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2021.09.07 (Tue)

第329回 マリヤ・ユージナとスターリン(1)

ユージナCD1
▲マリヤ・ユージナのCD26枚組BOX-SET


 銀座の山野楽器本店は、現在、3階以上のみにスペース縮小され、表通りからは店の様子がわからなくなってしまった。そして今度は、西武池袋店も、8月いっぱいで閉店した。
 寂しくなるなと思って、閉店前のワゴンセールを覗いていたら、マリヤ・ユージナのCD26枚組ボックス・セット『The Art of Maria Yudina』(SCRIBENDUM)が6,000円で売られていた。以前から欲しかったのだが、店によっては10,000円近かったので(ヤフオクでは、一時、なぜか27,000円!)、迷っていたのだ。もちろん、思い切って買ってしまった。

 マリヤ・ユージナ(1899~1970)は、ソ連の大ピアニストである(表記によっては「ユーディナ」もあり)。「女傑」とか「反体制ピアニスト」などと呼ばれたが、いちばん知られているのは「スターリンのお気に入りピアニスト」だろう。終生、ほとんどソ連を出なかったため、西側社会で認識されたのは、ずいぶんあとになってからだった。

 彼女の名を一躍有名にしたのが、のちに偽書とされた、ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』(英訳原著=1979年刊、邦訳=中央公論社1980年刊→中公文庫/絶版)だった。
 ユージナとショスタコーヴィチは、ペトログラード音楽院での同級生だった。そのユージナが、この本では準主役級の存在感で登場するのだ。
 読んでいると、ショスタコーヴィチは、ユージナに対し、ピアニストとしては尊敬していたものの、人間的には複雑な印象を抱いていたようだ。しかしとにかく、あまりにも強烈なエピソードがえんえんとつづくので、一躍、音楽ファン以外にも知られる存在となった。

 いちばん有名なのは「モーツァルトのレコード事件」だが、上記『証言』がインチキ本だとの説も強いので、同じエピソードを、あえて、ほかの本からの引用で紹介しよう。『ミハイール・バフチーンの世界』(カテリーナ・クラークほか著、川端香男里ほか訳/せりか書房、原著1984年、邦訳1990年刊)のなかの一節だ(ユージナは、哲学者バフチーンと親しく、一種の”文学仲間”だった)。
 あるとき、スターリンがラジオを聴いていると、ユージナのピアノ独奏による、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番K.488が流れていた。もともとユージナのファンだったスターリンは、
〈すっかり気に入って放送局に電話し、そのレコードを送ってくれと頼んだ。放送局では上を下への大騒ぎとなった。というのも、それはレコードではなく生演奏だったのだ。即刻スターリンのために一枚制作することになった。ユージナとオーケストラの団員全員がスタジオに召集された。指揮者はすっかりあがってしまい、降されたが、交替した指揮者も似たようなもので、三人目の指揮者でようやく録音することができた。その間じゅう、ユージナは落ち着き払っていた〉

 翌日、徹夜で制作された、たった1組のSPレコードがスターリンのもとへ届けられ、ユージナは多額の謝礼をもらった。するとユージナは、スターリンに、こんな礼状をおくった。
〈「お金は私が所属している教会に寄付してしまいました。私は昼も夜も貴方のために祈り、貴方がこの国と国民にたいして犯した大いなる罪を許して下さるよう神に乞いましょう」と書いた。すぐに逮捕されるに違いないと誰もが思ったが、スターリンは、神学校時代からの名残りで教会関係者には弱かったからであろう、ユージナには手出しをしなかった〉(『ミハイール・バフチーンの世界』より)

 ユージナはユダヤ人だったが、はやくからロシア正教に改宗し、熱心な信者だった。いうまでもなく、スターリンの時代、宗教は弾圧され、教会は財産没収されたり、破壊されたりしていた。それだけに、ユージナの態度は本来ならば即逮捕、銃殺のはずだが、スターリンは無視していたという。
 あまりにおもしろおかしい作り話に思えるが、どうも、真実らしい。ロシア文学の大家、武藤洋二の『天職の運命 スターリンの夜を生きた芸術家たち』(みすず書房、2011年刊)のなかに、こんな一節があるのだ。
〈ユージナの甥ヤーコフ・ナザーロフは、手紙の内容についてマリーヤおばさんから直接きいている。彼の証言では、ユージナは、心くばりと音楽への関心に感謝したうえで、スターリンが国民にもたらした全ての悪の赦しを神に祈ってもらうために謝礼の一部を修道院に送った、と書いたのである〉
 
 もっとも、たとえば、ショスタコ―ヴィチも『証言』のなかで、
〈ユージナは立派な人で、善良な人ではあったが、その善良さにはこれ見よがしなところがあり、そのヒステリー症は宗教的なヒステリーであった〉
 と書いているし(もちろん、この部分も編者の創作かもしれないが)、前出『バフチーンの世界』でも、
〈ちゃんとした身なりをしないことも、周囲の人びとの怒りを買った。一九二〇年代のある演奏会の折、いつも家で履いている大きな毛皮の室内履きのまま会場に来てしまった。切符売場の係員がコンサート用の靴を貸してくれたのだが、あまりに履き心地が悪いので、ピアノの下に放り出してしまった。聴衆は、ユージナが裸足でペダルを踏むのを見て仰天した。(略)父親譲りの古いレインコートを着てベレー帽をかぶり、テニス靴を履いていた。いつでも何か考えごとをしていたので、誰かの家を訪れるとかならず身につけていた物を何かひとつ忘れるのだった〉
 などと書かれている。

 前出『天職の運命』でも、
〈後年ライプツィヒを訪れたさい、バッハがオルガン奏者として働いていた聖トーマス教会の入口で、彼女は、バッハへの深い敬意から靴をぬぎ裸足で中に入った〉
 とある。どうも裸足がお好きだったらしいが、おそらく周囲は、ユージナを「奇人変人」と見ていただろう。そういう点を、スターリンも承知していて、「どうせ変人だから」と、すこしくらい逆らっても、気にしなかったのかもしれない。
 それどころか、こんな話まであるのだ。
〈噂では、スターリンが死んだとき、彼の別荘にあった電蓄のターンテーブルにはユージナが録音したモーツァルトのレコードが載っていたという。この話が実話かどうかはかなり怪しいが、少なくとも、ユージナが当時のインテリゲンツィアの想像力の中でどのような地位を占めていたかを雄弁に物語ってはいる〉(『ミハイール・バフチーンの世界』より)

 スターリンは筋金入りのユージナ・ファンだった。
 そのモーツァルトの23番が、冒頭で紹介したBOXセットのCD4に収録されているのだが……。
〈この項、つづく/敬称略〉

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