2022.03.14 (Mon)
第350回 YAMAHA育ち(中)

▲エロイーズ・ベッラ・コーン(ピアノ)、バッハ『フーガの技法』
(エスケシュ補筆完全版) ※リンクは文末に。
最近、気になっているピアニストに、フランスのエロイーズ・ベッラ・コーン(1991~)がいる。
彼女が昨秋、Hanssler Classicからリリースした、バッハ《フーガの技法》(エスケシュ補筆完全版)は、たいへん興味深いディスクだ。フランスの”鬼才オルガニスト”で作曲家のチエリ・エスケシュ(1965~)が補筆完成させた《フーガの技法》を、ピアノで演奏したアルバムなのだ(そもそも原曲は未完のうえ、スコアに楽器指定がない”謎の音楽”である)。
本題とは関係ないので、いま、このアルバムの内容には踏み込まないが、こういう面白いプロジェクトに挑むとは、どういうピアニストなのだろうと気になった。
さっそく彼女のウェブサイトでプロフィールを見ると、「パリに生まれ、4歳からヤマハ音楽教室で音楽を学び……」とある。
その後は、名門、CNSMDP(パリ国立高等音楽・舞踊学校)を卒業したようなので、上原彩子のように、ヤマハ一筋ではないようだ。
しかし、芸術の都パリにもヤマハ音楽教室があり、《フーガの技法》補筆完全版に挑むフランス人ピアニストを生んでいるとは、不勉強とはいえ、ちょっと意外だった(検索すると、教室はパリ以外にもいくつかあるようだ)。
そういえば、前回紹介した上原彩子の著書『指先から、世界とつながる』に、チャイコフスキー・コンクールで優勝する前、20歳のときから、パリで一人暮らしをはじめるエピソードがある。一種の”武者修行”である。
だが、なにぶん初めての海外一人暮らしとあって、苦労が絶えない(フランス語もカタコトのうえ、それまで料理も買い物も、一人でしたことがなかった)。
ところが、
「パリのヤマハ支店の方が家族ぐるみで私を助けて下さり、ピアノのある部屋を探して下さったり、電話や銀行の契約を手伝って下さったり、レンガの床に防音と防寒を兼ねた分厚いシートを敷いて下さったり、はじめの一年間は本当にお世話になりました」
とある。
もちろん本書はヤマハの刊行だし、彼女自身、ヤマハ音楽教室のスターなのだから、こういう記述が出てくるのは当然かもしれない。
しかし、もし彼女が通常の音楽大学生としてパリに住んだら、大学は、ここまでしてくれるものだろうか。せいぜい、指導教授が個人的な伝手で、誰か相談役を紹介してくれるくらいでは、なかろうか。
ここを読んだとき、ジュゼッペ・ヴェルディを思い出した。
わたしは、若いころ、取材でイタリア国内の彼の足跡を、ゆりかごから墓場まで、ほとんどまわったことがある。生まれはイタリア北部に近いレ・ロンコレ村。実家は小さな旅籠屋兼よろず屋だった(生まれた藁小屋がそのまま残っていた)。幼少期より音楽に興味を示すが、なにぶん、専門教育を受けるようなカネはない。
すると、町の大手商人バレッツィがスポンサーを買って出てくれ、ヴェルディ少年はその家に住み込みながら、町の学校へ通わせてもらい、やがてミラノ留学を目指すのだ。
その後、この、ヴェルディとバレッツィの関係は、義理と人情がからみ合う、一種の感動物語に発展するのだが、紙幅がない。要するに、上原彩子にとって、パリのヤマハは、現代のバレッツィ……とまではいわないが、ちょっと、それに近いものを感じたのだ。
エロイーズのCD《フーガの技法》ライナー解説を見ると、使用楽器に「Yamaha CFX」とある。ヤマハが戦後初のコンサート・グランド・ピアノとして開発したCFシリーズの最高級クラスだ(最新版で2,000万円以上する)。おそらくいまに至っても、彼女は、ヤマハとの関係を保ちながら、音楽活動をつづけているのだろう。
どうもヤマハ音楽教室は、単に「音楽好きの子どもを育てる」のではなく、企業としてひとりのアーティストを育てる、なにか壮大なシステムを世界中で構築しているようなイメージを抱いた。
幼少期にヤマハ音楽教室で音楽に親しみ、その後、プロの音楽家になったひとは多い。
いまざっと思いつくだけでも、反田恭平(ピアニスト、ショパンコンクール2位)、上原ひろみ(ジャズ・ピアニスト)、挾間美帆(ジャズ作曲家)、大島ミチル(作曲家)、西村由紀江(作曲家、ピアニスト)、加羽沢美濃(作曲家、ピアニスト)などがいる。
ただし、どのひとも、最終的に音楽学校を出ている。
こうしてみると、上原彩子の場合は、突出した才能と努力があり、それをヤマハ音楽教室が徹底的に引き延ばしたらしきことがうかがえる。
そして、企業としてのヤマハとアーティストの関係を考えるとき、忘れてはならないビッグ・ネームがいる。
〈敬称略/この項つづく〉
□エロイーズ・ベッラ・コーン『バッハ:フーガの技法』エスケシュ補筆完全版(Hanssler Classic)は、こちら(一部試聴あり)。
□上原彩子『指先から、世界とつながる~ピアノと私、これまでの歩み』は、こちら(試し読みあり)。
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