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2023.01.24 (Tue)

第375回 【新刊紹介】書評するには「全編引用」しかない、昭和初期の「快著」復刻!

欧米の隅々
▲『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』(高遠弘美編/素粒社)


まず、これほどの「快著」が、戦前の昭和初期に出て、その後、ずっと忘れられていたことに、驚く。
さらに、それを、令和のいまになって発見し、復刻させたひとと版元が存在することにも、驚く。
本書は、渋沢栄一の孫にして、英語学者・市河三喜(1886~1970)の妻、市河晴子(1896~1943)が、1931(昭和6)年、夫の欧米視察旅行に同行した際の「旅行記」である。
(市河晴子については、文末=版元HPの略歴を参照)

だがその前に、本書を「復刻させたひと」(編者)=「高遠弘美」氏について。
この名前を見て、気づいた方も多いと思う。高遠弘美氏(1952~)は高名な仏文学者である。プルースト『失われた時を求めて』の個人全訳に挑んでいる(光文社古典新訳文庫)。
その仏文学者が、2013年に『七世竹本住大夫 限りなき藝の道』(講談社)を刊行した時も、驚いた。『失われた時を求めて』の刊行がはじまったころで、まさかおなじ著者が、文楽太夫の本を出すとは! 住太夫はあたしも大ファンだったので、さっそく読んだら、徹底的な正攻法ファンによる「追っかけ本」だった。プルーストと文楽が「同居」しているなんて、面白い書き手だなあと、感動してしまった。

本書は、そんな好奇心旺盛な仏文学者が、おなじく好奇心だけで成立しているような古書を神保町で発見し、たちまち魅了され(おそらく自分に通じるなにかも感じ)、そのほかの著書も渉猟・取材し、解説も加えて抜粋再構成したものである。

たしか小林秀雄だったと思うが、「書評」とは、その本の本質をもっともあらわしている「一文」を見つけることができれば、そこを掲げるだけで書評になる——といった主旨のことを述べていた記憶がある。
だとしたら、本書の「本質」は、全編だとしか、いいようがない。つまり、どこでもいいから目を閉じて、いい加減な頁を開いて指をさした部分を、そのまま抜き出せば、それだけで「書評」になってしまうだろう。
そこで、最初に偶然開いた頁から、ご紹介する。晴子は、パリで芝居を観た。

芝居は、最初見たテアトル・フランセの新派劇みたようなものは、お定りの愛人持った女が父のために成金に嫁いで、情夫が大金を損して、宝石を売って貢いで、大詰が、その愛人が室に入る、女が続こうとする、鍵がかかっている。中でドン。ヒロインがドアを叩いて泣く。幕。といったような紋切型な、日本で云えば今「浪子」をする位の中古るらしい物だが大入満員。切符売場に長蛇の列を作って睫毛をそくり反らして糊着けにした娘などが立ったままパクパクパンを食べていた。

「浪子」には編者注があって、「徳富蘆花『不如帰』のヒロイン」である。ちなみに上記引用部のあとには、抱腹絶倒の観客描写がつづく。
そのあとの頁も目に入ったので、ご紹介。

コメディ・フランセーズで見たカルメンは面白かった。熟んだ柿のように甘くベタベタしたカルメンだったが、これからスペインに行こうとしている私たちには、ふさわしい芝居で、これは二番目物の味。また次にテアトル・フランセで見たル・シッドは、同じくスペイン入りの下読みの感がありながら時代物、熊谷陣屋とか、実盛程度の古金襴の上下風な、中古的な重みや巾で、とりあわせが良くうれしかった。/ただオペラの男の嘆き方はあまり紋切型で、掌を上向きに拡げた両手と顎を前に突き出し、ヨタヨタと二三歩出て、その手をぐっと曲げて頭の髪をつかむ勢で、またヨタヨタと退る。そればかりで芸がないような気がする。

さて、次に開いた頁は、ウィーン滞在記だった。

ウィーンは老衰した都だ。(略)/オペラの立派さ、音楽家のモニュメント、ピヤノの製造場の広告、お寺、お寺、病院。だがその全てをうっすらと蔽っている憔悴の影が淋しい。もし都会の脇の下へ体温器が挟めるものなら、ウィーンは五度何分しかなかろう、何だか気魄の薄い都だ。

そして次は、スペインにおける闘牛観戦記だった。

ここで私に、思い切り牛を讃美させてくれ。何とまあ、ブルの力強さよ。終始、ただ満身の力もて真向に突っかかり、息絶えて事終る。寸分の恐れはおろか、迷いも疑いもなく、堂々たるその生き方、一万五千の観衆、外見的には牛を翻弄しつつある闘牛者をも含めて、この場内のすべての生き物の中で、彼の牛こそは最も尊いものに感じられた。むしろ、なまじの猿智恵に溺まれて、命の足取りしどろなる私たちへの面当てに、神の見せつけ給う直路邁進のお手本かとさえ疑われた。

枚挙に暇がない。これが、昭和初期に、三十歳代半ばの、(一応は)一介の主婦・母が書いた文章だと、信じられるだろうか。むかし風の芝居ッ気のある言い回しと、21世紀のいまでも通じるような現代的な感覚が、見事に一体化しており、それでいて、どこか突き放したような、クールなユーモアさえ漂っている。
あたしは、むかし、森茉莉の「ドッキリチャンネル」(週刊新潮連載)を初めて読んだ時の感動に近いものを感じた。

編者・高遠弘美氏は、巻末解説で、こう書いている。抄録作業は……

当初考えていたよりたいへんな作業であることが、始めてすぐにわかりました。晴子の文章にはムラがほとんどなく、採用したいところは次々に現れても、落としてもいいと思われる文章が見当たらないのです。(略)たいていが◎かせいぜい△で、積極的に×をつけたものはありませんでした。

あたしの今回の書評が、ほぼ引用で終わった理由が、おわかりいただけたと思う。そして、どういう本で、なにが書いてあるのか、これも、おわかりいただけたと思う。
さすがに「一文」とはいかなかったが、小林秀雄は正しかったのだ。
〈一部敬称略〉
※本稿は、書評サイト「本が好き!」への投稿を、一部改訂したものです。

◇『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』 素粒社のHP

◆『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(定価:本体2,800円+税)発売中。ドキュメント部分を執筆しました。全国大型書店、ネット書店などのほか、TKWOのウェブサイトや、バンドパワー・ショップなどでも購入できます。限定出版につき、部数が限られているので、早めの購入をお薦めします。

◆「富樫鉄火のグル新」は、吹奏楽ウェブマガジン「Band Power」生まれです。第132回以前のバックナンバーは、こちら。

◆毎週(木)21時・FMたちかわ/毎週(土)23時・FMカオン(厚木・海老名)/毎週(日)正午・調布FM/毎週(日)・FMはなび(秋田県大仙市)にて、「BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ」パーソナリティをやってます。パソコンやスマホで聴けます。 内容の詳細や聴き方は、上記「BandPower」で。

◆ミステリを中心とする面白本書評なら、西野智紀さんのブログを。 最近、書評サイト「HONZ」でもデビューしています。

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*Comment

■Re: 私も森茉莉を

ありがとうございます。
富樫鉄火 |  2023.01.27(金) 17:47 |  URL |  【コメント編集】

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