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2021.06.01 (Tue)

第315回 1705年12月、リューベックにて(終)

ショルンスハイム
▲ブクステフーデ《ラ・カプリッチョ―サ変奏曲》+バッハ《ゴルトベルク変奏曲》
 (クリスティーネ・ショルンスハイム/チェンバロ) Capriccio

※ナクソス・ミュージック・ライブラリーは、こちら。



◆《ゴルトベルク変奏曲》の出自
 バッハは、《クラヴィ―ア練習曲集》と題する楽譜集を、全部で4巻、刊行している。どの巻も複数曲が収録されているが、第4巻(1741年10月刊行)は長大な1曲のみ。曲名は《2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏より成る~愛好家の心の慰楽のために》という。現在、通称《ゴルトベルク変奏曲》BWV988と呼ばれている曲だ。
 「アリア」とは、《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィ―ア小曲集》(1725年版)に記された小曲の旋律を指す。

 ドレスデンに赴任していた前ロシア大使、ヘルマン・カール・カイザーリンク伯爵は、お抱えのチェンバロ奏者、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727~1756)を連れ、しばしばライプツィヒを訪れ、バッハのレッスンを受けさせていた。
 あるとき、不眠に悩む伯爵は、バッハに、「穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィ―ア曲を、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申し出た」(フォルケル『バッハ小伝』、角倉一朗訳、白水Uブックス)
 そこで書かれたのが、この《アリアと様々な変奏》である(と、いわれている)。
 この逸話は、しばしば不眠症の伯爵が「眠れる音楽を書いてくれと要求した」かのようにつたわっているが、そうではない(グレン・グールドの名録音が、この逸話に拍車をかけたかもしれない)。上記のように、伯爵は「気分が晴れるような」曲を望んだのである。

 この逸話は、例のフォルケルの記録で有名になったものだが、いまではマユツバものと見る向きも多い。
 というのも、この当時、ゴルトベルクは13~14歳の少年である(伯爵の稚児さんだったか)。たしかに、ヴィルトゥオーゾではあったようだが、それにしても、このような難曲を、その若さで弾けただろうか、というのだ(楽譜通りにリピートすると1時間以上かかる)。

 だがとにかく伯爵はこの曲を気に入って「私の変奏曲」と呼び、「聴いて飽きることがなく、そして眠れぬ夜がやってくると永年のあいだ、『ゴルトベルク君、私の変奏曲をひとつ弾いておくれ』といいつけるのだった」と、これまた見てきたようなことを書いている(同上、フォルケルの記録より)
 そもそもゴルトベルクは1745年ころにカイザーリンク伯爵のお抱えを解かれたといわれている。だとすれば彼が弾いたのはせいぜい4~5年のことで、「永年のあいだ」弾いたとの記述はおおげさなようにも思える。
 だがフォルケルは、ここで当事者でなければ知り得ない事実を2つ、書いている。
 ひとつは報酬だ。
「バッハはおそらく、自分の作品にこのときほど多くの報酬を得たことはなかったであろう。伯爵はルイ金貨が百枚詰まった金杯をバッハに贈ったのである」(同上)
 もうひとつは、出版について。
「この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者が私蔵版においてそれらを注意深く訂正した」(同上)
 この「バッハが訂正した私蔵版」は1975年にストラスブールで発見された。たしかにバッハ自身の筆跡で、多くの訂正が書き込まれていた(現在、パリ国立図書館蔵)。フォルケルの記述は正しかったのである。
 前述のように、フォルケルがこの記録を書いたころ、バッハを直接知るひとは多くが存命中だったし、なによりも、次男のC.P.E.バッハと往復書簡を交わして最新情報を仕入れていた。あながちマユツバとは、言い切れないかもしれない。

◆驚愕の〈第30変奏〉
 で、その《アリアと様々な変奏》だが、冒頭に32小節の〈アリア〉(主題)が奏でられ、次から〈第1変奏〉~〈第30変奏〉がつづく。そして最後に〈アリア〉がリピートされて終わる。いまふうにいうと、全部で「32トラック」で構成されていることになる。途中、調性がかわる変奏もあるが、基本は「ト長調」である。そのほか、本曲の構成要素はあまりに面白すぎるのだが、曲の分析が目的ではないので、略す。 
 問題は、大トリの〈第30変奏〉である。
 ここで突然、〈アリア〉の変容ではない、まったく別の旋律、それも「戯れ歌」が2曲も登場してカノンを構成し、度肝を抜かされる(それでいて、ちゃんと〈アリア〉変奏もからんでいるのが、バッハのすごいところ)。

 この部分について、ピアニストのイリーナ・メジューエワが、自著でうまく解説している。
「第29変奏を流れ的にうまく弾いたとしても、その流れに乗ってしまったら、大体失敗します。ここでまた突然、厳しい世界に戻る。全体的に考えると、一番大事な曲ですね。最後の変奏曲。ガイド役、先生の役をやってきたバッハが、ようやくリラックスするところです。バッハが笑いながら、二つのテーマを使ったカノンを組み合わせている。しかも素材となったのは、すごく軽い、ある意味ばかばかしい内容の、当時のみんながよく知っていたポピュラーソングです」(イリーナ・メジューエワ『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』講談社現代新書)

 その2曲とは《ひさしぶりだね、おいでおいで》と、《キャベツとカブがおいらを追い出した。母さんが肉料理にしてくれれば、家にいたのに》である。
 これらは民謡のようなものだが、「ベルガマスカ」とも呼ばれた。「ベルガモ風の戯れ歌」だ。むかしから、イタリア北部のベルガモは「田舎くさい土地」として、からかいの対象だった。いまでいうと「ダサイタマ」みたいなものか。シェイクスピア『夏の夜の夢』第5幕第1場で、素人劇団が「ベルガモ踊り」を舞う(訳によっては「バカ踊り」とも)。要するに不器用の象徴である。有名なメンデルゾーンの劇付随音楽《夏の夜の夢》のなかの、〈道化師の踊り〉(ベルガマスク舞曲)が、その場面の音楽だ。

 で、その2曲のベルガマスカのうち、ちょっと日本の唱歌を思わせるようなシンプルな旋律が《キャベツとカブ》である。
 なぜバッハは、この旋律を使ったのか。
 バッハ一族は、年に一度集まって、パーティーを開催していた。その際に歌ったらしい。こういう席での歌を「クォドリベット」という。ラテン語で「好きなものをご自由に」といった意味だ(よって、この〈第30変奏〉は〈クォドリベット〉と称されることもある)。バッハ自身にも、乱痴気騒ぎを音楽化した《クォドリベット》BWV524なる珍曲がある。
 晩年のバッハは、一族の記録つくりに熱心だった。当時としては長命で65歳で亡くなったが、作曲時すでに56歳。この旋律は、バッハが一族の繁栄を祈願、回顧するテーマソングだったのだろうか。
 わたしは、そうではないと思う。
 バッハは、この曲で、かつて若き日に、ブクステフーデを聴くためにリューベックで過ごした実質3か月の日々を振り返っているように思えてならない。

◆ブクステフーデとの共通項
 というのも、これも有名な曲だが、ブクステフーデに《アリア〈ラ・カプリッチョーサ〉と32の変奏》なるチェンバロ曲がある。この曲のアリア(カプリッチョーサ=気まぐれ)が、ベスガマスカ、《キャベツとカブ》なのだ。
 専門家の解説では、「当時、この旋律は広く知られていた有名曲」だったので、バッハが採用したこと自体に深い意味はないようなニュアンスが多い。

 たしかに《キャベツとカブ》で曲を書いた作曲家は、ほかにもいる。
 もっとも有名なのは、フレスコバルディ(1583〜1643)のオルガン曲集《音楽の花束》(1635年)のなかの〈ベルガマスカ〉だろう。《キャベツとカブ》が、高尚な“教会音楽”となって鳴り響く。バッハ自身、若いころにフレスコバルディを研究していたから、この曲集で《キャベツとカブ》を知った可能性もある。
 ハインリヒ・ビーバー(1644~1704)の《バッターリャ(戦闘)》(1673年)にも、酔っ払いを描く曲で、この旋律が使われている。

 だが、バッハ《アリアと様々な変奏》と、ブクステフーデ《ラ・カプリッチョ―サ》には、同一旋律の使用以上に、共通点が多い。
*どちらもチェンバロ独奏用の変奏曲である。
*どちらも全「32トラック」で構成されている(当時としては異様な長さ)。
*どちらもト長調が基調となっている。

 この「共通項」を意識して製作されたCDがある。
 冒頭に掲げた、クリスティーネ・ショルンスハイム(チェンバロ)による、ドイツ「Capriccio」レーベルの新譜だ(2016年録音)。ここでは、ブクステフーデ曲とバッハ曲が、2曲ならんで収録されているのである。ショルンスハイムにとっては二度目の《ゴルトベルク変奏曲》収録だが、今回は、ブクステフーデ曲とのカプリングにしたのだ(品格と迫力が見事に同居した名演。お薦めします)。
 彼女はライナーノーツで、バッハ曲は「ほかの作曲家よりも、ブクステフーデの影響が大きい」とはっきり書いている。いくつか共通点を掲げているのだが、そのなかのひとつに、「どちらも変奏が進むごとに、難度が規則的に上がっていく」構成をあげている。
 たとえば「ブクステフーデ曲は第24パルティータで24/16拍子になり、バッハ曲は第26変奏で18/16拍子になる」。そのほか、「ブクステフーデ曲の第31パルティータと、バッハ曲の第28変奏におけるトリル風奏法の類似」「ブクステフーデ曲の第18パルティータにおけるバグパイプを思わせるオスティナートの低音と、バッハ曲の第30変奏〈クォドリベット〉における民俗性」等々・・・。

◆リューベック回想記
 バッハは、カイザーリンク伯爵から委嘱を受けた際、まず、自分の56年の人生を振り返ったような気がする。山あり谷ありの人生を、次々に展開する変奏曲に託そう、と。
 そして、20歳の頃、1705年12月(から2月ころまでの間)に、リューベックで聴いた、大先輩ブクステフーデのチェンバロ変奏曲《ラ・カプリッチョ―サ》を思い出した。そうだ、あの手法でいこう。シンプルなアリアが、次々に変容し、いつまでたっても終わらない、長いけど素晴らしい曲だった。あのころは若かった。よくまあ、10日間も歩き通せたものだ。リューベック、聖マリエン教会の隅で、こっそり、オラトリオやカンタータやオルガン曲を聴いては、メモした。時折は、町内の屋敷で、チェンバロの気さくなコンサートもあり、何回も潜り込んだ。そのとき聴いた、あの《キャベツとカブ》変奏曲の楽しかったこと!

 バッハの筆は進んだ。紙幅があるので詳述しないが、ある「規則」に従って変奏は整然と進み、ついに最終〈第30変奏〉にたどりつく。ここでバッハは、青春時代の思い出を、そのまま曲にした。ブクステフーデが変奏曲の主題にしていた《キャベツとカブ》である。ちょうどアルンシュタットで、最初の妻、マリア・バルバラと知り合ったころだ。その後、彼女は若くして急死した。死因は不明だった。
 ふたたびメジューエワの解説。
「それまではカノンは一つのテーマだったのが、ここでは二つのテーマを扱っていて、技術的、構造的にも、あるいは聴く能力も、演奏する能力も含めて難しい。結論というか、ある意味ここが頂点と言ってもいい。バッハらしいなと思うのは、一番難しいことをやるために、あえて軽い内容の歌を使うという、そのギャップです」(同上)
 歌は軽いが、青春の思い出は消えずに、バッハの胸奥に深々と刻まれていた。
 《ゴルトベルク変奏曲》こそは、1705年12月、リューベックでの日々をよみがえらせる青春回想記だったと、わたしは信じている。
〈敬称略/この項、終わり〉
※長々と失礼しました。


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