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2023.11.20 (Mon)

第433回 【新刊紹介】芥川龍之介、自殺の原因? 菊池寛との共訳”わけあり本”『アリス物語』(後編)

アリス物語書影
▲芥川龍之介・菊池寛共訳『完全版 アリス物語』(グラフィック社)

【前回よりのつづき】
芥川龍之介・菊池寛共訳の『アリス物語』を読んでの感想は、「これは、江戸落語ではないのか?」だった。

現在、『不思議の国のアリス』をなるべく新しい訳で読もうとすると、ジュニア向きを別にすれば、矢川澄子訳(新潮文庫)か、河合祥一郎訳(角川文庫)のどちらかで接するひとが多いと思う。両者それぞれに“翻訳精神”のちがいがあって興味深いのだが、それに触れているとまた遠回りになるので、いまはやめておく。まずは冒頭部分を、この2人がどう訳しているか。

   *****

【矢川訳】
アリスはそのとき土手の上で、姉さんのそばにすわっていたけれど、何もすることはないし、たいくつでたまらなくなってきてね。姉さんの読んでる本を一、二度のぞいてみたけれど、挿絵もなければせりふも出てこない。「挿絵もせりふもない本なんて、どこがいいんだろう」と思ってさ。

【河合訳】
アリスは、なんだかとってもつまらなくなってきました。土手の上でお姉さんと並んですわっていても、なにもすることがないからです。お姉さんが読んでいる本を一、二度のぞいてみたけれど、さし絵もなければ会話もありません。「さし絵も会話もない本なんて、なんの役に立つのかしら?」とアリスは思いました。

*****

と、両者とも、少なくとも冒頭部については、語り口調以外に大きなちがいはない。では、“文豪”お二人のほうは、どんな具合だろう。

【芥川・菊池共訳】
アリスは姉様といっしょに、土手に登っていましたが、何もすることがないので、すっかり厭き厭きして来ました。一、二度姉様の読んで居た本を覗いて見ましたけれど、それには絵も、お話もありませんでした。「こんな御本、何になるのだろう。絵もお話もないなんて。」と、アリスは考えました。


いきなり「姉様」である。「姉様」——少なくとも市井の下町娘は、姉のことを「あねさま」なんて呼ばない。普通は「ねえちゃん」か、せいぜい「ねえさん」だろう。さらに、単なる「本」ではなく「御本」と口にしている点も、見逃せない。

どうやら共訳のアリスは、旧武士階級に近い、“お嬢様”のようだ。大正~昭和初期の、華族とまではいかないが、中流よりすこし上くらいの家の娘だろう。「姉上」(華族)と「ねえちゃん」(下町娘)の中間だ(ネタ本の楠山訳は「お姉さま」)。

となると、住まいは、麹町や番町ではない。おそらく、外濠のすぐ北側、たとえば花街・神楽坂近くか、離れていても小石川・伝通院あたりのような気がする。そして、こんな口調だ。

「いいえ、わたし決心しちまった」
「お前さん、ディナーを見た日にゃ、きっと猫が好きになるにきまってるわ」
「お前たち、そんなことをしない方が身のためだよ」
「でもまあ、なんて可愛らしい犬ころだったろう!」
「これからは二階から落っこちることなんか、平気の平左だわ」


「決心しちまった」「お前さん」「お前たち」「犬ころ」「平気の平左」……伝法で、なかなか気が強い。不思議の国の、わけのわからん連中を、すこし下に見ている。それがつい口に出るところが、痛快だ。

今回の復刻では、マーガレット・タラントの、古いけれど品のある挿絵が採用されている。解説によると、北原白秋訳『まざあ・ぐうす』にも彼女の挿絵が使用されていたという。また、『アリス物語』原本にも、このタラントを参考にした挿絵が載っていたらしい。それらや、有名なテニエルの挿絵を見ると(角川文庫版に収録)、アリスのファッションは、典型的な当時のイギリス中産階級のお嬢様だ。

だが、芥川が最初にイメージしたアリスは、羽織袴の女学生にちがいない。漫画『はいからさんが通る』や『鬼滅の刃』のファッションだ。華族ではないから、通っているのは女子学習院ではなく、跡見女学校か香蘭女学校あたりではないだろうか。

当時の女学校では「割烹」の授業があった。日本料理である。“芥川アリス”も習ったはずだ。だから(?)共訳では、こうなっている。

チェリー・タルト → 桜桃〔さくらんぼ〕の饅頭
オレンジ・マーマレード → 〔だいだい〕の砂糖漬
カップ・オブ・ティー → 茶呑茶碗
ティー・ポット → 急須
リフレッシュメンツ → お茶うけ

   *****

当時の小学生(読者)の、教養の豊かさを彷彿とさせる訳もある。

「先生は年をとった海亀でした。——わたし達は先生のことを正覚坊先生、といつもいっていました——。」
「何故正覚坊先生というんです。」とアリスは尋ねました。
「なぜって小学本(正覚坊)を教えますからさ。」


ここは、「正覚坊」が「アオウミガメ」の異名で、かつ「大酒呑み」の隠語であることを知っていないと、読んでも意味は分からない。今回の共訳には注釈があるからいいが、当時は、そんなものはなかったはずだ。ということは、むかしの小学生は、これを読んで楽しめたのである(あるいは訊かれた親は、答えられたのである)。

しかも、ここは、原語の英語の響きをうまく使ったダジャレになっているそうで、そのうえ、「小学本」(この全集のこと)と「正覚坊」(大酒呑み)をひっかけた、二重のダジャレになっているのである。

ちなみにこの部分、現在では、

【矢川訳】
「先生は年とったウミガメだったけど、ぼくたちゼニガメってよんでた」
「どうしてゼニガメなんてよんだの、ほんとうはそうじゃないのに」アリスが口をだす。
「だってぜにかねとって、勉強教えるじゃないか」

【河合訳】
「先生は年寄りの海ガメだったけど、茶々と呼ばれていた——」
「どうして海ガメなのに茶々と呼ばれていたの?」アリスはたずねました。
「先生はティーチャだろ。ティーとは茶のことだ。だから茶々じゃないか。」

となっている(楠山訳は、さらにわかりにくいので、いまは略す)。

かように、この芥川・菊池共訳は、知的で、ちょっとモダンで伝法で威勢がいい、大正ガールズの世界として描かれているのである。まさに江戸落語を聴いているようだ。芥川は現在の京橋付近で生まれ、両国で育った江戸っ子。菊池は、香川・高松の生まれ育ちである。訳の全体基調は、芥川によるものだと思いたい。

   *****

そして、最後の段落——ここは、夢から目覚めたアリスを、姉が微笑ましく見守る、全編の白眉ともいえる部分である。

【芥川・菊池共訳】
最後に姉様は、この小さい同じ妹が、やがては大人になっていくこと、それからアリスが年をとる間に、子供時代の無邪気な可愛らしい心を、何んな風に持ち続けるだろうという事や、
——(以下略)

共訳では、なんと、この段落まるごと(今回の復刻で8行におよぶ)を、「1文」にしている。つまり、8行もの間、最後まで「。」がなくて、長文がダラダラとつづくのだ。ちなみに矢川訳も河合訳も「。」を5回使って5文に分けている。楠山訳でさえ、一ヶ所「。」を入れている。

芥川も菊池も、自作でこんなに長い文章は、めったに書かない。特に菊池寛などは、短い文章でキビキビと運ぶ書き手だ。それだけに、ここは、ちょっと不思議な印象をおぼえる。

しかし、なかなかの名文なのだ。かなり長いうえ、8行全部を引用するのではグラフィック社に失礼なので上記にとどめたが、「ああ、この訳で読んでよかったなあ、楽しかったなあ」と、心の底から思えた。解説者も、ここにかなり詳しい補注をあてて「物語を愛するすべての人に届けたい見事な訳」と賞賛している。

実は——この部分、原文でも「1文」なのだ。途中に「.」(ピリオド)はなく、「,」の切れ目だけで、ダラダラとつづいている(原文すべてを確認したわけではないが、この作品は、全体的に「.」はすくないようだ)。

素人考えだが、ここは芥川が原文に忠実に訳したような気がする。もし後半が未完で、そこを菊池が訳したのなら、最終段落はもっと短い文に区切って、読みやすくしたような気がするのだ。芥川が、最終部分の原文をそのまま生かして「。」を入れずに訳した、その遺稿を見た菊池が、感動して、あえて手を入れず、そのままにした——そんな気がして、仕方ないのである。

なぜなら、芥川は、自殺の4カ月前、雑誌「改造」1927(昭和2)年3月号に『河童』を発表した。遺作ではないが、創作小説としては、ほぼ最後の作品である。脱稿日は「2月11日」と記されている。

この最初の方に、こんな描写がある。「僕」が、地底の河童の国へ落ちていく場面である。

河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を挙げながら、一きは高い熊笹の中へもんどりを打つやうに飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあとへ追ひすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいてゐたのでせう。僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。

アリスのイラスト
▲奥から、姉様、アリス、ウサギ(アリス・B・ウッドワードによるイラスト。1905年ごろ) 出典:WikimediaCommons

河童を追って穴に落ちていく「僕」は、ウサギを追って穴に落ちるアリスそのものだ。芥川は『河童』と『アリス物語』翻訳を、同時期に執筆していたのではないだろうか。アリスを訳しているうちに、河童の国と一緒になり、まぼろしを見るようになった。だとしたら、巷説にあるように、芥川は本書をめぐって北原白秋と菊池寛の板挟みになったから死を選んだのではなく、『アリス物語』そのものに魅せられるあまり、自ら望んで別の世界へ行ってしまったのではないか——そんな気もして、仕方がないのである。

◇グラフィック社『完全版アリス物語』HPは、こちら(一部立ち読みあり)。
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