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2022.08.12 (Fri)

第361回 岩波ホールはいつも「満席」だった

岩波ビル
▲岩波ホールが入っている、岩波神保町ビルディング(出典:Wikimedia Commons)

 東京・神保町の岩波ホールが、7月いっぱいで閉館した。
 だが、新聞やSNS上の惜しむ声を読んで、わたしは、開いた口がふさがらなかった。
 普段はジェット機だの恐竜だの、叫んでキレるマンガ映画ばかり観ているのに、こういうときになると、とたんに「学生時代によく行った」とか、「今後、良質な映画を上映する場がなくなる」とか口にして、惜しむふりをする日本人の、なんと多いことか(チコちゃんの森田ナレーション)。
 そういうアナタが普段から行かないから、閉館したんじゃないか。
 
 岩波ホールは、1968年に開館した。
 当初は、講演会などに利用される、多目的ホールだった(だから、スクリーンの前に、あんな大きなステージがあるのだ)。
 映画専門館になったのは1974年で、その第一弾は、インド映画『大樹のうた』(サタジット・レイ監督、1959年)だった。
 当時わたしは高校生だったが、すでに映画マニアだったので、さっそく行ってみた。
 そのとき驚いたのは、「むかしのモノクロ映画」を、「各回入れ替え制」で上映していることだった。
 てっきり、新しい映画館だから、最新のカラー映画かと思ったら、古いモノクロ映画で、売れない作家がやたらとヒドイ目に合う、身も蓋もない話だった。
 しかも、それまで映画館は、上映時間など気にせず、好きなときに行って、上映中でも勝手に入って途中から観て、次の回の上映で「ああ、ここから観たんだっけ。じゃ、帰るか」と出てきたものだった。
 それが、次回の上映開始まで客席に入れず、ロビーで待たされるなんて経験は、初めてだった。

 まだ残っている岩波ホールのウェブサイトに、過去の全上映作品がリストアップされている。
 それを見ると、わたしは、おおむね6~7割を観ているようだ(大学がすぐそばだったので、特に学生時代は、全作を観ている。といっても、1本を最低1~3か月は上映するので、本数は、それほどでもない)。
 そこから、わたしの、岩波ホール・ベスト10を挙げる(順位は、上映順)。

岩波ホール1

①惑星ソラリス(アンドレイ・タルコフスキー監督、1972年、ソ連) 1977年上映
岩波ホールでSF映画をやるというので鼻息荒く行ったら、あまりにわけがわからず、かえって感動した。ある惑星の「海」が生命体だとの、哲学的設定。平日昼間なのに、かなり混んでいるのにも驚いた。しかし、どこか懐かしさが漂う不思議な映画で、その後も何度か観て、タルコフスキー好きになった。

②木靴の樹(エルマンノ・オルミ監督、1978年、イタリア) 1979年上映
これも連日満席で、後日、日劇文化など一般劇場でのロングランに引き継がれたほどの大ヒットだった。20世紀初頭、イタリア・ベルガモ近郊の小作農の貧しくも温かい生活を、実際の農民たちの出演で、バッハをBGMに描く。健気でかわいい男の子、自然光で撮影された川下りの美しい場面など、何度観ても心が震える。本作を観て感動できないひとは、人間ではないと思う。

③旅芸人の記録(テオ・アンゲロプロス監督、1975年、ギリシャ) 1979年上映
本作を日本公開してくれたこと、いくら岩波ホールに感謝しても、しきれない。わたしの生涯ベスト級の映画。一国の近現代史を、こんなふうに表現できるのかとビックリ仰天。映画はすごいメディアだと知り、アンゲロプロスはわたしの神様となった。約4時間の映画が、これまた連日満席で、たしか、異例の日時指定前売券が出て、それを買ってようやく入った記憶がある(普段は当日券のみ)。

岩波ホール2

④山猫(ルキノ・ヴィスコンティ監督、1963年、イタリアほか) 1981年上映
岩波ホールのおかげで、『家族の肖像』『ルードヴィヒ 神々の黄昏』など、ヴィスコンティ映画をたくさん知った。本作は、シチリア貴族の没落を描くもので、メロドラマとスペクタクルと通俗と芸術が渾然一体となった一種のトンデモ映画。ホンモノの貴族屋敷でのロケやセットもド迫力。すでに名作映画として有名だったが、これが初のイタリア語オリジナル版上映だった。音楽も重厚で、まるでオペラを観たよう。映画史上に残る舞踏会シーンのワルツは、スタッフが骨董屋で見つけたヴェルディの未発表ピアノ自筆譜をもとに、ニノ・ロータが編曲した。

⑤ファニーとアレクサンデル(イングマール・ベルイマン監督、1982年、スウェーデンほか) 1985年上映
岩波ホールは、開館当初からベルイマン作品を積極的に紹介してきたが、これは巨匠最後の劇場用作品。本来テレビ・シリーズだったが、あまりに出来がいいので、再編集して劇場公開したら米アカデミー賞で4部門を受賞。スウェーデンの劇場経営者一族の興亡を、幼い兄妹の視点で描く大河ドラマ。5時間超にもかかわらず、観はじめたら止まらない面白さで、なんと5か月間のロングラン。その後も再上映がつづいた。

⑥八月の鯨(リンゼイ・アンダーソン監督、1987年、アメリカ) 1989年上映
サイレント時代からの2大女優の共演。撮影当時、リリアン・ギッシュ93歳、ベティ・デイヴィス79歳! 2人だけで暮らす老姉妹の話だが、ほのぼのした内容かと思いきや、やたらと口汚く罵り合うのが、かえって新鮮だった。浅草・駒形で「どぜう鍋」をごちそうになり、帰りにとらやの羊羹と錦松梅をお土産にもらったような味わい。これまた連日満席のロングランで、その後も何度も再上映され、わたしもそのたびに行った。いったい、ここで何度観たことか。岩波ホールの歴史を代表する、トレードマークのような名作。

岩波ホール3

⑦宋家の三姉妹(メイベル・チャン監督、1997年、香港・日本) 1998年上映
フジテレビと香港ゴールデンハーヴェストの合作映画。大財閥の妻(マギー・チャン)、孫文の妻(ミシェル・ヨー)、蒋介石の妻(ヴィヴィアン・ウー)となった宋シスターズの歴史大河ドラマ。岩波ホールでは珍しい超大作エンタメで、とにかく面白くできていた。衣裳=ワダエミ、音楽=喜多郎。1998年11月から上映開始、翌年7月までつづき、その後も再上映。最終的に計44週、たった一館で18万人超を動員したお化け映画。もちろん、同ホール史上、最大ロングラン、最大ヒット。この時期、岩波ホールは、本作専用劇場だったようなイメージがある。

⑧父と暮せば(黒木和雄監督、2004年、日本) 2004年上映
岩波ホールは、黒木和雄作品を積極的に上映してきた。『TOMORROW 明日』『美しい夏キリシマ』『紙屋悦子の青春』など反戦映画が多く、本作も、井上ひさしの人気舞台劇が原作。本来2人芝居だったのを映画的に拡大し、宮沢りえ・原田芳雄の名演もあって、静謐で素晴らしい反戦映画となった(特に宮沢りえは、本作で化けた)。ヒロシマ悲劇の本質を知ってもらうために、世界中のひとたちに観せたい映画だ。

⑨少女は自転車に乗って(ハイファ・アル=マンスール監督、2012年、サウジアラビアほか) 2013年上映
つい最近まで映画館も禁止されていたサウジアラビアに、初めて登場した女性監督による作品。女性には禁止されている自転車に乗りたい10歳の少女が、賞金目当てでコーランの暗唱コンテストに挑戦する。イスラム社会特有の男尊女卑の風潮を乗り越えようとする少女がさわやかで、観たあと、元気が出る映画。その後、全国の一般劇場で公開され、ロングヒットとなった。

岩波ホール4

⑩ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス(フレデリック・ワイズマン監督、2016年、アメリカ) 2019年上映
以前のようなロングラン・システムがあったら、数か月は公開がつづいたと思われるほど、連日、満席となった大ヒット作品(3時間半の長尺なのに!)。わたしは、大学の教え子たちと観に行ったが、危うく札止め寸前で入れないところだった。おそらく、岩波ホール最後の“全日満席映画”ではないか。わたしたちが抱く「図書館」のイメージを覆す、驚きのドキュメンタリ。カフェや売店を併設したり、やたらと館内デザインに凝ってばかりいる日本の図書館とは、根本的に思想がちがうことを知り、かえって恥ずかしくなった。

   *****

 かように、わたしが抱く岩波ホールのイメージは「いつも満席の映画館」「客が入るかぎり、いつまでも上映してくれる映画館」といったものだった。
 だが近年は、本来なら岩波ホールでかかるような映画を、ユーロスペース、シアター・イメージフォーラム、アップリンク吉祥寺、ポレポレ東中野などが上映するようになった。
 その一方、当の岩波ホールは、Bunkamuraル・シネマやシネスイッチ銀座でかけたほうがいいような映画を上映するようになった。
 これでは顧客の足も遠のいて当然だろう。

 最後の上映作品は、ドキュメンタリ『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』(ヴェルナー・ヘルツォーク監督、2019年、イギリスほか)だった。
 てっきり、作家ブルース・チャトウィンの評伝だと思って観に行ったら、実態はヘルツォーク入門のような内容で、なんだか、狐につままれたような気分だった。
 SNSでは「岩波ホールの最後にふさわしい映画」との声があったが、わたしには、まったくそうは思えなかった。
 おそらく、ずっと前にこの時期の配給が決まっており、あとになって、運営母体の岩波不動産が閉館を決めたので、結果として、本作が最終作品になったのではないか(よく誤解されるが、ここは岩波書店の経営ではない)。
 わたしは、「岩波ホール閉館記念作品」として、もう一度『八月の鯨』を上映してほしかった。
 ラストで、鯨の再訪を期待して岬に立つ老女2人の姿こそ、岩波ホールそのものだったと思うのは、わたしだけではないはずだ。 

岩波ホールHP
映画『八月の鯨』予告編

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2022.08.09 (Tue)

第360回 石田民三と地唄《雪》

むかしの歌+石田民三
▲【左】映画『むかしの歌』~〈左より〉山根寿子、花井蘭子
  【右】映画監督・石田民三
(出典:ともにWikimedia Commons)


 先月、東京・京橋の国立フィルム・センター(NFAJ)で、小特集上映「没後50年 映画監督 石田民三」があった。
 石田民三(1901~1972)とは、戦前の映画監督。
 特に昭和初期(1930年代)、東宝京都を中心に、「花街・芸妓映画」の傑作を続々生んだ鬼才で、市川崑の師匠でもある。
 世情や男社会の犠牲となった女性の悲哀を描くのが得意だった。
 幕末~維新を舞台にした作品では、薩長軍が京都や江戸に迫るなか、運命を翻弄される芸妓たちの姿を、愛情込めて描いた。
 なかでも、『花ちりぬ』(昭和13年)、『むかしの歌』『花つみ日記』(昭和14年)の「花街三部作」は、わたしが熱愛する作品群で、名画座での上映には必ず駆けつけている(もちろん、今回も上映された)。

 いまなら、これらを「元祖フェミニズム映画」などと呼ぶのだろうが、石田の場合は、”芸妓フェミぶり”が尋常ではなかった。
 今回の上映にあわせ、「NFAJニューズレター」2022年7~9月号に、映画研究者の佐藤圭一郎氏が、「石田民三小伝」を寄稿している。
 それによれば、石田は、かねてより京都花街の上七軒に入り浸り、「上七軒の主」として有名だった。
 学生時代から江戸文学を愛好し、「女の子に小唄を唄わせ偶には自分も唸ったり」した。
 やがて上七軒の芸妓と結婚し、妻の営むお茶屋から撮影所に通ったという。
 花街は、石田にとって人生そのものだったのだ。

 そのことが如実にわかるのが、名ラスト・シーンで知られる、『むかしの歌』(昭和14年)である。
 舞台は、維新直後の、大阪の老舗廻船問屋。
 ここの一人娘、お澪(花井蘭子)は、何不自由なく育ち、三味線や地歌などの芸事を身につけた、なかなか気の強い娘だ。
 だが実は、父親が妾に産ませた娘で、いまの母とは生さぬ仲である。
 あるとき、街中で没落士族の娘と知り合うが、その母が自分の実母であるとわかって……。
 いままで何の悩みもなく育った娘が、実母と異父妹を知り、愛憎入り混じりながら、なんとか彼女たちとの絆を取り戻そうとする。
 そんな難役を、当時21歳の花井蘭子が見事に演じている。
(妹を演じた山根寿子は当時18歳。この2人は、わたしが溺愛する昭和の名女優で、その若き日の共演とあって、本作はわたしのベスト級邦画となっている)

 廻船問屋を経営する父親は、全財産を西郷隆盛関連株への投機にまわしていた。
 それゆえ、西南戦争で西郷が討たれるや、一夜にして破産してしまう。
 結果、お澪は芸妓として身を売ることになる。
 幼馴染みの許嫁とも破談となった。
 ここで涙を誘うかと思いきや、もともと気丈な性格のせいか、お澪は意外とあっさり振る舞っている(ここが石田演出のうまいところ)。
 ラスト・シーン、家財が競売にかけられているなか、家族の見送りも断り、たったひとり、裏の勝手口から、お茶屋の迎えの人力に乗り込むお澪。
 外は、雪が降りはじめている。
 そのとき、そばの物陰から、実母がじっと見ているのに気づく。
 しばらく見つめるお澪だが、にっこりと笑みを返す。
 時代は変わった。
 自分は芸妓として第二の人生を歩む。
 かつて自分を生んで捨てた実母を、ようやく彼女は許したのだ。
 そして人力に乗り込むと、まっすぐ前を見て、表情を変える。
 ここでお澪が口ずさむのが、地唄《雪》だ(時々「小唄」と書かれるが、そうではない)。
   〽花も雪も 払へば清き 袂かな
    ほんに むかしの むかしのことよ

 この瞬間、観客は、題名『むかしの歌』の意味を初めて知るのである。
 カメラは、無表情で《雪》をうたうお澪の顔を、ずっと追っている。
 人力のガラガラいう音だけが響き、BGMなども一切ない。
 ただひたすら、花井蘭子の顔と《雪》だけで、そのまま「完」となる。
 あまりに見事な幕切れである。
 石田民三は、「新時代」が、古き良き「むかし」を葬り去ってしまう不条理を、地唄《雪》を用いて描いた。
 こんなすごい”音楽映画”が、太平洋戦争前の昭和14年につくられていたのだ。

むかしの歌+地唄舞
▲【左】映画『むかしの歌』~〈左より〉藤尾純(お澪の許嫁役)、花井蘭子(お澪役)
※藤尾純は戦前~戦後にかけて活躍した俳優で、女優・中原早苗の父(つまり、映画監督・深作欣二の義父)
  【右】地唄舞《雪》(国立劇場公演より。注=武原はんではありません)
(出典:ともにWikimedia Commons)


 地唄《雪》は、天明時代(18世紀後半)に生まれた上方地唄の名曲で、かつて芸妓だった女性が、年老いて盲目の尼僧となり、昔日をしのぶ唄である(どこか『卒都婆小町』を思わせる)。
 後年、名舞踏家、武原はん(1903~1998)の地唄舞によって、有名になった。
 白装束に傘で、ゆっくりと舞う演出は、彼女が創始したといわれている(その姿を描いた小倉遊亀の日本画『雪』も有名だ)。
 彼女の随筆・句集『武原はん一代』(求龍堂、1996)によると、宗右衛門町の芸妓学校時代、11歳のころ(大正3年ころ)、見よう見まねで《雪》を舞っていたのを師匠が見て、山村流の上方舞を教わるようになったのだという。
 本格的に舞うようになったのは、東京に出てきてからの昭和7年以降のようで、谷崎潤一郎が好評を寄せた。
 谷崎は、『細雪』で、山村流を習っている四女・妙子が、《雪》を舞う場面を書いているばかりか、《雪》にまつわる随筆も発表しており、かなり愛好していたフシがある。
 それらのルーツは、武原はんにあったような気もする。
 もしかしたら、石田民三も、武原はんが舞う《雪》を見ていたかもしれない。

 先の「小伝」によれば、石田民三は、戦後、映画界を引退し、花街・上七軒の復興に尽力した。
 1946年に上七軒芸妓組合を結成、1952年に「北野をどり」を創始、1972年に亡くなるまで、座付作者・演出家として活躍したとある。
 現在の北野天満宮前、上七軒歌舞練場が、春の「北野をどり」や、夏のビアガーデンで知られる名所となっていることは、いうまでもない。
 その陰に、花街を愛した元映画監督がいたのだ。
      
   雪降れば嵯峨野如何にと尼思ふ  武原はん
〈一部敬称略〉

映画『むかしの歌』 (YOUTUBE:約1時間17分)
全編を視聴できますが、画質・音質は低劣です。
本文で紹介したラスト・シーンは、1:14:00あたりから。

武原はん 地唄舞《雪》(YOUTUBE:30分)
NHKの映像で、昭和37年、武原はん59歳のときの《雪》が観られます。


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2022.08.04 (Thu)

第359回 ウクライナと「左手」(3)

ウィトゲンシュタイン 掲載写真書影
▲(左)中公文庫版『ウィトゲンシュタイン家の人びと』(左の少年が幼少期のパウル)、
(右)「左手のピアニスト」パウル・ウィトゲンシュタイン
(出典:Wikimedia Commons)


しばらく掲載が空いてしまいました。もしお時間あれば、前の2回から、あらためてお読みください。
第357回 ウクライナと「左手」(1)
第358回 ウクライナと「左手」(2)


 「ウィトゲンシュタイン」と聞いて、多くのひとは、哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを思い出すだろう。
 だが20世紀前半、ヨーロッパで「ウィトゲンシュタイン」といえば、哲学者ルートヴィヒではなく、その兄でピアニストの「パウル・ウィトゲンシュタイン」(1887~1961)のほうが、ずっと有名だった。

 わたしがそのことを明確に知ったのは、2010年に邦訳刊行された『ウィトゲンシュタイン家の人びと――闘う家族』(アレグザンダー・ウォー著、塩原通緒訳、中央公論新社刊→現・中公文庫/原著2008年刊) を読んでからだった。
 この本は、書名通り、ウィトゲンシュタイン家を描くノンフィクションだが、大半が、ピアニストのパウルを描いている。なにしろ書き手が、イギリスの大作家、イーヴリン・ウォーの孫で、音楽批評家・作曲家でもあるだけに、すこぶる面白い。それこそ韓流ドラマのようなエピソードが次々に展開する。近年、これほど興味深く読んだ音楽家の評伝はなかった。

 「オーストリア近代産業の父」にして大富豪のカール・ウィトゲンシュタイン(1847~1913)には、9人の子ども(4女5男)がいた。
 このうち、4女マルガレーテは、クリムトの肖像画「マルガレーテ・ストロンボロ=ウィトゲンシュタインの肖像」で有名だ。嫁入りの際に、父親がクリムトに描かせて贈ったものだが、ご当人は気に入らず、倉庫に投げ込まれ、後年、売り飛ばされている。

マルガリータ
▲(左)クリムトが描いたが売り飛ばされた、マルガレーテの肖像、
(右)そのモデルでパウルの姉マルガレーテ・ウィトゲンシュタイン
(出典:Wikimedia Commons)


 ここからわかるように、ウィトゲンシュタイン家には多くの芸術家が出入りしており、パトロンとして面倒をみていた。そのなかには、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、マーラーといった、のちの大作曲家たちもいた。
 4男パウルは、そんな環境で育った。父はパウルに事業を継がせたかったが、結局、父に背いてピアニストの道に進んだ。

 名ピアニストに師事し、たたき上げでピアノを学んだパウルは、1913年、デビュー・コンサートを自主開催する。会場はウイーン楽友協会大ホール、オスカル・ネドバル指揮、ウイーン・トーンキュンストラー管弦楽団が付き合った(なにしろ家が大富豪なので!)。
 だが、すぐに第一次世界大戦が勃発、パウルも招集され、ポーランド戦線でロシア軍と戦うことになる。ここで右ひじを撃ち抜かれ、切断手術を受ける。病院で意識を失い、気がついた時にはロシア軍の捕虜となっていた。
 このときにパウルが受けた肉体的、精神的苦痛は凄まじいものがあった。捕虜交換で帰国してから、「左手のピアニスト」として再起を決意、再デビューする過程も、たいへん感動的に描かれているのだが、詳述する紙幅がない。ぜひ実際にお読みいただきたい。

 1916年3月、パウルは、自邸の音楽室で、再デビュー演奏会を開催する。曲は、左手用に編曲した小曲が中心だった。これが大成功だったので、12月に、デビュー・コンサートとおなじ顔ぶれ、おなじ会場で、協奏曲の演奏会を開催する(何しろ、家が大富豪なので!)。
 曲は、師ヨーゼフ・ラーボア作曲の左手のための協奏曲が中心だった。これが、史上初、左手ピアノのためのオリジナル協奏曲だったという。
 これを機に、パウルは、続々と一流作曲家に、左手のためのピアノ協奏曲を委嘱する。ギャラは高額で、事前に全額、アメリカドルで支払われたらしい(なにしろ、家が大富豪なので!)。
 その結果生まれたのが、

*ヒンデミット《左手ピアノと管弦楽のための音楽》 ※演奏されず。
*コルンゴルト《左手のためのピアノ協奏曲》
*フランツ・シュミット《左手ピアノ、クラリネット、弦楽による三重奏》
*ボルトキエヴィチ《ピアノ協奏曲第2番~左手のための》、《左手ピアノと管弦楽のためのロシア狂詩曲》
*ラヴェル《左手のためのピアノ協奏曲》
*リヒャルト・シュトラウス《家庭交響曲余録~左手ピアノと管弦楽のための》
*ブリテン《左手ピアノと管弦楽のための主題と変奏》
*プロコフィエフ《ピアノ協奏曲第4番~左手のための》 ※演奏されず。

 といった名曲群だった(もちろん、これ以外にも山ほどある)。
 パウルは、はじめに、4人の作曲家にいっぺんに委嘱した。それが上記の最初の4人である。最初の3人は超有名だが、なぜ、そこに加えてボルトキエヴィチにも白羽の矢が立ったのかは、残念ながら詳述されていない。
〈一九二二年十二月から一九二三年のイースターにかけて、パウルは三人の著名な作曲家と、あまり知られていない一人の作曲家に声をかけ〉た。この〈あまり知られていない一人の作曲家〉が、ボルトキエヴィチである。
 本書でも彼については〈ウクライナのハリコフの地主階級出身で(略)、少数に熱烈なファンが必死に宣伝するのみで、一般的にはすべて忘れ去られている〉くらいしか書かれていない。
 しかし、巨額のギャラを支払って、いくつかの曲を書かせたのだから、パウルにとって、それなりに魅力ある作曲家だったのだろう。ボルトキエヴィチ自身、当時のウイーンで、相応の人気作曲家だった証左かもしれない。
 だがとにかく、わたしは、この記述で、ボルトキエヴィチなる作曲家の存在と、左手のピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの縁を、初めて知ったのだ(そのほか、ラヴェルやプロコフィエフ、ブリテンとのやりとりも詳述されており、抜群に面白い)

 1930年の夏、パウルはソ連に演奏旅行に出る。
〈モスクワ、レニングラード、バクー、キエフと、各地のコンサートホールをまわり、ハリコフ(セルゲイ・ボルトキエヴィチの出身地)ではボルトキエヴィチの協奏曲を演奏して、狂喜する聴衆から大喝采を浴びた。キエフでは聴衆のあまりの熱狂に、急遽二日後に再度同じプログラムを演奏することになった〉
 パウルは、委嘱作品について、楽譜の所有権、独占演奏権まで買い取っていた。よって聴衆は、珍しい左手ピアノ協奏曲を聴こうと思ったら、パウルのコンサートに行くしかない。かくして彼のコンサートは、ヨーロッパで大人気となっていた。
 そのおかげで、ボルトキエヴィチ作品も故郷ウクライナに錦を飾れたわけだが、いうまでもなく当時、ウクライナはソ連の構成国だった。つまりウクライナ=ロシアだったのだ。
 ところがパウルは〈ロシア人とロシア文化は大嫌いだった〉。なにしろ、ロシアによって右腕を奪われたのだから、無理もない。
〈戦争中に捕虜となって過酷な日々を過ごしてからずっと(ロシアを)憎んでいた。(略)何よりパウルは新しい共産主義政権が嫌いだった〉
 なのに、なぜパウルは、「ソ連」(ロシア)の作曲家、ボルトキエヴィチに新曲を委嘱したのだろう。しかも複数曲を!
 もしかしたら、パウルは、「ロシア」と「ウクライナ」を別に見ていたのではないだろうか。たとえば、もう一人、ロシアの作曲家、プロコフィエフにも委嘱しているが、彼も、正確にはロシア人ではなく、ウクライナ人である。

 本書では、このあと、いかにパウルがロシアを嫌っていたかが、えんえんと綴られる。特にウクライナのハリコフで宿泊したホテルの食堂は、ミルクがない、レモンがない、卵がない、バターもない……〈「近くにいた政府の役人が言うことには、彼はバターがどんな味だったか、もう覚えていないのだそうだ。農業国ウクライナの首都がこのざまだ!」〉
 このころは、スターリンがウクライナから徹底的に食糧を搾取し、壮絶なホロドモール(大飢餓)が発生しはじめていた時期である。近年、映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』でも描かれた悲劇だ(第352回参照/下記)。パウルは、もっとも悪い時期に、ウクライナを訪れてしまったのだ。
 もしいま、パウル・ウィトゲンシュタインが生きていたら、あらためてボルトキエヴィチを演奏して、「左手」で、ロシアへの怒りをぶつけていたような気がするのだ。
〈この項、おわり〉

◆ウクライナに関するほかの回
第352回 第二の「バビ・ヤール」
第354回 『動物農場』ウクライナ語版
第357回 ウクライナと「左手」(1)
第358回 ウクライナと「左手」(2)

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