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2023.06.30 (Fri)

第410回 【CD/映画紹介】 200年間”封印”されていた「黒いモーツァルト」とは何者か?(後編)

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▲映画『シュヴァリエ』~知られざる真実の物語にもとづく ※リンクは文末に

前編のつづき)
映画『シュヴァリエ』(スティーヴン・ウィリアムズ監督、2021年、アメリカ)は、ジョゼフ・サン=ジョルジュの、音楽家としての最盛期を描いている。

冒頭は、ジョゼフが、パリを訪れたモーツァルトとヴァイオリン合戦を演じ、見事に〈勝利〉するトンデモ場面からはじまる。
ジョゼフは、かなり傲慢な自信家で、気が強い設定になっている。「シュヴァリエ」(剣士)の爵位を授けるマリー・アントワネットも、彼の重要な擁護者として登場する。

その後、前半は、パリ・オペラ座芸術監督の座を、ウィーンから招かれた「オペラ改革者」グルックと争って負ける話を中心に進む。

後半では、ジョゼフが貴族体制と人種差別に失望し、共和主義に心を寄せるようになる。そして民衆のための慈善演奏会を強行しようとする。演奏会場に詰めかける民衆と、阻止しようとする軍隊が、一触即発の状態に…。

かように細部は創作だが、「あってもおかしくない」場面の連続で、その意味では、たいへんよくできたフィクションといえる。
ジョゼフは女性に大人気で、男娼的な扱われ方に、まんざらではなさそうな場面もある。
衣裳や美術、セット、ロケ(プラハでおこなわれた)、時代考証なども本格的である。ジョゼフの曲もふんだんに登場する。失敗作といわれている彼のオペラ《エルネスティーヌ》のアリアなど、なかなかの佳曲だ。
演奏には『TAR/ター』のスコア演奏に参加していた、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラの名もある。本格的歴史音楽映画といっていいと思う。

Rotten Tomatoesでは批評家の76%が「positive」(肯定的)、平均評価は 6.5/10 となっている。一般観客評はもっと高くて、97%、4.6/5だ。

だが日本では、この映画は劇場で観ることはできない。製作はサーチライト・ピクチャーズだが、同社は昨年、4本の作品をトロント国際映画祭に出品した。そのうちの3本はとっくに日本でも劇場公開されたのに、本作だけがディズニープラスほかでの「配信」公開となった。諸事情はあるだろうが、少なくとも配給元は、日本での劇場公開を見おくったのである。
※日本で劇場公開されたほかの3本とは、『ザ・メニュー』『エンパイア・オブ・ライト』『イニシェリン島の精霊』。

   *****

映画アマデウス
▲映画『アマデウス』ディレクターズ・カット版

ここで思い出される映画は、やはり『アマデウス』(ミロシュ・フォアマン監督、1984年、アメリカ)だ。
製作陣は多かれ少なかれ、このアカデミー賞8部門独占の名作を意識したはずだ(冒頭など、まるで『アマデウス』への“宣戦布告”である)。

ウィーン音楽界を描いた『アマデウス』に対し、『シュヴァリエ』は、ほぼ同時代のパリ音楽界が舞台だ。主人公も“本家”モーツァルトに対し、こちらは“黒い”モーツァルト。どちらも野心満々の自信家だ。

だが、決定的にちがう点がある。おなじフィクションでも、『シュヴァリエ』が「あってもおかしくない」話なのに対し、『アマデウス』は「絶対にありえない」話なのだ。
なのに、前者は劇場公開されず、「絶対にありえない」後者は映画史に残る傑作となった。
なぜか。

少し脱線する。
『アマデウス』のフィクション度は尋常ではなかった。モーツァルト《レクイエム》の絶筆部分をサリエリが聞き書きしたなど、どう転んでも「似たようなことがあった」わけがない。よくまあ、こんなインチキ話を思いついたものだと頭が下がった。
だが、そのインチキ話を、サラリーマン社会における報われない一般人のように描いているところがうまかった。
原作は、劇作家ピーター・シェファーによる「舞台劇」だ(映画脚本も彼が書いている)。

舞台劇には、観客と演者の間に〈暗黙の了解〉がある。だから、ありえないことが平然と進行する。
『ハムレット』で父親の亡霊が舞台上にあらわれて「復讐してくれ」と懇願する。三島由紀夫『サド侯爵夫人』で全員が日本語で会話している。歌舞伎で、高齢の男優が生娘を演じている。これらを観て「ありえないだろう」と嗤う観客はいない。なぜなら〈暗黙の了解〉があるからだ(嗤うひとは、芝居は無理)。
シェファーはその点をうまく利用して、話をでっち上げた。

   *****

ふたたび脱線する。
この戯曲『アマデウス』に、日本で最初に目を付けたのが文学座の江守徹さんだった。1979年のロンドン初演の評判を聞きつけた江守さんは、関係者から台本を入手して読んだ。そして、あまりの面白さに魅せられて文学座で上演しようと考える。それには劇団の会議を通さなければならない。粗くても翻訳してみんなに読んでもらう必要がある。

アマデウス日生劇場
▲日本初演は1982年(左:モーツァルト役の江守徹さん)

英語が達者な江守さん、さっそく翻訳をはじめた。だが、その間に松竹が日本での上演権を獲得してしまう。ただし江守さんにも声がかかり、九代目松本幸四郎〔現二代目松本白鸚〕(サリエリ)、江守徹(モーツァルト)のコンビで初演。大ヒットして再演がつづいた。

この戯曲で江守さんが注目した点が、〈暗黙の了解〉だった。
「いまにも死にそうなサリエリ老人が、サッと被り物をとると、若き日のサリエリになるでしょう。それを観て、バカバカしいと思う観客はひとりもいない。この芝居は、全編が、舞台でしかできないウソで構成されている。そこが面白いんです」
と語っていたのを思い出す。
だから、サリエリがモーツァルトの臨終の場にいても、嗤う観客はいない。
映画版は、その仕掛けをさらに拡大して面白く見せていた。

amadeus NTLポスター
▲2016年のロンドン版。サリエリ役のルシアン・サマルディ。

2016~18年にかけて、ロンドン・ナショナル・シアターが『アマデウス』を新演出で再演した(舞台上にナマ・オーケストラが登場して芝居に参加する)。日本では「ナショナル・シアター・ライブ」で上映された。
このときサリエリを演じたのはタンザニア系の黒人、ルシアン・サマルディだった。いうまでもなく〈暗黙の了解〉のキャスティングだ。「サリエリが黒人のわけないだろう」なんて、誰もいわなかった。
しかもこの再演では、凡人としての苦悩だけでなく、人種差別を生んだ神を呪うような姿も感じられ、新たな感動を生み出していた。

   *****

話が遠回りになったが、『シュヴァリエ』には、その〈暗黙の了解〉がない。
よくできた映画や芝居は不思議なもので、作者や演者が、こっそり自分だけに話しかけてくれているような気になる。
〈これから、ありえない話をお見せしますが、あなただったら、わかってくれますよね〉と。
そのとき、私たちは感動と満足感をおぼえるのだ。

『アマデウス』には、それが明確にあった。冒頭から、サリエリが「聞いてください、私とモーツァルトの間に何があったのかを…」と語りかける。その瞬間、舞台(スクリーン)と観客の間に〈暗黙の了解〉が成立した。以後、延々とインチキ話がつづいた。

だが『シュヴァリエ』は、それをすっ飛ばして、勝手に話を進めている。話しかけてくれない。よって私たちは、彼の苦悩にいまひとつ心を寄せにくい。
冒頭、モーツァルトにヴァイオリンで勝つ場面は一見面白いが、実は単なる曲芸を見せられているだけだ。もしここを、第三者の衝撃の目撃談として〈暗黙の了解〉ではじめていたらどうだろう。たとえばマリー・アントワネットの回想告白だったら…。

エンド・ロールに流れる、ジョゼフ・サン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲Op.8~No.2など見事な曲で、これぞ〈隠れた名曲〉だと感動した。たしかにモーツァルトに通じるものがあるが、決して模倣に終わっていない。こんな作曲家をいままで知らなかったなんて!

この感動を、本編のなかで〈暗黙の了解〉で描いてほしかった。劇場公開しにくかった理由は、このあたりにもあったのではないだろうか。

□映画『シュヴァリエ』予告編は、こちら
□映画『シュヴァリエ』の動画検索は、こちら。AppleTV+、U-NEXT、Huluなどでも配信されています。

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2023.06.27 (Tue)

第409回 【CD/映画紹介】 200年間”封印”されていた「黒いモーツァルト」とは何者か?(前編)

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▲毛利文香(Vn)「サン=ジョルジュ:ヴァイオリン協奏曲集」(NAXOS) ※リンクは文末に

日本とドイツで活躍中のヴァイオリニスト、毛利文香がNAXOSからデビューCDをリリースした。「サン=ジョルジュ:ヴァイオリン協奏曲集」である。

この「サン=ジョルジュ」なる作曲家、ご存じない方も多いと思う。いったい、何者なのか。

ジョゼフ・サン=ジョルジュ(1745〜1799)は、18世紀後半のパリで活躍した作曲家、ヴァイオリニストで、別名「Le Mozart Noir」(黒いモーツァルト)。当時の音楽家としては珍しい、ムラート(欧州系白人とアフリカ系黒人との混血)だった。

その生涯は、不明な点が多いが、おおやけになっているいくつかの資料(文末参照)をもとに略歴をまとめると、以下のようになる。

ちょっと驚くべき人生である。

   *****

1745年に、カリブ海の仏領グアドルーブ島の製糖所で生まれた。ハイドンよりひとまわり歳下、モーツァルトよりひとまわり歳上である。父は農園主で裕福な政府高官。彼が、ナノンという名のアフリカ系黒人奴隷に産ませた子がジョゼフだった。

あるとき、この父親がトラブルをおこし(決闘?)、妻とともにフランス本国へ逃れた。そのさい、2歳のジョゼフと20歳のナノンも一緒だった(奴隷なので“所有物”だった)。

父親はジョゼフをことのほか可愛がり、財力にものをいわせて(かなり無理やりに)パリの貴族社会に出入りさせた。名剣士(フェンシング)のボエシエールに学ばせるとたちまち頭角をあらわし、「シュヴァリエ」(剣士)の爵位を授かる。フランスで黒人として初めて、フリーメーソンにも迎えられた。異例の大出世である。

その一方、ヴァイオリン、作曲でも名を成したが、いつ、どこで音楽教育を受けたのかは、正確にはわかっていないらしい。のちに、ゴセックのオーケストラを引き継ぐことになるので、おそらくゴセックに作曲を学んだと思われる。ヴァイオリンは、名教師ルクレールに習った可能性が高い。

ちなみにゴセックは、日本では、ヴァイオリン教室で習う瀟洒な《ゴセックのガボット》 ばかりで知られている。だが、彼は当時のパリにおける大作曲家だった。大量の交響曲、千人単位のレクイエム、超大編成の吹奏楽曲を書きまくった、一種の“スペクタクル作曲家”である。

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▲デオン(右)と剣の試合に挑む、サン=ジョルジュ (出典:WikimediaCommons)

名剣士として有名となり、女性にもモテモテのジョゼフだったが、あるとき、シュヴァリエ・デオンとの試合に負けて失望し、以後は、音楽家に専念する(デオンは名剣士の外交官だったが、いまでいうLGBTで、当時は「女性」として生きていた)。

このころから多くのヴァイオリン協奏曲や、オペラなどを続々発表、一躍、大人気作曲家となった。パリでは、モーツァルトより有名だったとの記述もある。パリ滞在中のモーツァルトが作曲したバレエ曲《レ・プティ・リアン》K.299bには、ジョゼフの作品が模倣引用されているという。

ちなみにハイドンの名曲群、パリ・セット(交響曲第82~87番…《めんどり》《王妃》《熊》など)は、オーケストラ「コンセール・ド・オランピック」のために書かれている。実はこの時期、同楽団の代表者はジョゼフだった。よって彼がハイドンと仲介したか、あるいは初演を指揮した可能性もある。

さらにジョゼフは王妃マリー・アントワネットにも気に入られ、専属音楽教師となった。おそらく師弟以上の関係になったのであろう、マリー・アントワネットは、ジョゼフを王立音楽院長に就任させようとする。

ところが、この瞬間、パリ社交界と音楽界のジョセフに対する態度が一変した。いままでは金持ちで政府高官の父の顔を立てて見逃してきた。だが、さすがに黒人奴隷の息子が王立機関のトップになるのは困る。あとに続こうとする黒人奴隷が出現しかねない。植民地経営もやりにくくなる。いっせいに反対運動がおき、ジョゼフは、事実上、失脚した。これが、ドレフュス事件より前におきた、フランス史上初の、おおやけな人種差別事件だったという。

これを機に、旧貴族体制に失望したジョゼフは音楽から離れて軍人となり、民衆派の共和主義者となる。フランス革命では、黒人部隊を結成して旧体制と戦った。

余談だが、この黒人部隊に「黒い将軍」と呼ばれる竜騎兵がいた。彼もフランス領ハイチで黒人奴隷女性との間に生まれたムラートで、その名をトマ=アレクサンデル・デュマといった。『モンテ・クリスト伯』を書いた大デュマの父、『椿姫』を書いた小デュマの祖父だ。「デュマ」姓は、奴隷だった母方の名である。

こうして民衆派として蜂起したジョゼフだったが、武功をあげることはできなかった。そればかりか、かつてマリー・アントワネットら旧体制と蜜月だったことを理由に逮捕され、死刑を宣告される。しかしロベスピエールが失脚したのを機に釈放。ふたたび音楽家としてのカムバックを目指すがうまくいかず、失意のうちに54歳の生涯を終えている。

その後、フランス革命で廃止された奴隷制をナポレオンが復活させた。そのためジョゼフは、以後、約200年にわたって、楽譜も存在自体も封印・抹殺され、ほぼ歴史上から消えた。1970年代になって、一部の録音もリリースされたが、一般にはほとんど注目されなかった。

それが本格的に再認識されたのは、1999年刊行、フランスのジャーナリスト、アラン・グェデによる評伝『Monsieur de Saint-George, le nègre des lumières』(ムッシュ・ド・サン=ジョルジュ、光の黒人)がきっかけだった(この評伝は、のちに舞台化された)。彼は研究団体を設立し、楽譜を続々発掘して無料公開した。これによって、ジョゼフ・サン=ジョルジュの再評価がはじまり、CDも出るようになった。

   *****

今回、毛利文香によるジョゼフ・サン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲集(Op.2、Op.7/ミヒャエル・ハラース指揮、チェコ室内管弦楽団パルドビツェ)を聴くと、鮮烈な清潔感と躍動感に満ちた音楽であることに、あらためて驚く。一説には、彼の作品は出来不出来の差が激しいという(上述のような人生では、それも当然か)。だが少なくとも、いままでNAXOSがリリースしてきた彼の作品集は、すべてハイ・レベルの曲ばかりなので、安心して聴ける。

NAXOSにおけるサン=ジョルジュのヴァイオリン協奏曲集は、これが第3集である。第1集は西崎崇子で2000年録音。第2集はチェン・ジュウで2003年録音。その後、リリースがなかったので、もう出ないのかと思っていたら、2020年録音で「協奏交響曲集」が、2021年録音で「弦楽四重奏曲集」が出て、ふたたびNAXOSはサン=ジョルジュに光をあてはじめた。そして、今回のリリースである。それも気鋭の日本人ヴァイオリニストのデビューCDだ。

ライナーノーツによると、毛利文香は、今回はじめて、この作曲家を知ったという。ところがサン=ジョルジュの曲は、自筆譜がほとんど残っておらず、荒っぽい写譜しか伝わっていないらしい。そのため、毛利自身が楽譜を校訂、補遺をおこない、カデンツァはすべて自作した。

「作品の中から自分のお気に入りのテーマやモチーフなどを探し出し、それを発展させてカデンツァを作ることは、時間のかかる大変な作業ではありましたが、この素晴らしい作曲家についてより深く考えることができる貴重な経験でした」(毛利文香のライナーノーツより)

まだ評価が定まっていない、しかも、誰もが知っているわけでもない作曲家を録音し、世に出すことの重責や緊張は、いかばかりだったろう。しかし、聴いていると、明らかにサン=ジョルジュに共鳴していることが伝わってくる、とてもいい演奏である。ぜひ、多くの方に聴いてほしい。

そしていま、「黒いモーツァルト」サン=ジョルジュの半生が、エンタメ映画となって公開(配信)されている。2022年製作のアメリカ映画『シュヴァリエ』(スティーブン・ウィリアムズ監督)である。
〈敬称略/この項、つづく〉

◇毛利文香:Vn.「サン=ジョルジュ:ヴァイオリン協奏曲集」 NAXOSの紹介ページ

【参考資料】
◆ニュー・グローヴ音楽大辞典
◆フランス版Wikipedia/Joseph Bologne de Saint-George
※出典が明確な資料が大量に紹介されています。
『CHEVALIER DE SAINT-GEORGE The Enlightened Violinist』(シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ/光の弓) 2021年フランス製作の映像ドキュメンタリ
※配信には日本語字幕はありません(DVDにはあり)。再発見のきっかけとなった評伝の著者、アラン・グェデ氏が出演しているほか、弦楽四重奏やアリアの演奏シーンがふんだんにあります。
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2023.06.21 (Wed)

第408回 【映画紹介】タジキスタンの内田百閒? よみがえるフドイナザーロフ

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▲渋谷のユーロスペースで上映中 ※リンクは文末に

渋谷のユーロスペースで、特集上映「再発見! フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」がつづいている(6月30日まで。以後、他劇場でも)。

おそらく、かなりの映画ファンでなければ、フドイナザーロフはご存じないと思う。しかしこれが、実に楽しくておもしろい映画世界なので、簡単にご紹介しておきたい。

バフティヤル・フドイナザーロフ(1965~2015)は、中央アジア、タジキスタンの映画監督である。ソ連が崩壊した1991年に本格デビューし、6本の長編劇映画を発表、国際的に高い評価を得ながら、49歳の若さで急逝した。

その後は、半ば忘れられていたが、昨年のヴェネツィア国際映画祭で、デビュー作『少年、機関車に乗る』2Kレストア版が上映されたら、一挙に再評価がはじまり、今回の日本での特集上映が実現した。

その作風について、今回のパンフレットではこう説明されている――「日常の小さな冒険やちょっとした驚きをユーモアですくいとり、中央アジアのおおらかな大地にファンタジックな世界を生み出した」。

以下、今回上映された5作品をご紹介する(ポスターはどれも以前の公開時のもの)。

少年、機関車に
◆『少年、機関車に乗る』(1991)
マンハイム国際映画祭、トリノ国際映画祭でグランプリ。
フドイナザーロフのデビュー作。17歳と7歳の兄弟が、貨物機関車の隅に便乗して遠方に住む父に会いにゆく……それだけの話である。一種のロード・ムービーだ。
ところが、その途中で遭遇する出来事が、兄弟には新鮮で驚くことばかり。トラックとの競争、ポットを大量に持つふしぎなオジサン、美人の乗車(運転士の愛人らしい)、なぜか大量の投石で襲ってくる悪ガキども……兄弟が感じた驚愕と感動を、そのまま観客の私たちも体験できる、そんな映画だ。
一見、アドリブっぽくカメラをまわしているように感じるが、よく観ると、機関車上での撮影など、おそろしく手間と時間をかけて複数のカットをつなぎ合わせていることがわかる。
機関車の疾走シーンも、とても壮快だ。『指導物語』(熊谷久虎監督、丸山定夫・原節子主演、1941)にならぶ、機関車映画の傑作だと思う。

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◆コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って(1993)
ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞監督賞。
機関車の次は「ロープウェイ」である。ここまでの2作で、フドイナザーロフはかなりの「乗り物フェチ」であることがわかってくる。
タジキスタンの首都ドゥシャンベの、山上と平地を結ぶロープウェイ(というよりは、簡易ゴンドラ)の運転係の青年が、ロシア帰りの娘を追っかけまわす、一種のドタバタ・ラブコメである。
出てくる男どもが、みんなバクチ好きで、娘は父親に借金のカタにされる。これがもとで騒動が起こる。
「ロープウェイ」にまつわる、これまたユニークな映像が続出する。特にゴンドラに大量の干し草を詰め込んで運搬するシーンには驚く。また、ゴンドラで下山する娘をカメラが接写し、その下を青年が山の斜面を転がりながら追うシーンや、ラストで車で町を出る娘を青年が自転車でひたすら追うシーンは圧巻である。
撮影中、独立直後のタジキスタンは内戦状態に陥ったそうで、常に爆音が鳴り響く不穏な雰囲気も描かれている。
タイトルの「コシュ・バ・コシュ」は、バクチにおける「勝ち負けなし」(おあいこ)の意味だそうだ。
なお、本作と次の2作は、ユーロスペース代表・堀越謙三氏が製作に参加しているので、タジキスタンと日本の合作ということになる。

タイトルなし
◆ルナ・パパ(1999)
東京国際映画祭最優秀芸術貢献賞、ナント三大陸映画祭グランプリ。
一般に、フドイナザーロフの最高傑作とも称される作品。
キルギス、タジキスタン、ウズベスキタンの3国境が交わる砂漠、湖沿いの架空の町が舞台(巨大オープンセットが建造された)。
この町に住む女優志願の17歳の少女が、ある月の晩、謎の男の子を宿す(レイプされたような、想像妊娠のような、実に不思議な、そして素晴らしいカット)。そのお腹の子の独白で物語は進行する。少女は、父親と知恵遅れの兄とともに、お腹の子の父親探しに出かける。
徹底的なファンタジーで、その自由奔放な荒唐無稽ぶりに、110分間、呆気にとられっぱなし。
主演女優はカザフスタン出身、モスクワの舞台女優だそう。可愛いくて美しくて面白い、絶妙のキャスティングだ。
なお、今作は「飛行機」である。だが、それ以上に驚くべきは、ラストに登場する、ある「乗り物」。エミール・クストリッツァの名作『アンダーグラウンド』へのオマージュのような気がするが、よくまあ、こんなシーンを思いついたものだと、拍手喝采をおくりたくなる。

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◆スーツ(2003)
東京国際映画祭審査員特別賞・優秀芸術貢献賞。
当初、今回の特集上映から外れていたが、好評につき、緊急追加上映となった。今回が劇場初公開で、あたしも初めて観た。だがこれが、『ルナ・パパ』にならぶ傑作だった。いまでも興奮気味である。
富裕層がリゾートに訪れる、ウクライナの港町セヴァストポリの隣町でくすぶっている3人の若者の話(高校生くらいか)。あるとき、高級店でGUCCIのスーツを見て憧れ、半ば「奪い取る」形で入手する。3人は交代でGUCCIを着て、それぞれの目的を遂げるのだが、そのたびにとんでもない騒動となり、最後は想像を絶する事態に突入する。
全編、圧倒的なスピード演出とユーモアで突っ走る、一種のジェットコースター・ムービーだ。
本作の乗り物は「サイドカー付きバイク」と「船」。乗り合いフェリーから豪華客船までが登場する。明らかに『フェリーニのアマルコルド』へのオマージュである。
ラスト、大人になる若者たちが、船で町を出る。ここは、リヒャルト・シュトラウスの楽劇《ばらの騎士》終幕を、ポンコツ改変ヴァージョンしたような味わいで、あたしは涙が止まらなかった。

海を待ちながら
◆海を待ちながら(2012)
フドイナザーロフの遺作。
アラル海で大嵐に遭遇し、妻や船員、船を失い、自分だけが生き残った船長。その後、海が干上がったあとの砂漠で、自分の船を見つけた船長は、自力で船を動かして妻を探す旅に出る。
砂漠を船が行くシーンはヴェルナー・ヘルツォークの『フィッツカラルド』を、干上がった砂漠にふたたび水が流れ込むシーンはテオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』を思わせる。
いままでの作品に比して、ユーモアの要素が少なく、意外と深刻な作風だが、その根底には、実際のウラル海干ばつ問題への思いがあるという(半世紀で十分の一まで干上がったらしい)。
だが、そうはいっても、砂漠の砂上をラクダが船を引くシーンや、おなじみサイドカー付きバイクの疾走シーンなどは、やはり、この監督ならではの味わいに満ちている。

   *****

こうしてフドイナザーロフを、ひさしぶりに観ているうちに、あたしは「どこかで、このテイストを経験したことがあるような……」気になってきた。
そして思い出したのは、内田百閒である。
百鬼園先生の作品も、どこかとぼけたユーモアと、深刻なシリアスと、幻想ファンタジーの3つが同居していた。しかも乗り物(鉄道)ファン。
もちろん、フドイナザーロフには、神楽坂の虎とか、日比谷のお濠から数寄屋橋交差点に至る巨大ウナギとか、その種の化け物は登場しない。
だが、たとえば『サラサーテの盤』で、レコードを返してくれといってくる、少々奇妙な中砂の後妻が、今回の5本のどこかにいたような気がするのである。また『少年、機関車に乗る』の運転士は、「阿房列車」のヒマラヤ山系氏に通じるものがあるような気もした。

今回のユーロスペースでの特集上映は6月30日までだが、その後、HP掲載以外の劇場での上映もあるはずなので、ぜひ機会を見つけて、フドイナザーロフを楽しんでください。

フドイナザーロフ作品は、初公開時、プロ評論家たちが妙にむずかしい解釈で評価した。当時の政治状況との関連からはじまり、乗り物の並走がなにを表現しているとか、それらは鉄の塊で人間との対照だとか……。そのため、フドイナザーロフとは、なにか高等芸術映画であるかのような印象をもったひとも多かった(あたしも、そう)。
それはとんでもない話で、おとなのためのファンタジー絵本だと思って観れば、それで十分。
理屈やテーマやストーリーではなく、「映像」でひとを楽しませることに徹した……フドイナザーロフとは、そういうひとだったと思う。

◇「再発見! フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」公式HPは、こちら



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2023.06.20 (Tue)

第407回 朝ドラ『らんまん』が10倍おもしろくなる、コンパクトな2冊の本 【後編】

牧野植物図鑑の謎
▲『牧野植物図鑑の謎 在野の天才と知られざる競争相手』(俵浩三著、ちくま文庫) ※リンクは文末に

(前編は、こちら)
さて、もう1冊は、「謎解き本」である。書名からして『牧野植物図鑑の謎 在野の天才と知られざる競争相手』(俵浩三著、ちくま文庫)という。まさにいま、ドラマはこの「図鑑」にまつわるエピソード編に突入しているので、ドンピシャの“副読本”である。

先月(2023年5月)の新刊だが、親本は1999年刊の平凡社新書。著者がすでに逝去しており、特に改訂や増補はされていない(植物学者・大場秀章による解説は新規)。著者・俵浩三氏(1930~2020)は、厚生省国立公園部や北海道林務部などに勤務した、林学者である。

これは、まさに凡百のミステリもかなわないおもしろさで、以前に新書で読んだときは、まさに巻を措くあたわず、あっという間に読了した記憶がある。その後、絶版になっていたようだが、こうやって文庫で復活して、まことにうれしい。一刻もはやく、多くの方々に読んでいただきたい。

牧野富太郎といえば、『日本植物図鑑』である。独力で、あらゆる植物を採集、分類、命名した成果をまとめた「図鑑」だ。この「図鑑」なるスタイルと名称も、牧野が日本で初めて生み出したものだと、あたしたちは教わってきた。

ところが著者は、あるとき、古書店で、似たような図鑑を発見する。村越三千男著『大植物図鑑』。奥付を見て驚いた。大正14(1925)年9月、「牧野図鑑」とほぼ同時に刊行されている。その後の増刷日も追いつ追われつ、この2つは競争するように並走していた。明らかにお互いを意識して〈出版競争〉を展開しているとしか思えない(「少年サンデー」と「少年マガジン」の創刊・販売合戦にそっくりだ)。

いったい、「牧野図鑑」に対抗するような植物図鑑を著した、この「村越三千男」とは、どこの誰なのか。興味をもって調べ始めた著者は(まさに、探偵なみの推察・調査力!)、4つの疑問を抱くようになる。

① 村越三千男とは何者で、なぜ「牧野図鑑」と「村越図鑑」は、同時期に出版されたのか? 
② 「図鑑」は、ほんとうに牧野の発明なのか?
③ なぜ明治40(1907)年ころに、植物図鑑の大ブームが発生したのか?
④ なぜ牧野は自著図鑑に、〈インチキ本〉への苛烈な「警告」文を載せたのか?

これらを、実資料をまじえながら、ひとつずつ、見事に解明していく。その解明をいま書いたのでは興を削ぐので避けるが、一点だけ、明かしておこう。

「村越三千男」とは、明治5年生まれ、埼玉の旧制中学の、植物学と絵画の「教諭」であった。要するに学校の先生で、牧野同様、在野の植物学者だった。明治39(1906)年、村越は学校を辞し、東京に出て、自費出版で『普通植物図譜』を発行する。これは月1回発行の逐次刊行物で、いまでいうデアゴスティーニの「分冊百科」シリーズみたいなものであった。

村越は、このシリーズの「校訂」を、すでに名前の売れていた牧野富太郎に依頼する。

「植物界の泰斗牧野先生の校訂という呼声より暫次売行を増し、一時は毎月七千部以上の販路を有するに至ったことは、其の当時の書肆が驚異の目を見張ったものでありました」(村越)


かくして「牧野・村越」コンビは、その後も似たような図譜類を続々刊行し、売れに売れた。

ところが、やがてこの2人は離反していく。いったいなにがあったのか。どのような過程で、牧野単独の『日本植物図鑑』刊行に至ったのか。そして村越は、なぜそれに対抗するような植物図鑑を出したのか。

そのあたりは、実際にお読みいただきたい。上記④の、明治40年に植物図鑑ブームが発生した理由など、「へえ!」に尽きる。

とにかく牧野富太郎の超個性的な性格は、あまりにおもしろすぎる(正式に博士号を授与する1年前に、勝手に「博士」を名乗っていた)。ひとに迷惑をかけっぱなしの生涯で、偉人伝説が拡大されすぎたことも、著者はちゃんと指摘しているが、決して貶めるような書き方はされていない。

本書を読むのに、植物や理科の知識は必要ない。ほとんど、シャーロック・ホームズの名推理を聞かされる、ワトソンの気分になれる(ただし、出てくる本の書名が、ほとんど「〇〇植物図鑑」なので、読んでいてしばしば混乱する)。

朝ドラ『らんまん』は、本書を原作とした方がいいのではないか……とさえ、思った。

□『牧野植物図鑑の謎 ─在野の天才と知られざる競争相手』は、こちら。 



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2023.06.20 (Tue)

第406回 朝ドラ『らんまん』が10倍おもしろくなる、コンパクトな2冊の本 【前編】

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▲『MAKINO ~生誕160年、牧野富太郎を旅する~』(高知新聞社編、北隆館) ※リンクは文末に。

NHKの朝ドラ『らんまん』がおもしろい。視聴率もいいようだ。

朝ドラは、ここ数年、ひどかった。人物造形も物語も破綻していた『ちむどんどん』、女性パイロットを目指す話が、いつの間にか違う話になっていた『舞いあがれ!』など、妙なドラマがつづいた。

しかし今回は、モデルとなった植物学者・牧野富太郎の個性もあって、これが実在の人物だったかと思うと(ドラマゆえの創作があるにしても)、興味が尽きない。

脚本に、劇作家・長田育江さんを起用したのも、成功の要因だと思う。井上ひさし氏に師事し、劇団「てがみ座」を主宰。あたしは、『対岸の永遠』『海越えの花たち』や、『夜想曲集』(カズオ・イシグロ原作)、『豊穣の海』(三島由紀夫原作)、『レストラン「ドイツ亭」』(アネット・ヘス原作)などが忘れられない。文芸テイストと娯楽エンタメの中間をバランスよく書けるひとだと思っていた。

また、視聴率がよい理由には、以下のような点もあると思う。実は、1965~1979年の間、小学校3、4年生の国語の教科書に、童話作家・柴野民三によるミニ伝記「牧野富太郎」が載っていた。小学校中退ながら東大の先生にまでなったという、そのインパクトは強烈だった。

この教科書で学んだ世代は1955~1970年の間に生まれており、現在53~68歳。まさにあたし自身がその世代で、確実に脳裏に焼き付いている。練馬区にある牧野富太郎記念庭園にまで行ってしまったものだ。そしていま、TVの前で、おじいちゃん、おばあちゃんになった彼らが小学生時代を懐かしみながら、「むかし、教科書で読んだなあ」と、子や孫に話している……『らんまん』人気には、そんな背景もあるのではないか。

江戸時代末期からはじまる古風なヴィジュアルも朝ドラとしては新鮮だった。高知編で祖母を演じた松坂慶子の熱演もあって、NHKはこちらを大河ドラマにするべきだったと、真剣に思ったものだ。

そんな人気にあやかって、書店には、牧野富太郎関連本があふれている。かなり大きなコーナーまで設営している書店もあった。そのなかから、抜群におもしろい、かつコンパクトな本を、2点、ご紹介したい。

1冊目は、『MAKINO ~生誕160年、牧野富太郎を旅する~』(高知新聞社編、北隆館/2022年7月刊)。2014年刊の単行本を再編集して新書化したものだ。

牧野の一生は、植物採集のための「旅」の日々でもあり、全国各地を訪れていた。その足跡を、牧野の地元、高知新聞の記者があらためてたどり、同じ行程を歩きながら彼の一生を振り返る、いわば”旅行記風・伝記ルポ”である。

面白いのは、編年体ではなく、各章が旅行先の「土地」単位になっている点。冒頭は、突然、「利尻」の章からはじまる。1903(明治36)年、41歳、健脚の牧野は高山植物を求めて利尻山に登った。現代の記者とカメラマンも、おなじ行程をたどって意気揚々と山道へ……これが、果たしてどうなるかは、読んでのお楽しみ。

その後、記者は、「屋久島」「東京」「神戸」「仙台」「晩年の東京」「佐川、そして今」と、場所と時代を自由に行ったり来たりする。この構成は、牧野の多面性を立体的に浮き立たせることに成功している。読んでいて「次は、どの時代の、どこへ行くのだろう」と、こちらもタイムトラベルをしているような気になる。しかも、新聞連載がもとになっているだけに、エピソードがコンパクトで読みやすい。新聞記者の文章なので、短くてさっぱりしている。

また、本書は、引用・参考資料が実に幅広い。牧野自身の随筆や自叙伝(これも名著として有名)はもちろん、第三者による評伝や研究文、果ては「小説」までもが続々と登場する。特に、同郷の作家、大原富枝の遺作『草を褥〔しとね〕に 小説牧野富太郎』がうまく引用されており、単調な人物ルポで終わらせない効果を生んでいる。

かように本書は、朝ドラをご覧の方なら、「おお、この部分は、先週放送された、あの話か」と、ワクワクしながら読めるだろう。実は牧野は一人っ子だったとか、最初の東京旅行(博覧会出品)では番頭の息子と会計係の「2人」を引き連れていたとか、故郷・高知の佐川にすでに「妻」がいたとか(つまり東京では重婚!)、東京に出たあとも、始終、高知・佐川と行き来していたとか、ドラマとのちがい=真実も楽しめる。

なお、本書の版元「北隆館」とは、『牧野日本植物図鑑』の正式版元である。つまり本書は、本流も本流、いわゆる”オフィシャル出版”なのである。かつて同社には”牧野担当”がいて、生活費や書籍代などの面倒を見ていたとの、古き良き時代の挿話も登場する。

写真図版も多く、巻末にはイラスト入りの「全国ゆかりの地マップ」や「年表」もある(イラストは高知県立牧野植物園の方らしい)。正味ほぼ200頁、定価は本体900円、新書なのでコンパクトだ。朝ドラの”副読本”に、ぜひ、お薦めします。

そしてもう1冊は、凡百のミステリもかなわない「謎解き本」なのだが、まず本日は、これぎり。
〈この項、つづく/後編は、こちら〉

□『MAKINO ~生誕160年、牧野富太郎を旅する~』は、こちら

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2023.06.09 (Fri)

第405回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(後編)

四つ橋文楽座絵葉書
▲四つ橋文楽座(出典:WikimediaCommons)

1930(昭和5)年、松竹は、四つ橋文楽座の開場にあたり、「桟敷」を廃止し、初めて「椅子席」(850席)の近代的な文楽専門劇場にした。

また松竹はこのときから、長時間を要する通し上演をやめ、すべて「見取り」(面白い段だけの抜粋上演)に切り替えている。
毎週日曜午前には、中学生向けの文楽鑑賞教室も開始した。

昨年逝去された文楽研究者の内山美樹子さん(内田百閒のお孫さん)は、こう書いている。

松竹が見取り方式に切りかえた主たる理由は、太夫・三味線の多くにビラのきく狂言を一段でも半段でも(場合によっては掛け合いのいい役でも)受け持たせることで、贔屓筋、いわゆる組見のお客に、まとめて切符を売ることをねらったものと考えられます(岩波セミナーブックス「文楽・歌舞伎」1996年、岩波書店刊)
※ビラのきく狂言=一般受けする演目
※組見〔くみけん〕=贔屓筋の団体鑑賞


もちろん明治大正期にも見取りはあり、「文楽は長すぎる」との声もすでにあった。だが、それでもちゃんと通し上演もやっていた。
それが見取り専門興行になったことを、内山さんはこう衝いている。

その原作が放棄され、本体も付属もない、見せ場、聴かせ場の切り売りに堕したのが昭和五年以後の松竹の上演方針であったのです。この興行方法は、組見のお客と、人形浄瑠璃を初めて観る近代人の新しい観客と、両方に当初は受け入れられたのでしょう。開場からしばらくは(略)記録的な大入りでした。しかし(略)文化遺産を食いつぶす興行方針が、真の成功をおさめるはずはなく、再び不入りをかこつようになります(前同書より)

もっとも不入りは満州事変の影響もあったようだ。

たが、これにより、物語の全容を知らずに一部だけを観て満足する新しいタイプの見物が続出した。
『平家女護嶋』でいえば、初段で俊寛女房に何があったのか、また、鬼界が島を脱出した海女・千鳥が、四段目でどんな活躍をするか——これらを知っているかいないかで、二段目「鬼界が島の段」の感動の度合いは、大きく変わるはずだ。

しかし、そんな松竹の方針転換のおかげで、『平家女護嶋』の二段目(俊寛)を、見取りで復活上演できたのだから皮肉な話である。

昭和5年、帝都は関東大震災から復興し、もう怨霊だの呪いだのの時代ではなくなった。
幸い『平家女護嶋』二段目はオカルト色がない。孤島に置き去りにされる俊寛の姿は、どこか近代日本人の姿に通じているようにも見える。
上演時間も約90分で、ちょうどいい。
文楽が見取り専門になるのだったら、今後、『平家女護嶋』はこの段だけやればいい。

『姫小松』三段目を見取りでやってもいいが、ラストで人形を同時に10体も出すのはたいへんだ。近松だったら6体ほどでいいし、ラストは俊寛1体だ。

……かくして、この昭和5年を境に〈俊寛〉ものは、近松版の見取りに代わった……ように、あたしは思うのだが。

  *****

豊竹山城少掾
▲豊竹山城少掾(昭和5年当時は、豊竹古靭太夫)

話が遠回りになったが、このときの復活上演を実現させたのが、豊竹古靭太夫、のちの“昭和の名人”豊竹山城少掾(1878~1967)である。三味線は名コンビの四世鶴澤清六。
この上演が素晴らしかったので、近松〈俊寛〉が定着したであろうことは、想像に難くない。

古靭は「古きに環す」に徹し、むかしの院本(全段通し床本)を蒐集、研究していた。その中から近松〈俊寛〉を再発見し、先達を訪ねてむかしの語りを学び、40年ぶりに床にあげたのだった。

ところが、その40年前のときは『姫小松子日の遊』の、さらに改変物『立春姫小松』としての上演だった。正式な近松作品としての上演ではなかったのだ。それでさえ、これまた40年ぶりの上演だったという。
ということは、古靭による復活は、事実上、「80年」ぶりの上演だったのだ(三宅周太郎『続文楽の研究』より、2005年、岩波文庫/原本は1941年刊)

上記『続文楽の研究』によると、古靭が先達から学んで復活した〈俊寛〉は、見事にむかしのスタイル通りだったという。それは80年前の再現でもあった(昭和5年の80年前とは嘉永年間、ペリーが来航したころである)。
古靭は「日月未だ地に落ちず」を痛感した。

著者・三宅周太郎は、上記本で「問題は実にこれである」と書いている。

私は度々義太夫なり、人形なりが、日本の演劇方面においては、歌舞伎劇よりその伝統に信用が出来るといって来た。(略)だが、一方歌舞伎劇を見ると悲しい事には歌舞伎には義太夫における『朱』のような、科学的根拠がない。(略)私が歌舞伎の演出法と伝統とに、常に疑いを持つのはこの理由によっている
※「朱」=床本や三味線譜への書き込み

いまの太夫に古靭の〈俊寛〉が伝わっているのか、あたしは知らない。しかしとにかく、「文楽」が、興行面や見物の荒波にもまれ、改変、消滅、復活を繰り返しながら生き残っていることには、まことに感嘆させられる。
そして「江戸時代のひとも、これとおなじものを観て、おなじ感動を得ていたのか」と思うと、胸が震える。
これが、文楽の魅力だと思う。

【関連回
第403回 俊寛は生きていた! まぼろしの文楽、復曲上演
第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)


15:34  |  文楽  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2023.06.07 (Wed)

第404回 【承前】近松〈俊寛〉は、なぜ消えて、なぜ復活したのか(前編)

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▲近松門左衛門『平家女護島』二段目「鬼界が島の段」西光亭芝國・春好齋北洲
(出典:WikimediaCommons)


前回、「俊寛が生きていた」との面白い文楽作品(浄瑠璃)『姫小松子日の遊』三段目「俊寛島物語の段」を紹介した。「江戸時代は、オリジナルの近松門左衛門版よりも、こちらのほうが人気があった」とも。

すると、数人の方から「そんなに面白い作品が、なぜ消えて、近松ばかりになったのか」と訊かれた。

実は、前回、それも書きかけたものの、あまりに長くなるので、省いてしまったのでした。しかし、複数の方からおなじ質問をされたので、やはり書いておくことにする。ただ、あたしは単なる道楽者で、研究者ではないので、過誤があればご容赦ください。
 
   *****

近松門左衛門、67歳時の人形浄瑠璃『平家女護嶋』〔へいけ/にょご/の/しま〕は、全五段構成(現代ではタイトル末尾は「島」が多い)。『平家物語』のなかの「足摺」や、「入道死去」などいくつかのエピソードをもとに改変された“打倒、平清盛”物語である。
牛若丸や、市川猿之助が昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で演じた怪僧・文覚も登場する。
二段目「鬼界が島の段」(いわゆる〈俊寛〉)がもっとも有名だ。

ちなみにタイトルの「女護嶋」(女ばかりの島)が、俊寛が流された鬼界が島のことだと思われがちだが、それはちがう。
三段目「朱雀〔しゅしゃか〕御所の段」で、常盤御前が次々と男を誘惑し、屋敷に拉致する場面「朱雀の御前は女護の嶋。むかしは源氏の春の園。今日は平家の秋の庭」から来ている。

実は常盤御前は、ワーグナーの《ワルキューレ》みたいに、平家打倒のための兵士を集めていたのである。
これは、夜な夜な美男子が誘惑拉致されていた「千姫御殿」伝説のパロディだ(山本富士子や京マチ子、美空ひばりなどで何度も映画化された)。

常盤御前ばかりではない。清盛に側室になれと迫られる東屋(俊寛女房)は自害する。
また、俊寛の身代わりのようにして鬼界が島を脱出した海女・千鳥は、後段で、清盛が海へ突き落した後白河法皇を救出する。怒った清盛は千鳥を殺す。
そして最後は、この2人の女(東屋、千鳥)が怨霊となって、清盛を呪い殺すのである。

要するに、この作品は平清盛を追いつめる女たちの話なのだ。
よってタイトルの『平家女護嶋』には、「女」たちが力をあわせて平清盛を抹殺するプロジェクト名のようなニュアンスがある。
ということは、二段目(俊寛)だけを観て感動するのは、木を見て森を見ないようなもので、近松先生も不本意なのではあるまいか。

初演は1719(享保4)年8月、大坂竹本座にて。
だが、全段通しで上演されたのは、このときだけ。次の再演は52年後の1772(明和9)年だった(下記・倉田本より)。その間は、前回ご紹介した『姫小松子日の遊』のような改変物が人気を独占していた。

では、なぜ近松版は消えてしまったのか。
実は、いまでこそ近松門左衛門は“日本のシェイクスピア”などと称されているが、江戸時代当時は「近松の作品は一度上演されただけで、二度、三度と繰り返して上演されたものは、ほとんどない」「作品の大半は一回限りの上演で終わっており、一部の作品のみ数十年を経てようやく復活の兆しが出てくる」、そんな存在だった(倉田喜弘『文楽の歴史』より、2013年、岩波現代文庫)。

なぜか。倉田本では「(近松の)作品のねらいは(略)いわゆる虚実皮膜の間に慰みを見出そうとする点にあった。とはいえ、人形は一人遣いで三味線の技術も未熟な時代、近松の考えはどこまで実現できただろうか」と記されている。
つまり、近松の時代、人形は一人遣いで、いまのような精妙な動きはできなかったらしいのだ。
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▲近松門左衛門『曽根崎心中』上演風景。たしかに人形は一人遣いだ。(出典:WikimediaCommons)

人形が三人遣いになったのは、1734(享保19)年、竹本座初演の『芦屋道満大内鑑』からだと、どの本にも書かれている(倉田喜弘氏はこれに異を唱え、1800年ころだとして実に面白い“論争”になったのだが、紙幅でカット)。

いずれにせよ、近松門左衛門は1725(享保9)年に亡くなっているので、人形が三人遣いになる前に世を去っているのである。再演されるのは、ほとんどが、三人遣いになってからの時代だ。

一人遣いでは、近松ならではの精妙な感情表現も難しかっただろう。作品の本質が見物に伝わらず、いくらいい狂言を出しても、すぐに忘れ去られた。
現に、演劇評論家・渡辺保氏の『近松物語 埋もれた時代物を読む』(2004年、新潮社)では近松の時代物狂言が20余、紹介されているが、このなかでいまでも知られているのはせいぜい1~2本である。

一人遣いで中途半端な近松作品よりも、荒唐無稽、波乱万丈な改変物のほうが面白いのは当然だったろう。おなじ〈俊寛〉だったら、近松よりも『姫小松』のほうが、はるかに楽しかったはずだ。

   *****

ところが、その現象が逆転する。
1930(昭和5)年1月、松竹は、大阪に四つ橋文楽座を開場した。
(当時の文楽は、現代の歌舞伎のように、松竹が経営していた)
その杮落とし興行の一演目が『平家女護嶋』二段目「鬼界が島の段」で、これが実に40年ぶりの復活上演であった。
いうまでもなくすでに三人遣いの時代だ。ついに近松が復活する日が来たのだ。

しかも、この四つ橋文楽座の開場は、文楽の歴史を語るうえで、革命的な出来事だったのである。
〈この項、つづく〉


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2023.06.03 (Sat)

第403回 俊寛は生きていた! まぼろしの文楽、復曲上演

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▲5月31日、江東区深川江戸資料館にて

〈俊寛〉といえば、島流し。平家へのクーデター容疑で逮捕され、仲間2人と共に終身刑の罪で島流しにされた僧侶である。

ところがのちの恩赦でほかの2人は釈放されたが、俊寛だけは許されなかった。絶望した俊寛は絶食して孤島で果てた……『平家物語』や能『俊寛』、近松門左衛門の文楽/歌舞伎『平家女護島』などで描かれてきた有名エピソードである。

だが、実は俊寛は、孤島を脱出して生き延びていた……そんな文楽が、竹本千歳太夫(浄瑠璃)、野澤錦糸(三味線)による「素浄瑠璃の会」で復曲上演されたので、いってみた(5月31日、江東区深川江戸資料館にて)。これがたいへん面白かったので、ご紹介したい。

ちなみに「素浄瑠璃」とは、本来、文楽が「人形」「太夫」「三味線」の三業で上演されるべきところを、「人形」なし、音のみで演奏される、いわば「コンサート」である。

で、その作品は『姫小松子日の遊』〔ひめこまつ/ねのひ/の/あそび〕~三段目「俊寛島物語の段」といった。近松半二、三好松洛、竹田小出雲ほかによる合作である。1757(宝暦7)年に初演された。松洛や小出雲らによる名作『菅原伝授手習鑑』から11年ほどのちの作品だ。江戸時代は、近松門左衛門版よりも本作の方に人気があったという。記録に残っている最後の上演は1902(明治35)年だ。
   ***
以下、ストーリーを記す(詞章は、当日配布された床本をもとに、読みやすいように一部を書き換えました)。

舞台は京都の山奥、怪しげな山賊一味の巌窟。

山賊たちが、都から、ある〈母娘〉を拉致してきた。いまこの巌窟の奥では、さる〈女性〉が出産間近なのだ。だが男しかいないので、助産婦役を誘拐してきたのである。なぜか〈娘〉もくっついてきた。

〈女性〉は、やんごとなきお方のようで、「玉のような」〈男子〉を産む(ここまでの過程が実に面白いのだが、紙幅でカット)。

山賊の首領は〈来現〉〔らいげん〕といった。「髪はおどろに生い茂り、伸びたる眉毛に、ぎろつく眼中」との容貌魁偉である。

その〈来現〉が、出産直後、「なに、男子とな。源氏の運の開け口」と口ずさんだ。それを〈母〉は聞き逃さなかった。「さきほどのおことばに、“源氏の運の開く”とおっしゃったは」、お前は何者だと迫る。

しばらく問答があって(紙幅でカット)、ついに〈来現〉は身の上を物語る。前半は、近松門左衛門版とほぼおなじである。
……去るころ平家一門の咎めを受けし三人、鬼界が島へ流されし。康頼、成経ふたりは赦免。(わしは)一人のちに捨てられし、俊寛でおじゃるわいの~!
ひえ~、あの、お前が!」(なぜかかなり過剰反応)

問題はここからの回想だ……あるとき、ひとり島に残された俊寛のもとへ、弟子の有王丸が訪ねてきた。そして平重盛からの重要なミッションが伝えられた(重盛は以前より俊寛に同情的であった)。

そのミッションとは……高倉天皇の寵姫(愛妾)・小督局〔こごうのつぼね〕が懐妊した。男子ならば次代天皇は確実である。ところが、高倉天皇の中宮(皇后=建礼門院徳子)が、実父・平清盛と一緒になって嫉妬し、出産を妨害しかねない。そこで重盛がひそかに小督局を救出し、いま巌窟に匿っている。

俊寛、早くもかの地におもむき、ご誕生の若君、守護いたせよ」……驚くべき密命である(なぜか出産前に「若君」とわかっているのはご愛嬌)。

かくして俊寛は密航帰国し、山賊の首領〈来現〉に化けて、小督局の出産をお助けしたというわけである。

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▲国芳画 (右から、俊寛、〈母〉お安、有王丸、亀王丸)/kuniyoshiprojectより

驚きは、まだ続く。助産婦をつとめた〈母〉(お安)は、俊寛の家臣・亀王丸の女房であった。さらに、連れていた〈娘〉(小弁)は、俊寛が都に残していた息子・徳寿丸であった。女子に変装させ、亀王夫妻が守ってきたのである。

のう懐かしい、とと様!」とすがりつく徳寿丸。俊寛「そうして母はなんとした」。すると守り袋を出し「かか様はこのなかに」。そこには俊寛の妻の戒名が……。

俊寛は右手に戒名、左手に我が子を抱き、「親子三人、このように、顔合わそうと思うたに、冥途へ行ったか、悲しや~」と号泣する。

その後も実にいろいろあるのだが紙幅でカット。結局、この巌窟にいる連中は、実は源氏方と平家方が化けた姿で入り乱れていたことが判明する。すごい迫力で一触即発の状況に陥るのだが、おなじみ「戦場にて再会せば。さらば」で幕となる。

ちなみに小督局が産んだ〈男子〉だが、クライマックスで「後鳥羽院と申せしは、この若君の御ことなり~」との衝撃の事実が語られる(史実では、別の寵姫の子)。
   ***
上演時間80分、唖然茫然とはこのことで、開いた口がふさがらなかった。あまりにも自由奔放な改作ぶり、ひたすら客を驚かせつづける作劇術と快テンポ、知識と教養に裏打ちされた人物設定に、圧倒されっぱなし。近松版よりこちらのほうが人気があったというのも納得の面白さであった。

もちろん、千歳太夫&錦糸の大熱演あってこそ。上演後のトークによれば、本来なら3組で演じ分ける段だそうで、錦糸師匠は「さすがに最後は腕が攣りそうになりました」と言っていた。さらに「あまりに人物が多く、しかも全員が別人に化けているので、演(や)っていて誰が誰だか、わからなくなりました」。

千歳師匠も「大人数なので、ドリフターズのイメージで、2人+2人のパターンで演じ分けました。こっちはカトちゃんとケンちゃん、あっちは仲本工事さんと高木ブーさん」と言っていた。

たしかに、最終場面は(本公演だったら)10体前後の人形が同時に登場するのではないか。30人の人形遣いが舞台上に入り乱れることになる。

三味線の譜面も残っていたが、あまり正確な書かれ方ではなく、復曲作業もたいへんだったようだ。実はお2人は、すでに数年前に内輪での上演をおこなっているほか、床本資料なども各地の研究機関に残っており、研究者の間ではそれなりに有名作品なのである。だが、それでもこうやって復曲上演を続けている。おそらく最終目標は、本公演だろう。錦糸師匠も「本公演で上演できればいちばんいいんですが……」と言っていたが、なかなか容易ではないようだ。

たしかに、これを人形つきの本舞台で観られたら、どんなに面白いだろう。それこそ署名を集めて国立文楽劇場へ直訴したくなる、そんな作品なのだが。


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