fc2ブログ
2022年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

2022.10.30 (Sun)

第366回 新刊紹介/「循環形式」の漫画『音盤紀行』

音盤紀行2
▲アナログ感覚あふれる造本、毛塚了一郎『音盤紀行』(KADOKAWA/エンターブレイン)


 たいへん味わいのある「音楽漫画」をご紹介したい。
 近年、アナログ・レコード(「針」で聴く、むかしながらのEPやLP)の人気が再燃している。ポップスやクラシックでも、CDと同時にアナログ盤がリリースされるケースも多いが、中古盤もたいへんな人気である。配信やサブスクの隆盛で、CDの売れ行きが激減しているのに比して、不思議な現象ともいえる。

 人気の理由のひとつに、「アナログ・レコードのほうが、デジタル(CDや配信)よりも、音が温かい」ことがあるという。
 人間は、下は20Hz前後から、上は20,000Hz前後までの音を「鼓膜」の振動で感知できるといわれている。ところが、実際のナマ演奏では、40,000Hz前後までの音が発生しているそうで、それらは、通常感覚では感知できない。だが、その「聴こえない」音が鼓膜や脳に与える刺激が、「温かい音」となって感じるらしい。デジタルは、その「聴こえない」部分をカットしてしまうが、アナログには残っている。だから、「温かい音」を感じる……のだという。

 そんな「温かい音」をもつアナログ・レコードをめぐる連作短編集が、毛塚了一郎著、漫画『音盤紀行』である。
 現在発売中の第1巻には、5話がおさめられている。
 第1話「追想レコード」は、亡き祖父が残した大量のレコードを処分する孫娘の物語。
 中古店「ミヤマレコード」に買い取りを頼んだら、若い女性店主・深山さんがやってきた。査定してもらうと、なかなかの値打ちものばかりである。
 そのなかに、1枚、不思議なレコードがあった。見たこともない文字のジャケットで、明らかに輸入盤だ。プレーヤーで再生してみると、民族音楽らしき耳慣れない音楽が流れてきた。ジャケットには「マヤナ」と祖父の字で書き込まれている。祖父は、なぜこんなレコードを持っていたのか。「マヤナ」とはなにか。孫娘と深山さんは、このレコードのルーツを探りはじめる。それは、祖父の知られざる人生をたどる旅につながり……。

 まるで良質な短編小説のような味わいだ。
 絵柄もていねいに描き込まれていて品があり、あたしのようなロートルでも難なく読める。裁ち切りも最低限で、きちんと枠に囲まれた3~4段コマ中心の基本的な構成なので、誌面も落ち着いている。
 だが、この漫画のすごいところは、ここから先である。

 この第1話を読了した時点で、誰もがこう思う……この作品の主人公は、「ミヤマレコード」の女性店主、深山さんらしい。おそらく第2話からは、この店を舞台に、ここに持ち込まれる様々なレコードをめぐるエピソードが展開するのだろう。査定を依頼した孫娘も、店の常連となるのではないか……ところが、そうは問屋が卸さないのだ。

 第2話「密盤屋の夜」は、1960~70年代の東欧とおぼしき国。おそらくソ連の衛星国だったころのチェコスロバキアかポーランドがモデルだろう。ここでは、西側のロックが禁じられている。だが、それらを求める若者たちのために、密かに西側からレコードを密輸入して販売する店がある。特にイギリスのロック・バンド「スタッグス」のレコードは大人気で……。
 というわけで、第1話の片鱗は皆無で、まったくちがう時代、国の物語となるのである。

 この第2話を読了した時点で、誰もがこう思う……そうか、本書は独立した短編作品集で、各話ごと、レコードをめぐる、まったくちがったエピソードが展開する構成らしい……ところが、そうは問屋が卸さないのだ。

 第3話では、第2話で話題のレコードとなった「スタッグス」当人たちが登場する。彼らがフィリピンとおぼしき東南アジアの国をツアーで訪れ、「ルーフトップ(屋上)・セッション」が展開する(ビートルズのイメージ)。その海賊録音が密かに流出し……。
 こうして、前の話のどこかが、次の話で大きなモチーフになって、次から次へと物語が連なっていくのだ。

 むかしから連作短編集には、「シャーロック・ホームズ」(コナン・ドイル)や、『赤ひげ診療譚』(山本周五郎)など名作が多い。だがそれらは、1人のキャラクターが全編に登場する構成だった。たまに、スティーブン・キング「恐怖の四季」4部作のように、前の話の小さな要素が、次の話のどこかにチラリと再登場する作品集もあるが、本作ほどの大きな展開はない。
 これに対し、本作は、ほとんど、バルザックが「人間喜劇」小説群で用いた、「人物再登場」法に近い(『ゴリオ爺さん』がその最初)。

 だがあたしは、それよりも、「レコード」を題材にしているだけに、音楽における「循環形式」を思い出した。あるモチーフが、曲中、形を変えながら再登場し、全体に統一感を与える手法である。
 そのルーツは、すでにルネサンスの時期に誕生しており、ギョーム・デュファイや、ジョスカン・デ・プレが、ミサ曲の各章をおなじ旋律で開始する「循環ミサ」を書いている。有名な、デュファイの《私の顔が青ざめているのは》《武装したひと》《めでたし天の女王》などは、その典型だ。
 この手法は、19世紀になってから、さらに複雑化して花開いた。ベルリオーズ《幻想交響曲》、フランク《交響曲》、リストの交響詩《前奏曲》、サン=サーンス《交響曲第3番「オルガン付き」》などは、曲中の前後や、楽章ごとに、一定の旋律が再登場して、前部を回想しながら、新たな展開が切り開かれる。

 漫画に「循環形式」なんて、あまりに大げさな解釈だと嗤うひともいるだろう。そういう方は、本書第3話のラストを、ご覧いただきたい。著者は同人誌出身で、本作が初の単行本らしいが、ただならぬ「循環形式」構成術の持ち主であることを実感するだろう。

 なお、余談だが、本書は、目次から奥付、造本、読者アンケートはがきに至るまで、徹底的なアナログ感覚にあふれている。ぜひ電子出版ではなく、「紙」の本でお読みいただきたい。

◇『音盤紀行』1/毛塚了一郎(KADOKAWA/エンターブレイン)は、こちら(試し読みあり)

◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。

◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。

◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。

◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。
スポンサーサイト



15:22  |   |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2022.10.17 (Mon)

第365回 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の音楽

鎌倉殿の13人
▲エバンコール音楽《鎌倉殿の13人》サントラCD


 日刊ゲンダイDIGITALに、作曲家の三枝成彰氏が、気になるコラムを寄稿していた(10月8日配信)。タイトルは、「NHK大河『鎌倉殿の13人』“劇伴”への違和感…音楽にもウソが通る社会が反映される」と、挑発的である。

 内容を一部抜粋でご紹介する。
〈NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ていると、たびたび驚かされる。その音楽に、聞き覚えのあるメロディーが出てくるからだ。ドボルザークやビバルディなど、クラシックの名曲のメロディーである。〉
〈視聴者の受けも悪くないようで、「感動した」「大河にクラシックは素晴らしい」といった声も多いようだ。〉
〈私はどうにも違和感を禁じ得ない。これだけ引用が多いと意識的にやっていることは明らかで、「たまたま既成の曲と似てしまった」というレベルではない。もとより悪意があるはずもないのだろうが、私などは「剽窃(ひょうせつ)」だと考えてしまう。〉


 この文章は、紙幅の関係か、あるいは作曲家のエバン・コール氏に気を使っているのか、少々隔靴掻痒なので、補足しよう。
 要するに、あのドラマでは、しばしば、クラシックの有名旋律が、すこしばかり形を変えて流れるのだ(ほぼそのまま流れることもある)。ドヴォルザーク《新世界より》、バッハ《無伴奏チェロ組曲》、ヴィヴァルディ《四季》、オルフ《カルミナ・ブラーナ》……。
 原曲を知らなければ「カッコいい音楽だなあ」と感じるかもしれないが、原曲を知っていると、たしかにちょっとビックリするような”変容”が施された曲もあるのだ。
 三枝氏は、それらを「剽窃」と感じるという。そして、こう綴るのだ。

〈ここまでくると、劇伴の概念が変わったというより、社会が変わったのだと考えるしかない。ドラマ音楽のひとつにも、変質した社会の影響は必ず反映される。その変化はどこから来たのか? やはり安倍さんが総理大臣に就任して以来のことに思える。〉
〈この国のリーダーたる総理大臣が公の場で平然とウソをつき、閣僚も官僚も、臆面もなくウソをつく。文書を改ざんし、事実を隠蔽し、白を黒、黒を白だと言い張り、事実にしてしまう。/彼らは「ウソが通る社会」をつくり上げ、まがいものを本物だと堂々と言える社会にしてしまった。〉

 なんと、『鎌倉殿の13人』の音楽でクラシックが”剽窃”されているのは、安倍総理の誕生が原因だといわんばかりである。わたしは決して安倍政権時代を礼賛する気はないが、それにしたってこれは、あまりに極端な”風が吹けば桶屋が儲かる”論理ではないだろうか。
 
 わたしは、あまり熱心な大河ファンではなかったのだが、歌舞伎・文楽ファンとしては、ここまで「鎌倉」「頼朝」「義経」「北条」「曽我兄弟」といったキイワードを並べられては、さすがに観ないわけにはいかない。むかしから『炎環』『北条政子』など永井路子作品のファンだったせいもあり、今年は、ひさびさにNHKプラスで、全回を視聴している。

 そうしたところ、わたしも三枝氏同様、第1回でちょっと驚いた。クライマックス、女装した頼朝が馬で脱出するシーンに、ドヴォルザーク《新世界より》が流れたのだ。しかも、なぜか原曲ではなく、少しばかりいじってある。
 わたしは、エバン・コール氏なる作曲家をまったく知らなかったが、オープニング・テーマ(下野竜也指揮、NHK交響楽団)は、なかなかよかった。バークリー音楽院で映像音楽を学び、日本でドラマやアニメの音楽で活躍しているひとだという。

 そこで、さっそくサントラCDをじっくり聴いてみた(現在、Vol.1とVo1.2がリリース中)。そうしたところ、”変容クラシック”のオンパレードではないかと、妙な心配もあったのだが、それほどではなく、どれも魅力的な曲ばかりだった。おそらく、ドラマでは、すべてが流れていないだろう。もったいないと思わされる曲も多い。

※演奏は、ブダペスト・スコアリング交響楽団。ここは、ハンガリーの国営レーベル「HUNGAROTON」スタジオを買収したブダペスト・スコアリング社が運営するオーケストラである。指揮のペーテル・イレーニは、映像音楽の人気指揮者で、同交響楽団を指揮して、イギリスの作曲家、オリヴァー・デイヴィスの作品集などもリリースしている。

 楽曲イメージの背景には、品のいいアイリッシュやケルトの香りがある。もしかしたら、エバン・コール氏のルーツかもしれない。そこに、時折、エキゾチックな要素がからみ、西洋人の視点によるアジア(日本も中国も一緒)のムードも漂うが、決して安っぽくない。ジョン・バリーの名サントラ《ダンス・ウィズ・ウルヴズ》(米アカデミー作曲賞受賞)を思わせる響きも感じられたが、少なくとも”剽窃”とまでは思えなかった。
 
 そして、ほんの少しだが、たしかに”変容クラシック”もあった。先述のドヴォルザークや、オルフ、ヴィヴァルディなど。だが、これは、明らかに確信犯だ。原曲を熟知したうえで、音楽のお遊びをやっている。剽窃というよりはパロディではないか。過去、さんざん、ドラマやヴァラエティで手垢にまみれた泰西名曲をわざと”変容”して、おおむかしの出来事であっても、結局は、同じことが繰り返される歴史の必然性みたいなことを表現しているような気がした(時折、変えるなら、もっと大掛かりに変容してほしい曲もあるが)。
 三枝氏の文章だと、毎回、”変容クラシック”が流れているようにも読めるが、それほどではない。この程度の使用で”剽窃”といっていたら、ジョン・ウィリアムズ《スター・ウォーズ》や、ビル・コンティ《ライトスタッフ》(米アカデミー作曲賞受賞)などは、どうなってしまうのか(前者はホルストが、後者はチャイコフスキーやグラズノフが基調)。

 三枝氏には、エバン・コール氏の『鎌倉殿の13人』サントラCDも、ちゃんと聴いてほしかった。

エバン・コール作曲《鎌倉殿の13人》メイン・テーマ(下野竜也指揮、NHK交響楽団)
※オープニング映像ですが、クレジットなし。ここでしか観られない珍しいヴァージョンです。
日刊ゲンダイDIGITAL/三枝成彰の中高年革命【全文】

◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。

◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。

◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。

◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。

17:39  |  TV  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2022.10.13 (Thu)

第364回 新刊紹介『カーザ・ヴェルディ 世界一ユニークな音楽家のための高齢者施設』


カーザ・ヴェルディ (2)
▲藤田彩歌『カーザ・ヴェルディ 世界一ユニークな音楽家のための高齢者施設』
 (ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)


 もう20年以上前のことになるが、イタリア・ミラノにある「カーザ・ヴェルディ」に行ったことがある。オペラCDブック全集の解説原稿のための取材だった。
 いまは亡き、オペラ研究家の永竹由幸さんのガイドで、約2週間かけて、イタリア国内の、ヴェルディとプッチーニゆかりの場所のほとんどを、大特急でまわった。
 
 「カーザ・ヴェルディ」(ヴェルディの家)は、大作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディが建てた、引退した音楽家のための養老院で、正式名称は「音楽家憩いの家」という(ヴェルディは自分の名を冠することを許さなかった)。
 取材の主目的は、館内にある、ヴェルディのお墓だった。

640px-Verdiho_hrob_-_Miláno,_Itálie_-_panoramio
※そのお墓は、教会内にあった。ヴェルディ自身は、若くして死別した最初の夫人マルゲリータと一緒の棺に眠っており(写真)、横に二番目の夫人ジュゼッピーナの棺が並んでいる。さらに、墓参者の足許には最期を看取った愛人で大歌手のテレサ・シュトルツ(《アイーダ》イタリア初演歌手)が眠っている(ただし、墓参者には見えないので、ほとんどのひとが気づかない)。2人の夫人どころか、愛人までも一緒にしてあげる、イタリア人のヴェルディに対する思いに感動した。【写真:Wikimedia Commons】

 「養老院」というから、てっきり郊外の人里はなれた場所にあるのかと思ったら、市の中心部近くにあった。地下鉄駅も目の前だし、「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会や、スカラ座にも、歩いて行ける距離だった。
 館内は、建物も庭も実に美しく、清潔感に包まれて、ひっそりと静まりかえっている。ここにひとが住んでいるのだろうかと思わされる静けさだった。日本の高齢者施設は、必ず、食堂の調理の匂いか、病院特有の薬品の匂いが漂っているものだが、それもいっさい、感じられなかった。

 ところが、庭に入ると、建物の向こうから、チェロと思しき弦楽器とピアノの響きが聴こえてきた。「引退した」音楽家のための養老院で、ナマ演奏が聴こえる…いったい、誰が演奏しているのだろう…入居者だろうか…それにしてはしっかりした響きだった…一瞬、建物の奥へ行きたくなったが、入居者の生活圏内にまでは入れない(ヴェルディのお墓は、自由に墓参見学できる)。
 3人の女性と共に眠るヴェルディのお墓をあとに、不思議な気分のまま、施設をあとにしたのを覚えている。

 そんな「不思議な気分」が、本書によって30年ぶりに解決した。
 これは、イタリアに留学し、2015年から「カーザ・ヴェルディ」で暮らした日本人声楽家(メゾ・ソプラノ)、藤田彩歌さんによる、日記スタイルのエッセイである。
 なんと、この「養老院」は、たしかに「引退した元音楽家」のための施設だったが、16名までの「若手音楽家」の入居が認められているのだという。具体的には、スカラ座アカデミー、ヴェルディ音楽院、ミラノ市立音楽院の学生に権利があり、著者の場合は、ヴェルディ音楽院大学院オペラ科に在籍していることで、入居できることになった。
 費用は、バス・トイレ付き個室、食費・光熱費込み、練習室使用など含めて600ユーロの安さだ(いまだったら85,000円くらいか)。
 かくして著者は、大学院に通いながら、元音楽家の老人たち70数名(「元一流音楽家」としての審査を通過した、77~106歳!)とともに「カーザ・ヴェルディ」で暮らすことになった。

 わたしは、父と、2人の伯母の計3人が高齢者施設に入っていたのでよくわかるのだが、ここで紹介される「カーザ・ヴェルディ」の、日本の施設とのちがいには、呆然とさせられた。
 ここは、一種の自立型施設で、最低限、自分で生活できる老人が入居しており、職員もすべて通いである(介助付きの「隔離ゾーン」だけは別で、動けなくなると、そこへ入る。誰もがそこへ送られたくなくて、懸命に「ひとり」で生活している)
 室内清掃は専門の掃除人がやってくれるが、しばしば、掃除のたびに室内からモノがなくなっていく。だが施設側は関知しない。すべて入居者の責任で対応するしかない。

 館内にはピアノ付きの音楽練習室がたくさんある。いまでもここでレッスン教室を開いている入居者がおり、予約の取り合いで、よく揉める。しかも防音設備が皆無なので、音を出すと、館内中に聴こえてしまう(だから私の耳にも入ってきたのだ)。よって、あまり恥ずかしい演奏をすることはできない。
 パーキンソン病の元ホルン奏者が、毎日練習して病気と闘っている姿には感動させられる(わたしの父も同じ病気だった)。
 ただし、入居者が逝去した場合は、葬儀終了まで、館内で音を出すことはできない。

 食堂にはシャンデリアが下がり、高級レストランそのもの。入居者は、ここで三食を、毎回ほぼ「正装」で楽しんでいる。ただし、席次が決まっているため、気に食わないひととおなじテーブルになるのが嫌で、文句をいっている入居者もいる。料理もすべてが入居者の口に合うものではないようで、「料理人を変えろ」と訴えているひともいる。

 そして…なんと2階には「コンサート・ホール」がある! 入居者のコンサートもあれば、外部から演奏家が来ることもある。
 以前、ここで学生の声楽マスタークラスの発表会があった際には、元ベテラン・ソプラノ歌手の入居者が「ブーイング」をぶちかましたという。おそろしい養老院だ! 学生だからといって容赦しないということか。それだけプライドがある、現役音楽家の意識でいる入居者が多いのだろう。

 ここでは、運営側の押しつけはほとんどなく、入居者が好きなように、自分の考えで暮らしている。施設側が広報冊子を発行しているが、発行者(施設長)が気に食わなくて、独自で冊子をつくっている入居者もいる。趣味に徹し、アクセサリーやニットづくりに精を出し、自室で教えているひともいる。
 ちなみに著者も、元ベテラン歌手の入居者に特別レッスンを受けたりしている。そして、入居者仲間で指揮者・作曲家のメキシコ人男性と結婚する(その過程があまり詳しく書かれていないのが残念!)。「カーザ・ヴェルディ」は、老人仲間だけでなく、伴侶までをも与えてくれたのだ。

 以上でおわかりのように、「カーザ・ヴェルディ」は、決して理想郷ではない。運営側の指示に従い、おとなしく暮らしている入居者は少ない。
 だが、人間は、何歳になってもトラブルへの対応によって鍛えられ、エネルギーにつなげてしまう生き物であることがわかる。だから、読んでいると元気が出てくる。この歳までがんばってきた、だから残りの人生は、わがままに生きていいのだ。無理してまわりに合わせたり、若者の言うことを聞く必要もない。
 そんなことを、多くの写真とユーモアで教えてくれる本である。

◇藤田彩歌『カーザ・ヴェルディ 世界一ユニークな音楽家のための高齢者施設』
 (ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)はこちら。一部立ち読みあり。


◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。

◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。

◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。

◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。

16:16  |   |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |