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2021.09.29 (Wed)

第333回 マリヤ・ユージナとスターリン(5/終)

CD2枚
 ▲(左)ヴァインベルクの室内楽曲集(ギドン・クレーメルの演奏)
   (右)マリヤ・ユージナによるキエフ・ライヴ(1954年4月4日)


 映画『スターリンの葬送狂詩曲』で、音楽のクリストファー・ウィリスがネタ元の一つにしたらしき作曲家、ミェチスワフ・ヴァインベルク(1919~1996/ソ連では「モイセイ・ヴァインベルク」)は、ポーランド生まれのユダヤ人である。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を逃れてソ連に亡命したが、そこでもまた、スターリンによる迫害に苦しんだ悲劇の作曲家だ。
 かなり最近まで、知る人ぞ知る作曲家だった。だが、22曲の交響曲、17曲の弦楽四重奏曲などを残しており、ある時期のソ連音楽界を語るうえで、たいへん重要なひとである。
 近年は、ラトビア出身のヴァイオリニスト・指揮者のギドン・クレーメルが積極的に取り上げているほか、Naxosレーベルを中心に、秘曲が次々に音源化されている。

 1953年2月、そのヴァインベルクが逮捕される。すでに1948年のジダーノフ批判で、ショスタコーヴィチらとともに「形式主義的作曲家」に指定されており、演奏禁止となっていた。仕方なく、サーカスや劇場の三文音楽で食いつないでいた。
 実は、ジダーノフ批判の最中に、ユダヤ人の名優にして、国立ユダヤ人劇場の創設者、ソロモン・ミホエルス(1890~1948)が、事故を装って「暗殺」されている。ヴァインベルクは、このミホエルスの娘婿である。よって彼自身、自分の生命も風前の灯であることを予感していたフシがある。
 このとき、ショスタコーヴィチは、スターリンに次ぐ№2の大臣、ラヴレンチー・ベリヤ(ユーロマンガ/映画では主役格)にあててヴァインベルク救命の嘆願書をおくっている。

 ショスタコーヴィチはヴァインベルクと親友関係にあった。ショスタコーヴィチのユダヤ風音楽は、ヴァインベルクの影響である。ヴァインベルク夫妻は、もし自分たちになにかあった際は、子どもの養育をショスタコーヴィチに託していたほどだ。
 ショスタコーヴィチは、弦楽四重奏曲第10番をヴァインベルクに献呈している(2人は、弦楽四重奏曲の数を競い合っていた)。また、ヴァインベルクは、ショスタコーヴィチの死の翌年(1976年)に、交響曲第13番《ショスタコーヴィチの思い出に》を書いている。

 ところが、ヴァインベルク逮捕直後にスターリンは倒れ、3月9日に死去した(持病からくる心臓発作が原因だが、何度も書いているように、ユーロマンガ/映画では、マリヤ・ユージナの手紙が原因となっている)。
 これによってヴァインベルクは奇跡的に恩赦釈放される。ユーロマンガ/映画にヴァインベルクは登場しないが、もし出ていたら、ユージナに感謝する場面が描かれていたことだろう。

 そんな荒波をものともせず、おなじユダヤ人のユージナは、(おそらく)悠然と、演奏活動をつづけていた。
 スターリンが亡くなった翌年、1954年4月に、キエフで開催したリサイタルのライヴ音源が残っている(上掲右のCD)。ユージナ55歳、油の乗った時期の演奏で、すでに何回か商品化されている有名なライヴだ。本稿(1)で紹介したBOXセットにも収録されている。
 内容は、ベートーヴェン《創作主題による変奏曲》、ピアノ・ソナタ第14番、第17番、バッハ《前奏曲とフーガ》BWV543など、重量級のプログラムだが、最後にアンコールで、モーツァルトの絶筆《レクイエム》~〈ラクリモーサ〉(涙の日)が収録されている。通常のピアノ・リサイタルでは考えられない選曲だ。クレジットによれば「編曲:キリル・サルティコフ」とある。

 このひとは、モスクワ音楽院におけるユージナの生徒で、15歳年下の「婚約者」だった。だが、1939年、山岳事故で25歳の若さで亡くなっている。
 ユージナはこれを契機に尼僧のような生活に入り、サルティコフの母親の面倒を見ながら、独身を貫いた。前回までに紹介した、ユージナの独特な服装や態度は、この婚約者の死が原因のひとつだったと思われる。
 そして、サルティコフが編曲した〈ラクリモーサ〉を、生涯、演奏しつづけた。ミサ曲のピアノ独奏編曲だが、まるでリストのような深刻な響きで満たされている。

 このころ、スターリン死後のソ連を、ユージナは、どんな思いで生きていたのだろう。このライヴからは、すくなくとも歓喜や解放感を感じ取ることはできない。スターリンがいなくなったからといって、そう簡単に平和が訪れるとは信じていなかったにちがいない。
現に、すぐに後任のフルシチョフによる粛清がはじまり、KGBが発足、ベリヤは逮捕・銃殺処刑。さらに数年後、ソ連は「キューバ危機」で世界を“核戦争”の入口に立たせるのである。
 スターリン以後も決して安堵できない、ソ連国家に対する虚しさや怒りのようなものが、この〈ラクリモーサ〉からは、感じられる。

 晩年のユージナは不遇だった。ピアニストでモスクワ音楽院教授だったヴェーラ・ゴルノスターエヴァ(1929~2015)は、回想記『コンサートのあとの二時間 モスクワ音楽院・ペレストロイカ以前の音楽家群像』(岡本祥子訳、ヤマハ・ミュージック・メディア/1994年邦訳刊)のなかで、ユージナの最期を綴っている(このひとは、1990年代にNHK教育TVのピアノ教室番組の講師としておなじみだった)。

 体調を崩し、入院したユージナだったが、付添婦を雇うカネがなかった。教え子のひとりが関係者に連絡して寄付を集めることになった。
〈音楽院の音楽家たちは、ことがユージナに関することだとわかると出し惜しみしなかった。私には、彼らの行動の中に、何かしら彼女への罪の意識のようなものがあるように感じられた。(略)そうして、約束の時間に必要な額が手渡されたのだった〉
 誰もが口にできなかったこと、特にスターリンに対する思いを、ユージナひとりが代弁し、行動で示してくれた。そのことに、誰もが感謝すると同時に、彼女ひとりに背負わせてしまったことへの贖罪のような意識があったのだろう。

 数か月後、ユージナ死去の知らせが届く(1970年11月9日没、享年71)。
〈ニーナ・リヴォーヴナ・ドルリアク(ソプラノ歌手、リヒテル夫人)から、無宗教告別式で「音楽の部」を組織してほしいとの依頼があり、私は、この悲しい務め、もっと正確に言うなら、自分とそして彼女の記憶に対する義務にとりかかった。(略)モスクワ市のホールは一つとしてユージナの告別式をさせてくれなかった。音楽院大ホールのロビー許可をもらうのでさえD・D・ショスタコーヴィチの介入が必要だった。(略)私は告別式で最初に演奏することになった〉
 そのほかに、ナセートキン、グリンベルグ、ネイガウス、リュビーモフ、ヴィルサラーゼ、リヒテルなどが追悼演奏した。
 リヒテルは、ほんとうは、ブラームスの《バラード》ニ短調(作品10-1)を弾きたかったらしい。だが、
〈亡くなったユージナの前では決心がつかなかった。フォルテがやたらに多い曲だからだ。こういう場では音楽はよく聞こえる。(略)でもそんなことをしたら霊柩車から飛び出してくるよ。(略)ユージナの葬儀では、彼女が大嫌いだったラフマニノフを弾いた。ロ短調の前奏曲(作品三二第一〇)をね。彼女は喜ばなかったかもしれない〉(ユーリー・ボリソフ『リヒテルは語る』宮澤淳一訳、ちくま学芸文庫)

 以下、ふたたびヴェーラ・ゴルノスターエヴァの回想記から。
 葬儀の日の朝、モスクワ音楽院大ホールでリハーサル中だった同院オーケストラは、自主的に、ベートーヴェンの交響曲第7番を追悼演奏した(おそらく第2楽章を)。
 葬儀のあと、棺を墓のなかに降ろそうとすると、穴の底に大きな石が見つかった。
〈棺がぶつかってしまうので、長い間地面を掘り続けなければならなかった。石がじゃまをしつづけたのだ。ユージナの告別にやってきた人々は皆立ったまま辛抱強く待った〉
 やがて日は沈み、ろうそくを灯して、誰もがじっと、掘り終わるのを待った。

 そしてヴェーラは、ユージナの回想を、こう結んでいる。
〈ついに石が掘り出されて持ち上げられたとき、埋葬は終わった。/この、最後のまったく「ユージナらしい」状況にも、彼女の性格が現れているようだった。(略)それは、頑固でわがままで、いつも困難な生涯を克服しようとしていた人生。その生き方を通して、受難者、聖人の面影がほの見えてくる〉
 山野楽器・西武池袋店の閉店セールで見つけた、マリヤ・ユージナのBOXセットも、わたしの机上の端で、頑固に居座っている。
〈この稿、おわり〉

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