2023.02.06 (Mon)
第378回 【新刊紹介】 愛らしく親しみやすく上品な、最高のホームズ解説本!

▲『シャーロック・ホームズ人物解剖図鑑』(えのころ工房/エクスナレッジ刊)
あたしは、書評投稿サイト「本が好き!」に参加している。
本コラムからの転載も多く、基本的に新刊のお薦め本を投稿するのだが、時折、思い出したように、旧著について書くこともある。
たとえば、昨年11月末には、2019年初刊で、ずっと座右にある本について書いた。
『シャーロック・ホームズ語辞典』(北原尚彦・著、えのころ工房・イラスト/誠文堂新光社)である。
文字通りホームズ物の解説書だが、2人組イラストレーター「えのころ工房」によるイラスト(というよりも「漫画」)が実に面白くて、うまくて、その書評の最後に、こう書いた——〈ぜひこの2人に、今度は「えのころ漫画版/シャーロック・ホームズの冒険」を描いてほしいと願っているのは、あたしだけではないと思う〉。
※できれば、上記書評を、先にお読みください。
ところが、なんと、そう書いていた時点で、すでに、その「えのころ漫画版」が、ほぼ出来上がっていたのである!(おそらく、校了間近だったはず)
文字通り「描いてほしいと願っているのは、あたしだけでは」なかったのだ!
こんなに早く、こんな夢のような本に出会えるとは、ホーメジアン(と呼べるほど本格的マニアではないが)冥利に尽きる、生きててよかったと言いたくなる。
本書は、ホームズ物のキャノン(正典)60編に登場する「すべて」の人物・動物・モノを、とにかく「すべて」イラスト化し、詳細な解説を付けたものだ。
今回は、最初の3作『緋色の研究』『四つの署名』『シャーロック・ホームズの冒険』(12編)が取り上げられている(巻末に続巻予告があり、全3巻になるようだ)。
構成は、各編ごと、こうなっている。
まず、物語の冒頭部分が、1~2頁で、忠実に(しかし、ユーモアたっぷりに)コマ漫画で描かれる。原則として、依頼人が221Bの室内に入ってくる直前までだ。よって『緋色の研究』は、ワトソンが第二次アフガン戦争で負傷するシーンから始まる。『赤毛組合』の場合は、ホームズが「燃えるような赤い髪」の紳士と室内で話している。
頁をめくると、簡単なストーリー紹介があり(文章が「ですます」調で、とてもわかりやすい)、人物関係図がイラストで紹介される。
そして、いよいよ、本書の白眉、「人物解剖」に移る。
栄えある短編第一作『ボヘミアの醜聞』の場合は、もちろん、ボヘミア国王と、アイリーン・アドラーだ(やはり、美しい!)。
だが、ここで描かれるのは、それだけではない。「すべて」の人物・動物がイラストで解説されるのだ。しつこいようだが、この「すべて」の度合いが、尋常ではない。
たとえば、『青いガーネット』で、鳥卸屋のブレッキンリッジに雇われている少年「ビル」もイラスト化されている。「ガチョウの仕入れ先が書かれた薄い小型の帳簿と背表紙が脂で汚れた大型台帳」を持ってくるだけの登場人物である。
『まだらの紐』で、ロイロット邸の庭で放し飼いにされている「チーター」と「ヒヒ」も描かれている。
さらにスゴイのは、作中人物の会話のなかに、しばしば、「実在人物」の名前が登場する、それまでもがイラスト化され、コンパクトに解説されているのだ。
たとえば『緋色の研究』で、ホームズが「今日の午後は、ノーマン・ネルーダを聴きにハレの演奏会へ行きたいんだ」と語る。「ノーマン・ネルーダ」とは、チェコのヴァイオリニスト(1838~1911)で、ちゃんと絵になっている。ハレ管弦楽団は、現存するオーケストラで、ジョン・バルビローリの首席指揮者時代に特に名を馳せた(現在は、マーク・エルダーが首席指揮者)。
この調子なので、いうまでもなく『赤毛組合』でセリフに登場するサラサーテ、フローベール、ジョルジュ・サンドもちゃんとイラストで解説される。
そして、ちょっとした解説コラムを経て、概要を時間軸にそって解説する「事件の流れ」表がある。『緋色の研究』の事件発生日を「1881年3月4日(水)」と著者が推理する解説文はたった数行だが、圧巻である。
さらに「アイテム」解説もある。『ボヘミアの醜聞』『マザリンの宝石』に登場する「ガソジーン」(炭酸水製造器)がどんな機械だったのかも、解説される。
締め括りは、「〔作品名〕を少しだけディープに楽しもう!」と題したイラスト・コラムだ。
『ボスコム谷の謎』で、ワトソン夫人が(かわいい!)「診察だったらアンストラザーさんが代わってくれるわよ」と気軽に言う。この「アンストラザー」とはどこのなにものなのか。実は、あたし自身も、むかしから気になっていた。ワトソンの助手なのか、近所の開業医なのか。本書でも、やはり、その点を突っ込んでいる(なぜかワトソン夫人には、この手のミス発言が多く、『唇のねじれた男』では夫=ジョン・H・ワトソンを「ジェイムズ」と呼んでいる)。
そのほか、『独身の貴族』でホームズが事件関係者を集めて開いた夕食のメニューや、「今回の捜査費用」なども、全部、イラストになっている。
——というわけで、ホーメジアンでもないひとにとっては、以上縷々述べたことの、いったいどこがそんなに面白いのか、奇異に感じているだろう。
とにかく、作者、コナン・ドイル先生の筆は、細部がいい加減なのである。だから、不一致や齟齬が山ほど発生している。それでいて、物語全体は興趣と情緒にあふれている。この「二律背反」こそがホームズ物の魅力であり、いつまでも愛される理由なのだ。
本書は、「イラスト」と「ユーモア」の2つを武器に、そういったホームズ物の魅力を最大限に表現している。過去、ホームズ解説本は無数に出たが、本書はホームズへの「愛」と「品格」が突出している。イラストは、たとえ凶悪犯であっても、醜さ一辺倒には描かれない。すべてのイラストは、愛らしく親しみやすく、上品に描かれている(編集・デザイン・DTP作業は、想像を絶する大変さだったと察する)。
『緋色の研究』を読んだことのある方は、まずP.40を開いていただきたい。我々は、こういう、成長後の「ルーシー・フェリア」に会いたかったはずなのだ。
そして、続巻に登場するはずの『美しき自転車乗り』の「ヴァイオレット・スミス」に早く会いたくて待ちきれないのも、これまた、あたしだけではないはずだ。
◇『シャーロック・ホームズ人物解剖図鑑』(えのころ工房/エクスナレッジ刊) 版元の公式サイト(『ボヘミアの醜聞』冒頭部分をご覧になれます)
◇著者「えのころ工房」の公式サイト