2021.05.27 (Thu)
第314回 1705年12月、リューベックにて(4)

▲「夕べの音楽」再現CDのひとつ(ヴォクス・ルミニス+アンサンブル・マスク)Alpha Classics
※ナクソス・ミュージック・ライブラリーはこちら。
現在、「Abendmusiken」=夕べの音楽(会)といえば、教会での演奏会の代名詞だが、本来は、リューベックの聖マリエン教会での催しを指す固有名詞だった。
前述のように、創始者は、ブクステフーデの前任者、フランツ・トゥンダー(1614~1667)である。
リューベックでは、毎週木曜日の正午、証券取引所の開場を待つ商人たちが、聖マリエン教会で時間をつぶす習慣があった。社交場のようなものだったのだろう。
当時のリューベックは北ドイツ最大の経済都市で、ハンザ同盟の盟主”ハンザの女王”と呼ばれていた。町は、岩塩や塩漬けニシンで大儲けした商人たちであふれていた。
そんな彼らのために、トゥンダーはオルガンを弾いて聴かせた。これが「夕べの音楽」で、商人組合も教会に寄付する形でギャラを支払っていた。
やがて一般市民も無料入場できる催しとなる。「コンサート」のはしりである。
1667年11月5日、トゥンダーが逝去した。後任に多くの候補が挙げられたが、なかなか決まらず、半年近くが経過した。
そのころブクステフーデは、デンマーク、ヘルシンゲルにある聖オライ教会のオルガニストをつとめていた(ここは、シェイクスピア『ハムレット』の舞台である。ヘルシンゲルの英語読みが「エルシノア」)。
経過は不明だが、1668年4月11日、ブクステフーデがトゥンダーの後任に就任した。7月には正式にリューベック市民に認定され、8月3日にトゥンダーの下の娘、アンナ・マルガレーテと結婚する。この結婚が就任の条件だったかどうかは定かではないが、当時の慣習からいって、おそらく世襲を求められ、了解したものと思われる。
ブクステフーデの仕事は、朝の礼拝、日曜祝日の午後の礼拝、その前日の夕べの祈りなどでのオルガン演奏だった。そのほか、前奏や聖餐式でも、器楽や歌手を加えた曲を演奏した。
やがて彼は、「夕べの音楽」をスケールアップして復活させた(そのために、教会内の演奏者バルコニーを増設しなければならないほどだった)。
開催日は、毎週木曜日ではなく、「教会暦」にちなんだ年に5回の日曜日に絞った。
それは、「三位一体節の最後の2回の日曜日」と、「待降節の第2、3、4日曜日」である。
三位一体節は、「聖霊降臨祭」(復活祭から50日目)の次の日曜日からはじまる期間をいう。その間の日曜日が「三位一体主日」で、年によって期間は変わるが、23回~27回の日曜日がつづく。たとえば第1主日が5月ころになるとすれば、最後の2回の日曜日は11月ころになる。
待降節とは、クリスマス(イエス生誕)直前の時期で、教会暦における1年のはじまりにあたる。
つまりブクステフーデが主宰した「夕べの音楽」は、毎年、秋からクリスマスにかけて、新しい暦のはじまりを待つ祝祭行事のような、たいへん華やかなものだったと思われる。
いまでこそ、わたしたちは、コンサートで、時季に関係なく、カンタータや受難曲を当たり前のように聴いているが、本来は教会暦にあわせて、特定の祝日に演奏するために作曲されていた。だから、たとえばバッハの《マタイ受難曲》などは、バッハ存命中は、おそらく4~5回しか演奏されなかったといわれている。それを、後年、メンデルスゾーンが発掘し(14歳の時に、祖母からクリスマス・プレゼントに写譜をもらった)、「コンサート鑑賞曲」として復活させたことで、一般的な名曲として再認識されたのだった。
もしかしたらブクステフーデは、教会における音楽の姿を、本来のあり方にもどしたのかもしれない。
この項の第1回目で述べたように、1705年12月、バッハがリューベックを訪れたその最大の理由は、待降節の「夕べの音楽」で、ブクステフーデ作曲、レオポルド一世追悼カンタータ《悲しみの城砦》BuxWV134と、新皇帝ヨーゼフ一世即位記念カンタータ《栄誉の神殿》BuxWV135を聴くことが最大目的だった。
この”特別コンサート”は、12月2、3日の2日間にわたって開催されたという。
ここで気になることがある。
バッハは「4週間の休暇」を申請して旅立った。出立は10月18日ごろだったと見られている。
もし本気で「4週間」で帰ってくるつもりだったら、11月中旬には戻っていなければならない。
アルンシュタット~リューベック間は、道のりにもよるが、約400キロある。ほぼ、東京~大阪間に匹敵する。ここを、バッハは、徒歩で旅したという。
1705年といえば、日本では、赤穂浪士討ち入り(1703年)の2年後。当時、日本橋~京が、徒歩で約2週間の旅といわれた。
バッハは大柄で健脚だったそうだが、それでも、江戸~京よりも長い距離を歩いたのだから、やはり、10~14日はかかったであろう。往復で20~28日。「4週間の休暇」(28日間)では、行って帰ってくるだけでギリギリのはずだ。「夕べの音楽」どころではない。
つまりバッハは、最初から4週間以上、リューベックに居座るつもりだったのだ。
おそらく、上記”特別コンサート”以外に、いろんな音楽を聴いたにちがいない。
では、具体的に、どんな曲を聴いたのか。
教会内の音楽なのだから、オルガン曲やカンタータ(当時、教会音楽には、この名称はなかったが)だろう。
そこで話をもどせば、想像による「夕べの音楽」再現CDが多く出ているので、これらが頼りになる。
たとえば、冒頭に掲げた、フランスの古楽レーベル「Alpha Classics」からリリースされている『Abendmusiken ~BUXTEHUDE:Choral and Chamber Music』。文字通り「夕べの音楽(会)」と題されている。ヴォクス・ルミニス(声楽アンサンブル)と、アンサンブル・マスク(古楽器アンサンブル)の演奏で、古楽器によるソナタと、カンタータが交互に、計8曲収録されている。もちろんすべてブクステフーデ作曲で、最後は、名曲《イエスよ、わが命の命》BuxWV62で締め括られている。
ほかにも同じ「夕べの音楽」と題する”再現CD”はいくつも出ていて、おおむね、声楽曲が中心だ。間にオルガン曲が入っているものもある。
もちろん、これらは、正確な記録が残っているわけではないので、どれも”おそらく、ブクステフーデのこんな曲が演奏されたであろう”との想像で選曲されているのだ。
ところが、前回の最後に綴ったように、ニュー・グローヴ音楽大事典によれば「こうした演奏会で、ブクステフーデの現存作品のいずれかが用いられた可能性はあるが、その確証のある作品は一曲もない」とはっきり書かれている。
筆者のKerala Johnson Snyderは、イーストマン音楽院の教授で、古楽やオルガンの権威。特にブクステフーデについては本格的な研究評伝を上梓しており、ブクステフーデについて、世界でもっとも詳しい研究家である。
そんな専門家がいうのだから、間違いはないだろうが、いったい「夕べの音楽」では、なにが演奏されていたのか――実は、「オラトリオ」が多かったらしいのだ。
しかし、彼女の解説によると、オラトリオ《仔羊の結婚》BuxWV128は演奏されたようだが、台本しか残っていない。新聞広告で予告された「夕べの音楽」用のカンタータやオラトリオも何曲かあるようだが、これらも、なにも残っていない。前述のように、バッハがリューベック訪問の目的とした2つのカンタータも、台本しか残っていない。
よって、多くの”再現CD”の収録曲は、教会の礼拝などで演奏された可能性はあるが、「夕べの音楽」で演奏されたかどうかは、まったく不明なのだ。
教会のバルコニーを増設して演奏されたオラトリオともなれば、スケールの大きな音楽だったろう。
だが、巷間の”再現CD”は、すべて、小ぢんまりとした声楽曲ばかりである。
野暮なことをいうようだが、どうも、”再現CD”は、「夕べの音楽」の実態とは、かけ離れた内容のような気がしてくる。
では、あらためて――バッハは、リューベックに正味3か月いた間、なにを聴いたのだろう。「夕べの音楽」はクリスマス直前で終了している。そのあと、ブクステフーデのどんな曲を聴いたのだろう。
ここから先はわたしの推測だが、バッハの名曲《ゴルトベルク変奏曲》のルーツが、このときのリューベックにあったと信じている。
次回、素人の戯言で、この旅を終わりにしたい。
〈敬称略/次回、最終回〉
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