2022.09.02 (Fri)
第362回 50年目の《ゴルトベルク変奏曲》

▲中止となった昨年12月公演の、代替公演。
日本を代表する鍵盤奏者、小林道夫氏(89)は、毎年12月に、チェンバロで、バッハ《ゴルトベルク変奏曲》を演奏するコンサートを、1972年からつづけている。
昨年末が、記念すべき、50年連続/第50回となるはずだったが、体調を崩されて、直前に中止となってしまった。
その代替公演が、8月29日、東京・上野の東京文化会館小ホールで開催された。
残念ながら、ぴったり「50年連続」とはならなかったが、90歳になろうかというひとが、半世紀かけて、あのような複雑極まりない大曲を弾きつづけてきたわけで、まさに偉業としかいいようがない。
なぜ、もっとメディアが注目しないのか、不思議でならない。
(わたしは、せいぜい2000年代に入ってから2回ほど行ったことがあるにすぎない。よって今回が3回目)
2回のアリアと、全30曲におよぶ変奏は、ささやきかけるような、実に温かな響きだった。
会場では、昨年に配布されるはずだった解説プログラムが、あらためて配布された。
これが実に面白い内容で、50年間分のプログラムから、小林氏本人の解説や、寄稿エッセイなどを抜粋再録した、一種の”50周年記念誌”となっていた。
そこで驚いたのは、第1回=1972年のプログラムに寄せた、小林氏自身による解説である。
たとえば、こんな具合だ。
〈アリア:8’、繰返しのときに8”。鍵盤の指定はないが、声部が左手と右手にまたがって動くことがあり、主旋律を下鍵盤で、伴奏声部を上鍵盤でという風に割りふることができない。(略)〉
〈第十三変奏(二段):右手8’、左手8”L。本来一段でひいても何の不都合なく書かれていながら二段の指定があるので、旋律とバスの音色の対比が重要なのであろう。(略)〉
〈第三十変奏(一段):16 8’ 8” 4。繰返しは16’8”4。にぎやかなクォドリベトは、やはり大きな音がほしい。〉
何が書いてあるか、おわかりになるだろうか。
チェンバロ奏者にとっては、当たり前の記述なのだが、この数字は、どのストップ(レジスター)を使うかをあらわしている。
チェンバロは、ピアノとちがって、音の強弱や、音色や響きの変化をほとんど出せない(そもそも、いまのようなコンサートホールが登場する以前の、室内用の楽器なので)。
そこで、2段の鍵盤を使い、左右両端に付いているストップ(キーのようなもの)を操作することで、音量や音色を微妙に変えるのだが、どの部分でどのストップを使い、どんな音色にするつもりなのかを、小林氏自身が明かしているのである。

▲2段鍵盤チェンバロ。よく見ると、上段鍵盤の左右横に、ボタンのようなものが付いている。
これが「ストップ」(レジスター)。【出典:WikimediaCommons】
いま、《ゴルトベルク変奏曲》は、ピアノで演奏されることが多いが、本来は、2段鍵盤チェンバロのために書かれた曲だ。
上記にある(一段)(二段)とは、バッハが楽譜に書き込んだ指定で、「この曲は1段で弾け」「ここは2段で弾け」との指示である(どちらでもいい、あるいは指示なしの曲もある)。
そもそもこの曲は、原題からして、《2段の鍵盤をもつチェンバロのためのアリアとさまざまな変奏》という。
《ゴルトベルク変奏曲》とは、後世に第三者が勝手に呼んだ、通称題である(第315回参照)。
「2段鍵盤」のために書かれた曲を、「1段鍵盤」のピアノで弾いたら、当然ながら無理が生じる(上下鍵盤を同時に弾く部分で、両手が交差して同音が重なる。これはピアノでは演奏不可能だ)。
よって、現在のピアノ版は、すべて、一種の「編曲」演奏なのである。
ところが、1956年、グレン・グールドが、超個性的なピアノ演奏のレコードをリリースし、一大センセーションを巻き起こした。
その結果、一挙に、ピアノ曲の人気レパートリーとなったのだ。
(小林氏自身も、昭和20年代の終わり、学生時代に一部を弾いたがあまり印象に残らず、グールドを聴いて「意識するようになった」と書いている)
小林氏はピアノ奏者でもあるが、この演奏会では、1972年の第1回からずっと、原曲どおり、チェンバロで弾いてきた。
その第1回のプログラムに、とうていチェンバロを知っているひとでなければ理解できないような、しかも、演奏上の秘密を、あっけらかんと載せていた。
わたしも、コンサートやCDの解説を書いているが、いま、ここまで本格的な解説がまかり通るとは思えない。
だがわたしは、これを読んで、1970年代の日本人の知的教養レベルは、相当高かったような気がした。
この解説の冒頭で、小林氏は、
〈全曲を8フィート・ストップ2個の組合せでひきたいと思う位なのであるけれども、与えられた条件、つまり定員七百名ばかりのホールと、16、8、8、4という4つのストップを持ち、革の爪を持ったノイペルトのバッハ・モデルという楽器をつかうという条件を前提にした時に、この曲をどんな風に作っていくかという手のうちを、主に使うストップをならべあげていくことでお目にかけ、この長大な曲を御一緒に体験するひとつの手がかりにしたいと思う〉
と書いている。
この記述も決して親切な書き方ではないが、しかしとにかく、”チェンバロはなにかを操作することで音量や音色が変わる楽器らしい”ことがわかる。
そして、”今日は、曲ごとに、いちいち、その操作をおこなうらしい”こともわかる。
1972年12月23日、東京文化会館小ホールでこれを読んだ聴衆は、目と耳で、2段鍵盤をどうつかうのか、ストップの操作でどう音色が変化するのかを、懸命に追いかけただろう(奏者の手許が見えない席の聴衆は、残念に感じたはずだ)。
そして、この曲が、実は、とてつもない、宇宙の大伽藍であることを感じ取っただろう(だが、この日から50年もつづくとは、想像もしなかっただろう)。
小林道夫氏は、すばらしい演奏家であると同時に、見事な”解説者”でもあった。
□渡邊順生氏による《ゴルトベルク変奏曲》全曲演奏の映像
手許のアップが多く、2段鍵盤やストップの使用状況が、よくわかります。
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