2019.12.16 (Mon)
第261回 バリトン・サクソフォンによる《冬の旅》

▲CD シューベルト《冬の旅》全曲(バリトン・サクソフォン:栃尾克樹、ピアノ:高橋悠治)
2017年夏に聴いたユニークなコンサートが、いまでも忘れられない。シューベルトの歌曲集《冬の旅》全曲が「バリトン・サクソフォン」で演奏されたのである(バリトン・サクソフォン:栃尾克樹、ピアノ:高橋悠治/代々木上原ムジカーザにて)。
通常、歌曲のコンサートであれば、聴衆には「ことば」(詩)、「旋律」(声)、「ピアノ」の3つの情報が届けられる。
ところが、そのうちの「ことば」(詩)が、なかったのだ。
《冬の旅》は、ヴィルヘルム・ミュラー(1794~1827)の詩集に曲をつけたもので、失恋した主人公の、さすらいの旅を描いている。失恋の経緯は詳細には説明されないが、2曲目〈風見の旗〉で、彼女は金持ちの男のもとへ走ったらしいことが示唆される。それだけに主人公の恨みや絶望感は格別で、ほとんどノイローゼ状態である。
その後、第5曲〈ボダイジュ〉や、第11曲〈春の夢〉、第13曲〈郵便〉あたりで、若干、回復傾向も見られるものの、ショックは癒されることはない。〈カラス〉につきまとわれたり(第15曲)、イヌに吠えられたりして(第17曲〈村で〉)、最終的に、老いた辻音楽師の姿に共感し、「いっしょに行こうか」と自己を投影して終わる(第24曲〈ハーディ・ガーディ弾き〉。
まるで彼岸をわたってあの世に旅立つかのようなラストである。
この主人公の姿は、どこか、組織や社会に入り込めない現代人を思わせるところがある。そのせいか、《冬の旅》は、近代以降も常に演奏され、聴かれてきた。これほど隠喩に満ちた文学的興趣を誘う音楽作品は、めったにない。
それだけに、「詩」を捨てて「旋律」のみで演奏することに、どれほどの意味があるのか、少々、不安を覚えながら会場へ向かった記憶がある。
ところが、そんな心配は杞憂だった。高橋悠治による対訳が配布され、これがコンパクトながら、正鵠を射た訳だったのだ。
たとえば、第8曲〈Rückblick〉は、よく〈回想〉〈かえりみ〉などと訳されるが、高橋は〈振り返る〉としている。第1連の4行は、次のように訳される。
「足裏がやける/雪と氷を踏んで/息もつけない/塔が見えるうちは」
第14曲〈Der greise Kopf〉(霜雪の頭、霜おく頭)は〈白髪頭〉。
「霜が白い光を/髪に散らした/老人になったかと/よろこんだのに」「たちまち消えると/また黒い髪/この若さがこわい―/棺桶まで まだ道は遠い」
通常、この数倍もの文字数を使って訳されるミュラーの詩が、これほどコンパクトに提示されることに、驚いた。高橋悠治のHPに、ドイツ語原詩との対訳で全編が掲載されているので、ご覧いただきたい。
この演奏が、あらためてセッション録音され、先日、CD化された。もちろん、訳詞もライナノーツに収録されている。わたしたちは、その「ことば」(訳詩)を目で追いながら、「ピアノ」と「旋律」を聴くことになる。
これは、なかなか知的な音楽体験になる。耳と目から、まったく別の情報を得て、脳内で一体化して「世界」が完成される、不思議な感動をおぼえるはずだ。
もちろん、「ことば」を捨てた以上、演奏者たちは、あくまで「音」のみで勝負しているのであって、「詩」を理解する必要はないと提案しているのかもしれない。
仮にそうだとすると、面白い発見もある。
たとえば、ある一節を、おなじ音の連続で「うたう」箇所が、ときどきある。
典型的なのは、第20曲〈道しるべ〉で、最後の第4連の一部は、ほとんど、同じ音の連続である。(原調版で)GとB♭が、8分音符を中心に、いつまでも繰り返される。これに「詩」が付いていればおかしくないのだが、「音」のみだと、どうしても変化に乏しくなる。しかし奏者の栃尾は、微妙なタンギングと息の変化で、ちゃんと「語りかける」のである。「詩」がなくとも、なにかを聴き手に伝えようとする演奏者たちの思いが、伝わってくる。《冬の旅》を「ことば」なしで演奏した理由が、なんとなくわかってくる。
高橋悠治のピアノは硬質で無機質な美しさがあり、スコアを一歩下がって透視しているようなクールな感じがある。
東京佼成ウインドオーケストラの団員でもある栃尾克樹のバリトン・サクソフォンは、一瞬、バスーンかと思わされる美しさである(タンギングや、キイ、タンポなどのノイズもほとんどない)。
バリトン・サクソフォンは、ふだん、吹奏楽やジャズ・ビッグ・バンドで低音部を支えることが多い楽器である(ジェリー・マリガンのようなソロ奏者もいたが)。それが、これほどの表現力があることに、驚く。まさに現代人の疎外感をあらわすのにふさわしい楽器だったのだ。
サクソフォンに携わっている方々はもちろん、原曲のファンにも、ぜひ聴いていただきたいディスクである。
<敬称略>
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