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2024.01.25 (Thu)

第445回 【TV/映画/本】「新刊」と「新作映画」におくられて旅立った、山田太一さん

ドラマ2月号
▲「月刊ドラマ」2月号

昨年11月29日、脚本家・作家の山田太一さんが亡くなった(享年89)。

あたしは、三島由紀夫賞・山本周五郎賞が1988年にはじまってからしばらく、選考会・授賞式での“配車係”をやっていた。選考委員や受賞者の、会場(ホテルオークラ)~自宅間の車の送迎手配である。

第1回の山本賞は、山田太一さんの『異人たちとの夏』(新潮社刊)だった。この作品が第1回受賞作となったことで、新しい賞の性格や方向性が、はっきり示された。その意味で、とてもいい作品が選ばれたと思った(ちなみに第1回三島賞は、高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』だった)。

授賞式の日、山田さんは、たしかTBSかどこかで仕事をしており、直接行くから車は不要とのことだった。

あたしは、観るたびに号泣する映画『あこがれ』(恩地日出夫監督、1966)や、TV『岸辺のアルバム』『男たちの旅路』などの脚本家として、山田さんを大尊敬していた。どんな方かと思って緊張しながらお迎えしてみれば、小柄で、小さな声で話す、たいへん地味で静かなひとだった。授賞式の間も、ずっと、はにかむような表情をしておられた。

その山田さんは、第5回(1992年)から8年ほど、山本賞の選考委員をつとめた。その間の第7回(1994年)の受賞作が、久世光彦さんの『一九三四年冬 乱歩』(集英社刊)だった。いうまでもなく、久世さんも、山田さんとおなじTV業界人。1976年のドラマ『さくらの唄』(TBS)は、山田太一脚本、久世光彦演出だった。年齢も久世さんが1歳だけ下の、同世代である。

選考会で受賞作が決まると、すぐに受賞者に駆けつけてもらい、記者会見となる。そのときも久世さんが、いままでどこかのスポーツジムにでもいたのか、ジャージ姿のまま、タオル片手にホテルオークラの記者会見に来てくださった。

そのころ、選考委員たちは、別室の慰労会場で、軽食をつまみながら、イッパイやっている。山田さんは、お酒はあまり強くないのか、顔を真っ赤にしながら、ほかの委員と談笑していた。

そこへ、記者会見を終えた久世さんが、緊張した様子で「ありがとうございます……」と入ってきた。そのときの山田さんの表情が忘れられない。満面の笑みを浮かべて、「いやあ、おめでとうございます、さあ!」と、すぐ隣りの席をすすめていた。たぶん、久世さんと話したくて、強くないお酒を舐めながら、待っていたのだと思う。長年、TV業界で活躍してきた同士が、視聴率以外でこのような評価を得たことがうれしくて仕方ないといった様子だった(このとき、同室内に三島賞選考委員もいて、奥で、石原慎太郎・江藤淳の両氏が、“かなり”盛り上がっていたのも忘れられない)。

   *****

男たちの旅路
▲これさえあれば生きていける『男たちの旅路』DVD全集

ところで、『岸辺のアルバム』(1977)、『男たちの旅路』(1976~82)である。大学で同級のS君は、これら山田ドラマの物まねが絶品だった。

▶岸辺のアルバム
「浮気の提案です。お互いの家庭は決して壊さない。絶対に秘密は守る。深入りはしない」(竹脇無我)

「アルバムよ! 2冊でも3冊でもアルバムを取ってきたいんです。家族の記録なんです! かけがえがないんです!」(八千草薫)

▶男たちの旅路
「甘ったれたことを言うな! こんな場所を選んで、わざわざノコノコ上がって来る奴に、死ぬ資格などない!」(鶴田浩二)

「戦争って、案外、勇ましくていい事がいっぱいあるのかもしれないなんて、思っちゃうよ。それでもいいんですか? 俺は五十代の人間には責任があると思うね!」(水谷豊)

——ドラマよりも、口角泡を飛ばしてこれらの物まねをするSくんのほうが印象に残っているくらいだ。つまり、それほど、山田ドラマには、不思議な熱量があるのだ(すでに名作『ふぞろいの林檎たち』もはじまっていたが、あたしもSくんも、群像劇のせいか、それほどは熱狂しなかった)。

余談だが、『男たちの旅路』第4部第2話〈影の領域〉(1979)では、鶴田浩二、梅宮辰夫、池部良の3人が、同一画面内に登場する。東映ヤクザ映画のスター3人がそろったわけだ。第3部第1話〈シルバーシート〉(1977)でも、笠智衆、殿山泰司、加藤嘉、藤原鎌足、志村喬ら“昭和映画界の老名優”がそろい踏みしていた。このドラマは、映画ファンにとってもたまらないキャスティングだった。

   *****

山田太一 本
▲”山田太一本”の数々

山田ドラマに強烈な記憶があるのは、多くが“活字”で読めたからでもある。

『岸辺のアルバム』は、東京新聞連載の「小説」が原作だった(挿絵が深井国氏だった)。『異人たちの夏』も、のちに大林宣彦監督で映画化されたが、もとは「小説新潮」連載の「小説」である。

そのほか、脚本も、多くが出版されている。『ふぞろいの林檎たち』も新潮文庫化されたし、『男たちの旅路』に至っては、3~4回、単行本化されている。菅原文太・和田アキ子主演の、女子プロレスに挑む少女たちを描いた『輝きたいの』(1984)も単行本化され、夢中になって読んだ記憶がある。

倉本聰とならんで、これほど出版化された脚本家は、珍しいのではないか。もちろん読者は、あの“山田太一ブシ”とでもいうような、強烈な説教調のセリフを目でも確かめたかったのである。選び抜かれた、確固とした言葉で書かれているので、「小説のように読める」脚本だった。

   *****

脚本
▲昨年10月刊の、山田太一さんの「最新刊」

そんな山田太一さんだが、亡くなる直前に「新刊」が出ていた。『山田太一未発表シナリオ集』(山田太一著、編・解説:頭木弘樹/国書刊行会)である。

これは驚くべき本で、パートⅣで終わっていた『ふぞろいの林檎たち』の7年後、40歳代になった彼らを描いた〈パートⅤ〉が収録されている。さらに、『男たちの旅路』では、本来の第4部第2話になるはずだった〈オートバイ〉なる作品までも! それら未映像化脚本2作を中心に、まぼろしのTBS「2時間サスペンス・ドラマ」『今は港にいる2人』も収録されている。

どれも、さすがは山田太一さんといいたくなるシナリオである。これらが未発表に終わった理由は、解説に詳しい(編者の頭木弘樹氏は、ずっと山田さんのもとへロング・インタビューで通っていたらしい)。

そのうち、『男たちの旅路』〈オートバイ〉については、準主役の水谷豊が売れっ子になってしまい(日本テレビ『熱中時代』の大ヒットで)、継続出演が難しくなったことがボツの理由だったようだ。

第4部第2話〈オートバイ〉は、その前の回〈流氷〉に引き続き、水谷豊が重要な役を演じる。今回も、陽平(水谷豊)が、上司の吉岡司令補(鶴田浩二)と“対立”する。

郊外の静かな団地に、毎晩オートバイであらわれて騒音をまき散らす若者。徹底的に排除しようとする警備担当の鶴田浩二。それに対し、水谷豊は、ここまでしつこくあらわれるには、彼にもなにか理由があるはずで、それを聞くべきではないかと主張する。だが、業務として“警備”を請け負った吉岡にすれば、そんな甘い対応は許されない……。

第4部に入って、鶴田浩二と水谷豊の関係が逆転するのでは……と感じはじめた視聴者の期待に応える回である。実現していれば、今回も(歌舞伎でいう)「ジワがくる」クライマックスになったと思う。

だが水谷豊の起用は不可能になった。そこで〈オートバイ〉はボツになり、この回から水谷豊は降板、上述〈影の領域〉に変更されたのだった。

山田さんは2017年に脳出血を発症。以後、本格的な執筆活動にはもどれないまま、11月末に逝かれた。まるで、『山田太一未発表シナリオ集』の10月末刊行を待っていたかのようだっだ。

   *****

異人たち
▲イギリス映画『異人たち』(4月公開)

そしてこの4月、山田さんの小説、第1回山本賞受賞作『異人たちとの夏』が、イギリスで再映画化され、日本公開される。1988年、大林宣彦監督・市川森一脚本によって映画化されて以来、35年ぶりのリメイクである。風間杜夫、片岡鶴太郎、秋吉久美子、名取裕子らによる、名作であり迷作であり怪作であった。だが不思議と忘れがたい映画で、あたしは嫌いではない。この映画を観て、浅草のすき焼き屋「今半別館」へ行くひとが続出したといわれたものだ。

今回のリメイク『異人たち』(All of Us Strangers/アンドリュー・ヘイ監督)は、あたしも先日試写会で鑑賞させていただいたが、予断を与えたくないので、あえて感想は記さない。プレス資料によれば、まだ山田さんが伏せる以前から、ご家族ぐるみで進めていた企画らしい。こういう映画になることを、山田さん自身、承知していたようである。おそらく完成作を観たら「いまの時代、これでいいんじゃないでしょうか」と、穏やかに微笑まれたような気がする。

山田さんは、「新刊」と「新作映画」におくられて旅立った。こんな最期をむかえた脚本家は、いない。ご冥福をお祈りします。
(一部敬称略)

あこがれDVD
▲山田太一さん脚本の名作『あこがれ』(内藤洋子主演、恩地日出夫監督、1966)。語りだしたらとまらないので、今回はなにも述べません。

映画『異人たち』のHPは、こちら。



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2024.01.22 (Mon)

第444回 【演劇/ジャズ/吹奏楽】《三文オペラ》~《マック・ザ・ナイフ》あれこれ

三文オペラ文学座
▲文学座附属演劇研究所の卒業発表会《三文オペラ》

文学座附属演劇研究所・61期卒業発表会で、《三文オペラ》を観た(西本由香演出、1月21日Bチーム、文学座アトリエにて)。

あたしは文学座や、俳優座、新国立劇場などの研究所(研修所)発表会に、時々行く。演目はソーントン・ワイルダー『わが町』、シェイクスピア、チェーホフなどが定番だが、時折、珍しい名作が上演されるからだ。たとえば近年だけでも、文学座研究所は『野田版・真夏の夜の夢』や、清水邦夫『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』などを、俳優座研究所は横山拓也作品をつづけて上演した。

もちろん出演者はプロ以前の若い研究生たちだが、演出などのスタッフはベテランのプロで、さすがに凡百の演劇サークルとはレベルがちがう。本格的な衣装や舞台美術、そして若者たちの熱演は、とても気持ちがよい。しかも、安い! どこも1000~2000円である(新国立劇場研修所は別格で、たとえば2月の終了公演はA席3850円!)。

《三文オペラ》はいうまでもなく「音楽劇」である。上演方法によっておもむきは変わるが、オペラでもありミュージカルでもあり、ストレート・プレイでもある。ジャズやダンス・ミュージックの感覚も必要で、本格的な歌唱力も要求される。これが舞台芸術学院の発表会ならわかるが、文学座の研究生が本作を上演できるとは、寡聞にして想像できなかった。かなりの不安を抱えてアトリエに向かった。

案の定、正直なところ、歌唱は、なんともいいようのないレベルであった。だが、「ブレヒト芝居」としてはちゃんとした形になっており、さすがは文学座と感心した。

西本由香氏の演出は、キチンと歌芝居の呼吸を心得ている。このひとの演出では、10年ほど前、シェイクスピア生誕450年記念、文学座連続公演のひとつ、『タイタス・アンドロニカス』を観て、仰天した覚えがある。だって、「リーディング」(朗読)だというので、そのつもりで行ったら、まったくの通常上演だったのである。全員、セリフはすべて入っており(よって台本は持たず)、メイクして衣裳と小道具も万全で、役者は舞台上を飛び回っている。特に、高橋克明・奥山美代子両氏の“怪演”は、いまでも忘れられない。どう観ても「リーディング」とはいえず、いままで観た『タイタス~』の最高傑作だと思っている。そうさせたのが(おそらく)演出の西本由香氏なのだと思う。

   *****

ところで《三文オペラ》である。終演後、近くの席で「聴いたことのある曲があった」といっているひとがいた。冒頭に歌われ、(そしてカーテン・コールでも演奏された)《メック・メッサ―のモリタート》である(モリタート=手回しオルガンでうたう大道歌)。後年、ジャズ・ナンバーとなり、《マック・ザ・ナイフ》の題でスタンダード名曲となった。日本では《匕首〔あいくち〕マック》の邦題もある。おそらくメロディを聴いて、知らないひとは、いないであろう。美空ひばりも歌っていた。紅白歌合戦にも3回、登場している(旗照夫、雪村いづみ、ジャニーズ)。

音楽劇《三文オペラ》は1928年8月に、ベルリンで初演された。作者ベルトルト・ブレヒト(1898~1956)、作曲者クルト・ヴァイル(1900~1950)にとっては、大急ぎで仕上げたやっつけ仕事だったが、大ヒットとなる。そもそもがオリジナルではなく、18世紀イングランドの詩人、ジョン・ゲイが構成案をつくった歌芝居《乞食オペラ》の翻案である。

内容は、ロンドン貧民街のギャングのボス、メッキ(マック)・メッサーが、乞食王の娘と結婚したために起きるドタバタ騒動である。ラストで、お笑いのような前衛のような左翼革命宣言のような、奇想天外な終幕を迎えることでも知られている。

アメリカでは1933年に英語版で上演されたが、これは当たらなかった。1954年になり、ミュージカル作曲・作詞家のマーク・ブリッツスタインが改作し、オフ・ブロードウェイで再演。これが大ヒットとなった。このときブリッツスタインは、《モリタート》の歌詞を変えた。マックとかかわりのある女たちの名前をズラリとならべ、「みんなそろってマックのお帰りをお出迎えだ」と結んだ。これを機にこの曲は《マック・ザ・ナイフ》となった。

翌1955年、さっそくこの曲を録音したのが、サッチモこと、ルイ・アームストロングだった。ところが、サッチモの歌は、ブリッツスタインの詞をさらに変えていた。ラストの女たちの名前のなかに、劇中に登場しない人物名が混じっていたのだ。

♪スーキー・トードリー、ジェニー・ダイヴァー、ロッテ・レーニャ、ルーシー・ブラウン——みんなそろってマックのお帰りをお出迎えだ。

このうちの「ロッテ・レーニャ」なんて人物は、《三文オペラ》には登場しない(当初は、ここにマックの花嫁「ポリー・ピーチャム」の名前が入っていた)。では、この「ロッテ・レーニャ」とはなにものか。

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▲ロッテ・レーニャとクルト・ヴァイル夫妻 【写真:Wikimedia Commons】

ロッテ・レーニャ(1898~1981)とは、《三文オペラ》作曲者クルト・ヴァイルの妻であり、初演、および最初の映画化(1931年)でジェニー・ダイヴァーを演じた女優・歌手である。上述、オフ・ブロードウェイ版でも同役を演じ、トニー賞を受賞している(オフ作品で初のトニー賞受賞)。

実は、サッチモがこの曲をレコーディングするとき、彼女がスタジオに来ていた。そこでサッチモが、(思わず?)サービスで名前を読み込んだといわれている。この曲は、のちにボビー・ダーリンがカバーして大ヒットするのだが、サッチモの詞で録音したため、以後、誰が歌っても歌詞に「ロッテ・レーニャ」が入るようになった。

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▲サッチモの録音を見学に来た、ロッテ・レーニャ 【写真:Wikimedia Commons】

ロッテが見学にいったときのものと思われる写真がある(上掲)。また、このとき2人一緒にうたった録音も残っている。このころクルト・ヴァイルはすでに逝去しており、ロッテは別人と再婚していた。だが、のちにヴァイル財団を設立するなど、生涯をヴァイル作品の普及につとめた。

そんなロッテ・レーニャだが、おそらく、いま本稿をお読みの方で、彼女を知らない方は、ほとんどいないと思う。あの007映画に出演していたのだから。

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▲『007 ロシアより愛をこめて』~左から2人目、短髪のソ連軍人が、ロッテ・レーニャ

それは、映画『007 ロシアより愛をこめて』(1963)の、ローザ・クレップ大佐役——といえば、映画に詳しくない方でも、「ああ、そういえば」と思い出すのではないか。

ソ連の秘密諜報組織「スメルシュ」の女大佐、しかしてその実態は、国際犯罪組織「スペクター」の№3。冷酷非情な性格で、ジェームズ・ボンド抹殺に命をかける“老鬼女”。自らの計画がことごとく失敗に終わるや、ついにラストで、自らがホテルの清掃係に化けてボンドの室内に潜入。靴先に毒針を仕込み、ボンドに襲いかかる。

なにしろ、もしこの暗殺に失敗すれば、自分の命が危ない。もう若くはないのに、なりふりかまわず暴れまわる老女の形相に、さすがのボンドも青筋を立てざるを得ない。一瞬、ボンドは完全に追い詰められる。

007シリーズには、毎回、個性的な敵役が登場するが、おそらく最高齢で、これほど印象に残る相手はいない(このころ、ロッテ・レーニャは65歳)。その凄絶な演技は、世界中の観客を震撼させた。なんて恐ろしい婆さんだ。あのボンドを、ここまで追い詰め、焦らせるとは。あの女優、なにものだ。

ロッテは基本的に舞台女優だ。それまで映画には2本しか出ていない。だから、ほとんどの観客は、銀幕で初めて彼女を観たのだ。ちなみにその2本とは、上述、戦前の《三文オペラ》と、1961年の『ローマの哀愁』(ホセ・キンテーロ監督)だ。後者はテネシー・ウィリアムズの小説が原作で、ヴィヴィアン・リー主演。ロッテは伯爵夫人を演じ、アカデミー助演女優賞にノミネートされている。このときの役が、なかなかの悪女役であった。もしかしたら、この名演がきっかけで007に起用されたのかもしれない。

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エラ
▲名盤、エラ・フィッツジェラルドのベルリン・ライヴ

《マック・ザ・ナイフ》は、その後も多くの歌手にうたわれてきた。そのなかで、特に有名なのは、エラ・フィッツジェラルドの名唱だ。1960年2月13日、当時の西ベルリンで開催したコンサートである。このライヴ録音は『Mack The Knife-Ella In Berlin』と題され、ジャズ・ヴォーカル史上にのこる名盤として知られている。これをきっかけに、本曲は彼女の人気レパートリーとなった。

ところが彼女は、ここで“大失敗”を演じる。あまりに長い曲のせいか、途中で歌詞を忘れてしまうのだ。しかしそこは、さすがエラ、一瞬にして「ドゥビドゥビ」スキャットでごまかし(それでもすごい名唱)、本来の歌詞にもどってキチンと歌い終えるのである。

ちなみに、この3年後、スウェーデン・ストックホルムのTV出演で、同曲をうたった映像がYOUTUBEにアップされている。これまたすごい名唱なのだが、ここでエラは、ラストで歌詞を変えている。サッチモの真似(ドゥビドゥビ)をしながら、「ルイ・アームストロングもボビー・ダーリンも、この曲を歌って、メチャクチャにしたわよね。お次はこのエラよ」。
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話があれこれ飛んで恐縮だが、あたしが忘れられない《マック・ザ・ナイフ》は、岩城宏之さんの指揮した“吹奏楽版”である。岩城さんは生涯で2回、東京佼成ウインドオーケストラ定期演奏会に登壇している。その2回目、2004年12月、紀尾井ホールにおける第83回定期演奏会。この日は、プーランク、メシアン、武満徹、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチといった近現代作曲家の管楽アンサンブル曲の特集だったのだが、トリが、クルト・ヴァイル作曲《小さな三文音楽》組曲だった。

これは、《三文オペラ》の大ファンとなった、あの“御大”オットー・クレンペラーの指示で生み出された組曲である。苦虫をかみつぶしたような顔しか見せない、あのクレンペラー先生が夢中になったほど、この音楽劇は大人気だったのだ。

ヴァイルは劇中から8曲を抜粋し、管楽オーケストラ(吹奏楽)編成にアレンジした。クレンペラー自身の指揮で、1929年に初演されている。2曲目が《メッキ・メッサーのモリタート》、《マック・ザ・ナイフ》の原曲である。

この組曲を最後にもってきた岩城さんの指揮は、実に楽しそうだった。全曲終了後、鳴りやまぬ拍手に、気を良くした岩城さんは、2曲目のみをアンコールで再度演奏した。おそらく岩城さんのなかでは、この曲は、音楽劇の《モリタート》ではなく、ジャズ・ナンバーの《マック・ザ・ナイフ》、いや《匕首マック》だったのではないだろうか。岩城さんが没したのは、この2年後だった。


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2024.01.16 (Tue)

第443回 【映画/バレエ 先取り紹介】 ROHシネマ~《ドン・キホーテ》の作曲者は誰?(後編)

後編1
▲ROHシネマ第2弾《ドン・キホーテ》~キトリを踊るマヤラ・マグリ ©2019 ROH. Photographed by Andrej Uspenski

◆前回(第442回)よりのつづき
20世紀に入った1900年12月、プティパの弟子でボリショイ劇場のバレエ・マスター、アレクサンドル・ゴルスキー(1871~1924)が、《ドン・キホーテ》をさらに大改訂して〈全3幕〉に再構成し、三演版を上演した。これがまたも大好評で、以後、現代にいたるまで、本作は、この「原振付け:プティパ+改訂振付け:ゴルスキー〈全3幕〉版」がもとになっているのである。

では、ゴルスキーは、どこを“大改訂”したのか。彼は、ロシアの演出家スタニスラフスキーを信奉していた。そのため、舞台上で立っているだけだったコール・ド・バレエ(群舞ダンサー)にも、各人に細かい演技を要求した。また、それまで若い2人の結婚に反対するのは、キトリの母親だったが、この版から「父親」になった。いわば、リアルな演劇に近い舞台になったのである。

だが、ゴルスキーは、それ以上の“大改訂”もおこなっていた。なんとミンクス以外の作曲家の楽曲を多く挿入し、入れ替えたのである。

   *****

いったい、誰の曲をどこへ挿入したのか。いまそれを個々に挙げていては紙幅がいくらあっても足りないので省略するが(そもそも、いまではあまり知られていない作曲家が大半)、全部で8〜9人の別人曲が加えられたようだ。なかにはミンクスの旧作バレエ曲や、前述プーニの曲もある。特に「ジプシーの野営地」「夢の森」の場の音楽は、多くが他人の曲になっている。

このゴルスキー三演版は、さらに改訂を重ね、1906年に確定したらしいのだが、1940年になって、またも“大改訂”が加えられた。今度は、ゴルスキーの影響を受けた振付家、カシヤン・ゴレイゾフスキー(1892~1970)ほかによって、さらに別人の曲が加わったのだ。たとえば、〈闘牛士の踊り〉はレインゴリト・グリエールの作曲である(日本では吹奏楽コンクールの人気曲《赤いけしの花》《青銅の騎士》で有名)。さらに、ガラ公演でもしばしば単独で上演される〈ジプシーの踊り〉は、ヴァレリー・ジェロビンスキーの作曲である。

これでは、いったい、現在、我々が観る(聴く)《ドン・キホーテ》は、どこまでがミンクス作曲なのか、わからなくなってくる。しかも、劇場やバレエ団、振付け・演出家によって、さらに改訂したり削除したり、はたまたプティパの原版にもどしたりしている部分もあったりするらしいので、世にひとつとして、おなじ《ドン・キホーテ》はないといっても過言ではないのである。

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カプリッチョ
▲「全曲版世界初録音」のCapriccio盤(これは新装盤ジャケット)

これによって、“混乱”も生じている。たとえば、《ドン・キホーテ》の音楽を全曲収録したCDはあまり多くないのだが、そのひとつ、Capriccio盤の、ボリス・スパソフ指揮/ソフィア国立歌劇場管弦楽団によるCD(1994年録音)は、「Complete Recording/World Premiere Recording」(全曲版世界初録音)と銘打たれている。トラックを見ると、「序曲+プロローグ+全4幕」構成である。「全4幕」ということは、1896年プティパ初演版のはずだ。なのに、トラック表を見ると、曲によって別人の作曲者名が入っている。ならばゴルスキーによる三演版以降のヴァージョンだと思うのだが、なぜかジェロビンスキー作曲のはずの〈ジプシーの踊り〉には、誰の名前も入っていない(ゆえに、ミンクス作曲と勘ちがいしてしまう)。

以前、このCDを聴いた、あるバレエ・ファンの女性から「いままで知っていた《ドン・キホーテ》とかなりちがうのですが、これは何でしょうか?」と聞かれたことがある。

要するに《ドン・キホーテ》の音楽には「完全版」とか「全曲録音」とかは、ないのである。振付け・演出家によって、まったくちがうのだから。

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▲「1869年3幕版」?のNaxos盤

余談だが、もうひとつ、Naxos盤にも「全曲版」がある。ナイデン・トドロフ指揮/ソフィア国立歌劇場管弦楽団で2002年録音だ。こちらは「Ballet in Three Acts, 1869 original version」(1869年オリジナル版、3幕のバレエ)とバック・インレイでうたっている。これは妙な話で、1869年ならプティパ/ミンクスの初演版のはずだが、このときは〈全4幕〉だったのだから、これは誤記ではないだろうか。しかも、1940年に追加されたはずのジェロビンスキーの〈ジプシーの踊り〉が入っている。よってこのNaxos盤もゴルスキー三演版以降のヴァージョンのような気がするのだ。

こうやって書いていると、筆者自身、なにか大きな勘ちがいをおかしているような不安に襲われてくる。CDでさえこの混乱ぶりなのだから、上演のたびに、どの曲を使うか削除するかの「編纂」(Arranged)が必要となるのは無理もない。さらに振付けが変わるたびに、リピートを追加・削除したり、長さや響き、旋律楽器を変えたりする「管弦楽編曲」(Orchestrated)も必要となる。冒頭で述べたマーティン・イェーツは、これらを担当しているのである。

ヌレエフ
▲かつての定番、ブレエフによる映画版(DVD)

《ドン・キホーテ》の映像といえば、かつてはルドルフ・ヌレエフ(1938~1993)振付けのオーストラリア・バレエ団の映画(1972年)が有名だった。この音楽は、イギリスのバレエ指揮者、ジョン・ランチベリー(1923~2003)が編曲・指揮をしているのだが、まるで一大交響詩のような壮大な響きに変貌している(映画なので、全編を100分程度に短縮したせいもある)。〈ジプシーの踊り〉など、よくぞここまで面白く編曲するものだと感心させられる。音楽だけを聴く分には、これ以上に楽しい《ドン・キホーテ》は、ない。

しかし、この行為は、純音楽の立場からすると、乱暴に感じる方もいるだろう。モーツァルトの交響曲の一楽章をハイドンに入れ替えるとか、シューベルト《未完成》冒頭のオーボエ+クラリネットの旋律をフルートに替えるとか、そんなことを平然とやったら、失笑どころか大問題になるだろう。だがバレエでは、《ドン・キホーテ》にかぎらず、そういうことが当たり前のようにおこなわれているのである。

これはいうまでもなく、バレエが、音楽よりも踊りを優先するからである。特にプティパが、さまざまな舞踏形式を確立完成させたため、音楽をそれに合わせる必要が生じ、慣習化した。あの《白鳥の湖》にしてからが、初演時にはすでにプーニほかの別曲が加えられていたとの説もある(そのせいか初演が失敗だったのは有名な話だ。後年、プティパたちが改訂して評価が改まる)。

   *****

よって、今回の「ROHシネマ」の《ドン・キホーテ》も、それなりに“大改訂”されている。だが、そこが面白い。振付け・演出はキューバ出身のカルロス・アコスタ。2015/16シーズンで上映されたバレエ版《カルメン》のドン・ホセが、クラシック・バレエの現役最後の舞台だった。演出にまわってからの《ドン・キホーテ》も以前に「ROHシネマ」で上映されている(2018/19シーズンで、高田茜がキトリだった)。

後編2
▲ROHシネマ第2弾《ドン・キホーテ》~バジルを踊るマシュー・ボール ©2019 ROH. Photographed by Andrej Uspenski

今回はキトリがマヤラ・マグリ、バジルがマシュー・ボール。すでにおなじみの顔ぶれである。2人とも軽々と、それでいて力強い踊りを見せてくれる。マグリの32回転フェッテ・アン・トゥールナンには、思わず歓声をおくりたくなる。ボールの“狂言自殺”のシーンなども、なかなかの芸達者ぶりである。

ドン・キホーテを演じたのはイギリスの国民的ダンサーだった、ギャリー・エイヴィス。かつてKバレエでも活躍していた親日派だ。2012年ロンドン五輪閉会式で、火の鳥とともに踊っていた4人の男性ダンサーがいたが、あのなかの一人が、このひとである。昨シーズンのROHシネマ《シンデレラ》では、シンデレラのイジワルな義姉を見事に演じて、捧腹絶倒の名演技を見せてくれた。

アコスタの振付け・演出は、まさに自由奔放で、口頭で合いの手を叫ばせたり、それこそゴルスキーばりに、隅々のコール・ド・バレエ全員に、細かい演技をさせている。幕開け、ドン・キホーテが旅立つ決心をする場面に、早くもドゥルシネア姫が登場する。金持ち貴族ガマーシュにも、きちんと“幸せ”が訪れるのでご安心を。

音楽は先述のように、マーティン・イェーツがかなり手を入れている。ひと昔前の《ドン・キホーテ》の音楽に慣れている方には、驚くような部分があるかもしれないが、アコスタの演出には、これくらいやらないと釣り合わないかもしれない。しかしとにかく、舞台を美しく楽しく見せるために、あらゆるひとたちが結集している様子が如実に伝わってくる(幕間のインタビューや特別映像で、特にそのことがわかる)。

また、今回の映像は、昨年11月7日収録のものだが、この日は、国王チャールズ三世とカミラ王妃が臨席した。戴冠式以来、初めてのROH来場だそうである。到着から着席までを、ちゃんとカメラが追ってくれるが、こういう光景をじっくり見る機会は、そうはない。着席の際は国歌《ゴッド・セイヴ・ザ・キング》が演奏され、客席はスマホ撮影大会になる。

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▲年末~年始に来日した、ウクライナ国立バレエ(旧キエフ・バレエ)

昨年暮れから年明けにかけて、恒例のウクライナ国立バレエ団(旧キエフ・バレエ)が来日し、東京を中心に全国で17公演をこなした(《第九》などを除く)。そのうちの8公演が《ドン・キホーテ》であった。筆者も東京公演に行って、偶然、ペトロ・チュプリーナ総裁や、寺田宜弘芸術監督(大晦日、紅白歌合戦の審査員だった)のすぐ後ろで鑑賞したが、とても楽しい舞台だった。あの舞台をご覧になった方であれば、もう一度、ROHシネマで観て、いろいろ比較するのも楽しいと思う。

   *****

さて——1900~06年にかけて、ゴルスキーが大改訂した《ドン・キホーテ》を観た師匠プティパは、こう叫んだという——「誰か、この俺がまだ生きていることを、あの若造に教えてやってくれ!」。

だが、そのころ、プティパはすでに“失脚”していた。1903年初演、『白雪姫』の翻案バレエ《魔法の鏡》(アルセニー・コレシチェンコ作曲)が大失敗し、引責辞任のような形でマリインスキー劇場のバレエ・マスターを辞任する。その後、リッカルド・ドリゴ作曲で新作《バラと蝶のロマンス》を準備していたが中止となる。理由は日露戦争で、バレエどころではなかったようである。プティパはこのころ、すでに85歳前後である。さすがにこれを機にバレエ界から完全引退を決意する。十分な年金を得て気候の穏やかなクリミアに隠棲し、1910年、92歳の長寿をまっとうして没した。

一方、作曲家のミンクスは、はやくも1886年には、マリインスキー劇場を解雇されていた。劇場が「座付き」制度を廃止したのである。このころ60歳。しばらくはフリーの立場で作曲していたが、結局、1891年にロシアを去り、故郷ウィーンにもどった。だがロシア皇帝からの年金は少額で生活は苦しく、ミンクス夫妻は賃貸アパートの3階に住んだ。伝手をたよって、ウィーン宮廷歌劇場のために新作バレエを書いたが、当時の音楽監督、グスタフ・マーラーによって「こんな古臭い音楽はダメだ」とボツにされた。やがて妻に先立たれ、ロシアからの年金も打ち切られた。そのころ、ロシアでは、ゴルスキー改訂の《ドン・キホーテ》が大人気だったが、いまのような著作権制度のある時代ではない。ミンクスは、極貧生活のなか、1917年に肺炎で亡くなった。享年91。子供もいなかった。

華やかな《ドン・キホーテ》の舞台だが、彼らの長い人生を、ほんの少し思い浮かべながら観ると、また新たな感慨もわくのではないだろうか。

◆英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24
《ドン・キホーテ》は、1月26日(金)~2月1日(木)の限定上映。上映時間は約3時間20分(休憩2回あり)。上映館等については、公式HPでご確認ください。


【主な参考資料】
『バレエ音楽百科』(小倉重夫、音楽之友社、1998)、『バレエの情景』(福田一雄、音楽之友社、1984)、『マリウス・プティパ自伝』(石井洋二郎訳、新書館、1993)、『バレエの見方』(長野由紀、2012、新書館)、『ダンス・ハンドブック』(ダンスマガジン編、1999、新書館)、「ダンスマガジン」2020年7月号(新書館)、THE MARIUS PETIPA SOCIETY(ウェブサイト)

17:09  |  映画  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2024.01.15 (Mon)

第442回 【映画/バレエ 先取り紹介】 ROHシネマ~《ドン・キホーテ》の作曲者は誰?(前編)

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▲ROHシネマ第2弾《ドン・キホーテ》~キトリを踊るマヤラ・マグリ ©2019 ROH. Photographed by Andrej Uspenski

第434回で、「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24」(以下「ROHシネマ」)の第1弾《ラインの黄金》を紹介した。すると、知己のオペラ・ファンからメールをもらった。

「いままで『METライブビューイング』専門だったので、こういう情報はうれしいです。オペラは長時間なので、前後の交通も合わせると、半日がかりになります。上映期間も短いので、スケジュールのやりくりにも決心がいります。見どころを解説してくれると、後押しになって助かります」

との主旨だった(ありがとうございます)。

たしかに、通常の映画以上の金額を払い、4時間前後を拘束され、期待外れだったら残念だ。特に《ラインの黄金》のような凝った新演出だと、気軽に行きにくいかもしれない。

今期「ROHシネマ」第2弾(1月26日~)は、おなじみ、バレエ《ドン・キホーテ》である(ROHは名門ロイヤル・バレエを擁しているだけあり、「ROHシネマ」は毎年、半分ほどがバレエ作品なのだ)。ROH自家薬籠中の出し物なので、何の心配もない。

今回も事前に試写で観せていただく機会があった。とても楽しい映像である。あたしは、バレエはあまり詳しくないので、主に音楽面で楽しむための話題を2回にわたって解説しておこう(といっても、バレエ・ファンの方には、釈迦に説法のはずなので、その点はご容赦を)。

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今回の映像のラスト、スタッフ・クレジットに、こう出る。

Music:Ludwig Minkus  
Arranged and Orchestrated by:Martin Yates

音楽:ルートヴィヒ・ミンクス  
アレンジ&オーケストレーション:マーティン・イェーツ

これは、どういうことだろうか。バレエ《ドン・キホーテ》が、ルートヴィヒ・ミンクス(別名:レオン・ミンクス)作曲というのは、これは誰でも知っている。だが、「アレンジ&オーケストレーション」として、もう一人、名前が出る。バレエ音楽になじみのない方は、不思議に感じるのではないだろうか。

このマーティン・イェーツとは、舞台音楽を得意とする、イギリスの指揮者である。ROHではおなじみの名前だ。新国立劇場バレエで《マノン》や《シンデレラ》なども指揮している(今回の指揮は、マリインスキーなどでも活躍しているヴァレリー・オヴシャニコフ)。

そのイェーツが、「アレンジ」のみならず「オーケストレーション」も担当している。なぜ《ドン・キホーテ》に「アレンジ」が必要なのだろうか。そもそも「アレンジ」(編纂)と「オーケストレーション」(管弦楽編曲)は、どこがちがうのだろうか。

実は、バレエ《ドン・キホーテ》は、正確には「ミンクス作曲」では、ないのである。強いていうと、「ミンクスほか作曲」で、ミンクス以外に、多くの別人の曲が入り混じっているのだ(通常は8~9人前後。過去の他劇場の版も含めると、のべ人数は20人ほどになるという)。

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プティパ
▲「近代クラシック・バレエの父」マリウス・プティパ 【写真:Wikimedia Commons】

セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をバレエ化しようと考えたのは、チャイコフスキーの3大バレエなどに携わったモスクワ帝室劇場(現ボリショイ劇場)のバレエ・マスター、マリウス・プティパ(1818~1910)だった。「近代クラシック・バレエの父」である。

そして音楽は、ルートヴィヒ(別名レオン)・ミンクス(1826~1917)に託された。

ミンクス
▲《ドン・キホーテ》の「作曲者」ルートヴィヒ(レオン)・ミンクス 【写真:Wikimedia Commons】

ミンクスは、もともとウィーンで活躍するヴァイオリン奏者だったが、ある時期からロシアに招かれ、コンマスや指揮をこなしながら、合間にバレエ曲を作曲していた。

(《アンダンテ・カンタービレ》で知られる、チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番を初演した〈ロシア音楽協会弦楽四重奏団〉の第2ヴァイオリン奏者が、このミンクスである)

プーニ
▲本来、《ドン・キホーテ》を作曲するはずだった、チェーザレ・プーニ 【写真:Wikimedia Commons】

そのミンクスに《ドン・キホーテ》を書かせたのがプティパだったわけだが、実はこれは偶然だった。当初は、サンクトペテルブルク帝室劇場(現マリインスキー劇場)の座付きで、生涯に300曲以上のバレエ曲を書いたといわれるイタリア人作曲家、チェーザレ・プーニ(1802~1870)に委嘱する予定だった。だが、当時のプーニはアルコール依存症でまともな仕事はもう無理だった(現に、その後すぐに死去してしまう)。そこで、ミンクスに声がかかったのである。プティパ&ミンクスの黄金コンビの誕生だ。

プティパは、長大な原作小説のなかから、バルセロナの宿屋の娘キトリと、床屋の青年バジル(バジリオ)との駆け落ち騒動の章を採用した(ドン・キホーテは、バレエでは脇役の狂言回しで、踊らない)。というのもプティパは、若いころ、スペイン・マドリッドの劇場で踊っていた時期がある。スペイン舞踊のオリジナル作品も多く振り付けていた。だからスペイン噺は、お手のものだった。

だが、彼が《ドン・キホーテ》に興味を持った理由は、それだけではなかったはずだ。スペイン時代、プティパは原作小説そっくりの駆け落ち騒動を起こしていたのである。

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マドリッドでプティパは、バレエの弟子、23歳の娘カルメン・メンドーサ・イ・カストロと恋に落ちる。だが彼女は貴族の娘であり、母親はダンサーとの結婚を許さなかった。そこで、母親の愛人で、フランス大使館に勤務するある伯爵が登場し、金を積んでスペインから出ていくように説得する(自分の愛人を寝取られたと勘ちがいした?)。もちろんプティパは応じない。伯爵はプティパに暴行脅迫をくわえ、怒ったプティパは伯爵に決闘を申し込む。だが銃の誤射によって決着がつかず、伯爵は大けがを負った。当時のスペインでは決闘は法律で禁止されていた。プティパは指名手配となり、カルメンと手を取り合ってスペインを出国。フランスやイギリスを逃げ回った。だがやがて警察に見つかり、プティパは母国フランスへ追放となる。

(……上記はマリウス・プティパ協会HPほかからの記述。自伝によると少々事情がちがうのだが、彼の自伝は自己礼賛や誤認が多いので、おそらく上記が正確と思われる)

この経験が、バレエ《ドン・キホーテ》を生んだ……かどうかは、なんともいえないが、少なくとも、脳裏のどこかにはあっただろう。ミンクス作曲、プティパ振付・演出によるバレエ《ドン・キホーテ》は、1869年12月、ボリショイ劇場で初演された。構成は〈全4幕〉。公演は大成功だった。

気を良くしたプティパは、2年後の1871年11月、大改訂して、マリインスキー劇場で再演する。今度は〈全5幕〉に拡大し、初演版以上に、ダンスそのものを見せる作品となった。いくつかの場面も新たにつくられ、ストーリーとは無関係な踊りが多く加えられた。キトリとドゥルシネア姫が1人2役になったのも、この再演版からである。そして、ラストに有名な、キトリとバジルの〈グラン・パ・ド・ドゥ〉が置かれた(ただし、現行の構成とは少々ちがっていたようである)。

プティパはクラシック・バレエ界の超大物だが、その功績のひとつに、〈グラン・パ・ド・ドゥ〉形式を完成させた点があった。これは、主役の男女2人が、原則として、①アントレ(入場)~②アダジオ(男女2人)~③第1ヴァリアシオン(男)~④第2ヴァリアシオン(女)~⑤コーダ(男女)を展開する5部形式の踊りである。音楽のソナタ形式に匹敵する、もっとも美しい見せ場のスタイルといわれている。

現在、コーダでは、キトリが32回転のフェッテ・アン・トゥールナンを披露する。客席から拍手と歓声が飛び交う最大の見せ場である。こういった、いまに見る“定番”演出の基本が、この再演版で確定した。

ここまでは、音楽は、すべてミンクス作曲である。ところが、バレエ《ドン・キホーテ》は、これで完成ではなかった。このあと、驚くべき大変貌をとげるのである。
【後編へつづく】

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▲ROHシネマ第2弾《ドン・キホーテ》~バジルを踊るマシュー・ボール ©2019 ROH. Photographed by Andrej Uspenski

◆英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン 2023/24
《ドン・キホーテ》は、1月26日(金)~2月1日(木)の限定上映。上映時間は約3時間20分(休憩2回あり)。上映館等については、公式HPでご確認ください。



13:06  |  映画  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2024.01.12 (Fri)

第441回 【映画】中村メイコさんへの”お詫び”

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▲中村メイコさんの映画デビュー作『江戸っ子健ちゃん』(1937)。当時2歳半。【写真:Wikimedia Commons】

第360回で述べたように、あたしは石田民三監督(1902~72)の映画が大好きで、そこで紹介した『むかしの歌』(1939)とともに、『花つみ日記』(1939)も大ファンである。名画座で上映があるときは、必ず駆けつけている。

『花つみ日記』は、大阪の名門女学校を舞台に、置屋の娘(高峰秀子)の揺れ動く“乙女ごころ”を描いた、吉屋信子原作の、いわゆる“百合ものがたり”である。大阪大空襲で失われた戦前の関西の風景が見事に記録されているほか、宝塚歌劇団を退団直後の芦原邦子が映画初出演するなど、話題の多い作品なのだが、いま、それを述べだすと紙幅がいくらあっても足りないので、割愛する。

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▲『花つみ日記』(1939)より、清水美佐子(左)、高峰秀子(右)。【写真:Wikimedia Commons】

問題は、デコちゃん(高峰秀子)と、ダブル主演といってもいい、東京からきた転校生を演じた、〈清水美佐子〉である。特に美人というわけではないが、小柄で愛嬌のある女優だった。デコちゃんと親友になるものの、ある誤解がもとで、避けられてしまう役だ。寂しそうな雰囲気をうまく演じており、どこか忘れがたい女優だった。

だが、いったいどういうひとなのか、調べても、よくわからない。戦前に『花つみ日記』を含めて20本弱の映画に出演し、1941年を最後に、フィルモグラフィからは、まったく消えてしまう。

ところが、いまから10数年前、戦前の歌謡曲について調査していたとき、偶然、子役時代の中村メイコが歌う《メイコちゃんの軍國子守歌》なるSPレコードがあることを知った。歌手名をよく見ると、中村メイコのほかに〈清水美佐子〉の名がある。2人で歌っているのだ。

なぜ、この2人が一緒にレコードを出しているのか。あちこちで資料を探って驚いた。清水美佐子は、ある時期から、天才子役・中村メイコのお世話係のような存在となって、映画界を引退していたのだった。しかも、事実上、中村家の家族の一員となっているようでもあった。

清水美佐子は、もともと東宝の大部屋女優で、大きな役は『花つみ日記』のみ。あとはほとんど、ワンシーンの脇役である。ちなみに兄は、やはり脇役俳優の清水一郎。小津安二郎監督の『晩春』(1949)で、小料理屋「多喜川」の主人を演じていた。ラスト近く、笠智衆に「本日、お嬢様は……そうですか、それはおめでとう存じます」という料理人だ。

中村メイコさんの生涯は、日本の映画・ラジオ・TV界の歴史そのものである。すでに自伝風の本は何冊か上梓されていたが、この清水美佐子との思い出を語っていただくことで、メイコさんの生涯と、日本映画史の一面に、新たな光を当てることができるのではないか。

そう思って、あたしは、さっそく中村メイコさんに手紙を出した。

   *****

江戸っ子らしく、メイコさんはすぐに折り返しの電話をくださった。そのときの第一声を、いまでも覚えている。あの少し低めの、少々ダミ声のような感じで、

「〈みさこねえちゃま〉のことを、そこまで愛してくださって、ありがとうございます。面白い企画ですねえ。やってみましょうか」

〈みさこねえちゃま〉! そのような呼び方をしているほどの関係だったのだ。

「ただ、わたし、ある時期、〈みさこねえちゃま〉とは、ご縁がなくなっちゃったんですよね。ですから、彼女のことを全部知っているわけではないんです。最期のお別れはしましたけど……。そのあたりは、そちらの取材で補充していただけますか」

すでに〈みさこねえちゃま〉は、この世にいなかった。しかしとにかく、メイコさんは、聞き書き取材に応じてくださるという。さっそく、数回に分けてインタビューさせていただくことになった。どこか、ホテルの一室のような静かな環境を用意しましょうかと提案したら、「いえいえ、そんなもったいない。わたしが、そちらへうかがいますから」と、マネージャーさんの運転する車で、元気いっぱいに社に来てくださった。

実際にお会いしたメイコさんは、一瞬、小学生がおとなの恰好をしているのかと思うほど小柄な方だった。だが、中村メイコさんといえば、名画座ファンのあたしにとっては、主演級ではないものの、銀幕の大スターである。『孫悟空』(1940、東宝/山本嘉次郎監督)、『くちづけ』(1955、東宝/オムニバスの第3話「女同士」成瀬巳喜男監督)、『奥様は大学生』(1956、東宝/山崎喜暉監督)、『私は二歳』(1962、大映/市川崑監督。声の出演)、『拝啓天皇陛下様』(1963、松竹/野村芳太郎監督)……山ほどの作品を観てきた。外見は小柄でも、芸達者なその存在は、果てしなく大きい。

インタビューは、実に興趣あふれる内容だった。メイコさんの記憶の正確さにも驚いた。メイコさんは2~3歳の、物心がつく前から、P.C.L.映画(のちの東宝)に出演している。最初は母親が撮影所についてきたが、家庭の関係で、付きっきりがむずかしくなった。そんなとき、母親の目についたのが、東宝の大部屋女優・清水美佐子だった。

   *****

最初の出会いは『南風の丘』(1937、松井稔監督/P.C.L.)。O.ヘンリーの短編『よみがえった改心』の翻案だった。このときメイコさんは3歳になったばかりだが、映画はすでに2本目である。メイコさんの役は、誤って大型金庫のなかに閉じ込められてしまった子供。そこから救出されるシーンの撮影だったが、メイコさんは、真っ暗な金庫のなかへ入るのがイヤだと、泣き出した。撮影は中断してしまう。

スタッフたちが困っていると、セットの隅にいた、16~17歳ほどの、大部屋の少女が駆け寄ってきて、自ら大きな黒い布をかぶり、金庫のなかへ入っていった。

「ほ~ら、メイコちゃん、怖くないよ。わたしが一緒にいてあげるから、ここまでおいで~!」

その明るくて元気いっぱいの様子に、メイコさんはようやく泣きやみ、少女のあとを追って金庫のなかへ入っていった。撮影は無事に終了する。

この少女が、清水美佐子だった。もちろん、詳細は、あとで母親から聞かされたのだが、メイコさんには、真っ暗な金庫のなかに、もうひとり誰かがいて、そこへ入っていった記憶はあるという。

このような出来事が何度かつづくうち、メイコさんが6歳になったとき、母親が、清水美佐子に、お世話係の白羽の矢を立てたのだった。子供好きで、いつも撮影所の隅で一緒に遊んでくれている。すでにメイコさんは彼女を〈みさこねえちゃま〉と呼んでいる。しかも大部屋だから、映画界の風習や撮影所の内情も、よく知っている。そこで母親が、お世話係として雇用したのだった。ちなみに清水美佐子は、このとき22歳。これを機に映画界を引退し、子役メイコちゃんの専従お世話係となる。それどころか、中村家の家族の一員として、戦中の苦しい時期、疎開先などで大活躍し、中村家を助けつづけたのだった。女子の月のものの対応も、母親ではなく、すべて〈みさこねえちゃま〉が教えてくれたという。

ちなみに、先述『花つみ日記』のとき、デコちゃんは15歳。対する清水美佐子は、なんと20歳だった。

〈みさこねえちゃま〉は、歌も踊りも、基本的な芸事は、ほとんどをこなせた。メイコちゃんも子役育ちだけに、おおよその歌や芝居ができた。ある時期からは、2人を中心にしたミニ楽団を組んで、前線基地への慰問演奏にも行った。特攻隊基地で、出撃前夜の若者たちと接する話には、涙を誘われた。戦後は、十朱久雄を中心に小劇団を組んで、焼け跡に残った劇場でルナールの『にんじん』を巡演して大ヒットした。このとき、ピアノの上で赤ちゃんが寝ていたという。十朱幸代である。

   *****

だが、当然ながら、ある時期からはメイコさんも大人になり、お世話係は必要なくなる。〈みさこねえちゃま〉もそのあたりは心得ており、いつしか2人は別々の人生を歩むようになる。

長く会っていないうち、メイコさんは風の便りに、〈みさこねえちゃま〉が不遇の生活に陥っていることを知る。いてもたってもいられなくなったメイコさんは、ご主人の作曲家・神津善行さんに相談する。むかしから〈みさこねえちゃま〉のことを詳しく聞かされていた神津さんは、「君にとって大切なひとなんだろう。すぐに、うちで引き取ってあげなさい」といってくれる。この話をするとき、メイコさんは「このときは、ほんとうに、このひとと結婚してよかったと思いました」と、若干、目を潤ませていた。

だがのちに〈みさこねえちゃま〉は、末期の胃がんが判明。メイコさんたちが大きな病院を紹介し、入院させるのだが、手遅れだった。50歳前後の若さでこの世を去ってしまう。葬儀も神津家でお世話してあげたという。

   *****

こういった話を、メイコさんは、3回ほどのインタビューで、いろいろと語ってくれた。楽しい思い出ばかりではなく、後年、気持ちのすれ違いから生じた出来事なども、正直に語ってくださった。だが、最後のほうは、長く離れていたせいもあり、いまひとつ、正確な話にならない。そのあたりは、もうすこし独自取材や資料収集をして、あらためて後日、最終インタビューをして完成させるつもりだった。

ところが、そのうち、あたし自身に、腎臓がんが見つかり、入院手術することになってしまった。10年ほど前に食道がんの手術を受けていたので、再発かもしれない。しばらく、仕事から離れるような感じになった。

幸い、腎臓がんは、いわゆる悪性腫瘍ではなかったのだが、やはり手術をしたせいで、しばらく身体に力が入らず、取材や執筆に打ち込めなかった。やがて、まったく別仕事の部署に異動となり、追加取材やインタビューに手をつける時間がなくなってしまった。

そろそろ連絡をしなければと思っているころ、メイコさんは、TBSラジオ日曜夜の「サンスター 文化の泉 ラジオで語る昭和の文化」パーソナリティを退いた(大好きな番組だった)。ああ、メイコさんも、もうしんどいのだなあ……と感じ、いっそう、手つかずになってしまった。

その中村メイコさんが、昨年12月31日、逝去されていた。享年89。

あたしは、インタビューのたびに、すぐに原稿に書きおこしていた。いま、手もとのUSBには、とりあえず全14章、新書にして180頁相当ほどの原稿が残っている。だが、随所に「ここは追加取材が必要」と書かれた箇所があり、最終形にはできなかった。全部ができたところで、メイコさんに目を通していただくつもりだった。いまとなっては、できたところまでだけでも、見ていただけばよかったと、後悔している。

中村メイコさん、せっかく長時間インタビューに応じてくださったのに、形にできず、申し訳ありませんでした。いまごろ、天上で、〈みさこねえちゃま〉とむかし話に興じていることを願っております。ご冥福をお祈りします。
(一部敬称略)


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