2022.03.11 (Fri)
第349回 YAMAHA育ち(上)

▲ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス刊
※リンク先は文末に。
2002年6月、チャイコフスキー国際コンクール(ピアノ部門)で上原彩子が優勝したとき、様々な点で驚かされた。
まず、「日本人」として初の優勝だったこと。
過去の優勝者は、ほとんどソ連/ロシア人である。「国際」の名が付いているが、実際はソ連/ロシア文化の優位性を西側社会に誇示するためのコンクールなのだ(なのに、1958年の第1回で、アメリカ人のクライバーンが優勝してしまったので、以後、ソ連/ロシア陣営がいっそう首位獲得にやっきとなってきた)。
次に、史上初の「女性優勝者」だったこと。
このコンクールは、よく「重量級」「男性的」といわれる。本選まで残ると、2週間は留め置かれ、チャイコフスキーなどの協奏曲を2曲、弾かねばならない。尋常な体力では最後まで貫けないのだ。
小柄な日本女性、上原彩子の優勝は、これだけでも驚きだったが、さらに世界中が注目したのは、彼女が「音楽学校に行っていない」ことだった。「ゲイダイ」でも「キリトモ」でもなく、なんと「ヤマハ音楽教室」出身だという(彼女の最終学歴は、岐阜県立各務原西高校卒業)。
このとき、世界中が、日本の「YAMAHA」は、単なる楽器メーカーや、町の音楽教室ではなく、世界最高のピアニストを育成するシステムを持っていることを、あらためて知ったのだった。
そんな上原彩子の自伝エッセイ『指先から、世界とつながる~ピアノと私、これまでの歩み』(ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス刊)が出た。
彼女の語りを、音楽作家、ひのまどかが聴き取り、周辺取材も交えて構成した本だが、これがすこぶる面白い。
彼女は、香川県高松市に生まれた。母親がヤマハの講師だったせいもあり、3歳から、地元のヤマハ音楽教室に通い始めた。父の転勤に伴って岐阜県各務原市に転居してからは、名古屋のヤマハへ。
10歳からは、東京に新設された「マスタークラス」に進み、月に2回、東京へ通う。ここで出会ったのが、モスクワ音楽院の名教師、ヴェラ・ゴルノスタエヴァ教授だった(NHKのピアノ教室でおなじみ。本コラムの第333回後半でも、著書を紹介している)。
なぜ、ヤマハ音楽教室に、このような名教師がいたのか。
当時のヤマハの川上源一理事長が、親しかったチェリスト・指揮者のロストロポーヴィチに「ヤマハ音楽教室に、モスクワ音楽院付属学校のような英才教育システムを取り入れたい」と相談した。そこでゴルノスタエヴァ教授が推薦され、彼女が年に数回来日して、1カ月ほどの集中レッスンがおこなわれることになった。
「マスタークラス」では、ピアノ以外に、表現力講座などもあった。
「これは体を使った表現や、詩の朗読などを通して、さまざまな表現の仕方を学ぶものです。いま思い返しても、とても高度で総合的な音楽教育でした」
「チャイコフスキー・コンクールで優勝した時、私が音楽学校に行っていないことでずいぶん驚かれましたが、私自身は早くから専門的な音楽教育を受けていたので、音楽大学に行く必要性をまったく感じていませんでした」
「マスタークラスに行き始めてからそちらの友達もたくさんできて、大きいお姉さんたちが面倒を見てくれるので、学校に行くよりもずっと楽しかったです。夏にはウィーンで合宿もあり、ドイツ人の先生からレッスンを受けたり、オペラやコンサートに連れて行ってもらったり、ロンドン観光もさせてもらいました。私はそれで一気に外国に目覚めました。本当に贅沢すぎるような教育システムでした」
「学校に行くよりもずっと楽しかった」「大きいお姉さんたちが面倒を見てくれる」教育が、上原彩子を育てたのだ。
だが、本書の白眉は、後半部、彼女が結婚し、年子で次々と3人の女子を産み育てながら、演奏活動をつづける日々にある。
妊娠9カ月で《皇帝》を弾くなんて当たり前。次女がお腹にいるとき、午前中に長女の保育園の運動会に行って綱引きに参加し、午後はマチネ本番でグリーグの協奏曲を弾いたこともある。
あるいは、夜の10時半に「明日、キャンセルの代役で、ラフマニノフの2番を弾いてくれ」と電話が来る。彼女はその曲なら一夜で準備できると判断して引き受ける。ところが、翌日は長女の保育園の遠足だった。仕方なく、徹夜で練習しながらお弁当をつくり、朝から遠足に行って、午後は会場へ飛び、15時からのゲネプロ~本番に臨んだ。
すさまじいのは、「板門店で弾いてくれ」といわれた話。
てっきり1年後くらいに焼肉屋で弾くのだろうと思っていたら、なんと「数日後のことで、場所は韓国と北朝鮮の軍事境界線にある板門店での野外コンサートだと説明され、びっくりしました」。
しかもそのコンサートの翌日には次女のバスケットボールの試合があり、その後、家族と那須の茶臼岳に登る予定になっていた。
「それでも、両方やろうと思いました」。ソウルへ飛んで車で板門店へ行き、本番をこなし、翌朝4時のフライトで東京へもどり、次女の試合を見て、夕方から夫の車で那須へ。車中泊し、翌朝から茶臼岳に登った。
後半は、この種のエピソードが続出で、目をまるくしながら読み進めた。
こういう日々を平然と(でもないが)おくることができるのも、正規の音楽学校を知らず、ヤマハで育ったためのように思えてくる。
私事で恐縮だが、実は、わたしの娘も、3歳から池袋のヤマハ音楽教室に通った。土曜午前のクラスで、毎週、わたしが連れて行った(現在の「おんがくなかよしコース」だと思う。ヒヨコみたいなキャラクター人形、”なあにちゃん”がいた)。
本書P.25に、ヤマハ音楽教室内で3歳当時の上原彩子の写真が載っているが、あの写真とまったくおなじだ。もう20数年前のことだが、懐かしかった(写真で後方に母親が控えているが、あそこに、わたしがいた)。
ほとんどはお遊戯や歌唱やリズム遊びだったが、これがなかなかうまくプログラムされていて、次は、どんなことをやるのかと、娘よりも、わたしの方が興味津々だった。
土曜午前のクラスは、たしか10名ほどだったが、みんな母親連れで、当初、父親はわたしひとりだった。やがて「毎週、お父さんと来ている子もいるのよ。たまにはあんたが連れて行ったら」と、母親たちが家で話すようになったらしく、次第に父親が増え、あるとき、10名すべて、父親連れになったことがある。先生から「トガシさんのおかげで、教室史上初、全員お父さんになりました」と笑顔で感謝された。
その後、娘は、ピアノ・レッスンのコースに進み(マスタークラスのような本格コースではない)、高校まで通いつづけ、音楽大学に進んだ。打楽器専攻だったので、一時は、ドラム教室にも通っていた。
考えてみれば、上原彩子とはレベルがちがうが、わが家も、ヤマハ音楽教室にお世話になってきたわけだ。
ところが、あらためて思い返すと、そればかりではなかった。
(敬称略/この項、つづく)
□『指先から、世界とつながる~ピアノと私、これまでの歩み』は、こちら(試し読みあり)。
□ヤマハ音楽教室は、こちら。
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