2023.07.12 (Wed)
第413回 【追悼】偉大なる「オーソドックス」、ヤンドー・イェネ逝去

▲珍しくジャケットに顔出しした、ヤンドー・イェネ(ブラームスのピアノ協奏曲第2番ほか)
史上もっとも多くのCDを売ったクラシック・アーティストはカラヤンだと、よくいわれる。
だが、もしかしたらこのひとのほうが上かもしれない。
ヤンドー・イェネ。
この7月4日、71歳で亡くなった、ハンガリーのピアニストである。
【注】ハンガリーは日本同様「姓・名」の順で表記するので、英米風だと「イェネ・ヤンドー」となる。
といっても、「あまり聞いたことないな」と思われる方も多いだろう。その一方、訃報を知って残念に感じる方も多いと思う。あたしは後者だった。
ヤンドーは、ナクソス・レーベルへの録音で知られていた。しかも、その量と範囲が尋常ではなかった。ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンについては、ピアノ・ソナタを中心に、一般に知られるほぼすべてのピアノ曲をレコーディングしている。そのほか、母国ハンガリーのリストとバルトークについても、「ピアノ曲全集」を残している。バッハやシューマン、ブラームスもある。ピアノ曲史上、最難曲とも呼ばれる、バラキレフの《イスラメイ》まで録音している!
いったい、ナクソスだけでどれだけの枚数をリリースしたのか、数えることも容易ではない。これほど広範囲にレコーディングしたピアニストは、そうはいないだろう。
ナクソスは、いまや世界シェアNo.1のクラシック・レーベルなので、おそらくヤンドーこそが、CD最大セールス・アーティストの可能性がある。
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20数年前のことだが、来日したナクソスのクラウス・ハイマン会長にインタビューしたことがある。その際、初期ナクソスの主要ピアノ曲が、ほとんどヤンドーの演奏であることについて聞いた。いまとなってはおぼろげだが、ハイマン会長は、おおむねこんな説明をしてくれた記憶がある。
「私たちが1987年にナクソスをスタートさせたとき、重要なリリースとして、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を考えていました。しかし、全曲を短期間にレコーディングできるピアニストは、そういません。そうしたところ、あるハンガリーの会社が、ヤンドー氏を推薦してきたのです。デモ・テープを聴いたところ、たいへん素晴らしいうえ、全曲を連続して演奏・録音することができるというので、さっそく起用したのです」

▲ベートーヴェン《悲愴》《月光》《熱情》
たしかベートーヴェンの《悲愴》《月光》《熱情》をおさめた1枚が第一弾だったと思う(1987年録音)。品番も「8.550045」とかなり若いので、ナクソス最初期のリリースだったのではないだろうか。
ところが、ヤンドーは、ベートーヴェンどころではなかった。バッハでもモーツァルトでも、とにかく、ピアノ曲というピアノ曲は、なんでも演奏できてしまうのである。
「彼は世界中のコンクールで受賞しているピアニストですが、ハンガリーの著名な音楽大学の優秀な教授でもあります。そのため、ほとんどのレパートリーが身体に入っています。演奏は常に正確で美しく、多くのひとに聴かれるにふさわしいピアニストです。彼の演奏を世界中にリリースできることは、私たちの誇りです」(ハイマン会長)
その演奏は「オーソドックス」に尽きる。決して感情が先走ることはない。「独自の表現」や「個性的な解釈」もない。楽譜に忠実な、いわゆる「まじめな演奏」だ。
演奏家である以上、新しい曲に挑戦することは当たり前だ。その際、ふつうは徹底的に曲を集中して勉強し、身体に沁み込ませて「自分のもの」にする。すると、自然に独特な解釈が生まれる。それが演奏家の個性となり、我々リスナーは、その個性に期待して対価をはらう。
……と考える方は、かなりのクラシック・マニアである。世の中には、そこまでは求めないひとの方が多いのではないだろうか。グレン・グールドは素晴らしいピアニストだが、「クセが強すぎて苦手」「弾きながら歌うのはやめてほしい」と感じるひともいるはずだ。ただ、それを口に出すと、マニアに嗤われるような気がするので黙っているのではないか。
ナクソスは「クラシックの百科事典」を目指している。より多くのひとに、より多くの作曲家・楽曲を安価で伝えるレーベルだ(だからラインナップは、有名レパートリーと秘曲が同列に並ぶ)。そのためには、多くのひとに受け入れられる演奏でなければならない。
ヤンドーは、まさにそういうピアニストだった。ヤンドーから、難聴と闘うベートーヴェンの苦悩を読み取ることはできない。物足りないと言うひとも多い。しかし、ていねいな演奏なので、「音符」はわかる。すると、ベートーヴェンは「音符」にすべてを託していたことが感じられる。ヤンドーは「私はとにかく楽譜どおり正確に再現するので、あとは皆さんで読み取ってください」と言っているのだ。だから、おなじ曲を、まずヤンドーで聴いてから、ほかのピアニストで聴くと、どこに個性があるのか瞬時でわかった。
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キチンと整理していないのだが、たぶん、あたしの自室のCDの山をひっくり返すと、ナクソスのヤンドーが20枚前後、出てくると思う。

▲ハイドン《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》
中でも忘れられないのは、ハイドンの《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》だ(2013年録音)。本来が管弦楽曲だが、ハイドン自ら編曲した弦楽四重奏版が出版される際、出版社が編纂した鍵盤用スコアがあった。ハイドンが見たら、なかなかキチンとした出来だったので、公認して同時に出版されたという、珍しいヴァージョンである。通常は「ハイドン監修によるクラヴィーア版」などと称される。
このリリースが、ナクソス側のリクエストだったのか、ヤンドー自身の希望だったのかは不明だが、これまた落ち着いた、とてもいい演奏だった。管弦楽オリジナル版、弦楽四重奏版、オラトリオ版(別人編纂)ともちがい、本来が素朴な「ソナタ集」であることを再認識させてくれて、愛聴盤になった。

▲バッハ《ゴルトベルク変奏曲》
もうひとつが、バッハ《ゴルトベルク変奏曲》で、これもオーソドックスの極みのような演奏だった(2003年録音)。最後の第30変奏は、見せ場とばかりに力を入れる演奏が多いが、ヤンドーはあっさりとすませ、そっと最終アリアに入る。あれでいいのだと思う。
最後に残るのは正当なオーソドックスであり、それがいかに偉大なことか。ヤンドー・イェネは、そんなことを教えてくれるピアニストだった。
□ナクソス・ジャパンによるYOUTUBE/ヤンドー追悼チャンネル
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□現在、ナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴けるヤンドーの全CDリスト(コンピ盤や再編集盤なども含む)
□ナクソス・ミュージック・ライブラリーのヤンドー追悼ベスト
□《悲愴》《月光》《熱情》はこちら
□《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》はこちら
□《ゴルトベルク変奏曲》はこちら