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2023.03.30 (Thu)

第392回 76年ぶりに再演、早世の劇作家・加藤道夫が「いま」に伝えるもの

挿話チラシ
▲文学座アトリエの会『挿話〔エピソオド〕~A Tropical Fantasy~』(リンクは文末に)


劇団四季のファンならば、『思い出を売る男』をご存じだろう。
また、歌舞伎ファンだったら、『なよたけ』をご覧になっているかもしれない。竹取物語を原案とした芝居で、先代市川團十郎や、当代中村芝翫らも、若いころに演じている。坂東玉三郎演出の公演もあった。市川雷蔵が映画化を切望していた作品でもあった。

これらを書いた劇作家が、加藤道夫(1918~1953)だ。
戦前から芥川比呂志らと演劇グループを結成し、戦後、文学座に合流。夫人は、女優の加藤治子(1922~2015)である。
だが、戦争中に陸軍省の通訳官として南方に赴任し、重いマラリアに罹患する。戦後も再発し、闘病と入院を繰り返しながらの演劇活動だった。
そのため厭世的になったのか、昭和28(1953)年に自殺。35歳の若さだった。

そんな加藤道夫が、終戦後間もない昭和23(1948)年に発表した戯曲が『挿話〔エピソオド〕 A Tropical Fantasy』だ。翌年に、文学座が初演した。
だが、以後、この作品は一度も上演されることなく、一般の演劇ファンにとって加藤道夫はほぼ『思い出を売る男』『なよたけ』のみで知られる作家となって今日に至っている。

その『挿話』が「76年」ぶりに、文学座アトリエの会によって再演された(的早孝起演出/3月14~26日、文学座アトリエにて)。
なぜ、いまの時期に再演されたのだろうか。

時は「一九四五年八月二十日と推定される日」、所は「南海の果のヤペロ島と称するパプア族の住む島」
この島に残っていた、日本兵たちの物語である。
冒頭、日本軍の通訳・守山(作者の分身)の「声」がスピーカーから響く。

声(守山)「之は実際にあつたことであります。作者が実際に経験した事実の記憶から作り上げられたものであります。/それは昔々と言ふにはあまりにも真新しい記憶。――丁度、今から八年前。あの長かつた太平洋戦争が突如終焉した日のことであります。」
「これは、今次戦争の終戦が齎〔もたら〕した、ほんの小さなエピソオドであります。」


島に取り残されていた日本兵らは、米軍の伝単(宣伝謀略ビラ)で、終戦を知る。最初は本気にしない師団長だったが、先住民たちがお祭りをはじめたのを知り、敗戦の事実を受け入れる。
だが師団長は、新たな恐怖に襲われる。彼は、かつて、この島に上陸するや、先住民たちを自慢の日本刀で斬殺していたのだ。

やがて師団長は、彼らが生きていて、復讐に来るとの幻惑にとりつかれる。実際、先住民たちが亡霊となって師団長の前にあらわれる。だが復讐に来たわけでもなさそうで、なにかを訴えているようでもある。師団長は次第に衰弱し、錯乱状態に陥っていく。

終幕近く。彼方から、先住民たちの祭りの歌が聴こえてくる。

倉田(師団長)「……何の歌ぢや? あれは……」
守山「あれは、土人達が死者の霊を祝福するトラモワの祭りの歌であります。彼等は、ミタロと言ふ木彫の像を立てゝ、その廻りを踊り狂ってゐるのです。」(略)
倉田「(うはごとの様に)……む。さうぢや。……儂は行かにやならん。(略)儂は、これまでに、一度として、奴等のところに行つてやつたことがなかつた。……一度として、奴等の村を訪れてやつたことがなかつた。」(略)
藤野「閣下! 未開の土人どもの邪教であります。文明人であられる閣下が、あの様なものに心を奪はれるとは……」


師団長は、うつろな状態のまま、先住民の村へ向かって舞台から去る。

ここで幕が下りていたら、この戯曲は、戦争犯罪の愚かさを、演劇ならではの象徴性をもって表現した、反戦劇の一種で終わっていただろう。占領軍の検閲を受けているとしたら、”優良作品”として歓迎されていたかもしれない。

ところが、このあと、ふたたび守山の「声」が流れる(今回の再演では、本人が舞台上に登場した)――半年後、オランダ軍が進駐してきて、我々は帰国できることになった。師団長と参謀長は戦犯として逮捕されたが、師団長は精神異常を理由に放免された。
しかし、

声(守山)「彼は我々と共に復員船に乗ることをどうしても肯〔がえ〕んじませんでした。……閣下は、ミタロの神に取り憑かれてしまつたのであります。〈土〉の神が彼の全精神を占めてしまったのであります。(略)故国は彼の脳裏から全く消え去つてしまつたのであります」

※ここで思い出されるのは、竹山道夫の小説『ビルマの竪琴』だ。ちょうどこの『挿話』発表直前に連載が終了し、単行本化されている。『挿話』は、加藤の実体験が素材だが、この小説も脳裏の片隅にあったかもしれない。

そして、ほかの日本兵たちの“現況”が述べられる。戦犯の参謀長が異国の地で強制労働に従事しているらしきほかは、みんな、商売で成功したり、労働組合で闘争活動をやっていたりと、ふつうの戦後をおくっているという。
守山は、ヤペロ島に行って、もう一度先住民たちと会い、「倉田閣下の思ひ出話に時を過してみたい」と願う(「倉田本人に会いたい」とは、言わない)。

ここにきて、物語は、副題にある“ファンタジー”であることが明確になる。わたしたち観客は、2時間弱の“まぼろし”を見せられたのである。
おそらく初演当時は、つい「8年前」の物語だけに、リアルに受け取られただろうが、さすがに76年もたつと、どこか諧謔的というか、コミカルな空気さえ漂う。だが、それでこそ、作者が目指したものは、ようやく76年目にしてファンタジーとして“完成”したともいえるのである。

作者の分身である「声」は、こう締めくくる。

声「……私は、愚かなるが故に人間を憎むものではありません。……併し、愚かなる人間達が不知不識〔しらずしらず〕の裡に犯してしまふ恐ろしい〈過誤〉〔あやまち〕だけはどうしても憎まないでは居られないのです」


今回の『挿話』再演は、2021年秋に決まったという。「グレート・リセット~危機を抱きしめて~」のテーマで、文学座内で公募され、選ばれたらしい。コロナ禍の下、東京オリンピック・パラリンピックが開催された直後だ。

このような作品を復活させる文学座の“発掘力”には感心させられる。ところが、“死者の声”に耳をかたむけるファンタジーのはずが、現実をなぞることになってしまった。
2022年2月、ロシアがウクライナ侵攻を開始した。「知らず知らずのうちに犯してしまう恐ろしい過誤」がふたたび地球上を覆いはじめる、その恐怖を、あらためて感じさせてくれた、加藤道夫の『挿話』とは、そんな“未来を見越した芝居”だったと思う。

新劇の公演期間は短い。こうやって紹介したり、口コミが広がるころには、公演は終わっていることがほとんどだ。
諸権利の関係で容易でないことはわかっているが、できれば、動画配信でもいいから、もっと多くのひとに観てもらいたい作品だった。
〈敬称略〉

※本文中の『挿話』台本は、『加藤道夫全集』全一巻(昭和30/1955年9月、新潮社刊)より引用しました(漢字は新表記にあらためました)。また、本稿執筆に際して文学座文芸編集室にご協力いただきました。御礼申し上げます。

◇文学座『挿話』サイトは、こちら
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2023.03.24 (Fri)

第391回 名曲喫茶で聴く《レニングラード》(下)

NBC.jpg
▲1942年7月19日のライヴ(CD化は数種類あるが、これはもっとも音質がいいといわれている「オーパス蔵」盤)。

前回からのつづき)

ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》は、誰もが、クーセヴィツキーがアメリカ初演をすると思っていた。

しかし、実はNBC放送局が、昨年1月、クイビシェフにおける初演時、リハーサルでも一音も耳にせず、どんな曲かもわからないうちに、モスクワ支局を通じて、西半球初演権の交渉を始めていたのだ。そして、すでに4月に、NBCは、アメリカ初演権を手中にしていたのである。


だが、問題は「誰に指揮をさせるか」だった。
NBC交響楽団といえば、トスカニーニのラジオ放送用に設立されたオーケストラだから、当然ながらトスカニーニが指揮するのがふつうである。ところがこの時期、トスカニーニは、NBC側と意見が合わず、同団を一時辞任し、離れていた(そもそも、もうトスカニーニは「定期演奏会」活動は引退していたのである。それを、NBCは、新しい交響楽団をつくって、「ラジオ放送だけですから」と、老体をむりやり引っ張り出させていたのだ)。
もう一人、ストコフスキーもNBC響と縁が深いとあって候補にあがったが、彼もトスカニーニも、ともに、来シーズンから、W常任指揮者としてカムバックすることになっており、この時期は、NBC響とは“無縁”状態だったのだ。

NBCは、交響曲第7番そのものと、演奏するオーケストラは手中にしたが、指揮者については、確定できなかった。トスカニーニもストコフスキーも、NBCとの共演は来年の契約であり、まだ先である。しかし、マエストロ・トスカニーニだったら、このスコアを見て気に入れば、この夏、指揮すると言い出すかもしれない(4年前に、彼はショスタコーヴィチ第5番の初演をオファーされ、断っていたのだが)。そこで、スコアがトスカニーニのもとへ届けられた。NBC側は息を呑んで反応を見守った。スコアを見るや、彼はこう言った。「非常に興味深い、これは効果抜群だ」。彼はもう一度スコアを見て、こう言った。「Magnificent!」(素晴らしいぞ!)。


このときトスカニーニは、15歳年下で還暦のストコフスキーに「わたしのような反ファシズムの老人が指揮してこそ、効果がある。キミはまだ若いのだから、ショスタコーヴィチを初演する機会は、いくらでもある」との手紙をおくったそうだ。
かくして、クーセヴィツキーもストコフスキーも、

実際は、ライバルである75歳のトスカニーニに先を越されていたのである。トスカニーニは、クーセヴィツキーより1カ月前の7月19日に第7番を指揮すると発表した。/(略)ストコフスキーはがっかりして西海岸に戻り、ロジンスキーは見向きもしなかった。NBCは、オーケストラの奏者を、この曲が必要とする大型編成に増員した。近視のマエストロ、トスカニーニは、毎晩、スコアに鼻を突っ込むようにして暗譜に励んでいた。

※トスカニーニは、基本的に暗譜で指揮した。極度の近眼で、スコアが見えにくかったためといわれている。

このころのクラシック指揮者たちの動向は、よくいえば“個性的”、悪くいえば“エゴのかたまり”で、昨今とのあまりにちがうド迫力に、驚くばかりである。

しかしとにかく、1942年7月19日、ニューヨークのNBCスタジオで、トスカニーニ指揮、NBC交響楽団によるアメリカ初演がおこなわれ、全米にナマ中継された(録音を聴くと、拍手が入っているので、スタジオ内に聴衆を入れたようだ)。

後年、この録音を聴いたショスタコーヴィチは「腹が立った。すべて間違っている。やっつけ仕事である」と語ったそうだ(ただし、偽書といわれているヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』内の記述)。たしかに、特に弦楽器の奏法が、現在とはちがっていたりして、違和感をおぼえるひとがいるだろう。
それにしたって、「初演」で、1時間強、ぶっつづけで圧倒的な演奏を繰り広げるトスカニーニは、まことに恐るべき老人だとしかいいようがない(何度も述べるが、このとき「75歳」である)。
この時期、問題のレニングラード包囲戦はまだつづいていた。そんな、いま現在起きている戦火のなかから生まれた抵抗の音楽を、同時進行のように演奏したのだから、熱が入ったことだろう。

そのラジオ放送録音を、約80年後の2023年2月、渋谷の名曲喫茶「ライオン」で聴いたわけだが、考えてみれば、《レニングラード》が初演された日も、「ライオン」は渋谷で営業していたはずである。
その日は、すでに太平洋戦争に入っており、1か月前のミッドウェイ海戦で、日本海軍の空母機動部隊は全滅していた。
また、ほぼ同じ日には、フランスで、ナチスドイツによる「ヴェル・ディヴ事件」が発生している。一挙に1万人以上のユダヤ人が検挙され、絶滅収容所へ送られたホロコーストだ。アラン・ドロン主演の映画『パリの灯は遠く』(1976)で描かれた事件である。
そして「ライオン」は、1945(昭和20)年の東京大空襲で、全焼する。戦後、1950(昭和25)年、往時とおなじ形で再建復活し、いまに至る。

ショスタコーヴィチは、この曲で、ナチスドイツへの抵抗だけでなく、ソ連当局の全体主義も批判しているとの解釈もあるらしい。
そんな音楽に、ウクライナ侵攻がつづく2023年2月、名曲喫茶「ライオン」でじっと耳を傾けているひとたちがいた。
ビリビリ震える「ライオン」のスピーカーに向かいながら、薄暗い店内で、あたしは、「名曲喫茶に消えないでほしい」と、心から願っていた。


【余談①】
前回冒頭で述べた中野の名曲喫茶「クラシック」は、創業店主の美作七朗氏が1989年に逝去、以後は娘さんが継いでいましたが、2005年に逝去され、閉店となりました。
しかし、”遺伝子”は残っています。阿佐ヶ谷「ヴィオロン」、高円寺「ルネッサンス」、国分寺「でんえん」の3店は、いずれも、中野「クラシック」の流れを汲む、正統派「名曲喫茶」です。

【余談②】
3月18日、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団の定期で、本曲が演奏されました(高関健・指揮)。真摯で素晴らしい演奏でした。
4月15日にも、神奈川フィルハーモニー管弦楽団が演奏します(沼尻竜典・指揮)。

16:35  |  コンサート  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.03.22 (Wed)

第390回 名曲喫茶で聴く《レニングラード》(上)

ライオン
▲1926(昭和元)年創業、渋谷の名曲喫茶「ライオン」(筆者撮影)

あたしは中央線・中野駅のすぐそばで生まれ育ったので、中学・高校・大学の10年間、中野駅北口にあった名曲喫茶「クラシック」に入り浸っていた。この店について述べ出すと終わらないので省くが、かつては、都内のあちこちに「名曲喫茶」があったものだ。多くは閉店したが、当時のまま営業をつづけている店もある。

そのひとつが、渋谷の名曲喫茶「ライオン」だ。創業は1926(昭和元)年だという。渋谷の百軒店、ラブホテル街に隣接する一角にある(中学高校のころは、このあたりはちょっと怖くて、気軽に歩けなかった)。
あたしは、大学生時代によく行ったが、いまでも、すぐそばの映画館キノハウス(ユーロスペースや、シネマヴェーラ渋谷)に行くと、その前後によく寄る。

店内には大量のLPレコードがあり、巨大な「帝都随一を誇る」「立体再生装置」から、一日中、音楽が流れている。「聴く」ことが目的の店なので、店内で会話はできない。客の全員が黙ってスピーカーに向かって座っている光景は、いまの若い方々には異様に映るだろうが、これが名曲喫茶の常態なのである。

この「ライオン」では、毎日、15時と19時に、店主お気に入りのレコードをかける「ライオン・コンサート」が開催されている。ジョスカンの《ロム・アルメ》とか、カラヤンの1955年ルツェルン音楽祭ライヴとか、マニア泣かせの選盤である。レコードをかけるだけとはいえ、キチンと日程・曲目・演奏者を印刷したプログラムが事前に配布されるので、「コンサート」のムード満点である。

その「ライオン・コンサート」、2月26日(日)は、「トスカニーニ アメリカ初演時のレニングラード」と題して、ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》(トスカニーニ指揮、NBC交響楽団/1942年放送ライヴ)がかかった。
あたしも行って、ひさびさに聴いたが、パチパチ針音のする古いモノラル音源ながら、巨大なスピーカーをビリビリ震わせて轟きわたる《レニングラード》は、凄絶な迫力である。この「アメリカ初演」(ラジオ放送)を、戦時中のアメリカ市民は、どう聴いただろう。トスカニーニの棒は荒れ狂う一歩直前だ。地響きさえ伝わってくる。もし一般のマンションだったら、苦情どころか、警察に通報されるであろう。落ち着いたピアノ曲もいいが、こういう楽しみも、名曲喫茶の醍醐味なのだ。

この、ショスタコーヴィチ作曲、交響曲第7番《レニングラード》は、1942年初演。彼の交響曲のなかでは、第5番に次ぐ有名人気作品だ。
この曲の誕生と現地初演の経緯は、音楽作家、ひのまどか氏によるノンフィクション『戦火のシンフォニー: レニングラード封鎖345日目の真実』(新潮社、2014年刊/リンクは文末に)に、詳しい(余談だが、不肖あたしの担当編集で、42年間の編集者生活のなかでも、特に思い出深い一書だった)。

第2次世界大戦で、ドイツ軍に包囲されたレニングラードは、すべてのライフラインを絶たれ、900日間にわたって極限の封鎖状況に置かれた。砲弾・爆撃の嵐、強奪、凍死、餓死、人肉食………地獄絵図が展開し、正式発表で63万人、実際には100万人以上の一般市民が命を失った。
この900日間を耐え抜き、ドイツ軍を退けたレニングラード市民の戦いを素材にした音楽が、ショスタコーヴィチの交響曲第7番である。初演は1942年3月に、当時の臨時首都クイビシェフでおこなわれたが、同年8月、包囲され餓死が続出するレニングラード市内で演奏しようとするひとたちがいて、凄絶な現地初演が実現する(上記・ひの本は、その過程を、現地取材で再現した労作である)。

この曲が西側社会に与えた衝撃は大きかった。特に、迫りくるドイツ軍の軍靴の響きと、これに抗う一般市民の哀しみを思わせる第1楽章は、およそ人類が聴いてきたあらゆる音楽のなかで、これほど激しい表現はあるまいとさえ思われる迫力だった。
ソ連政府は、この曲こそは「ファシズムに対する戦いと勝利の象徴である」と、世界中に発信した。初演から3か月後の6月には、ロンドンで国外初演され、これまた、たいへんな反響を巻き起こした。

この曲を、「世界を主導する民主主義国家」アメリカが見逃すはずはなかった。敵対国ドイツに対する最大の意思表示にもなる。
すぐに、壮絶なアメリカ初演の争奪戦が展開した。
その過程を、週刊誌「TIME」1942年7月20日号が、「ショスタコーヴィチと銃」と題して、レポートしている。この記事は、「TIME」ウェブサイトが無料でネット公開しているので、主要部分を抄訳してみよう(全文リンクは文末に)。

TIME.jpg
「TIME」1942年7月20日号の表紙(消防隊姿のショスタコーヴィチ)

今週の日曜日、NBC交響楽団の特別番組が放送される(東部標準時間:午後4時15分~6時)。
いま25歳のマルクス主義のミューズ(音楽の女神)、ショスタコーヴィチが、レニングラード郊外での塹壕掘りと、音楽院屋上での消防隊勤務の合間に書き上げた、もっとも野心的で巨大な第7交響曲が西半球で聴ける、最初のチャンスである。
1903年の《パルジファル》マンハッタン初演以来、ひとつの音楽に、これほどアメリカ中が期待を寄せたことはない。

※ショスタコーヴィチは1906年生まれなので、このころ35~36歳だったはず。「25歳」は誤記と思われる。

先月、アメリカに届いた5インチほどの小さなブリキ缶の中には、交響曲第7番の楽譜が、100フィートのマイクロ・フィルムにおさめられて入っていた。初演地クイビシェフからテヘランまでは飛行機で、そこからカイロまでは自動車で、さらにニューヨークまでは飛行機で、運ばれてきたものだ。専門家たちは、そのフィルムをプリントする作業に取りかかった。10日間で4冊、252頁もの大型スコアが出現した。


この当時、戦火のソ連からアメリカまで、(ドイツにとっては面白くない)マイクロ・フィルムを安全に運ぶのはたいへんなことだった。実は、この過程も、まるで「スパイ大作戦」のような興趣あふれるエピソードが多く伝わっているのだが、ここでは省く。
問題は、このマイクロ・フィルムが届くまでに、アメリカ国内で展開していた、ある大乱戦(Battle Royal)である。

アメリカを代表する3人の指揮者が、栄光あるアメリカ初演の獲得をめぐってBattle Royalを繰り広げていた。銀髪のストコフスキー、クリーブランド管弦楽団のロジンスキー、ボストン交響楽団のクーセヴィツキーである。
誰もがクーセヴィツキーの勝利を確信していた。彼は交響曲第7番の楽譜を見てもいないのに、アメリカにおけるソ連音楽の代理店「the Am-Rus Music Corp.」に掛け合って、いちはやく西半球での初演権を獲得していたのだ。そして、8月14日にバークシャー・ミュージック・センターの学生オーケストラが初演すると発表した。


ところが、そうは問屋が卸さなかった。
事態は、おどろくべき方向に展開していたのである。
(この項、つづく)

◇名曲喫茶「ライオン」は、こちら

◇『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』(ひのまどか/新潮社)電子書籍版は、こちら。中古本であれば、Amazonなどでも入手容易です。

◇「TIME」1942年7月20日号「Music: Shostakovich & the Guns」原文記事全文は、こちら

17:06  |  コンサート  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.03.19 (Sun)

第389回 ついに消費者法の専門家も指摘しはじめた、「ほとんどS席」の理不尽

帝国劇場
▲1階は端までS席の「帝国劇場」(帝劇HPより) ※本文参照

PRESIDENT Onlineに、看過できない記事が載った。
《日本特有の「名ばかりS席」を許してはいけない…消費者法の専門家がエンタメ業界の悪慣習に怒るワケ 日本人はもっと怒ったほうがいい》だ(3月7日17時配信。リンクは文末に)。
筆者は日本女子大学家政学部の細川幸一教授。消費者政策、消費者法が専門で、略歴には〈歌舞伎を中心に観劇歴40年。自ら長唄三味線、沖縄三線を嗜む〉とある。
記事の要旨は、日本の劇場は、ほとんどがS席(最高額席)で、これはおかしいとの指摘である。

あたしは、この声を待っていた。しかも、こういうことの専門家がキチンと発信してくれて、喉のつかえが下りたような気分だ。
読者諸兄もご経験がおありだろう。「最高額のS席を買ったのに、なんで、こんな端っこの席なの?」……と。いったい、日本の舞台公演における、いいかげんな席種設定「ほとんどS(最高)席」状態は、どうにかならないのだろうか。

この記事で、細川教授はいくつかの実例をあげているが、特に同感を覚えたのが、帝国劇場の席種だ。

例えば、東京・日比谷の帝国劇場で行われた「KINGDOM」2月公演。席種はS席、A席、B席の3ランクあるが、席数の半数以上が最上級グレードのS席だ。価格はS席1万5000円、A席1万円、B席5000円で最大3倍の開きがある。


そして、座席表を掲げて(冒頭の図)、 

1826席中、S席の割合は61%ほどになる。(略)/帝劇はかなりの大劇場で、左右も広い。奮発してS席を購入し、いい席で音楽や演劇を楽しもうと期待しても、実際はA席と変わらないということもよくある。/例えば、2階5列目の一番端はS席であるが、6列目は中央でもA席になっている。5000円の差があるが、6列目中央のA席の方がはるかに見やすいだろう。S席を購入した客がかわいそうである。


あたしも、帝劇では、何度も似たような経験をしている。
とにかくあの劇場は、横に広く、しかも1階はフロアがフラットに近いので、S席を買っても、端や後方、ましてや2階の端だったりすると、たいへん見にくい(映画好きだったら、新宿武蔵野館のフロアがフラットで、前に大柄な客が来たらスクリーンがほとんど見えなくなった経験があるだろう。あれに近い)。舞台セットによっては、1階端だと見切れ(舞台が全部見えない)になることも多い。それでもほとんどはS席だ。

最近は、ネットで席を選べるのだから、そんな席を買わなければいいのに、と思われるかもしれない。しかし、実際には発売日にネット接続しても、まともな席は完売で、結局、S席は、端か後方しか残っていないことがほとんどである(歌舞伎や文楽は、特にそれが顕著)。

最近、芝居に行くと「前かがみになると、後方のお客様が見えにくくなるので、お控えください」とのアナウンスが流れる。あたしの知る限り、こんなことを言い出したのは、帝劇が最初だと思う。
しかし、そういう席を最高額で売っているのだから、文句を言いたくなるのは無理もない。

とにかく日本の劇場の席種設定は、あまりに雑すぎる。
先日も、Bunkamuraシアターコクーンで、宮沢りえ主演の『アンナ・カレーニナ』(Bunkamura主催)を観たが、この公演は、S席11,000円、A席9,000円の2種類しかなかった(ほかに、「特に見えづらい」コクーンシート5,500円がすこしある)。
たまたま、あたしの行ける日で、もっとも舞台に近い空席は2階LのA席しかなかったので、そこを買ったら、案の定、見切れ(舞台の下手半分近くが見えない)だった。

あの劇場に見切れ席があることはオープン時から知っていたので、それはいいのだが、だったら、A席の下のB席に設定するか、コクーンシートにするべきだ。ともにA席なのに、数席はなれたところではきちんと見えて、こちらは見切れ。これでおなじ金額とは、あんまりではないか。
見切れ席となったら、どうしたって身を乗り出しかねないのが、ひとの常だろう。
劇場側もそれをわかっていながら、しつこいほど「前かがみにならないで」とアナウンスをし、客席にまで入ってきて口頭で注意される。
見切れ席を、普通に見える席と同額で売っておいて、身を乗り出すなという。我々は、そこまで我慢して、高いカネを払って「見えない芝居」を観劇しなければならないのだろうか。

コクーンの場合、たしかにHPでも「2階A列は、手すりが視界を遮る場合がございます」などと、まるで、時々そういう事態が発生するかもしれないようなお断りを載せているが、「場合がございます」どころか、100%そういう席だとわかっているのだから、これは最初から別にしてほしい。お断りを載せればいいというものではないと思う。

たまたま帝劇やコクーンを例にあげたが、これは、ほかの劇場――歌舞伎座、新橋演舞場、国立劇場(特に小劇場の文楽!)、新国立劇場(特に中劇場の演劇!)なども同様である。

これに対し、細川教授は、記事中で、海外の劇場はいかに細かい席種に対応しているかをあげている(記事中には座席表図あり)。

ニューヨークやロンドンの劇場では日本に比べて席種の分け方が細やかな場合が多い。/例えば、ライオンキングのロングランで知られるロンドン・ライセウム劇場(Lyceum Theatre)の席種例を見てみよう。/価格帯は15に分かれている。ステージへの近遠だけでなく、左右、また視野なども考慮してかなり細かく席種が分類されていることが分かる。/(略)座席のレビューや口コミも重視される。「whichseats.com」(London Lyceum Theatre Seating Plan and Seat Reviews)は、観劇客が自分で購入した座席の見えやすさ、快適さ、足元の広さを評価しており、レビューされている。/ロンドン劇場のすべての座席について情報を収集して公開している。料金が変動するので、平均購入価格も表示される。「お金の値打ち」をシビアに考慮する欧米人にとって座席の良しあしは重要な「選択情報」なのだ。

(この座席レビューは一見の価値あり。日本にも似たような情報サイトはあるが、これほど本格的なレビューではない。whichseats.comのリンクは文末に)

あたしも、細川教授ほどではないが、ロンドンやニューヨークで、演劇やオペラ、ミュージカルなどを何度か観てきた。たしかにそのたびに、いったいどう選べばいいのか迷うほど細かい席種に、驚くばかりだった。
たとえば、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)の場合、1~5階席(事実上6フロア)あって、各フロア内が、さらに細かく設定されている。金額や席種は、演目や季節、マチネによって変動するが、おおむね、1階中央が$299~$385、最上階サイド(見切れ席が多い)が$45~$49である。その中を30種近くの席種に分け、約8倍の差を付けているのだ。

MET2.jpg
▲ある公演のMET座席表。各フロア内がさらに細かく分かれている。

いまでもあるのかどうか不明だが、あたしがMETによく行っていた30年ほど前には、最上階の奥に、見切れどころかステージが完全に見えない、穴倉のようなさらに安い席があり、譜面台が設置されていた。音大生やオペラ歌手の卵が、スコアを見ながら「音」を聴いて勉強するための席である。
こういうのを「文化」というのではないか。

もう一例をあげると、これはロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスにおけるバレエ公演の席種。
この細かさをご覧あれ!

ロイヤル・バレエ
▲ロイヤル・オペラ・ハウスのバレエ公演

欧米の歌劇場と日本の劇場を比べても意味がないといわれればそれまでだが、それでも、もう少し細かくして、せめて、「見やすい席」と「見にくい席」を同額で売ることは、やめてもらえないか。
細川教授の記事中にもあるが、劇団四季はたいへん細かく席種を分けているし、明治座3月の松平健公演のように、少し安い「見切れS席」「見切れA席」などを出しているところもある。
日本のオーケストラ定期会員の席種も、実に細かい。たとえばN響の、ある月のNHKホール定期では、一般券を9800円から2800円まで6種に設定している。25歳以下の場合は、さらにその半額だ。商業演劇とオケ定期を同列には論じられないが、参考にするべき事例だと思う。

今回の記事は、消費者法の専門家による寄稿だが、本来、こういう主張は、演劇評論家のような専門家から起こるべきだと思う。もしかしたら、すでに発言している方がいるのかもしれないが、少なくとも、PRESIDENT Onlineのような、膨大な数の読者がいるメディアでは、いままで見かけたことはなかった。招待席で見ている評論家諸氏は、そんなことは感じないのだろうが、舞台公演は評論家ではなく、われわれ一般消費者、特にゴーアーたち(goer=常連)が支えているのである。

日本人は、高いカネをはらって「見せてもらっているのだから」「役者さんも一所懸命なのだから」と遠慮しているひとが、多すぎる。
あたしたちは公演を買っている「消費者」なのである。しかもその金額は、大劇場の場合、数千円どころか、1万円を超えることがほとんどだ。
スーパーで買った生鮮食料品が傷んでいたら、当然、苦情をいうだろう。「我慢して強火で炒めて食べてください」といわれて「わかりました。スーパーさんもたいへんですよね」と引き下がる消費者がいるだろうか。
見えにくい席を最高額のS席で買わされて文句をいわないのは、上記とおなじだ。こういうのを消費者不在の商法というのではないか。
細川教授が述べているように、あたしたちは、もっと怒るべきではないか。


◇PRESIDENT Online《日本特有の「名ばかりS席」を許してはいけない…消費者法の専門家がエンタメ業界の悪慣習に怒るワケ 日本人はもっと怒ったほうがいい》は、こちら

◇ロンドンの劇場の席を徹底評価する「whichseats.com」は、こちら(これは、ノヴェッロ・シアターの席評価ページ)。


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2023.03.14 (Tue)

第388回 【新刊紹介】「ニュータイプ文化人」の誕生を告げる、革命的な一書!

ルーマニア引きこもり
▲『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』(済東鉄腸著、左右社) ※版元リンクは文末に。

「ルーマニア」の作曲家といえば、やはりジョルジュ・エネスク(1881~1955)だろう(以前は「エネスコ」と綴られていた)。《ルーマニア狂詩曲》第1・2番などで知られる。ヴァイオリニストとしても有名だった。メニューヒン、グリュミオーは彼の弟子である。
むかし音楽の教科書に載っていたワルツ《ドナウ河のさざなみ》を作曲したヨシフ・イヴァノヴィチ(1845~1902)もルーマニア人だ。彼は歩兵連隊の軍楽隊長だった。
大ピアニストのクララ・ハスキル、ディヌ・リパッティ、ラドゥ・ルプ……これみんな、ルーマニア出身である。

文学で最大の存在は、作家・思想家のエミール・シオラン(1911~1995)か。あたしごときには、よくわからないのだが。
日本では、不条理劇『授業』で知られるウジェーヌ・イヨネスコ(1909~1994)のほうが有名かもしれない。中村伸郎が、10年余にわたって毎週金曜日に渋谷のジァン・ジァンで演じ続けた。

あと、ルーマニアといえばドラキュラ伝説(ブラム・ストーカーの創作だが)、そして独裁者チャウシェスク(1918~1989)。あるいはカンヌ映画祭でルーマニア初のパルムドール(最高賞)に輝いた映画『4ヶ月、3週と2日』(クリスティアン・ムンジウ監督、2007)か。

……と、思いつくままランダムにあげたが、あたしの場合、ルーマニアといえばこれくらいで、あとは、せいぜいEUフィルムデーズや東京アニメアワードフェステバルで、「そういえばルーマニアの映画やアニメを観たこともあったなあ……」といった程度だ。

それだけに、こういうひとがいて、こういう本が出たことには、心底から、驚いた。
内容は、この長い書名『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』が、すべてを物語っている。
著者の済東鉄腸氏は、1992年生まれの若さ。「キネマ旬報」などに寄稿する映画ライターだったそうだ。
いまでも、日本未公開映画を専門に紹介するオンライン・マガジン「鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!」を運営している。カメルーン映画やパナマ映画など、どれも驚愕の内容なので、ぜひご一読していただきたい(リンクは文末に)。

「引きこもり」というと、よくドラマや映画で描かれる、部屋から一歩も出ずにカーテンを閉め切り、食事はドアの前に置かれている、そんな状態を想像しかねないが、彼の場合は、少々ちがう。

俺は、そう引きこもりだ。昔からどこまでも内向的な、考えすぎ人間で、大学を卒業した二〇一五年からは色々あってマジの引きこもりになって今ここに至ってる。現在進行中だ。もう少し正確に書くんなら、二〇一五年から二〇二〇年までは週一でバイトして、映画観る金くらいは一応稼いでいたんだ。だが二〇二〇年以降にコロナが蔓延してバイトが消し飛んでからは、居るのは家か図書館か、図書館横のショッピングモールかって感じ。さらに二〇二一年からはクローン病って腸の病気にもかかっちゃって、安静を余儀なくされている……。で今現在って流れだ。


で、部屋にこもってネットなどで映画ばかりを観るようになる。その感想をツイッターやブログに投稿して〈映画批評家の猿真似〉をするようになった。
ここで著者は、たいへん重要な真理をズバリ述べる。

だが実際、真似事っていうのは重要だ。/批評にしろ創作にしろ、スポーツにしろ語学にしろ、そして生きることそれ自体にしろ、模倣というやつから全てが始まるからだ。


どうもこの著者は、単なる「引きこもり」ではないような予感をおぼえはじめる。
そんな〈猿真似〉をしているうち、日本の映画批評家に不満を覚えるようになる。

日本の映画批評家は、映画の語り方に関する美学が肥大するばかりで、語るものへの美学がないと感じたんだった。つまり日本で上映される、日本語字幕のついた作品しか論じないんだよ。それから金を払われなければ書かない、媒体に場を用意されなければ書かない。/(略)やつらは過去の映画史にしがみつくか、日本で公開される映画へ近視眼的に注目するばかりなんだ。今まさに築かれようとしている歴史を見ようとしない。俺にはそれがつまらなかった。


こうして、海外の最新日本未公開映画ばかりを観るようになり、あるルーマニア映画(邦訳なし)に出会い、衝撃を受けて、ルーマニア語に興味を持つようになり、独学をはじめるのだ。
いったい、日本語字幕もないこれらを観て、最初にどうやって理解したのか、それほど何でも配信で観られるのか、あまり詳しく書かれていないのだが、どうもこの著者は、尋常な才能の持ち主ではないらしいことが、次第にわかってくる。本書が“キワモノ本”でないことがはっきりするのは、このあたりからだ。

まず、この著者は、語学に対する感度が、凡百とは決定的にちがう。苦労した様子は書かれているが、もともと「才能」があったとしか、思えない。小説や映画の「物語」の理解力も、たいへん深い。
文章は一見荒っぽいが、実はとても繊細で、このひとの本質は、通俗を超えた「純文学」にあることもわかってくる。物言いはやたらと自信たっぷりだが、明らかに裏打ちがあるので、嫌味は感じない。

そして、室内で「引きこもり」ながら、ネットを通じて、ものすごい発信力、行動力を爆発させる。ツイッター、ブログ、フェイスブックなど、あらゆるSNSを駆使して、ルーマニアの映画監督や作家、書評家、オンライン・マガジンなどと“交流”をはじめるのだ。ルーマニアにはAmazonがないので、彼の国の本を取り寄せるにあたっては、輸入代行サイトを紹介してもらった。
そのうち、さる女性作家と知り合いになり、彼女が来日した際には六本木で会い、一緒に蕎麦を食べたりする。実にすごい「引きこもり」である。

ここから先は一瀉千里だ。
映画批評を大量に書いていると〈物語をどう書けばいいかが自然と分かってくる。ある時期から、俺は誰に言われるでもなく小説を書き始めていた〉! そして、それを自分でルーマニア語に翻訳してルーマニアの”友人”に送ってみると、みんな興味を持ってくれて、ついにネット文芸誌に掲載されるようになる。

ここからあとも、さまざまな出会いや展開があり、著者は、あっという間にルーマニア文壇でかなり知られる存在になるのだが、これ以上は、実際にお読みいただきたい。その進撃ぶりは、サイレント映画で全力疾走するキートンかダグラス・フェアバンクスのようだ。
著者の独特な文章は冴えまくり、映画はもちろん、ルーマニア文学の解説に至っては、あいた口が塞がらない(冒頭で「よくわからない」と書いたシオランなども、ちゃんと解説してくれる)。
巻末には、ルーマニアを知るための本や映画のリストが付いており、これまた見事なガイドになっている。

どこかでルーマニアについて学んだわけでもなく(大学では日本文学を学んだようだ)、現地に一度も行ったことがなく、何かの賞を受賞したわけでもない。室内に「引きこもり」ながら、ひたすらパソコンを利用して、これだけの知見とコネクションを獲得した。そして、千葉にいながらにして、ルーマニア文壇で“活躍”している。
本書は、まったく新しい、21世紀ならではの「ニュータイプ文化人」の誕生を告げる、革命的な一書である。
今後、この著者は「ルーマニア」枠を超えた、たいへんな書き手になるだろう。

◇『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』(済東鉄腸著、左右社)版元サイトは、こちら

◇著者が運営するオンライン・マガジン「鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!」は、こちら

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2023.03.09 (Thu)

第387回 究極のシネマ・コンサートだった『ブレードランナーLIVE』

ブレードランナーLIVE合体
▲『ブレードランナーLIVE』(3月5日、Bunkamuraオーチャードホールにて)

しばしば書いているのだが、シネマ・コンサート(オーケストラによるナマ演奏)であまり満足できた経験がない。

理由は2点で、
いくらオーケストラがナマ演奏しても、映画館特有の地響きのような大音響にはかなうべくもなく、かえってショボい印象になってしまう(『2001年宇宙の旅』など、前半で帰ってしまった)。
会場が映画館でなく、(東京国際フォーラムのような)巨大多目的ホールが多い。すると、小さなスクリーンがステージ奥にかかっており、よほど前方席でないと「遠くに何か映っているな……」と、これまたショボいことになってしまう。

というわけで、どうもシネマ・コンサートには、いい印象がなかった。
(ただ一回だけ、佐渡裕指揮の『ウエスト・サイド物語』は、サントラの「声」が主役なので、当然ながらスピーカー越しにガンガン響いてきて、これは感動的だった)

しかしシンセサイザーなどの「電子音」中心の映画音楽だったら、PAでパワーアップされた音響のはずだから、きっと見ごたえ(聴きごたえ)があるのでは……と前から思っていた。それに、ついにめぐり会えた。しかも、素晴らしい内容だった!
『ブレードランナーLIVE』である(3月5日、Bunkamuraオーチャードホールにて)。

これは、映画『ブレードランナー』ファイナルカット版(1982/2007年)の上映にあわせて、ステージ上のアンサンブルが、ヴァンゲリス(1943~2022)のサントラ音楽をナマ演奏するものである。
それがいかにスゴイことか。この音楽の大半は、ヴァンゲリス自身が映像を観ながら、その場でシンセサイザーを即興演奏して収録されたといわれている。だから、スコアもないし、即興だから、いい意味でフワフワした、“その場かぎり”のようなイメージの音楽が多いのである(それが、この映画全体に不思議な魅力を与えているわけだが)。

パンフ解説や事前プロモによると、この公演はイギリスで制作されたプロジェクトのようだが、スタッフは、映画サントラの音を1年がかりで聴きとってスコアに再現したという。
しかし、いくらスコアに書きとることができたとしても、“フワフワ音楽”を、映画本編通り、映像にあわせてナマ演奏することは、容易ではない。それこそ0.5秒ずれただけで、映像と音楽のシンクロは失敗してしまう。
以前、上記、『ウエスト・サイド物語』を指揮した佐渡裕さんにインタビューしたら、「まさに職人仕事です。イヤフォンのカウントや指揮台横のモニターを確認しながら、オケに的確に指示を出す。一瞬のズレも許されません」とのことだった。

今回の場合、それが、即興の“フワフワ音楽”なのだから、再現演奏もたいへんなことだったと察する。アンサンブルは、シンセサイザー3台を含む11人編成で、《愛のテーマ》などは、原曲通りサクソフォンが、ほかに中東風の不思議なヴォーカルも、ちゃんと「女声」で再現されていた。

1993年に、映画音楽作曲家の佐藤勝さん(1928~1999)のオーケストラ・コンサートがあった。そのとき佐藤さんにうかがったのだが「映画音楽は、最終的に映画館のスピーカーから流れたときにガーン!と聴こえるよう、特定の楽器だけを増幅したり、いろいろいじるんですよ。だけど、ナマの演奏会では、そういうわけにいかないから、最初からサントラっぽく聴こえるよう、スコアを作り直さなくちゃならない。これが大変なんだ」とおっしゃっていた。
『ブレードランナー』サントラの使用楽器や機材は、ヴァンゲリスの「ネモ・スタジオ」による解説サイトに詳細が載っているが、これによれば、大量の電子機器類に加えて、ティンパニやグロッケンシュピール、琴など、多くのアナログ楽器もあとからミックスされているようだ。それを「11人」がナマ演奏で再現するのだから、”作り直し”も大作業だったのではないだろうか。

Bladerunnner CD合体
▲(左)1994年の正式サントラCD、(右)Edgar Rothermichによる完全コピー再現CD

『ブレードランナー』のサントラ音盤は、不思議な経過をたどってきた。
これに関しては、あたしなどよりも、ずっと詳しい先達がおられるので、詳細はそちらに譲るが、要するに、完全版サントラは、いまだに商品化されていないようなのである。
あたしも、この映画を1982年に最初に観たとき、(前年の『炎のランナー』とともに)その音楽の素晴らしさに衝撃を受けて、すぐにサントラ音盤を探したのだが、なぜかリリースされなかった。

その後、オーケストラが再現演奏した音盤が出たり、明らかな海賊盤が出たりと、しばらく混乱がつづいたが、ようやく1994年になって正式なサントラ音盤がリリースされた。ただ、これはセリフなども入った、一種の“再編集”盤で、収録曲は12曲だった(今回の『LIVE』では33曲がクレジットされている)。
やがて、2007年になると、25周年記念とかで、「3枚組」が出たのだが、これも1994年盤プラスアルファといった内容で、やはり完全版ではなかった(しかも3枚目は『ブレードランナー』とは無関係)。

ところが、2012年に、驚くべき音盤が出た。ドイツの電子音楽ミュージシャン、Edgar Rothermichなるひとが、15曲を(おそらく耳コピーで)再現したアルバムである。あたしは不勉強なのだが、このひとは、公式HPによれば、ドイツの電子音楽グループ「タンジェリン・ドリーム」の元メンバーと組んでいたアーティストだという。
このアルバムで驚いたのは、映画冒頭、製作会社「Ladd Company」のロゴ音楽(ジョン・ウィリアムズ作曲)から、キチンと再現されていることだった(今回の『LIVE』でも演奏された)。
歌唱曲にかんしては、さすがにオリジナルどおりは無理だったようだが、全体的によくぞここまで再現できたといいたくなる出来で、あたしなど、こればかり聴いていた時期がある。

このようなマニアックな音盤が出るほど、『ブレードランナー』の音楽は多くのひとたちの心をとらえてきたのだが、今回の『LIVE』で、音楽のヴァージョンがさらに増えたような気がした。できればこの『LIVE』のスコア演奏を音盤化していただけませんか。プロローグの強烈なティンパニ、エンドタイトルの疾走感など、明らかにサントラを上回っている。
先日も、映画ラスト、レイチェルを連れたデッカードがドアを閉める瞬間、次に流れる《エンドタイトル》のためにオーチャードホールの聴衆全員が身構えている空気が伝わってきた。これなども「ライヴ」ならではの体験だった(あたしは、ここは1982年オリジナル公開版が好きなんですが)。
すべての音はレベルアップされ、スピーカーからガンガン響いてくる。これなら、ナマ演奏で映画を鑑賞する意義も十二分にある。スクリーンの小ささはもう仕方ないとして(だからあたしは、ほぼ最前列の席にした)、これは「究極のシネマ・コンサート」だった。

ただひとつの心配は、オーチャードホールのような通常のコンサート会場で、1回かぎりの公演だったことだ。これで果たして、主催者側はペイできているのだろうか。これに懲りず、ぜひ次回につなげていただきたいと、切に願うものでありました。
〈一部敬称略〉

◇『ブレードランナーLIVE』公演HPは、こちら(『LIVE』予告映像あり)
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2023.03.06 (Mon)

第386回 【新刊紹介】抱腹絶倒にして深淵な「法廷文士劇」!

作家の証言
▲『作家の証言 四畳半襖の下張裁判 完全版』丸谷才一編 中央公論新社) 
※リンクは文末に。


1970~80年代は、個性的な雑誌が山ほど出ており、書店の雑誌棚は縁日のような面白さだった。「ビックリハウス」「話の特集」「宝島」「奇想天外」「噂」「噂の真相」「モノンクル」……そして「面白半分」があった。
これは、作家が半年単位で編集長をつとめる「面白くてためにならない月刊誌」で、五木寛之編集長時代の「日本腰巻文学大賞」(オビに贈賞)、筒井康隆編集長時代のタモリの「ハナモゲラ語の思想」などが忘れられない。

だが、この雑誌が一躍その名を轟かせたのは、野坂昭如編集長時代の1972年7月号だった。永井荷風作と伝えられる春本小説『四畳半襖の下張』が伏字なしで全文掲載されたのだ。これに対し、警視庁がわいせつ文書販売罪(刑法175条)で野坂編集長と発行人を起訴したのである。

永井荷風
▲昭和29年、浅草を行く永井荷風(写真:木村伊兵衛) 【出典:Wikimedia Commons】

ふつう、この程度の罪であれば、始末書や罰金でおさまるのだが、野坂たちは、法廷で国家と争う決意を固めた。作家・丸谷才一を特別弁護人に指定し(もちろん、ほかにプロの弁護士もいた)、綺羅星のごとき弁護側証人を次々に出廷させた。
その顔ぶれを見て驚くなかれ、(出廷順に)五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、中村光夫、金井美恵子、石川淳、田村隆一、有吉佐和子

あたしは、週刊誌記者時代に名誉棄損で何度か訴えられている(正確には、発行責任者=社長と編集長が被告)。多くは和解勧告が出たり、原告が取り下げたりして、うやむやに終わるのだが、時折、法廷闘争になることもあった。そうなると、取材・執筆者のあたしは弁護側証人として出廷することになる。

その経験から知ったのだが、裁判とは、ほとんど演劇的な“儀式”だった。おおよその筋やセリフが決められており、台本のような調書のとおりに進行し、裁判官はつまらなそうな表情で、それらを聞いている。それこそ、アガサ・クリスティの『検察側の証人』のような、驚天動地の展開でもないかぎり、裁判とは、生気のない、型どおりの”儀式”にすぎないのだ。
(あたしは、田中角栄被告のロッキード裁判もずいぶん傍聴したが、あれですら、ある時期からはダラダラとした”儀式”になっていた)

ところが、この「四畳半襖の下張裁判」は、並みの“儀式”には、ならなかった。弁護側証人たちは、東京地方裁判所の法廷で、文学論はもちろん、わいせつとは何か、出版業はどうあるべきかを、丸谷才一特別弁護人の質問に答える形で、えんえんと、しかも、ものすごい熱量で語りつづけたのだ。
本書は、この裁判における、作家の証言部分を収録したものである。

なにしろ、その顔ぶれが戦後文壇史を彩る大作家ばかりなので、発言(証言)内容も、一筋縄ではいかない。それでいて、“儀式”の再現でもあるので、もう誰でも知っているようなことでも、速記録に残し、検察官と裁判官にアピールするために、あらためて口にしなければならない。弁護人も証人も、それがわかっていて、本心ではバカバカしいと思っていながら、お互い、必死になって“儀式”を演じている。読んでいると、それがはっきりわかって、捧腹絶倒を通り越し、これはもう深淵な「法廷文士劇」ではないかと、妙な感動がこみ上げてくる。

そんなわけで、証言はどれも驚愕の面白さで、いったいどこを引用しようか困ってしまうのだが、ここは年の功で、一人だけ19世紀生まれの最長老、石川淳(1899~1987)の証言を紹介しよう(このとき石川淳は76歳)。

(若いころの石川淳の経歴を確認したあと)

丸谷才一特別弁護人 で、代表的な作品としては、小説では何、批評では何というふうにあげればよろしいでしょうか。
石川淳証人 ……。
丸谷 証人がもしおあげになるとすれば、どういうものを。二つ三つ……。
石川 さあ、私は自分のものをあまり読みませんから、自分のものをあげるということはしません。考えていません。
丸谷 それでは、小説では『片しぐれ』『喜寿童女』『至福千年』、批評では『森鷗外』『文学大概』『夷斎筆談』というふうにいってもいいわけですね。
石川 よろしくどうぞ。
丸谷 これまで、文学賞を受賞なさったことはおありですか。
石川 昔、芥川賞というものをね、あれはだれでももらうものですから。
丸谷 私ももらいました。
石川 ……。

【富樫注】『狂風記』は、この時点でまだ連載中で、単行本化されていない。

このような珍妙なやりとりのあと、「森鷗外研究者」でもある石川が、森鷗外をどう評価しているか、どこがすごいかの「鷗外論」に移り、その鷗外を永井荷風が非常に尊敬していたとの論法になり、今度はその荷風が亡くなったときに、石川が随筆『敗荷落日』を書いている話となって、ここから「荷風論」となり、荷風のものの見方や文体などの解説がつづき、いよいよ核心――『四畳半襖の下張』に移るのだ。
その展開は、あまりに見事で、下手な戯曲もかなわない。丸谷才一の誘導尋問ともいうべき“台本”には、頭が下がる。

そして石川は『四畳半』の掲載について「いいものが出たな」と感じたが、ただし、「文学作品として見るだけのものではない」と断じる。

丸谷 文学作品として見るだけのものではないということになりますと、そうしますと、これはどういうものでしょうか。
石川 記録ですね。記録といっただけじゃおわかりになりにくいだろうと思いますが、記録として読んでいます。
丸谷 記録といいますと、普通、たとえばチャーチルの『第二次大戦回顧録』が記録である。そして同じ第二次世界大戦という材料を使っても、それはノーマン・メイラーが『裸者と死者』という小説を書けば、これは記録ではない。(略)この『四畳半襖の下張』には、想像力というものが確かにはいっていると思いますが。


そしてこのあと、石川は、記録と文学のちがいについて、『四畳半』のなかの一語「わらひ」に注目し、それが『古事記』から来ていると言い出し、えんえんと、本書でいうと足かけ「6頁」にわたって、丸谷にことばを挟ませず、休みなしで『古事記』論を展開するのである。いったい、何の裁判をやっているのか、不思議な状況が繰り広げられる。
ここは、本書の白眉のひとつであり、圧倒的迫力で読ませる。この間、呆気にとられる(あるいは、呆れかえっている)検察官や裁判官の表情が、目に浮かぶようである。

たまたま石川淳の証言部分を紹介したが、ほかの証言者も、“儀式”を演じる制約のなかで、迫力満点の文学論を展開する。もちろん、基本的に被告を弁護する立場なのだが、時折、危なっかしいというか、あんた誰の味方なのよと言いたくなる証人もいて、そこがまた面白い。

この間、検察側はほとんど反論をしない。証人も出さない。ひたすら作家たちの文学論がえんえんとつづくが、なにしろ“儀式”だから、結論は決まっている。第一審は有罪。
弁護側はもちろん控訴する。しかし第二審も有罪。だって“儀式”だから。
弁護側は最高裁へ上告するが、もちろん棄却。“儀式”だから。
野坂昭如は罰金10万円、発行人は15万円。

いったい、この騒動は何だったのか。
金井美恵子証人の、このひとことが、すべてを語っている。

三宅陽弁護人 で、この『四畳半襖の下張』について、今の青年層にとって特に刺激的な面があるとお考えでしょうか。
金井美恵子証人 ないと思いますね。読めないんだから。読めないものに刺激を受けるわけがないんで。

〈敬称略〉


【書誌情報】
本書は、正確にいうと、今回で3回目の単行本化です。
①『四畳半襖の下張 裁判・全記録』上下 丸谷才一編(1976年、朝日新聞社)……裁判のすべての証言や記録を収録。
②『作家の証言 四畳半襖の下張裁判』丸谷才一編 (1979年、朝日選書)……上記①から、作家の証言部分のみを抜き出した。
③『作家の証言 四畳半襖の下張裁判 完全版』丸谷才一編 (2023年、中央公論新社)【本書】……上記②に、『四畳半』原文と、栗原裕一郎氏の解説を加えた。それ以外は②とおなじ(判決文や裁判日程記録なども収録)。

※現在、『四畳半襖の下張』原文は、ネット上などで容易に読めます。よって、①②を読んだ方は、無理に③を手に取るまでもないと思われます。もちろん、初めてこの裁判を知る方には、③が最適です。なお、上記のほかに「面白半分」が増刊などで、何度か裁判記録集を出していました。

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2023.03.02 (Thu)

第385回 【新刊紹介】古代ギリシャ人の「ワインダーク・シー」を説く、画期的論考!

ホメロスと色彩
▲西塔由貴子『ホメロスと色彩』(京都大学学術出版会) ※リンクは文末に。

近年の吹奏楽の人気曲に、ジョン・マッキー(1970~)作曲、吹奏楽のための交響詩《ワインダーク・シー》がある。2014年にテキサス大学ウインド・アンサンブルが初演し、翌年、ウィリアム・レベル作曲賞を受賞している。
日本では、2015年度の全日本吹奏楽コンクールで、名取交響吹奏楽団(宮城)が全国大会初演し、金賞を受賞したことで注目を集めた。以後、全国大会だけで計9回登場の人気曲となっているほか、東京佼成ウインドオーケストラやシエナ・ウインド・オーケストラなども定期で取り上げた。CDも、現在、国内外あわせて十種以上が出ている。

ワインダーク・シー
▲CDも多い。これは、シズオ・Z・クワハラ指揮、フィルハーモニック・ウインズ 大阪(オオサカン)のもの(Osakan Recordings)。

曲は、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を3楽章(Ⅰ傲慢/Ⅱ不滅の糸、とても脆く/Ⅲ霊魂たちの公現)、40分近くをかけてドラマティックに描く、最高難度の大曲である。

で、これほどの人気曲だけあって、あたしもコンサート・プログラムやCDライナーで、何度となく本曲の解説を書き、FM番組でも語ってきた。
そのたびに頭を悩ませたのが、この叙事詩に枕詞のように何度も登場し、かつ曲名にもなっている《Wine-Dark Sea》の解説だった。直訳すると「葡萄酒のような暗い色の海」で、戦前から、日本では「葡萄の酒の色湧かす大海」(土井晩翠訳)、「葡萄酒色の海」などと訳されてきた。英訳テキストを検索してみると、全24歌中、10数か所に登場している。

これはもちろん、「地中海」のことで、海の壮大さや荒々しさの描写と思われるのだが、なぜホメロスは、地中海を「ダークな葡萄酒色」などと表現したのだろうか。ふつうは、地中海ならば「青」系ではないだろうか。これを、どう説明すればいいのか。

なにぶん、あたしのふだんの解説原稿は、SNS上で「クソ・クオリティ」と評されているようなので、すこしは、こういうこともキチンと解説しなければと、いままでずいぶん調べてきた。だが、古代の地中海は(天候のせいか)いまより暗い海面だったとか、ホメロスは盲目だったので色彩表現が独特だったとか、諸説あって、どうも定まっていないようだった。

そうしたところ、最近、なんと、ホメロス叙事詩における「色彩表現」の研究論考が出たのを知り、心底から驚いてしまった。今回ご紹介する『ホメロスと色彩』(京都大学学術出版会)である。
著者・西塔由貴子氏は、京都精華大学の特別研究員で、研究分野は〈西洋古典における「光」と「輝き」の表象と色彩表現との相関性に関する研究〉だという。英リヴァプール大学の名誉フェローでもあるようだ。
浅学のあたしは、まさかこのような専門家がおられるとは夢にも思わず、さっそく鼻息荒く手に取った。ざっとめくると、たしかに「葡萄酒色の海」解説もあるようだ。やったぜ、これであの不思議な曲名について明快な解説が書けるかと、読み進めたのだが……。
結論からいうと、《Wine-Dark Sea》の意味そのものよりも、古代ギリシャ人の表現力の豊かさを知り、そのことに感動してしまった。

この部分のギリシャ語原典”oinopa ponton”は、英訳だけでも”the wine-dark sea”のほか、”the wine-faced deep”など数種類あるらしい。というのは、「葡萄酒色の」をあらわす”oinops”は、「ワイン」と「目/顔」の合成語だそうで、

「ワインの目をした」「ワインの顔をした」が本来の意味であり、したがって、注がれたワインの表面に似ている、もしくはその表面に映ってみえる色のことを示すと思われる。そうすると、海の色がワイン(色)のようにみえる、ということがoinopa pontonということか。


そして、この語句が、いかに激しい場面で使用されているかを例示したうえで、著者は、

海、そして葡萄酒色の海の表象は、正のイメージだけに限らない。果てしない海の向こうに航海するとき、期待とともに不安が募る。新たなことに挑戦するチャレンジ精神がある一方、危険も伴う。神々が葡萄酒色の海を航海中の人間たちを襲い、罰することもある。


と綴る。
まるで、上記の文章は、交響詩《ワインダーク・シー》の解説文のようである。曲を御存じの方だったら、特に第1楽章の激しい曲想を思い出すはずだ。
つまり、”wine-dark sea”とは、単純に地中海の海や波を描写した語句ではなかったのだ。あるときは神々に助けられ、あるときは妨害されながら、命をかけた航海に乗り出す、そのときの海面をワインにたとえたチャレンジ精神をあらわしているようなのだ。

海を眺めながら海と密着した生活を送った古代ギリシャ人の色彩感覚をoinopa pontonは見事に表す。グラデーションがある、言い換えれば区別などしない、という意識を集約した色彩表現の一つが「葡萄酒色の海」ではないか。


そして著者は、「葡萄酒色の海」解説の章を、こう結んでいる。

「〇色」と区別する必要はない。素直にワインの色のように感じ取れる海の色を、oinopa pontonと詩人は描写した。そして人生という旅において、困難に立ち向かうチャレンジ精神も時には必要というメッセージを、oinopa pontonという表現をとおしてホメロスは伝えている。


果たして作曲者、ジョン・マッキーがそこまでのイメージを見抜いて曲名を《Wine-Dark Sea》にしたのかは、定かでない。だが、本書を読むと、『オデュッセイア』がパワフルな吹奏楽曲になった理由がとても身近に感じられ、曲の印象も変わってくる。

本書は、そのほかにも、古代ギリシャ人のさまざまな色彩感覚を、多くの例をあげながら、わかりやすく説いている。
さらには、『万葉集』の時代にあった、たった一語に豊かな隠喩を込める感性を、なぜ、現代人は失ってしまったのか―—そんなことも考えさせられた。
今後、交響詩《ワインダーク・シー》を演奏する方は必読の一書である。

※本文中のギリシャ語表記は英語アルファベットに無理やり置き換えたもので、正確ではありません。

◇『ホメロスと色彩』は、こちら

◇ジョン・マッキー作曲 吹奏楽のための交響詩《ワインダーク・シー》全曲 動画映像
(小澤俊朗指揮、神奈川大学吹奏楽部)

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