2021.05.12 (Wed)
第311回 1705年12月、リューベックにて(1)

▲CD『1705年12月 ブクステフーデ&バッハ』(オルガン:Manuel Tomadin)
最近、たいへん興味深いタイトルのCDが、オランダのBrilliant Classicsから出た。
『December 1705/Buxtehude&Bach Organ Music』(Manuel Tomadin:オルガン)である。
バッハに詳しい方だったら、タイトルの「1705年12月」に、ピンと来ただろう。
1705年、20歳の若きバッハは、ドイツ中部の町アルンシュタットで、教会オルガニストをつとめていた。ところが、あることから教会聖歌隊の生徒とトラブルになり、乱闘事件を起こしてしまう。教会上層部からこってり絞られたバッハは、不貞腐れ、同年11月、4週間の休暇を申請し、ドイツ北部の町リューベックへ旅に出てしまう。
アルンシュタットからリューベックまでは、400㎞近くある。ほぼ東京~大阪間と同じ距離だ。
いったい、バッハは、何のためにそんな遠方へ出かけたのか。
音楽作家、ひのまどかによるジュニア向け評伝『バッハ/音楽家の伝記 はじめに読む1冊』(ヤマハ・ミュージック・メディア)では、このように生き生きと記されている。後年のバッハが、息子に若いころの思い出を語る場面だ。
「お父さんはね、若いころには、こんな街道をよく旅して歩いたんだよ。馬車の旅よりよほど面白いよ」(略)
「歩いてって・・・・・・、どのくらいの距離をですか?」
「そうさなあ、ずいぶん何度も旅したからなあ。(略)もっと歩いた時で三百七十キロはあった。お父さんがちょうど二十歳の時だ。アルンシュタットというここよりずっと南の町から、ドイツのいちばん北にあるリューベックという都まで歩いて旅したんだよ。リューベックには、ブクステフーデさまというえらいオルガニストがおられてね、お父さんは、その方の演奏なさる『夕べの音楽』をききに行ったんだ。歩いて歩いて、行きと帰りに十日ずつはかかったなあ」
「十日も歩いて! 足が痛くならなかったの、お父さん?」
このころ、ドイツのオルガニストといえば、リューベック、聖マリエン教会の巨匠、ディートリヒ・ブクステフーデ(1637?~1707)が代表格であった。彼は、「夕べの音楽」と題する催しを主催していた。
これは、もともと、前任者が毎週木曜日に、ミサなどとは別に教会で開催していた「オルガン+声楽演奏会」で、市民は無料で入場できた。もしかしたら、これが、音楽史上最初の、(宗教行事ではなく)純粋に音楽を楽しむ「コンサート」のはしりだったかもしれない。
ブクステフーデは、これをさらに拡大し、年に5回、日曜日の礼拝につづけて開催される、大規模なコンサートに格上げした。
これが大評判となり、遠方から駆け付けるひとも多かった。
当然、バッハもその評判を聞いており、一度、その目と耳で、ブクステフーデのオルガンと、有名な「夕べの音楽」に接してみたかったにちがいない。このころ、ブクステフーデは70歳近く(逝去の2年前)。当時としては超高齢者である。バッハも、これが最後のチャンスと感じていたはずだ。
これに関しては、”音楽物書き”の加藤浩子が『バッハ 「音楽の父」の素顔と生涯』(平凡社新書)で、うまく説明してくれている。
「夕べの音楽」のもっとも需要な開催日は、クリスマス前の待降節、第二、第三、第四日曜日だったので、バッハが11月に休暇をとったのも当然だった。とくにこの1705年の待降節には、神聖ローマ皇帝が代替わりしたため、前任者のレオポルド一世の追悼カンタータと新皇帝ヨーゼフ一世の即位を祝うカンタータの上演が予定されていたのである。バッハは、飛び立たんばかりの勢いでリューネブルクに向かったことだろう。
この2つのカンタータとは、《悲しみの城砦》BuxWV134と、《栄誉の神殿》BuxWV135を指すが、どちらも台本しか残っておらず、残念ながらどんな曲だったかは、いまではわからない。しかし、かなり大規模な声楽曲だったようだ(正確には、当時まだ「カンタータ」なる呼称はなかった)。
聖マリエン教会は第2次世界大戦時、連合軍の爆撃で破壊され、「建物もオルガンも戦後の再建だが、いずれも啞然とさせられる規模だ」そうで、「5段鍵盤とペダル、101のストップ、8512本のパイプを持つ巨大なもの」、位置も「再建とはいえ、ブクステフーデの頃と変わらない」らしい(前出、加藤著書より)。
20歳のバッハが感動しながら聴いている姿が目に浮かぶようだ。
ところで、バッハが許可を得た休暇期間は4週間だったが、実際には4か月もリューベックに滞在することになった。
ということは、前記の”皇帝の追悼/即位記念”だけでなく、ほかの「夕べの音楽」も聴いただろうし、礼拝などでブクステフーデのオルガン演奏も何度も聴いたはずだ。おそらく、直接に指導も得ただろう。一説にはバッハ自身も「夕べの音楽」にゲスト参加したのではないかといわれている。
そこで気になるのは、以下の2点だ。
①バッハはリューベックに滞在中、具体的にブクステフーデのどの曲を聴いたのか?
②それらの音楽が、バッハにどんな影響を与えたのか?
これについて、バッハ研究の泰斗、磯山雅(1946~2018)が、こう書いている。
「バッハがブクステフーデから学んだのは、様式や技法もさることながら、ファンタジーを抑圧せず大胆に解放してゆくという、表現への積極性であった」「私は、初期の作品のうちでもきわ立って有名な《トッカータとフーガ ニ短調》BWV565を、ブクステフーデ体験のさめやらぬ興奮のしるしと考えたい気持ちに駆られる」(『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』より、講談社学術文庫)
なんと、あの名曲は、ブクステフーデの影響下に書かれたのか?
〈敬称略/この項、つづく〉
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