する童謡”といってもいいかもしれない。「わたしの故郷は花の里……あのこどもの日々が懐かしい」と、生まれ故郷を懐旧する曲で、日本の唱歌《故郷》のような、素朴で美しい曲である。
まさか、この曲が、日本のプロ吹奏楽団の定期演奏会で取り上げられるとは、夢にも思わなかった。実は、わたしは、当日のシエナWO定期演奏会のプログラム解説を執筆したのだが(当日、簡単な解説トークも予定)、紙幅の都合で、概要しか書けなかった。ここでもう少し詳しく、この曲と作曲者をご紹介しておきたい。
作曲したのは、洪蘭坡〔ホン・ナンパ〕(1897~1941)。
大正から昭和にかけて、日本と朝鮮で活躍した作曲家。さらには朝鮮で最初のヴァイオリン奏者。小説家でもあった。とにかく”発信力”の旺盛なひとだったようだ。
彼は、YMCA中学部で声楽やヴァイオリンを学び、幼少期より音楽を愛好した。だが中学入学直前の1909(明治43)年に、安重根による伊藤博文暗殺事件が発生、翌年に日韓併合が正式に発布される。多感な少年は、必然的に独立運動に心を寄せるようになった。
1918(大正7)年、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の予科に入学。翌年に通称「三・一運動」が発生し、宗教指導者や知識人たちが、日本からの自主独立を宣言する。これは全国規模の運動となり、日本官憲が大々的な弾圧に乗りだして多大な犠牲者が出た。洪蘭坡もすぐに帰国し、運動に参加する。これ以降、彼は、日本官憲に目をつけられ、何回となく逮捕・拘禁・拷問され、次第に健康を害するのである(東京音楽学校の本科からも進学を拒否された)。
このときに生まれた彼の代表作が、有名な歌曲《鳳仙花》である(金享俊作詞)。これは、以前に書いていたヴァイオリン曲《哀愁》に、学友が詩をつけたものだ。「垣根に咲く鳳仙花 哀しいその姿」と、雨風に耐えて咲く花をうたった曲で、自然と、独立運動の象徴歌のようになった。
この曲は、日本でも加藤登紀子がうたっているので、ご存じの方も多いと思う。
やがて東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)に入学。その一方で、新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)でもヴァイオリンを弾いた。アメリカのシンシナティやシカゴにも留学した。帰国後は、ヴァイオリン3丁による「蘭坡トリオ」を結成し、様々な曲をピアノ伴奏で演奏した。ジャズにも早くから取り組んでいる。
その間、保育学校の教員時代に、童謡をたくさん作曲した。それらは、1929~31年に刊行された、彼の『朝鮮童謡百曲集』にまとめられている。そのなかの1曲が、今回演奏される《故郷の春》である(李元壽作詞)。それまで、朝鮮半島には、子どものためにつくられた「童謡」は、まだ少なかったという。
この曲を、高昌帥が、“クラリネット・ソロと吹奏楽による協奏曲”スタイルで編曲した。冒頭、《故郷の春》の美しい旋律がクラリネット・ソロによってシンプルに奏でられる。やがて超絶技巧の変奏となり、カデンツァ~クライマックスになだれこむ。
初演は、京都市交響楽団のクラリネット奏者・玄宗哲のソロ、編曲者自身が指揮する大阪朝鮮吹奏楽団だった。今回は、シエナWOのコンサートマスター・佐藤拓馬がソロをつとめる。素朴な響きが、壮大に発展変容する編曲の面白さを、ぜひ、多くの方々に味わっていただきたい。
ちなみに、《鳳仙花》も《故郷の春》も、ともに日本のカラオケに入っている。
ところで、洪蘭坡は、音楽活動をつづけながらも、その間、独立運動から離れることはなかった。そのため、1937年に拘留され、2カ月以上におよぶ拘留、取り調べ、拷問を受けた。釈放されたときには、かつて患った肋膜炎が再発。以後、回復の見込みもなく、療養、入院生活をおくるが、1941年8月、44歳の若さで亡くなるのである。
そんな洪蘭坡だが、つい最近まで、韓国では演奏禁止だった。盧武鉉〔ノ・ムヒョン〕大統領が、在任中の2003~08年に、日本統治下時代の“親日派”と、その子孫を徹底的に排除する“親日派狩り”をおこなった。洪蘭坡は、その“親日派”名簿に名前が載っていた。かつて日本で活動し、軍歌や天皇を讃える歌をつくっていたことが問題視されたようだ。
そのため、一時期、《鳳仙花》も《故郷の春》もうたえなかった。洪蘭坡の生まれ故郷では、毎年「蘭坡音楽祭」が開催されていたが、名称変更を余儀なくされた。
その後、子孫の訴えにより、洪蘭坡の名は、“親日派”名簿からは除外されたようだが。
今度のコンサートでは、そのような背景に関係なく、純粋に音楽として楽しんでいただければいいのだが、それでも、作曲家も楽曲も、尋常ではない歴史の荒波をくぐりぬけてきたことは、ほんの少しでいいので、脳裏の隅においておきたい。
〈敬称略〉
【参考資料】
『禁じられた歌 朝鮮半島音楽百年史』(田月仙/中公新書ラクレ)
『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』(遠藤喜美子/文芸社)
□Osaka Shion Wind Orchestra公式サイトは、こちら。
□シエナ・ウインド・オーケストラ公式サイトは、こちら。
□加藤登紀子のうたう《鳳仙花》は、こちら。
□《故郷の春》は、こちら。
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2022.04.07 (Thu)
第355回 第3回大島渚賞

▲(左)大島渚賞、(右)第3回大島渚賞受賞作
※リンク等は文末に。
第3回大島渚賞が発表となった。
受賞作は『海辺の彼女たち』(藤元明緒監督)である。
「大島渚賞」といっても、まだ新しい賞なので、ご存じない方も多いだろう。
主催は、PFF(ぴあフィルムフェスティバル)で、同映画祭の一部門として運営されている。「映画の未来を拓き、世界へ羽ばたこうとする、若くて新しい才能に対して贈られる賞」で、いわゆる映画監督の新人賞である(大島渚はPFFの審査員を長くつとめ、多くの新人を発掘した)。
審査員は、坂本龍一(音楽家/審査員長)、黒沢清(映画監督)、荒木啓子(PFFディレクター)の3人。
第1回は2020年3月に開催された(コロナ禍がはじまった時期だけに、記念上映会場は、緊張した雰囲気に包まれていた)。受賞作は、ドキュメンタリ『セノーテ』(小田香監督)。
2021年の第2回は該当者ナシ。
そして今年が第3回で、前記『海辺の彼女たち』(藤元明緒監督)が受賞した。
これは、ベトナムから技能実習生として来た3人の女性たちの物語である。なんとか3か月頑張ってきたが、あまりに過酷、搾取が多く、家族へ送金もままならない。そこで、ある夜、密かに脱走する。少しでもギャラのいい仕事を求めて、怪しげなブローカーに紹介され、不法就労者として小さな港町で隠れて働くことになった。しかし、1人が体調を崩す。病院にかかりたいが、彼女たちには在留カードも身分証もない……。
昨今、日本でも問題になっている外国人労働者の問題に迫った異色作で、全編、彼女たち3人の描写に終始する(よって、コトバはすべてベトナム語で、字幕付き)。一見ドキュメンタリかと見紛うリアルな描写で、”見てはいけないもの”を見せられているような迫力がある。
わたしは、記念上映会(4月3日、丸ビルホールにて)で鑑賞し、藤本明緒監督と黒沢清監督たちのトークを聞きながら、なるほど、いかにも「大島渚賞」にふさわしい作品が選ばれたなあと思っていた。
ところが、翌日の授賞式で、病気療養中のせいか、欠席した審査員長・坂本龍一のコメントを知って、驚いた。
毎回候補にあがる作品の質が低いことに忸怩たる思いを抱えています。映画は社会を反映しているとすれば、最近の日本映画の大きな傾向として他者を傷つけることを極度に恐れることがあると感じます。それは社会への問題提起、批判、問いを萎縮させます。矛盾や不条理があっても明確に反対することができません。なぜなら反対の声を上げれば必然的に異なる意見をもつ他者とのぶつかり合いが起こるからです。これは僕が思う開放的で民主的な社会の在り方とは正反対です。恐らく大島監督も僕の意見に賛成してくれるでしょう。テレビ番組で「バカヤロ~」と怒鳴っていた方ですから。
今回、残念ながら僕には大島渚賞にふさわしいと思える作品はありませんでしたが、幸いなことに黒沢清さんには一つの作品がありました。(以下略)
(ウェブサイト「よろず~ニュース」より) 【全文は文末リンク】
長いコメントなので、一部を抜粋したが、どうやら坂本龍一は、『海辺の彼女たち』の受賞に、心底から同意できなかったらしいのだ。
坂本が、どこに不満を覚えたのかは、わからない。黒沢監督によると、坂本からは「これはドキュメンタリでよかったのではないのか」との疑問も出たという。この議論にかんして詳述する紙幅はないが、もしかしたら、坂本は、観客に判断を委ねるようなラストも不満だったのではないか。「なぜはっきりと声を大にして言わないんだ。大島渚だったら、この程度では終わらせないぞ」と。
いま、「賞」で、ここまではっきり言う審査員がいるだろうか。
時折、芥川賞や直木賞の選考経過説明で、「わたしは本作を押さなかったのですが、最終投票で1位になった以上、それに従いました」みたいなことを言う委員はいる。永井龍男のように受賞作に不満で辞任した委員もいた。
しかし、まるで大島渚賞の存在意義みたいなことにまで触れた坂本のコメントは、真摯に受け止めるべきだと思う。
というのも、いま、坂本のいうとおり、突っ込んだコメントや意見が交わされる「賞」が少ないような気がするからだ。日本映画界最大の祭典といいながら、実際には大手数社が持ち回りで受賞しているような賞もあるが、よくなければ、はっきりそう言うべきだろう。広告主だからか、つまらない映画や舞台をやたらとほめる新聞の評にも、いい刺激になるのではないか。
先日の米アカデミー授賞式で、ウィル・スミスがクリス・ロックを「平手打ち」した。
だがかつて、野坂昭如は、式典壇上で、大島渚に「ゲンコツ」でパンチを喰らわせている。
これに対し大島渚も負けてはいなかった。「マイク」で野坂昭如の頭を殴りつづけたのだ【下記リンク】。
米アカデミー賞関係者に、この映像を見せたかった。
「やるならお互い、とことんやれ。臭いものにフタをするな」——大島渚だったら、そう言っただろう。
今後の大島渚賞に、そんな空気がすこしでも漂いつづけることを、わたしは願っている。
〈敬称略〉
□大島渚賞公式サイトは、こちら。
□映画『海辺の彼女たち』公式サイトは、こちら(予告編あり)。
□「よろず~ニュース」「『大島渚賞』授賞式で坂本龍一審査委員長が辛口講評『僕にはふさわしいと思える作品なかった』」は、こちら。
□大島渚vs野坂昭如の殴り合いは、こちら。
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2022.04.01 (Fri)
第354回 『動物農場』ウクライナ語版

▲(左)ハヤカワepi文庫の新訳版、(右)石ノ森章太郎による漫画版(ちくま文庫)、傑作!
※ともにリンクは文末にあり。
ジョージ・オーウェル(1903~1950)の寓話小説『動物農場』は、1945年にイギリスで刊行された。
農場で、動物たちが「革命」を起こし、農場主のジョーンズ氏を「追放」、動物社会を樹立する。リーダーはブタのスノーボールとナポレオンだった。
動物たちは、リーダーの指導の下、「平等」社会を目指し、日々、労働に励むが、どうもおかしい。収穫した食糧がきちんと分配されている気配がない。猛犬たちが「秘密警察」のように監視している。リーダーたちは陰で贅沢かつ安穏とした生活をおくっているようだ。やがてリーダー間で「抗争」が発生し、スノーボールは「追放」され、ナポレオンの「独裁政治」が確立する。
要するに、ロシア革命による帝政崩壊~ソ連成立~スターリンの恐怖政治……を、農場に仮託して描いているのである。いうまでもなく、「ジョーンズ氏」がニコライ二世、「スノーボール」がトロツキー、「ナポレオン」がスターリンである。
いまでは寓話小説の傑作として知られているが、1945年の刊行当初は、それほどの評価は得られなかった。ほかの国でも、すぐには翻訳刊行されなかった。
ところが、なぜか「ウクライナ語版」なるヴァージョンがあって、早くも1947年11月に出ている。そしてオーウェルは、この「ウクライナ語版」だけに、かなり長い序文を寄せているのだ。
しかし当時、ソ連の構成国だったウクライナで、このような本が刊行できたのだろうか。
実はこの版は、ウクライナ国内で刊行されたものではない。
当時、ドイツ国内にあった英米管理下の「ウクライナ難民キャンプ」で頒布された。版元は「ウクライナ難民協会」。翻訳し、オーウェルに序文を依頼したのは、ハーバード大学のイホル・シュヴェチェンコ教授(1922~2009)である(ポーランド生まれのウクライナ人言語学者)。
ここでいう「ウクライナ難民」とは、スターリンの独裁や、ウクライナ人に対する搾取に耐えられなくなり、国を脱出したひとたちだった。「ウクライナ難民」は、すでにこのころから存在していたのだ。『動物農場』ウクライナ語版は、彼らのために刊行されたのである。
ところが、オーウェルによる「ウクライナ語版」序文の内容は、詳細な自己紹介と経歴、ソ連の政治体制に対する批判的な立場の表明に尽くされている。特にウクライナや、同国の難民にかんする記述はない。
これは少々不思議な話で、せっかく、「反スターリン」派のウクライナ難民たちに向けて出すのだから、もうすこし、ウクライナに対する思いのような記述があっても、よかったような気がする。
だが、『動物農場』を読んだ方は、もうご存じだろう。
この小説のなかには、十二分に、ウクライナに対するオーウェルの思いが、描かれているのだ。
「そんなにたくさんのミルクをどうするんだい?」とだれかが言いました。
「ジョーンズさんは、ときどきミルクを混ぜてくれたけど」とメンドリが言いました。
「ミルクのことは気にするな、同志諸君!」とナポレオンが叫び、バケツの前に立ちはだかりました。「それは対応しておくから。収穫のほうがもっと重要だ。同志スノーボールが先導してくれる。私もすぐに続こう。同志たちよ、前進だ! 干し草が待っている」
(ハヤカワepi文庫版/山形浩生訳より。以下同)
作中、多くの動物たちが、指導者(ブタ)に搾取され、ひどい目にあうのだが、そのなかで印象に残るのが、この「メンドリ」である。
リーダーのナポレオンは、乳牛から絞ったミルクを分配せず、どこかへ持っていく。以前は、農場主がメンドリのエサに混ぜて、いい卵を産む栄養源にしてくれていたのに。
やがて、指導者たちの思惑が判明する。彼らは、こっそり人間と通じており、卵を売り渡して財を貯えていたのだ。
ある日曜の朝、スクウィーラーは、ちょうどまた産卵期に入ったメンドリたちに卵を引き渡せと通達しました。ナポレオンはウィンパーを通じ、週に卵四百個を引き渡す契約を受け入れたというのです。(略)メンドリたちはこれを聞いて、絶叫して抗議しました。
(「スクウィーラー」とは、ナポレオンの腰巾着のブタで、モデルはスターリンの片腕だったモロトフ外相。「ウィンパー」は人間の仲介人)
メンドリは、はじめて反乱らしき行動に出る。すると、
ナポレオンは即座に容赦なく行動しました。メンドリたちへのエサの配給を止めるよう命じ、穀物一粒でもメンドリに与える動物はすべて死刑に処すと宣言したのです。(略)メンドリたちは五日にわたりがんばりましたが、ついに降参して産卵箱に戻りました。それまでにメンドリ九羽が死にました。その死体は果樹園に埋められ、死因はコクジウム症だと発表されたのでした。
この「メンドリ」が、ウクライナ国民である。「卵」は、穀物。
これは、1930年代にウクライナで発生した大飢餓「ホロドモール」を描いているのだ(ウクライナ語で「ホロド」=飢餓、「モール」=疫病)。この時期、ソ連当局は、外貨を獲得するため、また、モスクワ要人たちの腹を満たすため、ウクライナから、徹底的に穀物を供出させた。逆らうものは次々に粛清・処刑された。その結果、空前の飢餓が発生し、人肉食が横行した。死者数は、正確な統計がないそうだが、1,000万人は下らないといわれている。
現在、この悲劇はウクライナ議会をはじめ、世界の主要国で「ジェノサイド」(民族虐殺)と認定されている。
この悲劇を素材にした小説が、ベストセラーとなったトム・ロブ・スミスのミステリ『チャイルド44』だ(新潮文庫=絶版/映画化名『チャイルド44 森に消えた子供たち』)。
また、第352回(リンク文末)で紹介した映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』では、イギリス人記者、ガレス・ジョーンズが、命がけでウクライナに潜入し、「ホロドモール」をスクープする実話が描かれている。さらに、この記事がきっかけで、オーウェルが『動物農場』を書く設定になっているのだ(追放される農場主の名前も「ジョーンズ」なのは、“どちらも追われた”皮肉かもしれない)。
スターリンから逃れてきたウクライナ難民なら、「メンドリ」が自分たちのことだと、すぐにわかっただろう。オーウェルもそれを承知していたから、いまさら序文に付け焼刃をする必要は、なかったのだ。オーウェルは、ウクライナ語版の印税も要求しなかった。
しかし、『動物農場』の悲劇が、スターリンもソ連もなきいまになって、形をかえてウクライナで発生していると知ったら、天上のオーウェルは、どんな気分だろうか。
〈以上〉
※文中のウクライナ語版にかんする記述は、主として、ハヤカワepi文庫版(山形浩生訳)、岩波文庫版(川端康雄訳)などの解説を参考にしました。
【余談】『動物農場』で、忘れてはいけないのは、石ノ森章太郎による漫画版『アニマル・ファーム』だ(現ちくま文庫)。1970年に「週刊少年マガジン」に連載された。構成、構図、絵、ユーモア感覚、批評精神など、実に見事で、これは漫画史に残る傑作だと思う。こんな漫画が、少年誌に堂々と連載されていたのも驚きだ(試し読みリンク下記)。
□今回と関連する既出コラム……【第352回】第二の「バビ・ヤール」
□『動物農場』新訳版(ハヤカワepi文庫)は、こちら。
□『動物農場 おとぎばなし』(岩波文庫)は、こちら。
□石ノ森章太郎『アニマル・ファーム』(ちくま文庫)は、こちら=試し読みあり。
□映画『チャイルド44 森に消えた子供たち』 は、こちら。
□映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』 は、こちら。
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パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。
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