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2022.12.09 (Fri)

第371回 【新刊紹介】「手紙」が語る、巨匠と2人の日本人の、驚愕の交流!

レニー
▲『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』(吉原真里/アルテスパブリッシング)


驚くべきノンフィクションが出た。
あたしも、仕事柄、多くの音楽家の評伝を読んできた。特にバーンスタインは大好きだったので、日本で読めるものは、おおむね、目を通してきたつもりだ。そして、バーンスタインにかんしては、もう、出尽くしたように思ってきた。
しかし、まさか、いまになって、こんな素晴らしい評伝が出るとは、夢にも思わなかった。
この本に出会えて、ほんとうによかったと思うと同時に、こうやって紹介できることが、うれしくてたまらない。

本書は、ひとことでいってしまえば、レナード・バーンスタインの生涯を描いたノンフィクションである。指揮者、作曲家、ピアニスト、教育者として超人的な活躍をした、20世紀アメリカが生んだ天才だ。
だが、本書は「評伝」とはいうものの、そのアプローチ方法が、あまりにも特異である。

ワシントンのアメリカ議会図書館・舞台芸術部には、通称「バーンスタイン・コレクション」と呼ばれる、彼にかんする記録文書が保存されていた。遺族から寄贈されたようで、その数、1700箱、40万点以上!
そのなかに、2人の日本人からおくられた、数百通の手紙があった。文面からして、一方的な手紙ではなく、あきらかに、バーンスタイン本人と「文通」していたことがわかる。
ひとりは、「Amano,Kazuko」(天野和子)、もうひとりは「Hashimoto,Kunihiko」(橋本邦彦)。
天野さんは、終戦直後、占領軍下のCIE図書館で、アメリカの音楽雑誌に掲載されていた若きバーンスタインのエッセイやレコードに触れ、ファンになった。
橋本さんは、1979年、バーンスタイン4度目の来日公演の際に知り合い、熱烈な恋に落ちる。以後、彼の日本側代理人としてサポートをしつづけた。

おそらく、バーンスタインのファンは、この2人の存在はすでにご存じだと思う。
橋本さんは、劇団四季にもいたことがある俳優で、現在はオーストラリア在住。プロデューサー、脚本家として活躍している。バーンスタインの《キャンディード》などが日本で上演される際、訳詞・ナレーションとして参加していたことでも有名だ。
天野さんについても、「バーンスタインと文通をつづけている日本人女性」として雑誌などでとりあげられたことがあった。

(実は本書は、2019年に、オックスフォード大学出版から英文で刊行されたものを、ハワイ大学教授の著者自ら、日本人読者向けに翻訳・再構成したものである。その際、「バーンスタインの最後の恋人は日本人男性だった」ことが明かされた本として、外電で話題になったことがある)

本書は、彼らの手紙と、バーンスタインにかんする記録文書をたんねんに読み込み、この3人の人生を同時進行で描いていく。
最初のうちは、単なる「文通」の再現かと思う。この手法で、400頁超の最後までたどりつけるのか、不安を覚える。音楽業界人でもない一般の日本人と、世界を股にかけてとびまわるマエストロの生涯が、実際に交錯するとは、とても思えないのだ。
だが、次第に3人の関係が、文通を超えたものになってゆく。その過程は、圧巻というほかない。

1961年、バーンスタイン&ニューヨーク・フィルは、初来日を果たす。もちろん、天野さんは、公演に行った。すでに度重なる文通で信頼を得ていた彼女は、楽屋へ入ることを許される。ところが、

〈コンサートには、夫の礼二だけでなく、四歳の息子と一歳の娘も連れていった。そんなに幼い子どもをクラシックのコンサートに連れていって大丈夫なのかと、たいていの人は心配するだろう。しかし、子どもたちを置いてコンサートに行くという発想は、天野にはなかった。自分がこよなく愛するバーンスタインとその音楽を子どもたちに体験させるため、演奏中じっと静かに座っていられるよう、日ごろからしっかりと躾けていたのである。そしてじっさい、生まれたときからバーンスタインのレコードを聴いて育っていたふたりの子どもたちは、静かに、熱心に、演奏に聴き入った〉

楽屋では、バーンスタインは「レニーおじさん」と呼ばれ、子どもたちとじゃれあった。
天野さんは、バーンスタインの帰国後、手紙にこう記す。

〈(略)私は一九四八年からずっとあなたの素敵な音楽を愛してきたということを、幸せに、そして誇りに思いました。こうして、夢にみていた音楽家に会うことができ、私の音楽的な勘と信念が正しかったということを確認できて、幸福感と満足感でいっぱいで、もうすぐ死んだとしても人生に悔いはない、という思いです。(略)空港で、あなたがヘレンといっしょに飛行機に乗っていってしまったとき、わたしはガックリして倒れそうな気持ちになりました(略)〉

ちなみに天野さんは1929(昭和4)年生まれで、商社勤務の父親の関係で子供時代をパリで過ごし、パリ国立高等音楽院でピアノを勉強していた。そのため、フランス語と英語は堪能だった(ナチス・ドイツのフランス侵攻がはじまったので、1941年に帰国する)。

本書の素晴らしいところは、たんなる「書簡集」に終わっていない点だ。バーンスタインの人生と、戦後のクラシック音楽界の変化、レコード産業の隆盛などが、文書資料をもとに、つぶさに描かれる。特に日本との交流は微に入り細に入っており、そのなかで、2人の日本人の人生もていねいに描かれる。
なかでも天野さんを襲う事態には、胸を塞がれる。第7章〈別れと再会〉の最後、ホテルオークラのロビーにおける、天野さんとバーンスタインの姿に、涙が出ない読者はいないだろう(あたしは、仕事先の食堂で読んでいたのだが、こらえるのがつらかった。誰もいなければ、号泣していた)。

もうひとりの文通相手・橋本さんも、海外で2人だけの時間を過ごすほどの恋人関係を超えて、バーンスタインの音楽ビジネスを支える重要なアシスタントとして、自分の人生を大きく変えながら成長していく。

やがて天野さんのもとへ、バーンスタインの事務所(アンバーソン)のスタッフから、こんな手紙が届く。

〈親愛なるカズコへ(略)アンバーソンは新しく日本代表を置くことになりました。代表は橋本邦彦という名前で、彼の名刺を同封しておきます。(略)年明けに日本に帰ったら電話するように言ってあります(略)〉

ついに天野さんと橋本さんは、1985年1月23日に、渋谷で、初めて会う。
いままで個別に文通していた日本の2人は、この日から協力体制を築き、日本におけるバーンスタインの重要な支えとなるのである。
以後の来日公演、広島平和コンサート、札幌のPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル)などを、この2人が陰からバックアップしつづけた。

(あたしは、1985年9月、イスラエル・フィルとの来日公演で衝撃的な感動をおぼえたが、その裏での出来事を本書で知り、また新たな感動を得た)

しかし……読んでいて、時折、複雑な気持ちになる。たしかに本書は「手紙」や「記録文書」が中心だ。アメリカ公立機関のアーカイブ精神にも、頭が下がる。
だがこれらは「私信」である。
2人とも健在だし、特に橋本さんはいまでも現役で大活躍している。同性愛にかんして現在ほど寛容ではなかった時代の書簡を、このように公開していいのだろうか? バーンスタインだって、まだ死後30年余しかたっておらず、著作権があるはずだ。
「手紙」だけではわかりえない事実も、ずいぶん書かれている。
これにかんしては、最終章〈コーダ〉をお読みいただきたい。
本書が尋常ではない取材によって完成したノンフィクションであることを知り、また感動を覚えるにちがいない。

【本稿は、書評サイト「本が好き!」への投稿を転載したものです】

『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』(吉原真里/アルテスパブリッシング)

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◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。

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◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。



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