2023.11.22 (Wed)
第434回 【映画/オペラ先取り紹介】 ロイヤル・オペラ《指環》新チクルスは、「節度ある過激演出」!

▲ROH《ラインの黄金》の神々一族(イメージ・ヴィジュアルにつき、ステージ写真ではありません) © 2023 ROH
ワーグナーの超大作《ニーベルングの指環》4部作の全曲映像化は、むかしから多くのひとが挑んできたが、なかなか実現できなかった。“帝王”カラヤンも例に漏れず、自らの指揮/演出で、全曲の「上演」「録音」「映像化」に挑戦したが、映像だけは完遂できなかった。なんとか形になったのが序夜《ラインの黄金》のみで(1973年のザルツブルク復活祭音楽祭の音声に、1978年スタジオ映像を加えた映画)、残り3部は完成されなかった。

▲初の全曲映像となったシェロー演出《指環》~《ラインの黄金》DVDジャケット
結局、初めての全曲映像が実現したのは、1980年にバイロイト祝祭で収録された、ピエール・ブーレーズ指揮/パトリス・シェロー演出によるものだった。1976年のバイロイト100周年で起用された、史上初のフランス・コンビである。舞台を産業革命とおぼしき近代に設定した、(当時としては)意表を突いた演出だった。そのため、守旧派ワグネリアンの大不評を買い、暴動が発生する騒ぎとなった。それでも翌年以降、上演を強行するうち、次第に賞賛の声が勝るようになる。そしてついに、1980年の舞台を観客なしで映画的に撮影収録した、初の全曲映像が完成したのである。映像監督はブライアン・ラージ。
この映像は、レーザー・ディスク11枚組ボックス・セットで発売された(現在は、DVD8枚組/BD5枚組)。多くのひととおなじく、あたしは、このLDで、初めて《指環》全曲を「観た」。その感動と衝撃は忘れられないが、いまは省く。そして、これを契機に《指環》のテキストレジ(読み替え演出)がさかんになったのである。
(1987年、ベルリン・ドイツ・オペラによる全曲日本初演にも行った。これもゲッツ・フリードリヒによるSF的読み替え演出だったが、印象の強さでは、上記シェロー演出にはかなわなかった)
その後、DVDやBlue-Ray Discといった、コンパクトなメディアが登場し、長時間を要する《指環》は恰好のコンテンツとなった。デジタル効果による舞台演出技術の発達がそれを後押しし、ヨーロッパの小ぶりなオペラハウスも、バイロイトに負けじと、続々と《指環》を全曲上演・映像化するようになった。
さらに2000年代になり、ライヴ映像時代がやってくる。特にNYメトロポリタン歌劇場は《指環》に力を入れ、ジェイムズ・レヴァイン指揮/オットー・シェンク演出、ジェイムズ・レヴァイン、ファビオ・ルイージ指揮/ロベール・ルパージュ演出などを、さかんに「METライブビューイング」で上映した。
かくして、人類史上最大の舞台芸術《ニーベルングの指環》4部作は、映画館や自宅で、気軽に観られるようになったのである。
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だが、そのせいでもあるまいが、とにかく「読み替え」「過激」「SF」「現代」的演出が当たり前となった。
たとえば——ある演出では、ラインの乙女は売春婦になった。ある演出では、黄金の指環は「核」を想起させ、地下のニーベルハイムは何かに汚染されていた。そのほか、中空にはレーザー光線が飛び交い、湾岸戦争や中東紛争のような演出。さらにワルキューレが宇宙ステーションにいる演出……そのあたりまではよかったが、近年の本家バイロイトでは、舞台をアメリカの荒野の安モーテルにしたり、ヴォータンとアルベリヒが双子の兄弟だとの驚天解釈までが登場しているという。あえて詳述しないが、観ているほうが恥ずかしくなるようなバカバカしい演出もあった。《指環》読み替えは、行き着くところまで行ってしまったのだろうか。
それだけに、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)が、2023/24シーズンから、《指環》の新チクルスを開始すると知ったときは、期待と不安が重なった。
その第1弾、序夜《ラインの黄金》の舞台映像が、来月、日本の「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン2023/24」で上映される。先日試写で観る機会があったので、さっそくご紹介しておきたい。
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現地上演はシーズン幕開けの9月11~29日で、今回の映像は9月20日収録。アントニオ・パッパーノ指揮/バリー・コスキー演出である。
(ちなみにROHの《指環》では、2005年プレミアの、パッパーノ指揮/キース・ウォーナー演出による、第一夜《ワルキューレ》が定番で、「シネマシーズン」でも上映された。ニーナ・シュテンメがブリュンヒルデを演じる名舞台だったが、あれとはまったく別の新規プロダクションである)
パッパーノは2002年にROHの音楽監督に就任した。もう在任20年超となる。今シーズンで最後らしいが、長期にわたって安定した舞台を生み出してきただけあって、音楽面はまったく心配はない。”不安のタネ“は、演出のバリー・コスキーである。
このひとは、1967年、オーストラリアのメルボルン生まれ。祖父の代にヨーロッパからオーストラリアに亡命したユダヤ系だ。演劇と音楽を学んでオーストラリアで演出家として活躍した後、ヨーロッパに渡って大成功した。巨大クラシック音楽サイト「Bachtrack」で、「世界で最も忙しい演出家」に選出されたこともある。
2018年に、ベルリン・コーミッシェ・オーパーが来日し、《魔笛》をBunkamuraオーチャードホールで上演した。アニメーションと歌手が舞台上で“共演”するユニークな舞台で話題となったが、あれを演出したひとである。
だが、やはり彼は、過激な演出と解釈で話題となることが多い。あげだすとキリがないので、ひとつだけ。近年では、2017年プレミアのバイロイト祝祭《ニュルンベルクのマイスタージンガー》だろう。舞台は1875年のワーグナー邸。そこに集まるワーグナー、リスト、コージマといった実在の人物が、そのままオペラの登場人物に重なるトンデモ設定だった。しかも第3幕はニュルンベルク裁判……こう書くと、やり過ぎ読み替えに思えるが、演出の根本にユダヤ人問題や戦争犯罪に関する確固たる思想があるせいか、バイロイト名物のブーイングも出ず、いまでは名舞台として映像化もされている。
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そんなバリー・コスキーが、ROHで《指環》4部作を4年連続で演出する。その序夜《ラインの黄金》が、今期「シネマシーズン」の第1弾で上映されるわけだが、ひとことでいうと「節度ある過激演出」とでもいおうか。よって「なるほど、こう来たか」と感心する場面の連続だが、それでいて「これはやりすぎじゃないか」と嫌悪感を催したり、どうにも理解できないような難解場面も(ほぼ)なかった。まあまあ中庸をいく、興味深い舞台である。
(コスキーはゲイを公言しており、それゆえかと思われる演出もあるのだが、この程度の表現は、いまのヨーロッパでは、当たり前である)
実は、彼は、2009年にドイツ・ハノーファー州立歌劇場で、一度《指環》全曲を手がけている。その一部映像がYOUTUBEで観られるのだが、もうとんでもないヴィジュアルで、もしこれの延長線だったらどうしようと、かなり不安を抱えていた。しかし、それほどではなく、よい意味で“後退”していたので安心した。やはり「演劇の国」で上演する以上、それなりの考慮があったのかもしれない。
以下、あまり細かく書くと、ご覧になる方の興を削ぐので、いくつかのポイントだけ綴る。
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最大の特徴は、全4場を通じて、智の女神エルダが常に舞台上にいて、一部始終を「観ている」設定である。つまり物語全体が、エルダの「目撃談」なのである。これによって、最終場面でどのような効果が生まれるか、《指環》ファンの方は、もうおわかりだろう。また、なぜ後日、ヴォータンがエルダとの間に9人ものワルキューレ(戦さ乙女)をもうけることになるのか、説得力も増す(エルダが産んだのはブリュンヒルデ1人との見方もあるが)。
さらにいえば、コスキーは、最終作《神々の黄昏》を見通していることもまちがいない。エルダひとりの扱いで、本作を、つづく3作の壮大な“予告編”にしてしまった。うまい演出だと思う。イギリスの《指環》マニアは、これから4年間、ROHに通わねばならない。
なお、このエルダ役については、あえて述べないが、おそらく観た誰も、かなりの“衝撃”を受けるであろう。全出演者のなかで、ただひとり、2時間半、出ずっぱりである。この役は日によって交代するが、今回の映像で“演じる”のは、82歳のローズ・ノックス=ピーブルス。映画『TAR/ター』で、ケイト・ブランシェットとおなじアパートに住むエレノアの母を演じていた、あの老女だ。もちろん、声はプロ歌手である。
1幕4場のオペラだが、本格的な舞台転換はない。舞台上には、巨大な廃木が横たわっており、すべてはこの内部と周囲で展開する(この廃木がトネリコだとしたら、次作でも登場するかもしれない)。あるときはライン河となり、あるときはニーベルハイムになる。

▲「黄金」を守るラインの乙女と、それを狙うアルベリヒ © 2023 ROH
「黄金」は、金塊ではなく、「泥」状である。ということは、フライアの周囲に「積む」ことはできない。ではどうやってフライアを「黄金で囲む」のか。ここは観てのお楽しみで、なかなかのアイディア演出だと感心した(『007ゴールドフィンガー』がヒントかもしれない)。
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パッパーノ指揮の管弦楽はいうまでもなく素晴らしい(もちろん、ワーグナー・テューバあり)。歌手もとてもよかった。ただ、アルベリヒ(クリストファー・パーヴェス)の外見が、強奪犯の下品な妖怪にしては清潔感があり、しかもヴォータンとそろって大柄スキンヘッドなので、2人とも貫禄十分。主神vs妖怪の面白さが薄かった。
また、半人半神のローゲ(ショーン・パニッカー)は、外見が好青年すぎて、本来の狡猾で下卑たローゲではない。そのためラストの「あんなバカな神々と心中なんて、まっぴらごめんだ」と裏切り宣言する場面の迫力が少々弱い。いかにも“現代っ子”ローゲである。しかし2人とも「声」は立派だ。
小人のニーベルング族は子役たちが演じているが、あの被り物は、被爆国日本では(実演だったら)拒否されるだろう。
というわけで、一部、驚かされる設定もあるが、さほど強引な「読み替え」演出はなく、基本的には神話に原点回帰しているような気がした。歌手は常に動いており、2時間半、息をもつかせずに展開する。終演後のブーイングもなく、客席は大絶賛の興奮状態である。ROHの《指環》新チクルスは、絶好の船出となったように思う。オペラ・ファンにお薦めしたい、見事な舞台映像だ。
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▲コヴェントガーデン側から見た、ロイヤル・オペラ・ハウス。ここで『マイ・フェア・レディ』のイライザが花を売っていた。 【出典:WikimediaCommons】
なお余談だが、場面転換のたびにオーケストラ・ピットが映る。すると、かなりの団員が、正装ではなく、揃いの黄色いトレーナーを着ているので、ちょっと驚く……その胸に、何と書かれているか!
こればかりは、客席からは(かなり高倍率のオペラグラスでないと)読めない。しかし今回の映像では、その「文字」を、ちゃんと映してくれる。おそらく彼らは、この日にカメラが入ることを知って、あのトレーナーを着たにちがいない。そして映像制作スタッフは、彼らの思いを全世界に伝えたいと思ったにちがいない(世界20か国、1,341館で上映される)。日本円で40,000円前後(最高席)を払った現地観客の多くは、たぶん、そんなことには気づかない。だが映画館で観る私たちは、ちがう。これも「シネマシーズン」ならではの楽しみである。
(敬称略)
◆《ラインの黄金》は、12月15日(金)~21日(木)、TOHOシネマズ日本橋ほかで、1週間限定で上映されます。上映館、時間等はHPでご確認ください。上映時間は解説+インタビューを含めて2時間57分。全1幕につき、幕間や途中休憩はありません。
◆「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン2023/24」のHPは、こちら。イメージ映像、舞台写真などもあります。
2023.11.20 (Mon)
第433回 【新刊紹介】芥川龍之介、自殺の原因? 菊池寛との共訳”わけあり本”『アリス物語』(後編)

▲芥川龍之介・菊池寛共訳『完全版 アリス物語』(グラフィック社)
【前回よりのつづき】
芥川龍之介・菊池寛共訳の『アリス物語』を読んでの感想は、「これは、江戸落語ではないのか?」だった。
現在、『不思議の国のアリス』をなるべく新しい訳で読もうとすると、ジュニア向きを別にすれば、矢川澄子訳(新潮文庫)か、河合祥一郎訳(角川文庫)のどちらかで接するひとが多いと思う。両者それぞれに“翻訳精神”のちがいがあって興味深いのだが、それに触れているとまた遠回りになるので、いまはやめておく。まずは冒頭部分を、この2人がどう訳しているか。
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【矢川訳】
アリスはそのとき土手の上で、姉さんのそばにすわっていたけれど、何もすることはないし、たいくつでたまらなくなってきてね。姉さんの読んでる本を一、二度のぞいてみたけれど、挿絵もなければせりふも出てこない。「挿絵もせりふもない本なんて、どこがいいんだろう」と思ってさ。
【河合訳】
アリスは、なんだかとってもつまらなくなってきました。土手の上でお姉さんと並んですわっていても、なにもすることがないからです。お姉さんが読んでいる本を一、二度のぞいてみたけれど、さし絵もなければ会話もありません。「さし絵も会話もない本なんて、なんの役に立つのかしら?」とアリスは思いました。
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と、両者とも、少なくとも冒頭部については、語り口調以外に大きなちがいはない。では、“文豪”お二人のほうは、どんな具合だろう。
【芥川・菊池共訳】
アリスは姉様といっしょに、土手に登っていましたが、何もすることがないので、すっかり厭き厭きして来ました。一、二度姉様の読んで居た本を覗いて見ましたけれど、それには絵も、お話もありませんでした。「こんな御本、何になるのだろう。絵もお話もないなんて。」と、アリスは考えました。
いきなり「姉様」である。「姉様」——少なくとも市井の下町娘は、姉のことを「あねさま」なんて呼ばない。普通は「ねえちゃん」か、せいぜい「ねえさん」だろう。さらに、単なる「本」ではなく「御本」と口にしている点も、見逃せない。
どうやら共訳のアリスは、旧武士階級に近い、“お嬢様”のようだ。大正~昭和初期の、華族とまではいかないが、中流よりすこし上くらいの家の娘だろう。「姉上」(華族)と「ねえちゃん」(下町娘)の中間だ(ネタ本の楠山訳は「お姉さま」)。
となると、住まいは、麹町や番町ではない。おそらく、外濠のすぐ北側、たとえば花街・神楽坂近くか、離れていても小石川・伝通院あたりのような気がする。そして、こんな口調だ。
「いいえ、わたし決心しちまった」
「お前さん、ディナーを見た日にゃ、きっと猫が好きになるにきまってるわ」
「お前たち、そんなことをしない方が身のためだよ」
「でもまあ、なんて可愛らしい犬ころだったろう!」
「これからは二階から落っこちることなんか、平気の平左だわ」
「決心しちまった」「お前さん」「お前たち」「犬ころ」「平気の平左」……伝法で、なかなか気が強い。不思議の国の、わけのわからん連中を、すこし下に見ている。それがつい口に出るところが、痛快だ。
今回の復刻では、マーガレット・タラントの、古いけれど品のある挿絵が採用されている。解説によると、北原白秋訳『まざあ・ぐうす』にも彼女の挿絵が使用されていたという。また、『アリス物語』原本にも、このタラントを参考にした挿絵が載っていたらしい。それらや、有名なテニエルの挿絵を見ると(角川文庫版に収録)、アリスのファッションは、典型的な当時のイギリス中産階級のお嬢様だ。
だが、芥川が最初にイメージしたアリスは、羽織袴の女学生にちがいない。漫画『はいからさんが通る』や『鬼滅の刃』のファッションだ。華族ではないから、通っているのは女子学習院ではなく、跡見女学校か香蘭女学校あたりではないだろうか。
当時の女学校では「割烹」の授業があった。日本料理である。“芥川アリス”も習ったはずだ。だから(?)共訳では、こうなっている。
チェリー・タルト → 桜桃〔さくらんぼ〕の饅頭
オレンジ・マーマレード → 橙〔だいだい〕の砂糖漬
カップ・オブ・ティー → 茶呑茶碗
ティー・ポット → 急須
リフレッシュメンツ → お茶うけ
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当時の小学生(読者)の、教養の豊かさを彷彿とさせる訳もある。
「先生は年をとった海亀でした。——わたし達は先生のことを正覚坊先生、といつもいっていました——。」
「何故正覚坊先生というんです。」とアリスは尋ねました。
「なぜって小学本(正覚坊)を教えますからさ。」
ここは、「正覚坊」が「アオウミガメ」の異名で、かつ「大酒呑み」の隠語であることを知っていないと、読んでも意味は分からない。今回の共訳には注釈があるからいいが、当時は、そんなものはなかったはずだ。ということは、むかしの小学生は、これを読んで楽しめたのである(あるいは訊かれた親は、答えられたのである)。
しかも、ここは、原語の英語の響きをうまく使ったダジャレになっているそうで、そのうえ、「小学本」(この全集のこと)と「正覚坊」(大酒呑み)をひっかけた、二重のダジャレになっているのである。
ちなみにこの部分、現在では、
【矢川訳】
「先生は年とったウミガメだったけど、ぼくたちゼニガメってよんでた」
「どうしてゼニガメなんてよんだの、ほんとうはそうじゃないのに」アリスが口をだす。
「だってぜにかねとって、勉強教えるじゃないか」
【河合訳】
「先生は年寄りの海ガメだったけど、茶々と呼ばれていた——」
「どうして海ガメなのに茶々と呼ばれていたの?」アリスはたずねました。
「先生はティーチャだろ。ティーとは茶のことだ。だから茶々じゃないか。」
となっている(楠山訳は、さらにわかりにくいので、いまは略す)。
かように、この芥川・菊池共訳は、知的で、ちょっとモダンで伝法で威勢がいい、大正ガールズの世界として描かれているのである。まさに江戸落語を聴いているようだ。芥川は現在の京橋付近で生まれ、両国で育った江戸っ子。菊池は、香川・高松の生まれ育ちである。訳の全体基調は、芥川によるものだと思いたい。
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そして、最後の段落——ここは、夢から目覚めたアリスを、姉が微笑ましく見守る、全編の白眉ともいえる部分である。
【芥川・菊池共訳】
最後に姉様は、この小さい同じ妹が、やがては大人になっていくこと、それからアリスが年をとる間に、子供時代の無邪気な可愛らしい心を、何んな風に持ち続けるだろうという事や、——(以下略)
共訳では、なんと、この段落まるごと(今回の復刻で8行におよぶ)を、「1文」にしている。つまり、8行もの間、最後まで「。」がなくて、長文がダラダラとつづくのだ。ちなみに矢川訳も河合訳も「。」を5回使って5文に分けている。楠山訳でさえ、一ヶ所「。」を入れている。
芥川も菊池も、自作でこんなに長い文章は、めったに書かない。特に菊池寛などは、短い文章でキビキビと運ぶ書き手だ。それだけに、ここは、ちょっと不思議な印象をおぼえる。
しかし、なかなかの名文なのだ。かなり長いうえ、8行全部を引用するのではグラフィック社に失礼なので上記にとどめたが、「ああ、この訳で読んでよかったなあ、楽しかったなあ」と、心の底から思えた。解説者も、ここにかなり詳しい補注をあてて「物語を愛するすべての人に届けたい見事な訳」と賞賛している。
実は——この部分、原文でも「1文」なのだ。途中に「.」(ピリオド)はなく、「,」の切れ目だけで、ダラダラとつづいている(原文すべてを確認したわけではないが、この作品は、全体的に「.」はすくないようだ)。
素人考えだが、ここは芥川が原文に忠実に訳したような気がする。もし後半が未完で、そこを菊池が訳したのなら、最終段落はもっと短い文に区切って、読みやすくしたような気がするのだ。芥川が、最終部分の原文をそのまま生かして「。」を入れずに訳した、その遺稿を見た菊池が、感動して、あえて手を入れず、そのままにした——そんな気がして、仕方ないのである。
なぜなら、芥川は、自殺の4カ月前、雑誌「改造」1927(昭和2)年3月号に『河童』を発表した。遺作ではないが、創作小説としては、ほぼ最後の作品である。脱稿日は「2月11日」と記されている。
この最初の方に、こんな描写がある。「僕」が、地底の河童の国へ落ちていく場面である。
河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、一きは高い熊笹の中へもんどりを打つやうに飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあとへ追ひすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいてゐたのでせう。僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。

▲奥から、姉様、アリス、ウサギ(アリス・B・ウッドワードによるイラスト。1905年ごろ) 出典:WikimediaCommons
河童を追って穴に落ちていく「僕」は、ウサギを追って穴に落ちるアリスそのものだ。芥川は『河童』と『アリス物語』翻訳を、同時期に執筆していたのではないだろうか。アリスを訳しているうちに、河童の国と一緒になり、まぼろしを見るようになった。だとしたら、巷説にあるように、芥川は本書をめぐって北原白秋と菊池寛の板挟みになったから死を選んだのではなく、『アリス物語』そのものに魅せられるあまり、自ら望んで別の世界へ行ってしまったのではないか——そんな気もして、仕方がないのである。
◇グラフィック社『完全版アリス物語』HPは、こちら(一部立ち読みあり)。
2023.11.16 (Thu)
第432回【新刊紹介】芥川龍之介、自殺の原因? 菊池寛との共訳”わけあり本”『アリス物語』(前編)

▲グラフィック社が復刻した『完全版 アリス物語』
本ブログ第426回で紹介した文学座公演『逃げろ! 芥川』が、地方公演も含めて盛況好評のうちに終わったようだ。芥川龍之介と、親友・菊池寛の長崎への旅をモチーフにしたユニークな芝居だった。
実は、そのときに話題にしたかったのだが、あまりにも長くなりそうだったのでカットした本がある。芥川龍之介・菊池寛共訳『完全版 アリス物語』(ルイス・キャロル著、澤西祐典訳補・注解/グラフィック社)である。今年の2月に刊行され、その後、増刷がつづいているヒット本だ。
これは、むかしから芥川龍之介の自殺の原因ではないかとも囁かれている、ある意味、“わけあり本”なのである。
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あたしは浅学もかえりみず、大学や市民講座などで、出版や作文についての授業をもっている。そのなかで、昭和初期に発生した、ある出版スキャンダルの解説をすることがある。それは——。
1926(大正15)年、改造社が〈現代日本文学全集〉(全63巻)の刊行を開始した。400頁前後の本が1巻1円とあって、30万部近い大ヒットとなった(物価指数で換算すると、当時の1円=現在の650円くらいの感覚)。いわゆる「円本ブーム」の到来である。
これを見た出版各社が、次々と「1巻1円」の全集を刊行した。最初に便乗したのが新潮社で、〈世界文学全集〉は60万部近くに達した(全38巻で開始したものの、あまりに売れるので全57巻までつづけた)。さらに平凡社の〈現代大衆文学全集〉(全60巻)も大ヒット。書店は「円本」であふれかえった。一説には、大小あわせて約300種もの「円本全集」が出たといわれている(なぜ、そんな低価格本で商売になったのかは大河噺になるので、またいつか)。
そのなかで異彩を放つのが、1927(昭和2)年5月刊行開始、アルス社の〈日本児童文庫〉(全76巻)である。これは子供向け円本だが、価格は半額の「1巻50銭」に設定されていた。
アルス社とは、現在、写真・イラスト関係書出版で知られる「玄光社」の系列ルーツともいえる版元だ。創設者が北原白秋の弟・北原鐵雄なので、実質、“北原白秋の版元”のイメージがあった。もちろん、白秋本も出している。前身は「阿蘭陀書房」。芥川龍之介の最初の短編集『羅生門』を出版してくれた版元である。よって芥川は、北原白秋やアルス社に足を向けて寝られない。白秋は憧れの作家でもあった。そこから、〈日本児童文庫〉の第13巻『支那童話集』を担当してくれといわれ、当然、引き受けた。
ところが、同じ時期に、菊池寛が、自社(文藝春秋)と興文社との共同で〈小學生全集〉を刊行すると発表した。菊池は、こう書いている。
《新聞の広告でも御承知のことと、思ふが、今度自分は芥川の援助をも乞うて、「小學生全集」なるものを編輯することになつた。(略)定価は三十五銭である。菊判三百頁で、三十五銭であるから、廉い廉いと云はれる如何なる全集も、到底比べものにはならないだらう。》(「文藝春秋」1927年5月号~「小學生全集」について)

▲菊池寛の企画による〈小學生全集〉(ヤフオクの出品写真)
アルス社の50銭よりもさらに安い。巻数は全88巻! しかもアルス社と同時に刊行を開始し、新聞広告もアルス社とおなじ頁に出稿する挑戦的出版だった。
親友の企画だけに、芥川は、これにも協力せざるをえない。現に編者として、はっきり「菊池寛・芥川龍之介編」と明記されてしまっている。仕方なく、第28巻『アリス物語』と、第34巻『ピーターパン』を引き受けた。
アルス社=北原ブラザーズは怒り狂った。企画の剽窃であると、非難の声明文を出す。だが菊池はいっこうに動じない。中傷の新聞広告合戦となり、事態は泥試合の様相を呈する。ついにアルス社は菊池側を「信用棄損業務妨害」で告訴した。児童出版が、たいへん醜い一大スキャンダルと化したのだ。
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両社とも引かないまま、刊行は1927(昭和2)年5月にはじまった。芥川は、この板挟みになった。恩人をとるか親友をとるか。アルス社側の非難は芥川自身にも向けられていた。
そして芥川は約2ヶ月後の7月24日に服毒自殺する。遺書には、有名な「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と書かれているだけで、正確な原因は不明だ。だが、この一件が引き金のひとつになったのでは……との噂は絶えなかった。
芥川は、アルス社の『支那童話集』には、まだ手をつけていなかった。これは佐藤春夫著となって、1929(昭和4)年1月に出た。
だが、文藝春秋・興文社の『アリス物語』『ピーターパン』については、芥川はかなりの部分を書き(訳し)あげていたようだ。その遺稿をもとに菊池寛が補筆し、「芥川龍之介・菊池寛共訳」として、第28巻『アリス物語』は芥川の死後4か月後の1927(昭和2)年11月に、第34巻『ピーターパン』は1929(昭和4) 年11月に出た。
菊池は、『アリス物語』の注意書きで、こう書いている。
《この「アリス物語」と「ピーターパン」とは、芥川龍之介氏の担任のもので、生前多少手をつけてゐてくれたものを、僕が後を引き受けて、完成したものです。故人の記念のため、これと「ピーターパン」とは共訳と云ふことにして置きました。》

▲芥川の死後4か月後に出た『アリス物語』(ヤフオク出品写真)
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今回ご紹介するグラフィック社の『完全版 アリス物語』は、その第28巻の復刻である。「完全版」とあるのは、この共訳には、原文から削除された部分や、明らかな誤植、誤訳があるそうで、作家で研究者の澤西祐典氏が補綴修正し、詳細な注釈をほどこしたことを指している。
刊行当時、この2点はよほど売れたと見えて、いまでも古書市場でラクに見つかる。状態さえ気にしなければ、せいぜい数千円である。よって、さほど珍しいものではない。だが、どこが通常の「アリス」とちがうのか、どこに芥川ならではの個性があるのかは、かねてより議論百出で、定まっていないようだ。
というのも菊池が《(芥川が)生前多少手をつけてゐた》と書いた、その《多少》が、どの程度のものなのか、いまだによくわかっていないからだ。ある部分までを芥川が訳し、残りを菊池が訳したのか。芥川が大雑把に全体を訳したものを菊池がブラッシュアップしたのか。下訳があって、そこに芥川が手を入れかけたのを、菊池が仕上げたのか。
ここから先は、多くの研究書があるので(たとえば紀田順一郎『内容見本にみる出版昭和史』本の雑誌社、楠本君恵『翻訳の国のアリス』未知谷など)、それらに頼るが、実はこの「共訳」には、明確な“ネタ本”があった。演劇評論家で、児童文学者の楠山正雄が訳して1920(大正9)年に刊行されていた『不思議の國 第一部アリスの夢、第二部鏡のうら』(家庭読物刊行会/〈世界少年文学名作集〉所収)である(ちなみにこの楠山正雄は成島柳北の縁戚。ということは森繁久彌の遠縁にあたる)。
芥川・菊池共訳は、この楠山訳からそのまま持ってきた部分が多いという。楠山の誤訳までもおなじように誤訳しているそうだから、言い訳はできない。いまだったら無断引用・盗作の指摘を受けて、絶版回収だろう。
ところが、それでは楠山訳の全面パクリかというと、そうともいいきれないところが、事態をややこしくしている。いかにも“文豪”ならではの訳文箇所もあるのだ。明らかに、英語原文を読み込んで理解していなければ生まれないような訳語もある。
しかし程度の多寡はあれど、とにかく、芥川龍之介と菊池寛の筆が入った『不思議の国のアリス』が「完全版」となって、この令和の世によみがえったわけだ。
あたしは一読して、いままで読んだアリスのなかで、もっともしっくりとした読後感をおぼえた。そして、なんともいえない幸福感をおぼえた。いったい、どこがよかったのか——以下は後編で。
(後編につづく)
◇グラフィック社『完全版アリス物語』HPは、こちら(一部立ち読みあり)。
2023.11.08 (Wed)
第431回 【映画、演劇】 手塚治虫作品が「強固」な理由~映画『火の鳥 エデンの花』、舞台『アドルフに告ぐ』、BJ展

▲映画『火の鳥 エデンの花』
最近、手塚治虫にまつわる企画がつづいた。どれも意欲的な内容で、60年を超える“手塚教の信者”としては、たいへん楽しかった。だが同時に、手塚作品をアレンジすることの難しさも、あらためて痛感した。
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現在公開中のアニメーション映画『火の鳥 エデンの花』(西見祥示郎監督)は、『火の鳥 望郷編』(「マンガ少年」版)が原作である。アニメーション制作はSTUDIO4℃。
世評では、原作に忠実だとの声もあるようだが、重要な点が改変されており、あたしは『火の鳥 望郷編』を参考にした別作品に感じた(本作は、Disney+での配信版もあり、若干内容がちがうそうだが、そちらは未見)。
では、原作どおりにやればいいのかというと、そこがむずかしい。手塚作品は独特の文法による「紙の漫画」として完成しすぎているので、ほかのメディアに移植しにくいのだ。特に映像化となると、そのままでは無理で、どうしたってアレンジが必須となる。しかしそれは“手塚文法”を捨てることになるので、どうしても別作品になってしまうのだ。
この二律背反が、手塚作品の映像化における大問題となる。いままで多くのクリエイターが挑戦してきたが、なかなかたいへんなようだ。特に『火の鳥』はむずかしい。市川崑の実写映画や、手塚自身が総監督をつとめた『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』(杉山卓監督、1980)など多くあるが、どれも成功作とはいいがたかった。
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では、その“手塚文法”とは、なんだろうか。強いていうと、手塚作品は「落語」なのである。すこし遠回りになるが、古典落語の名作『崇徳院』を例にあげて説明しよう。
大店の若旦那が恋煩いで寝込み、医者から「あと5日の命」と宣告される。実は先日、美しい町娘から文をもらった。〈瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の〉と書いてある。崇徳天皇の御製だ。だが下の句がない。このあとは〈われても末に あはむとぞ思ふ〉(いまは別れても、またお会いしたいです)とつづくのだ。ということは、これは暗号のラヴレターではないか。
だが、その町娘がどこの誰だかわからない。そこで父親が熊さんに相談する。「3日で見つけ出してくれたら借金を帳消しにしてやるぞ」。熊さんは仕方なく町中へ出る。人が集まる湯屋や床屋へ行っては「瀬をはやみ~!」と大声をあげて、手がかりを探すのだが……。
そもそも恋煩いで「5日後に死ぬ」など、ありえない。どこの誰だとも名乗らずに暗号みたいな恋文を送ったって、その後の進展があるわけがない。湯屋や床屋で上の句を読んだら、なぜ町娘が見つかるのか理屈に合わない。ないない尽くしなのに、我々は疑問ももたず、笑いながら聴き入ってしまう。
なぜなら作者は(江戸時代、初代桂文治の作といわれる)、崇徳天皇の和歌を上・下に割いたことで、若い2人も割かれたような錯覚を聴き手に与え、出会えるかどうか=和歌が完成するかどうかのサスペンス・コメディに仕立てたのである。しかも細かい途中経過は省略して、話を強引に進めてしまう。だから、余計なことを考える暇がない。名作落語は、多かれ少なかれ、似た手法でできている。
手塚作品に詳しい方なら『ブラック・ジャック』がこの手法でつくられていることにお気づきだろう。やっかいな事態に巻き込まれる上記の熊さんなど、BJそのものではないか。手塚自身、
《僕の話の作り方は三題噺を手本として考えたもので、まるっきりバラバラのテーマをくっつけて一つの話を作っていくんです》
と述べている(『アドルフに告ぐ』あとがきにかえて)。「三題噺」が寄席高座の定番であったことは、いうまでもない。『火の鳥』は、この仕掛けをさらに拡大した作品だ。手塚治虫は、文芸的な手法や素材を用い、ありえない話を細部省略で強引に進め、絵にして紙に定着させた。だからもう、いじりようがないのだ。
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▲手塚治虫文庫全集『火の鳥⑥』~「火の鳥 望郷編」所収(講談社)
『火の鳥』シリーズは、永遠の生命を求める人間の姿を、火の鳥を狂言まわしにして、あるときは真摯に、あるときは滑稽に描いている。『火の鳥 望郷編』では、火の鳥自身が回想を語るナレーション役をつとめている。サン=テグジュペリ『星の王子さま』も登場する。かつて『鉄腕アトム/赤いネコの巻』で、国木田独歩『武蔵野』をモチーフにした、あるいは『白骨船長』における鬼子母神伝説、『安達が原』の黒塚伝説と似た使い方だ。これらは、手塚ならではの「文芸」手法である。
宇宙の果ての星で、幼児の息子と2人きりになってしまった母親が、子孫を残すために冷凍睡眠に入る。母親は、息子が成長した時に目覚め、息子と近親相姦をおかして子供を産む。だが何度妊娠しても、男子しか産まれない。二度目の睡眠で孫の世代と交わるが、やはり男子しか産まれない。壮絶だが滑稽な一妻多夫的な(近親相姦)生活。そこで見かねた火の鳥が、ある宇宙生命体と彼ら人間との混血生物を誕生させ……。
ユーモア・タッチながら、なんとも凄まじい展開で、初めて読む方は驚くと思う。『火の鳥 望郷編』は、実はかなりグロテスクな話なのだ。人肉食までが描かれる。そんな「ありえない話」を、一気に読ませてしまう。文芸・省略・強引による“手塚文法”の魔術である。
しかし今回の映画は、原作シリーズ中、もっとも物語にかかわる火の鳥が、事実上、出てこない。また、近親相姦も人肉食も一妻多夫的生活もカットされた。『星の王子さま』もない。後半の地球へ至る旅もほんの一部しか描かれない(そもそもあの長編を90分にすることが無茶なのだが)。これによって作品の本質が変わってしまい、原作とは似て非なる物語になった。手塚が描いたのは、禁忌をおかしてまで生に執着する人間(さらには宇宙生物たち)の姿だったのだが。
オリジナルSFとして観れば、相応の作品だと思った。しかし、はっきり手塚原作をうたっている以上、どうしたって原作を頭に思い浮かべながら観てしまう。よって手塚教の信者としては、少々隔靴掻痒の思いであった。
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▲劇団スタジオライフ公演『アドルフに告ぐ』
では、無理に改変やカットなどせず、手塚作品をそのままやったら、どうなるか。それが、劇団スタジオライフによる、舞台版『アドルフに告ぐ』(脚本・演出:倉田淳)だった(10月26日~11月1日、東京芸術劇場シアターウエストにて)。
倉田淳は演劇集団「円」研究所の第一期生で、芥川比呂志の弟子。スタジオライフは1985年結成。男優のみの劇団で、女性は脚本・演出家の倉田淳1名のみだ。女性役も男優が演じる。代表作に、萩尾望都原作の『トーマの心臓』があることでわかるように、小説や漫画の舞台化で人気を呼んでいる。『アドルフに告ぐ』は2007年初演で、今回が再々演の人気演目だ(ちなみに同作は、俳優座、KAATでも舞台化されている)。
『アドルフに告ぐ』は、1200頁超の大作である(いちばん分厚い講談社の文庫全集でも全3巻)。アドルフ・ヒトラーの出生の秘密をめぐって、ドイツ人アドルフ・カウフマンと、ユダヤ人アドルフ・カミルの、戦前から戦後におよぶ数十年の交友と確執を描く大河ドラマだ。舞台はドイツと神戸を行き来する。物語は1983年のイスラエルで終わる。ラストでタイトルの意味を明かす構成は、究極の“手塚文法”である。
スタジオライフの舞台版は、ほぼ原作そのままの流れで描く。よって展開はものすごく早い。舞台上にセットはないので、次々と役者が出入りして神戸になりドイツになり、漫画のコマを着実に再現していく。1分以上を要するシーンはなかったのではないか。休憩なしで2時間15分、ジェットコースターのように舞台は進行する。よって先述の映画のように、原作とのちがいを云々することはありえない。キャラクターの外見も漫画原作そのものである(アセチレン・ランプなど、あまりに漫画そっくりで驚く)。
そして冷静になってみると、「演劇を観た」感動もさることながら、「手塚作品の神髄に触れた」ことに感動していることに気づく。当たり前だが、同じ演劇でも、シェイクスピアの激情や、チェーホフの寂寥とはちがう。
つまり、この舞台では無理にアレンジや改変などせず、手塚精神の再現に徹したわけで、その結果、「やっぱり手塚治虫はすごいねえ」と感じることになるのである。
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▲「手塚治虫 ブラック・ジャック展」
そしてもうひとつ、これは展覧会だが、「手塚治虫 ブラック・ジャック展」が開催された(10月6日~11月6日、東京シティビューにて/主催:NHKほか)。
これは連載50周年を記念した企画で、全242話から、約140話の「原画」の一部を展示し、BJの全容を見せる展覧会だった。いわば「ナマ原画で見るBJのすべて」とでもいうか。まさに圧巻の展示だった。

▲『手塚治虫 原画の秘密』(2006年刊)は、いまでも販売中。
あたしはかつて『手塚治虫 原画の秘密』(手塚プロダクション編、新潮社とんぼの本/2006年刊)を編集した際、このなかのかなりの原画に、直接触れて子細に眺めたことがある。ほとんどは描きなおし、切り貼り、修正だらけで、手で持つと、(貼り込みの多さで)原稿が分厚く感じるほどだった。第1話「医者はどこだ!」のBJ初登場コマ、目の描きなおし(切り貼り)など、たいへんなこだわりようである。
それらが、一般読者の目に触れることができたのは、とてもよかったと思う。デジタルもなく、コピー技術が未熟だった時代、どうやって漫画が描かれていたかを知って、感動したひとが多いはずだ。
ただ、展示レイアウトが凝りすぎで、あたしのような高齢者には、少々見にくかった(よって2回行ったのだが)。漫画の原画は、浮世絵とほぼ同寸で、それほど大きなものではない。もうすこしシンプルに展示してもいいような気がした。まあ、これも一種の「アレンジ」なのだろう。
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映画向きに改変すれば、原作の精神は消失する。そのまま舞台化すれば、演劇本来の味わいは薄くなる。原画を展示すると、どうしても凝った展示レイアウトにしたくなる。
手塚作品は、それほど強固で、動かしようがないのである。
(敬称略)
◇映画『火の鳥 エデンの花』HP(予告編)は、こちら。
◇映画『火の鳥エデンの花』クロージング曲《永遠の絆》(作曲:村松崇継、歌唱:リベラ)は、こちら。シネコンでこんなきれいな音楽を聴くとは思わなかった。
◇劇団スタジオライフ『アドルフに告ぐ』HPは、こちら(終了)。
◇「手塚治虫 ブラック・ジャック展」HPは、こちら(終了)。
2023.11.03 (Fri)
第430回 【映画紹介】スポーツ政治映画の傑作『タタミ』~東京国際映画祭より

▲実態はイラン映画『タタミ』。左が最優秀女優賞のザル・アミール。
第36回東京国際映画祭(TIFF2023)が終わった。本年は全部で219本が出品された。コンペティション部門は、114の国と地域から1942本の応募があったそうで、選ばれた15本が上映された。
あたしは、そのコンペ部門7本を含む計12本を観た程度なので、映画祭の全容を語ることはできない。そこで、観賞した範囲内で、忘れられない(今後日本で配給公開されたら絶対に観ていただきたい)作品を紹介する。それは——
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◆『タタミ』 Tatami 【アジアン・プレミア】
監督:ザル・アミール、ガイ・ナッティヴ/2023年/ジョージア・アメリカ
審査委員特別賞、最優秀女優賞(ザル・アミール)受賞。

長年TIFFに通っているが、こういう作品に出会ったのは、少なくともあたしは初めてだった。エンタメとアート、スポーツ、スリルとサスペンス、国際政治・宗教問題などが絶妙のバランスで同居している。興奮し、感動し、少し泣かされ、考えさせられ、心の底から「観てよかった」と感じた。本作を日本で最初に観たことを自慢したくなるような映画だった。
製作国はジョージアとアメリカの合作。だが、イラン人女性とイスラエル人男性の共同監督であり、実態は「イラン映画」である。映画史上、この2国の監督が組んだ作品は初めてとのことだ。
ちなみにジョージアは世界トップレベルの映画産業優遇国で、同国で製作すると40%の税金が還付されるシステムがあるそうだ。
よって本作の舞台はジョージアである。首都トビリシで開催中の世界柔道選手権大会。イラン代表選手とコーチの2人の女性が主人公だ。
このコーチを見事に演じたザル・アミールさんは、イラン出身の女優・映画監督(現在、フランスに亡命中)。当初、俳優としてのみの参加だったが、すぐに共同監督に迎えられた。日本では、本年4月に公開されたサスペンス『聖地には蜘蛛が巣を張る』での名演が忘れがたい(カンヌ映画祭主演女優賞受賞)。今回も最優秀女優賞を獲得した。
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さて、ストーリーは——女子柔道イラン代表のママさん選手、レイラ・ホセイニは、この日のためにすべてをかけて準備してきた。男尊女卑のイスラム社会だが、夫は子どもの面倒を見て、全面協力してくれている。コーチも全力でレイラを育ててきた。案の定、レイラは順調に勝ち進んでいく。イラン初の女子柔道金メダルが見えてきた。
だが……このまま勝ち進むと、イスラエル選手と対戦する可能性が出てきた。コーチのスマホに、イラン柔道協会の会長から電話が入る。「イスラエル選手との対戦は許されない。負傷を理由にレイラを棄権させろ」。
アラブ人がユダヤ人と身体を触れ合わせて闘うなど耐えがたい、しかもイランとイスラエルは核開発などをめぐって深刻な対立関係にある——政治的かつ宗教上の厄介ごとを避ける、イラン政府の干渉だった。
当初、コーチは抵抗するが、「大統領の指示」といわれ、仕方なくレイラを説得する。だがレイラは応じない。焦るコーチ。規定で本人の意思でないかぎり棄権はできないのだ。レイラは次々と対戦相手を打ち破り、勝ち進んでいく。イスラエル選手も勝っている。2人がぶち当たる可能性がどんどん高まる。
その間、イラン政府はレイラを棄権させるべく、恐ろしい手段をつかう。母国にいる老父を拉致・拷問し、そのナマ映像を、ファンを装って近づいた工作員がスマホでレイラに見せるのだ。泣きながら「棄権してくれ」と訴える老父。
一方、母国でTV観戦中の夫は、レイラからのスマホ電話で身の危険を察知。幼児の息子を抱きかかえ、間一髪で特高警察から逃がれ、自宅を脱出する。もはや国境を超えて亡命するしかない。国家に従わないレイラは反逆罪であり、一族郎党、すべて同罪なのだ。それでもこの夫は「絶対に棄権するな。こちらも心配するな。君はイランのヒーローなんだ」とスマホで応援する。ここで涙がにじまないひとは、人間ではない。スマホが、いかに重要なツールであるかも、うまく描かれている。
やがて状況を察知した世界柔道連盟が、レイラを守るために立ち上がる。
会場に紛れ込むイラン大使館の工作員たち。苦しみながら試合に出つづけるレイラ。ますます板挟みに追い込まれるコーチ。レイラに警備をつけて試合を続行させようと奔走する柔道連盟。母国で危険にさらされる家族たち。果たして、どうなるのか。
「タタミ」のうえで熱戦が続く裏側で、驚天動地の事態がひと知れず展開する(2019年、東京での世界選手権で発生した実話がモデル)。コーチの過去が明らかになり、いつの間にか主役がレイラからコーチになっている脚本構成も実にうまい。試合シーンも迫力満点。こうして思い出して書いているだけで、またも心臓がバクバクしてきそうだ。
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▲『タタミ』プロデューサー・出演女優のジェイミー・レイ・ニューマン(筆者撮影)。
画面は最近では珍しいモノクロ・スタンダード。プロデューサーで出演女優(柔道連盟のスタッフ役)のジェイミー・レイ・ニューマンさんによると「小さな箱に閉じ込められているような、クロストロフォビア(閉所恐怖症)的なロケーションで、人生にもまったくカラーがないというところを強調したかった。大好きな黒澤明監督のフォーマットにちょっと影響を受けているかも知れませんね」(公式インタビューより)とのことだった。
だが実際は、低予算映画につき、何千人もの観客で埋まったスタジアムを再現することはできない。そこで、狭い画角で陰影の深いモノクロ画面にすれば、客席細部まで見せなくて済む、そんな“作戦”もあったように思う。
演出は落ち着いており、音楽も和太鼓が静かに鳴り響く程度。おなじスポーツ政治映画でも『ロッキー4/炎の友情』のような派手さは皆無だ。しかしそれだけに、レイラとコーチが置かれた状況が深々と観客の内面に沁み込んできて、それゆえ手に汗握らざるをえなくなる。
すでに9月のヴェネツィア国際映画祭でブライアン賞を受賞しており、今回のTIFF2023でも東京グランプリに次ぐ「審査委員特別賞」を受賞した。
まさかこれほどの作品に配給がつかないことはないと思うが、一般公開されたら、ぜひご覧いただきたい(当事国への「忖度」が気になる。イランでは当然、上映禁止だ)。できればミニシアターではなく、TOHOシネマズあたりの大型シネコンで堂々と公開してほしい、そんな映画である。
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ほかに、東京グランプリ/東京都知事賞を受賞したのは『雪豹』(ペマ・ツェテン監督/中国)。5月に急逝したチベットの名匠の遺作である。絶滅危惧種、白い「雪豹」をめぐるドラマ。自然と人間の共生の難しさを、チベットと中国の関係なども盛り込みながら描く異色作だった。

『ゴンドラ』(ファイト・ヘルマー監督/ドイツ・ジョージア)も、ユニークでとても気持ちのよい作品だった。ジョージアのロープウェイで働く2人の女性の同性愛関係を、さわやかに楽しく描くコメディ。無言劇だが、その分、音楽が饒舌で秀逸。往年のドリフターズの大仕掛けコントを見るような面白さだった。
なお、作品名はあげないが、異常なまでの長回しで何も起きない風景をえんえん映すとか、意味不明な詩の朗読がつづくとか、演技をせず役者が立っているだけとか、あたしのような浅学にはとうてい理解できない作品に、いくつかぶち当たった。ああいうのをいわゆる「アート・フィルム」とでもいうのだろう。これほど観客に寄り添ってくれない作品がなぜ選出されたのか不思議だった。審査委員長のヴィム・ヴェンダースが「本当に素晴らしい作品を数多く見ることができましたが、セレクション全体が、同等の水準であるかどうかというのは確信できませんでした」とコメントしたのは、このことではないだろうか。
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最後に——TIFF会場がTOHOシネマズ六本木の全館貸し切りから、丸の内・日比谷・有楽町・銀座での分散開催になって4年目になるが、とにかく移動が不便で仕方がない。今回も、終映後の会見まで出席できず、あたふたと次の会場に向かうひとの姿を多く見た。せめてTOHOシネマズ日比谷とシャンテあたりに統合できないものだろうか。あまりにあちこちで開催されているので、知己と出会う機会も少なく、「国際映画祭」に参加した一体感もない。これを「FESTIVAL」と称していいのだろうか。
(一部敬称略)
◇『タタミ』レイラの試合シーンは、こちら。
◇『タタミ』コーチの説得シーンは、こちら。
◇『雪豹』予告編は、こちら。
◇『ゴンドラ』予告編は、こちら。
◇TIFF2023受賞作品と受賞者コメントは、こちら。
2023.11.01 (Wed)
第429回 【新刊紹介】”マンガ亡命”から生まれたロシアのグラフィック・ノヴェル『サバキスタン」の魅力

▲『サバキスタン』全3巻
読んでいるときは、それほどの感興はおぼえない。なのに、しばらくすると、なんとなく気になりだす。そこであらためて頁を繰ると「なかなかいいなあ」と気づく。そんなマンガをご紹介したい。
8月から3カ月かけて刊行された“マンガ”『サバキスタン』全3巻(ビタリー・テルレツキー作、カティア画/鈴木佑也訳/トゥーヴァージンズ刊)は、まさにそんな、不思議な味わいのある書物だった。
これはロシアのマンガである(正確には“マンガ”ではないのだが、これに関しては後述する)。
サンクトペテルブルクのテルレツキー氏(原作)とカティア嬢(画)による本作は、3年かけて制作され、「コミコン・ロシア2019」で販売すると、たちまち完売。以後、増刷がつづく人気作となった。しかし、折悪しくロシアのウクライナ侵攻が始まる。同時に言論表現の締め付けも強化されるようになった。そこで2022年3月にロシアを出国。マンガ大国・日本へ逃れてきた。いわば“マンガ亡命”である。同年暮れの「東京コミコン」に出展したところ、関係者の目にとまる。最終部分は、日本で制作されたという。
そして、日本の出版社「トゥーヴァージンズ」のコミック・レーベル「路草」から配信で発表され、評判となり、ついに紙で書籍化されたというわけだ。
余談だが、同社はたいへんユニークな出版社で、興味のある方は文末リンクからHPを参照あれ。ジョン・レノンとオノ・ヨーコによる社名と同じ超問題アルバムがあるが、特に“ああいう傾向”はないようなので、ご安心を。
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で、その『サバキスタン』だが、まずタイトルが不思議である。あたしなど、つい“鯖の味噌煮”を想像してしまったのだが、もちろんそうではなく、ロシア語の「犬」(サバーカ)と、「国」(スタン)の合成語で、「犬の国」。「スタン」はペルシャ語が原典だそうで、「パキスタン」「カザフスタン」などと同じ。
つまりこのマンガは、“犬の国”の物語なのだ。近隣にはカメレオンの国もあるほか、迫害されている少数民族「ヴォルク(狼)族」も登場する。
問題はここからで、このサバキスタン国では独裁者「同志相棒」がすべてを統治しており、すでに50年以上、鎖国状態である。どうやら、かつてのソ連や北朝鮮あたりをモデルにした反独裁マンガのようである。この国で、突然、国家イベントである「同志相棒」の葬儀リハーサルを国外に向けて公開することになった。世界中からジャーナリストや国家元首が招かれる——物語はこんな状況から始まる。
意表を突く出だしであり、凡百の反独裁マンガではないことが、すぐにわかる。オールカラーのポップな絵柄も見事だ。いかにも女性らしい、繊細で愛らしいタッチは何度見ても飽きない。各コマが1枚のイラストとして完成している。キャラクターが「犬」なので、人間ほど喜怒哀楽の表情をしない。性別もすぐにはわかりにくい。そこがまた、本心を明かさずに生活しているサバキスタン国民の空気を醸し出すことに、成功している。
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だが本作のほんとうの面白さは、全3巻の「構成」にある。
第1巻は、上述したように「同志相棒」の葬儀リハーサル公開をめぐって発生した「事件」が描かれる。後半で「最高司令官」の素性が判明し、ある“行為”に走るシーンでは、背筋を何かが走る。第1巻ラストは、サバキスタン国の命運にかかわる衝撃的なシーンで終わる。もう我慢できない。すぐに第2巻を読まずにはいられなくなる。実にうまい構成である。
ところが! 第2巻は、その続きではないのだ。数十年後、民主国家になったサバキスタンが舞台で、次の世代の話になっているのである。登場人物(犬)も、ガラリと変わる。あの第1巻ラストのあとは、どうなったのか、何の説明もない。にもかかわらず、読んでいるうちに、次第に、この数十年の間に何があったのか、そして、いまの民主国家体制は本物なのかが、ジワジワとわかってくる(というよりは、読者が想像をめぐらして判断するのだが)。そして第2巻の最後は……さらに第3巻は……。
先に、本作は「正確には“マンガ”ではない」と書いた理由が、ここにある。本作は、“グラフィック・ノヴェル”なのである。無理に訳すと“小説風マンガ”とでもなるか。我々日本人が読みなれている“マンガ”とちがって、“絵物語”に近い。細かい描写や字幕・セリフなどの文字要素も最低限である。よって慣れていない読者には、あまりに変化がないので、つまらないであろう。だが、小説好きなら、活字で描かれたシーンを脳内でヴィジュアル再生するクセがついているはずだ。コマとコマの間で起きているはずの出来事や、省略されているキャラクターの動きや音を想像しながら読めると思う。
その「コマ間」を読む面白さが、本作では抜群の効果を生んでいる。翻訳も最低限の直訳なので、あたしたちは行間=コマ間を探るような知的な読書を体験することになる(翻訳の鈴木佑也氏は、新潟国際情報大学准教授。ロシア・ソ連の建築・美術史、表象文化論が専門)。
結局、3巻を通読すると、ソ連~ロシア近現代史を再現しているような感覚を覚える。そしてそれが、現在のロシアの状況を奇しくも先取りしていたことに驚く。
動物世界に仮託した反独裁ストーリーといえば、ジョージ・オーウェルの『動物農場』が有名だ(石ノ森章太郎による見事なマンガ化がある。リンク文末)。スターリン時代のウクライナ搾取をモデルにしたリアルな設定だったが、こちらはもっと壮大な視点で描かれている。ある意味、オーウェルよりも文学的かもしれない。
オールカラー3巻なので、書籍だと相応の価格になる(税別1,800円×3巻)。だがそれでも、カラーインクの独特な匂いがあふれてくるとてもいい本で、名作を「紙で所有」する良さを体感できる。ブックデザイン(森啓太)も素晴らしい。
版元は、かなりの部分をネット上で無料公開してくれている。ぜひ多くの方に読んでほしい。そして、“マンガ亡命”から誕生した、この知的な“グラフィック・ノヴェル”の面白さに触れていただきたい。
(一部敬称略)
◇版元「トゥーヴァージンズ」の『サバキスタン』HPは、こちら。かなりの分量を試し読みできます。
◇「トゥーヴァージンズ」オンライン・ショップは、こちら。
◇以前に『動物農場』について、書きました。こちら。