2022.12.13 (Tue)
第372回 【新刊紹介】本名も住所も本籍も、まったく証明できない人間が、現代社会には、いる!

▲『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志、伊藤亜衣/毎日新聞出版)
いろんな音楽解説を書いていると、作曲家の「没後」の哀れさに、胸を塞がれることがある。
モーツァルトがまともな葬儀もなく共同墓地に葬られたことは有名だ。結局、遺体がどこに埋葬されたのか、正確にはわかっていない。
ハイドンは、没後、頭蓋骨マニアに墓をあばかれ、頭部を切り取って盗まれた。もどされて全身が”合体”したのは、150年後のことだった。
パガニーニは、生前、あまりのヴァイオリン演奏の凄さに、「悪魔に魂を売った」といわれていた。そのため、没後は、教会が埋葬を拒否した。遺体は防腐処理され、36年間も棺のまま、各地をさ迷った。
人間には、没後も椿事がつきまとう。
しかし、いまの時代に、このような「没後」があろうとは。
2020年4月、兵庫県尼崎市内のアパートの一室で、75歳くらいの老女が遺体で発見された。死因はクモ膜下出血。
ところが、この老女、謎だらけだった。
住民登録がないので、本籍地も不明。よって「田中千津子」と名乗っていた氏名が、本名なのか、証明できない。よって死亡届も出せない。
そもそも、部屋の賃貸契約者は男性名だったが、その男性(夫?)がいた形跡はない。
右手の指はすべて欠損。以前に勤務していた工場での労災事故だったが、なぜか保険金を受けた形跡がない。
以前に歯の治療をしていたが、その歯医者は保険証のない患者対象の、”闇歯科医”だった。
室内には3400万円余の現金があった。
40年もおなじアパートに住んでいながら、近所づきあいは皆無だった。
……そのほか、書き出せば、疑問点だけで、この書評がすべて埋まってしまうだろう。
とにかく、21世紀のこの日本で、どこの誰だかまったく検証できない人間が、亡くなったのである。
こういう死亡者を、法律用語で「行旅(こうりょ)死亡人」と呼ぶ(あたしは、むかし、この言葉を聞いて以来、てっきり、行き倒れのイメージが強い「行路死亡人」だと思い込んでいた)。
本書は、ふとしたことから、この行旅死亡人に興味をもった共同通信の2人の記者が、警察も探偵も弁護士も追いきれなかった女性の素性を、ほんの少しだけ残された手がかりをもとに追跡していく、まるでミステリ小説のようなノンフィクションである。
すでにネット上で公開されて大ヒットした記事だが(あたしもネットで読んで、興奮が覚めやらなかった)、さらに加筆されて単行本化されたものだ。
取材調査の過程を紹介することが、そのまま、本書の最大の魅力を公開してしまうことになるので詳述は避ける。だが、ひとつだけいえば、まさに「ネット社会」ゆえに成立した取材だった。
あたしが駆け出しの週刊誌記者だった1980年代はじめは、誰でも他人の住民票を閲覧できた(本書の著者が生まれる前の話だ)。当時の事件取材は、そこからはじまった。住民票や戸籍附票を見れば、前の住所や引っ越し先、家族関係など、まず最低限の情報が得られる。役所によっては、事情を話せば戸籍を見せてくれるところもあった。
それほど当時は、プライバシーや個人情報の管理について、いいかげんだったわけだが、ある騒動をきっかけに、一切、それらがダメになった。
1984年に週刊文春が「疑惑の銃弾」としてスクープ報道した、”ロス疑惑”である。逮捕された三浦和義が、マスコミに対してプライバシー侵害・名誉棄損で、膨大な数の訴訟をおこしたのがきっかけだった。
その後、いまでは、マイナンバーカードのようなオフィシャルな自己証明がないと、場合によっては自分の住民票ですら、すぐには閲覧できなくなっている。
よって、いまの時代、行旅死亡人の身の上を、一般メディアの記者が取材することは、容易ではないのである。
それにかわって登場したのがインターネットだ。2人の記者は、この”文明の利器”を最大限に活用し、意外な事実に、徐々に迫っていく。
たとえば、室内に残されていた、珍しい苗字の印鑑。調べると全国に100人ほどしかいないらしい。これを「田中千津子」の旧姓ではないかとにらんだ記者は、ネット検索で、この苗字の家系を調査しているブログを発見する。さっそくメールで連絡をとると、先方も好意的に協力してくれる。その後、かなりの時間と手間を要したが、結局、これがきっかけで、「田中千津子」の素性は判明するのだ。
そのほか、「田中千津子」のかつての勤務先や同僚を、過去の新聞記事の検索から見つけたり、フェイスブックで確認したりと、ネット情報によって次々と突破口が開けるのである。その過程は、凡百のミステリもかなわないほどの迫力と展開だ。
最終的に、「田中千津子」が、どこの誰で、どんな人生をおくってきたか、おおむね判明する。しかし、なぜ、あのような謎の隠遁生活をおくっていたのかは、不明のままである。
一時は、北朝鮮の連絡員ではないかとの疑問も浮上したが、それも証明はできなかった。
その一方で、そんなに不思議な老人だったのか、との思いも浮かぶ。その年齢まで、安いアパートで地道に暮らしていれば、3400万円貯まることだって、あるだろう。指を事故で失ったせいで、なんとなく人付き合いを嫌い、それゆえ、隠れるような毎日だったようにも思える(このアパートに風呂はなかった。近所の銭湯には聞き込みに行かなかったのだろうか)。
女性の名前では部屋も借りにくいので、知人男性の名前を借りた可能性もある。
だとすれば、「田中千津子」は、普通の、地味で孤独な老人だったかもしれないのだ。
なのに、これほどまで、身の上がすぐにはわからない、いまが、そういう時代であることのほうに、不気味な闇を感じる。
そんなことを伝えてくれる、異色の取材記である。
【本稿は、書評サイト「本が好き!」への投稿を改訂・転載したものです】
◇『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志、伊藤亜衣/毎日新聞出版)
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