2023.04.28 (Fri)
第396回 チャットGPTに訊いてみた

▲人工知能(AI)が、なんでも答えてくれます。
いま話題のチャットGPTに訊いてみた。
【Q】富樫鉄火とは、何者ですか。
【A】「富樫鉄火」は、日本の小説家・江戸川乱歩の代表的な推理小説の一つ「怪人二十面相」に登場する架空の人物です。
物語の中では、二十面相の手先として登場し、主人公である少年探偵・明智小五郎と対峙することになります。富樫鉄火は、常に黒いマントに身を包み、不気味な鳴き声を上げながら、手先たちを率いて悪事を働いています。
「富樫鉄火」という名前は、江戸時代に実在した人物「富樫平八郎」から取られていますが、江戸川乱歩が描く「富樫鉄火」は、幻想的な雰囲気を持つ、フィクションのキャラクターとして知られています。
江戸川乱歩は、「怪人二十面相」や「少年探偵シリーズ」など、独特な世界観を持つ推理小説を多数執筆し、日本の推理小説の先駆者の一人として知られています。また、「富樫鉄火」は、その中でも特に象徴的なキャラクターの一つとして、日本の推理小説の歴史に名を残しています。
【Q】それは違うのではありませんか。富樫鉄火さんは、音楽ライターだと思います。
【A】おっしゃる通りです。失礼いたしました。
富樫鉄火さんは、日本の音楽ライターで、現代の作品が多数あります。江戸川乱歩の小説「怪人二十面相」に登場する架空の人物「富樫鉄火」とは全く別人であり、私の回答が誤っていたことをお詫びいたします。
富樫鉄火さんは、主にジャズやフュージョン音楽を中心に、多数のアーティストの作品やライブに対して評論やインタビューを行っており、音楽評論家として高い評価を受けています。
【A】それも違うと思います。富樫鉄火さんは、吹奏楽曲にかんして、多く書いているのではありませんか。
【Q】おっしゃる通りです。また誤った情報を回答してしまい、大変申し訳ありませんでした。
富樫鉄火さんは、日本の吹奏楽曲の作曲家・編曲家であり、吹奏楽に関する評論や執筆活動も行っています。彼は数多くの吹奏楽曲の作曲や編曲を手がけ、その音楽性や技術力の高さから、現代の吹奏楽界において大きな存在感を持っています。
また、彼は吹奏楽曲の演奏指導や、指揮者としての活動も行っており、吹奏楽愛好家やプロのミュージシャンからの支持も高いです。
【Q】あなたは、吹奏楽をご存じなのですか。
【A】はい、私は吹奏楽について知っています。吹奏楽は、複数の楽器奏者が協力して演奏する音楽のジャンルで、主に管楽器と打楽器から構成されています。日本でも吹奏楽は盛んで、多くの高校や大学に吹奏楽部が存在し、また市民団体などでも活動しています。
吹奏楽は、様々なジャンルの音楽を演奏することができ、クラシック音楽からジャズ、ポップス、アニメソングまで、幅広い音楽を演奏することができます。また、オーケストラと比べると演奏団体の規模が小さく、気軽に参加できるという点も魅力の一つです。
【Q】日本を代表するプロ吹奏楽団を教えてください。
【A】日本を代表するプロの吹奏楽団としては、以下のようなものがあります。
1:東京佼成ウインドオーケストラ(TOKYO KOSEI WIND ORCHESTRA):1950年に創設された世界的なプロの吹奏楽団で、日本を代表するグループの一つです。数多くのコンサートやレコーディングを行い、音楽賞を多数受賞しています。
2:日本フィルハーモニー交響楽団吹奏楽部:日本フィルハーモニー交響楽団に所属するプロの吹奏楽団で、日本を代表するアンサンブルの一つです。演奏活動だけでなく、教育普及活動も積極的に行っています。
3:セントラル・ファンファーレ・トーキョー(Central Band of the Japan Air Self-Defense Force):航空自衛隊の中央楽団が母体となっているプロの吹奏楽団で、日本を代表するアンサンブルの一つです。国内外での公演やレコーディング、教育普及活動などを行っています。
4:大阪市立吹奏楽団(Osaka Municipal Symphonic Band):大阪市に所属するプロの吹奏楽団で、日本を代表するアンサンブルの一つです。海外公演やコンクールでの受賞経験があり、幅広いジャンルの音楽を演奏することができます。
なお、これらの吹奏楽団以外にも、全国各地に様々なプロ・アマチュアの吹奏楽団が存在しています。
【Q】なんとなく正しい部分もありますが、ほかにシエナ・ウインド・オーケストラも、プロ吹奏楽団としては有名だと思うのですが。
【A】はい、ご指摘いただいた通り、シエナ・ウインド・オーケストラも日本を代表するプロの吹奏楽団の一つとして知られています。1992年に創設され、クラシック音楽からポップス、映画音楽、アニメソングなど様々なジャンルの音楽を演奏しています。また、国内外での公演やレコーディング、教育普及活動なども積極的に行っており、吹奏楽ファンからの支持も高いです。ありがとうございました。
【Q】もっとも有名な吹奏楽曲を教えてください。
【A】もっとも有名な吹奏楽曲としては、以下のようなものが挙げられます。
1:「星条旗よ永遠なれ」(アメリカ国歌):アメリカの国歌で、吹奏楽曲としても非常に有名です。広い音域と緻密なアレンジによって、迫力ある演奏が求められます。
2:「ウィリアム・テル序曲」(ジョアキーノ・ロッシーニ作曲):スイスの民族的英雄を題材にしたオペラ「ウィリアム・テル」の序曲で、オーケストラの代表的な演目の一つです。多彩な旋律とダイナミックな展開が特徴的です。
3:「交響曲第9番 第4楽章」(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲):ベートーヴェンの最後の交響曲で、世界中で愛される名曲の一つです。第4楽章の合唱部分「歓喜の歌」は、吹奏楽でも演奏されることがあります。
4:「ラデツキー行進曲」(ヨハン・シュトラウス1世作曲):オーストリアの国民的行進曲で、吹奏楽団が演奏する際には、観客も一緒に拍手をするのが通例です。
5:「スターウォーズ・シリーズ」(ジョン・ウィリアムズ作曲):映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズが手がけた、スターウォーズ・シリーズの音楽は、吹奏楽曲としても広く演奏されています。
以上、ご参考になれば幸いです。
******
かなりいい線をいっている回答もあるが、ほぼメチャクチャである。
だが、これらの回答は、まったく瞬時といっていいほどの速度でかえってきた。
あたしは、手塚治虫『鉄腕アトム』に登場する、アトムの両親を思い出していた。
同級生のタマちゃんが母親に甘えている姿を見て、アトムがうらやましがっている。それを見たお茶の水博士は、可哀想だと思い、町のロボット工場でアトムの両親をつくってやるのである。
だが、見かけはおとなの親だが、中身は生まれたばかりの新米ロボットだ。そこでこの両親は、健気にも小学校に入って(息子アトムの後輩になる)、一から勉強し、なんとか立派な親になろうとがんばるのである。
「おっしゃるとおりです」「申し訳ありませんでした」と謝るチャットGPTに、あたしはアトムの両親を重ねていた。
今後さらに学習を重ねて、いつか立派なAI(人工知能)になったとき、いったい何が起きるのだろうか。
2023.04.09 (Sun)
第395回 原作を読んだら腰が抜けた! 名作映画『乳母車』後半「76分」の秘密

▲(左)映画『乳母車』(昭和31、日活)、(右)神保町シアター、芦川いづみ特集のチラシ(4月14日で終了)
東京・千代田区の名画座「神保町シアター」で、芦川いづみ特集上映があった(4月14日まで)。すでに5回目。いまや神保町シアターは、芦川いづみの聖地なのである。
今回も代表作『陽のあたる坂道』『しろばんば』など、計20本が上映された。そのなかに『乳母車』(田坂具隆監督、日活、1956)もあった。
これはあたしの大好きな映画で、ひさびさに観なおしたが、そういえば、近年、石坂洋次郎の原作が新刊で復刻されていたことを思い出した。かつては国民作家だったが、いまは、まったく読まれていない。ひさびさの刊行である。
そこで帰りに、近くの東京堂書店で『乳母車・最後の女 石坂洋次郎傑作短編選』 (三浦雅士・編、講談社文芸文庫、2020年刊)を購入し、さっそく読んだ。そして、腰が抜けるほど驚いてしまった。
その前に、まず、映画の内容から。
***
女子大生のゆみ子(芦川いづみ、好演)は、会社重役の父(宇野重吉、熟演)に、愛人がいることを知る。
お嬢様育ちのひとり娘・ゆみ子は、腹を立てて母(山根壽子、怪演)に告げる。だが母はとっくに承知で「いまの生活をつづけたいから、ことを荒立てたくない」と平然としている。
ゆみ子は、「その女のひとは、きっと自堕落な性格ね」と決めつけ、九品仏にある愛人宅を訪ねてみる。
すると、出てきたのは、留守番中の弟・大学生の宗雄(石原裕次郎、快演)だった。家には赤ん坊もいた。ゆみ子の異母妹だ。
宗雄はしっかり者で明るい性格の青年だった。買い物に出た姉のかわりに、赤ん坊の面倒を見ていたという。同年代の2人は、なんとなく気が合ってしまう。
そこへ、愛人のとも子(新珠三千代、名演)が帰宅する。なんと「自堕落」どころか、たいへん上品で美しい女性だ。そして心底からうれしそうに「あなたがどなたか、当ててみましょうか? ゆみ子さんですわね?」と、正座して手をついてあいさつし、歓待してくれるのだ。
スイカを食べながら歓談し、妙な気分で愛人宅をあとにした、ゆみ子。
帰りに、九品仏浄真寺に寄ると、赤ん坊を乳母車に乗せて散歩に出た宗雄が、境内で昼寝をしている。
ゆみ子は、小さな異母妹に愛情を感じ、半ばいたずら心から赤ん坊を乳母車ごと“誘拐”して、家に帰してやる。
目が覚めた宗雄は、赤ん坊が誘拐されたと思ってパニック状態だ。
結局、ゆみ子のいたずらだったとわかり……。
***
ここまでで「34分」。この映画は110分の尺なので、ほぼ三分の一だ。
このあとの「76分」は、親しくなったゆみ子と宗雄が、どうすれば赤ん坊が幸せになれるかを若いなりに考え、悩みながら奔走するエピソードがつづく。関係者全員を招集した場で、宇野重吉の父が、ワンカット長回しで思いを吐露する場面は名場面である。
物語は、2人が夫婦を装って、赤ん坊を「赤ちゃんコンテスト」に出場させ、好成績をおさめ、エンドマークとなる。今後も愛人のとも子がシングル・マザーの身で育てていくのだろう。宗雄とゆみ子は(おそらく結婚して)、とも子母娘を助けながらたくましく生きていく――そんな未来を思わせるラストである。
で、あたしが「腰を抜かした」原作小説なのだが。

▲『乳母車・最後の女 石坂洋次郎傑作短編選』 (三浦雅士・編、講談社文芸文庫、2020年刊)
まず、これは「短編」である。文庫本で40頁余。小説を読みなれた方なら、1時間もかからず読了する。映画は、ほとんどこの小説をそのままシナリオ化している。
ところが、この原作小説は、映画でいうと冒頭34分、九品仏での赤ん坊“誘拐”騒動の直後で「終わり」なのである。
騒動後、宗雄は抗議の手紙を出す。ゆみ子は謝罪しながらも強気な返事を出す。
そして、宗雄に興味をおぼえ、
それに較べると、毎日学校で顔を合わせている八代清一や川又計介など、水彩で描いたように淡い印象だった。そして、若いゆみ子は、こんな形で、父の恋愛問題に娘の自分が介入していくことが、どんな重大な結果を齎〔もたら〕すかも知れないことを、冷静に計算する知恵を持ち合わせてはいなかった。
これが、原作小説の、ほぼ最終部分である。
つまり、この映画は冒頭34分が原作小説まるごとで、残り76分は映画オリジナルの「創作」だったのである。小説を映画化する際にアレンジが施されるのは常識だ。だがこれほど大掛かりな「創作」は、そうあるものではない。
そういえば、この小説には、不思議な副題が付いている。正式題は『乳母車――ある序章』なのである。
「序章」? ということは、「本章」があるのか。しかし石坂作品に、そのような小説は、ない。では、後半76分が「本章」なのか?
この「76分」部分について、本書の編者、文芸評論家の三浦雅士氏は、巻末解説でこう述べている。
(略)これを仮に監督と脚本家の立案とすれば驚くべきことが起こったことになる。
おそらく石坂が長編小説の腹案を監督と脚本家に語り聞かせたに違いないと私は思うが、(略)感嘆するのは、映画関係者を創作仲間として扱うというその姿勢である。度量の広さなどというものではない。物語の展開を生かそうとして外部をも巻き込んでしまうその手法がしたたかなのである。(略)
そういう雑多なものを取り込んでびくともしない語り部としての石坂洋次郎の膂力〔りょりょく〕に驚く。
上記はあくまでも三浦氏の推察だ。ご本人も〈映画化の経緯を語った文章は、管見を恥じるが、眼にしていない〉と書いている。だがおそらく、当たらずとも遠からずだろう。
短編小説『乳母車――ある序章』は、「オール讀物」1956年5月号に掲載された。映画公開は同年11月14日である。原作初出からほぼ半年で公開されている。いまでは考えられないスピードだ。撮影所システムが機能していた日本映画全盛期だからできたことだ。だがそれ以上に、すでに残り76分部分の「本章」が石坂の頭の中にあったからこそ、すぐに全編のシナリオも出来上がったのではないだろうか。
映画『乳母車』は、映画界と文壇が背中あわせで面白い作品を生み出していた、そんな幸福な時代の産物かもしれない。
ちなみに、上記・講談社文芸文庫には、ほかにも興趣あふれる石坂の名短編が多く収録されている。なかでも印象に残ったのは『女の道』だ。もし昭和30年代に日活で映画化されていたら、おそらく以下のような配役となったはずだ。
珠子=芦川いづみ
戦死した恋人(墓は、あの九品仏の寺)=葉山良二
珠子の両親=東野英治郎、菅井きん/珠子の叔母=轟夕起子
1人目の見合い相手=高原駿雄/2人目の見合い相手=金子信雄
3人目の見合い相手・岡崎=石原裕次郎
岡崎の上司=藤原釜足(東宝)
まるで、石坂が、具体的な俳優にあて書きをしたかのようだ。
しかし、それはありえない。『女の道』は、戦前の1942(昭和17)年発表なのだ。
だから、石坂洋次郎は、スゴイのである。
〈一部敬称略〉
◇映画『乳母車』Amazon Prime Videoは、こちら。
◇映画『乳母車』場面写真・関係資料(石原裕次郎ファンサイト)は、こちら。
◇原作本(講談社文芸文庫)は、こちら(冒頭試し読みあり)。
◇神保町シアターは、こちら。
2023.04.05 (Wed)
第394回 坂本龍一が遺していた、「大島渚賞」への辛辣なメッセージ

▲坂本龍一(3月28日没、行年71)
【写真:Wikimedia Commonsより】
坂本龍一が亡くなった。
映画『ラストエンペラー』(1987)の音楽で、米アカデミー賞作曲賞のほか、英アカデミー賞、ゴールデングローブ賞、グラミー賞などを独占。坂本龍一は、“世界のサカモト”となった。
だが、この音楽は、三者合作だった。坂本龍一、デヴィッド・バーン、蘇聡(スー・ツォン)の3人で、曲を書き分けた。だから賞も、3人共同で受賞したのである。
できれば、単独作品『戦場のメリークリスマス』(1983)の、あの名曲群で受賞してほしかった。
1992年バルセロナ・オリンピック開会式の音楽、《El Mar Mediterrani》(地中海のテーマ)も、忘れられない。壮大で芸術性豊かな演出と相俟って、近年でもっとも印象に残る五輪開会式となった(聖火がアーチェリーで点火された)。なぜ、これがもっと話題にならないのか不思議なくらい、素晴らしい音楽だった。2021年の東京五輪など、足許にもおよばない。
ちなみに、この《El Mar Mediterrani》は、坂本龍一監修、鈴木行一編曲で吹奏楽版になっており、出版もされている(初演は、シエナ・ウインド・オーケストラと東京佼成ウインドオーケストラのジョイント・コンサートだった)。コンクール向きのオリジナル曲もいいが、こういう音楽も、ぜひ中高生に演奏してほしいと思う。
そんな坂本龍一だが、映画音楽のみならず、映画俳優までもこなし、たいへん映画に造詣が深いことでも知られている。ベルリン/ヴェネツィア国際映画祭で審査員をつとめたほか、2020年から新設された「大島渚賞」では、審査員長もつとめた。
これは「ぴあフィルム・フェスティバル」(PFF)の主催で、長年、PFF審査員として新しい才能を次々と発掘した大島渚の遺志を継ぐ賞である。
といっても、審査は、「審査員長」の坂本龍一と、「審査員」の黒沢清の2人だけなので、ほぼ「坂本個人賞」といってもいい。
第1回受賞者は、小田香監督。主な対象作品は『セノーテ』だが、このとき、坂本審査員長は、こんなコメントを発表している。
大島 渚という映画人は、常に国家や権力、あるいは歴史、国境というものに翻弄されてきた人々について描いてきた。あるいは常識というものに立ち向かってこられた。また大島さんは映画人でありながら思想家でもあったと思っています。
このすばらしい監督の名を冠した賞にふさわしい人はだれか。それは、いまの日本で考えると小田 香さんしかいないと思いました。(以下略)
この第1回のとき、坂本龍一は元気だった。
2020年3月、記念イベント(上映会)でのトークでは、ニューヨーク生活を語りながら、小田作品に出会えた喜びを、とても楽しそうに語っていた。なるほど、頭のいいひとは、こういう話し方をするのだな……との印象をおぼえた。
ところが、この3か月後、坂本は、直腸がんの手術を受けるのである。その後も、肺などの転移巣の手術が何度かおこなわれたらしい。
もしかしたら、この第1回大島渚賞が、手術前の元気な姿としては、ほぼ最後だったかもしれない。
翌2021年の第2回大島渚賞は、「該当者なし」だった。
坂本は授賞式や上映会イベントを欠席し、短いコメントのみを寄せた。
もし大島渚賞などという形で大島渚が権威になるのだったら、それこそ大島渚が最も嫌ったことだろう。
だから大島渚に迎合するのは絶対にだめなのだ。そうではなく大島渚を挑発し、批判し、越えていくことこそ最も大島渚賞にふさわしいと言えるのだ。
そのような映画にわたしたちは出会いたい。
そして2022年の第3回大島渚賞は、藤元明緒監督に贈賞された。主要対象作品は『海辺の彼女たち』。
坂本は、この年も欠席したが、審査には参加したようだ。
そして、ちょっとドキッとするような「メッセージ」を寄せた。
(略)ぼくたちが考える大島渚賞たる要件は2つです。一つは社会の不条理への問い、批判があること、そして二つ目は映画という制度に対する問題提起、批判、新しい視点があることです。
(略)
毎回候補にあがる作品の質が低いことに忸怩たる思いを抱えています。映画は社会を反映しているとすれば、最近の日本映画の大きな傾向として他者を傷つけることを極度に恐れることがあると感じます。それは社会への問題提起、批判、問いを萎縮させます。矛盾や不条理があっても明確に反対することができません。なぜなら反対の声を上げれば必然的に異なる意見をもつ他者とのぶつかり合いが起こるからです。これは僕が思う開放的で民主的な社会の在り方とは正反対です。恐らく大島監督も僕の意見に賛成してくれるでしょう。テレビ番組で「バカヤロ〜」と怒鳴っていた方ですから。
「毎回候補にあがる作品の質が低いことに忸怩たる思いを抱えています」……坂本は、実は、大島渚賞に失望していたようだ。
そして、とても重要なことを言っている。これは、特に映画にかぎった話ではなく、いまの世の中全般にいえることだ。スマホのLINEやSNS越しのコミュニケーションとなり、直接の対話がなくなった。そのため、率直な議論の機会は激減し、匿名性の高いSNSで、自分のいいたいことだけを言う、身勝手な投稿ばかりが増えるようになった。
最近の”飲食店テロ”動画投稿は、その延長線上にある行為のような気がする。
余談ながら最近の若い方はご存じないかもしれないが、大島渚は、深夜の討論番組「朝まで生テレビ!」の常連で、議論が盛り上がると興奮して、たしかによく「バカヤロー!」と怒鳴っていた。やがてそれがトレードマークのようになり、視聴者は「いつ、アレが出るか」と期待し、深夜番組にしては高視聴率を獲得したのである。
坂本の“メッセージ”は、こうつづく。
今回、残念ながら僕には大島渚賞にふさわしいと思える作品はありませんでしたが、幸いなことに黒沢清さんには一つの作品がありました。審査員団として意見を一致させるべきかどうか議論しましたが、審査員が異なる意見を持つことは自然ですし、審査員団と言っても二人だけですから、黒沢さんの意見に明確に反対するのでなければ異なる意見は受け入れるべきだと判断しました。このような審査のあり方があってもいいのではないでしょうか。
(略)
来年以降これこそ大島渚賞にふさわしいと思える作品に出会えることを大いに期待しております。
だが、「来年」(2023年3月15日の第4回)は、坂本にとって、もうなかったのである。
没日は3月28日だったという。
〈敬称略〉
※坂本龍一のコメントは、大島渚賞公式HP、およびニュースサイト「よろず~」より。
◇バルセロナ五輪開会式、坂本龍一作曲《El Mar Mediterrani》(地中海のテーマ)は、こちら(最後の方で本人の指揮姿あり)。
◇吹奏楽版《El Mar Mediterrani》(地中海のテーマ)の楽譜は、こちら。
◇大島渚賞公式HPは、こちら。
2023.04.02 (Sun)
第393回 「どこが面白いのか、わからない」といえない雰囲気――中高年はアカデミー賞独占の映画『エブエブ』をどう観ればいいのか

▲映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』
アカデミー賞を、作品賞以下7部門で独占した映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(以下『エブエブ』)。映画評もSNSも大絶賛で、大ヒット中だ。
だが、極めて少数ながら、一部の観客、特に中高年層からは「どこが面白いのか、わからない。だが、あまりに周囲が絶賛しており、口に出しにくい」との声が聞こえる。
40歳代後半・女性
「あまりに画面展開が早すぎて、よくわかりませんでした。別世界の話が同時進行して、家族が絆を取り戻す話であることはわかったのですが……。でも、終映後、まわりの若い人たちは”面白かった!”と興奮気味だし、なかには涙ぐんでいる娘さんもいて、ああ、自分だけが理解できなかったんだなと、あきらめて帰りました」
60歳代前半・男性
「上映開始から1時間弱で、シニアとおぼしきご夫婦が退席していきました。私は通路ぎわの席だったのですが、ご主人が”なにがなんだか、わからんな”とつぶやいているのが聞こえました。私はなんとか最後まで観ましたが、こういう映画がアカデミー賞を取るのかと思うと、もう、自分の時代ではないことを痛感しました」
実はこの映画は、「マルチバース」なる世界観が根底にあり、それを理解していないと、上記のように「なにがなんだか、わからない」ことになるようなのだ。
SFに詳しい編集者
「マルチバースとは意外と古い理論で、もととなる考え方は、19世紀末にアメリカの哲学者、ウィリアム・ジェイムズによって生み出されました。日本では西田幾多郎なども影響を受けている泰斗です。要するに、この宇宙には、いま自分たちがいるバース(世界)のほかに、複数のバースが存在するとの考え方です。
たとえば、第2次世界大戦で連合軍が勝利し、日本側枢軸国は負けた——これは一種の正史です。しかし、そのほかに、日本が勝ったバース、ヒトラーが自殺せず生きているバース、ノルマンディ上陸作戦が失敗するバース……など複数のちがったバースが別次元に存在しているとの考え方、これがマルチバースです」
つまり、『エブエブ』のなかで、次々とヴィジュアルが変化し、人物たちが、突如、別人のような行動をとったり、別の人生を歩んでいる、ときには石になっていたり、指がソーセージになっていたりする――あれは別バースの同一人物なのである。しかも、どこかのバースでは、悪魔大王みたいな存在がいて、それがミシェル・ヨーの娘だった。彼女は、別バースで自分の娘と戦うことになる。まさに現実生活における母娘の相克が、そのまま再現されるわけで、ここがわからないと、映画全体も理解できなくなるのだ。
アメコミに詳しい編集者
「いま、アメリカでは、マルチバースは少なくとも映画ファンには、あたりまえの考え方です。特にマーベル・コミックの映画によって定着しました。一連のマーベル映画は、『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)あたりから、マルチバース的な世界観が導入されはじめました。
そしてついに『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021)では、別バースのスパイダーマン3人が共演するまでになりました。この手法を使えば、複数のキャラが同時に描けますし、あらゆる物語を交錯させながら、恒久的なシリーズ化が可能になるわけです。
いま話題の『エブエブ』は、この世界観を踏襲しているばかりか、かなりパロディ化してからかっているような描き方もあり、その点が、単なる娯楽映画とは一線を画して、評価された理由だと思います」
しかし、アメリカでは当たり前の理論かもしれないが、あたしたち日本人——特に途中退席せざるをえなかったようなシニア層には、そう簡単なものとは思えない。
60歳代の文芸編集者
「そんなことはありませんよ。もともと日本人は、マルチバース的な物語が大好きなんです。江戸時代にベストセラーとなった『椿説弓張月』などは、伊豆大島に流罪になった源為朝が島を脱出し、南に流されて琉球王国を再建する、典型的な別バースの物語です。文楽・歌舞伎でおなじみの『義経千本櫻』も、源平合戦で死んだはずの平家の三武将が生きていて、流浪の旅をつづける義経一行に襲いかかる設定。これなどは、いわば3つのバースが次々に展開する物語です。そのほか、源義経がジンギスカンになったとか、キリストの墓が青森の戸来にあるとか、どれもマルチバースみたいなものじゃないですか」
50歳代の漫画編集者
「マルチバース的な設定を最初に漫画にしたのは、手塚治虫さんです。作品は、1951(昭和26)年から1年間連載された『アトム大使』。この宇宙には、私たちとまったく同じ人間が住む、もうひとつの地球(別バース)がある。ところが、そこが爆発してしまったので、住民が宇宙船団で新たな居住星を求め、こちらの地球へやってくる。いわばふたつのバースがひとつになるわけです。最初は仲良く暮らしていたが、人口が2倍になったため、食糧難となり、争いが発生。その調停役に、人間でも宇宙人でもないロボットのアトムが乗り出す物語でした。これがもとになって、翌年から、脇役を主人公に昇格させた『鉄腕アトム』がはじまったのです」
というわけで、どうやら、あたしたちの周囲には、むかしから「マルチバース」があふれていたようなのだ。
現に、実は本稿のコメントは、すべてあたしのコトバで、これも一種の「マルチバース」なのでした。
◇映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、こちら(予告編も目が回ります)。